中川繁夫写文集

(4)
秋風のなかに立っていると黄ばんだ木の葉が舞い落ちてきました。ぼくは風に吹かれて皮膚が快く共振しています。感じています。生きることってどういうことなんですか、というあなたがお出しになった問いを解こうとしています。

ぼくの魂は時計の振り子のように振れています。これまでぼくが経験して培われてきたこの世では価値とよばれているものが溶解しはじめているようなのです。あれらと共振するぼくの魂というのはからだと切り離すことができないものなんですよね。

自然のなかにぼくの感性や情動を委ねていくことはぼくの生の現象を確認していく手だてとなるものとの想いがあります。ぼくの関心の中身は自然とともにあるぼくが身に受けるさまざまな事柄への興味なのです。ず~っと向こうのほうまで傾斜していくんです。

ぼくが身に受けて立ち上がってくる想念を写真に撮り連ねていくことがぼくたちの織り成す物語への発端になるように感じます。ぼくたちがいまを生きていることの意味を問う物語としてそれらは撮り連らねられていくのでしょうね。きっと。

でもあれらの物語は多くの真であると同じだけ多くの虚をはらんでいるとおもっているんです。真と虚を前提としてのあれらの物語。あなたにもわかるでしょ?それがぼくのからだの奥深~くから発生してくるあれらの断片であるということがね。

かつてぼくはイメージ過程説という概念を想い描いたことがありました。ぼくたちが共有の磁場を発生させることができるとしたら、その磁場における磁力はふたりのあいだでどこまで交感し重なりあえるかということでした。

ぼくが描いていくイメージの断片である言葉をあなたにつなげること。あたかも一枚のマテリアルとしての写真のように目を閉じてまぶたに浮かぶイメージがまるで写真のように見えるその見えかたで重ねあえることができるかどうかの試みなんです。

かつてぼくたちの先祖が織り成してきた創成物語が生じる風景とはどのようなものだったんでしょうか。いま海に浮かぶくらげのようにぼくの内面にあるあれら恍惚とする風景はどこから導き出されてくるのでしょうか。

ぼくの風景の発見はぼくの魂の発見につながっています。魂を発見していくことが新しい物語を創生していく場の起源となるような質を孕むのだろうなと思っています。

ぼくたちの恍惚とする風景の発見は何を指し示しているのでしょうか。すでにこのぼくはぼくの外側にひろがっているものの総称を風景と名づけておりそのことを認知するものの総称をぼくの魂と呼ぼうと思ってます。

でもこの分けかたの認識がどこからやってきたのかということを問うてみます。そうするとことばのなかからやってきているのではないかなと思うんです。そんな状態でぼくがここですくい上げてあげることでぼくの全身を揺さぶってくる情が湧いてくるんです。

その根底の情動という得体のしれないものがぼくを突き動かしている感情なんです。その風景はからだの存在や魂の存在そのものを忘れさせてしまうなにかなのです。からだと魂が一体化すること。これって恍惚そのものですよね。

これから起こると想定されるぼくにとっての理解不能の現象は「おどろき」の感情を誘発することであると思います。あれらのこと自体を空想すること。幻覚を呼び込むこと。幻視すること。幻聴すること。恍惚を得ること。

深~い悲しみのあとの恍惚はあれら幻視・幻聴・幻覚をとつとつと語りはじめることでぼくたちの物語はきっとあたらしい創生の物語としての体系が培われていくのではないですか。ぼくたちの花物語はそうした磁場を形成していくことで磁力が働きはじめるのではないですか。

自然の現象とぼくたちが交感するあれら恍惚感覚のなかでそれぞれの感性を織り込んでいくイメージがおおきなうねりとなって記憶されていくときをあなたと共有したい。
いまぼくたちは自然の現象のなかのぼくたちとして生成されてきているようです。光と生の記憶に参入していくことで自然とぼくたちの交感がはじまってきているのではないでしょうか。あなたは感じますか。

ゆっくりと時が流れています。その時というものを遡行したり解体したりしていくことができるようになりたい。ぼくたちってその試みをおこなうことをもってあなたとともにあたらしい愛の関係へと紡いでいかなければならないのではないでしょうか。

