中川繁夫写文集

透明な写真/試論-1-

アーバスの作品でもっとも心を打つ面は、彼女が芸術写真の一番迫力のある計画のひとつ<犠牲者や不運なものに眼を向けること、しかしこういう計画につきものの同情を惹く目的ではなくて>に参入したらしいということである。(スーザン・ソンタグ「写真論」)

<谷間の風(シュールリアリストの死)>

漸く暑い日々が訪れた。それらの夏の日々、私は、世の中の全ては分類できる文脈あるいは文節によって成立する、と考えていた。歴史はそれ自体、絶対的な価値を有しており私が歴史を記述し創りうるその人であろうとした。しかし私のロマンが悲惨だったのは、私とあなたとの関係の在り方そのものに由来していた。

当時、私の思考の中心は、歴史への定着あるいは歴史の創造、つまりその時々に起きた事件の記録者であろうとすることにあった。事件を事件として認定すること。その認定するというそのことが、どこに由来しているのかを探ろうとしていた。

遠くて永い年月を経て培われてきた風土の感性をいまに受けた私。この感性に相克する知性。知の昇華によるロマン。この乖離からくる谷間の深淵を覗き込んだとき、ひとは一体どうするのだろうか。人間には感性があり、官能がある。いつも抑圧されたロマンの内部でしか生きられない文明人である私たち。私の精神は常に抑圧とタブーの狭間を逸脱する。

まだ青いススキの生い茂る草原に汗を流す。ときおり谷間をわたってくる風が頬を撫ぜていく。ちょっと高台になった山間のその土地は、私とあなたが手に入れた最初の楽園となるだろう。抑圧もタブーもない土そのものと、そこに根ざした植物群。雑草ひとつ一つの静かな生命は、ねじれた感性の私に、みずみずしくも迫ってくるのだった。

私は視る。この高台の土地に生成する全てのものと私の内部を・・・・・・。視ることの自由を得た私は、視るものひとつ一つが、かって現れたことのない新たな意味を持ち、私の知覚に迫ってくるのだった。私は私の内部の唯一点を覗き込む。私は体感熱くなってくるのを覚える。身体全体が溶けていくような感覚。まさに恍惚感覚。ひとはそれぞれにひとつの恍惚とする場面を持っているのだろう。

写真によって自分の恍惚を写したピエール・モリニエ(PIERR MOLINIER)は、自分に恋した典型だったのだろうか。閉ざされた部屋。愛の抱擁は恋愛を物語る。視ること(表現)の自由とは、体制内からの離脱を意味する。

<夏の夢>

私の恍惚感覚は夏の終わり、晩夏の物語。私の感覚は自死の直前に恍惚状態(自己陶酔)の自分を残した芸術家の感覚と同化するように向かっているようだ。みずからの肉体の衰えとともに、肉体と精神の極みに挑戦し、肉体のタブーに挑むこと。あるいはこのイメージは、あの厳しい冬の物語に連なっていくのだった。

釜ヶ崎で青カンする労働者の群れ。凍える肉体が朽ち果てていく地獄絵図を見る。肉体は蝕まれ土と化していくが精神の解放は春へと向かう。

これまであった膨大に撮られた「写真」の数々と、これからあるべく「写真」を、どのようにつなげて見ていけばよいのか、と想い巡らす。この思いは思想のレベルではなく、ほとんど幻。感情と同質のもの。感情:センチメンタルそのものだ。私にとっては「いま」を介して「写真」の在り方が歴然と異質なものになる筈だ。

ずいぶん以前からの解放すべき課題を持ち越したまま再々度、私は盛夏を迎えた。最近のいくつもの夏はあまり活動的でなかったので、おそらく今年の夏も怠惰な日々を過ごしそうだが、微かに官能的な興奮を知覚しているので、私はシュールリアリストになったようだ。

写真固有の価値と写真表現の領域は、発明の頃から記録(ドキュメント)としてあった。撮影された一枚の写真は、被写体となった事物、人々や風景の前にカメラがあったことを証明していると捉えられてきた。写真のリアリティは常にこうした信憑性にもとづいて解釈されてきた。

写真はかって存在した「もの」のコピーであり、かってあった存在の疑似存在としてあるとされてきた。このようにして写真の第一義的な形式は、カメラの前にあった「もの」が印画紙に定着されたものである。写真が記録であるという認定は、このように存在した事物のコピーであると認定する知識のうえに立っているのだ。そして写真の価値は、その内容にあるのだと。

写真の記録性は、このように見る限り、あたかも永久不変の真理のようにもみえる。確かにそのとうり、写真は限定つきではあるが記録そのものである。しかし私はいま、写真は本当に記録だったのか、という写真の本質に迫る疑念をいだいてしまったのだ。形式としての写真の存在と、撮られた事物のなかの価値の間に、そのとき不意に、何処からともなく風が立った。

はるか昔のこととなったが私は大学生になった。十代には日記から詩へと移行した私の表現方法は、その頃からいっそう文学に魅せられて行動派文学青年となった。政治参加という言葉が流行していた。そういったなかでの私の青春。外化する自分と内なる自分の葛藤。肉体と精神の乖離を意識しはじめるのが、そういった時代だった。

週に一回の読書会で議論しあった記憶。内灘は基地闘争の最初であったし、赤軍は私の世代の突出部分であった。突出できなかった私たちは、仲間どうしで同人誌の編集に携わった記念碑である。その後いくつかの小説家の死を経過させるなかで、写真におけるダイアン・アーバス(DIANE ARBUS)の死は、次第に「死と生」の重さを私に教えてくれることになった。

<涙の谷>

肉体的には大きく病んだこともなく、ここまでやって来たが、起伏する精神の連なりとしては、そのつど病んでいたようにも思われる。文学、音楽、また視覚芸術で、読み聞き見るだけにとどまらず、みずから創作していこうとする気持ちが沸いてきたときから、私は病に犯されつつあった。私にとって芸術とは間の淵に立つことであった。

この春が訪れる少し前、私は私自身によって私の生のあり方を問い直しはじめたのだった。いつの場面も外世界と私の感情との相克として、一生懸命に生きた。生きるということが衣食するだけのことでなくなったその時から始まった私のエンドレスゲームが延々と続き今に至っている。

春の訪れとともに、密かに自由を手に入れたいと思った。そして、私の内面において手に入れた自由。そのときに見えた感情の深淵は、十分に生きること、身体を維持していくといった生活レベルでの生命、の意味を問わせるものであった。

1971年にみずから死してしまった写真家ダイアン・アーバス(DIANE ARBUS)。最近の私の生きざまの中で、ひとの死に対するいくつかのこだわりがあるが、これは、どうも私がこれまでに生きてきた中で育まれてきた社会性(風土に根ざした視覚)とは裏腹な、プリミティブな私の感性のよりプライベートな部分からくるこだわりのようなのだ。

自殺してしまったアーバスの写真は、以前から雑誌の特集などでよくみかけていた。しかしそれらは断片的で、特に深い興味があったわけでもなかったので、これまで深く私のこころを掻きむしることもなかった。

白い部屋にぽつねんと座した私の胸に夏の夕暮れが迫ってくる。遠くから日暮らしのミンミンと鳴くのが聴こえる。女生徒の喋り声が流れていく。まだ写真撮影に精出していたころの記憶が甦ってくる。場末の踏切で赤子を抱いた若い母親がいた。西日が母親を照らして何か物悲しくも見えた。写真に撮られた生活風景を思い起こしながら、こうして黄昏に近づく時刻を過ごすことは、私を不安の淵に追いやる。

