中川繁夫写文集

2005.8.31
ヒトの研究(1)

ヒトの研究、なんて大きなタイトルをつけたけれど、どっから切っていこうかな、と思うところです。ここで「ヒト」という単位は個人です。社会と個人、この対置法でいえば、社会とヒト、です。ヒトという単位、このヒトを中心に据えて、話を展開していきたいと考えます。

天動説と地動説。これは「地球が中心で宇宙が動いている」に対して「宇宙が中心であって地球も動いている」という発想の相違です。そこで、ここでの論法は、やっぱり個動説、社会が中心であって自分がいる、または、社会が動き自分も動く。社会とヒトの関係は、相対的な関係である。

ところで、ボクの興味は、ヒトの内部です。人体の内部ではなくて、ヒトの妄想や空想を生じさせる内部です。科学の領域で、体内器官や情報伝達物質の解明が進められ、記憶の発生構造や記憶がなすところの作用なども解明が進められている。としてもまだ不明なところばかりです。

ヒトの心には何がある?心の構造をモデル化しようとの研究もある。こうしてモデル化する科学手法があったとしても、その、なんと云うか、ね。「情」いうこと「情動」ということ、これですね、問題となる研究課題です。

情というモノが動いて「情動」。情が動く、情が動かされる。この状況をヒトの中に見出し、あれやこれやの言説を導き出したいと考えるのです。情が動いて言説化していくこと、言説化していくことで情が動くこと、これがスパイラル状で、ヒトの内部を構成する。

それから、身体と情の関係をも知りたい。身体と心、という言葉で括られる領域を、見つめてみたい。その実験材料は、ボク自身である。自分自身を実験材料として、「ヒト」というモノを考える。これが最初の切り口です。


2005.9.11
ヒトの研究(2)


<生きる力>

ヒトには、生きる力が備わっている。生命力といてもよいです。ヒトだけじゃなくて、生命体には、生きる力が備わっている。力はエネルギー。このエネルギーを燃焼させるためには、絶えざる燃料補給が必要だ、という前提での話です。

自然構造というか宇宙構造というか、ヒトが生きる力を持続させるのに、うまく循環できる構造になっていると思っています。ヒト→人→人間→人間社会、と言葉を変えて拡がらせていくと、人間社会ってのは、かなり無理をして<生きる力>を作ってるな~と思ってしまう。

人間→人間社会の範囲でいうと、年代区分として<近代>この400年を念頭に置こう。かなり無理してきたな~!本来の<生きる力>を覆い隠して、人工的<生きる力>を無意識化させてるな~!これが文化力だといえば、その恩恵を施されたボクは、感謝の至りだ~!と思いたいところだけれど、いま、そうは思わないんです。

今の<生きる力>には、逸脱して感じる<力>も必要だと思うのです。この<逸脱して考える>ことを封印されてきた近代を<発展>あるいは<進化>というのだそうです。この発展や進化は、生きる力を喪失させてきたのではないか?と思えてくるのです。

ヒトには逸脱する本性があると同時に、逸脱しないようにする本性がある。ホメオスタシスっていうんだそうですが、外界に対して自己保全する力です。このバランスの上に立って、エネルギーをどのようにして外化させていくのか。

生きる力は、身体を保持する(但し老化します)と同時に、それ以上の力で、外へ向けていくことができる。外へ向ける力は、集団力となり、家族共同体となり、地縁共同体となり、国家の形になってきた。国とは、囲いのなかに王がいて、<、>というものがある。<、>は国民のことなんだろうな~ふざけるな~っていいたいですね(笑)

生きる力の原点回帰現象が、最近顕著になってきてるんじゃ~ないでしょうか。
自然環境のなかのヒト、生態系のなかのヒト、循環系のなかのヒト、近代が作り上げてきた構造の恩恵を享受して、なお、この発想が生じているんです。やっぱり、これも発展、進化の一環として捉えるんでしょうか。


2005.9.20
ヒトの研究(3)