ぼくはあれが起こってくるそのみちすじと情動がゆらめいてくる根元を見つめようと思っています。ぼくは想起する記憶の点検をおこなっているんです。ぼくの体験は生として発生して来てからいままでの時のすべてです。ぼくのすべては大地のなかに育まれてきました。

この世で文明とか文化とかいっているなかに延々と培われてきた記憶っていうのがありますよね。ぼくたちっていうのはその広い記憶の風景から作られてきているんですよね。で、ぼくたちはそこからの脱出ができるのかという問題を想起してみようとしているんですよね。

ぼくたちの日々の記憶は生まれたときからいままでの時を軸として共にあるのですよね。ぼくたちはからだに記憶の光景が想起されてその光景の意味を解釈しようとしているんですよね。このことってぼくたちの記憶に意味をもたせる基になっているんでしょうかね。
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(3)
その前後に構想されて撮られた映像群をぼくは「マイスイートルーム」と名づけていました。あれらの光景はぼくの空想的極私時間における恍惚に満たされた光景でした。


あれらの光景を映像に仕上げていくプロセスには永遠の未公開として封印することを前提とする撮影でした。非公開という発表のしかたがあってもよいと思っています。でも一方で、その経過した時間のなかで体験した宙吊りの感覚は去っていきませんでした。

愛していたものを喪失しいまや不在となってしまった時がもたらした結果はぼくの生を枯渇させつつありました。でもあれらが行き去りさった日々のあとのあの日の出来事はぼくに一条の希望の光が与えられたようでした。ことの成り行きは偶然のなかで起こりました。

初めて会ったものがともにする時間のなかでした。あれが仰ぐあなたからの啓示だったのかもしれません。あなたは風のごとく天女の羽衣をまとって降誕してきたのですね。幻覚はぼくの魂を揺り動かしました。あれはぼくたちの生の時のなかから偶発的に生じてきたように思います。

それからの時が経過していくなかでぼくの魂はあれに深く共振し反応していきました。深~い悲しみの物語ってありますよね。きっとあのときすでに始まっていたのだと思います。ぼくの時間はあのときからは全く別の時と交差しながら編みあげられてきたのです。

悲しみはあれらの日々に想起されてきた空間を花物語として認知しはじめていました。きっとぼくたちの花物語は時や空間や体や感覚といったすべての領域で創造されていくように感じます。

もうお別れ。ぼくはあらためて目覚めようとしているのかも知れません。あるいは夢見にはいろうとしているのかも知れません。その風景の感じはこれまで編みあげられてきた原理が超えられてゆく予感でした。その原理の外側のずっとむこうにおぼろげに見えてきているでしょ?

信じて仰ぎみるといわれてきた領域をも超えていくなにか・・・・・をも超える感覚を得ていくことへと近づいているようなのです。ほのかなひかりが見えてきているでしょ。ほ~らね。よくみてごらん。そのひかりは何処からきているのですか。

「ほら、見てごらん、あれを・・・・あなたにも見えるでしょ」と啓示されたかなたに見えはじめているもの。ぼくはまばゆいなかに新たな物語が幻想深くに創生されはじめているように感じはじめました。

あれのイメージが生成されてくるためにも光とたわむれながら山の小鳥や花草木とともにあの日々のなかで失われた時の物語をえていこうと思います。
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(2)
雪の季節にはまだ日々がありました。小鳥や虫たちはまもなくやって来る幻のような冬にむけて準備をしています。かれらはいのちの凍える日々がやってくることをどのようにして感知しているのでしょうか。

いつの日か山で写真を撮りました。なだらかな起伏の斜面に土があらわになっているところがありました。その風景には苔と羊歯が生えていました。そこはぼくたちがこれまでに幾度も探索していた風景でした。

夏には木々の茂りと群生する草で覆い尽くされていました。冬には雪に埋もれてぼくたちの侵入を阻んでいました。その風景は雪がとける春と雪が積る冬が訪れる前だけぼくたちに開放してくれました。春には山のせせらぎでふきのとうやせりやわらびなどが採れます。


