中川シゲオ写文集

中川シゲオの写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

フォトハウス写真評論-6-

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2004.07.19
写メの現在

写メってわかりますか?
携帯電話の写真機能を使って画像をメールで送ることです。
「写メする」っていうのが流通しはじめてるんですね~。

写真の現在的視点を確保していくのに、この現象をどのように取り込んでいくか。
これがけっこう重要な視点になるかな~って思っています。
コミュニケーション・ツールとしての携帯電話で「写メ」です。

写真制作者がより高い質感を求めてアート化していく道筋があります。
オリジナル・プリントへの方向ですね。

その流れからいえば、写メは写真制作の新しい方向をつくってきています。
個人の、自己と他者をつなぐ、あるいは分断する、インタフェース役割です。

遠方にいる個人へのメッセージは、
郵便での手紙に始まって、
文字によるメール(パソコン通信)になって、
いまは携帯電話で画像が添付できる写メールになっています。

この先には、画像の質が向上していくだろうし、
動画が主流になったりしていきますね。

こうした技術上の進展が新しい需要を生み出していって、
デジタル写真産業が拡大していきます。

でも、メディアとしての「写メ」の出現は写真のあり方を大きく変えていくと思います。
個人と個人のあいだのコミュニケーション・ツールとして、
言葉と画像が一体のものになります。
絵文字と画像の組み合わせで気持を伝える!!

他者へのメッセージとしての写メの使い方は
これから絵文字と組になって多様に拡大していくと思います。

そこに何を見いだすかですね。
写メは、失われてきた個人の存在感覚を、
あらためて得ていくツールとして機能していくでしょうね。

そのとき私という存在のありかを探ることができる、
コミュニケーション・ツールとなりますね。

写真という概念が大きく変化しています。

2004.07.20
写真は身近な表現手段

カメラで写真を撮って誰かに見せる。写真ってこのように使いますよね。
この「誰か」というのは不特定多数の人々のこともあるし、
好きな人へということもあるし、自分自身へというのも理屈上はなりたちます。

カメラの位置っていうのは、ふつうは自分の手の先までに置かれます。
そうして目で確認して自分の外に拡がる光景を撮るんですね。
自分という立場から捉えると、自分の身体があって、その先にカメラが在る。

自分とカメラの一体感と異物感ですね。
自分の身体の一部である「こころ」が異物として感じることがあります。
カメラは異物なんだけれど身体の一部であるように感じることがあります。

自己と他者という関係がさまざまな場面で論じられていますが、
たぶんにもれず写真もこの関係を有しているのです。
私とあなたとのインタフェースとしての役割を写真が持っている。

言葉と同じレベルで写真が自分の表現手段となる。
もう写真って決して特殊な装置でもなんでもありませんね。
言葉と同列にあります。

というのも写メールというコミュニケーション・ツールを引き合いにだしてのことです。
写メールでは、写真と絵文字と言葉の組み合わせです。
この三者の全体が私自身の表現手段として使われているのです。

デジタル化によって開発された携帯電話の「写メール」!
新しいコミュニケーション・ツールとして登場しているんだと思っています。
写真の新しい捉え方のなかに、このツールを付け加えたいですね。

写メール・・・これは写真の研究対象です。

2004.06.29
写真と文章

写真を語るのにわたしは言語、言葉、文章を使っています。
まさにいま、ここでやってることが、そのことなんです。

今日は「写真と文章」とタイトルしましたが、
「写真と言語」でもいいし「イメージと言説」でもいいんですよ。
「写真と文学」としてもいいわけなんですが、ここでは写真と文章です。
写真は「イメージ言語」なんていう言い方もされているんですけれどね。

ここでは写真の見方、捉え方という写真を語る語り口ではなくて、
写真というイメージと言語というものの関係を簡単に枠つけます。

写真に写った「愛犬」はそのものずばり「愛犬」なるものの姿が写真としてあります。
これを言葉で「愛犬」を伝えようとすると、なかなか大変ですね。
相手が私の愛犬を知っていてくれればイメージできますからことは簡単ですが、
そうでない場合っていうのは、いっぱい修飾語をつけて説明しなければいけないし、
そうしても実在の愛犬または写真に写った愛犬を語りつくすことって困難です。

これ、あたりまえのことなんですが、写真と文章の決定的な違いなんです。

言語や文の分析でメッセージとかコードという言葉を使いますが、
写真の場合「コードのないメッセージ」なんてバルトって言う人はいいました。
写真って直接性なんですね、
なによりも現物が本物ではないですが、その現物の形で確認できる。
そういう代物なんです、写真っていうのはね。

文章っていうのは、読んで(読ませて)イメージ化する代物ですね。
現物を目の前において会話するのなら、写真を前において会話する、と同じ構図ですが、
現物のないところで文章を読むときって、これはイメージをつくる空想領域でやりとりする。

写真に先行する言語、というのが現状の認識かな、と思っています。
コミュニケーションのなかに言語作用があって、
そのうえに写真でのコミュニケーションが成立する。

でもね、言語優先から、写真含む映像が言語と並列になるだけでなく、
映像だけでこころを繋ぐコミュニケーションが成立する・・・・

未来に向けてはその方向なんですね。
わたしはデジタル写真の将来的展開としてこの可能性を大きく開いたと、
このように仮説しているんです。
デジタル写真とデジタルネットワーク環境ですね、
これらハード環境が融合していくことで、中味(コンテンツ)が発信されていく、
そこにヴァーチャルではありますがコミュニケーションが成立する。

文学作品が読むことでイメージを醸成させて感動を起きさせるように、
写真がヴァーチャルネットワーク環境のなかで人のこころに感動を起こさせる。
そのような可能性を仮説しています。

わかったようなわからないようなお話ですがね(笑)

2004.07.23
写真と文章-2-

写真学校では写真表現を学ぶ、これ当然の話なんですが、
文章表現を学ぶ学校というのも同じレベルで考えています。

写真も文章も自己表現ということでいえば並列にあるツールです。
これに音楽表現をも加えたいところですが、いまこれは置いときます。

わたしたちは、学校教育で知識だけではなくて、
自分の気持をあらわす教育も受けてきています。
その教育の中心は言葉で表現することを基本トレーニングとしてきています。

ですから、写真表現が成立するというのは、言葉表現があって写真表現がある、
という図式が、社会の中での写真と文章の位置関係です。

でもそういう位置関係ではなくて、
写真と文章が、並列において一体のものとして表現ツールとしていく、
その方向がこれからの主流となるありかたではないかと思っています。

