中川繁夫写文集

写真の意味/試論-1-

写真が心に触れるのは、その常套的な美辞麗句、<技法>、<現実>、<ルポルタージュ>、<芸術>等々から引き離されたときである。何も言わず、目を閉じて、ただ細部だけが感情的意識のうちに浮かび上がってくるようにすること。
ロラン・バルト「明るい部屋」 <カメラ・ルシダ>

「写真はその技術的起源のゆえに、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)という考えと結びつけられるが、それは完全に誤りである。むしろカメラ・ルシダ(明るい部屋)を引き合いに出すべきであろう。」「明るい部屋(LA CHAMBRE CLAIRE)みすず書房版P131」

「写真」とは何か、といった、この二十数年来、ずっと私が私自身に向けて問いかけてきたものについて、それらをめくるめく考えの行方は、いつも私自身の内にある螺旋階段をぐるぐると上がったり降りたりしていたようだ。 かって私は、この教養文化の枠組みの中で撮られてきた「写真」への問いかけに対して、ささやかではあったが、さまざまな意匠をまといつかせた言葉を繰り返しながら、「写真」について、またそれら「写真」をとり巻くさまざまなシュチエーションについて考えていた。

 どうもこれまでの、「写真」をみてきた私自身のスタイルというのは、たとえばニエプスやダゲール、あるいはナダールといった写真草創期の写真家たちの業績やその時代の背景や動向、またアッジェやブラッサイといったパリの写真家たちの写真をとりまいた世界の意匠といったもの、また日本の現在にいたるさまざまな写真家たちが成してきた作業の累積を「いま」に引き寄せ、歴史的、技術的、芸術的価値からその意味を読みとろうとしてきたようだった。 私にとって、「写真」への興味の中味はいったい何だったのか。

 それはずいぶんと以前からその兆候があったと思われたが、ちなみに最近になって、この疑問が私のなかに生じていた。 昨年秋ごろ私自身のなかで、私自身の生の在処は、やはり「写真」といったもののなかに求めているんだなということが、わかり始めてきた。最初、針先でちょっと刺されたようなかろやかな痛みを、まどろみのなかの皮膚に感じた。おそらくこのときから、ほんの忍び足でそっと私に寄り添い、そうしてしだいに大きなうねりとなって押し寄せるようになっていった。 そのとき私は「アッ」と小さな声を漏らしたに違いなかった。それはほとんど意味不明の私の感情そのものの部類に属するものだった。

その日以降、私はいつになもなかったほどに精力的に、また自滅的ともいえる程に、私自身がかって撮り書きした私自身の記録をたんねんに読み返しはじめた。 そこには、自分の過去をふりかえったときに感じる、冷汗が出るような恥ずかしさと懐かしさの気分、つまり郷愁の感情が去来していった。と同時に私によって撮られ書かれた写真や文章の根底にあったものへの傾斜の仕方や思い方、また感情の生成といったものの回路を解きほぐし、いま一度、何も無かった地点から始めなければ何事も始まらないように感じた。

写真集を買い、評論集を買いあさった。そうして読むともなく見るともなくパラパラとページをめくっては書棚に放り込んだ。 一枚の写真が私にとって意味をもつとしたら、それはいったい何(どれ)だろう。私が撮った写真の群には、勿論、私にとってはそれぞれにかけがえのない思いが込められており、それなりの重量感をもって私に迫っていた。 「しかし」と私はそこに否定の疑問符をつけざるをえないのだった。「写真を見ることはもっと愉しいものではないか。」「写真を考えることはもっとリラックスしたものではないか。」 そう、記録性を拒もう。歴史的、社会的背景なんて拒もう。芸術の範疇が・・・・・・なんてどうでもいい。もっともっとプライベートな私に、感情がストレートに受けとめてくれる写真。写真は「明るい部屋」なのだ。

 カメラ・ルシダというのは、「写真」以前にあった写生器の名前で、これは一方の目をモデルに向け、他方を画用紙に向けたまま、プリズムを通して対象を描くことができる装置であった。 <写真の在処> 「写真」の成立についてロラン・バルト(Roland Barthes 1915-1980)は、ストウデイウム(Studium)とプンクトウム(punktum)といった概念を晩年の著作「明るい部屋(LA CHAMBRE CLAIRE)」のなかで提起している。

ストウデイウム、プンクトウムはラテン語であるが、バルトはこれに次のような意味づけをおこなっている。 まず、ストウデイウムについて。「あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受け止めたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしてストウディウム(一般的関心)による。というのも、私が人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである。」<明るい部屋、みすず書房版P38>