なにが直接のきっかけでアーバスの写真行為に興味を持ち出したのか定かではない。しかしこの感覚は千日以上の日々をかけて私に浸透してきたものだ。そのころよく訪ねたギャラリーで、アーバスの写真集を手に入れて欲しい依頼をしてから数か月後に手元に届いた。眠られない真夜中に書架から取り出して数分間、印刷されたアーバスの写真を眺めたものだった。

写真家における写真行為が、意識の深層において「覗き見習癖」から解放されて被写体と共有(共犯)関係を結ぶとき、写真は迫力をもって飛翔していく。アーバスはソーシャルなランドスケープ(社会風景)として、彼女が生きた時代の外側を撮り続けた。次第に歴史とか文化であるとか写真が持った時代のテーマを超えた人々の存在と向き合っていった(向き合ってしまった)。

私の感性が捉えるところによると、これは来たり来る世界と、その時代の限界(タブーとされる世界)に挑んだ内面で、時代を生きたように感じられる。なぜ彼女がその地点に至ってしまったのか。私の興味と興奮は、そこへ至らなければならなかった必然性、つまり彼女のメンタルの構造解析に向かうのだ。

固有の文化内において思想化されえない部分、疎外され隔離されているがしかし、その固有の文化内に共存する部分。隔てた壁を通過してあらゆる理論の以前にあった空白の世界。白い閃光をプリントした写真のように、それはアーバスを襲った。そして彼女は自分を見た。

アーバスがアパートの風呂場で自殺したのは1971年、ベトナムとかかわったアメリカがいちばん不幸だった時代。翌年1972年にはニューヨーク近代美術館で112枚の展示による回顧展が催された。私が彼女に興味を示すのは、こうしたアメリカの時代状況を背景としたなかで、彼女とその作品をどのように捉えるかといったことではない。

もちろん人間が生きていく行為そのものが、その時代の産物であり、彼女の場合は写真行為そのものが、彼女の時代を構成していた。また作品を理解することは、より大なる光景や背景をぬきにしては語れないことも、私がこれまで学習してきた範疇から考えて、承知のことである。しかしいま、あえて私はそのような切り取り方で人間アーバス(その時代を生きたその人)を捉えたくはないのだ。

私が興味を抱くのは、彼女が共有した被写体との関係と、関係をもったときの彼女自身の精神のありようなのだ。写真家アーバスの内に社会から疎外された被写体を撮り込んだとき、彼女にとって時代のプンクトウムは、題名のつけようのない異端者としてあることだった。

それは非常にパーソナルな部分での彼女の内面の劇について、どのような軌跡を描きながら放心状態あるいは恍惚状態となっていったのか、ということである。異端者としての感性が自分の中に存在する自覚を、アーバス自身、まどろみのなかで気づいたのにちがいない。その気づき方に私は注目するのである。

写真は魔である。あるいはこの「写真」を「芸術」と置き換えてもよい。芸術は魔である。カメラを携えた芸術家アーバスの前に現われたのは、文明・文化を捉えるという写真の文脈を超えた被写体であった。目の前にあるものが、まさにそのものであるということ。それらが撮られて現わされたものは<かって、あった、もの>それ自体であったが、それ以外のなにものでもない。この「なにものでもない」ことが重要なのだと思われる。

アーバスの写真が、いかにして撮られてきたかを論じたとしても、ことの外容をなぞっていくだけである。もっと透過した、深い森に這入り込むかすかな木漏れ陽のように、ほとんど透明に輝く光である。

芸術が知性と本能との葛藤あるいは結合の中から生成されてくることは事実であろう。そして作家が示す興味の対象へ深く傾斜していくことによって制度の枠を踏み外すことにつながっていく。

アーバスによって撮られた被写体への同情の気落ちはない。たしかに人間社会の犠牲者や不運な人々には違いないのだが、撮られた人々は同情されることを拒否している。むしろそれらの人々がもつ魔力の金縛りに会う。それまで写真家が持ち得た思想や文化内においては理解不能、あるいは理解を拒むものとしてある。つまり内容の明白な意味を問うことは、ほとんど価値がなさそうなのである。

人間には尊厳として固有に与えられているものがある。私たちはこの固有に与えられたものを取り巻くさまざまな意匠を身に着けているが、この意匠のひとつ一つを剥ぎ取ってしまったとき、私たちには何が残るか、あるいは私たちは何を根拠に生を営むか。

私に突きつけられたアーバスの写真から受けるプンクトウムを理解する感覚とは<このこと>であり、この感覚を思想化しない<できない>ことのなかにあるようだ。

彼女は撮影するということが、理論の以前にあるもの、撮影そのものを正当化する必要を知らない透明な文脈を、外部世界との遭遇のなかに獲得した<参入していった>のだった。そして、被写体がそれ自体としてあったものが<そのもの>であるということへの直感的な経験が、アーバスを解放したのだと思われる。



まどろみの中/試論-2-

<記録の解体>

それらの日々から三年、もうカメラを持たない、何も撮らない、何も書かないでおこうと思った。こういう言い方は自分の意志による廃業宣言のように受け取られてしまう。もう何も撮れない、何も書けない、終わったのだ、と言い聞かせるしかなかったのだった。

その前の年の夏、私はあたかも旅行者の風を装って、私の風土、京都の夏の行事を撮って歩いた。その秋には、私によって撮られた何十本かのフィルムから、「ミイラ」になってしまったSへの鎮魂歌として「夢幻舞台」と題する写真とエッセイをまとめたささやかな本を出版した。この撮影のなかで、すでに地獄絵図が撮られていたのだったが、これが次第に私のこころを傾斜させていった。

その光景は、遠い記憶の像に結びついており、私を構成している原体験のルーツとしてあることを発見していた。死後、肉体は屍となり風化して土に帰る。あるいは地獄にて喘ぐ死者たちの群れ。私自身の風土を形成している原形が、ここ地獄絵図にあるようにも感じられたのだった。

カメラは自分をみつめる手段としてある。とするならば、カメラを持ち続けることを放棄しようとしていた私にとって「地獄絵図」はどうしても私自身の記録として残しておかなければならない最後の被写体だった。「地獄絵図」にまで行き着いてしまった「記録」の方法として、写真を撮る「行為」「姿勢」「言動」「思考」などの延長線上ではもう写真を撮り続けることなどできない、どうしようもないな、といった思いに至った。

「地獄絵図」を撮影していた夏の夜、<遠いところまで来てしまったな>とつぶやき、そのように感じていた感性(感情)は、すでに、人を失うに至った「記録」写真の在り方に対して、来たりくる新しい時代の潮流を予感していたのかも知れなかった。

それからかれこれ三年が経った。もう過去はすっかり私の内部で風化してしまった。この三年間、私の経過してきた過去の一切を反故にしてきた。その後の周辺で起こった新しい友たちのなかで、過去の話題には固く言葉を閉ざした。あたかも失語症の子供が口をつぐむように、小鳥がさえずりを失うように、もう語ることもなければ書き表すこともないだろうと思っていた。

それにしても、あのSが自死したという事実が私に突きつけてくるものは、何なのだろうか。来たりくる表現の方法、あるいはまなざしを、Sは時代をさきがけて得てしまったのだろうか。結局、時代の感性がおもむくままに行動してしまったSの「まなざし」が過去の累積から派生し、いまを組み立てる「方法」の論を超えてしまったのだろうか。

彼女が見てしまったものは、-夕焼けー沈みそうで沈まない真赤な太陽の贈り物。豊かな時代に生まれてきた飽食時代の「美しさ」感覚が崩壊し、新たなる感性、新たなる美、そこは花園、聖母マリアに目をあげ祈るーささくれたった地獄の美しさー(さみしささみしく支えるものは何もなく)裸の自分だけを見てしまったのではなかったか。