絵日記という自分を記録し表現する方法があります。
その方法のバリエーションとして、写真と文章を組み合わせることで、
自分を記録し表現していくという手法です。

現在の写真家としての写真、小説家としての文章、という枠組みではなくてです。
いま世の芸術概念のなかでの写真や文学という枠組みではなくてです。
また、写真や文章トレーニングを積むことでメジャー化、
つまり職業化するという方向ではなくてです。

日常生活のレベルで自己表現するためのツールとしての写真と文章です。
わたしの念頭には、写メールの使われ方があります。
この写メールでのコミュニケーションのしかたに興味があるのです。

写真学校をはじめますが、そこに集まってくる人たちを想定すると、
写真を撮ることでメジャーになりたい!という欲求を持つ人たちであろうと思います。
その欲求を持つ人たちが、その欲求にしたがってメジャーを目指すことを否定しません。

でも基本はメジャーをめざす以前の自己表現ツールとしての写真と文章です。
その表現技法をもって自分のこころのあり方を表にだしてあげる、というところですね。
このことが結果としてメジャーになっていくということは十分にありえることです。

大事なことは、写真や文章で自己表現していくことで、
自分の欲求が満たされていくことです。
得ていくものは自分のなかでの充実感と幸福感です。

フォトハウス京都HP

フォトハウス写真評論-5-
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2004.07.15
写真表現とは?その1

写真表現とはどのようなことを指して写真表現というのでしょうか?

読んで字のごとく、写真で表現することやないのですか?
そりゃそういうことなんですが、「何を」ということが必要でしょ?
じゃ~何を表現するんですか?
ムムッ、なんとなんと、何をって、そりゃ自分のこころじゃないですか?

じゃ~訊きますけど、こころってナンなんですか?
こころって人間の内側にある、ほれキミにもあるでしょ、そのこころだよ!
・・・・・・・・

そうですね、いま写真の表現の中味を問われたら「自分の心」
つまり自分の気持を相手に伝える手段として、写真というものを使うんですよ。
ひとまず、このように記しておこうと思います。

写真の公的な役割としては記録ですね。
文書と写真(映像)が記録として保存されていきます。
この用途は19世紀半ばのパリでのオスマン計画の記録や
20世紀前半の恐慌時の米国・農業安定局(FSA)の写真記録があります。

でもね、写真は個人の営みのなかから出てくるものです。
近代的個人というのは自分を社会的存在として自覚しますから、
写真は写真家と社会との接点なんです。

写真家と社会とのかかわりを写真家の側からとらえていくと、
そこには個人の考え方や捉え方が出てきます。
また、その時々の社会の中心的モラルに密接しているんです。

この中心的モラルに対して自分の位置を確認していく作業として
写真家は写真を使うことになります。
ここに表現という場所があるんです。
中心となるモラルに対してどういう位置を担保するのか、ですね。

写真家と社会の向き合い方が時代と共に変わってきます。
個人と社会との関係の形がそこには見て取れます。
そのような位置関係から言うと、現在は非常に個的(プライベート)になってきています。

カメラの普及だけでは捉えられない問題がここにあります。
ひとまず写真表現とは、自分の気持を表すことだ、といっておきます。

2004.07.16

写真表現とは?その2

写真表現とは自分の気持を表すことです、と規定しました。
そうするとこの「気持」ということが何を指すかですね。

わたしは情動、情を動かされるものに注目しています。
この情動のところが感情を形成し気持をつくりだすとしたら、
もう論理の世界では計り知れないです。
このようにして考えてくると、
写真表現とは、自分の情動をとらえることが必要だということになります。

むかし洞窟の壁面に絵を描いた痕跡を、見ることができます。
ここでの注目は、その絵を描いたヒトの衝動というか情動というか、
その行為をつき動かせていた心の営みそのものなんです。

例えば高松塚古墳やキトラ古墳には、
死者への守りという描く目的があったと考えますが、
その制作者の意識の奥の深いところにあった情動に注目するんです。

いま写真家はカメラをもって絵を描く人です。
写真は死者への贈り物ではなくて生者への贈り物です。
それは何よりも私の気持を贈りだすものです。

たしかに一枚の写真には論理世界の認識が込められています。
戦争はいけません、の立場から、その「いけません」の態度表明として、
写真をその文脈に整理して他者に贈りだすものです。
なおその背後には、被写体が置かれている歴史的意味をも贈りだします。

ロラン・バルトは、教養文化のなかでの理解のされ方に着目もしていますが、
<私を突き刺すもの>としてとらえる捉え方を提示しています。
バルトの、この立場は写真を見る側の立場として述べられていますが、
わたしは写真を撮るということのも被写体を選ぶ目安となるものだと思っています。

現代の写真が、教養文化のなかで理解されることを前提としたうえで、
そこに、私を突き刺してくるもの、をメッセージとして込めるものだとしたら、
はたして教養文化の文脈をどのように扱うのかが、
写真家に意識されなければならないと思います。

でも、未来を志向する写真の役割が、
必ずしもそういう完璧さに裏打ちされなければならない、
という前提にはならないような気もします。

インテリジェンスに裏打ちされない立場で、
カメラを情動発露の道具として使っていくというのもあるのかな?
そこから生み出される写真が未来志向の写真なのかも知れないな~
このように思うことにも、最近は強度が増してきています。

2004.07.17

写真表現とは?その3

写真を撮ることって非常に個人的な作業なんですね。
写真を撮っていくことで表現するというのは個人的なんです。

映画やTVで制作する集団作業とは少しちがいますね。
会社勤め(パートタイマー、フリーター含め)の集団作業でもないですね。
そういうことからいうと、写真を作る作業は、プライベート作業です。

いま個人が、自分の居場所がわからなくなる、という訴えを聞きます。
自己と他者との関係が掴めないという自覚です。
自己と他者との境界面をインタフェースという言い方しますが、
写真を撮り他者に見せることがこのインタフェースの役割をはたしている。

自分を見つめる、抽象的な言い方になりますが、自己を観察する行為。
この観察する手段としてカメラの目があるように思います。
自分という存在がいったい何者なのか?というような問いかけですね。

