中川シゲオ写文集

中川シゲオの写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

日々 2006.12.16~2007.3.22
    
日々-7- 2007.1.5
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ここ数年、毎年大晦日には除夜の鐘を突きにいっています。この大晦日には、その前の大晦日と同様に、けっきょくは閻魔堂の鐘を突きました。年末年始だからといって、特別には扱わないでおこうと思う気持ちが強いのだけれど、世の中がこの日を区切っているから、それに便乗している、いいえ、気分的には、させられているといった感じです。

でもね、そうゆう気持ちとは裏腹に、日々を過ごしていくということは、晴れの日を作らないとやっていかれへんのやなぁ、とも思います。日々淡々なんていいながら、日々淡々ではなくて、どろどろ、泥まみれの心があって、それを浄化させるためのセレモニー、晴れの日。お正月とゆうのは、その年最初の晴れの日なのです。

京都に生まれて、京都に育って、目線は東京とか大阪とか、大都会の方へ向いていたけれど、けっきょくは生まれ育った地場である京都を意識して、日々生きていこうと思っているところです。でも、なあ、只の生活者にしかすぎないとしても、只の生活者では満足でけへんなぁ。そこで、再びカメラを持ち、パソコンを使って文章を書き、あわよくば京都人が語る京都の本質、みたいな物語を作っていて、それに自分を乗せようと思っているのです。

記録者自らが地場を記録することで記録が成立する。言い方はいろいろあるけれど、民俗学者の柳田国男せんせいが、理想たる記録の方法として論じているのを、写真家東松照明さんと交情があったころ、1980年代の初めに知って、それから四半世紀が経って、いまぼくの制作の方法論として、ベースにおいているところなのです。これは論なのであって、その論に従っていこうと思っているわけで、そこに情の源泉をみいだせれば、ぼくはきっとハッピーなわけです。そうゆう死に際をも想定している昨今です。

日々-8- 2007.1.11
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かって賑わった町が、時代とともに衰退していくとゆうのはよくある話で、半世紀という時間軸は、それを見てきた者にとって、ノスタルジックな、つまり感傷的な情緒をともなって、小さな旅へと誘ってくれているようです。まま生まれ育った町を、カメラを持って歩いていて、よみがえってくるのは、かってそこにあったぼく自身がいた光景です。

そうゆうことでいえば、千本今出川界隈とゆうのは、ぼくの生活空間ではなかったけれど、映画館とか飲食店とかパチンコ店とか、月に一回か二回、親に連れられ、叔母さんに連れられ、つまり大人の遊び場として垣間見てきた街でした。高校生になったそのころ、三島由紀夫の金閣寺を読み、舞台が京都であり、確か主人公が包丁だったかを買う店が通りの角にあって、その店先を見るたびに、その小説を思い出す。それよりなにより、そのころ陰惨な気分だったぼくが週に一遍、日曜日、アルバイトしていた寿司屋があって、いわば十代半ばの思い出がよみがえる場所でもあります。

寿司寅と看板された空間、その家の中での光景がよみがえってきて、その日々の人の顔がよみがえってきて、まったく縁の無い関係から、しだいに関係していくストーリーが出来上がっていくのです。たまたまお店の張り紙、アルバイト募集を見て、戸を開けたんだけれど、その戸を開けたのは偶然ではなくて、ストーリーがあったことが、思い出されてきます。大将の嫁さんがタエコの母親の妹で、寿司を握っている筆頭使用人がタエコの父親で、タエコは三人姉妹の真ん中で、クラスは違ったけれど中学の同級生で、いつのまにか友だちを少し越えたような関係になって、中学卒業と同時に関係が終わって、かれこれ半年過ぎたころ、張り紙に応募したというわけです。

タエコが水事故でいなくなったのが何時だったか、葬儀にはいかなかったけれど、という記憶だけで推測するとタエコの死は18を越えたころだったのかも知れない。うん、ちょこっと話をすれば、偶然にだったけれど、はじめて手を握った女の子なんです。ぽちゃぽちゃ、あったかい、やわらかい、いま思い出しているわけで、握ってしまって二人がバツ悪そうに動作が止まって、それは数秒間だったように思い出します、中学三年でした。ウンウン、季節は夏です、薄手のワンピースでシャツもブラも着けてなかったなぁタエコ。記憶は糸を引くように思い出されては消えていきます。<思い出は狩りの角笛、風のなかに音は消えゆく>だったか、こんな詩句までも思い出してしまった2007.1.11-AM10:12-。

日々-9- 2007.1.12
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あんまりロングショットの写真は好まないんですが、といいながらよく使ってますけど、写真には説明不要、イメージで追いかける写真と、説明して納得できる写真があるんだと解釈して、ちょっと説明していくと、向うに見えるのは比叡山です。撮影のポジションは、建勲神社の正面上り口途中です。建勲神社の正面から石段を昇っていって、途中で振り返ると、こうゆう光景が目にできたわけです。

だれやねん、比叡山焼き討ちした武将、たしか織田信長とか、ええ、この建勲神社は織田信長を奉る神社なのです。それもこの神社、明治天皇の命により奉ったとあるから、歴史は新しい。ただし、神社がある場所は、船岡山の東側斜面です。船岡山は京都の基点となるポイントです。平安京造営のとき、このポイントを基点にして、真南に大極殿を造営したようです。比叡山が聖地となるのは、平安京造営後だから、船岡山界隈の歴史のほうが古いんですね。

船岡山の少し北に今宮神社、少し東に玄武神社があります。大極殿の北方位、玄武方位にあたる界隈です。京都の鬼門であり疫病は鬼門からやってくるから、鬼門に神社を置く、まあ、いわゆる神頼みってことですね。なんでいま、こんなこと考えて書いてるんやねん、自分に聞いているんですけど、年とともに方位とか距離とか、つまり人間の遠近法感覚に興味をもちだしていて、いろいろ詮索していくと、どうもこの船岡山というポイントが、推論ですけど、日本文化の基軸・基点であるように思えているのです。そうゆう場所に、建勲神社が造営されたとゆうこと、天皇は一等地に奉ることを許したわけですね。

いや、ね、ぼくの思いではね、信長が存命しておれば、戦国の世に、いわゆる共和制国家への萌芽があったかも知れないなぁ、と思ったりしてしまうのです。まあ、四百数十年まえのことだから、だれも推論するしかないんだけれど、なんかの因縁やなぁ、信長が築城した安土にて、塾を主宰しだしたこととか、なにか因縁めいた迷信を作っているようですね。それと、方位とか距離へのイメージは、今日の場合だと具体的な地理的距離を指していますけど、高天が原とか浄土とか、そうゆう世界が想像されたヒトの心に興味もあったりして、現実と夢幻をごっちゃにして、近代遠近法を越えられるかなぁ、超えちゃいたいなぁ、天の浮橋を昇りだしているのかなぁ、それとも黄泉の国へ・・・。

