中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

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表現論ブログ
これから-1-
 1~18 2019.8.9~2020.11.18
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お盆行事で、お迎え、という行為があります。
解釈としては、あの世へ行っている身内の死者や先祖をこの世に迎える。
迎えるためには、いろいろ細かな手順があるみたいで、ぼくはあまり知らない。
ここは六道の道の珍皇寺境内です。
ぼくは写真撮影のために、そこへ行く。

例年のことだけど、夏のこの時期、夢幻舞台、って言葉を使っています。
自主出版ですが、この夢幻舞台というタイトルをつけた写真とエッセイです。
1983年の発行ですが、それ以来、ぼくのイメージは、夢幻舞台です。
あるいは、わが風土ーというサブタイトルをつけています。
<夢幻舞台 あるいは、わが風土ー>

先日、ぼく自身の発信のところを、かなり整理しました。
ぼくのムーブメントの広報として、たくさんブログ発信をしていました。
最近なら、フォトハウス表現塾へ導くための広報でした。
でも、空しくなっていて、惰性で続けていたけれど、バッサリ切った。
そこで、これから、どうするのか、このことがぼく自身の問題です。

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2019年10月1日、月が替わり、新たな気持ちになって、これからを語る。
まあね、消費税が10%になったという報道ばかりで、うんざりしているところです。
今日の気分は、それほど良好ではない、これはいつもとあまり変わらないです。
なんてったって、高齢になってきているから、朝の目覚めが清涼感にあふれる。
なんていうことはほぼなくて、いやな夢からさめた、その気分のような朝の目覚め。
これから、しようと思うのは、学校つくりプロジェクト、の立ち上げでしょうか。

現代・表現・研究所、この枠組みの中身を、今一度精査しなおしていくところです。
かって総合文化研究所の枠組みの上位概念として、学校の領域、を考えました。
それから15年が過ぎていますけど、あらためて、現在の地点で、学校を考えます。
学びの場、既存の枠組み、常識の枠組み、ではなくて、持たざる者の学びの場です。
持たざる者が、生き延びていくための、心の安心感、つまり幸福を得る場、です。
権力や経済にほんろうされる個人が、自分を救済するための「学びの場」生成です。

名付けて「学校をつくるプロジェクト」です。
集まれる人集まってほしいと思います。
連絡は、中川繁夫、フェースブックアドレスへ 
現在は、毎月第三土曜日にフォトクラブ京都の例会を開催しています。
学校をつくるプロジェクトの事務局を、フォトクラブ京都に置きます。
よろしくお願いいたします。

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上高野くらしとしごと研究所で、今日はくらしごとマルシェが開かれたので行きました。
伊藤さんの紹介で、オーナーの林さんに会い、事務局の中岡さんと会い、話をしました。
こちら、現代表現研究所を立ち上げていますが、リンクできないかなぁ、と思うのです。
農塾の流れも汲んで、現代表現研究所、学校プロジェクトを進めようとしています。

この流れをどうこうという従来の発想ではなくて、どうしていくのかの根本をとらえなおす。
新しい我らのための時代を、どうして作っていくことができるか、の知恵を出し合う場。
学校のイメージから共有していけるメンバーを、探しているところで、名称にはこだわらない。
参加させてもらって、勉強させていただいて、なにか役に立てれば、と思うところです。

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久々に「これから」という表題を使ってみようと思って、ここを開きました。
漱石に「それから」という表題の小説がありますが、ちょっと真似事かも知れません。
ええ、これから、どうするの?、とゆうことなんですが、どうしようかなぁ、と思う。
昨年末から区切りのことを考えてきて、転機を迎えたと思っております。
迷っていたフェースブックを組み直して、友達を縮小して、世話になった方に限定です。

SNSを使って、自分発信していこうと思っていて、表現の現場は、ネットの中でします。
昨今の環境から、SNSを使い、ブログを使い、ホームページを使って、作家するのです。
紙にしたいところですが、出版にはお金がかかるし、貯えがないから、廉価でします。
なによりも内容、テーマ、なにを表現するのか、これが一番の問題です。
カメラで写真を撮って載せます、それに文章を書くのはネットのなかでやります。

フェースブックで友達申請させていただいた方から、OKの合図が入ってきます。
再出発できそうな気持です。
写真関係の人、吹奏楽関係の人、そのほか懇意になった人、おおむねこの三つの方です。
残りの人生を、なにかとよろしくお願いいたします。

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京都表現学校の名前で、あらためて事を起こそうと考えて、部分公表したところです。
実際に具体的に学びの場を確保するとなると、今現在、その目途は立っていません。
教える人がいない、人が集まり学ぶ場所がない、これが現実なのです。
実習する道具と場所、レクチャーする場所と装置、これを共同で、やれないか。
なにより、思想のレベルの問題です。

学ぶという枠組みの必要性は、ぼくの場合もう20年ほど前に具体的な案がありました。
生きるための、夢と希望を紡ぎだす学校、学びの場、です。
競争に勝つための学びではなくて、負けそうな人が希望を持てる枠組み、学校です。
いくつか、共同できる学びの場があることは知っています。
そういうところとリンクしていきたいと思っているところです。

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藪の中というのは迷宮入りの代名詞かなぁ、と思ってしまいます。
生きていることで、解決できないことがいっぱいあって、それを解決しようとする。
お金の貸借とか、人間関係の愛憎とか、これらは解決できることですね。
でも、そうではなくて、自分の理想とか、それを実現のための思考とか、これです。
解けなくて答えが出せない、まるで藪の中にはいって道に迷う、迷ってしまう。

あんまり考えないで、感じることにしようと思います。
嫌に感じることは避けて、気分いいことに気を向けていく、いい感じにしよう。
もう、行く先そんなに長くないんだから、気に入ることだけに専念しよう、です。
腹立つこともあるし、落ち込まされることもあるけど、それを無視しよう。
生きていくのに、いやなことは取り入れない、感謝できることだけ取り入れる。

理想を語る、これは大事なことだと思っています。
生きる希望が持てる「学びの場」が必要だと思っているんです。
生きる希望って、愛溢れる、とでもいえばいいかもしれない、理解し合える、かな。
宗教を起こそうなんて思っていませんが、ひょっとしたらそれに近いのかも知れない。
まあ、夢仙人、俗世からはなれた雲の上、みたいな気持ちになれたら、いいのになぁ。

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なにを論拠とするか、これを探し求めているんですが、参考資料がないのです。
ええ、現代を解くカギ、キーワード、それから飛び立つための思想背景、のことです。
でも、どうも、まわりを見渡してみて、その論拠が見つからないのです。
下敷きにする思想背景から、飛躍しないといけないわけです。
そうするとぼくのなかに下敷きとすべく思想があるのか、と問えば、ないなぁ。
言葉は知ってる、人の名前も知ってる、でも知ってるだけで、深くは知らないんです。
たとえば、マルクス、柳田国男、これは柄谷行人さんの本に出てくるお名前です。

いまさらなぁ、もう高齢者だし、まもなく後期高齢者に位置付けされる年齢です。
アクティブに動いている世界からは、もう遠くへ来ているなぁ、と実感します。
だから、名誉職に君臨するお方が多くて、その方たちが過去の実績で、評価されてる。
ぼくは、過去じゃなくて、今、現在、なにを生み出しているのか、ここを問題にします。
アイデアだけでなくて、実行する枠組みの生成を試みるわけです。
でも、結局、アイデアしか出せてないなぁ、と反省しているところです。
だから、もう現役ではなくて退役になっているんだと思うのが正しいですね。

でも、この20年間、すくなくとも総合文化研究を提唱したころから、今までのこと。
基本原理みたいな位置から、発言、発案していると、自分では思っているところです。
その基本原理とする位置は、虐げられた場所からの発想、持たない立場からの発想です。
すくなくとも、資本に従属しない立場から、ことを起こしていくこと、に尽きます。
まあ、全共闘世代特有の、思考の枠組みなのかも知れませんね、反権力という権力構築。
この枠組み自体も、いまや解体されて、新しい枠組みが作られないと、いけないですね。
ちっとも具体的でないから、イメージ化されることも、難しいのかも知れませんけれどね。

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2001年にフリースクール構想を打ち出したんですが。
そこでは、2020年に既存システムが崩壊すると予測しています。
いよいよこれまでの大きな権力構造、経済システムが無効になってきました。
大きな話ですが、個別にあげると、教育や、生産や、メディアの環境が変わりました。
その変わり方のこと、内容なんですが、そのことを感覚として実感しています。
世界レベルで疲弊化が起こっていて、日本もたぶん、そういう状況かと思われます。

世界はグローバル化に向かっているといわれます。
資本が一極に集中していく時間の流れだといわれます。
これはどういうことかというと、個人が抑圧されていくということです。
この抑圧をいかにして退けていくか、というのが現代の課題なわけです。
そこで、資本と切り離して、人格の価値を見直すフレームが必要となります。
このフレームこそが、新しいシステムを生み出す拠点となる思想の原点です。

では、このフレームのなかには、どういうことが現象として起こっているのか。

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<表現のテーマとしての内面>
なにやら由緒あるハヤシライスだということを聞いて、食べたいと思って、食べました。
今日のテーマは、食べ物の話ではなくて、表現する中身の話です。
写真に撮ったハヤシライスの中身は、いろいろな材料が煮込まれていて、美味です。
表現の中身も、これに似せていうと、いろいろな素材が混在していて、感動する。
この感動するべきものの「質」というか「内容」そのことの話です。

「内面」という言葉があります。
風景の発見、内面の発見、告白という制度、病という意味、、、、、。
柄谷行人さんは「日本近代文学の起源」の章立てとしてこのように展開します。
これは近代という枠組みで、現代ではありませんが、ここの内面の発見です。
ぼくは写真表現という枠で、考えているんですが、漸く「内面の発見」にまで来た。

これ、写真表現の、現代表現の核になるテーマではないかと思います。
これを具体的な作者を引き合いにだして、評価を定めていかないといけませんね。
イメージとしてこのことに取り組んでいる写真作家がいるように思えます。
いや、思考が内面に向かっていて、自分の内面表現として外在するものを定着する。
坂東さん、渕上くん、ほかには台湾のセリフイー作家、ぼくが昨年に見聞した作家です。
文学では近代に組み入れられますが、写真では現代ですね、漸く始まったところです。

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<死後の世界について、この世について>
ぼくは基本的に死ぬことは肉体の滅亡で、同時に魂も滅亡する、と思っています。
このことを明確にしておかないと、ぼくが死後の世界があると思われたらイケナイから。
冥途や黄泉の国やあの世や天国とか、宗教や哲学の領域で空想の世界を論じますけど。
そういう死後の世界のことを思想史的にあることを想像力の中で想いを馳せますが。
御霊とか精霊とか、生きているうちには、あると思うことで安定する気がします。

唯物論というのでしょうか、青年の頃に、肉体滅べば魂滅ぶ、といわれているから。
それは生前の思いであって、それに歴史とか、枠組みをつくって、自分を安定させる。
さて、作家しようと公言しているけれど、作品の根拠は、モチーフはどうするのか。
空想力を見えるようにする、難しいけど、そういうことでしょう、作品とは。
写真をつくろうと思っています、それに文章でフィクションもつくろうと思います。

手元に書籍のタイトルでも見えるようにしておけば、論が立てられる、と思っていました。
でも、それを無くしてしまっても、これまでの経験から、なにか産めるのではないか。
そのようにも思って、家族が身の回りを処理しろというので、することにしたところです。
生きていて、からだの機能が衰えてきて、想像力が大きく膨れ上がる、そういうところです。
作家をする、生のための考察みたいな視点で、セックスをとらえられたらいいな、と思います。

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だいぶん身の回りの整理が進んだとおもっていますが、まだまだ残滓がこびりついています。
裸の聖徳太子像ではないですが、衣装を脱ぎ捨ててしまって、そこから何が産まれるか。
これも妄想のうちになるんだと思いますが、天から授かった宇宙観というところか。
いまは、ベートーベンのピアノソナタ、晩年頃の音を聴いていますが、すごい。
音は抽象だから、それの連なりで人の心を揺さぶりますね、としたら文字はどうなのか。
文字の連なりは理解を伴わなければならないから、音の羅列とは、ちょっとちがうなぁ。

あえて分けるとしたら、官能小説ってジャンルがあるじゃないですか。
これは読ませて、性的に興奮させて、理想はエクスタシーに至らしめること。
オーガズムといえばいいのか、アクメといえばいいのか、至福の領域へ導く。
このような言葉の連なりを創造したいと思うのですが、どうしたら実現するのか。
現代未来文学の課題ではなかろうかと思うところで、リアルロマン小説のことです。
昔、温泉場で頒布されていたガリ版刷りの物語、これの再来を求めています。

1955年に書かれたというサンドラール「世界の果てまで連れてって」生田耕作訳。
気になりながら、手元にあるのに、読んでいなかった、これは小説なのでしょうか。
ほかすまえに読んでみようかと、いま手元にとりだしています。
なんともはや、禁断のエロスの華が・・・・と帯には書かれている書ですが。
それとかって読んだ「湖の伝説-画家・三橋節子の愛と死-」これも再読ですかね。
捨てるとなって愛着がわいてくる本のタイトルです。

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2020.6.21
久しぶりに<これから>のタイトルで記事を書きます。
ちょうどコロナウイルスで世界が組み変わるこれからです。
自分にとって、そんなに身のまわりが変わるわけではありません。
日常の生活については、マスクをするとか、従順にしたがいます。
もんだいは、自分の生き方の今後、このあと、どうするか、ということ。

作品をつくる、この気力とそれを支える体力の問題です。
できることしかできなくて、思うことしか書けなくて、悠々自適です。
身の回りは、だいぶん整理できて、本が無くなり写真の道具も無くなります。
あとは、好きなことを好きなように言っていけばよい、とはいうもののです。
やりたいこと、やっていることを、表とリンクできないから、困っているのです。

写真は、あいかわらずスナップ手法で、最近は人がいない風景を撮っている。
けれども別のバージョンでは、ネットからダウンロードで使っているところです。
文章は、オリジナルですけど、別名で別の枠でブログとホームページをリンクです。
分離した自分がいて、それを表裏一体のモノとして、いまのところ扱っていません。
扱えないままに年月が過ぎていて、今後どうするのか、ここが悩みどころなのです。

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まだまだ世の中、コロナ騒動一色です。
第二波が来る、そのための準備を、と呼びかけています。
ぼくはぼくなりに自粛して、感染しあいように、注意する。
世界の、国家の枠組みが変わらないまでも、中身が変わっていくでしょう。
ぼくには関係ないとは全く思っていなくて、それなりに関心事です。
でも、そのことを語っても、むなしいから、あまり語らないようにしています。

心が剥き出しになって、この心を支える社会の制度が、機能しなくなる。
家族であったり、友達であったり、心を支え合う器が、白々しく思えるのでは。
個人が内面目覚めてきたけれど、それがこれまでの器にはまらないのではないか。
新しい枠組みというか、器が必要で、この器が未成熟なんではないか、と思う。
若いひとが、これまでの言葉でいえば、心を病む状況になっている。
この病むを、そうせはない言葉に言い換える、そういう作業も必要かと思う。

なにができるのかわからないけど、その器作りをしたいと思っているところです。

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2020.6.27
歳をとっても食べ物はスタミナがつく奴を食べることが多いです。
世間常識では、歳をとると干乾びてしまうイメージで、食も細るイメージです。
たしかにそのいう傾向はあるものの、決して、食欲がなくなるわけではありません。
人によるのだと思うけれど、ぼくの場合は、食欲旺盛です。
生きる力は備わっているようで、精神は病んでも、肉体は健康なところです。

意欲といえば制作意欲、これはまだまだ衰えなくて、ますます旺盛です。
これは気持ちのレベルで旺盛なのですが、肉体的にはそれほど無理はできません。
写真を撮るとき、ぼくなんか歩いて撮影するタイプですが、体力の衰えを感じます。
そのぶん精神的なひろがりというか、イマージネーションは拡散していく感じです。
想像力によってフェクションするんですが、でも、体力がないから、無念です。

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新しい総理大臣になって、威厳を示そうとばかりに学術会議のメンバーを不承認としました。
デジタル社会を推進するといい、携帯電話料金を引き下げさせようとしてます。
GoTo、旅行や食事や買い物を、税金を使って刺激しています。
国民、生活者にとっていいこと、わること、様々織り交ぜられて未来に向かいます。

まあ、ね、年金生活者の実感として、あまり住みよい社会じゃないな、と感じます。
でも、世界には、人権侵害、まだまだ過酷な社会があって、人類、この先、どうする。
極端に、貧富の差がひろがって、貧の民が増加して、悲惨な時代だと感じています。
金がなくては何もできない、ではなくて、金がなくても何でもできる、そういう世にしたい。

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ぼくが使っているデジタルカメラ、コンパクトデジカメ、コンデジというやつ。
もうこれまでに何台つかってきたのか、ざっと7台、主にキャノン、ニコンは1台です。
キャノンのコンデジでG5Xというのを2015年に買って、それで撮ったのが掲載のもの。
相対的に暗めに写るようですが、今の機種はもっと優れているのかなぁ。
修理代43千円、この機種、まえにも修理に出しているので、二度目でした。
そういうことでいうと、スマホも4年前だけど、よく写ります。
そろそろ安いのと買い替えないと、と思っているけど、どうしたものか。
なにせ、何事にもお金がかかるから、年金生活者には辛いところです。
でも続けるなら、どこかで新しいのと、買い替えないといけませんね。

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けっこう古い写真どころか、ぼくが初めて風景を撮った、その時の一枚がこれです。
1974年ごろの石川県内灘の浜辺の風景です。
内灘の浜は海水浴場になっていて、家族で海水浴に行ったとき、横にこの光景があった。
かっこつけて写真らしく、遠近を意識して、何コマか、弾薬庫の風景を撮りました。
時代を語るための資料として、この光景はぼくの記録として残っているところです。

新しくカメラを買おうかと思って、ヨドバシカメラへ行って、カメラを見ました。
一眼レフ、ミラーレス、メーカーは、キャノン、ニコン、ソニー、いろいろです。
でも、高いなぁ、やっぱり買うのやめようか、と思いとどまっています。
今使ってるの、修理からあがってきて、ピントが合わないコマが出るんです。
こりゃ困ったというので、買い替えようかと思っているけど、思案橋です。

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2020.11.18
家を解体するまえに荷物を整理していたら、昭和21年の妊産婦手帳が見つかりました。
見つけたので写真に撮って残しておいたのを、アルバムの整理で見つけました。
自分が生まれるときの手帳で、現在なら母子手帳です。
なかには生まれてきた児の名前が記され、産婆さんの名前もあります。
ぼくの生まれた痕跡が、残っていて、ここに載せてるということが、驚異です。

新しいカメラを買おうと思って、迷っていますたが、スマホを買い替えることに。
ソニーのエクスペリア、12万円ほどするんですね、分割で月賦で払います。
機種変更というやつで、5Gにして、月賦にして、月々支払いは今ほどです。
使用料、今7600円ほど払っていますが、新機種代込みで7500円ほどです。
デジカメは見送って、スマホ、アンドロイド、ソニー製品を買うことにしました。

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静止画論
 1~6 2020.9.4~2020.9.24
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<静止画表現について>
これまで写真という名称を使ってきた論を、静止画という名称に変えてみたらいかがなものか、とかなり以前から考えていて、ついにここに静止画論として書きだすことにしました。静止画に対して動画を想定していて、これまでだったら写真と動画として対置していたのを静止画と動画として対置してみようと思うのです。言葉が生み出すイメージは、歴史のぶんだけ豊かなイメージ群になろうかと思えますが、いったんそのイメージを外してみて、現在から未来にかけてのそれらの在り方に言及していければいいかと思っているところです。あんまり難しい言葉は使わないで、なるべく平坦に、読んでイメージが湧くような文章にしていきたいと思っています。

カメラ装置を使って生み出される、言語に対置するイメージの総体を、映像と呼んでみようと思います。映像には静止画と動画が含まれ、これまでに写真と呼んでいた画像もここに含みます。これまであった映画とかビデオとか、それらを動画の範疇として扱って、映像として含めようと思います。主にはここでは静止画表現に集約していくべく、言葉を紡いでいくことにして、論として成立すれば、いいかなと思うところです。けっこう無謀な試みですが、ぼくの頭のなかは、これまでの経験値しかなくて、そんなに新しいことを、劇的に変変換できるとは思っていなくて、読んでいただいて、理解できるようにしていきたいと思っています。静止画を一枚添付しますが、本文とは直接関係しません。

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<静止画の先祖は絵画>
いまデジタルカメラで静止画をつくることになるのですが、その前にはフィルムを使って静止画を制作していました。その頃は静止画のことを、日本では写真と呼んでいました。カメラ装置を使って静止画が誕生するのが19世紀の中頃、今から180年ほど前、1939年フランスで発明されたことになっています。それまで、平面の静止画(絵画)は絵筆をつかって制作されていたのが、絵筆を使わずに感光する薬品を塗った平面に光を当てて絵を得ることができたのです。これが今に至る静止画の最初です。カメラ装置はすでに、絵を描く装置としてありましたから、感材の発明によって静止画が制作されるようになります。その平面に描かれる形態から、絵画の延長上に静止画が誕生したとみるのが、正統な見方だと思います。

絵画から発した静止画が、それからおよそ半世紀後に、映画として1890年アメリカで、1895年フランスで、発明されます。静止画が連続したもので、静止画の連続による動画です。動画の基本は静止画をつくるフィルムの一枚ずつを連続して投影することで、スクリーンに映し出されると動くように見えるのです。この流れは静止画とは別の系で発展してきます。やがて磁気テープに記録されるビデオ装置が開発され、デジタル信号によって記録されるようになりました。一方、静止画をつくるカメラ装置も、フィルムを媒体としていたものから、デジタル信号によって記録するようになって、現在です。静止画の先祖は絵画、と表題しましたが、発達史からみると形態として、そのように言ってもいいかと思います。ハード環境の歴史を見る限り、静止画は絵画の発展系です。それがデジタルカメラになって、そのハード環境のルーツは、映画に求められるのではないかと思えるのです。

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<デジタル画と非デジタル画>
2020年の今、デジタルカメラで撮るデジタル画像が、静止画の領域を制覇した、とぼくは考えています。静止画をつくるのに、かってありいまもある、支持体に感光材料を塗って、露光して、画像を得るという方法があり、これはアナログ写真ともいわれているところです。ここではこのアナログ写真を総称して、非デジタル画と呼ぶことにします。非デジタル画は、支持体に銅板を使ったり、ガラス板を使ったり、フィルムを使ったり、また陰画であったり陽画であったり、薬品の効果で定着したモノが、目に見えるモノです。デジタル画はデジタル信号で構成されており、ディスプレーというかモニターがないと見ることができません。この目に見える、見えない、を断絶しているとみるか連続しているとみるか。方式からすれば断絶しているというのが妥当でしょうか。デジタル画像がつくられるカメラは、もともとアナログのテープレコーダーから始まって、映像がみれるビデオ装置が開発され、アナログ信号だったものがデジタル信号に置き換えられた、という歴史があります。今やデジタル信号を使う方法は、電算機からパソコンからテレビなど、あらゆるところでデジタル化に移行してきています。

静止画を得る方式として、デジタルカメラが売り出されたのは1995年のこと、それから現在2020年、発売から25年です。デジタルビデオは1983年、ソニーがD1規格で発表したとありますが、テープレコーダーの延長線上にアナログ信号からデジタル信号に切り替わってきます。デジタル静止画カメラは、機材としてはこの流れの中に開発されてきたのではなかったかと思っています。デジタルで動画をつくる、それの一コマの画素数を上げて、フィルムで制作した画像に匹敵させる。カシオが発売のデジタル化メタは20万画素だと記録されていましが、フィルムに匹敵するには800万画素、という話しでした。ちなみに2020年現在、コンパクトカメラで2000万画素以上になっているし、一眼カメラだとそれ以上、いまや大型カメラのフィルム画素数に匹敵するところまで技術は進んでいるようです。商用でもデジタルカメラで制作が可能な時代になっているのです。

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<静止画と動画>
2020年現在、通信回線では5G、ファイブジーになったし、NHKテレビでは4K放送、8Kの実験放送が始まっていますね。ネットでは、YouTubeが人気になっています。通信回線の拡大で、ますます動画が簡単に迅速に公開できるようになってきています。SNS、フェースブックやツイッター、それにインスタグラムでも動画がアップでき、ライブもできるようになってきています。そういう環境のなかでの静止画について、どう使うのかを考えることが必要だろうと思うのです。かってあったフィルム画像では対処できないデジタル環境の昨今です。まだまだフィルムを使う愛好者がおられるようですが、どうなんでしょうか、薬品調合して印画紙にてイメージをつくりあげる、その経験を積んだ年配者には、新しいデジタル方式に慣れないから、旧態のフィルムで静止画を制作する。工業製品であるフィルムから一連の静止画制作は、生産中止になったらどうするのかが問題でしょう。かなり前から、フィルムで撮ったネガをスキャンしてプリンターにて画像をつくる、つまりデジタル画像処理をしてプリントするというのが、サービスプリントの当たり前になっているのでは、ないですか。

デジタルカメラで撮る静止画が、デジタルカメラで撮れる動画に替わっていくとき、静止画には新たな意味を見つけ出さないと旧態になってしまいます。かってフィルムで撮った静止画に意味をつけていた批評というか評論に、デジタルで撮った静止画が、同じ位相で語られるには、ちょっと違う気がします。もちろん、批評や評論は、その時代のバックヤードを反映する、それが反映されるから、とうぜん時代とともにその内容も変わるわけですから、あえて非デジタル、デジタル、と分離する必要はないかも知れません。絵画論の部分が、静止画論にもあてはまるところもあると思われるから、その延長線、一直線上に、絵画、非デジタル静止画、デジタル静止画、と並べて論じることも可能な気がします。

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<デジタルの時代>
ただいままだ進展中のところですが、情報のデジタル化が加速しているように思っています。通信インフラの、パソコンでつなぐネットワークなんてすでにデジタルによって進化してきているところです。AI、人工知能もデジタル、コンピューターのプログラムもデジタル、デジタルに取り巻かれている日常です。このなかで、制作のプロセスはともあれ、目に見えるかたちのモノ、たとえば新聞、雑誌、単行本などの印刷物があります。この線上に写真プリントを置くことができます。制作のプロセスでは、いまや記事をや文章を書く道具がワープロなら、印刷技術もコンピューター処理で印刷機を動かすことになります。技術の細部を見だすと、もうデジタルの世界ばかりです。一方で、手づくり品、デジタルを使わない手づくり品、この領域に、静止画であれば、フィルムを使ったり自作のフィルムではない非銀塩にて制作する領域があります。

