中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

写真帳2016(2)-15- 京都 2016.10.1
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写真帳2016(2)-14- 京都 2016.9.30
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写真帳2016(2)-13- 北野天満宮縁日 2016.9.25
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写真帳2016(2)-12- 嵐山 2016.9.16
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写真帳2016(2)-11- 松ヶ崎大黒天 2016.8.23
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写真帳2016(2)-10- 六道参り 2016.8.7
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写真帳2016(2)-9- 下鴨神社 2016.8.5
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写真帳2016(2)-8- 祇園 2016.7.30
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写真帳2016(2)-7- 祇園祭 2016.7.21
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六地蔵
鞍馬口
桂
山科
鳥羽
六地蔵
常盤

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表現論ブログ
そこから-2-
 13~21 2021.5.1~2021.12.1
-13-
河合神社の本殿前に鴨長明さんが暮らしていた庵が再現してあります。
方丈記という随筆を書いた人ですね、歴史で習いましたけど、詳しくはしりません。
平安末期、鎌倉時代初期、ゆく川の流れは絶えずして~もとの水にあらず~。
ぼくは、無常観みたいな、世を儚むみたいな、そんなイメージでとらえております。
それにしてもみすぼらしい庵、冬の寒さなんか、どないしてたんやろ、と思います。

高校生の頃、弟と二人、バラックみたいなところに住んでいたんです。
実家の隣なので、食べ物とかは父母の家で食べておりました。
1960年代にはいったころで、ぼくら庶民の生活環境といえば、何もなかったです。
何もなかったというのは、いま現在と比較して、電気製品とか生活道具とか、です。
いま、全体では、戻るに戻れない生活環境ですが、でも、ホームレスとか、あるんよな。

釜ヶ崎で取材してきた経験から、いわゆる底辺生活がどういうものか、がわかります。
ぼくが今いる生活は、家あり家族あり、年金ありで、豊かではないが貧しくもない。
この先有料老人ホームへ入れる資金はないから、どうなるのかわからない。
でも身体的には健康で来れたから、よかったよかった、このまま行けたらいいなぁ。
世の中、そんなに甘くはないぞ、生活者、がんばれ、といっても無理もあるしねぇ。

-14-
数万年とはいわない、数千年ともいわない、1200年ほどの以前のこと。
現在の京都市の地域が都になります、平安遷都、794年のことです。
基軸としては、このあたりになるんですが、それより以前、それより以後。
歴史の知識をもっているから、奈良時代から平安時代、鎌倉、室町、江戸時代。
それから明治になって、大正、昭和、平成を経て現在令和三年です。

いろいろな出来事があったと思うけど、結局、写真は今ある姿しか記録できない。
過去の姿が目に見える形になっているのを複写することができて、写真にする。
撮った写真を並べてみて、その過去のイメージを構築しようとする。
やっぱり知識集積のうえに並べることで、意味をなしてくるのかなぁ、これだけか。
いや、そうではなくて、知識集積していなくても、成立する写真群があってもよい。

昨日、今熊野観音寺というところへ行きました。
弘法大師が建立されたのか、観音さんが祀られていて、古いお寺です。
弘法大師というと空海さんのこと、嵯峨天皇と面会したとあるお坊さんです。
東寺をもらって、高野山に修行道場をつくった、というお坊さんです。
これまでに得たそんな知識をもって、ぼくはカメラを手にして、赴いたのです。

-15-
圓山陵墓参考地という看板が建っているので、そうなのか、と思います。
調査の結果だと思うんですが、皇族の墓だと思われているんだと思います。
宮内庁が管理する参考地とは、不勉強のぼくはそういうことだと思っているのです。
古希を迎えるあたりから、古墳というか古のことに関心を持つようになりました。
考古学の知識は全くと言ってよいほどなくて、日本の生い立ちもわからなかった。

いま、日本の生い立ちについて関心が向いているのは、死に近づいているからか。
自分がいる場所について、浮遊している場所の在処を探しているように思えます。
自分のことですが、どこにいるのだろう、と思って、歴史を紐解きだしたのです。
古事記とか、第一部の神話の部分に興味があって、物語として読んでいました。
自分の精神、平たく言えば、自分の心、これの拠っていく場所を探している。