日々-10- 2007.1.18
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散歩にでかけるとき、玄関を出て、東西南北、どっちへ行こうかと迷うことがままあります。歩くというのは前へ進むことで、前へ進むとゆうことは、東西南北、方向が決まるということで、ところが歩ける道はすでに作られていて、それの選択とゆうことになります。この日(2007.1.16)は、自宅から西へ向かって西大路まで歩き、そっから北へと歩いていくのでした。到達する目的地は決まっていて、ちょっと遠回りして行こうかと、道すがらの光景を写真にしながら、北上するのでした。

大文字山が見える。電線が邪魔やなぁ、ある種写真制作的発想で、そう思ってしまうわけだけれど、いっぽうでそうやないやろ、あるもんはあるんやから、いっしょに写しこんでしまえ、それでええんや、なんて妙に納得しながらシャッターをきるのでした。そういえばこの光景、この場所から何時こんな風に見えるようになったんやろ、かって農林年金会館という施設があって、いまは金閣寺の駐車場になっているんやね。

大文字山は言わずもがな年に1回、8月16日の夜にデビューします。そのお山へ登った記憶は小学生のころ、中学生になると衣笠山へ登ったんや。大文字山界隈は、子供のころの遊び場でした。なにやって遊んでたんやろ、チャンバラ、探検隊、ぼくらは少年探偵団、大文字山から奥の方へいくと洞穴があって、それは自然の洞穴ではなくて、採掘の跡やった。洞穴の中へ入ることは恐怖に満ちた未知の体験やったなぁ。

光景を見るたびに、見るといってもかなり意識して見るたびに、思い出が通り過ぎていきます。ふるさとは遠きにありておもふもの、犀星の詩句ですね、ふるさとは近くにありておもふもの、ノマド的発想ではなくて地場に住み着いたぼくのこころは、いかがなものか。生まれ育った場所にて、散歩の道すがら写真を撮るとゆう行為。これぞ最新、あたらしい方法論、てなぐわいに想ってみたりもしながら、ぶつぶつ自問のお散歩なのでした。

日々-11- 2007.3.20
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月に一回、この頃に郵便局、銀行、信用金庫と金融機関をはしごします。とゆうのも、公共料金やらクレジットやら、金融機関引き落としを利用しているから、現ナマを追加しておかなければならないから、西大路の金閣寺からわら天神にいたる東側を、一巡するわけです。

今日の一巡には、カメラがポケットに仕舞われていて、ぶらぶらお散歩とは違う、目的外出と平行して写真を撮ったというわけです。いつものように、ストリートを撮ります。肖像権ってのがあって、本人了解、なんてことは、ううん、無視無視。街角風景の一部なんやから、そんでええやん、なんて思いながら、ひとがはいるとスリリングな気分を味わうわけです。

写真には、覗き見的要素がある、そのスリリングさを、味わうってことですね。いいのかわるいのかしらないけれど、多少の後ろめたさの気持ちもあって、そしらぬ顔して撮っているわけです。イージーなもんやなぁ、自分でもそう思っているわけで、写真としての価値どうこう以前に、まあ、スリリングやなぁ、と思っている、ささやかなたのしみ&はじかみ、若返ったような気分です。

日々-12- 2007.3.22
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昨日は春分の日、東山花灯路イベントに、観光客気分でいってきました。観光客っていう気分は、京都の表の顔にふれることができると思っていて、観光客が京都へ来たときに見るお土産屋さんとか、神社とか、お寺とか、その表面をみる気分です。祇園までバスで行って、そこから八坂神社の境内を通って東門、ううんまだ明るかったから、人の数は少なかった。何年か前に訪れたことがあるのですが、あんまり明確な記憶がないまま、カメラをポケットに仕舞いこんだまま、彼女と一緒に散策でした。

これは最近の、京都の観光イベントだから、それほどの思い入れもないので、写真を撮るのはもっぱら人が群がる光景に向いていきます。人恋しいんやなぁ。この世の見納め、なんてゆうほど深刻ではないけれど、最近、目の前に現れる光景には、何を見ても美しさを感じる。美しさといったけれど、表記の言葉が見つからないから、その一言に集約したけれど、まあ、人を見たり、明るいお店を見たり、これはわくわく気分です。

お祭り気分、祝祭気分、晴れの場、明るい、うれしい・・・。理屈やなくて気分なんです。気に入った写真をアップしているわけだけれど、これは自分のためにあるのであって、つまり自己満足、それだけです。といいながら、ブログに載せて、見せているわけですけど、まあ、いっか、かなりイージーな気分です。

<日々>終わり

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の京都寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖


日々 2006.12.16~2007.3.22

日々-1- 2006.12.16
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日々淡々と過ぎ去っていきます。ふっとカメラをもって散歩に出かけます。通りすがりの光景をカメラに収めます。何のこともない、淡々、目の前にある光景をカメラに収めます。このようなコンセプトで撮られる写真とゆうのは、けっして新しい手法ではなくて、ステーグリッツがすでに100年も前にやっていることだし、ボクがカメラを持つようになった30年前にも、盛んに行われた手法です。

日々淡々。毎日が大きな起伏もなく、いわばフラットな時間が流れていきます。でも、ふっと想い起こしてみると、世には深さがあり、深さは意味をもち、その意味を探ることで写真作業が行われる。視覚というのも、カメラはまさに目そのものですから、脳裏に焼きつけるように写真に焼きつける。日々淡々ですから通りすがりの光景など、意識の内にも残らない。残らないほどたわいな出来事が、目の前に起こっている。

写真には意味があります。光景を写真にするとは、光景に意味をつける作業です。日々淡々と流れる時間のなかにあって、目の前を通過する光景は、さほどの意味もないのです。意味のないものを写真にして、意味を見出そうとしても意味あるわけではありません。そうですね、意味を持たないとゆう意味を持たせようとしている、日々、なのかも知れません。

日々-2- 2006.12.18
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写真は、見てしまった光景を、記憶しておく装置だと思います。そこでは、見る&見てしまった、ということが、注目されるべきことだと考えています。<見る>とは目に映る光景の全体を関連付けて、認識、理解することだとしておきましょう。<見てしまった>というイメージには、偶然にも遭遇してしまった、という偶然性を彷彿させてきます。