鎮魂。言葉は次第に私から遠のいていった。狂気の季節が去りていったのだな、とひそかに歓んだ。組織におけるアジテーターとして、あるいはオルガナイザーとして、自分の意志において選択した新しい道程を下部から支える統率者としてあろうとした。後退の瀬戸際に立った私にとって、どうしても護っていかなければならない私の構想。

全く新しい地平で事が始まらなければならなかった。私は一面、健康体となった。庭に植物を愛で、血縁家族に傾斜しようとつとめた。抱擁すべき制度の知恵は、人を軽やかな幸福で満たしてくれる。そう、自分の過去は年寄りじみて甘酸っぱく語ればよいのだ。いつもノスタルジーを大切に抱きしめていればよいのだ。

おおむね人の生とは、このようにして年月の起伏を経過させていくべきものなのであろう。
否、私はこの流れに逆らい、竿を差さねばならぬ。
風化する私の時計を逆転させていかねばならぬ。
この逆襲の手懸かりを、いまつかみ始めている。

この手懸かりは、私のプライベイトにおける対決であり、個の起立における挑発である。あるいは個と個の深い関わりからの相互挑発作用である。生活道具の豊かな所有は、すでに見てしまったがゆえに、私の内面を孤立化させ、飢えさせるもののようなのだ。

<創世へ>

こういった経過のさなかの最近、ちなみにひところの自分が書き記したとりとめのない評論形式の文章や、巷の光景を撮った写真を読み返していた。と同時に私の周辺を埋め尽くしていた知識の源泉とでもいうべき資料の整理を行っていた。

私が書き記した文章で、不特定多数の他者へのメッセージとしたものの多くは、当時個人誌として発行していた冊子「映像情報」、また実質的発起人として編集に携わった「季刊釜ヶ崎」に記載された内容そのものだったが、これをとりとめなく何回となく読み返していた。

「季刊釜ヶ崎」について。

1979年12月に創刊されて通巻10号までと別冊「絆」が発行された。釜ヶ崎現地からの外部に向けた定期刊行物は初めてとも云われ、私は「写真レポート」の連載を載せた。
70年代の運動思想で色濃く染められたセクト運動家たちの間にあって、写真の自立と感性の起立からイメージの定着を目論んだ私は、ひとりよがりながらも写真論を展開しようと試みた。

私は当時、美術館における展覧会あるいは出版社から発行される写真集という、写真と文章の発表媒体としての既成メディアを拒否し、私独自のメディア創出へとの思想の展開過程の具体化として構想されたものであった。
つまり、既成の枠組みにより構築された釜ヶ崎のイメージの転換組み直しを目論み、私の「見た」釜ヶ崎イメージを「見せる」ためには独自のメディアを必要とした。

「映像情報」について。

1980年8月に創刊され、1984年1月まで通巻12号まで発行された冊子である。
当時、私は集中的に取材地「釜ヶ崎」に関わっていた。いま、読み返してみると、そこには私が背負っていた既成組織へのやるせない反発と、反発に対するリアクションによる行き場のない感性の閉塞状況を読み取ることができるだろう。

打ちのめされる私性を回復する手だてとして書き、撮り、発表する。たった一人で行う編集作業は苦渋にみちた肉体的な反復行為としてあった。表現者の手段として、それは個人誌とはいえ出版というパブリックな形式をとっていた。しかし制作過程の率直な感情といった観点からとりあげてみるならば、その方法は、非情にプライベートなものだった。

成熟しない愛の変形として「映像情報」はあった。乾いた感性、ささくれた人間関係、言葉という文化をもつがゆえに同一化しえない個別の人間関係へのいらだちから、それは発生していた。あえてストイックな方法で、硬質な論戦を張る。一方で破綻をかいま見せる。コミュニケーションの方法として、知を持つがゆえにとらざるを得なかった表現の方法としてあった。

また、それ以前から当時まで(1975年頃から1980年頃)毎月毎月購読していた「アサヒカメラ」や「カメラ毎日」「日本カメラ」といったカメラ雑誌に発表された写真の切り抜き(年に一度、雑誌から必要と思われるページを切り抜いていた)などが気になって整理しはじめていた。

積み上げられた印刷物の束をファイルに入れた。総計二千頁をこえる分量があった。それぞれの印刷物には、写真が印刷され、あるいは活字となった文章があった。そこには、それぞれ写真家の思いを込めた写真が発表されており、また熱っぽく語る評論家の肉声があった。

私の手元にあったそうした私へのメッセージの群れを視る限り、ひとつの時代が多分に熱っぽい雰囲気を持っていたと感じずにはいられない。しかし、自分が記した写真や文章については、千日以上の日々が経ったいまとなっては、その思い入れた気持ちも過去の産物となった。

私は久しく写真を撮っていないし、文章も書いていないのだったが、最近になってあらたな模索をはじめようと思いはじめた。新たなる試みがどのような形態によって成されるかはまだ未定としても、よりフランクに、よりナチュラルに、より自然体としてありたいと思うところだ。ひところのような、攻撃的な論調、語り口はもう持たないでおきたい。また、もっともっと平坦なことばを使って、なおかつ」最高の伝達を試みる。

いま再び私は、私にとって「写真とは何か」といった問いかけを考察のメインテーマとして価値の中軸としなければなるまい。未生の今後にとって写真というものの在処を、今一度問い直してみなければならないときだと思う。

<決別>

写真術が発明されたときから、写真はドキュメントつまり「記録」という幻影を持った。絵画が持ってした写実を写真術が奪ってしまった。カメラオブスキュラ「暗箱」は社会への窓であり、肖像は写真の専売特許となった。目の前に存在するものが即座に定着されるという驚異は、その時代:主に十九世紀ヨーロッパ:の文化形態に一大革命をもたらした。すでに絵画が確立してきた様々な技法、つまり遠近法を、肖像を。

たとえばボードレールの肖像写真は、絵画における肖像においては持ち得ないリアリティを私の前に呈示する。また坂本龍馬の肖像写真は現在においても色あせない。また幾多の戦において、従軍画家がなしえてきた作業は、従軍写真家において実現されてきた。

ジャーナリズム勃興から全盛への歴史は、世界のまだ見ぬ地域の風俗や世俗の深部へと探検していった。それが捉えた世界観は、写真の文化史的側面と質をもって成立してきた。そして、おおむね、その中心となるテーマは「人間」であり「外化した人間」を中心にすえた視野の獲得であった。

一方において写真は、絵画の内面史と平行して、その視野を共有してきた。「芸術」写真は、絵画術とはおのづと異質な手段によって構成されるが、手法と表現の方法は絵画と同様のスタイルを採った。写真の発達史を概観すると、このふたつの方向が相互に絡み合いながら、現代に至っていることに気づく。

このように写真が平面(二次元)での表現であり形態が絵画と酷似するゆえ、それまでもちえた絵画による記録性と芸術性を、写真の特質とするところから写真史は開始された。そしてその時代の風俗を印画紙のなかに定着させ、人々の欲望を充足させていった。

記録という概念を主体とする写真。行き着くところまで行ってしまった記録の方法。

次に続く言葉を模索しながら、私は絶句し立ち止まってしまった。空しさが胸につかえていた。私は「知識」をベースとした評論といったものを書こうとしていたが、すでに私にとって、こういった言葉を連ねていくことの空しさが明確になってしまったのだ。自己洞察のない写真との決別。私は決別する。

私が決別しようとするのは、記録の概念により生じる思考方法である「方法の問題」だ。言語に従属する記録写真の概念は、いま私によって否定される。そして写真は「方法の問題」から「まなざしの問題」へと移行する。

まなざしとは、感情の交換である。そこに存在するのは差異。新しい写真とは何かと問うとき、そこには感情の流れそのものの定着、カメラを持たないときに感じる「愛するひと」を前に置いた感情による撮影。