冬の前には、銀杏だの胡桃だの栗だのが採れます。ぼくたちは山の生きものたちと一緒になってそれらを収穫しました。ぼくたちはその風景に生の息吹を感じていました。その山の風景は生誕の起源から計り知れない時を経てきているのですよね。

ぼくたちがその風景のなかにいるときにはひとのたましいが生じてくるはるか以前のような気分になっていることです。

遡ること二十年も前にぼくは死の道行とそのあとの世界の写真を撮りました。地獄絵の複写でした。それらはぼくにとっての最後の撮影でした。それからとおい時がたってしまいましたがいまその光景が想い起こされてきます。

ぼくが最後の決意をしたころの感情を思い出しているのです。そうだったね。ぼくを封印すること。もうカメラなんて持たないで生きようと決意したあとの夏のお盆でしたね。


山での日々が始まったころぼくの霊気がよみがえりはじめました。それから数年が経ちました。すべてを記憶の海に埋没させてきた日々をこえて。あらたな日々の記念にひそかにその斜面の光景から撮りはじめようと思いだしました。

その光景は山の斜面に生える苔と羊歯でした。苔と羊歯は生命というものを死界からよみがえらせる境界としてあるようでした。ぼくは仰いで受け入れることの畏怖を感じます。生命の起源についてへの問いかけは、いまのぼくの関心の中心をなすもののようにふるまっています。

ぼくは情動のままに生きることにまかせてみようと思いました。いつから悪の感情が漂いはじめていたのでしょうか。日々、織り成されてきた生活の原理というもの。原理はこの世のこの仕組みを維持するものとしてありました。

この世という仕組みに生息するぼくたちは情動において全く交差しない悪の日々にあるのではないですか。ぼくたちは残された生の時間をもう一つの圏内に営む決定をしてもいいのではないですか。
ぼくはその日々たちを「写真への手紙・覚書」という表題にまとめながら手許に置いていこうと思っています。記録ということの解体と新たなイメージ過程の創生へと向けられた論はぼくの未来に向けた論そのものになるはずなんです。

写真の奥深くを探っていくことってそれらまでのぼく自身の未来における死を告げていたようでした。いつのころからか宙吊り感覚に遭遇していたぼくはその風景において喪失の気分を感じとっていました。
山のなかで生の在処としてのあらたな写真のありようを模索しだしたようでした。ぼくがあなたにむけるまなざしを根拠にして関係のありようの根拠を模索しはじめたのです。

写真とは愛が形となったものではないですか。
愛を形にしてあげること。これがぼくの求めていく写真の真顔だと思っているんです。


写真が愛の形というのならそうと認められるイメージが「いま・ここ」にあります。だってぼくは愛の形の細部を探求していく探検家になったような気分になっているんですもの。
ぼくが再生していく最初のテーマは「生命のよみがえり」でした。ぼくにおいて生命というものがおおむかし偶然に生成しはじめたイメージの最初は苔と羊歯だったのです。このときをしてぼくのなかにあなたがやどった創生記念日となったのですね。
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(1)
むかし山の中にいてふっと顔をあげると光が木の葉のさらさら揺れる間から漏れていました。木漏れ日がぼくの目の中にはいってきて透明で真っ白な光の糸の束が網膜に映りました。ぼくは一瞬あまりのまばゆさに目を閉じて光の侵入を避けようとしました。
光のまばゆさに皮膚が反応しました。ぼくは頭をぐらぐらと揺らしてしまいました。本当に光のやつめぼくに不意打ちを食らわしてしまったのです。


あぁっ! という感じで目の皮膚を開きからだの内側を開く感覚が起こってきました。
ゆっくりと、あらためてぼくは顔をあげて木の葉の間から漏れてくる光に目をあてました。光の束はぼくの内臓の深くまで刺し込んでいるようでした。そのとき透明な糸の束のようなものがからだからぬけていくような感覚を味わいました。
真っ白なここちよい感情が涌いてきました。野の鳥が甲高くさえずりながらこずえを渡っていくのが聴こえてきました。
光の間で野の鳥二羽がたわむれているのでしょう。さえずりは山の風のなかに深~く吸い込まれていきました。