ああ、ちょっと論理っぽくなってきたので、続けようかやめようかと思いながら、書き出したんだから、続けちゃえ、なんて思って続けますけど、見るとは、見ようとする意思があるんですよね。だから<見る>意思をもって、見ようとして、<見てしまった>光景というのが、写真の画面に再現された現場、このようにいえると思います。

<見えない>ものを<見える>ようにするのが写真作業だ、という考え方があります。この場合の<見えない>ものというのは、目に映る光景の背後にある意味のことで、いわば因果関係のことです。その因果関係を探った結果として写真の画面として再現される。ここに写真の意味がある。なんてこと言ってしまうボクがここにいます。

日々-3- 2006.12.20
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網膜に映る光景とは、関係があるような無いような、写真はファインダーを覗くかぎり、網膜に映った光景です。関係があるような、というのはボクの記憶の何かがショートして、火花が散ります。そんなに強いものではなければ、線香花火のお終いの、あの柳のひと筋あたりですけど、まあ、何か感じてるわけだとしておきましょう。

でも、よくよく考えてみるまでもなく、それらの光景は、むしろ無関係な光景なのだと思ってしまいます。目の前にある、肉眼で見る、リアルな光景だとは思います。テレビの画面に映し出される遠い国の光景が、目の前の光景よりも近場に感じるけれど、それはヴァーチャルな光景です。リアルであれ、ヴァーチャルであれ、心が動くことで自分を確認しているのだとすれば、そうゆう時代が現在なのでしょう。

この写真と文章を、誰かがみてくれ読んでくれる、その誰かとゆうのは、ぼくにはわからない。ここはヴァーチャル領域で、リアルではなくて、ヴァーチャルです。仮想空間なのです、といえば、じゃあ、街角の光景はリアルなのか、ぼくにはもう、どちらもヴァーチャルであり、リアルであるような、そういう錯誤に陥ってしまっているようなのです。いったい、ぼくは誰で、きみは誰なのだね。

日々-4- 2006.12.21
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この写真を見てなにを感じるかは見た人それぞれに違うと思います。写真を、思わせぶりに撮る。これは樹木の幹です。樹木の幹なんだけれども、ぼくはこの写真から、写実された樹木の幹を超えて、あるいは背後にある、何かを言おうとしている。

いいえ、別に、この写真について、この被写体について、明確な背後の思いがあるわけではありません。明確に、ではないけれど、じつはあるんです。あるはずなんです。それが<見えない>のです。見えないけれど、樹木の幹であることは、判ると思います。

写真作業は、抽象概念で語られる<見えない>中身を、具体的な図象をつらねて<見える>ようにすることだ、なんてことはいいません、いいえ、いいます。でも、これって、ほんとにそんなことできるんやろか、いやいや、そんなことしなくったって、写真を見て、ワクワク、ドキドキしたら、その写真は価値があるんとちがう?、なんて思ったりもして、未整理、未分化、未消化、浮遊してたらええのんや!

日々-5- 2006.12.24
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あんまり面白くもない写真を掲載することには憚る気持ちもあるので、どうしようかと迷いながら、この写真を日々の一枚に加えたわけだけれど、写真として優れているわけでもないし、その日12月23日の朝、テレビを見ていたら今天皇の誕生日だということで、お顔が映っていて何度も聞きなれたお声がスピーカーからながれ出ていて、ある特別な日なんだ、と思ったのでした。午後三時まえになって、前日の残り寿司飯と、お揚げと千切りネギを一緒にフライパンで焼いてあったおかずで、遅めのお昼ごはんを食べて、カメラを持って散歩がてらに、今日の目的は、まだ未訪問のそこを探索しにいくことでした。

デシタルカメラをポケットに入れて、目的地までシャッターを切らずに、赴いたのでした。目印の小松原児童公園のそばを通って、華道の小松原流家元さんのおうちを初めて見て、その道路の反対側が、目的地の裏側になっていて、腰高ほどの石垣をぐるっとまわって、南に向いた表へ出たというわけで、立ち入り禁止の看板はでていなくて、みだりにたちいらないこと、という看板だけだったので、まあ、でも、ちょっと膝を折り気味で、起立でもなく座るでもなく、カメラを向けて入っていって、写真に収めたのでした。

なにも信仰心がそうさせているのではないと思っているのですけど、京都文化をテーマに研究みたいなことをやっていこうと思っていて、その文化の源泉がその系図にあるように思えていて、でもさ、写真ってそのときの光景しか撮れないわけだから、現場に立って撮っていくわけだけれど、これは表象で、あとは何時の間にか培われてしまった意識の分別で、それらしい光景を撮り、それらしい文章を連ねて、立体意識化しようとの目的をもっているわけです。

日々-6- 2006.12.29
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いつものように朝がきて、外をみると雪が舞っていて、それはこの冬最初の雪でした。雪が降ることが比較的少ない京都にいて、雪が降る光景に出くわすことは、少しワクワク気分になります。いつものように歯を磨き顔を洗って朝食の準備にはいります。コーヒーを四杯分セットして、手作りパンにシュレッドチーズをのせてトースターへ入れて、リンゴとニンジンとレモンのフレッシュジュースを作って、彼女はカフェオレ、ぼくはブラックのままだけど、自家製ヨーグルトにミルクをまぜて、飲むヨーグルトにして、金柑甘露煮1個を食べました。

日々淡々、繰り返し、繰り返し、雪止まず、昼下がりに、カメラをポケットにしまいこみ、傘をさして、煙草を買いに家を出て、道草食うように行きなれた児童公園へはいって写真を撮り、ぐるっとまわって煙草の自販機前に立ち、煙草を買い求めて帰り道、いつものようにいつもの場所で、今日はカメラを持っているから写真を撮ります。中学三年の夏休み、初めてアルバイトをした八百屋があった衣笠市場が懐かしくって、それに寺の内通りの起点となる橋があって、橋の向うは洛中で、立った位置は洛外で、洛中洛外を分ける紙屋川です。

半世紀以上もこの場所から、この光景を見続けてきたぼくは、なんの不思議もなく違和感もなく、いいえ、そうではなくて、この場所にいることが不思議なのであり、いつも違和感を覚えるぼくがいるのです。もうそのときには雪も止んでいて、薄日が射す空となり、師走の道を人が通り過ぎていくのでした。