<情>

ヒトには情というものがある。情は、なさけ、気持ちを傾斜させていく。感情というのがある。情を感じるといえばいいのだろうか。情動というのがある。情が動くといえばいいのだろうか。
<情>を国語辞典で調べてみると、(1)物ごとに感じて動く心、とある。(2)なさけ(3)まごころ(4)男女間の愛情、と続く(昭和31年初版/角川国語辞典による)

この<情>に、最近関心をもっている。花を見て感じて動く心がある。ボクは男だから、女のヒトを見て感じて動く心がある。この動く心についての、思いなのだ。というのも、ボクというヒトの中に、算数や理科や国語の知識を教えられて、また学んできて、考えを組み立てる仕組みを持っている。ああすれば、こうなる、という推論を立てることもできる。この領域を、<理性>というのだと思うが、一方で<情>という対立項がある。

<情>はままならぬ。突然、襲ってくる哀しみの気持ちとか、女のヒトを見てワクワクする気持ちとか、とかくままならないのだ。理性で抑えられることは出来る。大人というのは、おおむね情を理性で抑えることに尽きる。とはいえ、身体の奥底、心と云われる得体の知れないところで疼く情を、どうにか開放できないか、と思うわけだ。

文学や写真を志向して、ようく考えてみると、この<情>をどのように扱うか、というのがテーマであるように思う。いやはや、どのように扱うか、ではなくて、どうして伝えるのか。これが、今求める、テーマである。
伝え方は、文章の場合は、文字(言葉)で状況描写と思う気持ちの描写だ。写真の場合は、具体的なモノの定着だ。その行為を通じて、情を伝える。

それにしても<情>とは、どのように定義すればいいのだろうか。


2005.10.5
ヒトの研究(4)

<情動>

ヒトの不思議なところは、情が動くという情動という現象です。いや~これはヒト特有の代物ではなくて、生命体の全てが持っている現象なのだと思うのです。
身体という有機体としての運動があります。受精から誕生して死滅するまでの時間、身体をもつわけだけれど、この間の運動の諸現象から、情が認知され、情動が認知されるのですね。

身体という個体となった自分の、身体が活動するときの気分というもの、その気分に言葉を当てはめて、ボクは表へ向けてあらわすことになる。楽しい気分、とか悲しい気持ちとか、いくつものカテゴリーに分けて、言葉を当てはめていくのです。
言葉では、母音、あいうえお、という発音があります。ボクは、この母音となる音、発声される音が、情動に密着した音だと思っています。

ところで「情動」、この不思議な代物の初元的な発生源は、食と生への感嘆だと思っています。食することで生を保ちことができる。それと生の営みに生殖というのがある。子孫を残すという本能です。
生の維持根源は、食欲と性欲。この二つをあげることができると思います。
ヒトを生命個体として捉えると、動物、植物との共通点をみることができます。
動物も植物も、全て、食し生殖します。それぞれの生命体が固有の方法で、食し生殖する。

ヒトの情動を研究することは、この動物・植物の共通点をベースにして捉えていくことから始まります。だから食し生殖する、ということに、興味を持って対することになる。
ボクが、食べ物とセクシュアルに関心をおく、理由がここにあります。
情動は、食べることと生殖行為をするために、持って生まれた本能だと認識します。

食べ物を見て、食べたいと思う。ヒトを見てセックスしたいと思う。食べ物には好き嫌いの嗜好があります。また、ヒトというのは、おおむね異性です。ボクは男だから、女のヒトを見て、セックスしたいと思う、ですね。
この二つを自分のものにしていくために、情動がある。このように解釈してよいのかな、と思っています。


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2006.7.2
関係性の芸術-1-

関係性のなかの芸術という問題は、ネットワーク思考の時代になって、人と人との関係について語られることが多くなったなかで、新たな芸術のあり様が、求められてきているように思います。そこで人と人の関係を作る場の関係性を、それを介在するインタフェースを、最初にとらえてみます。

人と人が対面で顔をあわせ言葉を交わす。これが関係の原点だとすれば、手紙を交換する、電話で話をするということは、その原点から派生した形です。対面はリアルなライブです。手紙は伝送の時間が必要となりますから、一定の時間枠のなかでのバーチャルな場です。電話は基本的に声だけの双方向通信が現状です。