このような問いかけは、今はじまったわけではなくて、昔からありますよね。
西欧哲学の源流から近代哲学まで・・・
東洋思想の源流から近代思想まで・・・

写真表現もこの文脈上に置かれていると思っています。

これまで、この系のなかにおいて「写真表現」というのもカテゴリー化されてきました。
現在は、デジタル写真が隆盛をきわめてフィルム写真にとって換わる時代です。
としても、これは書式形式の変換の部分ですね。
人と社会構造の表層部分ですね。

写真表現は言語表現ではないからといって、
写真表現だけが固有に在るとはいえないです。
哲学や政治学の潮流と接触しながら、
まだ現在は、言語によって基本理解認識をする人間の時代です。

でも、内面と外面のインタフェースとして、
こころのなか、情動の源泉を表出していくことって、言葉では届かないですね。

この言葉ではできない感情レベルでのイメージ交換が写真です。
そこの場にこそ、プライベート・ツールである写真の現在的意味が垣間見えるように思います。

フォトハウス写真評論-4-
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2004.07.11

写真とこころ-心-

写真っていったい何なの?
という判ったようで判らない話をいろんな角度から話題としています。

写真について、いろいろとテーマを羅列していくことでおぼろげながらでも
「写真の現在」という立場を浮上させられたらいいな~と思っているんです。
そこで今日は、写真と人のこころとの関係の外形を少し探ってみたいと思います。

人の「こころ」の解明ということが現代的なテーマとなっています。
生命科学の領域で脳の構造解明や記憶生成のメカニズムなどがあります。
心理学の領域では無意識領域の深層の解明などがテーマですね。

これまで非科学的な領域とされていた宗教や芸術領域というのも、
科学的手法で論じられるようになってきているように思います。
科学の現代的なテーマのひとつが「こころ」の解明に向かってきていると思います。

人間とは何ぞや、という問いが永年の課題で、
これは哲学や文学の立場から思考されてきました。
現在では人間の二面、身体と心(精神)を統合していく方向で
「こころ」とは何ぞや?ですね。

写真という手法が現れてきたの19世紀半ば、写真もこの問題を孕んできたんですね。

写真を撮ることと見ることの間に、コミュニケーションが成立するという立場からは、
写真の介在は、こころとこころのコミュニケーションの形、として論じることができます。

では、こころとこころのコミュニケーションの形ってどういうことを指すのでしょうか?

これまで言語学・言語論の立場を援用しながらの写真論として語られてきたんですが、
いまこれからの論立てはこの拘束から解かれていくようにも感じています。

個の立場ということを基軸に置いた論から共同の立場への移行かとも思います。
個が個であって、自己と他者との明確な分離のなかでの言語・写真の立場が、
微妙にづれてきているのではないかと思うのです。

自己と他者という身体性を基本においた論から解き放たれて、
こころが交わる磁場のような場所でのコミュニケーションの成立ですね。
自然現象や生命現象の全体性のあらたな組みなおしにもつながるものです。

このことは感覚・感性のあり様の捉え方の移行のなかで、
個を超えるコミュニケーション、
境界のない意識感覚の発生としてとらえられないでしょうか。
写真がその先鋒に立っているのではないかとも感じています。

かってあったメッセージの他者への伝達という方式で捉えることが困難な写真群。
プリクラ、写メール、デジタル写真の時代の写真群。

写真においてコミュニケーションの形が変容してきていることは確かなようです。

2004.07.13

写真と宇宙(1)

なぜ写真学校のはなしに宇宙なのか、というとですね。

写真を勉強するというきっかけによって、
参加する一人ひとりの時間と空間が変化して
新たに一つの場所が出来るわけですね。

写真ワークショップ京都という学校は、狭い限定空間としての教室(対面講義)です。
通信制のあい写真学校は、ネットワーク空間としての教室(通信講義)になります。
そういうふたつの学校形態を想定するなかで出てきたのが<宇宙>です(笑)

写真という場が拡がって最大限拡げてみたらどのへんまで拡がるのかな~
そうしたら<宇宙>というイメージにまで拡がってしまった、というのです。

写真という装置をつくる基本はカメラという箱です。
このカメラという箱は物理科学の領域で組み立てられています。
ですから宇宙を物理の領域で捉えて、写真と宇宙をドッキングさせます。

岩波新書に「ハッブル望遠鏡が見た宇宙」という本があります。
そこに「ハッブルの最深宇宙像」という写真があります。

その写真の一点を矢しるして写真説明に
「宇宙誕生から6億年」のときの銀河ではないか、とあります。

つまり宇宙誕生から140億年」といいますから、
今から134億年前の光が捉えられた写真!!です。

たぶん人類が見た一番遠いところです。
それもコンピューターの合成写真とはいえ可視光線なんですよ。
コンピュータグラフィックではないんです。

この視点から写真を見ると、
写真は発明のときから、
遠くのものを近くへ引き寄せる道具として使われてきたんです。
そして現在といっても10年ほど前(1994年)に、
「最深宇宙像」にまで行き着いた遠さなんですね。

今日は写真の行き着いたマクロな世界を見てみました。
次回は人体の内部に入った写真、ミクロな世界をみようかな~です。

2004.07.14
写真と宇宙(2)人体

宇宙がマクロの世界だとすると、人体というのはミクロの世界です。

電子顕微鏡で遺伝子を撮影する、
電磁波で子宮内部の赤ちゃんの生成を撮影する。
そういう微粒の世界や透視で内部をみることの出来る装置と技術が確立されてきています。

人体内部の物質が写真に撮られている、ミクロな世界を拡大して写真にする。
そこから生み出される画像を「静止画」といっていますが、写真ですね?