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の京都寫眞帖
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小谷城址にて
2007.2.28
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奇妙に気になる場所に、お城の跡があります。歴史書を紐解いたというより、遠藤周作の小説をもう7、8年前に熱心に読んだことがあって、そのなかに浅井長政とお市の物語があって、その舞台が滋賀県は湖北の小谷城です。そのころには、戦国時代の武将たちに興味があって、織田信長が築城した安土城跡を訪ねていったこともありました。城跡というのは、ようするに跡であって、痕跡が残っているわけで、当時の天守閣とか、その他の建造物が残っているわけではないのです。

ぼくたちが訪れる季節がそうさせているのかも知れないのですが、人がいない、殺伐とした風景がそこにあるように感じてしまうのでした。小谷城にまつわる話は、信長の妹お市が浅井に嫁いで、信長の軍に攻められ、落城するなか、お市も城に残り共に死するという悲劇のような内容を持つ実話の物語なのです。長政とお市の三人娘の長女が淀君となる家系で、いまは福井の朝倉との恩義のなか信長と戦う。その末に起こる悲劇のような物語。

こうして書いていくと、戦国時代の一齣が、城跡を訪れるときに、それなりに支える背景となって、ただの石ころ、ただの樹木(これは当時のものではない)、そこから見える湖北の風景などなどが、見る人に深い感銘をあたえる、と、まあそんな気がしているわけです。ぼくはまったく茶化す気持ちはなくて、その城跡に感銘を受けるのです。ある人間達が生きた痕跡がそこにあり、遠く昔の、とはいえ500年にもならない昔を、血なまぐさい歴史を、感動という感銘ではなくて、悲しみの感銘を受けるのです。

この世は戦い、人間の歴史は古今東西戦いの歴史である。このように認定してしまうことに、空しさと絶望に似た感銘を受けているのです。なんというおろかな人間たちよ、と仙人ぶって言ってみても始まらない現実に生きる自分を、どうしても正当化できないのです。おろかな自分よ、そのように思いながら立ちすくんでしまった城跡でした。

日々過ぎる
2007.3.8
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なにかしら日が過ぎていくのが早い感じがしてしまう昨今です。この前、ここに記事を書いたのが二月末、そして今日は3月8日。時間に追われている環境でもないのに、時間に追われている感じが否めない。これも仕事を多く抱えてしまったからだろうと思っています。
仕事っていっても、ここではお金には繋がらない仕事です。老人のボランタリーとは全く解釈していないけれど、世間から見たら、そういうことかも知れない仕事。好きなことを好きなようにしている、とは自分では思えてなくて、でも、好きなことをやってるとの感触があるから、そんなに悩んでいるわけではありません。

一日24時間、一月30日、月が12回あって一年。一時間は60分、一分は60秒。この単位にこだわってしまう自分があって、時を刻む時計があって、いつもいっしょに走ってるって感じで、時に縛られている自分を発見して、そっから逃れようと思っても、やっぱり逃れられない自分がいて、結局、時間という概念を認めたくないと思いながら、認めざるをえないのです。

時間は、一つの大きな呪縛ですね。それとゆうのも、自分の生涯時間をおおよそ計算できる時代になって、ひところならもうあの世へ行っているかもしれない年頃なのに、いまや生涯80年なんて、勝手に思っていて、ああ、あと20年もある、ああ、あと20年しかない。どっちかゆうと後者の方で、このあと20年といっても、いつぷっちり切れてしまうかも知れないと思うと、急ぐ気持ちがありあり現れてきてしまうんです。

そうして、いまやってることの、自分への意味を問うてみても、意味があるようで無いようで、この身体が生きてるあいだにしか通用しないことで、何を焦っているんや。そんな日々なわけです。たわごとにすぎないとはおもうけれど、ついつい言ってしまう自分が、ここにある。意味を成さないたわごとが、ここにある。ただそれだけのことです。


越前今立にて
2007.3.15
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今立は和紙の里。いつのころからか一度は訪れてみたいと思うようになっていた町だったので、気象情報では海岸は時化との予報で、急遽国道8号線経由で金沢へ赴くことにして、武生から近い今立を訪問したのでした。和紙への魅力を感じているけれど、たいした知識も持ち合わせていなくて、訪問の目的は、むしろ越前という土地と、奉書の類を生産していたという知識においてです。

三月も半ば、暖冬で雪が少なくて、もう桜が咲くかと思いしや冬が舞い戻った日、晴れ間が出たかと思うと、吹雪いてくる日、観光客用に整備された「和紙の里めぐり」の一角を見学したのです。紙の文化博物館、卯立の工芸館、パピルス館、この三つの館が見学コースで、入館料200円、パピルス館は和紙のお土産品を販売されているので入館料不要でした。楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)の木の皮を一定の工程をもって紙に仕上げていくプロセスが、わかるように解説され、工程を見学できたり、体験できたり、とゆう工夫がされているのでした。ぼくは観光客だから、観光客の道筋をそのまま歩きます。きれいに整備された一角で、はるかいにしえの美しい国のイメージをくゆらせ、おいしい十割蕎麦を食べ、自分へのお土産に、A4サイズの楮の手漉き紙を買い、あれこれと使い道を想いうかべているのです。

ぼくの興味は、京都と越前の位置関係にあります。京都から鯖街道朽木を経て琵琶湖今津へ出、そこから山を越えて敦賀にいたり、つまり山を越えた処が越前です。つまり京都から超えた処の前。京都の文化をあれこれ想う、その先に今立という紙の産地があるのです。この地、紙梳きの歴史は1500年といいます。ぼくの滞在は二時間でした。まあ、観光地めぐりとはこんなもんよなぁ、と思いながら、あえて一文を記して記念にしておく。それと掲載写真は、紙梳きとは関係のない、玄武の彫刻です。記念館に展示されていたものです。


桜の季節
2007.3.24
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今年もまた、桜の季節がやってきています。もう四年目になる桜取材。今年はどんなスタンスで桜を撮ることになるのかなぁ。毎年、同じ被写体を求めて、写真に撮っているんですけど、撮り方が毎年変わってきていて、写真の作り方が変わってきて、その時々の自分のあり方によるんやろなぁ、と思うわけです。

一年目から三年目にかけては、接近、接近、レンズを最短距離にして撮るようになってきて、たぶん今年は、少し引いた位置で写真を撮るような気がしているんです。桜の写真を撮るときに意識するのは、東松さんの桜です。彼が撮らなかった桜は、桜のアップです。そういうこともあって、最短で桜のアップ写真を、と思ってきて、情に直接インパクトを与える写真を目指しているわけです。写真の社会性とかを、いったん御破算にして、情にのみ訴える写真。それが昨年の桜を撮るコンセプトでした。