デジタルカメラで静止画を作り出す。このことが、現在から未来への静止画を作るベースになると考えています。非デジタルで静止画を制作する方法は、年月が経つとともに、古典技法の一部分になっていくと考えています。フィルムメーカーによる工業品としてのフィルムや印画紙は、需要があり製造コストが採算ラインであれば、という注釈つきで、製品として残されると考えます。静止画カメラで静止画をつくるのに、一眼レフとかのフィルムカメラは、すでに生産されていないですね。生産されているのは、デジタルカメラ、それからスマートフォン内蔵のカメラです。(続く)

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<オリジナルプリント>
静止画を紙などに定着させるプリントに、オリジナルプリントという概念を付与しだしたのは1970年代の後半でした。静止画を販売するという目的で、絵画や版画の延長上に写真(静止画)を置いた概念でした。絵画のように本物一点、というものではなく、版画のように摺れば複数の本物ができるように、写真(静止画)にも版画のようなエディションを入れるという手法が取られました。版画の版が摩耗するほどに、フィルムは劣化しないから、何枚でも複製が可能という見立てがあり、そのためには、エディションだけではなく、プリントに一定の処理を施して、オリジナルプリントとして制作するようにされたのです。印画紙に定着させた画像にアーカイバル処理を施したり、水洗を徹底して定着に使ったアルカリを無くすとか、それなりの処理をして、PH濃度ゼロのマット紙に挟んで保管する。保管する箱にも工夫が凝らされる。

20世紀になると、写真(静止画)が印刷物にして使われる時代が到来します。新聞、雑誌、書籍などの紙媒体メディアに使われた後の印画紙は、無用のものでした。その後、写真(静止画)を作品としての価値を見出す方へと、一部のカメラマンたちが目論んできます。オリジナルプリントの概念が語られだすのは、1970年代、イーストストリートギャラリー(アメリカ)においてだったと記憶しております。日本ではオリジナルプリントの制作ワークショップが開催されるのは1981年、ギャラリーOWLでの記録が残されています。具体的に、オリジナルプリントが語られだしてようやく40年が経過する現在(2020年)です。撮影はデジタルカメラ、プリントはプリンターで出力、という時代になっております。1980年当初に考えられたオリジナルプリント概念から、フィルムと印画紙の時代が終わったいま、あらためてオリジナルプリントとは、何を指すのかと問う時期に来ているのだろうと、考えるところです。

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ものがたり-4-
 23~24 2022.1.14~2022.1.16

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高校生になりました。なにかしら胸ワクワク、とっても前途洋々とした気持ちでした。入学した高校には、吹奏楽部がなく、二年になって吹奏楽部を作るのですが、入部したのは新聞部でした。それから誘われてJRC、青少年赤十字のクラブでした。新聞部は、階段下の空きスペースが部室で、部長は林さん、しょうちゃん、と呼ばれていた男子さんです。そのころ、歌う運動があったようで、しょうちゃんはその流れを汲んで、歌う集団を作っていくのでした。新聞部の部員、しょうちゃんのほか、男子は、ぼくだけだったのかも知れません。女子は、一年先輩になる何人かがおられました。名前わすれましたけれど、女優さんの久我美子に似た女子がおられて、憧れの気持ちをいだきました。まだ活版印刷の時代で、印刷所で組まれた版を見る機会がありました。狭い部室で、女子ばかりの匂いを嗅いでいて、それは男の心をそそるものでした。それよりもJRCのメンバーに誘われて、京都赤十字社の本部へ、再々、連れていってもらいました。女子が多くて、男子は数人だったかと思います。ほかの高校のメンバーが、おもに女子高生でしたが、顔を会わせることも多くて、友だちになれました。個別にお会いするということはありませんでしたが、女子には興味津々でした。

クラスでは、中学校が同じだった男子が数名いて、女子では、誰がいたのかわかりませんが、他の中学から来た女子のなかに惹かれる子がいるのでした。もう夏休み前には、好きになっていて、片思いです、もちろん、夏休み中は会えないから、切ない気持ちになっておりました。そのなまえは、ちづ子、おうどん屋さんの娘だというのです。なにかしら引っ込み思案の女子。ダサい女子、そんなイメージをふりまくちづ子さんでした。担任の先生は音楽教師、年老いた先生でしたが、声楽の分野では有名だったらしいです。高校一年生でのともだちに、きたむら君、みやざき君、くすみ君、それぞれに色濃く記憶に残っている男子たちです。きたむら君は、親から離れて住んでいたぼくの家へしょっちゅう来ていて、寝泊まりしていくのでした。きたむら君のお父さんはやくざさんだと本人が言ってくれました。みやざき君は病院の息子で、医者になるべく勉強を、強いられていた男子。よくいっしょに図書館へ行って、勉強しました。みやざき君の家の病院は、精神科の病院で、よく病棟の話しをしてくれました。一年生の終わりごろ、ぼくは自分で病んでいると思い始めて、みやざき君の病院で診てもらおうかと、思うことしきりでした。くすみ君の家は鳴滝にあって、テープレコーダーがあって、よく録音させてもらいました。くすみ君は、ぼくとつきあうのはやめろ、と母親が言っている、と言ってくれるのでした。

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高校生になって、まだ桜が散ったころ、クラスのなかに、不思議な雰囲気をかもす女子がいるのが、気になります。あまりしゃべらない、言葉少なめの女子で、なんとなく気になる女子。ぼく好みのタイプ、と言ってしまえば、そういうことなのですが、魔女ではない、巫女でもない、その真逆なイメージの、洗練されていない女子。そのなまえは、ちず子、というのです。どいうわけか、懇意になって、おしゃべりするようになって、夏休みを迎えることになって、夏の間、会えないことに、無性に寂しさを覚えたのが、思い出されます。夏休みには、原付二種の免許を取りにいきます。アルバイトは、製本屋を個人営業でやっているところへ、行きます。暑い最中です。アルバイト先は神泉苑の近くでした。三条商店街が近くにあります。大きな荷台がついた自転車で、製本のための紙束を、内職で帳合をしているお家まで、届けるのです。事務で使う複写伝票です。クーラーなどなくて、暑い盛りに自転車で西大路の市立病院の近くまで、持っていき、出来たのを引き取りに行く仕事です。学校では、英語の熟語、慣用句を覚える宿題が出されていました。中学の時から、いや小学生の時から、宿題というか、勉強をしない習慣がついていたので、英語の宿題を、することはありませんでした。小学校や中学校での、親しい友だちはいなくて、高校生になっても、まだ親しい友だちがいなかったので、ちづ子さんのことが気になってくるばかりでした。

とはいいながら、JRCの合宿が、笠置山でありました。京都のJRCがある高校の生徒が合同で合宿したのです。女子が多くいました。私立の女子高生、いっぱい、何をするのも、それらの女子と一緒なので、うれしい気持ちでいっぱいです。工業高校の男子がいて、懇意になります。彼はアマチュア無線の免許を持っていて、赤十字の京都支局へ行ったときに、無線室へ入れてもらい、電波を発するのです。CQCQ、コールサインJA3・・・、彼が発信する処を見て、うらやましい気持ちです。中学校1年の時に、アマチュア無線の免許を取ろうと思って、大阪の電波管理局へ受験申し込みまでしておりました。当日になって、大阪へ行って受験、ということに怖気ついて、行かなかった経験がありました。ぎぎぎぎー、ががががー、雑音のなかで、遠くのほうから人の声が聞こえてきて、交信してる、ということに、とっても興味を覚えたのです。どうしたのだろう、日々、どうにもならないくらい、寂しさが込みあがってくるのです。夏休みが明けて、学校へ行き、久しぶりにクラスの連中と顔をあわせ、共に学び、共に遊ぶのですが、内面、どうしようもない落ち込みを経験しています。ちづ子さんは、なにかしら懇意にしてくれて、ぼくは恋心を感じていて、好きだと打ち明けたわけではないのに、好きあっているかのそぶりを見せてくれるのでした。学校では、二人でいることを良しとしないので、夜に会うことにして、ちづ子からぼくのほうに電話をくれることにしました。

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ものがたり-3-
 15~22 2021.12.23~2021.1.11

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中学生になって、吹奏楽部に入部して、物理科学部にも入部して、クラスの図書委員になりました。吹奏楽部ではクラリネットを奏するようになり、最初は音が出なかったのが、次第に音が出るようになりました。音楽に魅了されていましたから、吹奏楽部での活動は、とっても楽しいことでした。その当時、木管楽器を奏するのは、女子と相場が決まっていて、そのなかで学年にひとり男子が混じる、ということだったのかも知れません。ピッコロ、フルート、クラリネット、サキソフォーン、いずれも女子で、クラリネットは二人のうちひとり、ぼくだけが男子でした。一年上の先輩に梅田さん、二年先輩に郡山さん、いずれも男子でしたが、梅田さんが手に取るように教えてくださって、吹けるようになりました。ブラスコンサートが何処かの会館で開催されると、寺本先生に引率されて、聴きにいきます。大阪は朝日新聞社のフェスティバルホールへも行きました。この流れでいうと、三年生になったころから、市中パレードの先頭がブラスバンド、ということになってきて、その先頭の指揮者を、ぼくが指名されたのです。学生服にズック靴すがた、学生帽をかぶっていて、手には指揮棒、それにホイッスル、笛です。

物理科学部は、小学生のときから物理系に興味を持っていて、ラジオの制作とかアマチュア無線とか、そういうことができるクラブがここでした。吹奏楽に傾斜していったから、あまり熱心に活動する方ではありませんでしたが、文化祭の時には、電波を飛ばして、無線です、校舎から運動場の端まで、ワイヤレス、一年上の男子たちが主体になってやっていたので、ぼくはそのまわりでうろちょろしていただけでしたが、興奮しました。図書委員はクラスから選出されて委員となります。土曜日の放課後が、図書の貸し出しができる曜日と決まっていて、土曜日にはその受付をすることになります。先輩に佐伯さんという女子がおられて、いろいろと教わります。お姉さんという感じで、なにやら慕う感じで、一緒にいることが嬉しい気持ちでした。でも図書委員は一年生の時だけでした。吹奏楽部にまつわる話でいうと、市中パレードでは花形ですし、学校内においても運動会の時には、パレードするわけで、本番前から運動場で練習します。その練習風景を見ている生徒もたくさんいて、そのなかのひとりに、タエ子という名の女生徒がいたのです。

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タエ子がぼくの家へ訪ねてきました。季節がいつだったか、覚えていませんが、まだ春の頃だったようにも推定できます。家へ遊びにきてください、という話しをしてきたので、女子の言うことだからと、たぶん、ぼくは、タエ子に連れられて家へ行ったのだと思います。女子の家へ行くのはもちろん初めてのことだし、家へいくとお母さんがいらして、歓待していただけたように思います。中学三年生の夏休み、ぼくは近くの市場の八百屋へアルバイトに行くことになりました。日給300円、朝8時ごろから夕方6時ごろまで、朝には子芋の皮むき、それから店番の補助、午後には配達、けっこうめいっぱい働いたと思います。アルバイトが終わって、それからタエ子の家へ遊びにいきます。お母さんと姉妹が三人。たえ子は真ん中、中学三年生です。お姉さんはもう働きに出ていて、妹さんは中学一年生でした。たわいない会話の中に入れてもらって、女たちの習性というか、目の前に肌がいっぱい見える家の中の女たちを、見せてもらっていたのです。

お姉さんは白いシュミーズにズロース姿で、お母さんがぼくがいるんだから、ちゃんとしなさい、というのに、暑いんやから、かまへん、と言って、白いシュミーズとズロースの肢体で、ぼくの前に座っています。タエ子は、ムームーにズロース、妹は、ショートパンツにシャツ姿です。家の中だからか、ブラジャーはつけていませんでした。お母さんは、ぼくをいい目でみてくれていて、賢い子、だと思ってもらったのかと思います。後にぼくが高校三年生の時には、家庭教師の口を二回にわたって紹介してもらいました。タエ子は、気が強い子だったのかも知れません。二十歳になる前に水難事故で亡くなってしまうのですが、ぼくが好きで、いろいろとちょっかいを出してきていたのです。まだ生理がこないのだといっていました。ムームーの首筋から覗くと、ふくらみはじめた乳房が見えます。白いズロースにムームーだけの女体を、ぼくは意識していました。それだけのことですが、なにかの拍子に手を握ってしまうことがありました。タエ子の表情が一瞬変化したのを覚えています。タエ子は、ぼくを男だと思って見ていたのです、恋する男、そこでぼくも恋していたように思います。

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タエ子のことを思い出すと、中学校の校庭で、吹奏楽部のパレード練習をしているときに、運動場の隅に立って眺めていた女子として思い出します。これが記憶の最初で、その時には、まだその女子の名前も知りませんでした。家へ訪ねてきました。すべてに積極的だったのかどうかはわかりませんが、自分アピールのために、好きになった男子の家を訪ねてくるというのは、初めてでその後においても最初の最後です。メモみたいなラブレターを持ってきたのです。家へ遊びに来てほしい、ということで、遊びに行くことになります。タエ子の家族のことは前段で書いているので重複になるところもありますが、あらためて書いておきます。お父さんは千本今出川にあった寿司寅の寿司を握る板前です。寿司寅の大将の奥さんが、タエ子のお母さんと姉妹で、お母さんがお姉さんです。ぼくが寿司寅へアルバイトに行くのは高校一年生の秋ですから、タエ子の家へ遊びに行ってから一年以上が経っていました。タエ子から、寿司寅のことを聞いていたので、店先にアルバイト募集の張り紙を見て応募したのでした。タエ子は中学卒業後、高校へは行かず、近所の電機製作所の従業員として働くことになりました。中学を卒業で、タエ子との関係は終わっていました。

タエ子の家へよく行きましたけど、タエ子がぼくの家へ来ることもままありました。ぼくの家へ来て、中二階の四畳半の部屋で、なにをしていたのか、女子を意識していたけれど、抱きあうという気持ちは、あったと思うけれど、抱きあうことはありませんでした。なにかの拍子に、手を握ってしまったことがあって、タエ子の表情が一瞬引き攣ったのです。ドキッとしたのを思い出します。男と女のすることを、想定できないこともなかったと思えますが、そういうことはありませんでした。タエ子は女子で、まだ生理がこないといいながら、おませな女子でしたから、ぼくと二人だけになるときには、抱いてもらうことを意識していたのかも知れません。中二階の四畳半は、箪笥が置かれていたから、かなり狭くて、木枠の窓辺では直立できません。織屋の手機(てばた)を入れる家作りなので、中二階となるのです。タエ子は普段着で、夏場だし、薄いムームーというワンピース姿の生足、木綿の白い下穿きだけです。腕の脇から、首筋の下から、裸のからだが見るのです。乳房がぷっくら盛りあがっているのが見えます。それほど明るくはない裸電球がぶら下がっていて、まわりはベニヤ板張りです。性的な何事もないまま、タエ子は帰っていきました。

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四畳半の中二階は秘密の部屋でした。奇譚クラブのページをめくりながら、自慰するようになりました。タエ子の裸を想像しながら、自慰するようになりました。その気持ちよさを思い出しては、自慰に耽るのでした。そのことは誰にも言いません。ひとり、四畳半の中二階にこもって、エロにふれ、奇異な体験をしながら、日々を過ごしているのでした。たけむら君は、気さくに女子と交流する術にたけていました。たけむら君のほうからぼくに近寄ってきてくれて、たけむら君のまわりを囲む女子たちと、ぼくも戯れるのでした。いいえ、桃色遊戯ではありません。そのころ桃色遊戯という言葉を、担任の先生から教わりました。どこかの中学の男女が桃色遊戯で補導されたというのです。君たちはそういうことにならないように気をつけなさい。それに君は知能指数が高いから、京都大学をめざしなさい、とも言ってくれました。桃色遊戯、男女が戯れることだと解釈しますが、ぼくたちのグループでは、そういうことはありませんでした。

どうしたわけか、中二階の四畳半に、男女が集まっていました。なにをしていたのか、なにをして戯れていたのか、女子はスカートを穿いていたから、よくそのスカートがめくれて、下穿きがみえました。トランプでポーカーとか、そういうゲームをやっていたようにも思います。狭い部屋で、人数としては男が二人、女が三人とか四人、男はぼくとたけむら君、女は、たけむら君に集められた女子たちで、そこにタエ子はいませんでした。ブラスバンドの女子もいませんでした。好きさの順番をつける遊び、いちばん好きな女子、二番目に好きな女子、というようにたけむら君は自分好みに順番をつけ、ぼくは順番をつけることはしませんでしたが、しだいに惹かれていく女子が現れてきて、でも二人だけになるということはありませんでした。数学の方程式の解き方とか、三角形の面積とか、教えてほしいという女子がいて、教えてあげていたこともありました。どういうわけか、ぼくはけっこう勉強ができるほうでした。ただ勉強しないから、暗記する科目はあまりできなくて、好きな数学とか理科とかは、学年でもトップグループにいたようです。音楽は完璧に学年トップの成績でした。

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さえきさんという名の年上の女生徒がおられました。さえきさんは噂の女生徒。近所の年上の男子たちの間で、中学に入学する前に、図書館にいるさえきという女子の話しを聞いていたのです。ぼくが入学して一年生で、さえきさんが三年生。ぼくはクラスの図書委員に立候補して、選ばれて、土曜日の午後、図書館で受付とか返却された本の整理とか、そういう作業に就くのでした。さえきさんは図書委員長だったのかもしれません。ちょっと小太りでニキビがお顔にある中学三年生です。中学一年生のぼくにしては、お姉さん、図書館のことを、いろいろと教えてもらっていました。白い半袖開襟のシャツを着ていらしたから、夏の前だったのかもしれません。性に目覚める頃、ぼくは噂で聞いていたさえきさんのからだに興味深々でもありました。年上男子の会話には、胸のふくらみや毛のことが話題になっていて、それは猥談というか、胸や毛のことから女子のはなしに花咲くのでした。その噂の女の人がさえきさんで、一緒にいることで、かすかに恋してるみたいな感情を抱くのでした。

さえきさんは小柄な女子でした。ぼくの背丈は160㎝でしたが、彼女は150㎝くらいだったかも知れません。半袖開襟のシャツ、首元は開襟、俯かれるとナマの胸が見え、腕があげられると、脇の下が見えるのです。胸は隠れていたけれど、腋の下には腋毛が生えているのが見えました。年上の男子たちの話しでは、腋の下に毛があるということは、下の方にも毛が生えている、というのです。さえきさんが裸になったら、陰毛が生えているのが見える、実際には妄想でしかなく、裸のさえきさんを見ることはできません。カウンターになっている受付席で、さえきさんは手取り足取りで、教えてくださるので、超接近です。さえきさんより少し背が高かったぼくの目の下に、顔を入れてきて、超接近です。女の人とそんなに近くに接することなんて、さえきさんしかいません。年上の男子たちが憧れ、猥談に明け暮れている本人のさえきさんを、こんなに近くで見ているのだと思うと、とても嬉しい気持ちになっていました。図書館の美術書で、裸体画を見ることができました。それよりも裸体の写真が収められている本がありました。男たちが集まって、その本のそのページを開いて、裸体の女の人を眺めて、ニヤニヤする友達がいて、図書委員のぼくにも見ろといわんばかりに、ページを開くのでした。

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中学二年生の春のことです、恵美子さんとは同じクラスでした。その恵美子さんが、ぼくに興味を示してくれて、ぼくも恵美子さんに興味を示すようになります。恵美子さんはぼくの好きなタイプの女子、といえばいいかと思います。なにかのことで、ぼくの生徒手帳を預けたのがきっかけでした。ぼくの生徒手帳には、試験の点数とか、秘密情報が書き込まれていたのです。ぼく自身は、それが秘密情報だとの認識がなかったから、べつになんとも思わなかったわけです。でも、恵美子さんは女子で、ぼくに興味があったから、その秘密情報を知れて、とっても嬉しかったようなのです。恵美子さんの家へ連れていってもらいました。どうしたはずみで、行くようになったのかはわからないのですが、恵美子さんは、お昼ご飯を食べようとしていて、ぼくはお膳に向かい合って、恵美子さんがご飯を食べるところを、興味深く見ておりました。女子の部屋で二人だけになるなんて思いもかけないことでした。恵美子さんは、ぼくのことを素敵な人だというのです。ぼくも恵美子さんのことを素敵な女の子だと思っていたから、お互いに恋心だったと思うんです。でも、その気持ちは、なにかしらそれ以上には成熟しませんでした。恵美子さんと疎遠になったのは、まえにも書いたたけむら君らとの男女グループで、そのなかには恵美子さんはいなくて、ぼくは別の女子を好きになって、その女子に夢中になってしまったことがあげられます。

吹奏楽部では、男子は金管楽器、女子は木管楽器、という区分けがありました。ぼくはクラリネットだったから、木管楽器で、パート練習は女子ばかりです。一年先輩に梅田さんがいて、教えてもらうのはこの梅田さんでした。女子の顔ぶれは、同じ学年で四人、クラリネット、フルート、ピッコロ、アルトサックスです。クラリネットはぼくともう一人、一年上に菅さんがおられ、このお姉さまはお人形様のようなお方です。パートはクラリネットでしたけど、ぼくは恐れ多くてみたいな感じで、会話することはほとんどありませんでした。まだ岡崎の京都会館がなかったころで、演奏会はどこかの会館で行われていて、一年生のぼくはステージには出ないで、観客としていることでした。大阪へは吹奏楽コンクールでの演奏を聴きに、朝日新聞社のフェスティバルホールへ、先生引率で連れていってもらいました。阪急電車で、帰りは夜で、わくわくの気持ちだったことを思い出します。女子のなかに、ピアノを弾く子がいて、ピアノに憧れていたぼくには魅力な女子でした。この女子は、ぼくよりも成績がよくて賢かったから、敬服して、仲良くしてもらっていました。三年生になったころ、吹奏楽部が市中パレードに参加という場ができてきました。中学校合同で編成されたのですが、ぼくが市中パレードの指揮をするようになりました。もう三年生でした。交通安全週間とかのアピールするデモ隊の先頭にブラスバンドが行進する。市役所前に集合して、河原町通りを南下、四条通りを東にとって祇園までのパレードコースでした。

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思春期というのは、中学生になるころ、その前後の時期でしょうか。男子であるぼくが、無意識に女子のからだに興味を持つのは、その頃からでしょうか。意識しだすのです。男子ではない、女子だけの特徴に、興味を抱くようになるのは、小学校の上級になった頃でしょう。奇譚クラブ、風俗草紙という雑誌の内容に興味を示すのが、そのころです。わけわからないまま、だれかにおしえてもらうのでもなく、自慰するようになるのが、そのころでした。現実、目の前に起こることと、雑誌の中に起こっていることとは、同じ地平のことだとは、思ったことはありません。性欲が、男女の関係を予想するというのは、高校生になってからです。千本中立売を真ん中軸として、その界隈が繁華街です。映画館は中立売より北、千本日活があり、長久座がありました。西陣京極は狭い路地の北側に映画館がふたつあり、西陣キネマは洋画とその隣が大映、つきあたりが東映、その北隣に千中ミュージック、映画館の向いは飲み屋がならんでいました。中学生になると、一人でその界隈を歩いていたり、友だちと歩いていたり、楽器店があって、クラリネットのリードを買うのに、その楽器店で買いました。西陣京極の入口にマリヤ喫茶店がありました。家族で入って、父はぜんざい、母はあんみつ、ぼくと弟はホットケーキをたべていました。

歓楽街、よく、よく、五番町という名前を聞くことがありました。ぼくが知るその頃には、売春防止法が施行されていて遊郭、赤線地域ということではありませんが、歓楽街、飲み屋とか料理屋とか旅館とか、男が遊び、女が世話する、そういう場所ではあったようです。北野天満宮の正門は、東向いた鳥居があるところ、その前には上七軒の花街があります。そういう地理的なことでいうと千歩中立売は、北野天満宮へ参拝の入口に、出口になるところだと思います。中立売、西にむかって、左に五番町、右に西陣京極、中立売通りを道なりに進むと、下之森商店街、一条通りになって右に鳥居があって北野天満宮への参道です。その当時には、チンチン電車が通っていて、今出川が終点でした。天満宮の敷地で、縁日には、参道には屋台が、広場ではテントが張られた見世物小屋がいくつかありました。天満宮には梅林はありましたが草叢はありません。草叢があるのは桜で有名な平野神社です。町内の年上の男子たちが、その草叢にはちり紙が捨てられているというのです。男と女がいちゃついたあとに拭いたちり紙が、捨てられている。ほんとかうそか、探しにいきます。結局、見つけられなかったのですが、そんな場面が雑誌に載っているのを思ったりしていました。

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高校入試を控えていたころ、ちょっと疎遠になっていたタエ子が、会いにきました。就職先が決まったというのです。その頃は、中学を卒業して就職するという女子が多かったように思います。男子は、もう高校を出ておかないと、という風潮ですが、でも、大半の女子は高校へ進学していたと思っています。タエ子の就職先は、近所の電機製品の部品を作っている会社で、女子工員になるのだというのです。
「そうなの、がんばろう、ぼくもがんばる」
天満宮の北門前で、なにかしらお別れの挨拶みたいなふうに思えていたのですが、タエ子は、ここで、これからもつきあってほしいというのです。
「そうやね、そうやね、また、連絡するわ」
ぼくはそう言って、つきあうとはいわなくて、結局、卒業してしまって、連絡をすることはしませんでした。高校への入学試験は、公立高校へは一括で合格発表があり、入学する高校は、合格が決まったあとに決定されるのでした。入試の点数は、かなり良かったと思っていて、あとで知ったところでは、上位一割のなかにいたといわれました。高校へ入ったら、吹奏楽部に入って、先輩からは弓道部に入るようにいわれていてて、そのままに進学していたら、たぶん、そういう道をとったと思います。でも、新聞に名前が載って、入学する高校が示されて、ビックリしたのは予定していた高校ではなくて、別の公立高校でした。中学を卒業して、高校へ入学するまでの春休み、ぼくはアルバイトで、製パン工場へいきました。働く現場、労働者、パンを作る工場、ぼくは、そこにいることに違和感を覚えます。どういうわけか、とってもキツイ違和感で、その場所にはいられなくて、一週間で辞めてしまいました。

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ものがたり-2-
 7~14 2021.12.13~2021.12.27

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やはり、生まれたところから書くべきだとおもったので、そこから書き始めます。生まれたのは昭和21年(1946年)4月です。戦争が終わった翌年のことです。へんな計算ですが、妊娠から生誕まで、十月十日といわれていますから、母親の腹に宿ったのは終戦一か月ほど前のことになります。父は身体に理由があって、戦争には駆り出されずに、国内の軍需工場で働いていたと聞いています。母は七人ほどいるきょうだいの長女でした。烏丸六条に和漢薬店を営む家、いつ開店したのか、戦前から営まれていた和漢薬店の長女で、理髪の免許を持っていました。父は建具職人ですが、ぼくが生まれたときには、失業状態ではなかったのか、と思えます。もの心つくころ、壬生に住んでいた父は、和漢薬店を営んでいました。父の母は、西陣織の手機の織子であったようで、住まいに設えた織り機で、ばったんばったん、帯を織っていた光景が記憶にあります。昭和21年から昭和27年、ぼくが小学校に入学するときまで、壬生に営んでいた和漢薬店に、その後に弟が生まれたので、親子四人が住んでいたことになります。壬生の家屋は、電車道に面していました。元は花屋さんの店だったと聞いていますが、その家屋には地下室がありました。一階が店舗と狭い部屋があったようで、二階が寝室だったと思えます。