写真の定義で、なにをもって写真とするのか、ということを話題にしましたけれど、
大宇宙も人体内部も、現実に物質として存在する「もの」を撮っています。

写真装置は、カメラ(暗箱)とフィルムのセットから、
今は、光のデジタル信号変換とコンピューターのセットになってきています。
写真の拡大の現在の状況ですね。

これらの写真は写真装置も含め、近代科学の進歩の成果です。

写真というものが、遠くのものを近くへ引き寄せる道具の役割を担ってきた、
という社会における写真の役割論があります。

写真発明以後の時代には、
探検写真家がカメラを携えて旅行に出かけて写真を撮りました。
写真家は旅先で見た光景を写真に収めてパリに持ち帰ってきて、
写真をみた市民たちが好奇心をかき立てられるということが起こりました。

一般には、現在においても、このような写真の使われ方が主流であるかのようです。
宇宙や人体内部にまで入り込んだ写真。
まだ見ぬ世界を見たいという好奇心を満たしてくれる写真の存在なんです。

写真は記録であると同時に学術的価値を提供するものでもあったわけです。
宇宙開発の現場で、医学の現場で、農業の現場で、社会の隅々で、
近代科学の枠組みで、研究開発の只中で写真が貢献することは多大です。

でも写真、写真表現っていうときには、ちょっと違った意味をもってきますね。

ここでは様々な切り口で試論の入り口をつくってきています。
写真というものが持っている用途があまりにも多様化しているから、
その多様性のそれぞれを分類していく作業でもあると思っています。



フォトハウス写真評論-3-

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2004.07.07
写真の歴史-1-写真発明のころ

写真発明のころっていうと19世紀前半です。
英国やフランスで写真術研究がおこなわれていたんです。
1839年にフランスアカデミーがダゲレオタイプの写真術に特許権を与えたので、
写真の発明はフランス、ということになっています。

写真の発明っていうのはフィルム、印画紙にあたる感光材料の開発だったんですね。
装置としてのカメラは、カメラ・オブ・スキュラといっている暗箱で、
すでに絵描きさんが下絵かきに使ってたんです。

いまの状況でいえば、フィルムがデジタルになる、
デジタル装置の開発とでもいえますかね。

最初の頃って大変だったと思いますね。
フィルムにあたる支持体に銅版使ったりガラス版使ったりですね。
感光材料を混ぜる定着剤(材)に卵白使ったりゴム使ったりですね。

工業製品となった現在のフィルムは、
セルロイドに銀を混ぜたゼラチンを塗ったものです。
ですから、この材料をつかった写真プリントを「ゼラチン・シルバー・プリント」といいます。

その当時の写真術っていうのは、化学実験とでもいえばいいのでしょうかね。
あの手この手を使って、光を定着させようと努力しています。

趨勢がデジタル写真に移行していく現在から近未来において、
フィルムを使った写真が行くべき方向として、
この発明前後の原点回帰の方へという指向があります。
つまりカメラと感光材料であるフィルム(印画紙)を手作りしていこうとの指向ですね。

この傾向は身体行為としての写真作業が根底にあります。
心と身体のことが論じられる昨今の思考の流れとの合流ですね。
野菜を有機栽培する手作り的な傾向と同じような傾向ですね。

写真が発明されるころって19世紀前半から半ばです。
そのころの工業力ってまだまだ未熟時代だったんですが、
未熟だったからこそ、まだ心と身体が融合していた時代だったのかも知れませんね。

フィルム写真の160年余りをいまあらためて遡っていこうとの思考が、
デジタル写真時代のフィルム写真が残る手立てなのかもしれないと思っています。

2004.07.12
写真の歴史-2-発明の頃

写真が発明される19世紀の前半から半ばにかけての時代って、
どんな状態だったんでしょうかね?

写真が発明される1839年頃のフランスです。
農業国から工業国への変化が起こってくる時期だといいます。
交通の便がよくなり、都市が形成されて来て、近代国家が誕生してくる時期ですかね?

1850年代にはパリの都市改造計画(オスマン計画)は行われて、
幹線道路や上下水道が整備される時期にあたります。
そういう時代に写真術が発明されるんです。

市民層人々の意識のなかでの欲求も増大してくる時代だったのでしょうね。
所有や娯楽への欲求がそれまで以上に増大してきたんでしょうね。
そんな欲求・欲望のなかで写真が誕生してきます。

市民が絵描きに肖像画を描いてもらって、自分の姿を残しておくという欲求もありますね。
でも絵描きに肖像画を描いてもらえるのは富をもたなければ実現できなかったでしょうね。

写真の発明によって、肖像画が肖像写真になります。
その他大勢市民層にとってお手軽で自分の姿を残すことができるんですから、
新しい需要拡大をもたらしたんでしょうね。
写真術を学んで肖像写真館開業が新商売として出てきたんですね。

なんだか今、21世紀に入った私たちの生活のなかの欲求・欲望と、
余り変わらない人間の心の内側だったのでしょうかね。
たしかにまだ工業力は小さく、自動車産業とかIT産業とかはなかったとしても、
人間の欲望レベルでみるとよく似たものか~って思います。

デジタルビデオやデジタルカメラという新商品を手に入れる私たち市民。
IT家電製品やパソコンを使いこなす市民。
外見上の生活スタイルは違っても、内面の構図はその時代の発展系だと思います。

新たな写真術、デジタル写真発展の頃、っていうのが現在です。
そのように捉えると、165年前の歴史的事実を今に引き寄せて考えることができますよね。

写真ワークショップ京都に集う人たちが、カメラの需要者、写真の消費者にとどまらず、
こういった方面への研究、分析をおこなって未来を予測するという、
研究作業を始めていってほしいな~って思うのです。

2004.07.08

写真で気持を伝える

人が自分の体験したことを人に伝えようとするときってどうしますか?

会って言葉で話すというのがあります。
電話で話をするということがあります。
手紙、最近ならメールですね、これで文章にする、ということがあります。

この方法の中心にあるのは、音声(言葉)とか文章(書き言葉)です。
言葉や文章で状況説明すると同時に、体験したときの気持をつけますよね。

たとえばこんな話:
さっきね、道を歩いていたら乗用車と単車がぶつかるのを目撃したんです。
単車に乗ってた男の人がすっ飛んで、ああ、怖かったな~、心臓ドキドキしてしまって~~

今日は「写真で気持を伝える」という題なんですが、
写真では、交通事故が起こった瞬間の写真は理屈として撮ることができます。
でも、たいがいはその後の写真ですね。
ロバート・キャパっていう写真家が、
弾があたって倒れる瞬間の兵士を撮った写真がありますが、
これは運よくカメラを向けていたら、兵士が倒れた、その瞬間が撮れた、
だから貴重な写真として今に残されていて展覧会などで観る機会も多いですね。

でもその倒れる兵士の写真を見て、現実として写真家の気持まで伝わってきますか?
たぶんそこまで感じない人が多いんじゃないかと思います。

写真って具体的な光景が写ってるから状況ていうのは判りやすいです。
でも、撮ったときの気持を伝えるっていうのは、きっと苦手なんですね。

苦手だといいながらも、写真を撮ってるみなさん、気持を伝えたいと思っているんですね。
そうなんです、写真って、こころとこころのコミュニケーションなんです。
でも、これは究極の写真のあり方を言っているんだと思います。

