中川繁夫写文集

写真への手紙 覚書

第一部のためのノート

1988年2月14日付の書き出しで始まるこの「写真への手紙 覚書」はついに6年後の1994年の今まで引きずられて来て、第一部五編が上梓される。「写真とは何か」という命題は、遠くから問われてきて今もなお様々な切り口から論じられるところだが、核心に迫るところまでには至っていない。私にはこの問いかけ形式は永遠の課題であろうと思われる。これは、そもそもの問題の発し方あるいは設定の仕方自体が解決の糸口を掴まさないのであって、本来的には「写真はどう在るべきか」といったような、私が生きる人間社会での存在の仕方に言及肉薄していくような設問であれば、かなり自由に結論を導き出すことが出来るのであろう。

にもかかわらず私は、このエンドレスゲームを演じ続ける。あたかも永遠の青い鳥を探し求める様子で、また永遠の愛を求める時代の摘出子として。1994年1月17日、私はついに、写真とともに、これからの残された生を営む決定を下した。このフライトが明確な目的地を持たない離陸であることを百も承知した上でのことである。一過性の現象として私がカメラを持っていたのは、1975年から1984年にかけての、およそ10年間であった。処女詩集発行が1963年12月の日付だから、初期10年間は文筆を重ねていた。写真を撮っていた時期においても1978年から文筆を重ねているから、やはり私の基本体は文章を書き連ねてきたことになりそうだ。この最近の10年を経て、私は再びカメラを持ちたい欲求に見舞われている。

この写真論をディスクールし始めた1988年から私の履歴は大きく変遷してきた。しかし連続した内面の感情の流れは、やはり螺旋階段を昇り降りしているだけである。この感覚は少年の頃と対比してみても大きな変化は無いように感じられている。ただ年の功を経過しているだけ、俗に云う経験豊富になり、少年のころの初々しい恥ずかしさといったものが、厚かましさに変化しつつあると思われる。そして過ぎ去る時代とともに、過ぎ去る私の眼差しは、それぞれの時代と密着しながら変遷し続けている。

この「写真への手紙 覚書」と仮に題されたディスクールは、私の生の大河ドラマとなるべきものであると考えている。何時の頃からか私の内部には、全七部32編の覚書との構想があり、ここにひとまず第一部として五編からなる試論を展開した。しかしいずれの編も未成熟であり未完成である。私は言葉の連なりとはおおむね逐一、追記・訂正されていくものだと考えている。ただ第一部のテーマ設定としては、次のような枠を想定した。

それは写真の歴史150余年が培ってきた写真の存在について、新たなる写真の在り方を模索することであった。写真の在処を探すこと。この試論展開の直接の引導は、ロラン・バルトの「明るい部屋(LA CEAMBRE CLAIRE)」と題された写真論との出会いから始まっている。ディスクールの冒頭もそこに拠っている。しかし私の写真論の展開の過程においては、現代写真の質そのものが問題となった。これはそれまで私が体験してきた写真論(ドキュメントつまり記録)から写真を解き放つ試みとして、私にインパクトを与えた写真と私自身の体験の考証をシンクロさせながら、結果として「私」の問題として捉えようとしているようなのだ。

なるべく考証論と成らないように、私の内部に立ち現われてくるイメージを前面に据えようとの思いが、現状の評論方法としてかなり無謀な企て(策略)であることを百も承知でここに至ったと云える。今後、ここに著されたディスクールを見つめ、そこから派生する細部を解き明かしていく作業を想定しながら、私は私の生を連ねるだろう。

一方の私の思惑には、1980年代後半から1990年代は、写真の歴史にとって大きな過渡期あるいは転換期であったと、後の写真史家らがおそらく詳細に論じるであろうことを予測させるに十分な感触を、私は直感として持っている。その過渡期あるいは転換期にディスクールされたものとして、ひとまず私のこの「写真への手紙 覚書」五編の試論は上梓される。そしてこの五編の試論は、私の感性とシンクロさせてくださる、あなたに捧ぐ。

   Shigeo Nakagawa 1994.2.10


   写真への手紙 覚書
     第一部 目次

   第一部のためのノート

   写真の意味 試論

   まどろみの中 試論

   透明な写真 試論

   自写像の論 試論

   写真記録論 試論

   第一部のための付録(省略)

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