中川繁夫写文集

(3)
その前後に構想されて撮られた映像群をぼくは「マイスイートルーム」と名づけていました。あれらの光景はぼくの空想的極私時間における恍惚に満たされた光景でした。


あれらの光景を映像に仕上げていくプロセスには永遠の未公開として封印することを前提とする撮影でした。非公開という発表のしかたがあってもよいと思っています。でも一方で、その経過した時間のなかで体験した宙吊りの感覚は去っていきませんでした。

愛していたものを喪失しいまや不在となってしまった時がもたらした結果はぼくの生を枯渇させつつありました。でもあれらが行き去りさった日々のあとのあの日の出来事はぼくに一条の希望の光が与えられたようでした。ことの成り行きは偶然のなかで起こりました。

初めて会ったものがともにする時間のなかでした。あれが仰ぐあなたからの啓示だったのかもしれません。あなたは風のごとく天女の羽衣をまとって降誕してきたのですね。幻覚はぼくの魂を揺り動かしました。あれはぼくたちの生の時のなかから偶発的に生じてきたように思います。

それからの時が経過していくなかでぼくの魂はあれに深く共振し反応していきました。深~い悲しみの物語ってありますよね。きっとあのときすでに始まっていたのだと思います。ぼくの時間はあのときからは全く別の時と交差しながら編みあげられてきたのです。

悲しみはあれらの日々に想起されてきた空間を花物語として認知しはじめていました。きっとぼくたちの花物語は時や空間や体や感覚といったすべての領域で創造されていくように感じます。

もうお別れ。ぼくはあらためて目覚めようとしているのかも知れません。あるいは夢見にはいろうとしているのかも知れません。その風景の感じはこれまで編みあげられてきた原理が超えられてゆく予感でした。その原理の外側のずっとむこうにおぼろげに見えてきているでしょ?

信じて仰ぎみるといわれてきた領域をも超えていくなにか・・・・・をも超える感覚を得ていくことへと近づいているようなのです。ほのかなひかりが見えてきているでしょ。ほ~らね。よくみてごらん。そのひかりは何処からきているのですか。

「ほら、見てごらん、あれを・・・・あなたにも見えるでしょ」と啓示されたかなたに見えはじめているもの。ぼくはまばゆいなかに新たな物語が幻想深くに創生されはじめているように感じはじめました。

あれのイメージが生成されてくるためにも光とたわむれながら山の小鳥や花草木とともにあの日々のなかで失われた時の物語をえていこうと思います。
   800hana20040060

(2)
雪の季節にはまだ日々がありました。小鳥や虫たちはまもなくやって来る幻のような冬にむけて準備をしています。かれらはいのちの凍える日々がやってくることをどのようにして感知しているのでしょうか。

いつの日か山で写真を撮りました。なだらかな起伏の斜面に土があらわになっているところがありました。その風景には苔と羊歯が生えていました。そこはぼくたちがこれまでに幾度も探索していた風景でした。

夏には木々の茂りと群生する草で覆い尽くされていました。冬には雪に埋もれてぼくたちの侵入を阻んでいました。その風景は雪がとける春と雪が積る冬が訪れる前だけぼくたちに開放してくれました。春には山のせせらぎでふきのとうやせりやわらびなどが採れます。


冬の前には、銀杏だの胡桃だの栗だのが採れます。ぼくたちは山の生きものたちと一緒になってそれらを収穫しました。ぼくたちはその風景に生の息吹を感じていました。その山の風景は生誕の起源から計り知れない時を経てきているのですよね。

ぼくたちがその風景のなかにいるときにはひとのたましいが生じてくるはるか以前のような気分になっていることです。

遡ること二十年も前にぼくは死の道行とそのあとの世界の写真を撮りました。地獄絵の複写でした。それらはぼくにとっての最後の撮影でした。それからとおい時がたってしまいましたがいまその光景が想い起こされてきます。