客観的な事実を伝えることは得意です(といいながらこの言い方には異論があります)
でも一応ここでは、事実を伝えることが得意な写真、としておきます。

で、写真を撮った人のそのときの気持、これを伝えようとするんですが、
おっとどっこい、そうは簡単にいきませんね。
言葉や文章なら「哀しい」「楽しい」の言葉で伝わることが、写真ではなかなか伝わらないです。
「哀しい」とか「楽しい」なら、お葬式の場面とか、子供が遊園地でいもいっきり遊んでる表情、
これで気持が伝わってきます。
その場面を共有することで、一定の社会的に創られた気持の読み方を知っていますからね。

でも、そうはいかない場合が多いんではないですかね?
写真に写ってるものは判る(判らない写真も多々ありますが・・・)
でも、その写真を撮った人の気持がどうも判りにくい・・・
気持が伝わってこない・・・

でも写真ってやっぱり気持を伝えることなんだと思っています。
わたしとあなたが、気持や感情を共有することだと思っています。

そしたら、どうすりゃいいの?
これが、本題です。
今日は問題提起だけした感じですね。
追って、ああでもないこうでもないと、ぐるぐる回りながら、
わたしの気持をあなたに伝える方法を探っていきましょう・・・・。

2004.07.09

写真学校の設計図(1)

写真学校「写真ワークショップ京都」が10月からプレ開校します。
月1回のセミナーを半年間実施して、来年4月に正式開校します。
とはいっても大々的広報をやるわけではありません。

綜合ゼミコースで定員10名の少数教育です。
通信学習と現場学習の組み合わせで年間120時間。
個別のメールやりとりは際限なしという設定で経費76,000円です。
お金の換わりに自分の作った生産物を経費として収めてもよい設定です。

内容のボリュームとしては集団指導数十万円というのが世間相場ですね。
それを個別対応で極力経費がかからないシステムをつくろうとしています。
安くて内容の高いものをめざします。
技術も理論も既存学校に劣らない内容のものを設計しています。

京都発の写真学校です。
設計図は3年前2001年夏から着手しました。
開校は写真の学校ですが、並列して文学校とか音学校とか農学校とかを開校したいのです。
それはなによりも、個人がこの先を生きていくことの意味を、
自分なりに見つけていく場としたいからなのです。

すでにある価値軸の上に学校を創ろうというのではないんです。
新しい時代を創り出す、新しい人材を育てていきたいと目論むんです。
この新しい時代っていうのは未知なんですね。
その未知なる未来をイメージするためにも、写真だけではなくて、
文学校とか音学校とか農学校を並立させる必要があるんです。

こういったコンセプトの学校が各地に出来ていくといいんです。
その先鞭をつける意味もあって、設計図を公開でつくっています。

必要のむきにはリンク「写真ワークショップ京都」させていますのでご覧ください。
そしてあなたの参加を心待ちしていますね^o^:

2004.07.18
写真学校の設計図(2)

新しく写真学校を京都に開校する。
写真学校っていってますが、
写真の技術と理論をマスターするだけではないんです。

それと学費というか諸経費ですね。
これにどういう名目を立てるかです。

写真学校の目標とするところは、
技術と理論は時代の最高レベルを保証し、経費は最低を目指す。

ここでいう技術は写真を作るための技術ノウハウです。
工業製品としてのカメラや感材だけでなく、
カメラも感材も自作するところまでの技術ノウハウです。

理論は何が時代の最高レベルかっていうのは難しいですね。
主流となる理論が最高とは思っていませんから、
ここから新しい写真・哲学者(笑)が出てこないかな~っていう期待です。
この期待があります。

つぎは経費のことです。
勉強するという場を商品化しないこと。
この場所で教える立場で生活費を生み出さないこと。
つまり商品パッケージとして講座を売らないことと、
講師(アドバイザー)は給与をもらわない。

こういう方針を立てました。
既存の学校運営・経営者からみたら、これは学校ではない!
同好会かカメラクラブの類だ!!!サロン程度でしょ?

でもね、人間って不思議で、こういう方針だからこそ、
参加してもいいな、って思う気持があるんです。
教育ということ、学校ということの本質を考えると、
こういう立場に行き着いてしまったんです。

本質的には1968年にあった教育という問題を再燃させたいんです。
あらためてこの教育本質論を問いなおす学校にしようと思うのですね。



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フォトハウス写真評論-3-

2004.07.03

写真と文化

大きなタイトルをつけていますが内容は小さなお話です。

写真は光が描いてくれる絵です。
写真がなかった時代というのは絵を描いていました。

その絵の歴史をひもとくと、
わが国では飛鳥時代の古墳の壁画や
玉虫厨子に描かれた絵を思い出します。
西欧では洞窟壁画(ラスコーの洞窟が有名です)があります。

人の意識が確立してくる過程で人の行為として絵を描くことがでてきます。
その原形からさまざまに発展継承してきて、
現在の先端では写真、映像がそれに対置できる代物ですね。

そのイメージ(描かれた像)にはメッセージがこめられています。
その時代その時代の或る意味で神話的な物語がこめられる。
この作用っていうのは文化の力です。

このようにして考えてくると、現在の写真のテーマは何か?っていうのが、
あんがい導き出しやすいかもしれませんね。
いやはやここで、物語についての是非を論じ出すときりがないですから、
ここではいったん物語性の是非ということはオミットしておいて(笑)

写真の内容がこの時代の物語に由来する。
この物語が、中心的なものであるか周縁的なものであるかですね。
と、言い出すと中心的とか周縁的というのは写真以前の領域作業ですね。
わかりますよね、この話って?

写真とはカメラを使って作り出す「存在物を定着させた平面」(と定義しときます)です。
その-撮られた存在物-を認知していくのは文化の力です。
そこで、この存在物の背後の意味をつむぎ出そうとするのが作家さんの仕事です。
という論法になってきますね。

このことってけっこう難しいと思いますよ。
でもね、絵巻物ってあるでしょ、北野天神縁起とか源氏物語絵巻とか、とか・・です。
曼荼羅っていうのもありますよね。
それらイメージでしょ、描かれたイメージなんです。

絵巻は風説や物語を絵に置き換えていく作業ですよね。
曼荼羅ってのはこころのイメージ化の作業でしたよね。
なにか、写真を撮ってるひとにはこの形式がヒントになりそうですよ。

こうしてここでいろいろと話題を提供していますが、
これでもやっぱりまだなんです。
気づいておられますか?
写真の内容、中味についての話です。
これがまだ出てきていないんですね(笑)

ここで作家さんの登場となるわけです。
評論っていうのはけっきょく言葉をつむぎ出して作家さんを触発する。
そんな役割ですね。

この写真学校フォトハウスの毎日の記事も、
行ったり来たり、ぐるぐる回っていま外堀を掘っています。
まるでフーガやロンドみたいな形式ですね(笑)

でも少しずつ輪郭が作られてきているようにも思っています。
引き続き、文字ばっかりの写真のサイトですが、
これからも続けていきます。

あわせて「あい写真学校&綜合文化研究所」のサイトもご覧ください。

2004.07.02
写真を誰に見せる?