それは感覚的なことで、言葉ではなく、感じること、ややこしい、感性のこと。
もちろん言葉で表記されていて、そうなんだと思うときの気持ち、これ。
これが落ち着く場所を探している気がするんです。
言葉でいえば、母なるもの、自分が包まれて安心できる場所、寂しさでない場所。
言葉でいえば、極楽浄土、というイメージの場所かなぁ、天国とか、満ちた場所のこと。

-16-
ここのカテゴリーに「ここから」と「そこから」があって、どちらを使おうかと迷いました。
けっきょく「そこから」というカテゴリーで写真と文をつくって載せるということにしました。
「ここから」と「そこから」は、自分のなかでは、自分の立ち位置を示す目安です。
自分との距離感、といえばよろしいか、自分の立っている場所なのか、その場所を見ているのか。
自分の内側からの発信なのか、自分を含めた場を、自分が見ていての発信なのか、の違いです。

なににこだわっているん?と言われそうですけど、立ち位置にこだわっているんです。
でも、こんな論議をすること、それ自体が高齢者の戯言に違いないと思えます。
自分を客体化するなんて、難しいなぁ、と思いながらも客体化している錯覚があります。
人間の心の構造を、なんて思って構造化するんですけど、これも錯覚でしょうかね。
いずれにしても、ぼくは、現代の表現テーマは、自己省察だと確信しているところです。

これは「自分論」といえばいいわけで、自分史ではない別の区分です。
パスカルのパンセなんて読んでもいない文章をイメージして「自分論」と言っています。
文学にしろ美術にしろ、映像にしても写真にしても、その底流の目的は自分論。
それほどの知識があるわけでもありませんが、自分論は二十歳のころからのテーマです。
ナルシストです、自分中心主義、利己主義ではありません、自己主義の方です。

-17-
めやみ地蔵尊とゆうのがあったなぁ、と思っていて先日、訪れてみました。これまでにも何度か訪れていて写真に撮っている場所です。洛陽三十三観音霊場第十六番札所とあります。このまえに椿寺へ行ったときに、一覧のポスターがあって、それを見てここへくることになったのです。因縁という言い方がいいのかどうかわからないけれど、なにやらこういう霊場のことが気になっていて、写真に、同時に動画でも、と思っての行脚です。仏教寺院で通称名が、ここはめやみ地蔵尊、でもご本尊は千手観音様のようです。

目の前にひろがる現実世界、シャバ、娑婆という場所、そこからなにが見えて、見た処からなにが浮かんでくるのか、自分への興味です。毎年夏になると夢幻舞台というタイトルで、写真を撮ったり文章を書いたりしているところです。瀬川恵美という女子が自死したのが1983年、その年の梅雨のころでした。その年の盆には弔いの意味をこめて拝み、その秋には「夢幻舞台」という冊子本を自費出版したのです。その言葉を引きずっていて、言葉だけではなくて、写真の現場へ繋がってきているのだと思えます。

自分のなかの信仰心という感覚に、最近になて気がついて、それへの探求を、とはいっても言葉でどのように探究するのかは、雑文のレベルで書いていこうとは思うけれど、そういう地場の霊場へも赴いて、写真に撮ったり、動画にしたり、残していきたいと思っているところです。

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昭和21年の4月に生まれた男子が、今年、75歳を越えました。感覚的には、最近の寿命からしてまだ70代で若いという意識ですが、いよいよ死に近づいている気がします。自分の心のなかだけで、そういう感覚をもっていて、ひとに語ることもしません。生まれた場所は、ここではなくて現在住んでいる場所だけど、父母が所帯をもった場所が、壬生馬場町。その場所へいってみて、現在の姿を写真に撮っています。ここに小学校にいく直前まで住んでいて、おぼろげながらいくつかの記憶があります。そういう場所なので、そこへ行ってみて、記憶のなかをさまようのです。道路はそのまま残っています。たぶん家屋は大部分が残されていなくて新しくなっています。

75年という年月は、歴史でいうと第二次世界大戦が終わって、日本が無条件降伏した直後から現在までという年月になります。ひとの一生という年月は、だいたいこのあたりで終わる。信長は50年という言葉を残していますが、それが平均寿命が延びていまや男で80歳を越えているとの統計です。そういう統計と、自分の健康と、同年齢のひとたちの健康状態とを比較していて、自分はまだ健全だ、と思うのです。最近の健康診断状況を羅列すると、頭のスキャンしてもらった、大腸の検査をしてもらった、歯の検査をしてもらった、目の検査をしてもらった。血圧が高め、頻尿、この二つについては薬を服用しています。