ぼくが最後の決意をしたころの感情を思い出しているのです。そうだったね。ぼくを封印すること。もうカメラなんて持たないで生きようと決意したあとの夏のお盆でしたね。


山での日々が始まったころぼくの霊気がよみがえりはじめました。それから数年が経ちました。すべてを記憶の海に埋没させてきた日々をこえて。あらたな日々の記念にひそかにその斜面の光景から撮りはじめようと思いだしました。

その光景は山の斜面に生える苔と羊歯でした。苔と羊歯は生命というものを死界からよみがえらせる境界としてあるようでした。ぼくは仰いで受け入れることの畏怖を感じます。生命の起源についてへの問いかけは、いまのぼくの関心の中心をなすもののようにふるまっています。

ぼくは情動のままに生きることにまかせてみようと思いました。いつから悪の感情が漂いはじめていたのでしょうか。日々、織り成されてきた生活の原理というもの。原理はこの世のこの仕組みを維持するものとしてありました。

この世という仕組みに生息するぼくたちは情動において全く交差しない悪の日々にあるのではないですか。ぼくたちは残された生の時間をもう一つの圏内に営む決定をしてもいいのではないですか。
ぼくはその日々たちを「写真への手紙・覚書」という表題にまとめながら手許に置いていこうと思っています。記録ということの解体と新たなイメージ過程の創生へと向けられた論はぼくの未来に向けた論そのものになるはずなんです。

写真の奥深くを探っていくことってそれらまでのぼく自身の未来における死を告げていたようでした。いつのころからか宙吊り感覚に遭遇していたぼくはその風景において喪失の気分を感じとっていました。
山のなかで生の在処としてのあらたな写真のありようを模索しだしたようでした。ぼくがあなたにむけるまなざしを根拠にして関係のありようの根拠を模索しはじめたのです。

写真とは愛が形となったものではないですか。
愛を形にしてあげること。これがぼくの求めていく写真の真顔だと思っているんです。


写真が愛の形というのならそうと認められるイメージが「いま・ここ」にあります。だってぼくは愛の形の細部を探求していく探検家になったような気分になっているんですもの。
ぼくが再生していく最初のテーマは「生命のよみがえり」でした。ぼくにおいて生命というものがおおむかし偶然に生成しはじめたイメージの最初は苔と羊歯だったのです。このときをしてぼくのなかにあなたがやどった創生記念日となったのですね。
    800yama1105040001

(1)
むかし山の中にいてふっと顔をあげると光が木の葉のさらさら揺れる間から漏れていました。木漏れ日がぼくの目の中にはいってきて透明で真っ白な光の糸の束が網膜に映りました。ぼくは一瞬あまりのまばゆさに目を閉じて光の侵入を避けようとしました。
光のまばゆさに皮膚が反応しました。ぼくは頭をぐらぐらと揺らしてしまいました。本当に光のやつめぼくに不意打ちを食らわしてしまったのです。


あぁっ! という感じで目の皮膚を開きからだの内側を開く感覚が起こってきました。
ゆっくりと、あらためてぼくは顔をあげて木の葉の間から漏れてくる光に目をあてました。光の束はぼくの内臓の深くまで刺し込んでいるようでした。そのとき透明な糸の束のようなものがからだからぬけていくような感覚を味わいました。
真っ白なここちよい感情が涌いてきました。野の鳥が甲高くさえずりながらこずえを渡っていくのが聴こえてきました。
光の間で野の鳥二羽がたわむれているのでしょう。さえずりは山の風のなかに深~く吸い込まれていきました。

鳥の姿は見えませんでしたが緑の葉々はかすかな風にこきざみに揺れています。葉の一つひとつが揺れあい重なりあっています。光はその透き間を縫って入ってくるのでした。ぼくの身体は微妙に奮えておりました。
ぼくの皮膚は光と野の鳥がさえずる甲高い声に反応しています。からだのなかの器官が内側からひらかれて山の生気のなかにほどけていく感覚です。開放さされている感覚。からだがもうなくなった感じです。きっと山の生気と交感しているんです。