みなさん!自分が撮った写真って誰に見せます?
写真撮ることを仕事にしている人は別ですが、家族とか友達とかが多いですよね。
でも、仕事にしていなくっても、俗に趣味で・・・っていって
写真を撮ってる人がたくさんいます。

ここでは、プロとアマチュアなんて区別はしませんけれど、
写真を撮り出して、写真コンテストというのが方々であって、
そのコンテストというのに応募してみようかな~なんて思い出して、
写真グループの一員となって、せっせと写真を撮りはじめる。
また、写真を教えてくれるスクールを探して学ぶというのもありますね。

いずれにしても写真を専門に教える学校を出た人があり、
専門の学校は出てないけれど写真を撮ってる人があり、
写真をたしなむ人は、もうべらぼうに多い!

で、撮った写真を誰に見せる?っていうのが今日のタイトルなんですが、
ホント、誰に見せます?
家族の中でだけというのが多いですか?
旅行とかの記念写真類は旅行に同行した人がみますよね。
というように、身内や同僚や友達といった関係者の間で見る。

でも、コンテストに応募するとなると、第三者に見せることになりますね。
つまり、あかの他人さんに見せる、ということですね。
そのうち写真を撮ることが仕事になったらいいな~って思う人も多いです。
でも、これはほとんど実現しないです。
でも実現させる人もいますよね。

写真を撮ることが仕事になるというのは、見せる相手は不特定多数です。
雑誌とかギャラリーとかのメディアを通じて不特定多数を相手にします。
わたしは最近、写真をホームページに発表しています。
新しく学校をやろうとか、自分の考えを知って欲しいとか、
見知らぬ人に見てもらって、私の方へ振り向いてほしい!との願望があるからです。

このように見てくると、見せる相手は、
身近なひと=私とあなた=二人称の関係の中で見せる
知らない人=私と第三者=三人称の関係の中で見せる

でもでも、私が撮って私だけが見る写真っていうのありませんか?
私だけの秘密の写真?!=一人称の関係の中で見せる

この見せる相手の想定で、最近の傾向はというと、
二人称の写真が多くなっていますね。
「わたしとあなた」の関係の中に写真がある、という図式ですね。

写真の現在っていうとき、この「わたしとあなた」という水平感覚ですね。
これが基点であり、ここからの写真作りが始まるような気がします。
見せる人が見る人である、という関係のなかです。
二人の関係は、カメラを持ったか持たないかではないんです。
二人の関係のなかにカメラがあるという関係なんです。

このような写真の移転には、
上下から水平へという人間関係の変容も背後にあると認識しています。

2004.07.03
写真を私に見せる?

前回は、写真を誰に見せるの?ということでしたが、
そこでは、あなたに見せる写真、ということを導きました。

写真は自分を見つめていく鏡だ!っていうのが今日のテーマです。

自分っていったい何、または何者なんだろう?って・・・
こんな疑問を抱いたことありませんかね。
社会の器の中で相対として他人がいて自分がいる。
その自分っていう中味のことです。

写真に限らず芸術という行為にもおよぶことなのだと思っていますが、
この「自分を見つめる」ということが必要なんですね。
これは解けそうでなかなか解けないですよね、きっと。
でもこの「自分とはなに?」っていう問いを解いていく道筋が必要なんです。

他人のことはよくわかる、といいます。
他人を理解するのには、もちろんその時々の価値観に基づいて、
それに照らし合わせて、外面のこと、どこどこの学校出てるとか、
どこどこの会社でこんな仕事していて、立派やね、とか。
その反対の「けなし」もやりますよね。

でも自分のことを自分で考えてごらんなさい。
たしかに家族がいて、学校に行っていて、アルバイトして・・・とか、
自分の外回りの環境はわかります。

でもでもね、ここでも、そんな自分っていったい何?っていう疑問がでませんか?

写真を撮るっていうのは、いろいろ考えるんです。
何を撮ろうかな?自分の好きなアレを撮ろう!
そうして撮ったモノをみて、そのモノの自分が撮った意味を問い、
社会通念の枠にそって理解していきます。

やさしい気持を表現したい!楽しい気持を表現したい!
そうして、そのやさしさや楽しさの中味を撮ろうとするんです。
自分との対話っていいますが、写真というものを介して対話するんです。

こうして自分を知っていくプロセスのなかで、
作り出されてくる写真が作品となって残るんですね。
けっきょく自分とは何?っていう
最終の解答は見つけられなかったとしても、
自分の撮った写真を自分に見せていくことで自分を知っていくことになる。

まあね、判ったような判らないような、ぐるぐる回りのお話ですが、
自分に注目することって、けっこう現在的なテーマなんですよ!

2004.07.06
写真学校の役割

写真というメディアが現代生活に占める役割を考えてみますと、
これまでにもここで見てきたように、生活者の人格形成に大きな影響力を持っています。

でも、大きな影響力をもっているメディアであるのに、
そのことを学術レベルで捉える視点というのは希薄です。

既存の写真学校がこの視点からの言及がいたって少ないのが現状です。

市中に技術を教えてくれる学校があります。
けっこういい値段ですね(笑)
公共のセンターが写真教室を開催しています。
これは市民相手だから格安です(笑)
カメラメーカーや量販店が写真教室を開催しています。
消費を促す目的だから無料に近いですね(笑)

芸術系大学や専門学校がありますね。
ここで学ぶには膨大な経費と時間がかかります。
といって職業人として自立できるかといえば必ずしもそうでない。

とくに写真を撮る技術ではなくて、社会学や心理学の分野として学ぶとしても、
なかなか文献がみつからないというのが現状です。

こうした現状の中での新しい写真学校の役割とはナンだろ~って考えるのです。
そうすると見えてくるのは、生きることの技術を教えるのではなくて、
生きることの意味を考えることをベースにおいて、
写真というメディアを使いこなしていく人を育てることだ、との答えが出てくるんです。