これは面識ある人と人の関係の中で使われるとき、半リアルなライブです。このように対面、手紙、電話と歴史的時間帯のなかで作られてきた人と人が関係する場があります。手紙はリアルで人が介在するネットワークです。電話は電話機という手段が介在するネットワークです。最近では、電話回線を使って提供されるサービスに、携帯電話+写メールがあります。いずれ写真に変わって動画が交換される装置になります。

自分を表現することを、他者に知らせる。基本形は、私とあなた、第一人称と第二人称の間で行われるコミュニケーションです。ここで関係性というとき、基本形は二者のコミュニケーションです。電話網はネットワークです。網の目のように張り巡らされたネットワークです。ボクたちは、このネットワークを使ってコミュニケーションする。最新の事例だと、電話回線網を利用した携帯電話+写メールがあり、インターネットを利用する自己の表現発信があります。

パソコンや携帯電話がハードウエアとして供給され、共用電話回線が提供されて、ボクたちはそれらを使いこなす需要者となります。芸術を、生成される現場の関係性で捉えることで成立する場、とするならば、一般的に使われる装置を使って、いかにして芸術たらしめるのかという提起がなされます。

芸術とはなにか、芸術とはなにを指し示すのか。いま問われている問題は、この<芸術>の中味のことです。個人の営為の結果生み出されたモノが、他者の目の前に置かれることで成立する芸術の形ではなくて、ネットワーク上に生成される芸術、つまり<関係のなかの芸術>とはなにか、なにを指し示すのか、この問題を解く作業が求められているのが、現在の視点です。

2006.7.15
関係性の芸術-2-

<芸術>の中味は、創り出すヒトの心、情動、気持ち、とでも表記すればよろしいでしょうか。作品制作のプロセスで、制作するヒトが突き動かされる<感情>そのものであるとボクは考えています。出来上がる作品が、社会的コードの中で読み明かされ、その作品の社会的意味が詮索され、社会的存在として認知される。この<社会的>というのは、外観、外側、表皮の部類に属しており、中味を意味するものではありません。ここでゆう中味とは、ボクは、制作者の心のありようだと認定するのです。

制作者の心は、何を求めているのか。ボクは基本的に他者とのコミュニケーションを求めているのだ、と考えています。この他者を求める心は、ヒトだけに留まらない。たとえば神と称される創造物とのコミュニケーションということもある。その心は、制作者が理想とする関係を求めているのだと思うのです。制作プロセスを、他者との共同で、相互に交換し、制作プロセスの場を共有し、つまりそこに含まれる共有者の心を感じあう。この感じあうことを目的になされる芸術の形を、<関係性の芸術>と呼ぼうと思うのです。

共同体は個人の集合で構成されています。国家という共同体、会社という共同体、政治共同体、経済共同体、個人の集合によって構成されている共同体は、システムを持ちます。生産と消費の循環システムが基本です。この循環システムに組み入れられた個人は、感情を疎外される。あるいは感情を排除することで成立するシステムです。ですから、共同体の生産と消費の循環システムに内在するものとして<芸術>という概念が生じます。芸術は、疎外された、あるいは排除された心を救済する立場の関係です。

ボクは、個人の孤独な制作プロセス時空を、個人と個人&個人という共同関係の時空に制作プロセスを置く芸術、これが<関係性の芸術>と呼ぶにふさわしい形式だと考えています。相互コミュニケーションのなかで成立する芸術、つまり心の救済を求める<関係性の芸術>を想定しているのです。そして、この<関係性の芸術>を成熟させるための道具として注目しているのが、デジタルネットワーク装置だということを、ここに付け加えておきます。


2006.6.22
写メールアート

携帯電話についているカメラ機能を利用して、アートができないかとの思いが、かなり前からありました。ネットワーク・アートとか、メディア・アートとか、近年のアート形式のなかに現れてきたアートの形です。その範疇のなかで、ボクは、関係するアートの形を模索しているのです。