山の生気に揺らされていく様子は、ぼくが開放へ向かっていく感覚のようです。
からだはふるえてナイフでえぐられたように深淵を見ていました。
その深淵から立ちのぼってくる感じは快感につながっていました。ぼくはからだの中で微妙に揺れ動いている魂を感じていました。

山のなかの陽だまりに山茶花が淡いピンクの花を開いておりました。花芯は黄色いおしべに満たされています。

光を受けた花びらは帷子のようです。しっとり濡れた花芯は困惑しているように見えました。別の魂が花芯に入りこみからだを動かしはじめました。
情動がゆらゆらとした気分を充満しはじめました。花芯は生命の根元を光に向けます。からだの神秘を開示するように全てを開き受け入れています。ぼくには生命とはなにっていう懐疑のような気分がしてきています。
ぼくの懐疑は「なぜここにいるのですか」「どこからきたのですか」「どこへ行こうとしているのですか」……。「ぼくとはいったいなにものなのですか」という疑問を解き明かすこと。

ぼくにはあれら生命生成のときの存在と不在という謎について問い続けられる終わりのない旅のように感じているのです。

ぼくはみんなが生きた痕跡をあかしとして残していくために物語をつくろうと思っています。その物語は花たちのなりわいを明らかにしてあげること。そして光と共生する「存在」を記憶にとどめておいてあげること。
ぼくがいま想起している記憶の像はすでに目の前には喪失してしまったものたちです。もうはるか以前にいなくなった母の記憶が起こされるときすでに不在となったその風景はぼくに生きることの根拠を問うてきます。

母がいた風景が起こされてくるときぼくのからだには悔やみこむ気分がともなってきます。ぼくはからだから起こるその情動とその昇華の軌跡をみつめています。想い起されてくる像は宇宙のまんだら像のように感じています。
これはからだのなかにある無意識の深~い淵なのかもしれないな。この像は無限大の円環を超えていく環のなかにあるような感じです。ぼくが想いをめぐらしているときって……ぼくの想いを介してあらたな生の神話が産まれてきているようなのです。


ぼくのからだの根源は無限大の宇宙へ向かうまなざしと無限小の宇宙へ向かうまなざしとが交感しています。ぼくの根源の疼きは性と情動そのものへとまなざしを傾斜させています。
ぼくのこの感覚っていうのは愛に包みこまれる領域でしかとらえられないのではないでしょうか。ぼくはからだのなかから湧きでてくる境界のない深~い感覚をもって生存しています。この感覚はぼくが想起する不在の記憶像をあれに伝えていくもののようです。
もうこれまであった意味なんて解体しちゃった。その風景に創生。ぼくの物語の根源はぼくたちが出会ってしまったことから始まったんですよね。ぼくたちが宇宙感覚といったあのときっていうのは生命体が発生した瞬間の生命の外界と皮膚との境界面について語っていたようでした。
生命体の起源についての想いはあれが存在するという未知への旅たちとしてとらえればいいのでしょうか。明確に見えていた風景がとつぜん朦朧とした膜の内部の世界へかくれていくときってありますよね。

そのときぼくは大きな光の束を見るようにそうして深~い疼きのような闇の魔をみるように怖れる気分になっているんですよ。この気分って一体なんなのでしょうか。ぶるぶると寒気がするようで熱っぽい気分で全身の髄まで奮えちゃうんです。
   800hana20040046

2006.5.25
えろすは癒し?