記憶の断片は、これまでにも文章にしたためているところもあるので、今もってその記憶がよみがえってきます。花電車が通っていきました。飛行機が空中からビラを撒いていきました。家の横は空き地で、これは火事で焼けたあとの空き地で、竹籠に鶏が買われていました。大相撲京都場所が開かれたのがこの空き地で、お相撲さんをまじかに見ました。少し離れた、といってもいちばん近い家屋は果物屋さんで、そこのお母さんはお亡くなりなっていて、おじさんと男の子供がおられました。その向こうにお菓子屋さんがあり、カバヤキャラメルを、よく買ってもらいました。朱雀第一小学校が斜め向かいにあります。校門を入ったところに、幼児の背の高さよりヘリが高い樽がおいてあり、捕らえたネズミを死なせて、持っていくと五円もらえて、樽に投入するのです。ぼくは小さくて目の高さ以上なので、樽のなかは見えませんでした。食べ物が無くてお腹を空かしていたという記憶はありません。ビリヤードをする店があり、ダンスを教えている店があり、夜になると明かりがついて大人の声がする、というのがこわかった気持ちを思い出します。

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いつごろから自意識というか、自分の記憶を思い起こすことができるのか。そんなことを思いながら辿っていくと、四歳くらいのことが思い出されます。でも、自分の感情を伴っているかといえば、嬉しいとか悲しいとはの感情ですが、それはまだのようです。小学生になって、二年生頃になると、夕暮れになると侘しい思いが込みあがってきていたのを思い出します。そのころ、母親は働きに出ていて、帰宅が夜でした。夕ご飯には、母がいなくて、お腹が空いたというと、ひとりでお膳にのせられたおかずの皿を前にして、白米のご飯を食べていた光景を描くことができます。S君というクラスの友だちの家へ遊びに行って、S君のお家で夕ご飯を食べさせてもらうことがありました。家族団らん、S君のお家はお母さんが家にいて白の割烹着姿だったので、専業主婦してらしたと思えます。なにか、うらやましいと思っていたような記憶があります。母への憧れみたいな視線でいうと、割烹着をまとっておられたお母さんに、母のイメージを抱いていたようにおもわれ、外に仕事に行っていた自分の母には、白い割烹着をつけている姿が思い出せないのです。

母はそのころ、広小路にあった立命館大学の理髪店で、働いていました。理髪の免許を持っていたんです。よくその理髪店へいって、大学のなかで遊んだものでした。校舎には入りませんが、理髪店があったは研心館の地下でした。地下には食堂とか本屋さんとかありました。わだつみの像が、研心館の入り口近くに設えられておりました。母が、わだつみの像が学校に来た、と言っているのを聞いた記憶があるので、それは1953年、昭和28年のことですから、ぼくは7歳、小学二年生のことになります。立命館というのは、ぼくの記憶の中に濃厚に残っていて、その後に大学生になったのが、立命館だったというのも奇妙な縁だと思っています。わだつみの像が何を意味していて、何故立命館にあったのか、ということはかなり後日になってぼくは知るようになります。学生戦没者の慰霊碑みたいな像だと聞き知りましたし、高橋和巳が荒神橋事件をテーマに小説を書いていますね。

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そのころ、ぼくの住む家は、織屋仕立ての家屋で、玄関から通路があって、右側に三畳の間、その奥が四畳半の部屋になっていました。元は織屋で手機は設えられていたのを、部屋にしたものです。上がりに段があってガラス戸、部屋はベニヤ板張り、振り子時計が掛かっていました。二階建ての四軒長屋で中二階は四畳半、叔母さんが寝起きしていました。もとは庭だった奥に、三畳の部屋が造られて、祖母が寝起きしていました。父も母も仕事に出ていて、祖母がぼくの面倒をみてくれていました。叔母さんは母よりひとつ若くて三十過ぎでした。叔母さんは織機の織子で何処だかの織物工場で働いていました。四畳半の部屋に、父と母、それに弟が寝起きしていて、ぼくは中二階の叔母さんと寝起きをともにしていました。その頃の銭湯といえば、小学生、三年か四年生でも、男の子が女風呂、女の子が男風呂にはいっていました。ということで、ぼくは叔母さんと銭湯にいくので、女風呂にはいっておりました。まだ性に目覚めていないから、お風呂で、とくに女性を意識することはなかったように思いますが、女子を好きになるという気持ちは芽生えていたと思えます。雑誌などで顔が出ていて、映画にも出ていた松島とも子が好きになって、いろいろと妄想を脳裏に描くのですが、松島とも子さんのお顔でした。四年生になると、クラスの女子を好きになっていたのがよみがえります。

男が集まるとスポーツするのですが、ぼくはスポーツをするのが嫌でした。ソフトボールが特に嫌でした。反面、本を読むのが好きで、ひとり中二階の四畳半で、買ってもらった子供向けの雑誌とか、怪人二十面相とか、夢中になって読んでいました。だれが読んでいたのか、たぶん父が買ったのだと思います。でも中二階の四畳半に叔母さが寝起きしていたから、叔母さんが買ってきて密かに読んでいたのかも知れません。和ダンスの上段は引き違い戸になっていて、その奥に雑誌が重ねられ、置かれてありました。雑誌の名前は、奇譚クラブと風俗草紙でした。あわせて十冊ほどがあるのを、いつのことか見つけていました。ぼくは、それらの雑誌をタンスの中に発見し、中二階でひとりの時に、ページをめくり、絵を主に見て、文章も読むようになります。写真は白黒でしたし、挿画があります。それに本文ページは、小説とかルポとか、文章が主な読み部分があります。その中でも挿画というか絵にふれて、それは女の人が裸にされ、縛られている絵ですが、ぼくはそれらの絵に魅せられてしまいます。まだ思春期をも迎えていない年齢で、お風呂は女風呂に入っていた年齢でした。お風呂で女体を見て、雑誌の絵を思い出し、お風呂の女体にその光景を重ねていたようにも思えます。

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母はいつも働いていて、働くのが好き、というだけではなく、戦後に生きていくために、必死になっていたのではないかと思います。どういうわけか、立命館の散髪屋で働くのをやめて、テキヤの屋台を縁日などで出店していました。お正月には天神さんの参拝道の鳥居のところで、食べ物ではない子供の玩具みたいな屋台を出していました。桜の頃には祇園さんの参拝道で、花見で食べるお菓子を売っていました。節分にはお多福飴の店を出していました。好きでそういうことをやっていたというより、やっぱり生活のためだったと思います。父は建具屋で工務店で受注した家具を、その工務店の作業場で、作っていました。ぼくは、小学生で、もう高学年になっていました。四年生の頃でしょうか、気の合う友だちたちと、自転車に乗って、国鉄の線路が見える高架橋へ行って、電車が通るのを見にいきました。時刻表を見て、通る時間を確認して、高架橋へ行った記憶があります。その頃になると、好きな女の子ができて、好きとは言えなくて、思い悩んでいました。

いまこの手記みたいな文章を書いていますけれど、それらは65年も以前のことです。昭和30年頃、1955年頃です。伝書鳩を飼っていたことがあります。父に頼んで畳半分ほどの鳩舎を、屋根のうえに作ってもらって、学校から帰ると屋根にのぼって、鳩の世話、水を入れたり、餌を入れたり、いつの間にか10羽ほどいたように思います。じっと見ていて、鳩の行動を観察していました。ひとり、鳩舎のまえに座って、自慰していたような記憶がよみがえります。屋根裏部屋になる中二階の四畳半にいるときは、読書しますが、興味は奇譚クラブ、風俗草紙、それらのなかの写真とか挿絵とか、とっても興味をわかせて、妄想して、イメージを膨らませていたように思います。いま、ネットの中にそれらの雑誌ページが見れるようになっていて、見てみると、その記憶の中の挿絵が、CTRのなかに見いだせるのです。ぼく自身のフェチなところは、その見たという体験が、いまもってそのまま引きずっていると思えるんです。

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女子も男子と遊ぶことをおもしろがり、男子も女子と遊ぶことに魅力を感じて、誰かさんの誕生日に男女で10名ほどが集まったのです。それは一階が織屋さんの工場で、二階には広い部屋がありました。その二階でかくれんぼすると女子の一人が提案します。じゃんけんで、ぼくが負けて鬼になる。逃げた奴を探して、見つけたら抱いてあげて、鬼の勝となる、というのです。押し入れに隠れた女子を、見つけて。ぼくは、その女子を抱いてしまいます。それだけのことですが、奇妙に、抱くことに興奮してしまいます。スカートを穿き、セーターを着た女子ですが、見つけて抱くまでに、抱かれないようにと抵抗するわけです。この抵抗されることが、お気に入りになるわけです。スカートが捲れて、下穿きしたお尻が見えます。セーターのうえからですが、抱くと柔らかい肉体を感じます。キャッキャと声を発しながら、女子が逃げ、それを追いかけ抱きしめる。そんな遊びをした光景を思い出します。性に目覚める頃、といえばいいのかも知れません。男も女も、十歳になると、無意識にでも男は女を求め、女は男を求めるようになる、と感じています。

夏休み、水泳スクールに通うことになりました。最初は水に顔をつけることから始まり、足をばたばたさせることを実地で教わります。泳ぐ最初は犬掻きでした。川を仕切ってプールになった水泳教室で、男子が圧倒的に多かったけれど、女子が何人かいました。男は褌姿でしたが、女子は水着です。女子の水着姿を見れて、妄想がわきます。胸が少し膨らんでいて、股のところは、なにかしら、縦に割れ目ができているのです。見たこともない女の人の股ですがら、割れ目があるとは聞き及んでいたので、へんに想像逞しくして、その女体を想像していたのをおぼえています。水からあがると寒くてガタガタと震えるときがありました。お腹が空いて、プールサイドにおうどんの屋台があって、一杯五円だったことを覚えています。だいたい、おこずかいといえば、五円が相場で、駄菓子は、五円でだいたいのものが買えたように思います。家では、祖母の店番で、駄菓子屋を始めました。ぼくは、たまに留守番することがあって、駄菓子の仕入れには、荷物持ちとして、親に同伴していました。千本三条の商店街入口に、駄菓子の卸店が数件ありました。

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小学校の三年だったか四年だったか、学芸会とか学習発表会だとかの名前で、劇とかリズム合奏とか、ステージに上がることがありました。ぼくは、音楽のステージで、鉄琴を使う役割になりました。木琴が十数人いて、鉄琴はその真ん中でひとりです。またハーモニカの合奏があって、一人だけのソロパートを担いました。音楽が得意だと先生が認めていたのかも知れません。家では、ポータブルのレコードプレーヤーを真空管ラジオにつないで、レコードを聴きます。父が音楽愛好家みたいな、そう、SPレコード、78回転のレコードがあって、ドナウ川の漣をよく聴きましたが、軍歌のレコードがあり、これも聴いていました。中二階の四畳半、夜には叔母さんと一緒に寝ていたんですが、ぼくにとっては突然、結婚されて、いなくなったのです。その時から、ぼくは中二階の四畳半で、ひとり寝起きするようになりました。学校での成績は、クラスで二番、Y君が一番で、ぼくが二番、通知簿は、ほぼ5で、図工が4だったか、Y君はいいところのおぼっちゃま、という感じで、家業が西陣織の仕事でした。叔母さんがいなくなって、ひとりになったぼくは、貸本屋さんで本を借りてきては読むようになります。一冊10円というのが相場でしたが、なんとかお金を工面して、借りにいったものです。

内緒の雑誌は、やっぱり愛読書、奇譚クラブとか風俗草紙とか、少年探偵団と明智小五郎、怪人二十面相とか、でした。中二階への階段の前に本棚がありました。その本棚に医学の本がありました。壬生では漢方薬の店をしていたから、そこの経営者だったからか、指導書、と書かれた本でした。図解があり、からだの構造が図解されていました。からだの構造といっても部分的な構造のこと、性器の構造図です。男の性器、これは自分が男だから、外見わかります。興味を抱いたのは、女の性器、図があって、名称が示されていました。それから、男の性器と女の性器が結ばれる図解のページがありました。挿し込んだ男のモノが女の中で射精する図解、それから避妊具の種類とか、使い方とかの図解入り説明がありました。ぼくはかなり丹念に見て読んだと思います。雑誌を見て読んだことも、図解を見たことも、それは内緒の話しで、だれにも言えません。ぼくの妄想はどんどん拡張していくばかりでした。

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祖母が店番する駄菓子屋を営んでいて、冬にはお好み焼き、夏にはかき氷をやっていて、ぼくが手伝いをする役目でした。お好み焼きの冬は、小麦粉をといたり、キャベツを刻んだり、父が仕込んでおりました。夏のかき氷には、イチゴやレモンの蜜は仕入れていて、黒砂糖を自家製していて、白蜜に黒砂糖を溶かして、作っておりました。手動の氷かき器は右手で輪をまわしながら、氷をまわし、下へ落として器に盛ります。ぼくは、その氷かき器を扱うことができて、重宝がられました。数年後には電動の氷かき器が導入されて、手で回さなくても良いようになりました。当時は、かき氷一杯五円でした。駄菓子に包まれているぼくは、近所の年上の男子から、けっこういじめられていました。駄菓子を買えない男子が、駄菓子に包まれているぼくを、ねちねちといじめるのです。そういうこともあり、子供の頃の記憶は、ここにはいたくない、という意識に変わってきたのだと、思えます。

西陣の端っこ、狭い道路の四軒長屋、後ろはお土居、築山になっている地域です。織屋が多いなかの、その一軒が駄菓子屋で、子供たちの欲望を満たす場所でした。町内に紙芝居のおじさんがやってきます。見学賃五円、五円払ってお菓子をもらって、自転車の前に集まって、絵を見ながらおじさんの話を聞くのです。お喋り上手なおじさんの名前は石井さん。自転車の荷台に引出箱がありそのうえに額があり、額のなかには紙に書かれた絵が挟まれていて、その絵を見ながら話を聞くのです。子供たちはこずかいを、一日に五円しかもらえないから、紙芝居を見るか、駄菓子を買うか、子供たちは真剣に迷うのでした。そういうことでいえば、ぼくは恵まれていたと思います。まだ叔母さんと中二階で一緒に寝ていたころ、板のチョコレートを買ってもらったり、美味しいビスケットを買ってもらったりしました。少年雑誌を買ってもらっていました。少年とかぼくらとかの表題の男の子の月刊誌で、他には小学館の学年別の雑誌、学習研究社の四年の学習とか、これは学校であっせんしていて、買ってもらっていました。いやはやこういった小学生生活でした。

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好きになった女子の話しをしようと思います。五年生のときです。転校してきた女子が、とっても可愛かったのです。いつもよそ行きの服をきていて、雑誌に出てくる少女が、目の前に現れたかのようでした。好きになったからといって、好きだとは言えなくて、それほど会話もできません。ぼくのなかで、特別な存在になっているのです。十歳を越えた頃でしょうか、恋する心を意識しだして、生活のなかで性にまつわる知識を得たりしていくわけですが、そのことと好きになった少女とが、まったく関連していない。淡い初恋は小学二年生のころには芽生えていたけれど、淡さでいえば、かなり濃い淡さで、その女子と一緒に遊びたい、一緒にごはん食べたい、かなり現実の中に含んでしまうようでした。小学校を卒業したあとには、同じ中学校の中学生になるわけですが、クラスが別になったから、恋心が消えていて、別の女子を好きになります。中学生になるのは13歳、十三参りには父と弟とぼく、この三人で嵐山、渡月橋を渡っていったのを覚えています。

そのころ幻灯機というのがあって、映画の映写機のような、ボックスにレンズがついていて、ボックスには電灯を入れて、フィルムをボックスとレンズの間にはさんで、上から下へフィルムを巻きます。白い紙とか壁をスクリーンにして、フィルムの画像を投影する、幻灯機です。買ってもらったんだと思いますが、それを友だちの家へ持ち込んで、映写会なるものを催したのです。わいわい、密室にして、暗くしないといけないから、夜だったかも知れません。男の子と女の子、別にセクシュアルなことが起こるわけではないんですが、奇妙に興奮したのを覚えています。そのお家は広いお家だったので、かくれんぼして遊びます。隠れる場所は押し入れとか、荷物の裏側とか、見つけにいって、見つけると追いかけ、抱いてしまえば、鬼の捕虜になるということだったか、抱くのです。女子を抱く、抱きたい気持ちがあったから、抱いてキャッキャ声をあげて、よろこぶのでした。

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ものがたり-1-
 1~6 2021.12.3~2021.12.11

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じぶんの顔を公開するのには、こころの中で抵抗があります。それはなにがそうさせているのかといえば、こんな男なのか、いい歳して、醜態を晒すな、みたいなことを思われたら癪やなぁ、との思いからです。若い時の写真は、むしろ公開してもいいかなぁ、とも思っていますが、それも裸の写真とか、それはそれでいいかなぁ、と思うんですが、日本の現状では、それがストレートにアップロードできないと思っているんです。ここのタイトル、「ものがたり」としました。ものがたり、物語、物語り、そういうことなのですが、自分の行為として「物語り」というのです。フィクションです。全くの作り話ではありませんが、ぼくのなかの古いイメージが、空想的に動いているので、この世のフィクションだと思えるのです。最近の傾向、文字で書かれたいわゆる文章というのは、ネットの中ではあまり読まれないのだと思っています。写真とか動画にしても、沢山ありすぎて、興味を引くのはどういうモノだろうか、いろいろ思うわけです。それで、興味を持たれる順番でゆうと、動画、写真、漫画、文章、ということでしょうか。そのなかでもジャンルでいえば性をめぐる内容のモノだと思っています。そこで「ものがたり」では性にまつわる話をも含め、自叙伝的に、ものがたろうと思っているのです。

2008年頃から、ぼくはネットのなかで、フィクションを手がけるようになりました。かって1970年頃に、同人誌で小説を発表したりしましたし、1980年頃には、写真と文章を組みわせたドキュメントを志向して、雑誌を編集したことがありました。写真家なんていうのはおこがましいんですが、ほんとうは文章で勝負したかった、いまでも勝負したいと思っています。個人で編集して発行した「映像情報」は、まだネットがなかった年代で、和文タイプライターで原稿を打ち、印刷してもらい、帳合してもらい、100部限定発行の情報誌で、ここにぼくの文章を載せていきました。1985年頃からフォトハウスの名称でワークショップを開催し、そのまま写真学校を作るところにきて、2001年ころから、写真論などを手がけ、実際にフェクションを作ろうと思ったのは、インターネットで自分のページをつくるようになってからで、それが2008年頃でした。アダルトというジャンルで、一般からは隔離されたところで展開されているアダルトサイトです。微妙に表現する内容が男と女の交情を描くことをめざし、フィクション、小説として、文章を書き始めました。日本語による文章で、エロス系の最深部をめざして、思考錯誤を重ねてきたところです。

どのへんから書き出そうかなぁ、と思案にくれます。そうだ、シアンクレールという名のジャズ喫茶がありました。河原町荒神口の角にあった其処は、モダンジャズ、ぼくはクラシック派だったから入り浸りではありませんでしたが、どでかいボリュームで奏でられる音に、奇妙にこころが落ち着くのでした。そこへ彼女といったときのこと、薄暗いボックス状の店内の真ん中にテーブルがあり、天井からテーブルの上50㎝くらいに吊られた電球だけ。座って、手を握りあうことなんてへっちゃらで、彼女の太腿に触れたりすることも可能で、少しエッチな気分になってくる音量たっぷりの空間でした。こころの中では、隣に座った彼女と密着して、もう身体の一部は硬直し始めているんです。でも、握ってもらうのはヤバイ、なんてったって、隣とは区切りがない空間ですから、もちろんキッスだってできるわけではなく、ただ手を握りあい、指を絡めて力を入れ合い、存在を確認するにとどまるのでした。オバーコートを着ていたから、冬のことだと思います。河原で肩を寄せ合い、御苑で抱きあうには、寒すぎるので、喫茶店で時間を過ごすことになるわけです。河原町から木屋町へ、少し入ったところにあった喫茶店では、もう延々6時間以上もねばったこともありました。純喫茶ですから、エッチなふるまいなんか、できる処ではありません。

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大学生になったころ、各大学では学園紛争が起こっていて、ぼくが通う大学でも、その気配がしてきて、過激な学生が会館をバリケード封鎖してしまいます。そのころ、ノンポリ、ノンセクト、セクト、高橋和巳の小説「憂鬱なる党派」を読み終えていたぼくは、学生になって、学生運動に興味津々、どちらかといえばアナキズムの方へ傾いていました。映画館では、パートカラー映画三本立て、入場料100円だったと思いますが、夏の夜、クーラーが利いた映画館へ行って、夜な夜な、朝方まで映画館で過ごすのでした。パートカラーというのは、エロ映画で、その処になるとカラーになる、その部分が終わると、白黒映画になるという映画です。まだ彼女がいなかったぼくは、すでに性の知識はありましたから、男と女が、何をするのか、ということは知っていました。でも、オクテなぼくは、初体験することなく大人になってしまうのでした。筆下ろしは彼女ができて、何年かつき合っていて、ようやくいきついたというところです。騒然としていたといえば、騒然としていて、主に東京の大学でバリケード封鎖がおこなわれ、それが地方に波及するという感で、京都にもやってきたと思っています。党派の細かな話しはしませんが、そういうなかで青春時代を過ごしたというのが、いまもって思想に影響を与えていると感じています。

ここでは、エロス体験をベースに、書き連ねていかないといけないと思っています。子供の頃に戻るのですが、それは小学生の四年か五年ごろ、十歳か十一歳のころ、偶然、箪笥の中に仕舞われていた、月刊雑誌を見つけたのです。十冊ほどあったかと思いますが、なかを開いてみると、女の人が裸で、縛られている絵、写真、それに伴う文章、小説、雑誌の名前は、奇譚クラブ、それに風俗草紙でした。とっても興味深々、女の人が、縛られて、弄ばれて、よろこんでいる、そういう世界に、わけわからないまま、引きずり込まれていくのでした。本を読むのが好きでしたから、怪人二十面相や名作といわれている外国文学なんかも読んでいました。でも、それらの雑誌の挿絵、写真、小説、むさぼり読みしていました。でも、それらは、中学生になるころには、記憶のむこうに追いやられ、もう、見て読むことはほとんどありませんでした。エロ映画を観るようになるのは高校を卒業するころからです。高校生になったころから、映画館で映画をみるようになります。そういうことでいえば、小学生の頃から、東映映画を親と一緒に見に行きました。

西陣京極は、そのころ大盛況で、夜ともなると人であふれていました。一番奥に東映の映画館がありました。中村錦之助ですね、東千代之介、大家では片岡千恵蔵とか、主に東映映画でしたが、大映映画、松竹映画、子供だったので大人に連れられて行きました。高校生になると一人で観に行くようになります。観に行くのは千本ではなくて、新京極と祇園、封切館ではなくて二番館ですか、洋画です。よく観たのは、終着駅、鉄道員、イタリア映画です。アメリカのスペクタクル映画も、よく見ました。名作が映画になる。シネマスコープ、大きな画面に大音響、映画館が劇場になっていた時代です。でも、やっぱり、パートカラーのエロ映画が、好きでよく観にいきました。ひとりで、ひそかに、観にいっていました。寺町の御所のまえ、新島会館あたりに、文化会館という映画館があったと思うんです。日活ロマンポルノは、ぼくは全く観ていません。その頃には、もう、映画を観ることも無くなって、何をしてたのか、彼女ができて、デートを重ねていた頃かもしれません。

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ぼくが高校を卒業したのが1965年、大学に入学したのが1968年です。そのころぼくは高校卒業と同時に十字屋楽器店の技術部に就職しました。ここで二年間勤めて、大学へ行くために、一年、浪人することになりました。東京のほうの大学で、学園紛争が起こっているのが、新聞で読んでいました。ぼくには遠いところの出来事で、仕事は、当時ヤマハから発売されていたエレクトーンの調整と修理。まだ技術屋がいなくて、ヤマハ公認の技術屋三番をいただきました。大阪の心斎橋にあったヤマハの大阪支店に三か月お世話になりました。中学の時から吹奏楽部で、クラリネットをやっていて、高校になって二年目に吹奏楽部を創設し、指揮をしていました。そんな流れで、大学進学を断念し、就職することにして、十字屋楽器店を紹介してもらったのです。そのころには、音楽よりも文学に興味を持ち出し、高校の時に、部員ではなかったけれど、文芸部にも関係していて、詩集を出したり、散文を書いたりしておりました。二十歳頃には、小説家を目指すようになっていました。

音楽の仕事を辞めて、ストレートに大学に入れるかと思ったのですが、そんなに甘くはなくて、どこの大学にも合格しませんでした。一年浪人して、早稲田と同志社それに立命館、いずれも文学部でした。でも、受かったのは立命館の二部でした。東京への憧れもあったし、気持ちとしては東京の大学へ入学したかったんですが、生活費だけではなくて学費まで自分で賄うとなると、やっていけないこと明白だったので、仕事をしながら大学に通うということで、学費が払える、と安堵しました。文学部人文学科、これが入学した学部学科です。小説家を目指していたとはいっても、その足掛かりさえありませんでしたが、どこかの同人誌を出しているグループに入ったらいい、と誰かから教えてもらい、大阪文学の会でしたか、会員にはなれなくで、でも例会には出席できることができました。でも、例会に出席するほどには文章が書けていなかったので、出席はしませんでした。

大学生になった年には、もう学園紛争があちこちで勃発していて、京都の大学も多分に洩れず学校内は騒然とした雰囲気でした。立命館の主流は民青でしたし、ぼくもそれに近いところにいて、入学しましたが、そこの同盟員にはならなくて、ノンセクトでした。三派全学連がマスコミによく取り上げられていたし、月刊雑誌でもそれを煽るようなのがありました。ぼくの気持ちは運動に傾斜していきます。同じクラスの学友は、三年遅れで大学生になったぼくは、年上になり、兄貴のような関係になりました。煽ったわけではありませんが、若いクラスメートは、クラス闘争会議を立ち上げたとの話を聞きました。クラスの闘争会議が連合して全学共闘会議になるのですが、民青系ではなくて、のほうになります。学校では、学友会のメンバーに嫌がらせを受けました。地域のほうからも説得に来られて、なにやら議論した記憶があります。まあ、硬派の方のはなしですが、そのあと、1969年の春先に、東京勤務になって、1年に満ちませんでしたが国際反戦ディの10.21まで東京住まいをしておりました。