ここでバルトがいう、「ストウデイウム(Studium)」は、典型的な情報によって成り立ち、一般的関心をいだかせる写真ということで、写真の第一の要素としている。 また第二の要素として、このストウデイウム(Studium)の場をかき乱し破壊しにやって来るものを「プンクトウム(punktum)」と呼んでいる。バルトの意味づけによればプンクトウムとは、「刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目」であり「ある写真のプンクトウムとは、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。<明るい部屋P39>

 こうしてバルトは、写真の在処についての論拠を、私に与えてくれているようだ。 写真は、写真家の目の前にかって実在したものが、写真家の感性により多かれ少なかれデフォルメーションされ、印画紙等のうえに二次元的に定着された一般的には銀粒子によるコピーとして存在している。あるいは、印刷物としてインキの濃淡として定着している。 写真において、印画紙上や印刷物上に現わされる対象(私にとっての客体)は、直接的な事象の外皮である。

文字が、言葉が示すところの概念とはちがって、写真は直接的である。ここ、一枚の写真により表出された内容(その写真が持つ対象の外皮)が私の目にふれる。私は、とっさにそこに示された事物を認知し写真の外皮に現われたかたちが何であるかを理解する。 私が興味を引かれるのは、そこに現わされた事物の在りように対する「私の興味」であった。その事物が持つコードは、直接私のコードに殻りかけてくる。私はその語りかけに対し、その事物がそこに存在した意味、つまり背後にある概念の世界を嗅ぎとるのだ。

 それはときには、戦争の悲惨であり、身体の美であり、風景の異端であり、そこに写真家がかくして撮った、撮らねばならなかった意味を嗅ぎとるのだった。おおむね写真を理解することとは、このような方法によっていた。 写真を理解するとは、提示された写真の被写体(写真にとっての主体)が指向させる共通のコードが持つ背後の意味を嗅ぎとっていくことだと思っていた。写真の価値(在処)は、被写体(主体)が拘束されている制度的なるものを了解し、そこに意味を読み取り制約していくことだと思っていた。写真を「見る」ことによる喜び、悲しみ、寂しさ、といったものは受け取る側にそれを理解する回路を持たなければいけないように思っていた。

 確かに、そのように写真を理解しようと思えば、撮られた現場の状況と写真家の思い入れ(あるいは思想)が理解できなければ、意味をなさないものだと思われた。しかし、はたして思考回路として、それがそのように導かれることだけが、「良い写真」であることの条件なのだろうか。「人間」あるいは「ものたち」の糸が絡みつくような関係であって、こういった関係のなかで実際に影響をあたえ合うのは「あなたと私」「そのものと私」といった個別の関係をおいては、ありえない。 これらは、いずれも個別的であり、アノニマスなものではない。しいて言うなれば私と私の世界をとりまく他者との個別の愛憎関係(恋愛状態)とでもいったものに還元できるであろう。

私にとって、世にいう名作が名作として名を残さなければならないのは、私とのあいだでその写真がどういった位置にあるか、ということに他ならない。この位置関係は、感情の深淵(記憶との対話)であるように思われる。 私が「私の目でみた写真におけるプンクトウムは・・・・」というとき、それは、あたかも、不意打つように私の感情の淵深くをやわらかな刃物で傷つけてくるものだったといえる。私の感情を深く傷つけるものは、決してその写真が提示する教養文化の歴史的背景ではない。あるいは、この制度のなかでの制度が規定するところの「美しい」ものでもない。これは美の解体による新たな美の発生、つまり自己の内に既成の美意識を解体し再構築すること。そしてイメージと感情の深淵(慟哭・狂気)の交差をみつめることの繰り返し。

それは私にとって、最初は些細なことから始まった。 <ポートレイト> 私の手元に一冊の写真集がある。ステーグリッツ(ALFRED ATIEGITZ 1864-1946)が撮ったオキーフ(GEORGIA O・KEEFFE 1887-1986)の写真集である。冒頭一枚、まだ若いオキーフの微笑みをもった上半身のポートレイト(1917年)がある。もう百年近くも前に撮られたポートレイトだ。撮影者ステーグリッツは私が生まれた年にこの世を去っており、いまやオキーフもこの世にはいない。 こういった歳月の経過にもかかわらず、私はここに撮影者ステーグリッツのオキーフにむける熱いまなざし(共有・共苦・水平理解・愛)を感じずにはいられない。と同時に、それはあたかも私への写真の在りようにとって感じとる何とも言いきれないイメージ。ほとんど無意識の深淵からほとばしりでる感情に由来するところの感性を噛むものなのだ。