これまであった写真の累積は、被写体と鑑賞者との間に存在する自己(写真家)の位置関係であった。この位置関係を新たな関係として組み直すこと。新たなる美の創造と永遠の母の像を求めて・・・・・・。被写体と自己がダイレクトに結びつくとき、まなざしは自己の内側へと侵入する。私は何を見るか。

時間の流れの中で、私はたえず心的な状態として感性の流出の中にあった。ときにはこの状態にある私を内省し「空しい」とつぶやき、あるいは「切ない」とつぶやき、あるいは「うれしい」とつぶやくのだが、感性は決して、こうした形容のなかに収まるものではなかった。


まどろみの中/試論-1-

時間の流れの中で、私はたえず心的な状態として感性の流出の中にあった。ときにはこの状態にある私を内省し「空しい」とつぶやき、あるいは「うれしい」とつぶやくのだが、感性は決して、こうした形容のなかに収まるものではなかった。(中川繁夫「私風景論」より)

<感性の淵で>

創作意欲というかすかな予兆の足音は、ちょうど昨年の晩秋の頃から、私の感性の内ではじまり、日々とともに次第に大きなうねりとなって訪れてきていた。

最初、このうねりの波形についての「意味」そのもの、あるものごとが理解できる、あるいは解釈できるといったものは定かでなく、なにか疼いているなと感じる程度の得体の知れないものだった。

まだ態度として行動に結実していかない感性の淵で「何か」が始まって行こうとする、ほのかに、かすかな予兆を感じさせるものだった。

その気分は、夜明け前、不意に夢から醒めたときにのぞきこむ闇の深淵のような、こころを掻きむしられ宙ぶらりん感覚と同種のもののようだった。

「言葉」とはおおむね、形あるもの、あるいは自分が内在するこの文化総体が生成してきた形なきものの概念を指示するものだが、その気分といったものはまだ「言葉」として意味を生成しえないもの。

あえて言うなら感情の初源のものであり肉体が奮えるときに自然発生的に生じる叫びとしてあった。


私の感性は、つねに私の存在の外部からの衝撃により押し流されている。あるいは、流れる。この感性(感情)の流れのなかで、つねに生成されては風化していくものとしての行為があった。私はこうして感性の成りゆきのままに身を委ねている。

私にとっての表現行為の成立とは、おそらく感性(感情)を思想化するものであり、あるいは思想としてあるものを感性(感情)に還元するものの総体としてあるのだろう。

いま、私の感性は海あるいは生の表面をスイスイと滑っていく。それは根無し草のごとく、あるいは水草のごとく、あるいは雲の上のごとく、ふわふわっとした気分のなかにいるようにだ。

この気分のなかにあって、私はとても憂鬱だ。雑踏した世界のなかで流れのままに身をまかせている私の内面に立脚し、私の内に向かう思想の根拠地としての感触を持ちえないこと。

おそらく私を憂鬱にさせる原因は、この根拠地を喪失してしまった感覚のなかに含まれそうだ。しかしその憂鬱ゆえに、私は、私の感性にとって新しい領域が得られる予兆を感じているのだ。

<春>

初春の風の中で私の感性は憂鬱と孤独感に襲われる。これは突き詰めるところひらひらと、風に舞うように感性の自由を獲得しつつある証のように思われる。

自転車に乗ってふらっと外に出る。三月の風。私はゆっくりこぐ自転車のスピードが好きだ。新芽を吹きだした道端や川沿いの土手に群生する木立や草々を観察するともなく観ながら、私はひそかに決意する。

風化する感性をいま一度起立しなおすこと。
私は春の訪れとともに、弛緩する私の感性に竿を差そう。もう何をも畏れることはない。何にも拘束されなくてもよいのだ。私の内に向かって流れる感情の領域の限りにおいて、私は自由の翼を得ているのだ。

私は写真との新しい関係を求めている。自由!フリーダム!なんと快い響きをもって私に向かってくることだろう。歴史において常に詩人は自由を得ようとしてきた。しかしはたして自由とは、何からの自由だったのであろうか。

私の目の前に現れる社会・世間、つまり私には第二人称のあなた、との接点を求めて、なにからの自由になれるというのであろうか。写真を介在する私とあなたとの関係は、私の感性とあなたの感性の関係であらねばならない。

これまであった写真、つまり「写真は記録」からの自由を得ること。こうした断定のなかで一枚の写真が指し示す社会性とは、あなたとの関係の中に水平感覚として写真を見ること。あなたとの関係そのものなのであろう。感性の自由とは禁制・禁句(タブー)から脱却すること。あるいは自己を脱却させること。

<悲の時計>

記憶をたどってみれば1985年8月以降、私は写真制作を根底とする創造行為を休止している。カメラを持っての撮影は、盛夏の京都にあっては精霊を迎える盆の夜、六道の辻界隈での地獄絵複写が最後だった。
これも漸くカメラを持ちながら地獄絵複写をおこなったものだった。おそらく不特定多数の人たちを前にした形では永遠に公表しないであろうことを前提とした撮影だった。

それ以降、もうすっかりカメラを持って写真を撮るという方法を忘れてしまっていた。忘れてしまっていたことはそればかりではない。忘れてしまったなかには、次のようなこともあげられる。すなわち「もの」を作ること、ものを読む、ものを書く、ものを語る、そしてものを写す、といったような「知」を形成させるための行為の結果としてのことごとくだ。それから、かれこれ千日以上の日々が経った。

こうした日々、歳月が連続してきた結果としての今日(1988.3.21)、私は、私のとってきた態度と行動様式についてひとつの結論を下した。
「カメラとペンを持っていた一時期はすでに水平線の彼方に行ってしまった」
こう断定を下した今日、私は、私が書きとめ不特定多数の人々に充て、発信した最後の文章を読み返した。それには「釜ヶ崎物語」(季刊「釜ヶ崎」第9号及び第10号に掲載)と名付けられていた。

この私の「釜ヶ崎物語」へ凝縮されてくる意識の流れは、非日常の行為としてあった写真制作の方法を、日常生活そのものとすること、という命題に始まる。私の日常における表現行為がそのまま現代史としての歴史となること。病んでしまった国の病んでしまった人々。一人ひとりを訪ねて歩き、その個人史を記録していくこと。一人ひとりの生活記録の集積がこの国の歴史そのものとなること。写真シリーズ「無名碑」の発想はここからはじまった。

病み傷ついた人と向き合うことは、自分の病み傷ついている感性を、その照り返しとして観ることに他ならない。自己崩壊していく目の前の人にカメラを向けシャッターを切ることは、直接に私自身の崩壊につながる。当時、私のまなざしは「記録」という作業を根底においた表現の試みとして、またこれまであった「論」あるいは「写真の方法論」から「作品」への昇華として、私の内面を記録しようとしたものだった、と記しておこう。

ベランダ越しにやわらかい光が差しこむ昼下がりの自室で、私がなしてきた一連の作業「釜ヶ崎の写真記録と文章」の群をパラパラとページをめくり読み進めていくなかで、私は不覚にも涙してしまった。
最後の一節。「あんたがたが手に入れたと思っている素敵な生活の、根底をゆるぶるようなイメージを投げつけてあげよう。それも写真をもってだ。」

いま、私はここから出発する。自立のとき。1988年3月。
私は、新たなる私の日々の感情の流れを残していこうと思う。
いま、私は表現者としての感性(感情)流出の定着を試みようとしている。
日々の生の在処を問う連続の場として。

しかし私の感性(感情)の流出を受けとめる側、つまり鑑賞者(読者)として想定するところに不特定多数の人々といった概念はない。かりに相手を想定しうるとすれば、それは日々の感情の流れそのものを共有できるひととの間でのみ可能となるものだ。