アートは、いつも時代の先端技術を取り入れてきましたし、その時代流行にさきがけて、ツールを使ってアートの形としてきました。このような発想に立つと、今なら、ここに携帯電話というツールがあり、デジタルカメラというツールがあり、インターネットという媒体があります。これを組み合わせることで、アートの形になる。このように思うわけです。

一方で、アートとはなにか、という問題を解いているボクが居るのですが、二者の間にコミュニケーションが成立する関係をとりあげ、そこに情の交流が生じていくとき、その形がアートに昇華するとの仮説を出したところです。この形式が新しいものだとは、決していえないのですが、ツールと媒体を、携帯電話とインターネットの組み合わせであることが、新しいのです。

かってドストエフスキーは、貧しき人びと(1846年発表)を書きましたが、この小説は手紙形式をベースにおいています。また、文通形式をベースにする作品も、ジッドの狭き門など、多々あることと思われます。そうしてこれらは、作家の内部で作られた人格を演じさせることで成立した作品でもありました。

ネットワークアートの形式は、個人の営みの中から生まれるアートではなく、他者との関係性のなかに生まれるアートです。アートであることはフィクションでもあるわけですが、これを写メールというツールを使って、作りだしていきたいと考えているところです。

具体的には、二者の関係性がそれだけで完結するのではなく、一般に公開されなければなりません。リアルタイムに公開されるか、タイムラグを置いて公開されるかは、リアルタイムが望ましいわけです。しかし素材を組み合わせて、アート作品とするには、それなりの加工が必要なのかも知れないです。具体的には、ブログを使います。さて、いよいよその実験に取り掛かる準備が整ったようです。

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2006.5.12
地下室&洞窟-1-

光と闇。健康と病気。そこで地下室&洞窟のイメージを捉えてみます。
地下も洞窟も、光が当たらない場所であるというイメージです。光が当たらないというのは、見えない場所です。光が、当たる、当たらないという捉え方は、もともと根本に光がある、ということを条件とした捉え方です。光という世界があることに対して、光がない世界ではなくて、光が届かない世界、ということになります。

もともと闇、光のない世界から、光がある世界が誕生する。老子のタオ(道)、聖書の闇と光、古事記もそうですね、ビッグバーンが起こった宇宙の科学的根拠も、無から有を生むわけですね。このように見ると、人間のイメージのなかに、闇、光の届かない場所が、かたちつくられてきた経緯を知りたくなります。

地下室&洞窟は、そういう意味で、光の当たらない場所です。暗闇です。これをヒトの意識のなかに置き換えると、覆い隠しておきたい秘密の世界、もしくは無意識の世界ということになるし、人間社会のなかに置き換えると、社会が見てはいけない世界、見せては都合悪い世界、ということになります。

そこでヒトの習癖として、見えないものを見てみたい、隠しておきたいものを見てみたい、覗き見根性があるんですね。この習癖というのが、実は、ボクの興味なのです。つまり、見えないものを見る、見てはいけないものを見る。その闇の世界と光の世界を、往復していきたいと思うのです。

おっとどっこい、これは危険極まりないことなのです。ヒトの本能にあるホメオスタシスを壊してしまう可能性がある。そうゆう代物です。だから、禁止命令が出されているのだけれど、ヒトはそれでもピーピングしたいとゆう願望を持っているのでしょうね。

地下室&洞窟を探検することは、往々、この危険と隣り合わせなのです。ある一線を越えて、行為すると犯罪とゆうことになるし、ある一線を越えて、心を通わすと、自己崩壊をを招くことになりそうですね。ああ怖い、だから行っちゃだめよ、立ち入り禁止!いつしかイメージ作られてしまった世界です。さあ、どうするかな~、ボクはそこで立ち尽くすのです。


2006.5.24
地下室&洞窟-2-


立ち入り禁止!だったらしゃがんで入ろう、ならいいんでしょ?!なんて冗談めかしていってあげるけど、人間って変な習性があって、入ってはいけないとゆわれると入りたくなるんですね。写真も文章も、そういうことでゆうと、かって立ち入り禁止区域だった場所が、いまはかなり立ち入りできるように、なっては来ています。