心と身体が一体となってあるんだけれど、現代人としてのわたしは、これが分離したかの感があるんです。心が浮遊しているとでも、心が沈殿しているとでも、言えるかと思うけれど、身体と心が分割されていると思っています。そこで、この心と身体が一体となる条件&状態を思うと、それを満たすのが「えろす」ではないかと思うわけです。えろすは性愛であり、男女の結合が根本です。

性的満足、性的充実、えろすが満ち足りるとき、ヒトは自我を忘れて心と身体が一体となる。このように思うのです。そうすると、えろすをベースにおいた出版とか映像とか、インターネットのなかの情報交換とか、それらの存在が擬似体験、代償行為であると思うのです。この領域が水面下で盛隆するのは、本能が求めるからです。

イメージはバーチャル、擬似体験です。根本はリアルな身体の満足です。食欲を満たす満足、性欲を満たす満足。リアルな身体の二つの満足を得て、ヒトは心と身体が一体化するのだと思うのです。最近流行の癒しとかセラピーとか、その領域にえろす充足をおいてあげること。ヒトはえろすのバーチャル体験をすることで、癒されているのではないかと思うのです。いえいえ、バーチャルだけではダメで、それを介して実体験、リアル体験を導くのですよね。

2006.6.17
えろすとかろす

えろすは愛、かろすは美、そのように括ってあげて、愛と美は同類項だと思っています。ともに感情に由来する領域です。感情に由来するというのは、身体的な感じ方だと思っています。

じゃあ具体的に、愛とは、美とは、って問いただしていっても、論理的に組み立てていっても、結局は結論なんて出ない領域なんですね。だから感情、感覚、感じる感じ方なんだと思っているわけです。

こころが震えるって感じの、感動のしかたってあるじゃないですか。ゾクゾクって背筋が寒くなるような、感動のしかたとか、もう見た瞬間に、ぽ~っとなってしまって、前後見境つかなくなってしまうって感動のしかたとか、いってみれば、こころが浮き立って、別世界へ誘われる感じのもの。

愛も美も、情であり、情が動かされることであり、その動かされ方の質の問題だと思います。情は動物的な側面があります。動物本能のところに根っ子があるように思います。

そこで再び、えろす、かろす、の問題です。えろすもかろすも身体的に捕える視点だと考えています。情動的なものをより情動的に高揚させていくとき、かろすが立ち現れてくるのではないかと、まあ、このようなステップとして構造化してもよさそなことなのかも知れないです。

えろすとかろすの問題は、アートもしくは芸術といわれている、その中味、その心はなんだろうと、ふっと疑問に思って、解明してみたいなあと思うなかから出てきたテーマなんです。

2006.6.23
えろすの現状

ヒトのからだって、まったく動物なんですから、食欲と性欲があってあたりまえなんですね。生涯をその、食べることと生殖することに費やす動物と区別するために、ヒトは、とか人間は、とかの括りをつけて、区分しちゃうことに無理があると思うのです。

情にしても情動にしても、リアルにはセックスが根底に潜んでいると思うし、感情っていうのもそれに支えられているように思うのです。なのに人間社会は、支配、秩序維持という名目で、この本能を潜在化させてきたわけです。道徳とかモラルとか、ヒトが本質的に持っている感情とからだの関係を、切り離してしまって、社会をシステム化してきたと思うのです。

現代アートのテーマは、けっこうリアルにセックスを扱います。肉感的というか、体感的というか、疑似体験をさせて、神経回路を挑発してくる作品が多いように思います。それに、からだの科学的分析が行われてきて、人体の細部まで、解明できつつある現代です。そういった現状をふまえると、「えろす」のことは避けて通れない時代になったと思うのです。

特にインターネットに代表される情報交換時代になって、直接神経系統に情報が侵入するいま、現在です。古代彫刻の美意識、写真映像時代の近代美意識、そして現在です。あえて表と裏という区分の垣根が、次第になくなりつつある時代のように感じます。ヒトの身体的欲望を開放していく道筋に、いまがあるように思うのです。

 120kyoto1402040022



2006.5.8
えろすについて

<えろすについての雑感です>
     
ヒトが欲求する最初は、食べることと眠ること。それと同列で、えろすがある。

えろすは、必ずしも性欲・情欲だけをさすものではない、と考えているんだけれど、その中心は性欲です。ボクは、えろすとかろす、愛と美、とでもいえばいいのでしょうか、これをイメージするのです。えろす感覚は、ある意味で、封印されてきた歴史があります。

