中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

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 今日は、大田神社へ行ってみようと思って、午後一番、市バスに乗って上賀茂神社終点まで行って、そこから歩いて10分ほど。年に一回ぐらいか、訪れている処で、カキツバタの花が有名な場所。もう終っているだろうなと思って行ったら、案の定、花の季節は終わっていました。本殿も修理しているようで、幕がかけられていました。写真は、スマホで撮るだけです。そういえば、スマホで撮るために、あちこちと巡っているんです。作風が変わっているでしょ。ひところの画風から、一変してると思うんですが、なるべく引いて撮っている感じです。

 ここに載せたのは、上賀茂神社の遠景といえばよろしいか。向こうに見える鳥居の向こうが社殿というパースペクティブです。風景について、ちと思うこともあり、文章にしていかないといけないのかな、と思いながら気分的には、あほらしくなっていて、ぐだぐだ、こんなわけのわからない文体で、文章を作っているというのが、嫌になっているんです。でも、どうしようもない、あれこれ思っても、いまさらどうしようもなく、読者なんてどうせいないんだから、とか思いながらも、読者を想定しているんです。

 京都ということにこだわっていて、それも市内の北部をターゲットにして、作品にならないかと模索しているところです。そういう事でいえば、上賀茂神社は神さまがいらっしゃる処で、葵祭の行き先になる処で、歴史あり、由緒あり、意味をいっぱい持っている場所です。でも、それを無視するわけでは全くないけれど、その意味の今様のありかたを、再度捉えなおしてみたいと思っているのです。といいながら、元からその意味を自分の中に持っていないことに気づいて、あたふたしているところです。意味の再構築以前の、最初の意味をどう掴むのか、が問題なのです。神話といい、神の存在といい、意識化しだしたのは、告白しますと、最近の事なのですから。



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別のブログで<京都慕情>ってタイトルの文章を連載しはじめたところで、北野天満宮の「ずいき祭」を話題として出したところです。ここの別ブログで<京都写真帳1980>を連載していて、そのつなぎの写真に、この写真がありました。何してるところかというと、ずいき御輿が、上七軒をあがってきて、北野天満宮の東門の前までやってきて、そこで神主さんが禊して、御輿はここから御前通りを下っていく、という光景になる、その禊している光景がこれ。撮影は1981年か1982年あたり、10月4日夕方の光景です。説明的になるけれど、ずいき御輿は野菜で作られた御輿です。いまは一つだけですが、何時の頃からかの昔は、いくつもあった、氏子の町内が採れたて野菜を御輿に仕立てて、奉納したのだといいます。

京都に生まれ育って、たまたま京都を記録している自分ですが、写真にしても、映像にしても、文章にしても、そのテーマとなるのは、日本という国の歴史に根ざした光景ではないかと、思うところです。もちろん、これは、ドキュメント、あるいはノンフィクション、ということになろうかと思うのですが、そうではなくて、フィクション、虚構、作り物イメージで、作ってもいいです。映画やテレビドラマは、創作で、フィクションで、あたかも事実のように扱うことで、リアリティを獲得するのかとも思えます。これは制作論、創作論、そういうレベルで会話したい内容ですが、ぼくは、これからいっそう顕著になっていく流れが、日本の歴史に根ざした光景、それと個人の内面との関係、その交差点が、作品になると思っている最近です。

フォトハウス表現塾のHP
昨年から、フォトハウス表現塾を主催していて、学びの枠組みを創っていて、世の中に提供しているところです。現代表現研究所という枠組みを作っていて、これは<現代>という問題を<表現>することを研究する場です。無意識に、自明の理として、なにげなく過ごしている事象に、あらためてスポットを当て、検証していく必要を感じているところです。問題にならないと思っていることを、問題にすることで、新たな認識が生まれてくるのではないかと思うわけです。そういう場を、京都に作りたくって、もぞもぞと動いているところです。日本の文化を、捉えなおしていく作業です。だれか、いないかなぁ、これまでの経験から、ここに提案している枠組みは、これからの潮流になっていくと思うんだけど、なぁ。
現代表現研究所のHP


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まだ幼かったころ、この道、千本鞍馬口から北大路にいく道ですが、きつい坂道に見えた。
幼児で背の高さが60㎝か70㎝くらいなので、すごい坂道に見えていたんだと思えます。
坂道だといいっても、祖母にはそのことが分からなかったようでした。
大人になって、そのことを思い出すたびに、ぼくの目線は幼児のままなので坂道とわかる。
実は、この道は、千本通りで、蓮台野に成っていく坂道なのです。
野辺に死者を送る葬列が、この道を昇って行ったのではないかと、空想します。
京都の地場の記憶を辿りながら、文章を書くと、どうして、暗い場面ばかり思い起こすのか。
祭の光景といっても、明るいはずなのに、暗いイメージで色彩されてしまいます。
その当時を記録した写真の、モノクロやカラーの色彩が、そのイメージにあるのかも。

蓮台野、蓮の台といえば仏像がのっている蓮の形をしてる台座です。
その台座のように見えたから、このあたり一帯を蓮台野と呼ぶようになったのでしょう。
鞍馬口の手前にはえんま堂があり、鞍馬口を越えると上品蓮台寺があり、千本北大路。
そのあたりから、北にひろがる一帯が、死者を野晒しにして風化させる地だった。
いつごろからか、平安京の時代には、そのような風習だったのかも、知れません。
なにかしら、坂口安吾じゃないけれど、桜の樹の下は血なまぐさい、そんなイメージです。
最近、そういう死者を葬った場所のイメージを追いかけている感じがしています。
死んだ人の想い出ばかりがよみがえってくることが、朝、目ざめのときに、あります。
身内というより、知人、先輩、といった関係の人々のことです。