私はこのようにして個別に結ばれる愛。感性の欲望を「悲の時計」と呼ぶ。そして私はひとつの決定を下す。表現行為(感性の欲望)における暗黙裡の希求は、冷めたこころを暖めあい、私を解体し、あなたと私が相互に理解しあえるところの究極のものとしてあらねばならないものだ、と。

表現者と鑑賞者の関係、表現者と被写体との関係は本質的にコミュニケーションを結ぶことが不能な関係であるのだろうか。カメラを持つこと。言葉を持つこと。この持つことを放棄したときのみ、私とあなたは同化することが出来るのだろうか。表現行為の宿命としてそれはあるのだろうか。表現者は常に持つことと捨てることとの紙一重の限界で行為を選ばなければならないのだろうか。

文章を、書き連ねる。写真を撮り、呈示する。な何故この行為がありうるのかと問いかけたとき、その答えとして、私には、表現行為を通しての相互理解、イメージとイメージの交換から究極の愛の姿、へと突き進むのだ。ここで位置関係として一方がカメラを持ったなかでの相互理解、究極の愛、を持ち出したとき、この内には表現者、たとえ愛の告白者としても、は非ざる心をもってしか成しえない人と人との関係の連なりだという悲観的要素が目に浮かぶ、あるいは脳裏をよぎるのだ。

「知」の形成と「生活の根底をゆさぶる(ゆすぶられる)イメージ」の創出。私がいま表現行為、あなたへのメッセージあるいは愛のコールサインについて、明確に答えられる言葉は、これをおいてない。

<終焉から>

私の写真行為において、なぜ、最後の被写体が「地獄絵図」だったのか。また、なぜ、そこにまで漂流して行かなければならなかったのだろうか。
いま私は、「過ぎし日々」を水平線の彼方に葬ろうとしている<私>が辿ってきた総体としての「私」を、様々な角度から、着付けた衣裳をはぎとり、こころの襞をひらけ、「それは何だったのか」とあらためて問いなおさなければならないのだろう。

私が外に向けてきたカメラで、被写体となったひと。ひとは生まれながらに病み傷つくメンタルを内在させているのだろうか。生存していくための諸制度(国・会社・家庭・夫婦・親子・・・・)からはじき出されてしまったひと。あなたと私。なま身のからだとそのこころ。あなたの病んでしまった内面に遭遇したときから、私は私の内側を見つめはじめたのだった。
私は私の生活周辺が無性に気がかりになった。無名碑と名付けたあなたの碑は、つまり私の碑そのものとして照り返されてきた。私は私の存在理由を問いはじめた。

私は、私の根拠地、私を培ってきた風土そのものである生活周辺を撮りはじめた。そうしてカメラで、私自身が病んでしまった経過と、病みついていった記憶をたどっていった。肉体と精神の構図を見つめながら、病むことの意味を問いはじめた。つまり肉体の在処を・・・・。
その最後の行為、つまり地獄絵図の撮影は、それまであった私の行動(釜ヶ崎や映像情報との関わり)のリアクションの終焉としてあった。

すでにそのとき、1985年8月ごろにおいては、かってあった「写真の方法」でカメラを持って街角にたつこと自体が、生きることの本質、美を創造することとは相容れない要素であるようにも感じられていた。
そしてそれまで私が考え辿ってきた「写真」の方法が、つまり生き方そのもの、美を創造する方法論、が解体し終焉を迎えていることを実感していた。と同時に急速に弛緩していく私の感性を見てしまっていた。

<狂気へ>

1977年秋から冬にかけて、私は「街へ」をメインテーマに大阪に立った。梅田界隈で、その数か月を経た。そして翌年の春から夏には原稿用紙に向かって「私風景論」の定着を試みた。
再度、カメラを持って大阪に通いだしたのは1978年9月2日。と同時に「大阪日記」と題した取材メモをつけ始めていた。天王寺から飛田界隈を経て釜ヶ崎の地へと足を延ばしていくのにそう時間はかからなかった。

三角公園に佇み途方に暮れてしまったという記憶、そこからそこで写真を撮っていこうとする私自身がどうなっていくのか不安でしかたがなかったといった記憶。
当時の取材態度は、まだ明確にはなっていなかったけれども私自身の内面の問題だけが主体であった。またそのころはまだ、写真は既成の価値軸を明確にするための美の属性として捉えており、一方で社会性を追求(非条理を告発)するといった写真の方法、つまりそのころまで継承されてきた記録(ドキュメント)の実践として捉えていた。

翌年の冬には、世間では薄められているが釜ヶ崎の地に集約的に表出するカオスとしての側面、あるいは政治性、あるいは精神性、あるいは「生のありかた」そのもの、と正面から向き合う姿勢を意識しはじめていた。自分は本質として虚弱な精神しか持たないと考えていた私自身が、自分に対する挑戦として自己を起立させていくこと。自己の弱点を克服していくこと。

私が自ら課せた主題は、荒々しい風雨に自己の精神を晒すことであった。なぜこのような思考が自分自身の内面に生成されてきたのか定かではないが、かってむさぼり読んだ小説からの感化。また二十歳の頃に私をとりまいた外的状況の中での自分の挫折と、挫折と認定するがゆえに終わらなかった青春のよみがえりに心が疼いたのかも知れなかった。

カメラを持つ私の目の前に立ち現われた被写体となった人々。その一人ひとりのこころの優しさと、優しさゆえに病んでしまう精神。彼らの内面へ向けるまなざしは、私自身へ向けるまなざしとなった。肉体を超えて透過していく感性の、ともに滅びようとする肉体に向かう感性。私の手には、唯一カメラがあった。

私の前に現われた労働者のいまの姿と過去をたどる聞き語り。無名の人々との出会いは、私に、私自身の存在理由を突きつけた。私の前にある裸の現実への照射として私の内面への裸のまなざし。私は論理でもって、このまなざしを解明しようと試みた。理論書を読み文筆を重ねた。そして、写真を撮るという接点での双方向のまなざしから、この体制を突き崩すための理論を模索した。私の感性は現世がタブーとする悪への価値軸へ飛翔しはじめた。

私は写真家であろうとした。移り世のドキュメンタリストであろうとした。世俗の表層をかすめとってくる「ミイラ取り」になろうとした。
私は写真の現場としての「釜ヶ崎」で足を踏み外しつつ、唯一、ムーブメントの現場としての「写真界」との接点に身を置いていた。

それまであった白々しい写真の世界と縁を切ること。独自の外化方法を見いだし展開すること。私の自立。そこから見えてくる光景は全て虚ろな人々の流れ。人は何をめざして生きているのだろうか。私は何をめざしているのだろうか。ゴールのない疾走は結局、身体を屍と化すこと以外にないように思われた。

そうした思考の一方で、「ミイラ」にならなかった私は、私自身の感性の崩壊を見ていた。ずたずたに切られた回路は、もうそのままでは恢復の余地がなかった。私は必死の思いでこの恢復の回路を模索した。雑誌「映像情報」や「季刊釜ヶ崎」の創刊、巡回写真展企画。もうだめ。はりつめすぎた糸が切れそうだった。

写真の意味/試論-2-

<未生のとき>

いま、私のまえに数枚のオリジナルプリントがある。タイトルはまだ無い。被写体は数個の「桃」である。撮影者はまだ学生気質を残したような若い女性だ。
プリント上の白から黒への諧調のなかには、数個の桃が草むらに転がされていることが判読できる。あるいは籠にに盛られている。自然な形といえばこれほど自然な姿はない。また、作為的といえばこれほど作為的な姿はない。
そのうえ、モノクロームフィルムで撮られたモノクローム印画紙で焼かれたものなのだが、桃の部分だけに一見では見落とす程度に色鉛筆で桃いろが施されている。