鳥の姿は見えませんでしたが緑の葉々はかすかな風にこきざみに揺れています。葉の一つひとつが揺れあい重なりあっています。光はその透き間を縫って入ってくるのでした。ぼくの身体は微妙に奮えておりました。
ぼくの皮膚は光と野の鳥がさえずる甲高い声に反応しています。からだのなかの器官が内側からひらかれて山の生気のなかにほどけていく感覚です。開放さされている感覚。からだがもうなくなった感じです。きっと山の生気と交感しているんです。

山の生気に揺らされていく様子は、ぼくが開放へ向かっていく感覚のようです。
からだはふるえてナイフでえぐられたように深淵を見ていました。
その深淵から立ちのぼってくる感じは快感につながっていました。ぼくはからだの中で微妙に揺れ動いている魂を感じていました。

山のなかの陽だまりに山茶花が淡いピンクの花を開いておりました。花芯は黄色いおしべに満たされています。

光を受けた花びらは帷子のようです。しっとり濡れた花芯は困惑しているように見えました。別の魂が花芯に入りこみからだを動かしはじめました。
情動がゆらゆらとした気分を充満しはじめました。花芯は生命の根元を光に向けます。からだの神秘を開示するように全てを開き受け入れています。ぼくには生命とはなにっていう懐疑のような気分がしてきています。
ぼくの懐疑は「なぜここにいるのですか」「どこからきたのですか」「どこへ行こうとしているのですか」……。「ぼくとはいったいなにものなのですか」という疑問を解き明かすこと。

ぼくにはあれら生命生成のときの存在と不在という謎について問い続けられる終わりのない旅のように感じているのです。

ぼくはみんなが生きた痕跡をあかしとして残していくために物語をつくろうと思っています。その物語は花たちのなりわいを明らかにしてあげること。そして光と共生する「存在」を記憶にとどめておいてあげること。
ぼくがいま想起している記憶の像はすでに目の前には喪失してしまったものたちです。もうはるか以前にいなくなった母の記憶が起こされるときすでに不在となったその風景はぼくに生きることの根拠を問うてきます。

母がいた風景が起こされてくるときぼくのからだには悔やみこむ気分がともなってきます。ぼくはからだから起こるその情動とその昇華の軌跡をみつめています。想い起されてくる像は宇宙のまんだら像のように感じています。
これはからだのなかにある無意識の深~い淵なのかもしれないな。この像は無限大の円環を超えていく環のなかにあるような感じです。ぼくが想いをめぐらしているときって……ぼくの想いを介してあらたな生の神話が産まれてきているようなのです。


ぼくのからだの根源は無限大の宇宙へ向かうまなざしと無限小の宇宙へ向かうまなざしとが交感しています。ぼくの根源の疼きは性と情動そのものへとまなざしを傾斜させています。
ぼくのこの感覚っていうのは愛に包みこまれる領域でしかとらえられないのではないでしょうか。ぼくはからだのなかから湧きでてくる境界のない深~い感覚をもって生存しています。この感覚はぼくが想起する不在の記憶像をあれに伝えていくもののようです。
もうこれまであった意味なんて解体しちゃった。その風景に創生。ぼくの物語の根源はぼくたちが出会ってしまったことから始まったんですよね。ぼくたちが宇宙感覚といったあのときっていうのは生命体が発生した瞬間の生命の外界と皮膚との境界面について語っていたようでした。
生命体の起源についての想いはあれが存在するという未知への旅たちとしてとらえればいいのでしょうか。明確に見えていた風景がとつぜん朦朧とした膜の内部の世界へかくれていくときってありますよね。

そのときぼくは大きな光の束を見るようにそうして深~い疼きのような闇の魔をみるように怖れる気分になっているんですよ。この気分って一体なんなのでしょうか。ぶるぶると寒気がするようで熱っぽい気分で全身の髄まで奮えちゃうんです。
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2006.5.25
えろすは癒し?