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1969年という年は、ぼくにとっての貴重な体験があった年です。その前の年から大学のなかは騒然としてきていましたが、年が明けて1969年早々から、学生集団と大学当局とが、?み合わない事態に至ってきていて、学生集団のほうは、70年安保粉砕を叫んでいたから、解決のしようがなかった。東京大学では、安田講堂がバリケード封鎖されていました。神田やお茶の水界隈ではバリケード封鎖という事態に、機動隊が排除に乗り出していました。京都では、百万遍から京大農学部までの今出川通りが、バリケード封鎖される事態が起きました。ぼくの勤めだした出版社が、京大北門前、知恩寺の横にあったので、バリケード封鎖騒ぎは、目の前で目撃しています。バリケード封鎖して、火炎瓶が投げられ、炎と黒煙があがります。報道カメラマンがバリケードの外から一斉に撮影し、それが終わると、機動隊が出てきて、机や椅子を積んだバリケードを退けにかかります。騒然としたバリケードの内と外、ぼくは内側にいましたけれど、勤め人でしたから背広を着ていました。ええ、機動隊が、大学の承認なしに、大学構内へ突入してきたのです。ぼくは大学の構内に入っていて、機動隊が学生を追いかけていくのを見ておりました。機動隊員に頬をなぐられましたが、連行され逮捕されてはいません。京都もさることながら東京では、東大安田講堂の攻防戦が起こっていて、京都にいて、その模様はテレビのニュース、実況していたのかも知れません。その顛末を見ておりました。そうして1月19日、安田講堂は陥落しました。

渋谷の道玄坂にはラブホテルがある、と教えてもらって、彼女ができたので、その界隈へいきまして、ラブホテルへしけこみました。宿泊のつもりでしたので、たっぷり、愛しあえるなぁ、と思います。久しぶりのセックスです。もう、ぼくは、彼女の洋服を脱がせるのに、待ちきれないくらいに、せっかちになっていました。洋館のホテルで、ルームも洋風です。大きなベッドがあり、その壁面は横引のカーテンで閉められています。カーテンを開くと、鏡です。ぼくは、少し開いて、鏡だとわかって、閉めました。ベッドの横、床はカーペット敷で、丸いテーブルに背凭れの椅子が二客あります。そこに座って、向きあって、いじくりあうのも、ありなのです。
「どうするの、わたし、はやく、脱がしてよ」
彼女は、ぼくに洋服を脱がして欲しいとでも言うように、ふるまってきます。ぼくは、もう、声がうわずっている感じで、彼女が身に着けているモノを、抱きながら、キッスしながら、脱がしていきます。
「ぼくも、脱ぐから」
そうです、彼女が下着だけにしたときには、ぼくはシャツとブリーフだけの姿です。壁際に大きな鏡があって、ルームのなかが映っています。ぼくと彼女の姿も、映りこんでいます。
「あん、いやん、いやよ、ああん」
シュミーズを脱がして、乳房を隠しているブラジャーを外そうとすると、彼女が、こころもち抵抗してきます。でも、それは身からはずして、手をあて、乳房を隠すのです。パンティだけになった彼女は、ぷっくら、ふくよか、白い肌、ぼくは、抱きしめます。ぼくも、ブリーフだけの裸なので、肌と肌が密着です。

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ぼくのなかには、硬派と軟派が混在しているんだと思っています。世の中のこと、騒然となっていて、機動隊とぶつかりながら、デモの隊列のなかの一人としている自分と、あるときは、彼女とラブホテルで心と体を癒します。彼女は温かい身体です。男のモノを女の其処に挿し込んで、セックスします。道玄坂のラブホテル、彼女とふたり、泊まり込みで真夜中まで、セックスに励みます。翌日の、お昼の前に、チェックアウトしました。ラブホテルでの出来事をもう少し詳しく書いておきます。
「わたし、いいのよ、とってもい気持ちになりたいのよ」
彼女は、まだ二十歳の大学生でした。道玄坂のラブホテルの名前は、ゲンジホテルといいました。三階建ての洋風の館で、いかにもラブラブで、王子様、お姫様、という感じで、明るく振る舞えるルームです。着ているもんをひとつひとつ脱ぎあいながら、全裸になってベッドの上です。
「ねぇ、いいから、わたしを、抱いてほしいのに、ああん」
ぼくは仰向いて寝た彼女の足の方に座っていて、彼女の股を鑑賞します。太腿をひろげさせ、膝を立てさせ、ただ、何もしないで鑑賞というわけにもいかないので、ぷっくら膨らんだ乳房を弄ってあげながら、股の縦になった唇を弄ってあげながら、いつも感じさせてその気にさせて、夢のなかへ誘ってあげるのです。
「あん、ああん、だめ、そこ、ああん」
全裸で仰向き寝そべっているいる彼女が、甘ったるい、うわずった声を洩らします。ぼくは、乳房をもみもみ、乳首をつまんでひねってあげて、もう一方の手ではお臍のしたからアンダーヘアーをまさぐります。股間の柔らかい処を、かるく揉みほぐし、うちがわへ指をいれ、ぬるぬるに濡れている処を、こすってあげるのです。ぼくは、そこを観ています。じっくり、たっぷり、観てあげます。彼女は、くねくねと、よがります。

ぼくが仰向いて、足をひろげて、寝そべります。彼女は、ぼくの腰の横におんな座りして、ぼくの腰に顔を下ろします。ぼくはもう勃起状態で、ビンビンになっています。彼女が、ぼくのモノを右手でかるく握ってきます。左手で、ぼくの股のふくらんだタマタマを、手中にします。ぎゅっと右手を下ろして、先っちょに唇をつけてくれます。彼女の唇は、濡れていて、それに先っちょを挟んで顔を下ろすのです。彼女の咥内に、ぼくの勃起したモノが挿し込まれます。ぼくは、その感触で、余計にいきりたたせてしまいます。握ってくれている右手を、上下にうごかし、しごいてくれます。先っちょを唇からぬいて、彼女は、うっとり、ぼくのモノをながめています。
「うん、ああ、おっきい、かたい、うううん、やわらかいのね」
彼女が声を洩らしてきます。
「ああ、いい、いいきもち、いいよ、ああっ」
ぼくが、しごいてくれているのを見て、彼女の乳房へ左手をおきます。ぷっくらのおっぱいを、まさぐってやります。
「ああん、いれたい、いれてもいい?、ねっ、いれてほしい」
彼女は、大胆にも、ぼくの腰にまたがってきます。彼女の処に、ぼくのモノを挿し込むのです。またぐときに、ぼくのモノを真ん中にあてがい、ぼくの先っちょで、いれるところを探して、ぶすっ、と挿し込み、そのまま、お尻をおろしてしまうのです。ぼくは、そこがヌルヌル、ヌメる感触に、気持ちいい。彼女は、ぼくのモノを根元まで、挿し込み、上半身をぼくにかぶせてきて、ぼくの顔を撫ぜ、ぼくの唇に唇をかぶせてして、そのまま、お尻を左右に、小刻みに、揺するのです。ぼくは、感動です。彼女に抱かれている感覚、抱いているというより、抱かれている感覚です。それにもまして、ぼくのモノが、きっちり、彼女の股の真ん中に、挿し込まれているので、もう、ヌルヌルです。

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東京での生活は、想像していたほど優しくはなくて、生活費も厳しいものでした。小説を書こうと思っていたのに、それどころではなくて、出版社に勤めて、編集の仕事に憧れていたけれど、職種は運転手。出版した本を、取次へ納本する役目が主でした。といってもまだ素人なぼくに、免許証をもっていない先輩が、同乗してくれて、神田へ、ニコライ堂が見える取次店の納品場へ、順番を待ちながら、時間を過ごすのでした。仕事の時間は八時間、ぼくらは、労働組合をつくるべく画策しました。もちろん秘密裏に、ことをすすめるために、出版労連の事務所へ赴いたり、印刷労連の事務所を訪ねていったりして、労組結成工作を企みました。単独組合ではなくて、労連の支部、という形で、すすめていくのでした。紅(くれない)分会という名前で、会社との交渉には、労連の運動員が臨席してくれるという手配です。ぼくは、結局、労組旗揚げのまえに、退職を決断して、東京での生活をあきらめ、京都へと戻ることにしたのです。ぼくには労働して生活費を稼ぐ能力がありませんでしたから、京都へ戻って、住むところはあったので、家賃はいりませんでした。新聞の求人欄で探していると、スーパーの西友がオープンして、その店舗に入ってる電気販売店が社員を募集していたので、応募したところ、運転免許証を持っているというので、配送の運転手に採用となりました。運転免許証は高校三年のときに、母親が、大学進学のお金は出せないから免許証取得の費用は出してやる、というので夏休みに教習所へ通って取得したところです。家電の販売で洗濯機とかが売れ筋で、配達に行くのです。なにかしら未来につながらないとの気持ちがあって、給料をもらう前に辞めてしまいました。

1969年10月21日は、国際反戦デーで、学生運動の流れで、東京は新宿界隈ではデモ隊があばれ、機動隊が鎮圧するということが起こりました。ぼくは、明治公園出発でべ平連のデモがあるというので、そちらの方へ行きました。数千人の規模のデモ隊で、紙切れが手渡されてきました。警察へ連行された時の対処の仕方が書かれていて、黙秘する、そこにかかれている連絡先だけを告げる、というものでした。その日の東京は、朝から交通規制がおこなわれていて、デモに供えて、都心の辻辻に機動隊員が警戒に当たっていました。ぼくが参加したデモが出発するころ、新宿では大変なことが起こっている、という話しが伝わってきました。ぼくが参加のデモ隊にもヘルメットをかぶった一群がいました。機動隊も来ていました。明治公園から水道橋までのデモ行進、そこで流れ解散です。デモには女子も沢山参加していたように思います。手を握りあったのは四人一列の横にいらした女子でした。会話はしませんが、連帯している気持ちで心丈夫でした。水道橋まで来て、デモ隊は渦巻きデモになりました。機動隊の装甲車からマイクで、デモを止めなさい、との警告が何度も発せられていました。ぼくは疲れたのを理由にデモ隊から離脱して、歩道橋にあがりました。その直後、機動隊がデモ隊へ突入してきて、揉めます。機動隊員がデモに参加者をごぼう抜きで、連行していくのを、ぼくは眼下に、まるで傍観者、見ておりました。

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自分のはなし-3-
 25~32 2021.11.20~2021.11.27


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初めてアンダーヘアーが写ったヌード写真集がでたのは、1991年だったか樋口可南子モデルで篠山紀信さんが撮った写真集でした。それまでとえば、アンダーヘアーつまり陰毛が見えるというのはご法度でした。性の開放は世界の潮流で、日本では世界に遅れること、どれくらいの年月があるのか。いやはや、いまもって、国内から出版、発信されるヌードには陰毛と性器にはモザイクまたはぼかしがはいって、見えないようにされているのが実情です。表現者として、この実情をどうとらえるか、ということは大きなテーマです。もちろん、避けて通ることができないとぼくは思っています。商品として出回っているから、業界があるんだと思っていますが、そのなかみについては、ぼくの知らないところです。そういうことでいえば、ぼくは、消費者にすぎない。生産する側ではありません。

2009年の日付があるので、その頃から、小説を、フィクションを書いてやろうと思いだして、ブログに文章を載せだしました。形式は新聞小説のウエブ版を想定し、内容はセックスの本番を描写することをメインにしました。写真や映像は撮らないから、文章は自分の文体で、様々な形式で書いてきました。どこから読んでも興奮を誘う、短編から中編小説だけど、全体として大河小説のような規模にしたいと思っていました。もちろん使う言葉が、猥雑な単語で、滑らかに読めるように工夫して、と思って何度も何度も同じような内容を繰り返すのでした。かなりの分量になったと思います。現在は中断していて、たぶんもう再開はしないだろうと思っていますが、これは、まだ、わかりません。自分の体力と精力が回復すれば、また、はじめるかもしれません。

それまでに、かなり大量の小説を読みました。置いている本屋さんと置いてない本屋さんがあるけれど、フランス文庫、幻冬舎アウトロー文庫、河出書房新社のシリーズ、それから雑誌のバックナンバーから探して、読み漁り、大体の感覚をつかんで、それよりもエロスな表現を模索してみようと思って、かなりリアルに、ロマンティックに、自称リアルロマン小説と呼んで表現しています。ライブドアのブログがアダルトに対応してくれているので、中期以降はライブドアのブログで連載しています。いま「えろす」という表題のブログに、これまでの文章をまとめている最中です。何度か忠告をうけ、ブログを閉鎖されたことも多々あります。写真が引っかかったのだと思いますが、最近では自主規制しているところです。写真は、ネットからダウンロードさせてもらって、使わせてもらっていて、ぼく自身が撮った写真は一枚もありません。

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金沢にハントンライスというのがあって、という話しを見たことがあって、お昼にそのハントンライスなるものを食べました。チキンライスのうえにフライがのっている、といえばいいのか、これが金沢名物だというのです。食べ物のことでいえば、ぼくは俗にいうグルメ族ではありません。なるべく安くて美味しいもん、というのが頭にあって、でも、安物買いの銭失い、みたいなことにならないように、と思いながらも、そういうこともありました。でも、安くて美味しい、というのでなけてば商売が成り立たない、というのもあるみたいで、全国展開のチェーン店で食べると、それなりに美味しく食べられます。ぼくは、高級な、料理は、あまり、なじみがないので、いつも安い方へとなびきます。洋食ならファミレスでいいし、寿司なら100円回転すしでいいと思っています。若いころにはお金をもたなくて、食事にお金をかけることができなくて、それがそのまま今に続いている、と思っています。

結婚前にはラブホテルを使ったことがありました。二時間いくらのラブホテル、それから宿泊でセックスしたラブホテル。その後、彼女の三畳一間の下宿で、セックス三昧を繰り返したことを思い出します。男と女というのは、そういうセックスをするという関係になって、そこに言い知れぬ愛が芽生えるのだと思います。ぼくの体験は、彼女だけです、他にはありません。たまたま、うまいぐあいに、二十歳をすぎたころに彼女が応じてくれて、深い関係になっていきます。初めてキスしてからラブホテルへ行くようになるまで、3年ほどの時間がありました。若いから体力がある、といってもそんなに強い方ではないと思うけど、それなりに男を果たすことができたかなぁ、と思っています。抱きあって、結合させて、重なりあって、弄りあって、快感を得ていく過程には、なんともいえない快感の快感です。でも、それだけでは物足らなくて、もうその頃にはビデオの時代でしたから、レンタルビデオして、見ながら興奮するということもありました。性欲旺盛だったのかも知れません。

小学生の高学年、5年生の頃でしょうか、その頃、ひとり密かに奇譚クラブに載った縛り絵や小説を読んでいました。中学生になると、吹奏楽に熱中して、その方へはいかなかったけれど、もっぱら自慰していたとは思います。だれにも言われないのに、自慰することを覚えたとは、何なんでしょうね。性教育は受けたことありませんが、性のことを特集した雑誌の付録を読みました。男の性器は、男だから見ていますが、女の性器は見たことがありません。見たい欲望というか願望がありました。温泉場で売られているモノクロ写真を見たことがありました。性器結合している図で、女の顔は写っていますが男の顔は隠されている、ナマの結合しているところが見れました。でも巷の雑誌の裸写真を見ても、そこのところはぼかしてあるから、絵解きされた図で知るしかありません。ぼくはマニアックに女性器の絵解きを細部まで見ておりました。二十歳ごろになって彼女の性器を見ることができるようになって、初めて、観察するように、クンニするのでまじかに見ることができました。その彼女とは結婚するようになるので、結局、ぼくのナマを見る体験は、彼女だけです。

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もう二十歳を越えたころ、同伴喫茶へ行くようになりました。冬になると寒いから、デートするときは喫茶店、音楽喫茶というのがあって、ここへ入るとクラシック音楽を聴くのだけれど、おしゃべりができません。木屋町三条下がったところにあった同伴喫茶はボックス型で120㎝×90㎝ほどのスペースで、二人掛けの背凭れ椅子があり、前に幅30㎝ほどのテーブルが備え付けてありました。ボックスの右側が半分開かれていて、通路からは覗き込まないとなかは見えないようになっていました。そこへ行くのは何が目的か、といえば彼女と愛を交わすのが目的ですが、狭いから、見えるから、性器を接合させるところまではいけなくて、まさぐりあうところまでです。まさぐりあうというのは、性器をまさぐりあうということで、ぼくは彼女の性器を弄ります。彼女はぼくの性器を弄ります。弄りあって、放心してきて、彼女はヌレヌレにしてしまって、ぼくは射精してしまうのでした。彼女はフレアスカートを穿いていて、ストッキングを穿いていて、ショーツを穿いていました。ぼくはズボンでパンツ、ズボンを降ろさなくてもジッパーを下ろし、パンツの前をひらいてしまうと、性器を露出させることができます。彼女はストッキングを脱ぎ、ショーツを脱いでしまって、腰からしたはすっぽんになります。フレアスカートで膝下まで隠せるから、覗き見られてもすっぽんであることはわかりません。

窮屈な姿勢ですが、彼女が左、ぼくが右、少し腰を横に向けあい、開かれたところを背中にして、彼女を隠すようにして、彼女にはぼくの腰へ顔を下ろさせ、剥きださせた性器を咥えてもらうのです。ぼくは、そんな彼女の股へ、右手を入れ、スカートで隠したまま、股間を弄るのです。彼女の股間が濡れてきて、指にヌルヌルがまつわりついてきます。ぼくの性器はビンビンにいきりたってきます。彼女は顔を上げたり下ろしたり、微妙に唇でおとこの性器をはさんで、こすって、いっそういきりたたせてくるんです。彼女は彼女で、股をひらいて、ぼくの指でまさぐられるのを、心良しとしているようで、声をださずにこらえています。ここでは交合するほどの広さがないので、ぼくの射精を咥内で受けとめ、ティッシュで拭いてくれるところで、終わりです。そのあとは、左腕を彼女の肩にまわし、右腕をさしだし、右手で彼女の右太腿から右膝を愛撫しながら、奥へ手を伸ばして真ん中をいじってやるのです。膝下までのフレアスカートだから、大半は隠すことができて、入口に背中を向けたぼくの前には、抱かれた彼女が性器を弄られ、キッスされ、喘いでくるのでした。ぼくは男で射精すれば醒めるんですが、彼女はイキきることはなく、いつまでの生煮えで中途半端で置かれるのでした。

別の同伴喫茶では、ボックス型ではなくて、頭が隠れるほどの高さの二人掛け背凭れ椅子が、列車の座席のごとく並んでいました。薄暗い店内でジャスの音楽がかなりのボリュームで流されていて、座敷に案内されて座ると、横は全開放なのに、ほぼ個室のような感じになります。横に座ったまま、抱きあって、キッスして、まさぐりあうのですが、裸になることはありません。でも、無理したら向きあって抱きあうことができる前後の幅です。ロングのフレアスカートを穿いた彼女は、ストッキングを脱ぎ、パンティを脱いでしまって、ぼくはズボンを膝まで下ろして、彼女がぼくの腰にまたがり、すっぽりフレアスカートで隠してくれて、勃起するぼくの性器を、またいで彼女の性器へ、挿入するのです。はげしい動きはできませんが、はめこんだまま、ぎゅっと力をいれて、感じさせ、ぎゅっと力をこめてきて、締めてくれます。もう、ぬるぬる、べちゃべちゃ、たぶん、薄暗くて、ジャズが流れて、ぼくたちの行為は、ほかでもやっているんじゃないかと、思えるのでした。これは冬物語で、春になると円山公園の奥へいって、ベンチに座って、いや、ぼくはベンチに仰向きに寝て、彼女が腰をまたいできて、接合、交合、交わって、感じ合うのでした。

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ぼくはノンセクト、ラジカルではなかったから、なんてゆうんだろう、ノンポリ、まあ、学生運動に興味があったけれど、やっぱり傍観者でしかなかったかなぁ、と思います。大学の会館がバリケード封鎖されたのは、1968年のことだったと思います。封鎖された会館へ入るのに、網のフェンスの一部が切られていて、そこからしゃがんで入ることができました。噂では、機動隊が封鎖解除するぞ、というのです。会館の中は、静謐なほどシーンとしていて、立て籠もっている学生の姿は、見なかった。夜の九時を過ぎていたと思います。ぼくは退出して自宅へもどりました。その夜の未明に機動隊が封鎖解除したというニュースを朝いちばんに聞きました。立て籠もっていた何人かが連行され逮捕されたというのです。ぼくは、連行されるのを免れたのでした。

そんなに乱れた生活を送っていたわけではありません。でも、映画を観たり、ジャズ喫茶に入り浸っていたり、そうじゃない、むしろ彼女と喫茶店で何時間も時間を過ごしておりました。大きな純喫茶で、何時間でもねばれる喫茶店で、そこでは抱きあったりはしません。ということはつきあいだしてまだそれほど時間が経っていなかったころだったかもしれません。そのうち、同伴喫茶に誘ったら、ついてきました。同伴喫茶にも種類があって、どちらかというと開放的な同伴喫茶、ボックスになっている閉鎖的な同伴喫茶、週に一回ほどの頻度で会って、同伴喫茶へ行くのでした。目的は、もちろん、男と女だから、抱きあうことです。抱きあって、すこしばかり、身体の部分をじかに触ることでした。触るところは、セックスの中心になるところ、男は竿、女は貝、触りだすころはもうしっとりどころかじゅくっと濡れているのでした。二十歳と二十一歳、成人になるまで控えておりました。

彼女がいるということは、誰にも言いませんでした。セックスする関係になっているなんて、誰にも言いませんでした。同伴喫茶へいって抱きあっていたときからすると、ラブホテルは密室だから、思う存分愛しあうことがでします。愛しあうとは、抱擁し、性器を交合させ、快感を共有することです。衣服を剥いで、剥がれて、裸になって、抱きあって、畳のうえに敷かれた布団の上、あるときはベッドの上で抱きあい、舐めあい、キッスして、愛液をすすって、そのときには何の不安もなく、最高の幸福感を得ていたと思います。まだコンドームを使うなんて考えなかったし、それを手に入れる、つまり薬局で買う、ということも思いつかなくて、射精寸前になると抜き去って、外だしするのでした。彼女が、下宿から三畳一間ですがアパートへ移転してからというもの、ラブホテルへ行って行為するというより、三畳の狭い部屋で、彼女が寝起きしている布団の上で、たっぷり、思う存分に、絡み合い、愛欲のまま、ときをすごすのでした。

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御土居が潰されて宅地になったのは、いつごろだったか、昭和の30年代だったかも知れません。洛中と洛外に分ける土塁があって、ぼくの家は洛中の側にあります。御土居は子供の遊び場で、土塁の上を走り回ったり、洞穴を掘って、そこに潜んでいたりして、奴隷ごっことかされたものです。近所には女子も沢山いて、ぼくはどちらかというとそれら年上の女の子と遊んでもらうのが、楽しかったのを覚えています。子供がしゃがんで入れるくらいの洞穴へ、奴隷がつながれます。年上の男の子が、パンツを脱がした奴隷を、弄ったりして苛めるのでした。小学生一年か二年生のころで、まだ慎重100㎝にも満たなかったころです。パンツを脱がされると、やっぱり恥ずかしい気持ちがわいてきたのを覚えています。まだちっちゃなおちんちんを見せるのですが、奴隷はほんとに泣き出しそうでした。

そのころ、身の回りの生活道具といえば、記憶の中で思い起こせば、ごはんを炊くのにおくどさんに羽釜をのせて、薪を燃やしていた光景がよみがえります。洗濯はたらいに入れた衣服を洗濯板にのせ、固形石鹸をつけて、ごしごし洗っていました。女はしゃがんで、膝をひろげて洗っていました。水道は長屋でひとつ、共同水道で、トイレは汲み取り式で、トラックがきて作業員さんが天秤に桶に汲み取り、集めていきました。家の中、部屋を明るくする電気は電球でした。そのうち、便利な生活が始まってきて、瞬間湯沸かし器、電気釜、蛍光灯、テレビが家に来たのはオリンピックの頃、ぼくはもう高校生でした。いまやむかし、そんな光景が脳裏にちらつきながら、現在、パソコンに向かってこの手記を書いています。

祖母がいて、叔母がいて、ぼくは長男だったから、祖母叔母にかわいがられたと思っています。祖母はカタカナしか書けませんでした。家に手機が置かれていて、西陣織、手機でばったんばったん、やっておりました。叔母は、自転車に乗って織物工場へ織子で働いていました。お給料の日には、ぼくだけに板チョコレートを買ってきてくれました。繁華街の千本へ連れていってくれて、東映の映画を一緒に見ました。スター食堂へ連れて入ってくれて、Bランチを食べさせてもらいました。西陣の北西の果ての四軒長屋のひとつに、ぼくらの家族四人と祖母叔母、六人が生活していました。織子をやめた祖母は、父が面倒をみながら駄菓子屋をはじめます。駄菓子、当てもん、当てもんの当たり券は別になっていて、そこそこ残り少なくなってくると、当たり券を混ぜるのでした。

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性欲が盛んな年齢といえば、ぼくの場合、二十歳のころだと思います。もちろん17歳、高校生の頃というのも、性欲が盛り上がってきて、我慢できなくて、自慰します。発射する時瞬間の、痛いような締めつけられるような感覚が、たまらなく快感なのです。一日に一回とはかぎりません、二回、三回と自慰したこともありました。ナルシズム、ナルシスト、そんな感覚で、自分の身体をいたわってあげるのです。その当時は、まだ彼女とナマな行為はなくて、もっぱら一人で処理するだけです。山へハイキングに行って、途中で休憩をしていて、ぼくの隣に彼女が座って、なにを話していたのか、わすれていますが、ぼくは、勃起した自分のモノを、ズボンのなかから取り出し、見せたのでした。彼女は、驚いたと思います。ぼくはまだ彼女のモノを見ていませんでした。その日、山から下りてきたぼくたちは、公園の屋根付き休憩所のベンチに座りました。そっと抱きあい、そうしてぼくは、彼女が身に着けていたブラウスのボタンをひとつ外して、手をさし入れ、ブラジャーの上部から、乳房を手の平で包みました。彼女はなされるがままに、キッスに応じ、乳房を触られ、それからぼくは大胆に、スカートの奥へ手をいれるのでした。

抱かれていたぼくが腰を横にずらし、彼女の頭をうつむけにさせました。ぼくの勃起したモノを露出し、彼女に咥えるようにさせます。彼女は、従順にも、ぼくの勃起するモノを、唇にはさみ、咥内へ咥えてくれたのです。「吸って」と囁くと、彼女はじゅるっと吸って、柔らかい頭のところを唇で搾ってくれて、咥内へそのまま咥えこんでくれたのです。ぼくが右、彼女が左、ぼくは左腕で彼女の肩を抱き、右手で彼女のからだを、弄ります。彼女には、左の手指で、ぼくの勃起するモノの茎をにぎらせ、そのうえにぼくの右手をのせて、上下に動かさせ、扱くように仕向けたのです。二回目からは、この動作をしてくれるようになり、射精するスペルマを咥内でうけとめ、さすがに呑み込みはしなくて、ティッシュにとるのでした。男と女の関係が、ここまで来てしまって、結合は、もうまもなく、です。ラブホテルのなかへ入ったのは、蒸し暑い日の夜でした。初めて、彼女は、ぼくの前で、股を、ひろげ、ぼくの、勃起したモノを、受け入れたのでした。初めての彼女は、男の勃起モノを始めて挿し込まれだして、痛い、痛い、というので、それでもゆっくり、奥まで挿し込んだところで、ピストンはしなくて、終わりにしました。