さて、今年もすでに桜を撮りました。とはいえまだまだ前哨戦です。ホンバンはこれからです。カメラは四年目になるキャノンのパワーショットです。最近は、一眼レフデジカメが主流ですけど、ぼくはあえてこの機種にこだわっていて、これで十分だと思っていて、ストレートに撮る手法で、今年はどんな桜が撮れるのかなぁ、と思っています。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

海のむこうに
2006.12.3~
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海の写真を撮ろうと思って、この9月から定点観測的に海を撮りだしました。撮影場所は越前海岸です。京都からゆうと越前岬の手前10キロ前後のポイントです。カメラを向ける方角は、そこからおおむね北西です。海岸沿いに設えられた道路脇のちょっと高台になったポイントです。

地球は丸いから、そこから見える最遠は水平線です。現代史を少しは齧ったことがあるボクは、かって内灘の海岸に興味をもっていました。つまり目の前に広がる海は「日本海」と名称された海です。その海のむこうに陸があって、その陸は朝鮮半島です。きな臭い話だけれど、能登半島の根っ子の内灘から、ボクがいま選んだ越前岬までのラインは、軍事的要所として北西を見ることになります。

その海の向こうに向けて、ボクはカメラを向けています。ちょうど写真に撮られた海の真ん中あたりが北緯38度あたりではないかと認識しています。この目の前に広がる日本海の生成は、1700万年から2000万年前ごろだといいます。ボクは、この長大な時間への想いとともに、現代史のある側面を連想させるのです。

この写真が意味をもつのは、ボク自身においてです。1970年代の中頃にカメラを持って、家族以外に最初に撮った写真が、内灘砂丘の海岸へ、家族で海水浴に行ったときでした。当時にはまだ試射場当時の弾薬庫跡が残っていて、それを何コマか撮ったのです。やがて1980年に「映像情報」を発刊しますが、その表紙写真に、そのとき撮った写真を採用しています。

そんなこんなでこの40年間、ボクが何かしらこだわってしまい、事あるごとによみがえってくる場所なわけです。今年9月から撮りだした海の写真は、そのポイントに立つとき、ボク自身の記憶をよみがえらせるのです。いまさら現代史の問題にアタッチメントしようとは想わないんですが、ボクのこだわりのある部分として、海を撮るポイントを選定してしまったことだけは確かなことです。

<地>を撮る
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いま痕跡シリーズで、いくつかの被写体を選んでファイルにしている一つに<地>のシリーズがあります。昨日は自宅から紙屋川沿いに北上して、鏡石まで行ったんです。これまでにも薄々意識はしていたのですけど、あらためて明確に意識したのは、天皇陵が川の東、つまり洛外に散見されたことです。

地が露出した場所を求めて、それもボクの意識のなかで、意味ある場所を求めているわけですけど、昨日の場合だと、御土居ーおどいーがありました。御土居とは、秀吉によって築かれた京都を囲む土塁のことです。念のため、この御土居の内側が洛中、外側が洛外と区分されているのです。

鞍馬口通りの北にある児童公園で最初の撮影をし、それから金閣寺前の通りを山際に沿って北上していったのです。道路はアスファルト舗装で、山際はフェンスが張られ、宅地化して住宅が並び、立ち入れて土が露出している処というのは、ほとんど無いのでした。その道すがら、道路の右手、つまり山際の道路の右に天皇陵があり、垣根の下が、<地>が露出していたわけです。

撮影の主たる目的は、鏡石を撮ることだったので、数カットシャッターを切っただけでしたが、掲載の写真はその一枚です。いま、あらためて、土の露出したポイントで意味ある場所が、そういった類の処だと意識しているところです。写真のテーマについて、少し考えていく必要があるなぁ、と思うポイントだと思い出しています。


<神域>を撮る
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もう一年以上も前から、京都地域文化研究なんて標題を掲げて、研究、つまり考えることの枠を作ってしまったわけですが、それ以後、やっぱり意識化してしまって、ことあるごとに思案していたんです。で、そもそも京都地域文化研究という枠がボクのなかで起こってきた背景は、グローバル化していく世界構造に対して、いかにローカル化軸を立てていくか、なんて考えがあったのです。

このグローバル化とは、ボクには、西欧化だとの基本認識があって、拠って立つボクのアイデンティティ、つまり自分とは何か、なんてことを考えてきた最中で出てきたテーマだったわけです。綜合文化研究所なんて標題で、やろうと思っていたことの対面に、綜合ではなくて個別、個別文化研究、つまり自分研究につながってくるテーマが浮上してきたわけです。

良い悪いはさておいて、ボクの思考と実践方法というのは、大きな枠組みを作って、部分の枠組みを作って、それらを図式化して、それらの部分部分を、写真に先立つ文章で埋めて、平行して写真作業に入っていこうとの考えが濃厚に支配していると思っています。それが、今年の初めごろから、それらのことを棚上げしていたのです。つまり、基本視点を<理>から<情>へ移そうと思ったわけです。

情において<美>の意識を、写真化できないか、との思いが起こってきて、春には桜を撮り、花を撮り、古着ではあるけれど着物を撮ってきたところです。情はエロスという側面でイメージ化を図ってきたつもりです。一方で京都に生まれて育ったボクの60年をもって、ボク自身の研究をする想定として、ボクの身のまわりの風土を探索してみようとの着想で、日常生活空間に限定して、記憶の場所を写真に撮ることをしはじめてきたところでした。

ボクの記憶の場所から、街角を外していくと、そこは寺社仏閣があり、寺社の領域のうち、寺(てら)ではなくて社(やしろ)に傾斜している自分を発見したように感じているのです。つまり<神域>です。具体的には、このひと月ほどのことですが、意識してそれらの<神域>を訪ねていこうと思っているのです。まだ始まったばかりの今ですので、あえて言葉にしておきたいと思って、ここに記したとゆうわけです。


<空>を撮る
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<空>と書いて<くう>と読み<そら>と読みます。

愛用の国語辞典で、<くう>を引くと、次のような注釈が記述されています。
1:そら。2:中身がないこと。から。うつろ。3:むだ。4:(仏)世の中の物事は、すべて仮の姿で、実体がないということ。

同じく<そら>を引くと、次のような注釈が記述されています。
1:天。2:天候。3:季節。時節。4:場所。方向。5:心持。6:中間。中途はんぱ。7:心の落ち着かないこと。うわのそら。8:根拠のないこと。9:うそ。いつわり。・・・。