こちらも、もういい年だから、世間では、もう隠遁生活者の部類です。
診療所へ行ってきたけれど、高齢者扱いです。
バスに乗ると、若い女の子が席を譲ってくれます。
もう外面は、老人なんだな、と自覚するようにしています。
ここまで、生きてきたことに感謝して、水に流そう、利害のことは。
淡々と生きていくことが望ましい、というところでしょうね。
では、そういうことで、今日は終わります。


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カメラはスマホ、アンドロイド、ソニーのエクスペリアです。
レンズを、北に向けたり南に向けたり、からだごと撮る方向にもっていきます。
これは船岡山の頂上から南に向けて、京都の市中を撮った写真です。
平安京の造営に当たって、この丘陵地が北の基準になったというのが定説です。
奈良の藤原宮でしかね、飛鳥の都、そこでは北に耳成山を置いているじゃないですか。
その耳成山に船岡山が符合するのでしょうね、風水占いの何か、ぼくにはわからんですが。
大極殿は、現在の千本丸太町、一条通りは千本中立売より北の通りです。
市中の大極殿よりも南については、いまのところ論外です。

というのも「京都北物語」と括ってしまって、その範囲を想定しているところです。
東西に一線を引くとしたら、一条通りよりも北、ということにしようと思います。
一条通りより北、北山の麓までが、その文化圏に入ろうかと思います。
では南北の区切りではどうなのか、東の南北は加茂川を軸に、加茂神社を含む。
西の南北は、山の縁に添って、竜安寺や仁和寺あたりまで拡げるのがいいのかどうか。
等持院は当然含めることとしますが、西方面、嵯峨野との区切りもあるから、微妙です。
嵯峨野慕情(未完)では、鳴滝、双ヶ岡、太秦あたりまで含もうと思っているところです。

この連休には、京都北物語について、四本の線を描いてみたところです。
あらためて整理すると、
①上賀茂神社から南下して今宮神社②船岡山から北上して今宮神社
③船岡山から東にとって本法寺④千本上立売から北上して蓮台野、鷹ヶ峯まで
実際には、もう少し曲折するけれど、大体の物語の系、大筋ができたように思います。
あとは、そのポイント、点と線のなかで時間軸は1200年、人の心をどう解析するか。
フィクションとして、物語として、成熟させていきたいけれど、というところです。
ちょっと、整理できたかな、こういうメモは、整理するためのもので、公開しています。
フォトハウス表現塾のHP

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京都北物語というタイトルを使いだしたところですが、それのための取材を始めたんです。
4月30日のことでしたが、上賀茂神社へ行ってみようと思い立って、市バス46系統終点。
行きなれた場所で、ことあるごとに、何度もここへ赴き、写真を撮っています。
久々に写真を撮ろうと思うときの最初のポイントがこの地点になるんです。
ぼくには信仰心がないから、こういうとき拝むということをしなくて写真に撮る。
むこうのうすけた山が、神山といって、由緒ある加茂神社のご神体だというのです。

3月から嵯峨野をめぐってきたところですが、次には京都の北部を被写体に選びました。
カメラは、スマートフォン、エクスペリアで、キャノンのデジカメでは撮っていません。
撮った写真は、その場で処理してインスタグラムにあげていきます。
でも、横長で撮っているのは、ブログに使おうと思って、パソコンに取り込みます。
文章と写真をつないで、作品に昇華していかないか、と思うところです。
文章をトレーニングしないといけません、テーマを絞らないといけません。

カフェ&プレスという名称を使って、月一回の例会を開催していこうと思っています。
天野さんの場所を使ってもいいとおっしゃるので、ここからプレス、発信しようと思う。
かってあった平安京時代、室町時代、京都の北山文化が花咲いてきたところです。
そういう素地がある地域で、いまの時代に、新しい文化が発信できないか。
まだ構想段階で、イメージを醸成させているところで、京都北物語、です。
上賀茂神社、櫟谷七野神社、雲林院、紫式部、この痕跡をスマホで巡ってみたところです。
フォトハウス表現塾のHP

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現代表現研究所のHP
先日行ったカフェ&プレスのなかで、話題にしたのは掲載写真のこの展覧会のことでした。日本の写真状況の1970年代において流行った「コンポラ写真」の原点になった展覧会カタログ。直訳で「今日の写真家たち、社会風景に向かって」展、ネイサンライオンズ編集の五人展でした。この写真展は1966年に、ニューヨーク州イーストマンハウスにて開催された写真展です。そのカタログが日本に入ってきて、写真家、写真愛好者らに興味を持って受け入れられたという。コンポラ、その内容について、少しは勉強しておかないと、いま、写真について、語れないよなぁ。このように思う次第で、ぼくが提案して呼びかける<カフェ&プレス>の最初の勉強会テーマです。

この写真展に出品する5人の写真家は、1930年代の生まれのようだから、1966年当時は30代の男子です。2018年の今から俯瞰してみると、その前、その後、その横つながり、いろいろな視点から、その時代というものが語れるのではないかと思います。半世紀が過ぎた今ですから、世界構造や社会環境が大きく変わっていて、まさに歴史として定着させる距離になっていると思うのです、なおかる今に至る、今の原点が少なからずそこにあるようにも思えるのです。そもそも、写真の制作態度とか被写体選びとか、作者のその時代の立ち位置とか、テーマそのものが、それまでとは違って、同時代の人の共感を持つ感覚的なこと含め、新しい内容を呈しているものであろうと思うのです。1966年、これを記述しているぼくは、1946年生まれだから20歳のときの展覧会です。自分史を捉え、自分の感覚と、その写真の感覚との整合性を見つめます。とはいっても、ぼくの居た環境と、五人の写真家が居た環境とは、違います。
(続く)

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