ワイセツの領域についてゆうと、たとえば写真、ヘアーヌードが騒がれたのが1990代、今から14~5年前、メープルソープの写真集を巡ってとか、マドンナの写真集を巡ってとか、それにアイドル写真集にヘアー解禁なんていってたのが、そのころです。地下室でもなければ洞窟でもない。ヒトの意識の中心だけど、良識のヘッジに置かれていた。つまり光が当たっていたわけです。

1980年代に「写真時代」を代表とする月刊雑誌が盛隆だったし、そのころビニ本、一冊千円、大流行だったし、でもビニ本無修正ってのは五千円ほどぼった食ってました。そうだね、女性器を分解してパズル・モザイク、のようにして印刷してあったり、でしたね。SM雑誌など際領域の雑誌や写真集が大量に出版されだすのもこのあたりです。

いま、ワイセツ領域を中心にメモってますけど、国際政治領域、つまりあっち側の情報も、我らにとっては地下室&洞窟です。最近ならテロ領域です。たまに、もどかしそうに、ニュースネタになる。ええ、事実が羅列されても、本音は語られないんだけれど、本屋さんへいけば、サイードの著作とか、けっこうあっち側の情報も手に入るようになってきています。

要は、光が当たる地表&洞窟の入り口、そのちょっと暗くなって識別不可寸前のところまでは、サーチライトに照らされだしたといえます。ボクは、なお、その奥へ探検隊として入り込みたいと思っているわけで、まあね、人生の終わりに向けて、そこへ行ってみたいと思うんだけど、躊躇しているのも事実です。


2006.7.27
地下室&洞窟-3-

地下室を身体、洞窟を頭脳と置き換えれば、地下室&洞窟という別名は、ボクの身体と頭脳のはたらきだといえます。つまりボクはここで、ボク自身の構造について、考えてみたいと思うわけです。ところが、自分のことを自分で分析するということが、可能なのかどうかという疑問と、自尊心とか羞恥心とか、心の内部の出来事を見つめるわけだから、ちょっと躊躇しているのも事実です。でも、なぜこの講を立てたかというと、直接には、自分と写真表現というテーマがあるからなのです。

つまり、カメラは外界を光によって画像としてくれる装置なわけで、そこに自分をどのように関わらせるのか、という問題に直面しているのです。そこで光がとらえる光景をカメラに収める技術のこと、その光景が社会との関係においてどうなのかということ、それにその行為を行う自分存在のこと。この技術のことと社会関係のことについては、反復学習により取得できると想定しているのですが、自分存在の意識化とその意識行為の根底にあると想定する、情、感情というレベルを、どのように表現し、他者と共有するのか。

その情、感情のレベルにおいて、クロスオーバーできないか、オーバーラップできないか、共有できないか、個を超えることができないか、このようなことを考えているのです。平たく言えば、性器を交わらせるときに発生する感情、感覚という体験のレベルを、カメラ行為のなかで体感することができないだろうか・・・。

写真画像を制作するにあたって、ヒトの意識の発生ということ、ヒトの記憶の生成と成立ということ、そういうことが発生してくるころをイメージ化できないか、との思いがあるのです。いってみればボクの写真のテーマということです。では、そこで、なにをしようとしているのかということです。よりプリミティブな、より源泉的な感情を見つけ出すことだ、といえるかも知れない。心を別の位相で奮わせたいと思っているわけです。このようなたわけたことをイメージしているわけです。心の発生、イメージの発生、記憶の生成、ヒト個体の肉体と共にあるそういう装置を、カメラでもって作り出せないかと思っているのです。


2006.3.15


花はなんといってもやっぱり桜がいい。つくづくそう思うようになった。そういえば、桜の季節には、桜だよりが報じられます。桜前線北上中なんていって、南の地域から順次北上して北海道まで・・・。

けっこう素直な人になったみたいなボクなんだけど~なんていってあげたいお年頃になったってゆうわけでしょうね。桜とか牡丹とか、かってはこんなお花を愛でることを嫌がっていた自分があったけど、今はもう違うんですね。素直にこころの中を見つめてあげると、感じちゃってるんですね。