ラブホテルの扉を開くというのは、恥ずかしさもあり、勇気がいりました。同伴喫茶は、何度か行くと慣れてしまいましたが、ラブホテルは、いつも何かしらの抵抗がありました。でも、扉を押して、中に入って、受付で係のひとからルーム番号を告げられ、ルームに入るとドアにロックしてしまうのでした。畳のうえの布団の側面、ベッドのうえの側面、いずれも横長の鏡が張られてありました。マジックミラーだったのかも知れません。鏡に映るぼくと彼女の裸体すがたを、ぼくはちらちら見ながら、それから座って、ぼくの前に彼女を座らせ、うしろから抱いて、手を前にまわして、彼女の乳房をまさぐり、膝を立てさせ、太腿を広げさせ、鏡に近づけさせ、彼女の上半身を反り返らさせて、股間を鏡にアップで映し出し、後ろからの手指で、そこをまさぐってやるのです。そのうち、向きあって、抱きあって、男のモノを、女の処へ挿し込んだまま、ほぼ静止状態で、ぼくは、腰を微妙に動かし、モノに力をこめてやると、彼女は、それがわかるらしく、はぁああ、っと呻きます。ぼくは、腰を左右にゆすります。お尻を前後にうごかします。男のモノが、女の処を擦る、こすってやると、ヌルヌルの愛液が、彼女の処から流れ出てくるんです。そうしてぼくたちは抱き合ったまま、外だしで果ててしまうのでした。

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表向きは硬派できていますが、内向きは軟派だと思っています。誰だって表と裏があると思うけど、建前と本音、人間って罪深い生き物だと思うんですよね。SMに興味を示すというのは、異常な領域だと思っていましたけれど、近年は決してそうではないと思えるようになっています。ぼくの場合だと、子供の頃に、奇譚クラブとか風俗草紙とか、そういった類の雑誌を読んだところから、始まっていて、浮き沈みはあるというものの、この歳になっても、興味が尽きないところです。ぼくの場合は、妄想でしかなくて、SMの現場に立ち会ったわけではなく、現場を作ったというわけでもなくて、雑誌やビデオや配信動画で観て妄想に耽るだけのことなのです。愛好家というほどでもないし、異常性欲者というほどでもない、でも興味あり、というところでしょうか。

ええ、性生活はいたってノーマルなものです。新婚当初は毎日、毎日、性交しておりました。そのうち性交しない日があり、次第に遠のくようになり、俗にいう普通の夫婦なんだと思います。それからノーマルな性戯では物足らなくなる、ということだと思います。玩具というのがある、あるある、新宿には、大人の玩具を専門に扱う店がありました。男根の形をしたバイブレーターを密かに買ってきました。試してみたら、刺激がきつすぎるのか、嫌がりました。だから振動させないで、挿入してやり、抜いてやり、生身の代わりをさせるようになりました。男の持続時間では、女の絶頂へは至らせなくなり、途中で身代わりを使いまして、最後にアクメへ昇らせるときは生身の勃起モノを使ってやるのでした。いつのころからか、男根に似たモノを自作するようになります。丹念にそういう形にして、市販品ではない代物で、きっちり抜けないように固定する紐までつけるのでした。

ハンス・ベルメールとか、ピエール・モリニエとか、シュールリアリズム系の作家たちからの影響もあったのだと思います。ロバート・メイプルソープはぼくと同い年ですが、彼の深度には、もうくらくら、めまいを覚えました。アルバイトでしたが、ブライダルのビデオカメラマンをいたしておりました。そのうちビデオカメラと録画機を下取りさせてもらって、自分たちの行為を撮るようになります。自撮りというのでしょう、自分で撮って、モニターで観る。そういうことを密かにやりだしました。スイートルームと名付けたビデオシリーズを制作していきました。1980年代の初め頃のことです。それから10年が過ぎて1990年半ばには、スイートルームを再開させまして、ビデオ収録していきます。まだネット社会が到来する前のことで、いまなら、そういう映像はネットの中にいくらでもある、ええ、もう、無修正の性交の動画が、見れるのですから。

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小学生のころによく遊んだ児童公園ですが、その頃には細かった木が、今はとっても太くなって、大きくなって、秋になると紅葉して落葉します。生まれた処に育って、今もその処に居住していて、いわばふるさとと生活の根拠地が同じなわけです。ふるさとは遠くにありておもうもの、と室生犀星が書ているけれど、そのことでいえば、ぼくにはふるさとがない、ということで、むしろこれは喜ばしいことなのだ、と思います。でも、子供の頃の出来事を思うと、自分にとっては、この場所が忌み嫌う場所でもあるのです。二十歳くらいまでは、ここから離れたい、離れたい、と思っていて、行先は東京でした。当時の風潮が、東京へ出よう、みたいな観念があって、その風潮に自分ものっかっていたのだと思っています。実際に、二十歳を過ぎて、小さな出版社に職を得て、東京勤務を希望して、東京は本郷にあるその出版社の社員となって、その近くに住むことになりました。一年未満ですが、生活できる自信がなくて、生まれ育った京都へ、実家のある場所へ、戻ってきたのでした。

ここまで、とりとめなく、思いつくままに、文章を連ねてきました。まるで迷路へ導くような反理路整然、文章作法といえば起承転結、しっかりまっすぐに根をおろさせていく、ということかと思いますが、そうではない、迷路にして、気恥ずかしい自分の内側の気持ちを、表しておきたいと考えているのです。齢75歳、もう高齢者、年寄、おじいさん、バスに乗って立ってたら、若い女子さんが席を譲ってくれます。ありがとう、ぼくが年寄だとわかるのかなぁ、帽子かぶってマスクしてるのに、年寄ってわかるんだなぁ、それはそれで従順になって、席に座らせていただきます。でも、蓮如さんが年老いて若い女に子供を産ませて、なんて話がありますが、すごいな、嫁脅しの面、それかぶって脅したのかなぁ、なんて吉崎御坊を訪ねた時には、ある種の感動を覚えました。

ここまで、また、あらためて、自伝のようなフィクションを書いていこうと思っています。ここ最近、体調がいい感じなので、けっこう文章が書けるんです。では、また、お会いしましょう、さようなら。

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自分のはなし-2-
 13~24 2021.10.26~2021.11.19

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府立植物園に芝生の広場があります。だだっぴろい芝生で車座というかたち、円になって座り込むんです。高校1年生になって、JRC、青少年赤十字のクラブに誘われて、はいりました。圧倒的に女子生徒が多かったと思います。それにほかの高校の生徒との交流会というのか、ままあったようにも思えます。ほかの高校は、女子高校で、女子ばっかりという具合です。普段は制服で来ている女子が、植物園のときは私服できていました。直径10mほどの車座になって、なにかゲームしているんですが、女子が立ち上がるんです。そのころの女子って、スカートの下はパンティ一枚でした。いや、立ち上がるときに、スカートがめくれて、パンティが見える、16歳の女子は、見られることも意識していたのか、フリルのついた白か薄い桃色のパンティ、それが見えるんです。とっても新鮮でした、その記憶が思いだされます。

青少年赤十字の京都本部へたびたび行くことがありました。ほかの高校の男子でアマチュア無線の免許をもっている男子がいて、無線室から電波を飛ばす、交信するという現場をみせてくれました。ぼくは、小学校の6年だったかにアマ無線免許を取りたいと思って本を読んで勉強していました。受験を申し込み、受験票をもらったけれど、受験はしませんでした。で、その夢にまで描いていたアマ無線交信の現場、本格的な無線機器の前にすわって、電源をいれて、コールしてもらいました。交信あいてはでてきませんでしたが、とんでもない体験をさせてもらいました。夏がおわって、秋になったころに、ぼくはJRCのメンバーを辞めます。理由はわかりません、いや、特定の女子を好きになったからかもしれません。鳴滝の駅での逢引きは、その年の秋か冬か、そのあたりですから。

まあ、ぼくは男子だから、興味の対象は女子です。でも男子として、男っぽさとかのレベルでいえば、決して男っぽい方ではなくて、むしろ女子的な感覚のほうが強かったかもしれません。男この子らしく振る舞う、当然のこととして、当たりまえのこととして、これ、意識して男らしく振る舞おうとするわけです。男なんだから、と意識しながら男を振る舞う、無意識から意識へ、内面は誰にもわからない自分にしかわからない、でも自分にも、それがいったいなんなのか、ということもわからないまま、大人になってきたんです。家族は四人で、女が三人、男はぼくだけ、それから半世紀が過ぎますが、これでよかったと思っています。

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中学の入学式でブラスバンドの演奏がありました。入学する中学校のブラスバンド、生演奏で聴くなんて。たぶん、生まれて初めてではなかったかと思います。ものすごい感動、からだが奮い立つ感じで、驚異の目で見たのだと思います。学校が始まって、音楽の最初の時間に、吹奏楽部に入りたい人はいるかとの話があり、ぼくは、もう無我夢中で、手をあげたと思います。吹奏楽部の先生は寺本先生、ぼくの音楽の先生は河村先生。その後の経緯は思いだせませんが、クラリネットを吹くことになって、先輩を紹介してもらいます。先輩の名前は梅田さん男子です。学年ですごく勉強ができるひとで、でも小学校は同じなのに、知りませんでした。クラリネット、ぴ~っという音しかでない。クラリネットの音が出るまで、どれくらいかかったのか、でも、虜になった、クラリネットを吹くことの虜になりました。

小学生のころから、音感はよかったのだと思います。学芸会とか学習発表会とか年に何度か舞台に立つことがありましたけど、たいがい音楽の合奏で、主役だったことを思い出します。まあ、劇はあんまり好きではなかったから、音楽でよかったと思いますが、才能とはいえないまでも音感はそれなりにあったのだと思います。ハーモニカがありました、ソロのところをやりました。木琴がありますが、舞台では鉄琴をすることになって、特別に練習をしていました。自分でも好きだったし、ハモニカとか小学生の割には上手に吹けたのだと思います。そんなことがかさなった小学生でしたが、中学校の入学式のブラスバンド演奏には、自分もやりたいと思うのは後ですが、とっても魅力に思い、音楽の授業で募集されたとき、手をあげたわけです。それから、中学生の音楽生活が始まったのです。

小学生の上級になると射精を経験していきます。オナニー、マスターベーション、呼び方いくつかありますが、これに没頭していきます。それから父が買って隠しておいたと思うんですが、和ダンスの引き出しの奥に、奇譚クラブ、風俗草紙をみつけて、熱心に読みささります。怪人二十面相とか、子供向きの書籍は、貸本屋さんで一冊10円で借りて来て、読んだと思います。そのあいまに、ひそかに、縛り絵、縛り小説を読んだとうのです。それに、自慰がくっつくわけですから、小学生としては、やっぱり特異な体験であったのかも知れません。エロ雑誌、エロ本は、ほとんど読んだ記憶はありません。学校から帰ってきて、ひとり二階の部屋にこもって、奇譚クラブを読み、江戸川乱歩を読み、オナニーに耽っていた少年でした。

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今年は西暦で2021年、和暦では令和3年、なんとなく書いてしまいますが2021年、ええっ、もう21世紀になって21年も過ぎてしまったんだ、と驚いてしまいます。だって、生まれたのが西暦1946年、昭和21年です。75年が過ぎてしまっている、ということは表向き75才ということです。まぎれもなく75才ですが、ついこの前まで、そんなに意識はしませんでしたが、体力、気力が、減退していること。締りがないというのは肉体だけではなくて精神も締まらない。気持ちとしては、情けない気持ちに満たされてきます。あまりはつらつとしないから余計に情けない気持ちになってくるんですね。ひと頃なら、ここからまたやり直しだ!とも言い聞かせて、前向いていろいろ画策してきたんです。それがそうはならないのが、現状なわけです。

現状の健康状態を記録してみます。自分で自分を測っているだけだから、医学的な根拠とか、そんなのはわかりませんが、後期高齢者という区分をされた自分ですが、ついこのまえまで年の割には健康体だと思っていました。まわり、ともだちを見てみると、たいがい身体にダメージをうけています。最近なら、死んだ人がいます。それでぼくは、同年輩で死んだ人のことばかり思い起こします。夜、尿意を覚えて起きてしまいます。1時間ごと、1時間半ごと、この10月はこのレベルで起きてしまうから、目覚めがわるい。ふっと目が覚めて、起きて、パソコンにスイッチ入れて、いろいろ作業を進めていた日々、文章を書いて書きまくった日々、撮った写真を整理しながらアルバムにしたりしていた日々。そんな日々のことを思い出すんですが、それが出来なくなったのがここ1か月のことです。

それなりに身体がボロボロになってきていて、ここで屈折点というか、大きく折れ曲がったのかと思います。脳梗塞とか心筋梗塞とか、直接のことはいまのところ起こっていませんが、内部的には、コレステロールが高かったり、肥満だったり、やばいんじゃないかと思っています。半身不随になるとか、車椅子生活になるとか、そういう事態になることもあるかもなぁ、と思いだしています。そこで、この機会に、健康管理に気をつけよう、食べ物に気を配ろう、塩分控えめ、コレステロールを少なくする、つまり食事改善に努めようと思ったところです。家族に頼る、これしかないわけで、他人さんに頼るわけにはいかない、現金財産があるわけではないから、施設に入居ということもできないではないか。

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回顧録というのか、自分の過去を振り返って、その過去のことを記述する。なんのために、そんなことをするのか。ぼくもそのことをやっている、ここのこれなんか、まさにそういうことをしているわけで、自分のためにやっている、ということです。自分がかかわったことで、人に知ってほしいと思う事柄を、自分にも知ってあげて、整理して、自分という存在を、後世に知ってもらいたい。まあ、そういったって、有名人じゃないんだから、こういうことしていても、死んだらそれまで、はい、さようなら、です。自分が、あんなことした、こんなことした、過去の実績を並べていって、自分の社会的存在を、定着させようなんて、そりゃ思うけど、それほどの人間じゃないから、やっぱり死んだらそこで終わり、ということでしょう。

だから死ぬまでに、自分のことをというか、自分の行為を、記憶のままに記述していくことを、そうやねぇ、セクシュアルにまつわる自分の行為を恥ずかしながら、記述していこうと思っているんです。先に、奇譚クラブという雑誌のことを書いたんですが、この雑誌、知る人ぞ知る雑誌でしょうね、ここ10年ほど前に、奇譚クラブの創刊から終わりまで、ページがデジタル化されていて、ネットで見れるんですね。データーベースです。これ発見してから、ぼくは、そこの挿画をダウンロードして、手元に保存しています。数量的には全体のそれほど多くはないですが、それを編集してブログにアップしたりしていました。ぼく自身ができることは、文章を書くことで、絵とか写真とか、作ることできません。なので、ダウンロードした挿画&写真を、ぼくの文章に組み込んで、作品としてきています。

でも、たぶん、もうフィクションを書かないと思っています。体力、気力、これがだんだんと年齢とともに減退してきて、想像力も減退です。自分の裏面史といえば、セクシュアルな領域で、人知れずアダルトフィクションをネット上で展開してきて、現在に至っています。メイプルソープって奴は、ぼくと同年齢で、アメリカで、ハードコアな場面を写真にしています。映画ならパートカラーの時代から日活ロマンポルノという表歴史とは別に、ブルーフィルムとか、アダルトビデオとか、いまならネットで見れる無修正映像とか、それにあう文章を書いてきたけれど、本音的には、映像には負ける、どうしても太刀打ちできない、文章で読ませる時代ではない、と思っているところです。

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平野神社の拝殿が出来上がっていました。三年前の台風で倒壊した拝殿でしたが、ようやく新築でしょうね、出来上がっていました。平野神社とぼくとは、直接にはなにも関係ありません。近くに住んでいるといっても、ここは平野〇〇町だし、ぼくの住むところは紫野だから、それほど近い地縁でもありません。でも、近年、桜を取材していて、平野神社の桜は、絵になるので毎年撮っておりました。子供の頃にしても、平野神社は遠い存在でした。むしろ北野天満宮が近い存在でした。北野天満宮、天神さんは遊び場でもあったけれど、毎月25の縁日が楽しみで、そのころにはテント張りの見世物小屋が出ていたり、香具師っていうのか、うまく人を集めて、まがいものを売りつける、その口上がおもしろくてじっと、じっとして見ていると、子供はあっちいけ、と言われたりするのでした。それもそのはず、桜になるおっさんと口上するおっさんが交代して、わけわからんものを売りつけるのでした。

透明ガラスの間に鳥の羽根が挟んであり、その代物を女の人にかざすと、その女の人が裸になる、つまり透視ガラスとなると言うのです。そこで円陣に集まった男たちの中の一人が、それを買うというのです。買った男は桜で、香具師仲間で、次にはその男が口上するわけです。インチキ、その透明羽根ガラスは20円だったかで売られていて、何人か、買っていたと思います。インチキといえば、たたき売りがありましたね、大学ノートを束ねて売っているんですが、たたき売りの口上で、おまけだ、おまけだ、と言いながら、大学ノートを重ねていくんですが、下の方の大学ノートがはずされてしまうんです。上乗せされた大学ノートは藁半紙みたいな粗悪なノートで、はずされたノートは普通の文房具屋さんで売ってる上質の紙なのでした。まあ、雑誌の紙もよく似たもんで粗悪とはいわないけれど、そんな紙に印刷されておりました。写真のページ、グラビアページは、白い艶紙で、裸の女子が縛られて、写っておりました。

神さまのお告げじゃ、なんて向上で、女子が縛られ、祭壇に飾られ、拝まれる、という絵物語には、子供ながらに興奮して、そこから妄想が始まるというわけです。それから、ぼくの家が和漢薬の店をやっていて、医学の指導書がありました。子供にはわからない内容なんだけど、つまり男女交合、セックスするときの絵解きです。女性器があり男性器があり、それの名称と、挿入されている図です。指導書とは避妊のやりかたで、避妊の方法が書かれていて、コンドーム、ペッサリー、それのどちらかを使う、装着の図でした。とくに女子の股の奥は見えないので、ていねいに図解してあって、子供といえども男子のぼくは、とても興奮した記憶があります。小学校5年生くらいだったかと思います。平野神社には広い草叢があって、よなよな、わかい男と女がそこで、セックスするんだと年上の男子が噂して、その草叢に残されたちり紙を探しにいく、探偵団をしたりしましたね。

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まだ20世紀のころ、ウインドウズ95が発売されたころ、大阪の北新地でしょうか、扇町公園の方へいく商店街に、アダルトな本屋が数件ありました。書店の名前は忘れたけれど、その書店の二階は、大人の本がいっぱい並んでおりました。そのころは心が病んでいたんだと思います。人知られずに、その書店の二階へあがり、単行本といっても女の裸の写真集を買い込んで、自宅に持ち帰り、書棚に並べておりました。主にはSM写真集でした。まだインターネットが始まったばかりの頃で、全くネットの中にアダルトサイトがあったのか、まだなかったのか、わからないけれど、パソコンをインターネットにつなぐことは、していませんでした。もっぱら書籍で、買い求めていました。その世界にはまっていくと、大人の玩具を扱う店があるのがわかって、ちらっとそんな店へはいって、電動の玩具を買ったりしました。フェチというのか、ちょっと変な癖、自分にもそんな癖があるのに気づいて、正々堂々と、人には言わなかったけれど、自分がそこに心の安定を求めているのだと悟りました。

そういえば1960年代の後半ごろ、パートカラー映画がありました。18歳未満お断りの映画で、モノクロ映画ですが、その女の裸のところがカラーになるという映画です。封切りではなくて二番三番の上映で、三本立てで料金100円だったと記憶しています。もう半世紀以上以前の話しなので、いまから思えば、たわいない、かったるい、映画だったと思います。御所の寺町通りに文化会館という映画館があり、そこへよく入った記憶があります。まだホームビデオがなかった時代だったと思います。8㎜フィルム、3分間の映画ですが、観にいったことがあります。どこかのアパートの一室で、数人が集められて、拝観料500円で、警察にばれたら、逮捕されるとかの噂の映画、モノクロの無声映画で、女の局部が無修正で見える代物です。いやはや、そのころって、密室の出来事ばかりです。映画そのものが暗いところでしか上映できないんだし、見るとすれば暗い部屋、密室になってしまいます。制作者の側に立ってみたいとの願望みたいなのもありました。

ビデオの時代になって、プライベートビデオを残しています。ビデオカメラが廉価になって、ソニーの八ミリビデオ、まだデジタルになるまえのビデオですが、1995年ころから数年間、プライベートビデオを密かに制作しておりました。性の道具を作っていました。あのシュールリアリストのハンス・ベルメールを真似たかの感じで、模造男根を密かに作っておりました。そのころ自分存在への抑圧を感じていて、抑圧される人格の、世間への抵抗として、自分の底辺を支えていたと思えます。性的に高揚をもよおすように、最高に性的興奮を疑似体験させるには、どんなものか、との思考でした。生に男と女が交合することが、最高の快感だとして、そのことをフィクションによってどこまで疑似体験できるか、究極のエロティシズム、これを自分ながらに追及してきたのです。

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1946年生まれだから、2021年の今年、満75歳になりました。満75歳以上は、後期高齢者という括りになって、これまでの健康保険とは別の枠組みになるのだそうです。詳しいことはわからない、要するに、もう世の中での不要の人物、厄介者、という扱いでしょうか。姨捨山ではないけれど、老人を大切に、とか老人に生きがいを、とかもう用済みの人間群に対して、敬意をもって生存させてくれるのかとおもいしや、そういうことではなくて、世の中の厄介者、ということだと思います。ぼくは生きています。どんな扱いされても、別に怒り散らす人ではなくて、労使関係の修羅場をくぐってきた経験とか、人を馬鹿にすることで蹴落とすという悪党に、さんざんやられてきたから、馬耳東風、知らん顔して、悠々自適で過ごしています。最近、腹の底から怒るということも、なくなっています。

ええ、75年も生きてきたんです。なんか真面目に生きてこなかった気がしています。なにもかも中途半端なまま、現代進行形です。金になる商売には向いていなくて、金から遠ざかることばかりしてきたと思います。お金をもらった仕事先というと十字屋楽器店で2年間、出版社で1年間、国家公務員で24年、専門学校で2年、インターメディウム研究所で5年、55歳でフリーになって、それから金儲けが出来ないまま、20年が過ぎていて、現在です。年金生活者ですが、年収200万円、妻と一緒なので日常の生活には困っていません。いやいや贅沢はしていません。食料品も値引きのモノを探して節約しています。金持ちじゃないです。現金はゼロではないですが、それほどありません。自由気ままに生きられてることに、感謝しています。

家族以外、なにもかも無くなったと思っていますが、唯一、現在、現代表演研究所と名付けた幽霊組織を運営しています。何人かのメンバーが、月二回のミーティングに参加していて、ネット時代の広報にしています。やっぱり、これは失うわけにはいかないと、現在、思っています。これこそぼくが批判する張りぼてそのモノだと思っていて、自己矛盾ですが、その矛盾も生きている証拠だと、悪びれることもなく受け入れています。ほんとうは、タブーになる領域を研究追及していきたいところですが、いいえ政治的な領域ではなくて、エロス的な領域の研究追及です。これも、もう、現在、感じるほどの身体ではなくなって、遠ざかっているところです。これまでにコレクションした写真、ペンネームを使って書き連ねたフィクション、これをネット上に残しておこうと、ブログにまとめているところです。

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いまなら、ネットのなかで性器を無修正でみることができますが、半世紀前のころは、それは見ることができませんでした。エロ雑誌がありましたが、性器のところは修正してありました。映像、当時は映画館で観る映画ですが、もちろん見ることなんてできません。おとこのぼくには興味津々、平凡社の百科事典があって、そのなかに図解された女性器があって、そのページを熱心に見て読んで、想像力をふくらませたものでした。高校生の年代になると、オナニーするのに妄想するわけです。まだ見たことのない女性器を想像しながら、しこしこして感じて射精して終わるわけです。彼女ができて、成年になって、初めて抱きあって、性交するわけですが、覚えていますよ、むし暑い日の夜、ラブホテルへ行きました。たぶんぎこちない振る舞いたったと想像しますが、正直言います、結婚する前でした。

もう少し遡って、記憶をたどると、中学生になって図書委員になりました。図書館にかわいい女子がいる、と年上の男子が噂しているのを聞いていて、そんなこともあって図書委員に立候補したのです。Sさん、二年先輩で、彼女は三年生でした。好きになったわけではなくて、半袖のブラウスを着たSさんの匂いに、女性の匂いを感じたし、教えてもらうのに頭がぐっと接近して、身体が近くになって、初めての女性に眩しさを感じました。脇の毛が見えました。脇の毛が生えているということは、恥丘にもそれと同じ毛が生えている、陰毛というんだ、と男同士の会話を聞いていて、Sさんにも生えているのかなぁ、と思ってしまいました。友達の家には、その友達の部屋があって、そこに通してもらえて、その友達がエロ本を勉強机の引き出しから出してきて、見せてくれました。中学生というと、男子であるぼくには、女性のことは最大の関心事だったと思います。

吹奏楽部に入っていて、パレードの指揮にぼくが指名され、先頭でバトンをふる役目になりました。たぶん、女子たちには、それがぼくだと知られるようになり、密かに有名人になっていたと思います。近づいてきたのは、タエ子、家へ訪ねてきて、好きだと言いにきたわけです。これは中学三年生の春だと思えます。家に遊びに来てほしい、みたいな話で、タエ子の家へ行くようになりました。まだ生理がないの、とタエ子は告白してきます。家にはお母さんがいて、お姉さんと妹さんがいて、お父さんは寿司屋で寿司を握る仕事をしている、ということがわかりました。夏の盛り、学校は夏休み、ぼくは市場の八百屋でアルバイトしました。朝8時から夕方6時ごろまで、日当は一日300円でした。そのバイトを終えてから、タエ子の家へ行きます。女ばかり、お母さんを含め4人の女が、狭い家屋のなかにいて、男のぼくがそこへ参入するという図でした。

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1968年の春、大学に入学したのはこの年の春です。高校出て楽器店に二年間勤め、一年浪人して、大学生になりました。学費が払えるのかとかもあったけど、受験勉強の方ができてなくて、立命館の二部文学部に入学しました。学費は安いとはいっても、学生生活といっても、やっぱり働かなくちゃ、生活がやっていけないので、就職先を探していました。就職したいところは出版社、そう思っていたところに出版社の社員募集が新聞に載っていて、面接を受けにいきました。決まりました。1968年の秋から働きだしました。勤務の場所は、京大北門前、百万遍知恩寺の西となりでした。翌年1969年になると、学生運動がいっそう激しくなってきて、会社の前が封鎖されるという事態に直面しました。もう半世紀以上も前のことで、いま書き出すとノスタルジックなことになるので、ここでは深入りはやめておきます。