世の中の外観、自分の身体の外観、それに付随する自分の感情というか気持ちのこと。これがわけわからないくらいに、あでもない、こうでもない、ああだ、こうだ、と思いを巡らすのです。悩むということでがなくて、漠然とした不安というか不明な深層への怖さみたいな感覚です。言葉では言い表せない部分があり、それが表現というかたちで外にでる。このブログに、いま、ここで書き現わしているのが、手段なわけだ。だれかと共有したいんだと思います。身近なひとと共有したい、分かり合いたい、そういう欲求があるんです。この欲求を、どうしたら満たせるのか。あの手この手のテクニックを使って、欲求を満たしていこうとするのです。


なにかしら、そろそろ、このへんで、すこしづつ、引いていけばいいのかなぁ。

ここのブログには、カテゴリーがいくつもあって、その都度プロジェクトのことを書きました。
そういうプロジェクトを、もう一度、と思うのが狙いですが、これももう無理なはなし。
失意のうちに、といえば正解かもしれません、もう、無理しないでもいいだろう、です。
いま、月に一回、または二回、アマノコーヒーさんのテーブルで話の会を開催しています。


フォトハウスを立ち上げたのが1980年半ばだから。40年近くになります。

自分で思うところの理想を掲げて、あたらしい場が生み出せないかなぁ、と模索。
だんだんと資本に掠め取られていく表現の実態を、そこからの開放、と思うわけです。
人びとは、理想ではなくて、どうしたら資本と組めるか、を模索するんです。
そこでは、もう、ぼくの理想は、色褪せて、見放されてしまったのです。

そのことの認識は、すでに持っていたから、あえて発信しているのは、犬の遠吠え。

でも、そのことももういいかぁ、という感じで、開催のお知らせだけ、担っていきます。
だんだんと文章を書くのがしんどくなってきています。
とりとめない文章だけど、そのことがもういいんじゃないか、と思うのです。
縮小して、しばらくは、続けていきますが、気持ちは、どっちか言うと虚しい方です。


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なんだかんだといっても、からだの健康があってなんぼ、というところじゃないですか。
有名人なら、ことばのひとつひとつが、ちまたの話題になるというじゃありませんか。
ぼくなんかは、なにをほざいても、話題になるということもありません。
ええ、ここは実名ですから、そういうことでペンネームでは、話題になることもある。
生活すること最優先できてるから、でも好きなことやってきたと思えます。


地位とか名誉とか、そういうことでは測れない価値を、自分のなかでは持っています。
そんななか、カフェ&プレスという場を、呼びかけて月に一回、集まろう。
カフェ&プレスの内容を、話し合うことから始めたいけれど、出来るでしょうか。
基本的に信頼の輪ができあがってきたら、とってもいいことだと思います。
言葉が、紡ぎだせない、キーボードもうまく入力できない、そんな状態ですが。


理想を聴いてくれるひとが現れれば、とっても嬉しい。
いまさら共同で作り上げていくには、体力がついていけません。
支援はできる、アドバイスはできる、使ってくだされば、とっても嬉しい。
2001年、カナ・ライフ・ラボをっせっていしようとしました。
2021年、20年が過ぎて、もし可能なら、支援しますよ、ほんとうに。


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一気に自分の心身のことが自分のなかで浮上しています。
なにより頻尿で、夜に目覚めて、熟睡できない。
これが、ただいまの、最大の悩みです。
心配しだしたらどうしようもないんだけれど、やっぱり気になります。
身体が、老体になっていて、あちこち壊れて来ているんだと思います。


そういうところにいる自分が、表向いて、前向いていく気分になれない。
ここらで区切って、過去は過去、これからはこれから、と思った方がいいのかも。
いま残っているのは、月例の研究会ミーティング、これだけです。
それから、昔からの友だち、ふたりとのミーティング、勉強会、です。
自分の生き方にも拠っていると思うけど、もう、これくらいですね。


現代表現研究所を主宰しています。
なにするところかというと、表現することの研究です。
現代という時代の枠組みを定義しながら、表現の方法を探して行く。
まあ、自己を表現するにあたって、今、何が必要なのか、を共同で考える。
そういう集まりを、定例会として開催し、議論をかさねているところです。