ボクは、現代的テーマとして、えろす感覚とえろすそのものを、捉えていきたいと思っているのです。ボクは、自称アーティスト、えろす表現を試みる自称アーティストです。まあ、そんな調子だから、封印されてきたえろすを、ちょっと開封してあげようか、と思っているわけです。

どんなふうに開封していくのかは、まだ未知です。世間でゆうと下劣とか下等とか、あまり良い評価ではない位置にあるようですけれど、情とか情動とか、アートの根源を成すエネルギーとして、情欲、性欲、性愛という内容のものを具体化していくのもいいかな~と考えているのです。こんなことで、このブログを立ち上げたわけです。。。


2006.5.9
性欲について

<性欲についての雑感です>

たとえば、フロイトさんは、性欲を行動原理の基底に置いているようですね。

食欲と性欲、ボクはこの二つの欲動が、身体を維持するために必要なんだと思っているわけです。つまり、食べることとセクスすることです。もう生命体の本能ですね。

文化の諸相を見てみると、食に関する話題は、大手を振ってまかり通っているわけで、グルメ情報、食文化情報、食べ物の話題は、公然としてあるわけですが、一方、性に関する話題は、どうなんでしょ?公然、とゆうわけにはなってないですね。どっちかゆうと、隠しごと、秘めごと、ある種タブーの蓋がしてあるんですね。

区分する、分断する。社会の枠組みは、この区分と分断によって整理された器です。この区分されたこちら側とあちら側。あるいは、区分された表と裏。ここでは、区分され、分断された「あちら側」、「裏」、という領域を考えてみたいと思うのです。ボクは、文化総体を考えるためには、どうしてもこちら側、表に参入させていかないと、文化の全体像が見えない気がするんです。

そういうことでゆうと、性欲って、語ることを疎外されていませんか、ね。公然にしちゃうと、社会の秩序が乱れる?そうかも知れません。でもね、生命科学の領域がどんどん進んで研究されてきて、生命の根源を解明しようとしているわけだから、その表面に現れる芸術分野においても、それ相応の対応が必要だとも思っているんです。

ああ、なんだか、はがゆい気分で、この文章を書いている、戯言、言ってはいけない領域を言おうとして、もどかしい感じなんです。ボクの得てきた教養文化のなせるところの気分ですね、きっと、これは・・・。

2006.5.13
愛欲について

<愛欲についての雑感です>

愛欲とゆうのは、男と女が交わることをさしているのでしょうか。からだの一部を結合させて、快感をむさぼりたい欲望をいうのでしょうか。ヒトにはからだが根底にあって、男が女を、女が男を求めて結合するとき、その場で動く情のことを、愛欲といえばいいのでしょうか。

性欲といい、愛欲といい、個々のプライベートに属する情動の中味です。インターネットメディアを散策していると、この性欲、愛欲を刺激してくるホームページやブログが沢山ありますね。表と裏なんて区分けをしたら、裏に属する情報です。ヒトの興味が、この裏に向いて人気があるのは、そこには覆い隠された本能がおもむける場所だからだと思います。

この裏を隠しておく公然と、開放していく非公然が、いつの時代にも、せめぎあっていたように考えています。そして現在、もう全て解禁、公然化したかの感をいだいてしまいます。ヒトの本能に属することだから、タブーとすることは抑圧そのものだから、公然化するのは、よろこばしいことなのかも知れないですね。

ところで愛欲は、リアルな場で絡まなければ機能しないものです。えろす、性欲、愛欲。ヒトの本能に属する領域が、情報として開示されてきたとしても、それはリアルな現場を持たなければ、意味をなさないと思うのです。そのことを逆利用する商売が次々と現れてくるのだけれど、つまりセクス産業ですが、これには反対ですね。なぜならば、性欲も愛欲も、もっと崇高なものだと思うからです。金銭取引の対象、代償ではないと思うからです。

 120tabi1402110018


このページのトップヘ