なにはともあれ、出版社に就職して、東京勤務を希望して、1969年の春には、東京は本郷、東大正門と赤門のあいだのまえにあった社屋に努めるようになりました。大学には休学届をだしておきました。あこがれの東京生活、小説家になりたい思いは、まず自分の環境整備からというのが本音で、いかにもそういう環境、東京、出版社勤務、そこから小説書いてデビュー、なんて夢見ていたけれど、そんなのもろくも崩れさってしまって、どうしたものかと立ち往生でした。1969.10.21というのは国際反戦デーということで、東京は大きな渦に巻かれていました。ぼくはノンポリではなくて、ノンセクトラジカルを名乗るほどでもなくて、もちろんセクトの活動家でもなかったので、単なる群衆のひとりでした。この日のデモに参加して、会社を辞職し、京都に戻って、出直しをはかったのでした。

まあ、挫折といえばいいか、大学に復学届をだして、復学を認められ、一年遅れで大学生の身分にもどりました。新聞広告で仕事をさがし、今で云う家電の量販店の販売員に応募して、採用、場所は三条商店街の西友の家電売り場でした。自分のプライドとして、そこで働くことは自分に許せなくて、郵便局のアルバイトに応募して、採用されました。集配の業務で、スクーターに乗って、速達配達、ポスト開箱、年末年始、大晦日も元旦もアルバイトで仕事をしました。それから、郵便内務勤務になったけど集配業務を続け、4月の新年度になって、貯金の内務職になりました。アルバイト、臨時補充員、事務員、事務官、そうです、アルバイトから事務官にまで、肩書が変わっていきました。大阪万博の年で、結婚して新生活にはいります。ごくごく平均所帯の生活者として家庭を築いていきます。

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1970年を越えたあたり、学生たちは同人誌を発表の場として、グループをつくっていました。ぼくもそういう文学系の同人誌に参加して、小説を発表させてもらいました。反鎮魂という名前の同人誌で、10人くらいメンバーがいたかと思います。大学の同じクラスのメンバーが多かったかと思うけど、そうではないメンバーもいました。甲斐君がリーダーで、南部君、高井君、それから阿部さん、すぐに名前が出てくるのはこれくらい、毎週、日曜日の午後、喫茶店のテーブルを囲んで、たわいない文学論を語りあっていたと思います。小説家では高橋和巳、評論家では吉本隆明、その時代の学生に人気のあった作家や評論家でした。ぼくは公務員だったし、結婚していて子供が出来ていたから、もう核家族の生活者でした。おもはゆい気持ちで、世の中に溶け込んでいこうと思っていました。

同人たちがそれぞれに就職していき、京都を離れていき、同人は解散状態になり同人誌は終わります。京都に残ったぼくを含めた三人が、勉強会をやろうと言いました。文学研究、夏目漱石をやろう、でも、実際に夏目漱石の話題で、会話した記憶がありません。とにかく、文学から遠のいてはいけない、それぞれの自分のなかで持続していかないといけない。こんな強迫観念みたいなものにうしろから押されていた感じです。ぼくは、文学から離れます。文章を書くことができなくなって、でも大学を卒業することができて、世の中、明るい兆しに満ち溢れていて、眩かった気がします。カメラを買いました。子供が二人になりました。二人とも女の子でした。カメラはニコマート、標準レンズをつけていて、子供を被写体にして、アルバムをつくっていきました。

1975年が大学を卒業した年で、カメラを買ったのは、もう学費を納めなくてもよいというので、学費分ほどの金額のカメラでした。少しづつカメラの世界に没頭しはじめます。職場にカメラクラブがあって、そこに入れてもらって、撮影にいったり、出入りしていた写真屋さんのお兄さんにいろいろ教えてもらいながら、撮影済みのフィルムを現像して、紙焼きしてもらっておりました。全日本写真連盟のことが朝日新聞の社告に出ていて、ぼくは個人会員になりました。写真サロンという展覧会が美術館で開催されるというので、出品することにしました。出入りの写真屋さんに祭りの写真を焼いてもらって、額に入れてもらって、搬入の日には美術館へ、持参しました。写真の世界、なになに、みんなの写真が美しすぎて、ぼくの写真がみすぼらしくて、泣きたい気持ちで、展示して、美術館を出ました。

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年老いてきても食べたいものはといえば、子供の時にはなかなか食べられなかった食べ物だと気づいています。鰻は、最近なら牛丼店で回転すし店で、それなりの値段がするといっても、食べられます。だから食べる、食べます。食べることには、子供の頃の羨望が混じった食べ方を、好きな食べ方として、年老いても継承しています。コロッケにはウスターソースたっぷりかけて食べる。これは子供の頃、ウスターソースは貴重品だったようで、たっぷりかけられることが、とっても嬉しいのです。カレーにだってウスターソースをかけて食べます。食べ物の記憶は、いっぱいあって、その頃の食べ物は、今の時代の高級品です。鶏卵、鶏肉、牛肉、その頃って今でいう高級な部類だと思います。食べ物のことは、生存にかかるものだから、興味がつきない、生涯の話題です。

自分の子供の頃の環境をというと、けっこう貧乏な生活者だったと思います。全体が貧しかったとも言われますが、その全体の貧しさのなかの一家族で、そこに生活する男子でした。父がいて、母がいて、父の母、ぼくの祖母がいて、父の妹がいて、ぼくら子供は男が二人。六人が四軒長屋のひとつに住んでいました。四畳半、二階は中二階で四畳半、奥に三畳の部屋がありました。四畳半に父母ぼくと弟が、夜になったら布団を敷いて、朝になったら布団をかたずける、というものでした、叔母さんは母と同じほどの年齢で、33の厄だから、と言っていたのを覚えています。この叔母さんと二階の四畳半で、小学生4年ころまで一緒に寝ていました。その後、叔母が結婚していったので、ぼくはその時から二階でひとり寝ていました。

千本には映画館があり、キラキラ輝く繁華街、細い路地の西陣京極がありました。入口に甘党喫茶のマリヤがありました。市電が走っていた千本通りには、食堂がいくつかありました。スター食堂は洋食で、叔母に連れられて映画をみたあと、ランチを食べさせてもらっていました。1950年代です。洋食を食べるなんてとっても高級な気分になって、ハム、エビフライ、コロッケ、サラダ、キャベツの千切りにマヨネーズがかかっていたのか、ウスターソースをたっぷりかけて、食べたのを覚えています。25日は天神さんの縁日で、夜に家族で天神さんへ、下の森から千本中立売に出て、千本を上がってくるコース、甘党喫茶のマリヤにはいり、父はぜんざい、母はパンケーキ、ぼくらはパンケーキだった、そのころはホットケーキで、バターとシロップで、これは美味しかった、年老いたいまでも懐かしい。

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中華料理は、子供の頃には、あまり食べる機会がありませんでした。でも、いつの頃からか、中華料理のお店ができて、夏に家族で食べに行った記憶がよみがえってきます。そのうち餃子の王将の店が街中に出来てきて、まま食べに行くようになりました。最近は、月に一回程度、二人で食べに行くようになりました。四条大宮にあるのが一号店なので、最初の店がそこだったと思いますが、ぼくたちもこの一号店へ食べに行きます。和食を食べるより、洋食を食べるより、中華を食べることが多いです。といって四川料理とか広東料理とかではなくて、和製の中華料理なんでしょうね。詳しいことはわかりませんが、餃子があり、ラーメンがあり、炒飯があり、一品料理で、酢豚とか天ぷらとかから揚げとか、B級グルメと言うのかと思っています。ここまで生きていると、食べ物屋の歴史なんて、変遷していますね。

ファミリーレストランがあちこちにできてきて、そのころ、子供も小さくて、ぼくたちも若くて、そのうち焼き肉の店ができてきて、回転すしの店ができてきて、もう外食産業花盛りとなっています。でも、どちらかというと、あまり外食しないほうだと思います。ぼく自身は外食に憧れみたいなイメージがあって、食べたい、食べたい、そう思うけど、家庭があり、そこでは家庭料理が重宝されるので、ほぼ昔ながらの手作りが主です。食べることとセックスすること、人間生活の二大欲望だと思っていますが、セックスすることは、もうままならないし、そのことを話題にすることも、社会の中では別枠になっているので、どうしたものかと思っています。アダルト、18禁、特別な枠をつくって欲望処理させてくれるんです。まだネットがなかったころ、アダルトな雑誌とかビデオとか、目の前にあるものでしか見られませんでした。

1980年ごろでしたか、ホームビデオが出始めて、知り合いの方がカメラと再生機セットを購入され、ビデオテープごと数日間貸してもらったことがありました。セットで100万円ほどするというホームビデオセットです。ビデオテープはアダルトもので、修正していないものでした。写真は、ポラロイドが評判で、密室で行為しているところを、カメラで撮って人の手を煩わせることなく、画像をつくることができます。ビデオもしかりで、カメラをセットし、密室で行為しているところを撮って、再生できるというので、高価なホームビデオセットを購入したお客には、無修正のアダルトビデオをサービスしていたのかもしれません。どこからかカタログが手に入るみたいで、知り合いがそのカタログを見せてくれて、ビデオテープの通信販売です。5本で1万円というのが相場で、買ったなかにはダビングされ尽くして画像が不鮮明なテープがありました。まだデジタル映像ではなかった頃の話です。

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自分のはなし-1-
 1~12 2021.4.26~2021.10.25

自分のはなし、というカテゴリーをつくって、自分のことを書こうと思っています。自伝でもないし、思想でもないし、ごっちゃまでで文章を綴っていこうと思っているのです。意識して、話をずらすわけではないけれど、大体が口から出まかせで言葉を発し、文章にしていくタイプですね。良いのか悪いのか、書き出しからどんどん流れが変わっていって、別の話しになってしまうというのです。それでもいいからと思って、書いていこうと思っているところです。

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中学二年生になったころ、日記をつけようと思って、日記帳を買ってきて、書き始めたのがはじまりで、高校を卒業するころまで、何冊にもなるノートをつくりました。手元に残っているけど、読み返していないけど、たぶん、好きだったひとへの想いを書き連ねたのではないかと思っています。それから文通をすることになって、手紙をいっぱい書いた、恋文だったと思います、まだ手元に残っています。大学にはいったのは高校を卒業して三年が経っていて、文芸部だったか文学同好会だったか、クラブに入って雑誌に小説を発表していました。日記は書いていなくて、書くことは忘れてしまったかのような日々、カメラを買って、写真を撮るようになって、27歳ごろ、写真クラブにはいって、展覧会に写真を出すことになって、少しづつ有名になってきて、ひとり釜ヶ崎へ取材にはいったのです。1978年ごろです。釜ヶ崎取材を始めた時から大阪日記というタイトルで、日記文を書き出しています。この日記は映像情報という自分誌にタイプ打ちで載せていて、それからデジタルデータで、ホームページにも載せています。

まだ未公開の日記の類は、1995年ごろから2000年ごろに書いた、ノートがあります。毎日1ページ、喫茶店で書くという感じで、朝のひと時、喫茶店でコーヒーを飲みながら、殴り書きしたノート。それとは別に「革命ノート」と表題したノートは、ホームページにデジタルで載せてあります。ええ、自分にこだわっている自分がいるんです。自分が中心の自分のことです。そういえば中学生のころからの日記でも、自分のこと、自分からみる相手のこと、好きだとか愛してるとか、そんな言葉を書き連ねていたように思っています。小学生のころは江戸川乱歩とか、中学生になると青春小説とか、高校に入ると外国文学とか名著ですね、そういうのを読むようになりますが、衝撃的だったのは柴田翔さんの「されどわれらが日々」でした。文学、小説に目覚めたのは、このときです。それまでにも個人詩集を出したりしたけど、小説に魅力を感じたのです。高校三年生の夏休みのことでした。

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ずっと表現するということにこだわっていて、この表現する内容は、作り物であっても自分のことだと思っています。この自分のことだと思うようになったのは、最近のことです。意識して自分のことを書くというのです。主人公は自分でなくても、第三者として書くとしても、結局は自分の分身に他ならないと思うのです。表に出すのが恥ずかしい、と思う気持ちが多々あって、そこには触れないまま、曖昧にしている部分があります。ぼくは男子だから、女子のことに興味があります。興味の対象は、女子のことです。これがぼくの性癖です。男子が男子に興味を持つ、女子が女子に興味を持つ、同性のこと、このことは、ぼくにはありません。恋の対象としての相手です。最近はノーマルとかアブノーマルとかの言い方は禁句ではないかと思えますが、あえてこの区分でいえばノーマルそのものです。

森鴎外にイタセクスアリスという小説があるのですが、これ、自分の性癖を語っているのではないかと思います。小説を書くという行為が、自分のなかで言葉を紡ぎ出すのですが、それは自分の観念というか、理性であったり、感情であったり、それを組み合わせて形にしていくわけです。やっぱり自分、主観、客観とかいっても結局は主観に基づく解釈にしかすぎなくて、やばい、私小説になってしまう、でも、私小説、私って言葉を使うから私小説ではなくて、自分という頭脳のなかで組み立てられる構造だとしても、私、小説、なるものになるという解釈をします。夏目漱石に自分を扱うこと、私小説とはいわれない小説の枠で、やっぱり自分を扱っているように思う。自分と他者との関係というか、在り方、信義とか友情とか恋愛とか、他者との関係について、ああ、小説とは、そういう関係を構図化して描くものかもしれない。

自分のはなし、という表題にしているので、告白の文を書こうかと思案しているんですが、なかなかそうは出来ない自分がいて、それならばフィクション、つまり小説にしたらいいじゃない、と思うのですが、それだけ遠回りして自分の内面を描くには、もう体力と気力が衰退しはじめている、と自覚してきています。今年の3月ごろから、だから先月頃からですが、小説を書いていません。文章としては、わけわからないまま、いま、ここに書いているような、口から出まかせ的な文章を連ねているところです。本音、もう精子製造工場が閉鎖状態になりつつあって、そういうことからして性欲がイライラするほどなくなっていて、視ることでなんとか興奮するだけになってきています。年齢と共に減退していくのがわかります。サプリメントの広告が目につきますが買うことはしません。自然態で衰退していって死に至る、これが望ましいと、いまは率直に思っています。

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現在の表現の方向は、自分のことに向かっている、と思っているんです。私小説という方法が、そうかもう100年以上も前に花袋さんが蒲団という小説を書いたのが最初だったか、そういう方法がありましたが、そのままストレートにそうだとは言えないと思うけれど、そういう方向だろうと思えます。逆行してるのか、といえばそうではなくて、表現することの底流に、自分を暴露するという意識があるのだと思えます。自分の欲求として、自分の内面を暴露したいという欲求があることに気づいています。でもそれをストレートに出せないという意識が強くて、まわりくどく、結局、そこへは至れないまま、欲求不満になるというわけです。

自分とは何か、自分とは何者か、なんてことを命題にしてきたけれど、いま、この問いが無効になっているとは思えないけど、表からなだらかに沈んでしまっているなぁ、と思えます。こんなストイックなイメージではなくて、もっとセクシュアルに自分の感覚を表に出しているようにも思えます。自意識があって、その自意識をどのように表現するのか、ということ。最近ではスマートフォンで、そのアプリで、自分を着飾って表に出すことが、あたりまえになっていると思えます。こころの中の表現も、SNSのなかでは、ストレートに出せるようになっていると思えます。好き、好き、好き、この感覚をストレートに表現する。

ぼく自身でいえば、そんなストレートには表せられないなぁ、いろいろ理屈をかぶせて、自身のこころの内を表そうとしている。けっこう子供の時から、そういう屈折があったように思えます。精神は時代の産物とかいうけれど、そういう時代、1950年代の少年は、そういう社会風景からの感覚を受けていたのかも知れなくて、いま2020年代に至っているのかも知れない。自分で自分のことはわかりません。わかったつもりでもわかってないんだと思えます。人のふり見て我がふり直せ、自分が同年輩の男性を見て、自分も外見は同じなんだな、と思うようにしています。

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好き勝手に文章を書いて、憂さ晴らし、気持ち落ち込むのをストップさせる役割があると思うんです。それと、だれかに読んでもらえるかもしれないと思って、読む人のことを想定して、書いていきます。どうでもいいんです、年寄の戯言ですから。写真を一枚載せて、とりとめなく文章を書いて、前後の脈絡を無視して、文章がつながらない、むしろ繋がらないことを意識して、文筆家の文章ではないように、自由気儘に書いていくんです。そう中学生のころから、文章を書いていて、最初は日記、すきな子のことばかりを書いていたように思います。それから詩をかくようになったのが高校生でしょうか、次第に散文、小説を書きたいと思うようになりました。

ここ15年ほどアダルト系で小説を書いて、書いて、書きまくって、この春には書かなくなりました。うん、プルーストなんか意識して、西鶴なんか意識して、短編中編の組み合わせで、全体としてひとつの大河ドラマになるような、そういう構成で、何処から読んでも興奮させる、ええ、性的興奮をさせる文章を心がけてきたんです。性的倒錯というレベルを試みたり、それなりに下品文学を作ってきたと思っています。文学、小説とは何か、いろいろな言い方があるとは思いますが、どれにも当てはまらない、どれにでも当てはまる、脱文学的文学を日本語にて試みようと思っていました。

文章を書くには、時間が必要だけど、金が掛からないから、ちまちまと文章を書きます。ここ10年ほどはノートに鉛筆で書くということが無くて、パソコンの前で、ブログに文字を打ち込んで、かたまりにしています。ジャンル別に、テーマを決めて、ブログを作って連載して、それに見合うホームページを作って、載せて、全体を作ってきています。でも、なんというか、今の時代の最前線ではなくなって、SNSも試みましたけど、いまはSNSに直接写真と文を載せるのは、ツイッターだけです。ツイッターは、ひところ数千人のフォローを有していましたが、現在は四人だけ、実質三人、それだけの友、大切な友です。

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おもえば、いつも二番手が多かったなぁ、と思うんです。小学校のときの勉強の出来具合はクラスで二番目、中学では吹奏楽部で副部長でした。中学の吹奏楽で市中パレードのときは京都市内の中学が二組に分かれるんですが、ぼくは一組の指揮者で、学生服に指揮棒もって先頭ですが、もう一組の指揮者は軍隊張りの制服を着て、指揮棒を振るのを見て、かなんなぁ、おれってみすぼらしいわなぁ、と内心思っていたのでした。中二になって、女子を意識しだして、でも友達になった奴が先頭を走って、女子と仲良くなるのです。ぼくもそのグループにいたから、男子として二番手で、女子とつき合うのでした。そのうち、好きな女子が出来てきて、相手の女子もその気になっていたように思っていたけど、好きとは打ち明けなかったんです。

小学生の高学年あたりから、女子を意識するようになるじゃないですか。お気に入りの女子とたわいにたわむれながら、からだに触れたりするじゃないですか。性的な興奮ではなくて、でも何かしらの興奮を得ます。もうエッチな本を内緒で見たりするのが小学生の高学年。射精が始まるのもその頃でした。わけわからんままに射精するんですが、女子と性的に交わるということがわからなかったのです。おぼこいなぁ、といえばおぼこい時代です。でも、女子は小学校の高学年で性のことを教えられる。そのことを男子は知りません。女子がニヤニヤ、内緒内緒な感じで接してきて、ぼくには性欲はまだ意識しませんでした。中学生の二年でもまだ性交のことはイメージできても、具体的な行動はおこりませんでした。性欲が増してくるのは高校生になってからだったように思えます。

好きな女子は、小学生の頃は雑誌のアイドルが好きになるわけです。中学生になると具体的な目の前の女子を好きになります。好きになったからといって、手をつなぐわけでもないし、抱きあうわけではもちろんありません。中学三年の秋にフォークダンスをすることになって、これって男の輪と女の輪が、女子は内側、男子は外側、逆方向にまわって、相手が変わる。この時、初めて女子の手を握ったのです。思いだしますよ、生徒会でフォークダンス大会をする、といってもぼくにはピンときていませんでした。思春期ですね、やっぱり、好きな女子と巡りあう前にはドキドキしてくるのがわかります。ぼくは男子だから、女子が好きなわけで、だんだんと特定の女子が好きになっていくのでした。好きと言われた女子を好きになる。中学生の時は、そういう流れでした。

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いまもって自尊心が強いといえば、そうかもしれません。自分には、やればできるという自負心、それが自尊心につながるのかも知れません。18歳のとき、マルクスの資本論を少しだけ読みました。ほんの少しだけでしたが、著名な書籍で、日本語に訳した人がいるんだ、向坂逸郎というお方が訳された、岩波書店から出ていた資本論四冊のうちの最初に一冊でした。自尊心と自負心でいえば、マルクスという人間が書いたのだから、自分も書こうと思えば書けるんだ、とも思ったのです。別には、ベートーベンが音楽を作るけど、これには太刀打ちできないなぁ、と思いました。ぼく、ベートーベン、とあだ名で呼ばれていたんです。高校の時、ブラスバンドを立ち上げて、指揮していましたからだと思います。世間のことがわかってないなぁ、18歳ってそんな空想を、妄想を抱ける年齢でもあるんです。

でも、結局、そこそこには出来るけれど、それ以上にはできない能力だと、内心、自分では思っているんです。劣等感、激しくて、負けてたまるか、というのが原動力で、そういうエネルギーをもった自分だと思っています。知能指数は130だと中学のとき教えてもらいました。京大にいけるから頑張りなさい、と若山先生に言われて、このかたがんばっておれば京大卒で通せたんだと、思ってきています。もとから、がんばりやではなくて、さぼってばかり、好きなこと、興味を持ったことは、いけるとこまでいく性質ですが、勉強はしませんでした。受験勉強って奴をしたことが無くて、でも実質浪人一年間したけど、日本史に興味が出て、古代のところとか読み物風に歴史を勉強していました。歴史の点は予備校での実力テストでは、トップだったと自認しています。

こうして文章を書いていると、いろいろと思いだしてくるもんですね。好きな女子のことを書こうと思っていて、あっちこっち、とりとめなく、なすがままに、文章にしているんですが、これもひとに読んでもらえるような、つまり魅力ある文になってないんやろな、と思っています。自分でわかているんです、それほどキラキラ光る文体でもないし、読者を引き込むほどの魅力ある内容でもないし、そりゃ、ほんとうはもっと赤裸々な性行為の話しとか、書きたいと思うけれど、日本語でなお日本国で表記して発信することはできないのだから、そこそこ、いや、ここではあまり書きません。その方は、好きだから、昔の文章を読んでみたり、映像は無料の動画で、無修正を探して、見ます。いい時代です、つい以前まで、ぼかしが入れられて、ぼかされた映像しか見られなかったんですから。

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食べ物のイメージが多いのは、それだけ食べているからだと思っているのと、食べ物のイメージを載せるのは、本能に根ざした出来事の記録および記憶につながっているからです。食の領域も奥が深いです。人間の欲望と密接につながっています。素材があって、加工して、出来上がったものを写真に撮ります。自分で育てた野菜とかを素材にして料理したのを撮ればいいのですが、最近は栽培してないし、出来合いのものを撮ります。レストランや食堂や喫茶店で食べたモノを記録します。日付とかの情報は撮った時に記録されるので、デジタルは楽です。フィルムのときには、撮影日とか撮影データを別に記録していました。そういうことでいえば、デジタルが圧倒的にいい、とぼくは思っています。

もう15年も前になるのか、待望の農業に携わりだしました。農業者になるつもりはありませんでしたが、食の領域のことを知りたかったのです。文と写真を使って、作品に仕上げたい、これは本音のところでしたが、現場は京都農塾で3年間、いろいろと学び交流させていただきました。農の世界、自然の領域を肌に触れて体験できたことは、自分のための勉強になったと思います。陶芸と農業を還暦を迎えるころに始めたのです。頭を使うこととは別に、身体を使うことで、生命のバランスをとろうと思ったのです。陶芸は10年やりましたけど、初心者のところで、最後まで初心者でした。農業も理屈ばかりで農作業は初心者のままです。

少年だった頃のことをいっぱい思いだします。自分のはなしもその頃の自分の見聞したモノを振り返ってみて、記録にしておこうと思っています。興味は、内面のことで、性に向きあう自分というか、セックスのことについて記録しておきたいと思っているのです。これまでにも何度かチャレンジしてみようと思って、フィクションにしたりしましたが、本音のところではありませんね、作り話です。フィクションだからそれでいいのかもしれないし、書くということの内容が、表現されればそれはフィクションになってしまう。事実はあっても真実なんてないし、事実といってもほんの断片でしかないわけだから、やっぱりそれは物語なのです。

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どちらかというと女っぽいほいかなぁ、子供のころからそう思うことがありました。女々しいという言い方でいえば、男っぽいよりも女々しいほうに振り子は振れていたように思えます。そうやね、男の子の遊びもやりましたけど、女の子の遊びのほうが好きでしたね、たとえば、おじゃみとかですね、竹馬はやりましたけど、野球とか、いややったなぁ、それに女の子を好きになるのが異常なほどかなぁ、自分でどうしようもできなくて、ひとり悩むしかありませんでした。室生犀星に性に目覚める頃という小説があるんですが、ぼくが性に目覚めるのは、小学4年生あたりだったと思えます。中二階の四畳半の和室がぼくの部屋となっていて、叔母さんといっしょでしたけど、昼間はひとりでした。秘密の時間だったと言えます。

和箪笥の引き違い戸をひらくと、本が何冊かありました。10冊ほどあったかと思いますが、それは、奇譚クラブ、風俗草紙と書かれた月刊誌でした。挿絵と写真と文章で、読み物としての小説とか、絵物語とか、ええ?、なに?、これ?、貸本屋さんで単行本を借りてきたり、少年雑誌を購読して、学習雑誌を購読して、読書三昧の小学生でした。それに絵解きの性器図、性交図、医学書、これなんかも見て読みました。縛り絵には、とっても魅了されていました。これを性癖というのなら、後期高齢者のいまに至るまで、継続している性癖だと思います。それほど早熟ではありません、むしろオクテのほう、性に目覚めるのは遅かったのかも知れません。だって、性交するなんて、想像の埒外で、女子を好きになっても性交したいなんて、高校三年生になるころまで、思えませんでした。

性交体験は、二十歳以降、結婚する相手以外、だれともありません。疑似体験は、本読んだり、映画見たりして、射精してしまうというのは、人並みにあったと思いますが、性交体験は、妻になる人以外ありません。なにか、この話をするとなると、経験の数で競うとぼくなんか、どうしようもなく正常で、真面で、あったと思います。妻以外、手を握り合ったことも無い、なんと甲斐性がないと言われる時代の模範生だと思います。でも、内面は、人間、本性をあかせば、多寡はあると思うけど、だれでも性欲はあると思っていいのではないかと思います。ぼくは、旺盛なほうだったのではないか、いたって健康体だと思います。その後、その種の本やビデオは、一時期、買い求めてコレクションするほどでした。なにかしら、今日の自分のはなしは、性にまつわる話で、初めて、明るみに出しておこうと思ったのでした。