 黒い服に白い襟の上半身、オキーフの後ろには、オキーフがえがく絵があるのだろうか。アウトフォーカスになっている唯一の背景である。正面を向き、ごくありふれたこのポートレイト。オキーフの充実した微笑み。これは新しい世界を自由奔放に生みだしていく知的な微笑みなのであろう。私は、暗箱のガラスに写された逆さのオキーフ像を前にしたステーグリッツのまなざしとオキーフへの共生を感じ取らずにはいられない。

このポートレイト一枚に向かっていると、私は柔らかい刃物でこころの薄皮をはぎとられるような気持ちにさせられる。 まだ雪が舞っているのに陽光はすでに春のきざし。晩冬の気配が爪で引っ掻くような足音をともなって去っていくあの気分、あるいはこころの解放が近づいたことを感じとるあの気分、とでも表現すればよいか。オキーフの初々しさが、幸福いっぱいとでも言いたげに私にむかってきている。冬ざれた感性が透明な大気に解放される。私はこのオキーフの私への向かい方にあたらしい写真(愛の記述)の在処を感じる。 私のこの向かい方は、もう一世紀も前にステーグリッツがオキーフに向かったのと同じまなざしでありたいと思う。

ステーグリッツが暗箱のフレームにオキーフを独占したとき、それは時間としてはもうはるかかなたのむこうにあるのだが、私にはその一世紀前という時間差を少しも感じさせないのだ。 私は撮影者ステーグリッツが若いアメリカに青春から晩年を送ったひとであることを知っている。その時代と現代、私が生きる日本のいまとは、時代あるいは社会的背景が異質であり、ひとをみつめるカテゴリー(愛や憎しみといったものの感情)そのものが異質なものとなっているだろう。あるいは直感的には人間関係そのものが複雑化し硬質なものとなり、拠って起つところのひとをみつめるイメージが拡散してしまっているようにも感じられる。

ステーグリッツの時代から現在へ、かれこれ、それからすでに一世紀以上が経過しようとしているにもかかわらず、オキーフは新鮮だ。この写真集は、私がこの写真をみるまなざし、つまりこの写真の歴史的背景や二人の関係、またそれぞれの個人史を、説明する知識をふくめて、私の前に存在している。ステーグリッツの内面の世界に思いを巡らすとき、一方で時代を背負った社会的存在としての個人史があり、一方では感情の流れというか、あるいは言葉では表現しえない内面史があったことに気づく。

 たしかにステーグリッツは二十世紀初葉のアメリカで、写真というメディアを通じてアメリカを見てきたし「ギャラリー291」の成果や「カメラワークス」の成果を語ることができるだろう。あるいは近代写真の在処を示した、と。しかし、私がステーグリッツに対して持つこういった種の知識がどれだけこの写真、オキーフの私に向かうポートレイトを、私に価値あるものとさせるのだろうか。 いま、私がこの写真に向けるまなざしは、もっともっと私の個人的反応のなかで感動しているのだ。なおかつ、あえて私のステーグリッツへの興味をというならば、それは、彼の内面史あるいは肉声史と呼ぶもの、彼の内面の劇<オキーフとの位相・位置関係・干渉し合う関係>が体制からどれだけ自由でいられるか、を共有できるか否かだ。

 この写真集を最初に見たのは、もうはるかに以前のことだったろう(注:1980年頃)。写真ギャラリーのカウンターに置かれたシンプルでいて上品な装丁の写真集を・・・・・・。そのままついに最近まで私の記憶の奥深くにしまい込まれたまま、時折、記憶の像(イメージ)となって、ふっと立ち現われてはいたが、それはすぐに消えていた。 近ごろになって、その写真集をどうしてももう一度見てみたいという衝動にかられてしまった。なぜだったのだろう。この衝撃がどこから突き上げてきたのか私にはわからない。

私自身がかられてしまった欲望の変種としての衝動を彷彿させてきた未定形のパルスについて、それがどういった質のものであるかを。おそらく私の記憶深くの原形質、内面の根底をとりまき構成しているところの疼きなのだろう。 いま、ストーブを炊いた部屋の机にむかって、この写真集との出会いの記憶をたどりながら、カーテンを開けると、暖気でくもったガラスの外は雪。しんしんと雪が降っている。しかしもう春が窓辺ちかくまでやってきている。軽やかに。オキーフがはじめてステーグリッツに出会ったニューヨークにも、このように雪が舞っていたのだろうか。女学生だった彼女をとらえたステーグリッツのまなざし。そしてオキーフが私にむけるまなざしは、私を突き刺すばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつけるのである。