毎月第四土曜日を定例の研究会日と決めております。

開催場所は<アマノコーヒーロースターズ>。
〒603-8203 京都市北区紫竹東高縄町23-2ルピナス1F

<参加申し込みとお問い合わせ>
☆主宰者中川繁夫へお問い合わせください。

京都のシンボルマークといえば、最近は京都タワーがよく登場します。
ひと頃なら東寺の五重塔が定番でしたが、いまや京都タワーです。
この京都タワーも登場したころ、痛烈な批判に晒されていましたね。
古都のイメージに合わないとか、けなす知識人が沢山いました。
でも半世紀たったいま、シンボルじゃないですか。

自分の半世紀のアクティブを、自分で検証しています。
検証といっても大したことできませんが、自画自賛、やっています。
自分を否定するなんてできません、最大限、褒めてあげないと、虚しいです。
現代表現研究所を運営していますが、参加者が少ないです。
さて、さて、その場所から、いかに飛翔させていくのか、一緒に考えたいです。

食べ物の話で恐縮ですが、これはハンバーグカレーです。

いい値段なんですが、まあ有名な洋菓子やさんのモノだから、仕方ない値段かな。
最近は、お昼のランチでも、千円をこえるのが当たり前みたいです。
牛丼のお店は、それの半額ぐらい、500円で食べられる。
このワンコイン価格はいいですね、お金のない輩は救済される気分です。

貧富の差ってゆうのは、この世の中、仕方ないのが癪です。
富を分配、言うのは簡単、行うのは難しい、というのも富ある奴はケチ。
貧の層が拡大してきて、働けど働けど収入増えず、今の日本そんな時代です。
そこからどうして経済的貧者を救済するのか、泉健太がんばれ!、です。
政治のこと言うと虚しくなるから、あまり言わないけれど、腹が立ちます。


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表現論ブログ
そこから-1-
 1~12 2021.2.24~2021.4.28
-1-
どこから始めてもいいのだけれど<そこから>というカテゴリーを作りました。
指示代名詞で<これから><ここから>につぐ<そこから>です。
この<ここ>とはどういう場所なのか、<そこ>とはどういう場所なのか。
自分のうちがわを区分するための区切り線みたいな、そんな感じです。
そこ、とは芸の領域のことで、ぼくのばあいは、小説と写真、その現場です。

十代の後半から、文章を書き出し、虚構というか小説を書こうと思いました。
作り話しに魅力を感じていたんだと思います。
小説は、硬派な内容のものを、と思っていたけど、軟派な内容にも興味でした。
書くことを再開しだした2004年ころから、世にいう官能小説を書こうと思いました。
密かに15年が過ぎていて、ペンネームを使って、ブログで発表しているところです。

そこからのそこは、官能の処からといえばわかりやすいと思います。
でも、いろいろな意味合いで言の葉を紡いでいるから、官能小説とは思っていません。
読む人に、その気にさせる内容のものを、リアルでロマンに描き出せたら、と思うのです。
写真表現では、日本発のものは性器を隠す、では文章表現では、どこまで描けるか、です。
文章表現は、リアルではないから、言葉では何でも使える、禁句はないと思っていますが。

-2-
うっわぁああ、こってり、官能の世界だわ、腹を満たす食べ物です。
満足するけど、これだけじゃ完全な満足とは言えないなぁ。
セックスにまつわる満足がないと、ばんざ~いとは言えないよな。
といいながら、もう年老いた肉体を、こののちどう終焉させていくのか。

食欲と情欲の世界があって、後者の方はなかなか表向きにはなりません。
でも、この表向きにならないところが、人の興味の的なのではないですか。
人がする芸術表現のなかに、情欲表現を忍ばせることも必要なのでは。
気持を傾斜させる相手は、感じる相手、今の時代は異性だけではないけれど。

恋愛、恋しあう愛しあう関係、これ、心を豊かにしますよね。
この豊かさのなかには、悲哀の感情が共存するようにも感じます。
好きな食べ物、好きな人、どちらも得たい、満足したいと欲望しますけど。
突然、汚れっちまった悲しみ、なんて詩句が浮かんできてしまいました。

-3-
カメラがあって、写真をつくりますが、その写真のある場所を特定する。
文章の世界があって、小説とか評論文とか書きますが、それがある場所を特定する。
カメラ写真は、絵筆絵画の延長上にとらえることができると思います。
その絵画写真の底辺を支える場所として、文章の世界を組み合わせること。
いまぼくのなかで、この組み合わせる方法を模索しようと思うのです。