撮影者はこれによりあきらかになにかを指し示すことを意図しているように読み取れる。
目の前に差し出された写真には撮影者があり、写されている被写体「桃」は<かって、そこに、あった>もの「物」である。撮影者がどういう意図によって、そこにあった、あるいは置いた「桃」を撮ったのかといったことは、写真をみる側の主体、つまり現在の私にとっては、ある意味では、もうどうでもよいことである。しかし、私のこだわりに固守すれば、興味深いことなのである。

プリントの上に存在するものは「桃」のコピーである。日常の生活のなかで食卓でその季節になるとよく見かけるくだものだ。私にとっても桃という果物のイメージは、古くから日常の生活に根ざした季節の果物としてあった。最近になって外国産の果物(フルーツと呼ぶにふさわしいイメージの果物たち)をよく見かけ、また口にすることも多いが、桃は遠くから私たちの生活に密着してきた果物としてあった。

撮られた「もの」つまり桃そのものは視る者それぞれに意味を与え探らせてくれる。見る者それぞれに視たものへの思い入れがある。それは不明確だけれども遠い記憶の像に結びついているようだ。この不明確な記憶の像を呼び起こすときに湧き起ってくるそれぞれの固有の叙情性(無意識下における感情の流れ)とでも言おうか、愉しくさせる、寂しくさせる、等々のその源泉とするものに、私は注目している。

このように、私が興味をいだくのは、この「桃」のプリントが私に与えるクオリティあるいはインパクトについてである。このクオリティあるいはインパクトとは、撮影者における静物「桃」をカメラによってスケッチしたという行為とか、撮影以前にあった表現意図といったような、撮られた現場周辺での撮影者の在りようへの興味というよりも、私自身の受けとめかた、受け入れかたといった私自身の「所有する構図」にかかる部分である。
自分のものとする、あるいは所有したいという欲求は社会的につくられたものであると考えられる。このつくられてきた「所有したい」欲求の在処を探すこと。そして所有できてしまう社会構造の在処を探すことであるように思われる。

私が最初にlこのプリントを見かけたのは、徹夜に近い状態で議論を交わしたあとの昼下がりのことだった。さだかでない意識のなかで同じ撮影者のプリントの束を見ていた中の一枚がそれだった。
そこには街角のスナップ、晩夏のひまわりを撮ったプリント、石ころばかりの山のプリント、といったように類型的でなんの変哲もない(私にとっては興味のない)ものばかりがあった。「桃」はそのなかの一枚、記録の範疇から飛翔したと認知されるたった一枚だったが、異様な迫力をもって私に語りかけていた。

コメントの付けようがようがなかった。それらの写真を前にして言葉でもって批評することが目的の一つだったが、私は執拗にもこの時代のステロタイプ的な批評を、あたかもお茶をにごすという比喩があるそのようなスタイルで、与えていた。私は、私を突き崩す「桃」にはいっさいの言葉もふれずにいた。語ることの畏れを直感的に感じ取っていたのかも知れなかった。

そう、第一の直感的な印象といえば、おおむね少女の戯れにすぎないような感じであり、あえて批評の場に登場させるに及ばないもの、とでもいった様子だった。私が感じる「少女の戯れ」という感じ方は、あまりにも巷にあふれる雑誌記事や広告のセンスそのもの。なんら毒気のないステロタイプな感じ方であっただろう。その場では言葉にならなかったし他愛ないものだったのだ。
しかし、それは私のまどろっこしい神経を針先で突ついた。

本来、表現者(写真家)の姿勢は、他者(おおむね享受者あるいは鑑賞者)の持っている世界を視る観察方法と内面世界(ほとんど感情そのものが湧き出る源泉)を、根底から揺るがしてくるものでなければならないものだ。
その一枚のプリントが、私の目の前から消えてしまったあと、私は、記憶のあるいはイメージのなかで、その「桃」と対面することとなる。

撮影者はそのとき多くは語らなかった。ひとは自ら表現者であろうとするとき、寡黙であるより、おおむね饒舌になるもののようだ。また、表現し呈示したものへの批評に対しては、自己の正当なる由縁を主張するかのように身構え攻撃的に、自己弁護をしようとするものだ。だが、その撮影者は多くを語らなかった。

ひとは、生まれたときからたったひとつだけ固有の環境を持っている。そして、それぞれに異なる関係をそれぞれの環境のなかで結んでいくものだ。こういった自己を形成し取り囲んできた環境の集積を、私は「風土」と呼んでいるが、おおむねこの風土のなかにあって、普通は既成の枠組みをみずからの枠組みとして築きあげていくものだ。

カメラを持っての表現といったときにおいても、表現することを意図することは、おおむね既成の枠組みのなかでの価値観の構築といったスタイルに落ちつくようだ。
この作業はおおむね移り世の表層をとらえることしかできないが、としても多くに見かける巷の類型あるいは類似形としての外界の認識作業(風俗の表層をなぞっていくことによる制作)は、自分を見つめることのない偽表現者にはまさしく安住の場所なのだろう。
それらは鑑賞者自身の価値観が既成概念によって固められていることによって、あたかもその時代の中では熱烈な支持を受けることもありうる。

「桃」の撮影者が当初、そういった関係においてカメラを持ち、表現されたものの価値を模索するスタイルが、巷の類型あるいは類似形としての外界認識であったことは想像にかたくない。無意識のうちにカメラが向けられた「桃」の撮影者における「桃」の写真は、そのような類型あるいは類似形の範疇からはみ出した行為としてあった。

かってあった「論」あるは「読む行為」としての写真は、つねに社会表層の現象をとらえてくることに向かってきた。そして写真自体の輪廻作用によってイメージを増幅させ、そこに写真が拠って起つ社会的基盤を築きあげようとしてきた。この方法論から派生する行為により写真を撮ることは、おおむね事故の内面を洞察しない、つまり表現者の不在と不毛のなかでの「記録」だ。この「記録」という幻影こそ、「写真」を写真から遠ざける何者でもなかった。

「記録」という概念を根底としたこれまでの写真。この在りようとしての写真が認めてきた写真の範疇で、いまや写真とその行為は循環する袋小路の迷路に入ってしまった。このような視点あるいは方法からの「写真」の不毛が現在の状況であると認知するなら、現在は沈滞の時であると同時に、まったく新しい範疇からその表現領域を確保していく未生の時でもある。

私の感性をいちじるしい感動にまで高めてくれた「桃」の写真。私を突き刺すばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける。「桃」撮影者における気分のはみ出し行為(記録という概念から外れた制作方法)こそ、未生のときの固有の表現行為となるべき質そのものではないだろうか。

<まなざし>

私は生きている。その証として歓び、哀しみ、苦しみ、重くまた軽やかに時を過ごす。過ごしてきた時間が膨大になればなるほど、いくつもの場所でそのつど思い出をつくってきたようだ。ひとと私との関わりは、常に直接的なものだった。目のまえにひとがいて私がいた。いつも私が関わるひとへの興味の周辺から派生してくる事が、直接的に私に関心を抱かせてきた。事物に対する私のまなざしのとっかかりは、いつもそうだった。

およそ二十数年ぶりに訪れてみた大学近くの朝の珈琲店、私は記憶・思い出のまなざしてそれを見る。その後、幾たびかの改装をかさねて現在の店舗となっており、当時の面影は何もない。しかし、朝の珈琲をのむ私の目の前には、過ぎし日々に出会った人々の顔が、通り過ぎていくのだった。またそれらの人々を取り囲んでいたひとのいる光景として、その時代への感情がよみがえってくるのだった。

訪れた珈琲店は、私たちがまだ青春だったころ、毎週一回、日曜日の午後に集まっては何時間も一冊の本を手にして議論しあった場所だった。当時、よく夜行列車で金沢へ発った。凍てついた早朝の金沢駅から三十分ほどで内灘に着いた。内灘にはかって弾薬庫として使われていたコンクリートの塊がいくともあった。私の半生の生き方を決定づけた現代史についての興味は、そこから始まったのだったが、ここにもひとと私との直接的な関わりがあった。