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その後、その家族がどうなされたのか、わからないのだけれど、タエ子は18歳で亡くなりました。死を知ったのは新聞記事で、琵琶湖で水難事故に遭ったという女子の名前をみて、タエ子だとわかったのです。ぼくは、お通夜にも、お葬式にもいきませんでした。死んだという知らせは、誰からもありませんでした。だれも、ぼくとタエ子の関係なんて知っているヒトはいない筈だからです。中学を卒業して、タエ子は近くの電機工場へ就職していきました。ぼくは高校生になっていました。中学三年生のいつだったか、タエ子から恋文ではなかたとおもうけれど、そうだ、家へ直接訪ねてきたのでした。小学校は違ったけれど、家から家へ歩いて五分ほどのところです。ぼくはどうしたことか、タエ子の家へ遊びに行くことになりました。どういう経緯で遊びに行くようになったのかは、ちょっと思いだせないけれど、夏休み、ぼくは衣笠市場の八百屋へアルバイトに行った、そのなか、夜に遊びに行ったのを覚えています。

女の姉妹三人で、タエ子はその真ん中の子で、お姉さんがいて妹がいました。まあ、真夏の夜、まだクーラーなんてない時代だし、衣類は薄着です。お姉さんは、白いシュミーズに白いズロース、タエ子は流行りのムームーに白いズロース、妹はシャツにショートパンツ姿でした。お母さんは、専業主婦ではなくて、たぶん、どこかへ手伝いの仕事にでかけていました。男子が三姉妹のなかにいるので、お母さんからけこうな歓待をうけました。ぼくは賢い子、お母さんはそのように思っていて、ぼくが高校三年の時には、家庭教師の口を二つ持ってきてくれて、教えにいきました。一人は小学三年生だったかの女子、島原商店街のなかの衣料品店の子、一人は中学三年生で高校受験を控えた男子、近所の家の子でした。そのときには、まだ、タエ子は生きていて、でも、顔を会わすことはなかったと思います。

ムームーを着たタエ子は、からだが丸見えになって、覗き込むまでもなく膨らんだ未完塾の乳房が見えました。白いズロースも見えました。情欲?、そこまでのことはなかったとおもうけれど、すでに中学三年生、性に目覚めていた頃だから、女子のからだには興味津々でしたけど。少しはじゃれあった気がします。からだを触れさせるということは、していなかったと思うけれど、手に手が振れたことは、記憶に残っています。たえ子のほうがもう半大人だったと、いま思いだすとそのように思えます。たえ子のほうが、ぼくに惚れていて、上目遣いに、ぼくの顔を見ていたのを思いだします。その後、タエ子が務めた電機工場はいまもあって、そのまえにいくとタエ子のことを思い出します。ムームーを着た、乳房が見えた、その中学三年の女子、タエ子の姿をです。

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過ぎ去ったことを思い出して、ああでもなかった、こうでもなかった、というのは、生きている証としての記憶を思い起こすことで、人間の人間たる証だとする、なんだかぐるぐるまわりの、トリックみたいな話です。でも、生きてきて、経験して、体験したことを、文章にしておくと言うのは、これ、文学の始まりなわけで、文学とは、私小説ってのかありますけど、結局は私を表現することで、その表面は作り話、フィクションにするのです。事実に基づいて、とか、資料を駆使して、とかあたかも事実であるというふうに装って、フィクションする、虚構、するわけです。でないと、それ、本心だと思われると恥ずかしいじゃないですか、だから、色付けして、カモフラージュするわけです。

10代の終わりごろ、いまでいうアダルト映画の現場で仕事ができたらいいやろなぁ、と思っていたことがありました。早稲田の演劇といえば、それなりに価値ある場所だと思っていて、そこめざして受験したんです。いや、すべりました、どうしようもなく、桜散ってしまいました。大学受験って、けっこうバカにしていて、受けたら受かる程度に思っていて、早稲田大学の文学部へ願書提出して、試験に臨みました。高校卒業して二年間働いて一年間浪人して、そして受験したけれど、あっけなく桜散ってしまいました。ひとつだけ受かった大学があって、そこへ入学いたしました。立命館大学文学部人文学科、夜間のコースで働きながら学ぶコースです。でも、定職で働いている奴、そんなにいなかった。

無謀なことを無謀とも思わずにやってしまう、世間知らずといえばいいのか、そういうところがありまして、常識から外れた処を徘徊することになる人生です。高校一年になって、同じクラスになった女子を好きになって、たぶん夏休み前に好きになって、夏休み中、その女子のことばかり思っていた記憶があります。寒くなってきて、たぶん、告白したんだと思います、夜の嵐電鳴滝駅で待ち合わせして、夜道を二人して歩いたのです。ちづ子という名前、うどんの出前の途中で、逢引きした、というわけで、そんなに長い時間ではなくて、ちづ子が折り返しの電車に乗るまでの時間、まあ、10分くらいの時間だったと思います。ぼくは単車で夜道を清滝駅までいきました。このことのはなしは、なんども繰り返し書いていきます。

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自分の頭の中では、いつも何かを考え思っているんですけど、あんまり覚えていなくて、目の前に映った風景も意識することも少なく、いいかげんに時を過ごしているんですね。ところが、集中して見ることもあって、それは自分の興味に拠ってるんやろなぁ、と思います。子供のときから電車に乗るのが好きで、まどから外の風景を見るのが好きで、目を閉じてしまうことがもったいない気持ちですね。最近なら京都金沢間を特急に乗るんですが、ほぼ眠らず、スマホ見る、本を見るわけでもなく、窓の外を見ています。カメラを持っているとき、電車に遭遇すると、カメラを構えて、撮影します。このまえ、奈良の西ノ京に天皇陵を見にいきました。奈良西大寺から橿原神宮方面へ向かう近鉄の窓から。いつも天皇陵が見えるから、現地へ行ったというわけです。

嵐電の鳴滝駅は、思い出深い駅です。その後も、写真に撮ったりしますけど、その出来事は自分の胸の内に残っているだけです。16才、もう寒かったから秋か、冬か、好きな女子との逢引き、時間は暮れてしまった夜、10分だけのことです。女子の名前はちづ子といいました。おうどん屋さんの娘で、出前の途中に会うのでした。そのタイミングは、もう、定かでないけど、電話がかかってきて、ぼくは50CC原チャリで山越え鳴滝へ、ちづ子は電車に乗っておうどんを配達しているのでした。初恋、ほんとうの初恋は、このちづ子になります。おおげさにいえばぼくの生涯を決定づける因子を持っていた。仲をとりもってくれた女子がいて、本人を好きになってはいけない、という。ちづ子も手紙をくれていて、自分を好きにならないでというのでした。これは、辛かった、大晦日の夜、おうどんやさんの店内をみたら、ちづ子がいて、招きいれてもらって、おうどんを食べんさせてくれた、大晦日、自転車に乗って夜の街を徘徊していた。

高校二年生になって、クラスも別になり会うこともなくなります。学年当初には受験のための勉強で猛烈なプログラムを組みました。受験勉強に没頭しだしたころに吹奏楽部を作らへんかという誘いが、音楽部からあって、それに乗った。夏の高校野球の応援を、ブラスバンド入れてやりたい。けっきょく半年間、秋の文化祭まで、吹奏楽部に没頭するわけです。こまかいことは別途にしますが、ちづ子のことは気持ちの中で薄れてきていました。11月に南九州への修学旅行があって、ちづ子と同じになっていたのです。声を掛けそうになって、声を掛けて、おたがいに確認しあったけれど、どうしようもない関係はそのままでした、好きなお兄ちゃんがいるの、と相手がいることをいい、まあ、ぼくは、子供でしかないわけで、心に秘めたまま、吹奏楽を後輩に譲り、文芸部の男女と知りあって、行動を共にするようになりました。受験をあきらめたのは三年生の秋、音楽関係で、十字屋楽器店の技術部に入れてもらえたのでした。

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ぼくが生きてる時間のなかで、もう遠い遠い昔のはなしをするといっても70数年前の記憶を呼び起こしてきて、あんなことあった、こんなことあった、と記述していくことですが、これがいったい、誰のために何の役に立つのか、ということです。ぼく自身のことに興味を持たれた方が、本人が書いたもの、ということでぼくを知る参考になればいいと思うのです。でも無名なぼくが、誰かにぼくのことを知ってほしいと思っても、ほんとうはそう思っているんですが、そんなことはありえなくて、結局、自分のために、自分の記憶を明確にして、残しているというにしかすぎません。昭和になって私小説が深化してしていって、究極、心境を書くというところに至ったと思うのですが、でお、そこに、自分を見つめるという視点が確立してくるのではないかと思うんです。

なんだか文字を連ねる、それを読む、自分にというより、他の人に読んでもらうとゆうとき、よっぽど面白い興味ひく内容でないと読んでもらえない。というより、ネットの時代には、文章は主流ではなく、むしろ映像であり写真が主流だといいます。そのことわかっていて、文章を書くということは、他人様をばかにした行為なのかも知れないです。もう50年以上もまえのことですが、文章作法というか、小説の文体の作り方をああでもないこうでもないと、書いては消し、書いては消し、推敲に推敲をかさねて、結局、硬い文章になってしまった、という記憶があります。最近、また、文章を書くのに、いろいろ推敲する傾向があり、文章が読みにくくなっているような気がします。いずれにしても、文章を書くということ自体が、ネット展開のなかでは、もう通用しない方法なんでしょうね。

自分をどこまでフィクションしないで、あたかも事実であったかのように描けるか、というのが課題だと思っています。アダルトに区分するかしないかで、当然、描く場面の描写が違ってくるわけで、と自分で思っていて、官能をベースにした描写、なお使う単語もそれなりに官能を助長させれるような単語をちりばめる、ということにして、アダルトに区分しないで一般で書くとき、これは年齢制限を設けないフィクションなので、まあ、恋愛小説とか、あるこころを扱ってみたりしながら、書き進めていくのです。でも、結局、アダルトの方に突っ込んでいかないと面白みがなくなる、というようなわけで、アダルト領域の小説として書き連ねてきたということです。

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学校をつくる
 1~8 2019.10.3~2020.8.20

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学校をつくるプロジェクト
2004年に総合文化研究所を立ち上げたとき、四つの領域を立てました。
学校の領域、生産の領域、発信の領域、交流の領域と、この四つの領域です。
そのなかで学校は学びの器で、いちばん基本となる領域です。
学校の領域では、写真学校、農学校、文学校、自然学校と枠組みを考えました。
それから15年、紆余曲折、フォトハウス表現塾に至っているところです。

大きな枠組みは、現代表現研究所です。
新しい時代の、新しい人のための「学びの場」この場を模索します。
学校をつくるプロジェクトは、これらを参考にしていただいたらいいけれど。
それらを全く参考にしなくても、よりよい枠組みがあれば、それを採用しましょう。
学校をつくるプロジェクトに参加、興味ある人が集まってみましょう。
また、具体的詳細は、コアメンバーを作って、発表していきたいと思っています。

-2-
2018年に現代表現研究所をネットのなかで立ち上げ、学校の話を展開しているところです。
枠組みとしては「学の場」、フォトハウス表現塾の名称で、有償の学びの場を設定しました。
現代アートの枠組みで、五つのジャンルを個別に立ち上げ、内部で融合させるという話です。
ジャンルは、美術、写真、映像、文学、音楽の五つです。
もちろん現代アートのジャンルには身体表現もあるから、これをどこに含むか、とか。
現代を表現する基本セオリーを、どうするか、とかの問題がありますが。
ひとまず大きな括りで、枠組みで、各塾を立ち上げようとしています。

ところで、何のために新しい学校をつくろうとしているのか、です。
巷では学校を経済の枠組みのなかでとらえられていますが、そうではない学校。
学びの場は、生産の場とつながり、交流の場ともつながる、ネットワークのなかです。
無産者が生きるための学びの場は、金がないと学べない、のではなくてこれの否定です。
お金がなくても学べる場、新しく自由な発想で、自己満足な日々を作れる学校です。
フリースクールとか、生活共同体とか、近年顕著になってきている枠組みにリンクです。
お金を使って競争に勝つのではない、別の生き方もあり、そのなかにアートを見出す。

学びの場で、スキルを磨くことは、必要なことで、読み書きそろばん、の世界です。
それだけではなくて、金があればなんでもできる、じゃなくて、金がなくてもできる。
そういうサイクルを作り出さないといけない時代に突入している、と認定します。
グローバル化というか、資本が、マネーが、一極に集中していく時代です。
お金をもうけた人物が英雄視される時代ですが、その他大勢の方へ、です。
貧困者が増加しているように思えます、学びの機会を得られない人がいます。
世の中の大きな流れを逆行させる、そういう学の場、学校をつくろうと思うのです。

-3-
2004年に立ち上げた総合文化研究所のコンセプトに、学校機能についてという文章を載せています。もう15年も前に書いた文なので、今につながるかどうかを検証するためにも、転載します。
学校とはなにですか、という問いかけをしてみてどのようなイメージが湧いて来るのでしょうか。ぼくは、学校で教えたり教えられたりすることっていうのは基本的にその「時代の真理」と「生きていくことの希望」を紡ぎだすことだと考えています。

ぼくはこの綜合文化研究所では、理想とする学校機能のことを「あい実践学校」と名づけていますが、この学校は新しい時代の文化を担うひとたちが、人間としてあるべき姿の根本の捉え方そのものを創り出す運動体だと定義するところから始まると思っています。
あい実践学校は、生活の技術を身につけるだけのところではないし、いまある社会の中心へ参入していくための有利な条件を身につけるためだけのものでもないんです。

ぼくたちが生きている時代の<政治・経済・文化の総体>の構造をどのように捉えるのかということと、その総体の中でどのように生きていくのかということを、それぞれの個人の立場で考えられることが求められてると思うのです。

そこでぼくは、いまある学校(教育)システムってちょっとおかしいのではないか、と思ってしまうのです。いまある学校のシステムは、国家・国民という図式のなかでの経済システム、権力システムそのものに立脚していると思うからです。

ぼくの思考のなかには、この経済システムと権力システムを、どのようにして解体させていくのか、という問題があります。生産と分配と力関係の平準化とでもいえばよいのでしょうか。個人間に権力のない関係を求めます。この関係って磁場・磁力のような関係とでもいえばよいのでしょうか。そういう関係のあり方にしたい。

現文明世界の産業構造態の変化がもたらしてきた結果としてのアメリカ・グローバリズムを、基本的に認めることができないのです。その枝葉として、この島国の存在は、社会のなかに権力、あるいは階級構造を残したままだと認識します。
この歴史の結果としてのいま、<正規の>といわれる法人格をもった学校の存在と、教育のあり方は、個人を国策産業態に組みこむためのものでしかないと思うのです。

<人間疎外>という単語が死語であって、<夢と希望>という単語が生き生きとしているのならいいのですが、ぼくの感情としては、決してそのようには感じられないのです。

しかし、やはり、いま、ぼくはこの言葉、「人間回復」と「夢と希望」を使い出そうと思います。
あい実践学校は、個人が疎外されてる感覚を解消し、夢と希望に満ちた心を得られるようなシステムを持った個人と社会を創り出す学校です。

ぼこの思いは、一人ひとりが生産に携わること、そしてものを創り出す技術を修得することの背後にあるものをも含めて、個人が生きていくことを夢と希望に満ちた、喜ばしいものにするような学校を機能させたいと考えているのです。
2004.3.6 nakagawa shigeo

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こんにちは、10月も30日、まもなく11月になりますね、みなさんお元気ですか。
最近、フォトハウス表現塾ではなくて、フォトハウス表現学校に名称変更を考えています。
京都写真学校の流れをくんで、写真だけじゃないアートのジャンルを包括した学校です。
お金がなくても、学べる学校、もちろん高度に学べる学校を目指します。

お金がなければ学べないではなくて、お金がなくても学べ、なんでもできる。
そういう学校をつくるプロジェクトを、提唱しているところです。
学びの場をつくる具体的なことは、また明確にしていきたいと思っています。
お金がなくてもアートが学べる学校作り、よろしくお願いします。

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来年は、学校をつくるプロジェクトを、具体的に展開していきたいと思っています。
学校をつくるとは、学びの場をつくるということで、様々な要素をちりばめた学校。
作家の在り方とか、作品制作の実際とか、そういうことの根底に、何を敷くのか。
グローバル化していく世界に、自分を見失わないように、考えをまとめる。
反グローバル化、資本に対抗、なんていうと過激なようですが、過激になろう。
いま、新しい作り方を求めて、新しい価値観を求めて、それを求める学びの場です。
具体的な集まりの日時などは改めて告知するとして、参加者を募ります。

ほんとうは、非常にベーシックなところからとらえていきたいと考えています。
基礎の基礎、基本の基本、というところでしょうか、これをカリキュラム化します。
生きることが、生活をつないでいくことが、けっこう困難な時代になっています。
でも生きていくことに希望が持てる、そういう基礎・基本は、何だろう、ですね。
そういうことが話題として出せる学びの場、それにスキルをつけることで作品をつくる。
私自身が直面していることを、共有できないか、と思うところなのです。
そうしてあなたが直面していることと、クロスできたらいいなぁ、と思うのです。

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学校をつくるプロジェクトを提唱していますが、反応はというと皆無に近いです。
そもそも学校をつくるということの必要性がわからないようなのです。
ここでいう学校は、学びの場、既存の枠組みの教育ではない、それに対抗する学校です。
それに対抗する学校、なんて言い出すとこれはヤバイ、まるで革命学校みたいだから。
決してそんな過激なことを考えているわけではなくて、ハッピーライフを得るためなのです。

体制から離れてどこかへ行けるわけではなくて、体制からは逃れようがない事実があります。
この体制のなかで、経済的な貧者は、気持ちの中まで貧者になってしまいそうな世の中です。
起業してあるいは組織に入って、金儲けすることができる人は、それで勝組としていいと思う。
でも、そうではない人は、どうするのか、これを克服していくための学びの場、でしょうか。
そういうことをアートの枠組みで、やっていけないか、との提案なわけです。

-7- 2020.8.20
2001年ごろ、資本への対抗軸として、新しい生活を提案していこうと考えました。
新しい生活のスタイルを、学んでいく枠組みとして、学校の領域でした。
四つの領域にわけて、学校、生産、発信、交流、との枠を考えました。
大きな社会、資本主義経済の終焉に近づいている実感と、人の在り方について。
決して人の心が、夢と希望に満ちた世界ではないことに気づいていたのです。
夢と希望に満ちた世界を得るために、どうしたらいいのか、ということです。

その後、2004年には総合文化研究所とむくむく通信社をネット上に創出しました。
会社組織やNPO組織では、法的な組織ではない、ひとのネットワークを包む疑似組織です。
その後にデジタルネットワークに、フェースブックやツイッターが現れ、現在に至っています。
ところがネット支配する会社は資本主義のなかで巨大会社となり、人のためにはなりません。
新しい資本主義のかたちが見えているといえば見えているので、これへの対抗軸は、なにか。
新しい学校のありかたをめぐって、ようやく議論ができそうな土壌が生まれてきたようです。

-8- 2020.8.20
学校ってゆうのは学びの場で、ひとの考えや思いをつくるベースになる枠組みなんです。
このことが重要で、教育っていうやつ、国の人材を養成するために義務教育をおこないます。
高等教育は比較的自由に自分の考え方をまとめたりできると思っています。
でも、これは、体制を作っていくためのファンダメンタルで、同じ方向へ向かわせます。
これに異を唱えることは、既存の枠ではしません、だから新しい学校では、異を唱えるのです。
自分に合った生き方を求めて、これができる学びの場、です。

総合文化研究所が提唱した学校の領域には、写真学校、農学校、文学校、自然学校があります。
細分化すればキリがないので、大きく四ブロックに分けたところです。
写真や映像を含めイメージを扱うジャンル、食べるものを生産する農学校、文を扱う文学校。
自然学校は、生き方の空間をどうするか、人間本来の姿に戻って、そこから考えよう。
それぞれがクロスしながら、学んでいけるプログラムが必要になります。
このプログラムを創っていくところから、始まらないといけないのです、ほんとうは。

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現代表現論
 1~8 2020.4.7~2021.8.13

-1-
表現することのテクニック、技術的な方法については、最新技術を使えばよい。
カメラ機能でいうならスマートフォンについているカメラで撮影する。
このカメラで撮った写真を、スマホのなかで加工することができます。
明るくしたり暗くしたり、反転もできる、様々な機能がついていて、加工します。
というところまできて、さて、なにを撮るか、という被写体のことを考えます。

被写体と撮影する人との関係というか、モチーフであったりテーマといわれるもの。
そのテーマを決めるときの、その枠組み、方向性、社会でテーマとなっている領域。
この社会でテーマとなる領域の枠組みを、どうとらえるかということでしょうか。
最近なら、自分のこと、自分の内面について、自分とはなにか、みたいな自分論です。
その自分論から派生するイメージを、見えるものにしていけるか否かでしょうか。

自分という生身のセクシュアルな側面を、自意識的に、どのようにとらえるか。
自分の性との向かい方、具体的には身体の性のありかた、それを自意識にとらえる。
男女の性の関係、セックスの関係、男と女の交わり、潜在化していた興味の対象です。
それが様々な側面で顕在化してきている、その顕在化のプロセスを表現が担う。
男女の性関係のありかた、表現とすれば、どういう顕在化があるのか、でしょうか。

イメージとしての画像であれば、浮世絵の春画があります、これの復活。
復活する現代版として、紙媒体の出版物、デジタル媒体のネットのなか、があります。
総称として、曖昧ながらアダルト領域のなかに、うんざりするほどありますね。
それらが現代を代表する表現物だというのではありませんが、この方向です。
性を扱う、といえばわかりやすいでしょうか、小説にしろ映像にしろ、です。

-2-
表現する目的、そして表現した目的は何か、誰に向けるのか。
人称的に言うならば、一人称、私自身に、二人称、あなたへ、三人称、彼彼女らに、の関係。
表現したものを誰に、といったとき、第三者に向ける、つまり三人称で、相手を特定しない。
おおむね第三者に三人称で、広く知らしめる、という目的で、報道なんかはそうですね。
それが、結果としてはそうなるとしても、あなたのために、エリゼのために、みたいな。
あなたに捧げる、みたいな、あなたにあげる、あげる対象を、特定して作品をつくる。
もらった人、それからその背後にいる大衆というか、その他の人へ、の距離です。

ぼくは体験したことありませんが、消し忘れビデオ、なんてことがありました。
この消し忘れビデオが、アダルト系のショップで販売されていた、そのようです。
今なら、ネットでプライベートビデオ、というタイトルの映像でしょうか。
この方向性が、現代の表現で有効だと思っても、それが本筋だとはいいません。
方向性としての問題、つまり作られた現場は、一人称二人称関係のなかです。
具体的にこの関係者が登場しなくても、この関係が構成できないか、と考えるのです。
一人称そのものが三人称のところへ、そこから現代は二人称のところへ、です。

時制と視点、ということを文章作品を制作する場合には、その整合性を考えます。
時制とは、過去、現在、未来、という時間空間のことです。
視点とは、立場というか、作品中にある作者の位置のことです。
文章表現においては、これらの関係をどう組み合わせて現場をつくるか、です。
写真や映像表現の場合なら、こういう概念は有効ですが、思わせのなかですね。
で、ここでいうのは、フィクションではなくて、ノンフィクション、生身のわたしとあなた。
それらが複合しながら、作者のなかで統一され、時制を乱し、視点をはぐらかす、これ。

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一人称、二人称の関係をとらえるばらば、わたしとあなた、で共有する「何か」を解析します。
これは気持ちの交流だと思うのです、向き合う関係、恋愛関係、そういう思い合う関係です。
かならずしも肉体関係が介在していなくても、成立するプラトニックラブがあります。
愛しあう、これが恋愛関係の根底にある、ということは言えることです。
前段で、消し忘れビデオ、と書いたことから展開させます。
このビデオが撮られた場、とはどういう類のものか、を想像してほしいのです。

ラブホテルの一室で、行為するわけですが、この行為を撮影するというのです。
撮影したビデオをどうするのか、といえば行為した二人が、それを見るのです。
見るということは、どういうことか、ここが、解析するポイントです。
行為したことを振り返って、お互いが共有する、という愛の在り方のひとつでしょう。
一人称であれば、これは自慰する自分を記録する、自分撮り、自写撮り、ですね。
性の行為が表現の大きなテーマだとすれば、この関係性こそが、作品の質となる。

日本の表現状況についていえば、かって井原西鶴や浮世絵春画を描いた江戸時代。
性表現については、けっこうおおらかだったようにも思えます。
それか第二次大戦後の風俗からいっても、文学での性の扱いも、開放に向かってきました。
でも、それらは囲い込みのなかで開放されてきていて、表現として正当な評価は受けていない。
世の中がネットでつながり、通信の深化で、ますます個人情報が重視される時代です。
アートが白々しくならないためにも、人間の性を取り戻さなければならないと思うのです。

-4-
表現論と題した写真のシリーズを始めて半月ほどになりました。
この写真制作の試みは、技術的なことで、現代最前線ツールを使って、静止画、写真制作する。
内容は、つまりテーマは、といえば内面のことではなくて、外の枠を駆使したらどうなるか。
具体的にいうと、スマートフォンを使っています、機種はSONYのエクスペリアです。
基本的にネット展開で、SNSのひとつ、インスタグラムに掲載する。
撮影には実写ですから、現実に目に見えるものが写っていて、これを改ざんする。

スマホのカメラ機能には、いろいろな機能がついていて、アプリは内臓のカメラ機能だけです。
カメラ機能で加工した静止画を、インスタグラムの機能で改ざんし、フェースブックに掲載です。
最近でしょうか、インスタグラムがフェースブックと運営が一緒になったのか、と思います。
パソコンでインスタグラムが開けられなくて、スマホだけでの展開になります。
フェースブックはパソコンでも見られるから、パソコンで確認しています。
どんな試みができて、そんなふうになるのか、試行錯誤で、イメージを作っています。

撮影の現場ですが、人工のものが重なった風景、街の風景、それに半世紀前にはなかったモノ。
ぼく自身が二十歳だったころには存在しなかったモノが、いまは当たり前の風景となっている感。
そういうモノを静止画のなかに取り込む、主にメインイメージとしてです。
5年ほど前に「風景論シリーズ」をやっていたんですが、これの応用版ということです。
別にツイッターでも、別のバージョンで、試みをしているので、これはまた、書きます。
AI化する自分の外世界を、どう見つめていくのか、現代のテーマとしては、ここです。