ところでぼくが空にカメラをむけていく、直接の動機は、来迎図を見たことに拠っています。今年の8月9日だったかに、お迎え行事の珍皇寺へ行ったときに、寺宝だとして、天国と地獄の絵図が掛けられてあって、その絵図を見て、写真に撮って、ええ、二十数年まえにも撮った絵図です。実は地獄の部分を撮っていたのでしたが、ふと意識に昇ってきたのが、雲に乗るようにして降りてくる如来とその従者たちでした。

その曼荼羅を見て、そのイメージ世界を見て、空のイメージがふつふつと湧いてきたのです。かってこの曼荼羅を描いた絵描さんには、空に来迎の光景を想像しているのだと思ったのです。実作した絵描さんというより、その時代の文化環境がそうだったのだと思ったのです。ぼくには驚異でした。空を見て、来迎図を示す、そのことじたいへの驚きでした。

カメラという装置において、空を撮って、はたして空想、想像をしのぐイメージを作りたい。気分として、そのようなことが沸き起こってきたのです。これはぼくの想いであって、心の動きであって、仮想の空間です。カメラで作る写真は、現実に在るモノしか映らない装置が成した結果のモノです。かって空を見て、想像のイメージとして曼荼羅が、心に起こった結果として描かれた、このことに注目したわけです。さあ、そういうインパクトが、太陽だけが実在する空において、カメラで成しえられるかどうか、ああ、無駄な抵抗に終わらせたくないな~!


<洞>を撮る
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木の洞、樹木の割目、其処は黄泉の国への通り穴。この世で目に見えるものを、想像の世界と結びつける神話の成り立ちに興味をもちだして、その目に見える光景とか風景の前に立ってみて、こころがどのように揺れ動くのかを知りたいと思って、あえて記述されたような姿の前に立っているのです。

地の底は、夜見の国、黄泉の国、地獄、そこへの入り口&出口のひとつが樹木の割目だというイメージです。なるほど、不気味な心象に導かれます。苔むした老木の亀裂に、生の営みの果てる後のイメージを感じとります。写真にしてみると、谷底につながるイメージで、その光景がぼくに迫ってきます。

天には天を治める神があり、海には海を治める神あり、地には地を治める神あり、その神々たちのイメージに恐れおののき、崇めたこころを、ぼくは知りたいと思っているのです。逆行、退行、いろいろ言い方ありますが、方向感覚でゆうと、今様に生きる術は、このイメージから遠ざかることで、生活が成り立つ仕組みとなっているのです。

神の存在イメージをどう扱うか、現代文明の只今、経済構造の真っ只中で、たとえばここ近年、文明の対立ともいわれているアフガン、イラクの戦い現場のイメージが、宗教宗派の対立ではなくて、心の有り方の対立ではないのか、と思えてくるのです。そのような心境も含め、ぼくは写真を撮ろうとしている、と理屈つけようとおもうのです。

べべ>を撮る
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べべ、つまり着物のことを<べべ>というんです。京都弁なのかどうかしりませんけど、べべ、さあさあおべべ着て、ちっちゃな子供に言い聞かすと可愛げもあるけれど、なんとまぁ、ぼくはこの言葉に独特のイメージを彷彿させる。えろい感じとゆうより侘びし寂びしのニュアンスかなぁ。特に女性ものピンク系着物と着物下着には、開放的なえろす感覚よりもちょっと閉塞的なえろすを感じているようです。

神、神話のイメージを追って、昨年秋から神域へと足を運んで、写真を撮っているんだけれど、樹木、根、苔、地、石などなど神が宿っていそうな被写体を探しているところに、着物と桜の色がいっそう気になってきたのです。ぼくは文化のなかに二つの大きな流れがあって、一つは武士道にいたりて熾烈サラリーマン像に結実する流れ。そうしてもう一つの流れが、えろすのながれ美の世界だと考えていて、特にえろすの領域におけるヒトの心の危うさ、封印された向う側の開示のされかたしかたに興味をもっているのです。

風紀とか公序良俗とかの言葉に含まれるニュアンスは、暗にあちらを封印するためのバリアーだとして、神域における熨斗封印と同列に置いているのです。つまり人間の知恵が封印してきた領域を、その深みへと写真イメージを導いていこう、いやいや導くための手段だと思いをめぐらせているわけです。

今年にはいって、千年昔に書かれた源氏物語に興味をもった。かなり意識の表層に躍り出たというほうが適切かと思うけれど、昔も今も延々続く色恋物語のその中味に興味を持ったというわけです。神代の時代とゆわれるイメージ産物世界から、人間模様を導いたとき、大きな流れとしての武士道、儒教、禅、他力本願、その流れの一方にベベ文化を見てしまったのです。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

文化&芸術批評
2006.10.9~
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ここの枠組みの標題が文化&芸術批評となっているもんだから、書くことを躊躇してしまうんですね。ええ、外見のことを論じ語ることへの興醒めといった感じでしょうか。世の中の、世に中のあり方に対して、違和感を感じているんです。世の中のあり方に対して、なんてちっとも具体的でないのだけれど、この具体的でない事柄を具体化させていくことが、この枠組みの目的でもあるわけで、なんて思うと、もう絶句状態におちいってしまうのです。

こんなことを言ってることは、ちっとも生産的でない、と俗にゆわれているそのこと自体なんだと思うけれど、この思うことの根拠を明らかにしていきたいとの欲求が起こってきているわけです。まさに堂々巡り、下降のスパイラル状態だと、自分で言ってしまいたいほどです。

批評という行為が、ボクの外にあることを、外に向けて、クリアーな区分をしていくことだと考えているけれど、いまぼくが立っている処は、この外にあることを外に向けることへの懐疑だと思っているようなのです。外にあることを内に向けて、という方向が妥当なような気がしていて、この内に向けていくことが、批評ではなくて、文化&芸術の作り手、つまり批評家ではなくて作家の立場のようにも思えているのです。

ああ、なんてナンセンスなことを、いま書いてるんだろうという思いと、この混乱状態を整理しているんだ、という思いとが交錯して、いまぼくはここにいる。

空と海と地
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ここは文化と写真の批評空間として設定している枠ですけれど、ぼく自身の進んできている方向が、ちょっと混沌しだして、出口が見えてきて、入り口が見えてきたように思います。
テーマは「存在」、つまり「ある」ということ。そう思って初原の光景を想定したところ、どうも存在の原形は、空と海と地、その表面、皮膚、そこらへんにありそうだと思って、それで「空と海と地」の表面、皮膚を撮りだしました。
もうひとつは「痕跡」、つまり印です。足跡、過ぎ去るもの、これは時間の流れという概念に基づいているわけで、ここにはぼくの意識があります。