それから十年が経って私は釜ヶ崎で写真を撮っていた。写真行為とは何かを考えていくなかでの結論は、写真行為を生活レベルで日常のものとすること。そうしてビデオカメラをもった若い感性のSとの出会い。

私のまなざしは、いつもプライベートな視点から始まっている。もし、私が今後も興味を示すものがあるとすれば、そのとっかかりはやはり非常にプライベートな興味からしか始まらないだろうと予測される。
かってわたしの興味は、このようにプライベートな源泉により生じていたが、それらの光景はいつも既成の枠組みによろ思想に収斂されていった。

価値の概容は、直感的に、既成の枠組みの中でしか生成されえないかのように、私は対応していたのだ。
類型あるいは類似形として外界を認識していくことが、価値を創造していくことの基本であるように感じていたのだ。

しかし、いま、このことは私によって否定される。私における視点(まなざし)の変遷をたどってきて、ここに大きな屈折点を見きわめる。
ステーグリッツがオキーフに向けたまなざし、若いひとが桃をとらえたまなざし。私はプンクトウムを得る。写真が私にとってかけがえのないものとなるとき、私のまなざしは木漏れ陽のように森の内部に這入り込む。

写真を覆い尽くしてきた一切の言葉を反故にしよう。私が語ってきたことばを反故にしよう。
私はいま、ここち良いまどろみのなかにいるようだ。この感覚は、私の、私だけが知る細部の感情が、私をこれまであった枠組みから引き離してくれる予感のようだ。

未生のとき、いま、私はこれから起こり来たる苦悩を引き受けよう。
ようやく春が訪れる解放感は、いまはない。しかし戸を開けよう。私のまなざし。私の解放。ほのかに、かすかな予兆を感じる。


写真の意味/試論-1-

写真が心に触れるのは、その常套的な美辞麗句、<技法>、<現実>、<ルポルタージュ>、<芸術>等々から引き離されたときである。何も言わず、目を閉じて、ただ細部だけが感情的意識のうちに浮かび上がってくるようにすること。
ロラン・バルト「明るい部屋」 <カメラ・ルシダ>

「写真はその技術的起源のゆえに、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)という考えと結びつけられるが、それは完全に誤りである。むしろカメラ・ルシダ(明るい部屋)を引き合いに出すべきであろう。」「明るい部屋(LA CHAMBRE CLAIRE)みすず書房版P131」

「写真」とは何か、といった、この二十数年来、ずっと私が私自身に向けて問いかけてきたものについて、それらをめくるめく考えの行方は、いつも私自身の内にある螺旋階段をぐるぐると上がったり降りたりしていたようだ。 かって私は、この教養文化の枠組みの中で撮られてきた「写真」への問いかけに対して、ささやかではあったが、さまざまな意匠をまといつかせた言葉を繰り返しながら、「写真」について、またそれら「写真」をとり巻くさまざまなシュチエーションについて考えていた。

 どうもこれまでの、「写真」をみてきた私自身のスタイルというのは、たとえばニエプスやダゲール、あるいはナダールといった写真草創期の写真家たちの業績やその時代の背景や動向、またアッジェやブラッサイといったパリの写真家たちの写真をとりまいた世界の意匠といったもの、また日本の現在にいたるさまざまな写真家たちが成してきた作業の累積を「いま」に引き寄せ、歴史的、技術的、芸術的価値からその意味を読みとろうとしてきたようだった。 私にとって、「写真」への興味の中味はいったい何だったのか。

 それはずいぶんと以前からその兆候があったと思われたが、ちなみに最近になって、この疑問が私のなかに生じていた。 昨年秋ごろ私自身のなかで、私自身の生の在処は、やはり「写真」といったもののなかに求めているんだなということが、わかり始めてきた。最初、針先でちょっと刺されたようなかろやかな痛みを、まどろみのなかの皮膚に感じた。おそらくこのときから、ほんの忍び足でそっと私に寄り添い、そうしてしだいに大きなうねりとなって押し寄せるようになっていった。 そのとき私は「アッ」と小さな声を漏らしたに違いなかった。それはほとんど意味不明の私の感情そのものの部類に属するものだった。

その日以降、私はいつになもなかったほどに精力的に、また自滅的ともいえる程に、私自身がかって撮り書きした私自身の記録をたんねんに読み返しはじめた。 そこには、自分の過去をふりかえったときに感じる、冷汗が出るような恥ずかしさと懐かしさの気分、つまり郷愁の感情が去来していった。と同時に私によって撮られ書かれた写真や文章の根底にあったものへの傾斜の仕方や思い方、また感情の生成といったものの回路を解きほぐし、いま一度、何も無かった地点から始めなければ何事も始まらないように感じた。

写真集を買い、評論集を買いあさった。そうして読むともなく見るともなくパラパラとページをめくっては書棚に放り込んだ。 一枚の写真が私にとって意味をもつとしたら、それはいったい何(どれ)だろう。私が撮った写真の群には、勿論、私にとってはそれぞれにかけがえのない思いが込められており、それなりの重量感をもって私に迫っていた。 「しかし」と私はそこに否定の疑問符をつけざるをえないのだった。「写真を見ることはもっと愉しいものではないか。」「写真を考えることはもっとリラックスしたものではないか。」 そう、記録性を拒もう。歴史的、社会的背景なんて拒もう。芸術の範疇が・・・・・・なんてどうでもいい。もっともっとプライベートな私に、感情がストレートに受けとめてくれる写真。写真は「明るい部屋」なのだ。

 カメラ・ルシダというのは、「写真」以前にあった写生器の名前で、これは一方の目をモデルに向け、他方を画用紙に向けたまま、プリズムを通して対象を描くことができる装置であった。 <写真の在処> 「写真」の成立についてロラン・バルト(Roland Barthes 1915-1980)は、ストウデイウム(Studium)とプンクトウム(punktum)といった概念を晩年の著作「明るい部屋(LA CHAMBRE CLAIRE)」のなかで提起している。

ストウデイウム、プンクトウムはラテン語であるが、バルトはこれに次のような意味づけをおこなっている。 まず、ストウデイウムについて。「あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受け止めたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしてストウディウム(一般的関心)による。というのも、私が人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである。」<明るい部屋、みすず書房版P38>

ここでバルトがいう、「ストウデイウム(Studium)」は、典型的な情報によって成り立ち、一般的関心をいだかせる写真ということで、写真の第一の要素としている。 また第二の要素として、このストウデイウム(Studium)の場をかき乱し破壊しにやって来るものを「プンクトウム(punktum)」と呼んでいる。バルトの意味づけによればプンクトウムとは、「刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目」であり「ある写真のプンクトウムとは、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。<明るい部屋P39>

 こうしてバルトは、写真の在処についての論拠を、私に与えてくれているようだ。 写真は、写真家の目の前にかって実在したものが、写真家の感性により多かれ少なかれデフォルメーションされ、印画紙等のうえに二次元的に定着された一般的には銀粒子によるコピーとして存在している。あるいは、印刷物としてインキの濃淡として定着している。 写真において、印画紙上や印刷物上に現わされる対象(私にとっての客体)は、直接的な事象の外皮である。

文字が、言葉が示すところの概念とはちがって、写真は直接的である。ここ、一枚の写真により表出された内容(その写真が持つ対象の外皮)が私の目にふれる。私は、とっさにそこに示された事物を認知し写真の外皮に現われたかたちが何であるかを理解する。 私が興味を引かれるのは、そこに現わされた事物の在りように対する「私の興味」であった。その事物が持つコードは、直接私のコードに殻りかけてくる。私はその語りかけに対し、その事物がそこに存在した意味、つまり背後にある概念の世界を嗅ぎとるのだ。