写真への手紙 覚書

第一部のためのノート

1988年2月14日付の書き出しで始まるこの「写真への手紙 覚書」はついに6年後の1994年の今まで引きずられて来て、第一部五編が上梓される。「写真とは何か」という命題は、遠くから問われてきて今もなお様々な切り口から論じられるところだが、核心に迫るところまでには至っていない。私にはこの問いかけ形式は永遠の課題であろうと思われる。これは、そもそもの問題の発し方あるいは設定の仕方自体が解決の糸口を掴まさないのであって、本来的には「写真はどう在るべきか」といったような、私が生きる人間社会での存在の仕方に言及肉薄していくような設問であれば、かなり自由に結論を導き出すことが出来るのであろう。

にもかかわらず私は、このエンドレスゲームを演じ続ける。あたかも永遠の青い鳥を探し求める様子で、また永遠の愛を求める時代の摘出子として。1994年1月17日、私はついに、写真とともに、これからの残された生を営む決定を下した。このフライトが明確な目的地を持たない離陸であることを百も承知した上でのことである。一過性の現象として私がカメラを持っていたのは、1975年から1984年にかけての、およそ10年間であった。処女詩集発行が1963年12月の日付だから、初期10年間は文筆を重ねていた。写真を撮っていた時期においても1978年から文筆を重ねているから、やはり私の基本体は文章を書き連ねてきたことになりそうだ。この最近の10年を経て、私は再びカメラを持ちたい欲求に見舞われている。

この写真論をディスクールし始めた1988年から私の履歴は大きく変遷してきた。しかし連続した内面の感情の流れは、やはり螺旋階段を昇り降りしているだけである。この感覚は少年の頃と対比してみても大きな変化は無いように感じられている。ただ年の功を経過しているだけ、俗に云う経験豊富になり、少年のころの初々しい恥ずかしさといったものが、厚かましさに変化しつつあると思われる。そして過ぎ去る時代とともに、過ぎ去る私の眼差しは、それぞれの時代と密着しながら変遷し続けている。

この「写真への手紙 覚書」と仮に題されたディスクールは、私の生の大河ドラマとなるべきものであると考えている。何時の頃からか私の内部には、全七部32編の覚書との構想があり、ここにひとまず第一部として五編からなる試論を展開した。しかしいずれの編も未成熟であり未完成である。私は言葉の連なりとはおおむね逐一、追記・訂正されていくものだと考えている。ただ第一部のテーマ設定としては、次のような枠を想定した。

それは写真の歴史150余年が培ってきた写真の存在について、新たなる写真の在り方を模索することであった。写真の在処を探すこと。この試論展開の直接の引導は、ロラン・バルトの「明るい部屋(LA CEAMBRE CLAIRE)」と題された写真論との出会いから始まっている。ディスクールの冒頭もそこに拠っている。しかし私の写真論の展開の過程においては、現代写真の質そのものが問題となった。これはそれまで私が体験してきた写真論(ドキュメントつまり記録)から写真を解き放つ試みとして、私にインパクトを与えた写真と私自身の体験の考証をシンクロさせながら、結果として「私」の問題として捉えようとしているようなのだ。

なるべく考証論と成らないように、私の内部に立ち現われてくるイメージを前面に据えようとの思いが、現状の評論方法としてかなり無謀な企て(策略)であることを百も承知でここに至ったと云える。今後、ここに著されたディスクールを見つめ、そこから派生する細部を解き明かしていく作業を想定しながら、私は私の生を連ねるだろう。

一方の私の思惑には、1980年代後半から1990年代は、写真の歴史にとって大きな過渡期あるいは転換期であったと、後の写真史家らがおそらく詳細に論じるであろうことを予測させるに十分な感触を、私は直感として持っている。その過渡期あるいは転換期にディスクールされたものとして、ひとまず私のこの「写真への手紙 覚書」五編の試論は上梓される。そしてこの五編の試論は、私の感性とシンクロさせてくださる、あなたに捧ぐ。

   Shigeo Nakagawa 1994.2.10


   写真への手紙 覚書
     第一部 目次

   第一部のためのノート

   写真の意味 試論

   まどろみの中 試論

   透明な写真 試論

   自写像の論 試論

   写真記録論 試論

   第一部のための付録(省略)

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