文学史があって絵画史があって写真史がある。
その派生として演劇があり映画があり映像がある。
あらためて全体を大きな流れとして、全体としてとらえて、個別を語る。
個別を語るのは評論批評であって、作品が作品として支えられる。
こんな関係を、レクチャーとしてカリキュラム化できたらいいなぁ、と思う。

-4-
桜の季節が早まったように思いますが、いかがなものでしょうか。
ぼくらが子供の頃は、4月上旬、入学式があるころに桜が満開になった。
それは京都の話しだから、他地域では、もう少し早かったり遅かったりでしょう。
けれども、やっぱり全体として早まったように思えるのは、温暖化のせいでしょうか。
京都の平野神社は、桜の名所、種類が多い、魁桜という品種がもう咲いています。

桜を撮った写真は沢山あって、それぞれに個性豊かに、作品化されます。
この桜が被写体として取り上げられるのは、その桜を巡る背景の思想です。
日本を代表する花、もうこれで日本というベースができて、美の象徴、成立です。
桜を巡る思想に支えられた被写体としての桜、おおむね誰もが納得できる被写体です。
ことしも桜を撮ろうと思います、歴史を背景にして、写真を成立させようとの思いです。

-5-
古い書棚のなかに一冊、岩波講座文学の第一巻があったので引き出してみました。
文学表現はどのような行為か、というのがタイトルで、1975年発行となっています。
全12巻の1巻目で、いまぼくの手元には、この一冊だけが残っています。
そういえば、その当時、岩波講座で、日本史とか哲学とか、出版されておりました。
それらを購入していたものの、全部ゴミとして捨ててしまったのが1990年代でした。

いま、あらためて、文学とはなにか、とか、写真とはなにか、とか問うていました。
でも、現時点でのぼくは、こういう問いかけじたいに、疑念をいだいてしまったのです。
無効だなんて全く思っていなくて、現代語で語れば、どんな話しになるのかなぁ。
写真を語り文学を語ろう、芸術を語ろうとしているぼくの、その話の原点は何かなぁ。
自分の言葉がどこまで、現代語で紡ぎ出せるのか、このことを始めようと思っています。

-6-
見たことがあるモノしか、知らないものを見てもなんだかわからない。
でも想像力をはたらかせて、見たモノの類似で、知らないものを知ることがある。
こうして自分の知っている、あるいは想像したモノを、あわせて組み立てていく。
こんなことして、もうすっかり遠いところへやってきた気がする。
知れば知るほど、わからないことが増えて、にっちもさっちもいかなくなる。

宇宙に漂うゴミみたいな感覚で、知らない世界に突入しています。
わけわからなくなってきて、いま、どこにいるのか、わからないのです。
サルトル、昔の哲学者ですが、マロニエの根っこを見て、なんだったっけ、ね。
得体の知れない自分を発見するのだったか、もう、昔のこと、忘れました。
いま、あらたな世界へ、旅立つ意識のロケットが、ここにあるように思えます。

-7-
このブログ、表現論ブログ、しばらく休みにします。
ここ数年、あらためて論を起こそうとして、言葉を紡いできたところです。
その気持ちは今もあるけれど、体力が気力が、盛り上がらないのです。
老いてくることで、わからないことがますます大きくなってきています。

ああだ、こうだ、と断定してきたことが、ほんとにそうなのか?、です。
ますます自分の存在に、霧の中みたいな、疑問というか、これでいいのかと。
なにを今更、と思われるかもしれないけれど、自分の居る足元が泥沼になっている。
砂上の楼閣、蜃気楼、目の前がそのようなイメージで、なにしているのか、混沌です。

-8-
ものごとを否定的にとらえるのではなくて、肯定的にとらえようと思います。
世の中に起こっていること、それらの全てを受け入れて、そこから何ができるか、です。
新しい学校、学びの場を作り出そうと考えていて、賛同者を募っているところです。
あんまり難しい言葉をつかって、思想を構築する、なんてことは考えていません。
むしろ新しい感覚、感性、感じ方、といったあたりでしょうか。

静止画である写真、言葉で綴る文章、自分を表現する手段として、写真と文章。
あらためて、現在の表現の方法と方向をイメージとしてとらえていけたらいいな。
写真と文章のワークショップを再開したいな、と最近思っています。
写真を紡ぎ出す、文章を紡ぎ出す、その奥に潜む感性を、紡ぎ出せるようなWSを。
難しいな、言葉で語ってしまうのが、自分の欠点だなぁ、と思っているんですけど。