食べることと写真を撮ることを同じレベルで考えていくことや、
写真という手段が生きることの意味を考えさせてくれるものであることなどを、
ベースにおきながら、あるべき自分のあり方を探っていく、
このような役割を果たせたらいいな~と思っています。

学校ってどう在るのが望ましいの?っていうことも含めて、
考えていく必要があるんですね。

新しい写真学校のコンセプトは、ここからの出発だと考えています。

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フォトハウス写真評論-2-

2004.06.24
写真の歴史-01-通史

写真学校のカリキュラムを作っていてこのサイトに記事をアップしています。
毎日少しづつ書きためながらテキストにまとめていこうと思っています。
これらのシリーズはいずれも草稿段階です。

今日からは写真の歴史を登場させることになります。
いくつかの単位が出来てきています。
デジタル写真領域、フィルム写真領域、写真の現在的意味という枠が提示されています。
写真の歴史シリーズは、断続的に書き記していきます。

通史としての写真史。

写真の歴史をどのように捉えるかということですが、
いくつもの系の捉え方があります。

(1)には、道具としての発達史、
つまり発明当初のカメラオブスキュラから一眼レフカメラまで、
また手作りカメラから工業生産へというように、
時代の科学工業との並列でみる写真史。

(2)には、写真の捉え方として、アートとしての系とドキュメントとしての系として、
発明当初からの絵画的指向(ピクトリアリズム)から、
20世紀初頭のステーグリッツを起点として、ジャーナリズムとしての写真などを、
大きな流れを捉えていく写真史。
この系には、ポートレートやファッション等の商業系をも含め社会学的な写真史。

(3)には、写真と人間という視点の系から捉える写真史です。
この系は「私」という撮影者の私性の視点から生み出された写真を捉える捉え方。
それぞれの時代区分のなかでの社会的背景(思想)を軸に捉えます。
「私性」の問題は、この思想動向を抜きにして捉えられないように思いますが、
外に向かっていたカメラが次第に個の内へ向かってく系として捉えることができると思います。

このようないくつかの視点から写真の歴史を紐解いて新たな織物に仕上げていく作業が、
フィルム写真の時代160年余とデジタル写真の時代開始のいま、求められているんだと思います。

特に(2)(3)の視点に重点をおいて捉えることで、
現代の写真の位置とこれからの写真が向かう方向を探っていきたいと思っています。

2004.06.23

写真は芸術?

さあ、写真という言葉と芸術っていう言葉とが並んで?ですね。
それぞれに確定した定義ってものがあるのかな~と見渡したところ、ありませんね~
明確な「芸術」という定義もいまどうなんでしょか、やっぱり不明ですね、実感です。

ここで経済システムの中での「写真と芸術」のあり方から、
「写真は芸術?」っていうことを捉えていければな~と思います。
写真が消費対象になり、芸術が擬似貨幣対象になることで、
経済システムに組み込まれるとしたら、写真が売買されることで芸術作品になれる!?

写真が美術館にコレクションされ、オリジナルプリントという考えが出てくるのは、
けっこう新しいことです、わが国ではだいたい1980年前後だと認識してます。
四半世紀25年ほどですね、経済構造的には高度成長期です。

ここでは写真の本質?とか芸術の本質?とかの議論でなしに、
商品として捉えてみるなかでのあり方を想定しています、念のため。

平面作品の芸術作品化をみる(美術館がコレクションする)と絵画があって、
その次に複製可能な版画があって、その次に写真という流れになります。
わが国の美術館で写真のコレクションがはじまるのは1980年代後半です。
(米国での流れが遅れて定着するパターン)
写真専門美術館ができるのは1990年代です。

一方美術界でも変化がおこってきます。
美術家がカメラ装置を使って作品を作り始め1970年代に表面にでてきます。
美術の側からの写真へのアプローチ、写真の側からの美術へのアプローチ。
こういう流れが1980年代に顕著になってきたように解釈しています。

そして現在、写真は芸術かどうかなんて議論そっちのけで、写真が撮られていますね。
どんどん雑誌メディアやwebメディアのなかに浸透していますね。

さて、こういう観点にたってみて、タイトルにした「写真は芸術?」っていうこと自体、
まだ有効なことなのか、すでに無効な議論なのか、という議論からはじめないとね、
いけない時代にさしかかってきてるのかな~なんて思っています(笑)

2004.06.22

露出あわせも写真の基礎

写真撮影時の基礎になることがいくつかあります。
ピントを合わせる話はこの前したので今日は露出の話です。

露出って光の量をコントロールすることなんですけれど、
最近のカメラって全自動だから何も悩むことないんですね。
カメラのなかのコンピュータが全部計算してくれて適正値を出してくれる。

そのとおりなんですが、でも写真を撮ってそれなりに見ると
ちょっと思ったのと出来上がりが違うな~って思ったことありませんか?
人物の顔が暗くなってしまったり黒いはずが灰色になったり・・・・

露出の適正値というのは、
写したいと思った被写体に最適値を与えてあげること
フィルムとかCCDの能力を最高に発揮させてあげること

ここから導き出されることは、
写したい被写体(部分)に対して最高の能力を発揮させること、ということです。
そうするとカメラが判断する適正値が、撮影者が判断する適正値とは限らない。
こういう論法になりますね。

そこで露出の補正ということが必要になってくるんですね。
露出あわせ、ということはこの補正をおこなう要領を知るということですかね。
たしかに沢山写真を撮ることで実践的に感覚でわかってくることもあります。
この場合はちょっとプラスへあるいはマイナスへ、というふうにです。

大雑把な話ですが、ちょっとアドバイス的にいうと、
背景が明るいときはプラス補正、暗いときはマイナス補正。
案外このこと、わかってるようでわかってない人が多いように思うので
ここでさわりのとこだけ申し添えておきます。

2004.06.21
写真の定義

いまさらなにが写真なのっていう向きも多いなかで、写真って何?って問うこと。
写真の定義なんてあまり見かけないでしょ~
定義するまでもなく見たら写真だってわかる代物だもんね(笑)

でもあらためて写真の定義をするとなるとけっこうややこしいんです。
それではここで試しにやってみましょうか。

写真ってカメラという道具をつかって作る一枚の絵のようなもの。
絵のようなものだけど「光」が自動的に描き出すもの。

これって正解ですか?どうなんでしょうね。

とするとよく似たものにコンピュータグラフィックス、
俗に「CG」っていってるあの代物のことです。
そりゃCGにもいろいろありますけれど、
まった光学機器のカメラを使わなくてコンピュータの中で基絵からつくる。

こうして出来上がって紙にプリントアウトしてくると、
これはあたかも写真のような姿になっていますよ~

実写の写真を取り込んで加工しているCGもあれば
同様にして写真を加工して「写真」っていうときもありますよ~

こうなってくるとですね
写真とコンピュータグラフィックの境界線は何処なんでしょうかね。
かってあったと思われる写真の定義がぐらついていませんか?