たしかに写真の被写体が多岐にわたり、姿あるものがそれなりに撮られてきたわけだけれど、ぼくの想いは原点回帰だと思っています。その背後にかいま見える光景は、生命ということです。生命体、有機体、命、生と死、たぶんこれが原点であって、この上に文化・文明といった枠組みが組成されてくる。一方で内面の感情についての興味もあり、二本立て二方向のテーマにそって、写真と文章を連ねていこうかしら、と思うところです。

生きているということ、意識をもっているということ、そのうえに組み立てられた様々な意匠がぼくのなかに広がっているようです。地面に立って、上を見上げれば空があり、真横を見れば海があり、下を向いたら地面があった。まあ、ぼくが二足で立ったその位置から、見えるもの、それをその時々に、記憶のための装置としてカメラを持とうと思うところです。


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このまえに<海と空と地>なんて区分したところですけど、<葉>を追加して、いま四つの枠というか、四つの形に区分したところです。ぼくがいま、ここで形という概念にこだわるのは、そのなかに身体という形を垣間見てるからです。
海と空と地の延長線上に、苔がり、木々があり、木々に葉があるわけです。ここでは地表の現象を現しているものを形という括りで、記述していこうと思っているんです。

という思考でいくと、次には花という括りがでてくるのですけど、これはもうちょっと後にします。ええ、苔も葉も花も生命体ではあるけれど、植物という類です。そののちに動物という類を考えていて、ヒトという枠を考えていて、♂♀という分類を考えていて、というように、全体として、ボクという形にこだわろうとしているのです。
ボクは、いずれ消えゆく身体ということを知っていて、消えゆくということに対して、どう対処し準備していくのか、という思いがあり、まあ、それまでの日々をちょっと暇潰ししていこうと思っているわけです。

今の時代ってゆうのは、自分の思ったことを書いて、ええ、いまここに書いているシステムです。送信すれば、それで人目にふれてしまうのです。なんという時代なんだろう、って思います。そういう時代を批評するというより、自分の日記を、他人が見るという前提で、ここにこうして書いていく。時代環境が変わってしまいました。メディアの激変だと思っていて、これを活用して、ボク自身を公開して残していこうと思っているんです。

ボク自身の全てを公開していこうと思っているなかで、まだまだ触れられないことがあります。面識あるヒトにはリアルなボクを想い起こしていただけるけれど、面識のないヒトには、ここの枠自体は匿名と同質なものです。面識あるヒトに、どこまでを公開するのか、という問題ですね。ええ、人間としての木の、ボクは葉の一枚としてあるわけですけれど、自分を公開するということに、やっぱり面食らっているのかも知れません。

世界に構造を
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夏のころから、ぼくの頭のなかで、世界の構造の部分部分を写真に撮って、アルバムを作ろうとの思いが生じてきています。ぼくが生きてきた環境を想うなかで、環境を構成しているモノについての想いです。最初に天と地が分離したそのふたつに<空と海>があり、その後<海と陸地>が生じてきて、そういう環境に生命が生成されてくるというイメージです。いいえ、ぼくが描いたイメージというよりも、科学的根拠をもって解説された書を読み、ぼくのイメージが広がってきたにすぎないものです。

<空と海と地>この三つが、生命を育ませるための器です。そこで、ぼくの被写体が、決まってきたというわけです。空、海、地の三つです。それから、生命を持った被写体として、ぼくは植物を置いています。苔、葉、花、ぼくのアルバムがこうして出来上がってきたわけです。このようにして構造化すると、次の枠組みは<動物>ということになります。でも、これはまだ、未着手です。

写真に撮るということは、ぼくがその場にいることを前提とします。この根拠を崩さないで、写真を撮り、写真を作ろうと思っています。カメラは、キャノンのデジタルカメラ、パワーショット500です。3年前に購入したカメラだから、今ならもう少し精度が向上しているおかも知れない。でも、当分はこのカメラで撮って、パソコンのハードデスクに保存し、縮小はするけれど、その他の画像処理加工はしないでおきます。今のカメラで撮った写真として、それでいいと思っているのです。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

自分というかたち-1-
2006.8.5
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昨日から夏の取材に入っていて、今日は北野天満宮へデジカメを持って撮影に出かけました。北門から入り、大樹の梢を撮り、巫女文子(アヤコ)の祠を撮り、本殿まわりに設えられた神々の末社を撮り、本殿を撮り、そうして石畳の参拝道へと降りていきました。

天神さんと呼んでいる境内は、子供のころの思い出がいっぱい詰まった場所です。ボクは、記憶を甦らせ、記憶の像を描き、その場所を求めていきました。夏休みになると、この境内でサマースクールが開かれていました。管内の小学生が沢山あつまっておりました。ラヂオ体操から始まり、もう忘れてしまったけれど、なにやら催しがなされていました。

その頃から数年後になると思います。1950年代後半のことだから半世紀前の出来事です。石畳の参拝道の、そう、写真のこの場所に、縁日には母が店を出していたのです。そのとき、この場所で、何を並べていたのか覚えていないのだけれど、縁日のお客だったボクは、そこに母を見つけて、見ていたのです。

遠い記憶の残像が、木漏れ日にゆらめく地面に立ち昇ってきたとき、ボクは、そこに母がいて、円満な微笑をボクに投げ返してくれている母のイメージを描きながら、カメラを向け、シャッターを切ったわけです。半世紀前の記憶の場所に立ち、いま、その場所を写真に撮る。痕跡と名づけるシリーズの、これは一枚として収められる。自分という「かたち」を求めて、ぼくはしばらくのあいだ、この世をさまよおうと思うのです。


自分というかたち-2-
2006.8.8
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1983年だから、もう23年前のことですが、<夢幻舞台-あるいは、わが風土->という写真とエッセイをまとめた本をつくりました。この取材に入る日、思い出したかのように、その本を取り出してきて、目を通しました。ああ、これの続きだな、そう思う気持ちが、沸々と湧いてきました。お盆のこの時期、2年前の2004年に写真を撮り、「夢幻舞台」とタイトルしたアルバムをつくりました。ふたたびデジカメを持って写真を撮りだした初めての夏です。

