中川繁夫写文集

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<掲載写真は、写真集<西陣2009>2008.11.9から>
※2004年9月16日付の文書を掲載します

<文化・カルチャー論>

文化研究とは、カルチュラル・スタディーズと同義語ですね。
そんなフレームを設定して、文化の層をマトリクス化していくと、
高級文化←→低俗文化という分け方が意識の中で分けられていきます。
ハイカルチャー、ローカルチャー、サブカルチャーなんていうようにです。

そうすると「芸術」ってのはどの層に属するのかというのを定めんならんですね。
芸術って言葉はもう古い、としたら「アート」ですか、言葉としては~ね。
芸術・アートってのは、ハイカルチャーなんでしょうね、きっと・・・
とすると、その範疇にある文学とか写真とか、っていうのはハイカルチャー。
ホントかな~そういう分け方でいいのかな~、っていう思いも出てきます。

作り手のレベルでいうと、芸術行為はハイカルチャー領域に属する。
これでいいでしょうか?
正解ですか?

ウ、ナニ、そういう分類方法そのものが今や無効だって?
そやね~そういうことかもしれんな~無効かもね。
ハイカル、ローカル、サブカルなんて所詮商売用語じゃん!なんていうんですか~。

ということで、結論先送りしておきますけれど、
少しこのあたりの問題を解いていこうじゃありませんか、ね~。 

2004.9.20
政治・経済という中心となる大きな枠があるとすると、芸術とか宗教っていうのは、その両横にくっついてるシステムやな~というイメージを持っています。
球体の非常に単純なモデルですけれど、そうでしょ、芸術も宗教も中心じゃありません、お添えものです。というのが近代社会の構造モデルです。

政治・経済と文化・カルチャーのマトリクスの密度には濃淡があります。濃いところ(力がある)とか薄いところ(力がない)があります。なお力エネルギーが都市という囲みに集中してきたのが近現代の姿です。

先にハイカルチャー、ローカルチャーなんて分け方をしましたが、ハイカルは都市へ、ローカルは周辺にというイメージ化ですね。ということでゆうと、NYとかpariとかtokyoという囲みにハイカルが集中してあるようにイメージしますね。
政治・経済の中心があたかもそうであるように、文化・カルチャーの中心もそのようにイメージします。

でもボクの思考はヘッジがに中心となるようイメージ化をしていきます。
という場所からいゆうと、都市にあっては場末とか寄せ場とかゆわれて疎外されるイメージの場所が中心となります。また、芸術とか宗教というものが、本来、世の中のヘッジにあっていつも中心に対して脅威を与える立場であることに、留意しなくてはならないと考えています。

このような視点(視座)を確保するところから、文化・カルチャーの諸相をみていくという作業が、実は、求められているのだと思っています。
ハイカルに対してローカル、その別枠としてサブカルですね。

これとは別な切り口として、全てが商品化されていく時代への非商品化思考ですね。
綜合文化研究とは、このような立場を仮説として設定していく文化・カルチャー研究領域だと考えています。
その立場から見えてくる実態という姿イメージを紡ぎ出していかないといけないと思っています。

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<掲載写真は、写真集<西陣2009>から>
※2004年9月7日付の文書を掲載します

<自分を見つめる文章を>

綜合文化研究所では、ヒト個人が自立することを目的としています。
そのヒト個人の外側での自立(経済的地位)はもちろんですが、
ここでいうのは、自分自身のアイデンティティっていってますが、
つまり、自分の生き方を自分で納得して、充実感・幸福感を得ていくことです。

自分のことがわからない時代、どうしたらいいのか迷いの時代。
自分の行き場が無くて、引きこもってしまう気持ちの時代。
競争に追いたてられてる時代。

この現代を表現する言い方は様々ありますが、おおむねヒトは悩んでますね。
そこで提案、自分を見つめる手段をもとう!です。

文章を書くことと写真を撮ること、このふたつの手段をもって、自分を見つめる!
そのことを提唱しています。

日記を書く、絵日記をつける、写真日記をつくる・・・
インターネット社会になって、だれもがホームページを開けるようになりました。
だれもがミニですが、新聞社、出版社、放送局運営ができる時代です。

そ~ゆうツールを使いこなして、中味(コンテンツ)を作っていくんです。
情報を一方的に押し付けられることから脱出して、自分のメディアをつくろう!
そのための、自分を見つめ、表現する技術としての、文章を書く勉強です。

そういうことに目覚めたヒト個人のネットワークを創っていきましょ~!