 それはときには、戦争の悲惨であり、身体の美であり、風景の異端であり、そこに写真家がかくして撮った、撮らねばならなかった意味を嗅ぎとるのだった。おおむね写真を理解することとは、このような方法によっていた。 写真を理解するとは、提示された写真の被写体(写真にとっての主体)が指向させる共通のコードが持つ背後の意味を嗅ぎとっていくことだと思っていた。写真の価値(在処)は、被写体(主体)が拘束されている制度的なるものを了解し、そこに意味を読み取り制約していくことだと思っていた。写真を「見る」ことによる喜び、悲しみ、寂しさ、といったものは受け取る側にそれを理解する回路を持たなければいけないように思っていた。

 確かに、そのように写真を理解しようと思えば、撮られた現場の状況と写真家の思い入れ(あるいは思想)が理解できなければ、意味をなさないものだと思われた。しかし、はたして思考回路として、それがそのように導かれることだけが、「良い写真」であることの条件なのだろうか。「人間」あるいは「ものたち」の糸が絡みつくような関係であって、こういった関係のなかで実際に影響をあたえ合うのは「あなたと私」「そのものと私」といった個別の関係をおいては、ありえない。 これらは、いずれも個別的であり、アノニマスなものではない。しいて言うなれば私と私の世界をとりまく他者との個別の愛憎関係(恋愛状態)とでもいったものに還元できるであろう。

私にとって、世にいう名作が名作として名を残さなければならないのは、私とのあいだでその写真がどういった位置にあるか、ということに他ならない。この位置関係は、感情の深淵(記憶との対話)であるように思われる。 私が「私の目でみた写真におけるプンクトウムは・・・・」というとき、それは、あたかも、不意打つように私の感情の淵深くをやわらかな刃物で傷つけてくるものだったといえる。私の感情を深く傷つけるものは、決してその写真が提示する教養文化の歴史的背景ではない。あるいは、この制度のなかでの制度が規定するところの「美しい」ものでもない。これは美の解体による新たな美の発生、つまり自己の内に既成の美意識を解体し再構築すること。そしてイメージと感情の深淵(慟哭・狂気)の交差をみつめることの繰り返し。

それは私にとって、最初は些細なことから始まった。 <ポートレイト> 私の手元に一冊の写真集がある。ステーグリッツ(ALFRED ATIEGITZ 1864-1946)が撮ったオキーフ(GEORGIA O・KEEFFE 1887-1986)の写真集である。冒頭一枚、まだ若いオキーフの微笑みをもった上半身のポートレイト(1917年)がある。もう百年近くも前に撮られたポートレイトだ。撮影者ステーグリッツは私が生まれた年にこの世を去っており、いまやオキーフもこの世にはいない。 こういった歳月の経過にもかかわらず、私はここに撮影者ステーグリッツのオキーフにむける熱いまなざし(共有・共苦・水平理解・愛)を感じずにはいられない。と同時に、それはあたかも私への写真の在りようにとって感じとる何とも言いきれないイメージ。ほとんど無意識の深淵からほとばしりでる感情に由来するところの感性を噛むものなのだ。

 黒い服に白い襟の上半身、オキーフの後ろには、オキーフがえがく絵があるのだろうか。アウトフォーカスになっている唯一の背景である。正面を向き、ごくありふれたこのポートレイト。オキーフの充実した微笑み。これは新しい世界を自由奔放に生みだしていく知的な微笑みなのであろう。私は、暗箱のガラスに写された逆さのオキーフ像を前にしたステーグリッツのまなざしとオキーフへの共生を感じ取らずにはいられない。

このポートレイト一枚に向かっていると、私は柔らかい刃物でこころの薄皮をはぎとられるような気持ちにさせられる。 まだ雪が舞っているのに陽光はすでに春のきざし。晩冬の気配が爪で引っ掻くような足音をともなって去っていくあの気分、あるいはこころの解放が近づいたことを感じとるあの気分、とでも表現すればよいか。オキーフの初々しさが、幸福いっぱいとでも言いたげに私にむかってきている。冬ざれた感性が透明な大気に解放される。私はこのオキーフの私への向かい方にあたらしい写真(愛の記述)の在処を感じる。 私のこの向かい方は、もう一世紀も前にステーグリッツがオキーフに向かったのと同じまなざしでありたいと思う。

ステーグリッツが暗箱のフレームにオキーフを独占したとき、それは時間としてはもうはるかかなたのむこうにあるのだが、私にはその一世紀前という時間差を少しも感じさせないのだ。 私は撮影者ステーグリッツが若いアメリカに青春から晩年を送ったひとであることを知っている。その時代と現代、私が生きる日本のいまとは、時代あるいは社会的背景が異質であり、ひとをみつめるカテゴリー(愛や憎しみといったものの感情)そのものが異質なものとなっているだろう。あるいは直感的には人間関係そのものが複雑化し硬質なものとなり、拠って起つところのひとをみつめるイメージが拡散してしまっているようにも感じられる。

ステーグリッツの時代から現在へ、かれこれ、それからすでに一世紀以上が経過しようとしているにもかかわらず、オキーフは新鮮だ。この写真集は、私がこの写真をみるまなざし、つまりこの写真の歴史的背景や二人の関係、またそれぞれの個人史を、説明する知識をふくめて、私の前に存在している。ステーグリッツの内面の世界に思いを巡らすとき、一方で時代を背負った社会的存在としての個人史があり、一方では感情の流れというか、あるいは言葉では表現しえない内面史があったことに気づく。

 たしかにステーグリッツは二十世紀初葉のアメリカで、写真というメディアを通じてアメリカを見てきたし「ギャラリー291」の成果や「カメラワークス」の成果を語ることができるだろう。あるいは近代写真の在処を示した、と。しかし、私がステーグリッツに対して持つこういった種の知識がどれだけこの写真、オキーフの私に向かうポートレイトを、私に価値あるものとさせるのだろうか。 いま、私がこの写真に向けるまなざしは、もっともっと私の個人的反応のなかで感動しているのだ。なおかつ、あえて私のステーグリッツへの興味をというならば、それは、彼の内面史あるいは肉声史と呼ぶもの、彼の内面の劇<オキーフとの位相・位置関係・干渉し合う関係>が体制からどれだけ自由でいられるか、を共有できるか否かだ。

 この写真集を最初に見たのは、もうはるかに以前のことだったろう(注:1980年頃)。写真ギャラリーのカウンターに置かれたシンプルでいて上品な装丁の写真集を・・・・・・。そのままついに最近まで私の記憶の奥深くにしまい込まれたまま、時折、記憶の像(イメージ)となって、ふっと立ち現われてはいたが、それはすぐに消えていた。 近ごろになって、その写真集をどうしてももう一度見てみたいという衝動にかられてしまった。なぜだったのだろう。この衝撃がどこから突き上げてきたのか私にはわからない。

私自身がかられてしまった欲望の変種としての衝動を彷彿させてきた未定形のパルスについて、それがどういった質のものであるかを。おそらく私の記憶深くの原形質、内面の根底をとりまき構成しているところの疼きなのだろう。 いま、ストーブを炊いた部屋の机にむかって、この写真集との出会いの記憶をたどりながら、カーテンを開けると、暖気でくもったガラスの外は雪。しんしんと雪が降っている。しかしもう春が窓辺ちかくまでやってきている。軽やかに。オキーフがはじめてステーグリッツに出会ったニューヨークにも、このように雪が舞っていたのだろうか。女学生だった彼女をとらえたステーグリッツのまなざし。そしてオキーフが私にむけるまなざしは、私を突き刺すばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつけるのである。


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