その本には、12葉の写真と4編のエッセイが載せられているのですが、ボクはこれを定本に、細部を埋めていこうと思っているわけです。京都シリーズの第一巻として1983年に夢幻舞台が発行されているのです。その延長線上にて、ボクのかたちを作っていく作業が始まるのだと思っています。その試みをあらためて認識したわけです。

自分というかたち、というテーマを設けています。履歴という年代記を軸にしながら、その時々の気持ち、考えていたこと、それらを今に引き寄せて、記憶を辿るという風に、作業してみたいと思っているのです。かなり強い衝動として、ボクの気持ちのなかにあります。

今日も朝から、千本えんま堂へ、取材にいきました。地域限定です。3回目のお盆行事だから、おおむねの細部はわかります。写真の撮り方も若干変わってきていると思っています。たぶん残された時間、生涯つきあうことになると思うボクのトポスです。


自分というかたち-3-
2006.8.11
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この夏の盆を取材中に、ボクはボクの墓所へいきました。ボクのお墓は日蓮宗本山本法寺の中にあります。昭和49年(1974年)に建立された墓で、墓石に刻まれた建立者の名前はボクです。平成元年(1989年)の春に亡くなった母(おふくろ)が、ボクたちの墓がなかったので、墓をつくってもらったということで、真っ先におふくろが入ってしまったのです。

本阿弥光悦の菩提寺という本法寺の正門は、上京区小川通り寺の内上がる。茶道の家元、表千家の狭い道を挟んだ前にあります。どうしてボクのお墓所が此処にあるのか、その経緯をボクは訊ねたことはありません。でも、おぼろげながら、積み重ねられた記憶を整理することで、その輪郭がわかるような気がします。ボクの素性、身柄というもの、血縁というもの、それを描いてみたいと思うのです。

ボクの父(おやぢ)の母、つまりボクの祖母のことから書いてみます。たぶん明治の後半生まれの祖母(おばあちゃん)は、ボクが高校一年(昭和37年、1962年)の秋に亡くなりました。おばあちゃんは西陣織の織子で、旦那の正妻ではない女性でした。大正九年に男を産んで、その後に女を産んだヒトです。旦那の家の名前は忘れましたけれど、この旦那の家の墓所が、本法寺なのです。

だからボクのおやぢ方の父にあたるヒトは、西陣の織物産業に関係していた家のヒトだと推測しています。戸籍上でおやぢは認知されているから、おばあちゃんは俗に言う二号さんだったのでしょう。ボクが今住んでいる場所に、おばあちゃんは戦争前から住んでいました。おばあちゃんは、手機を織りながら、三味線なんかを持っていました。けっこう風流ってゆうか、囲われ女だったのかと思います。

おばあちゃんが亡くなって、遺骨が旦那の家の墓に居候するかっこうで、納められていたようです。そこでおふくろが中川家の墓を持つために、旦那の家やお寺に掛け合って、建立者としてボクの名前が刻まれた墓があるのです。ボクが28歳のときに建立されたとき「繁夫の名前にしておいた」と云っていたおふくろの言葉を思い出します。


自分というかたち-4-
2006.8.12
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数年前の話しですが、ボクはボクの家系図というのを作りました。ボクを中心として、記憶を辿りながら、おふくろやおやぢの叔父さん叔母さん、それにボクのおじいちゃん、おばあちゃんの親戚とか、ボクの知る範囲での家系図でした。

ボクが生まれたのは1946年4月です。いま現在住んでいる場所で生まれたといいます。いまボクが住んでいる家屋は、おばあちゃんが住んでいた家屋の隣です。おやぢの母親の実家で、ボクは生まれたのです。おふくろの母は、末っ子を身ごもっており、おふくろの世話ができないので、おやぢの実家で生まれたのだろうと、推測しています。

ボクが幼少の頃、小学校へあがる直前まで住んでいた所は、中京区壬生馬場町。おふくろの父が烏丸六条で和漢薬店を営んでおり、今流にゆうなら、ボクの親は、そこで和漢薬壬生支店の店長だったわけです。おやぢの母、つまりボクのおばあちゃんが、その店を一度だけ訪ねてきた記憶が、おぼろげにあります。黒いマントを着た男のヒトが同伴していて、そのヒトのことを「おっさん」と呼んでいたんです。その「おっさん」と呼ばれたヒトが、おやぢの父親だったと、思うわけです。墓の持ち主だったヒトです。ボクからいえば、父方のおじいさんにあたるヒトです。

家系図のなかで、父方のおじいさん、それにボクのおばあちゃんの系図は、そこでぷっつり切れてしまいます。ボクを可愛がってくれることになるおばあちゃんの素性は、いまのところ全くわからない。何処で生まれたのか、何処でおっさんと知り合ったのか、名前はセイといい、カタカナとひらがなが読み書きできただけのおばあちゃん。いわば何処の骨とかわからない素性の孫が、ボクだったってゆうわけです。これが父方の家系なのです。


自分というかたち-5-
2006.8.26
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母方の系図ってのはどうなんだろう。おふくろの旧姓は井上、ボクから見ておじいちゃんの姓名は井上安蔵。烏丸六条に井上和漢薬店を営んでいました。たしか丹波の出だと、おふくろから聞いたように思うが、丹波笹山近くに住んでいたおふくろの叔父さん叔母さん、苗字は岡沢と名乗っているから、ボクのおばあさんの出生地だったのかも知れない。おふくろの生年は大正12年(1923年)だから、おばあちゃんの生年は、1900年ごろと推定できます。

おふくろとおやぢの結婚は、ボクの生年月日から推定して、昭和20年(1945年)まだ戦争が終わっていない時だと思います。仲人を介しての結婚だったと聞いているから、何かの縁あって所帯をもったのだ。新居は、壬生馬場町、朱雀第一小学校と壬生車庫の真ん中あたりの向い側、市電の走っていた道路に面した花屋さんの後の家屋だった。おやぢもおふくろも、市井の生活者という無名の男女だった。おやぢは建具職人で、おふくろは理容免許を持っていた。戦後の1946年に生まれたボクは、小学校に入るまでの7年間を、壬生馬場町で過ごすことになります。

自分というかたちを、ボクが知っていくための家系を詮索しているのですが、こうしてみると、ボクっていう身体の存在の輪郭が、おぼろげながら形作ることができるように思います。父方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性、母方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性。ボクには父がいて母がいる。父と母にも、それぞれ父と母がいた。ボクの祖先の直系は、おぼろげだけれど、そこまでしかわからない。それも記憶を辿ってフィクションしているにすぎない。

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