写真を撮ったり文章を書いたりしてますけれど、その根底のこころの表れ方とでもいうようなことに興味を持ち出して、花、それも和風な花に関心を寄せているんです。桜なんてその最たるもので、なんだかんだと云っても、見てると感じちゃう。そういう花です、桜とは、ね。


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2006.4.9
桜を撮る


桜の季節に桜の写真を撮る。なぜなら、写真はそのときの光景しか撮れないからです。これは写真の宿命といえるものです。それでボクは、この三年、桜の季節に桜の花の写真を撮っています。

撮影にあたって桜の撮り方、つまり桜のなにを撮るのか、桜を撮ることでなにを云いたいのか、なにを表現したいのか、ということを考えます。ボクは端的に、桜は情だ、と捉えています。人間の情、ヒトの情、ボクの情、つまり感情ということです。

写真表現とは、社会の関係図を表現する、つまり社会の構造とか社会における個人のあり方などを示唆し、解きほぐし、関係を明確にする行為です。でもそれだけではありません。そこに作家個人の考え方や感じ方というものが組み込まれるのです。この図式のなかで、写真はおおむね、社会の関係図を理知的に明確にしてきたと考えています。

そのような写真表現の現在地点は、社会構造を理性的に図式化することを超えており、個人の社会構造の解釈を提示することを超えており、あるいはこれを含みこんだうえで、個人の<情>の具現化なのだと思われます。桜取材におけるボクの写真の構図は、桜だけです。桜の群生、桜のクローズアップ。光と桜の花だけで構成する写真です。

ボクの情が、桜の花を見て揺れ動く。妖しく艶やかに色めかしく揺れ動きます。セクシュアルな情が揺り動かされているのに気がつきます。この心の揺れ動き、つまり情が動いている様を表現したいと思っているのです。


2006.4.20
再び桜について

ボクの桜の取材地は、京都と金沢です。いずれもボクの生活空間においての撮影です。京都は、平野神社、法華宗本法寺、今年は千本釈迦堂の桜も撮りました。金沢は、別荘の庭に植えられた桜です。

平野神社の桜は、子供の頃から見慣れたというかよく遊びに行った場所としてあった場所の桜です。法華宗本法寺の桜は、ボクのお墓があるお寺です。千本釈迦堂の桜は、子供の頃に遊んだ場所です。金沢は、いま別荘として使っている家の桜です。

三年前の秋にデジカメを手にして、再び写真撮影をしているわけだけれど、撮影場所は、自宅とその周辺、それに、かって思い出を作った場所。それに限定しているんです。だから、桜の取材地は、子供の頃から親しんだ場所である平野神社と千本釈迦堂となるのです。本法寺は、ボクの墓所だから、近場すぎる場所です。金沢の桜は、苗で植えた桜です。枝垂れ桜、ソメイヨシノ、山桜、ボタン桜などです。

生活周辺と記憶の光景。これがいまボクが撮影する場所です。桜を撮る意識のなかに、東松照明さんの桜作品を思い起こしています。かって取材に同行したとき、彼の作風は桜一輪ではなくて風景を含む全体を撮る手法だった。その背後に社会性、桜が置かれた社会性とでもいえばいいでしょうか、それが撮影の本質だったようです。ボクは、そっから派生してきて、桜に向き合うボクの情感に絞っているわけです。

老いぼれていくボクの身体と、桜の初々しい美しさへの憧憬の具現化、とでもいえばいいかと思っています。憧れとしての若さ、そこにエロティシズムを感じるわけだけれど、そろそろ老体の感じる嫉妬心なのかも知れない。


2006.5.8
ぼくは健康な人間だ・・・・


ぼくは病んだ人間だ・・・・、で始まる小説があるわけですが、ボクがいま思うのは、ぼくは健康な人間だ、と思おうとしていることなんです。
多少でも文学を齧ったヒトなら、そうですね、近代文学なんて、病気であるわたし、なんてのが底流にあって、やっぱり<病む>というのがコンセプトだったわけです。
地球が病んで、戦争があって人間が病んで、からだの病気があって、精神科の病気があって、こうしてみると、まわりは病みだらけ、っていうイメージです。