-5-
現代でなくても表現として当然の基本となることが、現代だから言えるという領域があると思うんです。これまでの価値観の変容というか、上品から下品までの区分、宗教の上品から下品の区分ではなくて、この世の為政のための上品から下品までの構図のことです。芸術、作品はこうあるべきもの、として一線を画して、芸術とそうでなもの、芸術以下に分ける分け方の問題です。たしかに犯罪という一線を設けることで生活が構成されるから、その枠からはみ出るものは排除されますし、犯罪につながる表現は芸術以下だ、という感覚です。現代は、この区分を明確にして、ミックスして、芸術の枠をひろげる、そのことを論題にするということだと考えています。

表現は、自己欲望、自己欲求を具現化させ、実現することのプロセスだと思います。ところが自己欲望も自己欲求も、ある一線を引いた線上の部分しか表出してはならないのであって、線下の欲望欲求は表出してはならない、とされるところです。この線引は、その時代の為政によって上がったり下がったり、微妙に揺れ動いています。芸術表現で、というなら、この一線上のどこで表出するか、という問題にぶつかるわけです。物語や映像で人を殺す戦争表出は、国家自体がその装置を保持しているから、フィクションでありバーチャルであるかぎり、かなり許されていると考えます。ところで、情欲を扱う領域では、欲望欲求からはかなりの制約がなされている状態だと考えます。

性的欲望欲求における領域だと、これは国や地域によって、大きく違います。その国や地域の文化背景、歴史背景などが作用するものだと考えていますが、この地域差をどうとらえるかだと思います。建前と本音みたいな区分で、またレベルでいうと、この本音のところがいかに表出しても法的に許されるか、です。国家の根幹をなす体制を、どこまで批判的に分析できるか、かってあったような体制批判を取り締まるという強権はいまや発動されにくいと思っていますが、これは解消されているのではなく、民衆の監視に権力施行者が歩み寄っているのに過ぎないわけで、これは時代とともに、時代の風潮によって変化します。

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個人を表現して発信するツールとして、ソーシャルネットワークサービス(SNS)をとらえてみようと思います。フェースブックは2004年に」創業されたとあります。ところで、ここ10年ほどでしょうか、原則、実名で登録して、実名を使うフェースブックが人気になって、世界で25億人が登録しているといいます。YouTube20億人、インスタグラム10億人、ツイッターはわかりませんが、すごい数の人が利用していることになります。このSNSで作品を発表する、というのが現代のツールを使った表現の方法のひとつ、といえます。かってあり、いまもある、ギャラリーでの展覧会、印刷物としての出版、印刷物ではないネット上でのアルバム。それがSNSは双方向なイメージがあって、これが人気のところかと、思のです。

何を撮って、SNSに発表するか、この「何を撮って」という「何」についてですが、身の回りの事柄、友だちと一緒に、それから自分自身。とくに自分自身を撮って発表する、ということ。素のままの自分というより、美人顔にしたり変顔にしたり、コスプレしたり、最近はインスタグラムが多くなっているとヵ。これが動画になってYouTubeにアップされる、という。主に写真や映像が使われます。ツイッターは、そういうことでいえば「文字」情報で、短文で、つぶやく、というスタイルになるかと思います。ぼくもこれらのSNSを使っていますが、いまいち使い方がわからない。なにを載せるかということですが、基本、自分の姿、家族の姿は載せない原則です。

現代表現の表現者が向かうホコ先は「自分」に向かっていることが多いと思えます。自分自身が被写体になる、そういう時代にさしかかっていて、主人公は私、自分、なのでしょうね。そういうことでいえば、この筆者である私自身、私のことに興味があり、私とは何か、けっこう哲学的であり、文学的である問いかけです。表現の歴史を見てみると、個人と世界という位置関係でいうと、個人が世界の存在を知る、世界に向けて批評して、自分の存在を位置づける、客観的にとか、個人的にとか、ソーシャルランドスケープとかパーソナルランドスケープとか、そういう分け方で語ってきたのが、いま、現代は、プライベート、わたしの内面、ランドスケープ、わたしの内面風景、が主流になってきていると思えるのです。

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撮った写真をギャラリー空間で展示する写真展のことです。
写真を壁面に展示する、ここ40年来は額装して、展示する方法が主流でした。
最近は、スライド展示といえばいいのか、言い方がわかりませんがインスタレーション。
ギャラリー空間にはいると、目からだけではなくて、体感させる展示が多くなった。
静止画としての写真は素材であって、素材のありかたすら変容してきています。
ぼくはストレート写真でドキュメンタリー手法で、という方法を採っていますが。
一枚一枚の写真を吟味するという位相よりも、体感させる位相に、でしょうか。
現代の写真表現について、どう解釈すればいいのか、研究したいところです。
ここに使わせていただいた写真は、波多野祐貴個展<Unveil>ギャラリー176での展示。

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雨が降るので外出を控えていて、取り出した本が共同幻想論です。

明日の話しのネタにしようと思って、少しは紐解いておこうと思ってる。
拾い読みして、メモ書きしたりしているけれど、話しにならないレベルです。
そもそも論で、ぼくには、表現とはどういうことか、という命題があるわけです。
それを解き明かそうとして、もがいているというのが現実だと思えます。

もっと実用的なところで、実際の技術論みたいなことを話題にしたらいいのだ。
そう思いながらも、やっぱり本質論みたいに思えるレベルで、話しをしたいわけ。
いかんいかん、自分をいかにも知識ありげなヒトに見させて、驚かせる手法だ。
もっとべたなところで、論を組み立てていかないと、知識の問題じゃないんだから。
結局、対幻想なる枠を話題にして、フロイトとかを引き合いに出して、語ろうなんて。

共同体とか、対の関係とか、個人と社会とか、その関係性を解く、というのではない。
個人の感覚の奥を明るみに出しながら、対なる人との接点を探る、という関係です。
共生する対幻想とでも言葉化すればいいのか、言葉以前の感覚のところを重ねる。
リアルな性的関係を結ぶ、とは別のフレームでの理解の仕方とでも表そうか。
現実に、そんなことありうるのかどうか、それはわからない、わかりません。 

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表現の彷徨
 1~11 2018.4.20~2021.1.30

表現の彷徨-1-
 表現という範疇で、芸術表現を取り上げてみますが、そもそもの表現とは何か、そうして芸術表現とは何か、という定義というか意味づけにまで降りた話をしておかないと、芸術表現というイメージが、個別ばらばらになってしまうのかも知れません。とはいっても、ここでは芸術表現としての画像イメージ、文字イメージ、音声イメージ、見る、読む、聞く、の三つの分野について、その基底を成す描かれる領域について考えようと思うのです。方向としては、社会制度のなかの性的表現について、ということになろうかと考えます。政治的表現であれ、個人的表現であれ、表現を表現として受け入れる社会システムがあって、これは時代によって枠組みが変容するから、その変容によって表現の範囲が決められてきます。この表現の範囲とは、社会制度を崩壊させない思考の範囲ということになります。

 表現の自由ということが、様々に語られています。自由とはなんでも好きなことができる、というのが基本イメージですが、このとき表現の自由とはいっても、この自由は制度を崩さない限りということです。制度を崩すとは、極端にいえば体制を崩す、ということであり、体制を崩すべく方向を示す表現物の表出、ということになるかと思います。真の表現者とは、なんて、今の時代になんのこっちゃ、と言われそう、真とか偽とか、そんな区分なんてありえない、真とか偽とか、なにを基準にそんなことを言うのか、ということ。まあ、二者択一ではなくて、真から偽までのシームレスな枠組みと考えればいいかと思うし、真とは何、偽とは何、と話を拡大していかないといけないし。まあ、結論的にいえば、真の表現者とは、体制を変容させる要素を持った表現物を提示できる者、ということでしょうか。ここでは、かなり曖昧に、概念として、真の表現者像をイメージしております。

 表現の領域についていえば、性的表現というイメージで語られる領域があります。根本には、人間の、ヒトとしての本能に由来する領域だと思えるから、表現史を紐解けば、その原点には性的表現の情を含んでいるのではないですか。表現の対象を、対人関係において描かれる時、そこには男と女という関係が描かれてきます。日本文学でいえば、源氏物語は、男と女の恋物語といえばいいですね。言葉で書かれ、絵として描かれてきます。一気に江戸時代にきて、浮世絵の春画なんて、文字と絵ですが、リアルな絵、リアルとはいっても筆と絵の具が原版で、そこから版がつくられ版画になるプロセスです。この描かれるものが、男と女の出来事、という成人であれば情が動かされる対象になります。言葉でこうしてここに書くより、イメージを提示すれば、それで全てがわかる、とでもいえそうなことなのですが、ここに展示するには憚られることです。

表現の彷徨-2-
 1968年といえば、いまから半世紀前になりますが、ぼくが大学に入学できた年が、この1968年、昭和43年でした。入学できた学部は文学部で、日本近代文学をまなびたいと思って、入学することになりました。この当時は、大学紛争真っ只中の様相で、ぼくが通うようになった大学では、比較的顕著ではなかったものの、いくつかのセクトに属する活動家がいたようでした。ぼくはノンポリではありませんでした。地域では共産党の人が活動されていたし、歌声運動が高校生の間にも展開されていて、知らず知らずのうちに、政治的感覚に敏感になっていたように思います。1968年の春じゃなかったかと記憶しているんですが、フランスで学生の大きなデモが起こっていて、体制に反対、当時はドゴール大統領でしたが、それへの反対、革命とされる事態に至っていることを、新聞記事で読んでいました。

 文学に興味を持ちだして、小説を書きたいと思いだして、大学に入ったら本格的に作家へのトレーニングをしようと思っていました。そのとおりにしたくって、かなりがんばろうと思って、よなよな小説を書きだしていました。高校を卒業してストレートに大学生になっておれば、1968年には大学四回生で、卒業に直面していた年齢です。ぼくは三年遅れで大学生になったから、そのときは一回生でした。大学に入ると、高校の時には後輩だった女子が、先輩になっていて、学友会へ誘ってくれました。その当時、自分の態度は明確にしていなかったけれど、心情三派といわれていると思いますが、反民生のほうに傾いていて、ノンセクトでした。多分にもれず、ぼくの通う大学も学館封鎖があり、バリケードが築かれ、目に見えて活動の拠点が築かれていました。

 文学、近代小説、当時の現代小説、作家といえば高橋和巳氏、真継伸彦氏でしたか、京都大学を卒業で関西、京都に拠点を置く作家の小説を読みました。開高健氏、大江健三郎氏、倉橋由美子氏、まあ、太宰治の小説なんて、話題には出せませんでした。坂口安吾、織田作之助、太宰治、読みましたよ、読みましたけど、無頼派、あまり批評のなかには入ってこなかった。この時代に若者だった文学青年には共通の話題といえば、学生運動があったし、参加するのかしないのか、こういう議論は、参加するという方に流れていきます。ぼくは、セクトには属さなかったけれど、日本の革命は、一段階革命論の方を支持し、必然的に当時の路線に至っていた共産党は支持しない立場でした。1969年の春に東京は本郷にある出版社に就職して、その年の10.21まで勤めておりました。激動の時代、学生運動の時代、大学紛争の時代を、体験した、と言えると思います。

表現の彷徨-3-
街へ出て時間があったので久々に書店に入って雑誌コーナーを見ていた。
月刊誌のコーナー、文芸誌や総合誌のコーナー、昔を思い出しながら眺めていた。
そのなかに「これが官能小説だ」という小説特集があって、手にしてみた。
案外廉価だったし、知った名前のおなごさんの小説も載っているので買った。
ふむふむ、官能小説、最近は読んでない、小説自体を読んでない。
写真の展覧会で、極彩秘宝館に参加した経緯があるけれど、これは映像だ。
直接的な映像や静止画とちがって、文章になると、読む努力が必要だ。
このイメージ展開にぼくも興味があって、10年ほど前から文章表現を試みてきた。

文章表現のなかの小説といえば、最近は芥川賞作品を文春で読む程度だった。
ひところ、最近といっても、もう十数年前になるが、乱読したときがあった。
文芸書だけではなく科学書、哲学書、宗教書、かなり読んだところだった。
ここでいう官能小説の区分には、分かりかねていて、どう処理したらいいのか。
乱読しているなかで、フランス書院、河出文庫、幻冬舎文庫、の文庫本も乱読。
外国モノの翻訳は読まなくて、日本の明治期から現代まで、地下本を読んだ。
永井荷風とか谷崎潤一郎とか、それだけじゃなくて、文学史的には無視された作家たち。
そうい領域の文学が、21世紀になって解禁されてきたように思えた。

官能小説と区分されるフィクションは、団鬼六とか他の作家たち、読んだ。
純文学ではなく、直木賞対象の大衆小説でもなく、官能小説の存在。
興味があって、評論の軸にしようかと思うけど、世間体ということがある。
古希を過ぎたあたりから、これは明らかにしていかないと、いけない。
そう思うようになり、匿名で手掛けてきたフィクションとか、少し明るみにした。
そういうなかで、手にした官能小説集、いま、文学では、なにが起こっているのか。
あらためて、批評の表に出してこないと、文学自体が、矮小化してしまうと思われる。
まだ、時代が追いついていない感があり、ますます区分されているけれど。

表現の彷徨-4- 小説のはなし
事実は小説より奇なり、なんて言葉があったけど、やっぱり小説の方が奇妙ですよ。
想像力にまかせて、小説が書かれる、フィクション、作り物、です。
とはいっても、ひと頃、私小説っていうのは、起こったことを克明に書く、という。
究極、そこま描くことを限定してしまうと、小説のために現実をつくる、ことになります。
小説は、フィクションで、作り話で、現実にありそうで、あってはならない現実を描く。
それに基づいて描かれる小説の世界は、現実に起これば、犯罪領域になる事象が描かれる。
犯罪っていうのは、言い過ぎだけど、それは人間の欲望の証しなのかも知れません。

人殺しは犯罪ですが、人殺しをする小説がありますね。
ドストエフスキーでしたか、罪と罰でしたか、老婆殺しだったと記憶しています。
そればかりではなくて、非道なことが小説の世界では、行われます。
どういうことなのか、文学の領域で、セックスの扱いもあるじゃないですか。
官能文学とか、現在的には、そういうジャンルがあって、そこで様々な行為が行われる。
人間の隠れた癖的なこと、些細なことだけど、セックスに関わること。
生きること、子孫を残す本能、これなんだと思うけど、隠されていますね。

時代と共に、開放されてきた性の話題です。
まだまだ、おおっぴらに話ができる環境には、なっていないとは思いますが。
モラリストの日本は、世界の潮流から、遅れ遅れで解放されてきたところです。
いつまた封鎖されるかわからない神国日本ですが、神の国こそエロスなイメージです。
文学も、映像も、この領域を排除したところで、成立させようとされていますが。
それは、本来的な意味からいっても、越えなければいけないハードルだと思います。
アダルト領域の表現は、もっと正当に扱われるべきものではないかと、思っています。

かって小説を読んだ
どうしたわけか、突然にある詩句が浮かんできたのです。
「ここを過ぎて悲しみの市。」太宰が小説の冒頭に使った文章です。
どうしたことか、突然に、思いがけなく、その詩句が、呼び覚まされてきたんです。
「虚構の彷徨」ってゆう三部オムニバス作品の一番目「道化の華」の冒頭です。
確認のために、太宰治全集(筑摩書房版)の第一巻を引っ張り出してきました。
心中した女が死んで、男が生き残る、男の名前は大庭葉蔵だという僕がいます。
なんとまあ、どうしようもない悲しい気持ちを揺さぶる文章ではないか、と思う。
太宰のフアンだったといえば、キミはどういう顔をするのだろうか、正直、怖い。
太宰は39歳で死んでいるんです。
ぼくはいま72歳だから、まもなく倍ほど生きることになるんですよ。
こわい男だ、小説の神さまみたいな太宰さま、です。
二十歳の時に読んで、かれこれ半世紀が過ぎて、突然に思い出てくる詩句です。
ここを過ぎての「ここ」とは、何処のことだ、と思い出すたびにいつも思う。
悲しみの市(まち)とは、どういう市なんだろうか。
太宰の頭の中に描いたイメージは、それが、道化の華の内容なのか。
でも、いま、この小説を読まない、ぱらぱらとパラパラ漫画みたいにしてみる。
なんか滑稽で悲しみのイメージばかりが詰まった文章のような気がして、読めない。
死ぬかもしれないと思っていたとき、キューブラ・ロスの「死ぬ瞬間」を開けてすぐ閉じた。
その時の感覚なのかもしれないな、ゾッとする戦慄に襲われ、クレバスが開いたからだ。
道化の華は昭和10年「日本浪曼派」に発表された、とあります。
紆余曲折、書きなおされ、この全集に収録された形になっているのか。

現代表現研究の枠で-1-
 写真をめぐる話をしてみようと思うのですが、久しぶりに、その気になってきています。というのも昨夜から今朝にかけて、インターメディウムインスティチュート(IMI)を修了したメンバーから、メッセンジャーで案内が届いたのです。秋丸さんが執筆された本が、アマゾンに出ているというのか、その著書の案内をいただいたのです。ぼくは、アマゾンの会員になっていなくて、最近にはアマゾンのアカウント云々とのメッセージが来ていて、たぶん迷惑メールだろうと思って、無視していたから、アマゾンへは行けないな、と思って購読を残念しました。

 それとは別に勝又さんが、タカザワケンジさんディレクターのIGフォトギャラリーで展覧会をする、という案内がありました。勝又さんのいもうとさんがお亡くなりになった、というところからの奥深い話を、朝一番に読んでしまって、ぼく自身かなりショックを受けたのです。ショックとしか言いようがなくて、それ以上の言葉が紡げないところです。現代表現の先端を行ってる、とかねがねから思っている勝又さんの作品で、非常にプライベートな部分での作品展開になる感じで、そういうことでいうと、まさに現代表現、そのものだと思うのです。

 写真作品の内容や構成や枠組み全体のことを考察していかないといけないところですが、いまは、外観だけを見ています。載せた写真は、このまえ豊中のギャラリー176で、金村修さんの写真展があったときのトークで、ここに勝又さん、金村さん、小松さんがいらっしゃったのです。このギャラリー176の運営オーナーは友長さんでIMIを修了されたメンバーです。枠組みとしては、IMIがかなり底流になっている気がしてきます。あれらから20年近くの年月が過ぎていて、それぞれのメンバーがアートシーンの潮流を創りつつあるあると思うのです。その流れ+でタカザワさんとか金村さんとか小松さんなどが、現代のアートシーン、フォトシーンを創ってきている感触なのです。

荘厳ミサ曲
先ほどFBで、誰かが第九の演奏会は沢山あるのに、荘厳ミサ曲の演奏会は余りないと書いていた。
ぼくはコンサートホールでの演奏会に行くことは少ないけれど、聴くのはもっぱらパソコンです。
ステレオ装置で、レコードで聴いた、後年にはCDで聴いた、最近ではパソコンで聴きます。
ええ、荘厳ミサ曲は、厳かな気分になれる気がして、祈る気持ちで聴きます。
いいえ、聴いていると祈りたくなる、心が泣けてくる、生きてることが浄化される感じです。
宗教の領域といえばいいのか、芸術表現の場所として、そういう荘厳な場所にふさわしい。

万葉の時代、防人が詠む句には、恋人を想う気持ちを込めた句が多いといわれています。
人を恋する気持ちというのが、表現の原点になるのかも知れない、原風景かもしれない。
荘厳ミサ曲の詩句の意味は、ぼくにはわからないけれど、旋律が胸を打ってきます。
第九の合唱にも通じるのだと思うけれど、宗教儀礼に視覚聴覚が包まれると、感動です。
いやはや、感動する枠組みが宗教儀礼なのかも知れない、とすると究極表現は此処かなぁ。
なんかわけわからなくなってきていて、感じること、これに言葉をつけることが無理なのか。

なにもそんなに難しく考えなくてもいいのかも知れませんね。
言葉で連ねる時代は終わって、いまや感覚で感じる、空気の振動を身体で感じる。
けっこう直接的なところで感じていくのが、現代なのかも知れない。
ということは現代の表現は、感覚が前面で、言葉なんかで紡げない、こういう方法もある。
静謐に感じさせられるか、色艶に感じさせられるか、対極の二つが、表現の根底ですかね。
静謐な神と色艶なエロスを、両方は無理で、どちらかを表に現わす、それで対極を感じさせる。

表現の彷徨-5-
美しいモノは美しい、この桜の花は美しい、とぼくは思うのです。
美しいというイメージについて、何を持って美しいとするのか、ですね。
心がふるえる感じを受ける、そんなモノについて、美しい、と表現しようと思う。
ナマな感覚で、生きている感触、いいなぁと憧れる対象物(相手)が美しい。
現代の表現、その中心となる領域は、この「美しい」が主流ではないかと思うのです。

理や知ではなくて、たしかに「我思う故に我あり」論もいいけれど、この時代は終わりました。
いや、文学や美術や映像の表現としてのことで、理や知を否定するものでは全くなしです。
表現されるモノと作者である自分との関係、距離感というか、位置関係のことです。
ぼくの内容がまったく正しいなんて思っていませんが、ぼくはぼくの正解なのです。
プライベートな、肉体と精神、この関係からくる文章であったり画像であったり、です。

-6-
プリクラが20年ぶりにバージョンアップするとのニュース報道がありました。
ボックスにはいって、写真を撮る、自撮りではなくて、自分を撮る、そのボックスです。
一世を風靡したプリクラです。
女子中学生や女子高生、女子の大学生までが友だちとポーズをつけて撮っていました。
それのバージョンアップということで、動画が撮れる、静止画をまとめて動画にしてくれる。
それを自分のスマホに転送してくれるサービスです。

スマホを使って、自分たちを撮る自撮り、が流行っています。
写真に登場する人物は、自分です。
素のままの自分の顔ではなくて、いろいろにアレンジできて美女に変身です。
時代の流れのなかで、撮られる写真の被写体が、プライベートになっています。
それから通信機能が向上して、画像は静止画から動画になってきています。
チャットがテレビ会話になってきて、ますます簡便に使えるようになるはずです。

これまであった方法で、写真を撮り、紙にコピーして展示する、という写真展です。
絵画のサロンをまねて、写真のサロンを開催したフィルム時代の産物、写真展です。
デジタルになっても同じ方法で写真展が開催される一方、ネット上に展示される。
ネットで展示して鑑賞するという方法は、ある意味、展示写真展より下位にあります。
しかし、一方で、プリクラがあり、インスタ映えがあり、いよいよ動画の時代なのです。
ニーズは、新しい方にむけて、発車して、そのうち全盛を迎えることになる、ですね。

-7-
阿弥陀堂のなかにはいって、正面に座ると、目の前に救いのイメージが出現します。
救いのイメージとは、救済、慈悲、宗教の領域、それは仏教で、浄土の光景なのかも知れない。
阿弥陀堂には、救いの手、救われる手、救われる空間があって、人は救われに行くのです。
この世に、宗教の領域があって、経済の領域があって、芸術の領域がある。
様々な潮流があって、人間を捉えるとらえ方が、時代とともに変化していると思えます。
ぼくは、この救済する、救済される、という関係イメージに、表現の内容を置いてみたいのです。

何のために表現するのか、と問えば、欲求を満たすため、という答えが返ってきます。
確定的に答えを返して、その欲求とは何か、と問うところです。
欲求とは「満たされる」ことを求めることだとすると、生存の基本条件を満たすことが底辺です。
健康でありたい、美味しいものを食べたい、愛を交感して結ばれたい、安眠、安定、これですね。
この基本条件を満たすために、世の中、けっこう複雑に絡まって、目の前に見えてくる。
表現、この波間に漂いながら、満たされる方へと求めていくことだと、思えます。

-8-
<食べ物>
なんとなんと食べ物の写真を撮ってはブログに載せて雑文を書いています。食べ物ってある種魔物ですが、現在のネットにおいては話題として健全の域にあります。エログロナンセンス、そういう範疇ではなくて、食は生きることの基本にかかわることだから、関心事です。食欲、テレビの番組でも食にまつわる話題は豊富だし、これで犯罪になるわけではなく、健全なわけです。これなんか、天丼ですが、まあ、天丼を食べる店というのは和風の店で、パン粉をつけて揚げるとカツになり洋風の店です。食べ物の話は、うんざりするくらい、いっぱい巷にあふれています。でも、本当は、そういうのを求めているのではなく、もっと隠れたところへの興味だと思うんです。

再録ですが、
何のために表現するのか、と問えば、欲求を満たすため、という答えが返ってきます。
確定的に答えを返して、その欲求とは何か、と問うところです。
欲求とは「満たされる」ことを求めることだとすると、生存の基本条件を満たすことが底辺です。
健康でありたい、美味しいものを食べたい、愛を交感して結ばれたい、安眠、安定、これですね。
この基本条件を満たすために、世の中、けっこう複雑に絡まって、目の前に見えてくる。
表現、この波間に漂いながら、満たされる方へと求めていくことだと、思えます。

-9-
なにが正しいのかわかりませんが、ニコンのアルバムを解消しました。
もう十年ほど前から作っていた写真アルバムの写真そのものが、古くなったから。
キャノンのアルバム、ニコンのアルバム、フォト蔵アルバム、いったん反故にします。
だいぶん迷ったんですが、新たに、組み直した方がいいなぁ、との思いです。
膨大に時間を注いできたアルバム作成でしたが、それはそれでいいかと思うところです。
手元から、書籍類が無くなってきて、残すは少しだけ、アンナさんの手元へいくところ。
断捨離というけれど、いつまで生きれるかわからないから、困惑するんですね。

-10-
彷徨という漢字の意味を引いてみたら「さまよう」とありました。
「表現の彷徨」というシリーズで、さまよえるにっぽん人、を演じています。
音楽の楽曲で「さまよえるオランダ人」というのがありますが、それの自分編。
年取るとともに、考えが確定してくるというより、揺らいできます。

おぼろげ、さまよい、若いころにはなかったそんなふわふわ感です。
表現物としては写真をメインにしていて、表現の基底が確定してきません。
そんなもんかも知れませんが、なにか確固とした思想が、あるのではないか。
そんな確固とした思想なんてあるわけなくて、いつも流動的なものだ。

表現することとは、一筋縄では括れない、いっぱいあるんだと考える。
でも自分ができることは、自分の方法でしかなくて、いたって単純です。
その単純さが、じつはそうではなくて、もっと複雑なのだと言えそうです。
もうハチャメチャ、迷宮入りしてしまいそう、わけわからん、です。

-11-
さまようと書いて、変換したら、彷徨う、と変換されました。
彷徨う、音読みで言えば、ほうこう、なんだけど、最近はこんな言葉使わないかなぁ。
太宰を読んでいたころだから、もう半世紀も前ですが、虚構の彷徨、なって小説があった。
虚構ってのは作り話で、ぼくは小説といっているけど、ぼくのはリアルロマンノベルです。

リアルにロマンを加味したノベル、まあ、日本の区分では、官能小説と呼んでいるかな。
もっと地下文学みたいなイメージで、ロマンポルノをこえるポルノにしたいと思う。
谷崎潤一郎とか永井荷風とかほど艶やかな文体ではないけれど、まあ、現代小説かなぁ。
デジタルの時代だから、パソコンのブログに書きあげて、ホームページにて出版です。

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