心と身体が一体となってあるんだけれど、現代人としてのわたしは、これが分離したかの感があるんです。心が浮遊しているとでも、心が沈殿しているとでも、言えるかと思うけれど、身体と心が分割されていると思っています。そこで、この心と身体が一体となる条件&状態を思うと、それを満たすのが「えろす」ではないかと思うわけです。えろすは性愛であり、男女の結合が根本です。

性的満足、性的充実、えろすが満ち足りるとき、ヒトは自我を忘れて心と身体が一体となる。このように思うのです。そうすると、えろすをベースにおいた出版とか映像とか、インターネットのなかの情報交換とか、それらの存在が擬似体験、代償行為であると思うのです。この領域が水面下で盛隆するのは、本能が求めるからです。

イメージはバーチャル、擬似体験です。根本はリアルな身体の満足です。食欲を満たす満足、性欲を満たす満足。リアルな身体の二つの満足を得て、ヒトは心と身体が一体化するのだと思うのです。最近流行の癒しとかセラピーとか、その領域にえろす充足をおいてあげること。ヒトはえろすのバーチャル体験をすることで、癒されているのではないかと思うのです。いえいえ、バーチャルだけではダメで、それを介して実体験、リアル体験を導くのですよね。

2006.6.17
えろすとかろす

えろすは愛、かろすは美、そのように括ってあげて、愛と美は同類項だと思っています。ともに感情に由来する領域です。感情に由来するというのは、身体的な感じ方だと思っています。

じゃあ具体的に、愛とは、美とは、って問いただしていっても、論理的に組み立てていっても、結局は結論なんて出ない領域なんですね。だから感情、感覚、感じる感じ方なんだと思っているわけです。

こころが震えるって感じの、感動のしかたってあるじゃないですか。ゾクゾクって背筋が寒くなるような、感動のしかたとか、もう見た瞬間に、ぽ~っとなってしまって、前後見境つかなくなってしまうって感動のしかたとか、いってみれば、こころが浮き立って、別世界へ誘われる感じのもの。

愛も美も、情であり、情が動かされることであり、その動かされ方の質の問題だと思います。情は動物的な側面があります。動物本能のところに根っ子があるように思います。

そこで再び、えろす、かろす、の問題です。えろすもかろすも身体的に捕える視点だと考えています。情動的なものをより情動的に高揚させていくとき、かろすが立ち現れてくるのではないかと、まあ、このようなステップとして構造化してもよさそなことなのかも知れないです。

えろすとかろすの問題は、アートもしくは芸術といわれている、その中味、その心はなんだろうと、ふっと疑問に思って、解明してみたいなあと思うなかから出てきたテーマなんです。

2006.6.23
えろすの現状

ヒトのからだって、まったく動物なんですから、食欲と性欲があってあたりまえなんですね。生涯をその、食べることと生殖することに費やす動物と区別するために、ヒトは、とか人間は、とかの括りをつけて、区分しちゃうことに無理があると思うのです。

情にしても情動にしても、リアルにはセックスが根底に潜んでいると思うし、感情っていうのもそれに支えられているように思うのです。なのに人間社会は、支配、秩序維持という名目で、この本能を潜在化させてきたわけです。道徳とかモラルとか、ヒトが本質的に持っている感情とからだの関係を、切り離してしまって、社会をシステム化してきたと思うのです。

現代アートのテーマは、けっこうリアルにセックスを扱います。肉感的というか、体感的というか、疑似体験をさせて、神経回路を挑発してくる作品が多いように思います。それに、からだの科学的分析が行われてきて、人体の細部まで、解明できつつある現代です。そういった現状をふまえると、「えろす」のことは避けて通れない時代になったと思うのです。

特にインターネットに代表される情報交換時代になって、直接神経系統に情報が侵入するいま、現在です。古代彫刻の美意識、写真映像時代の近代美意識、そして現在です。あえて表と裏という区分の垣根が、次第になくなりつつある時代のように感じます。ヒトの身体的欲望を開放していく道筋に、いまがあるように思うのです。

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