でもね、まあ、だから、発想の転換、ぼくは健康な人間だ、と宣言したくなる気分なんです。病み文学から健康文学へ・・・。エロスもカロスも、表現のテーブルに乗せることは、健康だ~!って宣言したいんです。
そのためには、ボクという人間の、闇、ブラックホール、だとイメージされるものを、明るい場所に解き放ってあげないといけないんですね。そこで、ぶつかっちやうのが、モラルってゆう代物だってことも、承知のうえで、開放できないんかな~なんて思考してるわけです。ボクの地下室は、健康な場所だと思いたい、ですね。

2006.1.28
芸術ということ-1-

芸術ということを考えてみます。考えるに当たって、単に芸術とは何か、という問いをしても漠然として、当を得ないように思われる。そこでいくつかのフレームにわけてみる。目的は、現代社会の枠組みのなかでの芸術作品、芸術行為の大勢現状を把握してみること。そうしてそこから導き出される将来的あり方を考えてみるのです。

全てが商品として価値化される大勢があります。だから当然、芸術作品と呼ばれるモノも商品価値のなかに置かれています。絵画も彫刻もしかり、現代美術の作品群においてもしかり。つまり商業資本の枠組みのなかで、商品取引の対象となるモノでなければならない、といいます。

でも、作家行為つまり芸術行為は、違うといいます。芸術行為は、商品経済の枠組みの外だ、という理屈です。たしかにそうでありたいという願望はありますが、実際の現場はどうなのでしょうか。自分の作品を世に出したい。作品を制作し、お金に替えることで実生活を支える。世に出すためには、なるべく高尚なるものの裏づけによって、商品価値を高めたい。

ここで云えることは、商品価値を生み出す仕組みに自分を置くことで、それを作家行為、芸術行為の目的としてしまう傾向があるということです。ここでは、この傾向を作り出す経済構造の話ではなくて、それ以前の位置において、芸術行為というものを捉えていきたいと思うのです。

つまり商品としての価値を高める戦略を抜いたところで、個の営みとしての創造行為を、捉えてみたいのです。作家と呼ばれたい願望を構成する、作家の社会的目的とは違う位相での、考察なのです。それは、大きな基準となる社会価値とは別の価値軸に、もう一つの価値軸に足を置いた立場での考察となりたいのです。

2006.2.16
芸術ということ-2-

近年、自給自足ということが話題になります。この自給自足の実現は、貨幣経済からの独立、あるいは商品ではない概念のなかで、食料とか什器類を生産し、自分のものとしていく構造です。
この発想と具体的な実践活動が、随所で取り組まれつつあります。その文脈において、芸術ということを考えてみるのが、目的でもあります。

商品価値から逸脱する芸術作品は、すでにその前提となる商品経済を持たないから、もはや芸術作品とは呼ばないほうが良いのかも知れません。
自給自足においては、生産と消費が統合されるものです。生産とは、モノを作り出す工程です。おおむね食料と生活道具を作り出すことを意味します。でもここで、ヒトのヒトたる由縁をいうならば、身体を養い安定させるために、食料をつくることと同時に、心を養い安定させることも必要になります。

衣食住足りて芸術がある。そのような捕え方ではなく、衣食住と芸術は同じレベルで、ヒトには必要だとの考えです。では、ここでいう芸術とは、いったい何なのか。
ここで芸術とは、ヒトが生きるエネルギーの中にある、あるいは生きるための、心のエネルギーの発露であると捉えます。このことを自給自足の枠で捉えると、自分の生存のための行為であると導かれます。

自給自足は、一人でできるものではなくて、一定の集団によってなしえるものだと認識しています。でも、今の世において自給自足を考える、このこと自体、すでに思考の産物であり、それに基づいて実行していくものです。ここには、個の自立が必要になります。ということを援用すれば、芸術ということは、かって洞窟で描かれた絵画とそれを成すヒトの心とは、違ったものとなる。この前提として、ヒトの心は進化する、という捉え方があります。