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<掲載写真は、写真集<西陣2009>から染色屋さん>
※2004年9月2日付の文書を掲載します

<あい文学校の開校>

今日は、あい文学校についてのご案内をします。

☆あい文学校は文章による自分の記録をつくる学校です☆

あい文学校は同人による運営をします。
あい文学校では、詩、小説、日記、評論を扱います。
形式はさまざまですが文学することとは、自分の思いを文章に託して
あたらしいコミュニケーションの方法を手に入れようとすることです。
文章を書くことや、画を描くことや、写真を撮ること、
それに食べものを作ることの両方を実践すること、
あたらしい時代のあたらしい生き方をつくりはじめる。
そのことを記録していくことからはじめましょう。

☆写真は現場作業です、文学は密室作業です、農作業は身体作業です☆

綜合文化研究所では、ヒト個人が自立することを目的として、
生産することと消費することを一体としてあるもの、との考えをしています。
「こころとからだ」の一体としてあるヒト個人の未来像に向けての、
新しい生活スタイルをあみ出していこうとの想いです。

現代社会は、ヒト個人を疎外する社会、との認識を持っています。
子供・若者においては、不登校、引きこもり、リスカなどの現象が現れています。
中年大人においては自死行為が問題視されています。

このような現状から、ヒト個人の充実感、幸福感を得ることへの道筋を考え、
まずは行動していく必要があります。
そのためにも、あい文学校の開校が必要だとの認識です。

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<掲載写真は、夏祭り 知恩寺境内 2004.7.18>
※2002年2月28日付の文書を掲載します

地域の自然と生活の出来事を提供する
コミュニティカフェ&プレスオフィス(CCPO)

ローカルネットワークの必要性
ー地域の人間関係の創生ー

(1)地域研究機構のネットワーク
  地域に住むひとの高度な教育を実現するために
・これまでの教育のシステムは知的労働と生産労働が分化していたきらいがあった。そのなかで権利義務関係と契約関係で結ばれていた個人関係を、新たな共生と共有の関係へと移行させるための研究機構の創設が必要となる。
・新たな共生と共有の関係を導き出すために必要な作業は、哲学・文学から政治・経済学や地球物理学などの学問領域において近代主義を超えるあらたな枠組みを創生することが必要となる。
・そのためには地域においても専門分野の研究が出来、かつ地域の実情に合わせた学術研究ができる機構が必要である。
・幕末にあった適塾のような形態を想定すればよいかもしれない。
・階層や分野に応じてカルチャースクールのような形態をも付設する。
・学びながら生産に従事するシステムを構築する必要がある。

(2)地域経済エリアのネットワーク
  地域内での生産、流通、消費のサイクルと循環型経済の創生。
・地域内の商工舎のネットワークを充実させる。
・地球環境や環境保全、エコロジーやエネルギー、有機農や工芸品の生産をおこない、自然にやさしい循環型経済への移行を実現する。
・このことで地域の生活サイクルが確保され、地域住民の身体とこころの健康と生活の充実が実現する。

(3)地域内住人の人間性恢復ー祝祭の日々ー
  地域に住むひとの特技を活用するネットワーク
・住人ひとり一人の特技を見いだして従事することで各人の生きがい感や充実感を高める。
・農業をする人、木工品を作る人、商売がうまい人、ひとをまとめるのが得意な人、等々それぞれの特性を生かした職業に従事する。また希望により転職も可能な地域経済機構をつくる。
・このようにして共同の働く喜びをもつことで日々祝祭のごとき境地に至る。

(4)あたらしい人間の関係の創出
  個を超える個人のあり方。
・以下、未記入。


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<掲載写真は、2004.10.2 ヤギの会の稲刈り風景>
※2002年2月17日付の文書を掲載します

<地域の自然と生活の出来事を提供する工房>
コミュニティカフェの開業について

まとめ
 人々の生活において、生活の充実感を得ることを目的として、自分の興味のある分野とか食品とかを絞り込んで、そのものに執着して生産から消費までをサイクル化していくことで成立するものであると考えています。
 おおきな意味においては、社会の構造改革と同時に感性の分野での自己解放のための手段として考えられると思いますが、健康な生命体を維持していくための手法の伝達ということが、当面の目的として掲げてよいのではないかと思います。共感しあう人々が共同して創りあげていくことが、なにより大事なことです。人間の関係についての共同認識が必要です。
 そのためには何が必要かといえば、まず、現状の理解からはいる必要があると思います。現状の理解とは、現状の世界の経済構造を中心とした大きな流れを把握することから始まり、その中で次にやってくる生活環境の予測を立てて、そこで満足感が得られそうな空間を空想する必要があると思います。あるいは、近代主義が打ち立ててきた合理主義や物質主義などからの脱出のための思想を議論していくこと、といったようなレベルから始めてもよいのかも知れません。

 主宰者の考え方や物事の捉え方が問われるところです。人間には欲望と不安があります。その欲望をどのようにして満たしていくのか、そして不安をどのようにして取り除いていくのか。人間は身体を使ってなにかを創りあげていくことを基本的に受け入れる生き物です。つまり労働ということは喜びであるはずなのです。
 にもかかわらず、いまの現状では労働することそれ自体を回避したい欲求にたたされています。この原因は何なのか、と考える必要がありそうです。
 逆に労働する喜びを創り出すものはなになのか、ということも考えなければならないと思うのです。そこのところを本音(欲求に忠実)で議論したいと思います。そして自己変革をしていくのです。
(Shigeo Nakagawa 2002.2.17)




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