-9-
いまや写真を撮る機材の主流は、スマホカメラ、ではないかと思っています。
マニアックにはフィルムをいれたカメラで撮るひとがいてるのは知っています。
一眼レフやミラーレスカメラですが、デジタルで撮るというのも多いです。
まあ、カメラマンを自認している人たちは、スマホではないカメラを使う。
スマホを使うのは、カメラを意識しないというか写真愛好者ではない人たち。

シートフィルムからブロニー判、35㎜フィルムと変化して、デジタルになった。
カメラの格好が、大型から中判カメラ、小型カメラと移行してきて、スマホ。
平べったい板状のカメラが、いまや主流であってもいいのではないか。
古くからあるカメラ雑誌が廃刊になる、これ時代の流れで、そういうことです。
まばたきすれば写真になる、といったお方がおられたが、いま、その時代に入ったね。

-10-
いつも取材にいく祇園新橋界隈ですが、ひとがいない、外出自粛中ですね。
緊急事態宣言が京都にも発令されて、昨年同様、ゴールデンウイークもひと無しでしょう。
こういう時期をこえた向こうに、新しい時代の形が現れる、ということでしょう。
そういう新しい時代を、どうとらえて表現していくのか、これが問われます。
内面の時代に入っていて、表現ツールは個人が創作できるパソコンがある。

動画も静止画も、音楽も文章も、なんでも個人で作って発信できる時代です。
新しくカメラを買いましたけど、静止画と動画が作れます。
動画にもチャレンジしたいと思っていて、これまでとは違う動画を撮りたい。
音楽も無料配信のがあるらしいけど、まだ勉強しておりません。
どこまでできるのか、わからないけど、ぼちぼちやっていこうと思っています。

-11-
自分の居場所、ということをよくイメージします。
なかなか言葉にはなりにくくて、自分がいた痕跡を見にいくのです。
光景は変化して、新しい光景にはなっているけれど、その場所は自分のなかにある。
写真に撮ってあれば、その当時の風景が見えて、自分の居場所が推測できる?。
ここに生まれたからまもなく、小学生になる直前まで、住んでいたのです。

千本三条から四条大宮へいく後院通りに面した、壬生車庫の近くでした。
市電が通っていて、花電車が通っていたのを覚えています。
和漢薬の店を営んでいた家屋に、地下室がありました。
戦前には花屋さんだったらしくて、花の保管に地下室を造ったのかと思う。
そういうところに住んでいた、幼年、おむつをしていた記憶があります。

遠い遠い記憶の淵から立ち昇ってくる陽炎のような揺らめき。
内面の、これは劇といってもいいかも、貫かれてきた自分という奴の歴史。
これは非常に現代的な、いや現在的な表現の、その源となる渦潮ではないか。
内面の闇をサーチライトで照らしてみる感覚で、自分の生命の源を探るのです。
歴史の出来事と並行しながらの外面、それとは別のセクシュアルな内面、これ。

内面が顕在化されてくるのに、誘発してくる外世界があります。
人間の興味の一面、セックスのこと、それにまつわる表現物があります。
そういう世界にまみれながら、生を営む、性を営む、ここのところをどう扱うか。
表向きには硬派で通してきていても、内向きには軟派で過ごしてきてるんですね。
これ、生きている、ということの証じゃありませんか。

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神社めぐりをしていて、今日は松尾大社とその末社、月読神社へ行ってきました。
日本神話のことがよくわからないんですが、素戔嗚の神のことですか、月読の神さん。
アマテラス、天照の神は太陽で、それに弟の素戔嗚は月、という組み合わせですか。
もう少し、古事記に書いてある神話を、頭に入れとかなくちゃいけないな。
でも、もう、もうろくした頭だから、記憶できなくて、関連がつけられない。

今日は75歳になる誕生日で、なにかと記念になる日だと、思っています。
その年齢の男子を向こうに置いて、そこから、その場所から、なにが見えるか。
これが、今後の表現のテーマというか、ベースになるところだと思っています。
感覚ですね、感情というか、そのレベルでなにがとらえられるか、だと思う。
理屈じゃない、もう、理屈が理解できない、文章書くけど、理論にならないです。

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