2006.4.28
芸術ということ-3-

ある物事を極めていく道筋の結果、出来上がってくるものがあります。経済効率を優先する道筋ではなくて、ある種、経済効率から遠ざかり、合理性から遠ざかり、好奇心とか情の動くままに、作って光っていくもの、まあ、いま思いつきで、言葉を連ねているんだけれど、そんなもんを<芸術>の範疇にいれようかと、思います。

そんな理屈とは関係なしに、やっぱりこころときめく気持ちを大事にしたいと思います。今年も、桜を写真に撮った。カメラっていう道具を使って、写真を撮った。デジカメです。そりゃ便利なものですね。取材して持ち帰って、パソコンに繋いで、すぐさま画像をみることが出来る。ここで、芸術の価値についていうと、手間をかけることで価値が決まるものではない、と思っているわけで、絵具を使った絵画の方が芸術性が高いなんぞは、毛頭、思ってないわけです。

芸術ということには、スキルが要求される、これは認めたいんです。ツールを巧妙に扱うということです。そうしてそのツールが最良の効果を発揮できるように使いこなしてあげること、これがスキルです。
でも、これは外枠であって、大事なのは、光る心、この<光る>ということです。情の発露として光っていることが必要だと思うのです。

光り方は様々にあると思います。花火のような光り方があれば、宝石のような光り方もあれば・・・、心がときめくこと、キラキラときめいてくること、これが条件だろうな、と思うのです。光輝く心、作者の心内とは、この感情に包まれることかな~と思うのです。

なんだろ、桜の花が満開になっていくとき、心ときめいて、うずうずだね。それで、このうずうず気分のままに、写真を撮ってあげた。その結果、満足いくように撮れたわけではないけれど、それなりにうっとりしてしまって、心、光っている感じ。これだね、と思ったわけです。これが芸術の心だな。

2006.6.6
芸術ということ-4-

芸術ということの中味は、いったい何なんやろ。あるいはどういう状態をゆうんやろう。ボクは、こんな疑問に苛まれているわけです。芸術作品ってのがあります。形になったもの、存在するもの、美術館であれ、路上であれ、目に見えて存在するもの、芸術作品とゆうときには、内容はともあれ、このように言えるんですけど、単に「芸術」ってゆうときの内容は、何を指していえばええのやろ?まあ、こんなたわけた疑問に苛まれているわけです。

そこで、芸術の中味を考えてみて、文章にしてみたいわけです。とゆうのも頭のなかでブツブツ言ってみても始まらんわけで、言葉で喋って伝達するって手もあるけれど、それでは形に残らないから、文章にして定着させるわけです。こんな形式を評論とか批評とか言うわけです。だから、ボクは、ここで評論をやろうと思っているんです。

ボクが思うに、芸術という枠は、心の動きだと解釈したい。心の動きには情が伴い、情動のなせる自意識。この自意識の伝達、つまりコミュニケーションのプロセスじゃなかろうかと思うのです。このプロセスを、見たり読んだりできる形に仕上げていくことで、芸術作品となって結実していくのではなかろうか。そのように考えるわけです。

芸術は、ひとり単独で成立するか、といえば成立しないと考えています。情動がなせる自意識が、他者に伝達される契機を含み、そのことを自覚的に捉えて、関係を紡ぎだす。つまり、コミュニケーションの手段だと考えているのです。芸術の基本概念には、このことがなければならない。そう考えています。

とゆうことは、他者に伝達を意識しない情の動きは、芸術以前のものであって、芸術か否かの境界線は、他者を意識するか否か、ということなんだろうと考えているのです。他者を意識して、何かを作りだそうとすれば、それが全て芸術かといえば、それはウソで、そこにはコミュニケーションの成立と、情動のパッションが伝わらなくてはダメだと思ってるのです。

他人がどのように思おうと、知ったことではない!なんてことを、作品提示の段階で言う人がありますけれど、これはボクは認めないんです。他者と共有し、情に感じ合う関係が成立することを、ボクは芸術の基底をなすものだと考える。ここですね、ボクが思う芸術の基本形。基本スタイル、基本プロセス・・・。

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