そんなことどうでもいいんや~写真は写真なんやから~ね~
といって済ますこともありですが、そうとばかりもいってられない時代ですよね。
やっぱり理屈として定義しておかないといけませんよね~

結論はでません、ボクが定義したって学者先生ではないですから(笑)
広辞苑にはどのように表記していくんでしょうね??
だれか学識経験者って言われているヒトさんよろしくお願いしますね。

2004.06.20

写真の中味

写真を愛好する人たちが大勢います。
写真ってなによりもとっつき易いしバックアップ体制も完備されていますしね。
写真を撮るという目的をもつだけで旅行の中味も豊かになるようだし、
子供の成長記録だとかで家族が歩んできた足跡をアルバムに残しますから、
現代人にはなにかと重宝なツールだと思っています。

そういった愛好家たちの層に支えられて作家と名乗る人たちが存在します。
人間の欲求のなかの自己実現を果たしてくれるツールとしての写真。
そのような営みとしての写真制作作業の中味、
つまり写真に撮られる被写体の中味といえばいいでしょうか。

この中味をどうするのか?という問題に直面したとき、
カメラを持ったひとは、写真というものが社会的存在としてあることに気づくのです。
さて、何を撮ろうかな~~、って詮索して何かを撮り始めます。

大きな物語としての戦争の現場や小さな物語としての私とあなたがいる現場。
写真には160年余りの歴史がありますが、いつもその中味をどうするのかが、
その時代時代のテーマとなってきたように把握しています。

現代はよりいっそう写真の大衆化時代です。
携帯電話の普及数以上にカメラ台数はあるわけです。
「写メール」時代なわけです。

プリクラ、写メールといった写真のある日常のなかにこそ、
写真の中味が生成しているように感じますね。
概念でいえば「小さな物語」なんですね。
写真の主たる中味はこの小さな物語のなかそのものなのかも知れませんね。

生活スタイルそのものが多様化しているとはいえ、平均フラット化してます。
そこでこの時代に有効な存在感っていうのが「私とあなた」のリアリティ関係。
そんな視点で写真テーマの動向をみていくことから何を見るか、が課題なのかも知れないですね。

その根底に「記憶」と「記録」ということの意味再構成があるように思っています。

2004.06.19

写真の理論

ある展覧会の会場でルーマニア育ちで留学中の人とこんな話を交わしました。

・写真の理論ってロラン・バルトがありますよね
・そうそうロラン・バルトの「明るい部屋」でしたね
・実際、理論を勉強しても役にたたないです
・そうですね~写真の理論って写真のことでしょ?
・だいたい写真の中味って写真以外のものだから写真のこと考えていても役にたちませんね
・そうかも知れませんね
・ロラン・バルトさんだって、たまたま写真というモノを出してるけど語る背景は別理論でしょ
・それにそれってもう20年以上まえの理論というか分析でしょ?時代かわってるよね
・そうだね、世界の構造が変わったですよね
・ルーマニアも変わったでしょ?体制の根底そのものが・・・
・だとしたら、いまの世界の構造にたった写真の理論ってのが必用なのかもね


なんか訳のわかったような判らないようなお話ですが
写真のことを考えるのにどうしたらいいんでしょうかね?ってよく訊かれます。
そんなとき、写真を見ていても技術のことしか出てこないです、
写真を捉えるのは、その時々の哲学的風潮とか、経済的風潮とか~
社会の風潮を分析する学問の援用をうけてしか成立しないのではないですか~
こんな答えを用意しています。

わかったような判らないようなお話なんですが
写真ってなんか学者先生から継子扱いされてるみたいなんですね
そんな感じをうけています。

社会の動向と風潮ですね、
現在だったらローカル化とかルーラル化の流れがありますから
この枠組みのなかで写真というものを捉えてみるのも方法かも知れないんです。
新しい写真学校では、こんなふうに提案しようと思っています。

2004.06.17

写真のテーマが向かうもの

写真のことについて考えていくとハードウエアとソフトウエアのことに二分されます。
ここではソフトウエア、写真のテーマについて少し考えたいんです。

写真のテーマが個人の内面を照射してそこから感情を交えたイメージをつくる。
こんな風な方向にきているような気がしています。

いまは、撮られた写真に大きな物語を感じさせるかどうかは置くとしてですね。
非常に個人的な体験を中心として写真が撮られてきているように見受けるんです。

個人の内面が置き去りにされている時代って言えばよいのでしょうか?
ふっと気がつけば私は孤独、なんてことありますよね。

特に最近の傾向として自分自身を考えるということがあるようです。
しかし自分自身を考えるなんていう枠組みが希薄な社会のようです。
そこで悩んでしまう人たちが多いと思うんです。

自分を告白したい衝動に駆られる!
ネット上の個人ホームページの匿名記事が告白に満ちていると思いませんか?
内なる衝動を匿名のままだったらさらけ出せる!

この自己表出の形式には次のようなものがあります。
日記体文学という形式をとったり写真・映像という形式をとったりです。

かってはノートに日記を書くという行為が詩作や小説につながっていったのですが、
いまの時代はパソコンツールで日記ホームページが簡単に作れてしまうので、
一定の形式を踏まないと出来なかった作品レベル以前の文章や写真が公表される。

こんな時代なんかな~って思っています。
そうだとしたら発表の場が一気に拡大しているわけですから、
ここでは写真。写真のテーマが個人のプライベートな露出に向かってきたことも理解できます。

こういうデジタルネットワークの時代の写真のテーマが「私」そのものであることは、
ハードウエア側面からの援護で一気に顕著になってきたようにも思います。

学校カリキュラムとして、この現象を精確にとらえていくことが必要だと考えています。

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