2006.1.8
門を開ける-1-

教家を目指す者は、門を開けなければならぬ。ボクは、このことを命題として捉えてきたけれど、門の向うは異端とゆわれる領域だから、躊躇してきた。さて、その門を開ける当事者となるかどうかの選択を迫られているのが、現在のボクだ。

1978年から1984年にかかて、ボクは釜ヶ崎において写真を撮った。その場を軸に文章を書いた。いま思い起こすのは、このときのボクのあり方だ。ボクは、門を開けようとしたのだと思っている。既存秩序のなかで、政治的、経済的、社会的な世の枠組みのなかで、そこから逸脱することを試みた。

特殊な場所、そこは特殊な場所だ、という認識が世にはばかる。一定の線引きをしようとする秩序とゆわれる領域から、あたかも逸脱した場所であるかのように認知させる。いわばその特殊とゆわれる場所を、秩序の領域に組み入れること。このことが、芸術家や宗教家の仕事だ。

いまやテーマは、ヒトの内面のことだ。秩序に封じられてきた内面を、秩序の領域に組み入れること。それはセクシュアルな領域である。フロイトが云い、ユングが云い、ベルメールやモリニエが手がけた芸術表現があり、まだまだ特殊領域であるSMの世界であり、男と女のセックス現場であり・・・といったセクシュアルの領域へだ。門を開けた向うには、そういう領域があるのです。

2006.1.21
門を開ける-2-

門を開けた向うにみえだしてきたのは、こころの曼荼羅です。
おとことおんなが入り乱れ、静かな感情と乱れた感情があり、おとこがおんなになり、おんながおとこになる。そうして動物のうごめく内臓があり、叫びが聴こえる。
整理された世界が、ぐらつきはじめて、混沌の海に投げ出されていく。遠くで海鳴りが聴こえる。遠くで山彦が聴こえる。幻覚幻聴、全て夢幻だ。

夢を見る。理屈の通らないストーリーだ。渦巻く記憶が再編成されて、夢幻のなかに組み立てられる。これを無意識からの呼びかけだとすれば、その深淵はやはり混沌なのだ。色がある。赤い色に黒い色。それに白がある。色の無限ディテールのなかで、情欲を覚える。桃色遊戯、蒼ざめた馬、オレンジやピンクがあればブルーもある。グリーンもある。色のディテールで、感情が揺すられる、情が動く。理屈を抜いた内面の世界は、情と欲、感じることと前へ出るエネルギーしかない。

いま門を開けて、なすべく作業は、この混沌を整合化していく作業に他ならない。アートが、及びアーティストが、これから向かう道筋は、この混沌を具体的な形象やイメージに仕上げていく作業なのだ。肉体のシンボルを形象化しイメージ化するか、肉体そのものを形象化しイメージ化するか、それの組み合わせの問題だ。

アートが様々な意匠を着せて飾るのは仕方がない。しかし、その根源は<知>ではなくて<情>である。知は意匠でしかない。知のゲームが全てではない。いうなれば、アートは、徹底的に情のゲームに徹するべきなのだ。知の領域、世の意匠の領域をむしろ排除して、情の領域を前へ押し出していこう。デジタルネットワークの領域で露出している個人の情を、裏とか表とかの判断基準の線引きではなく、一体のものとして捉えるべきなのだ。表が裏に、裏が表になっていく、表裏一体のものとして捉えていく必要がある。デジタルネットワーク時代の、リアルとヴァーチャルという問題は、じつはパラダイム変換の途中でこそ解決の糸口がみえるように思われる。

2006.1.24
門を開ける-3-

情の世界を考える。この考えることじたい、すでに情ではないのだけれど、この世は、なにかとゆうと言葉に置き換えなければいけないし、言葉を紡いで、読み物にしなければならない。特にこの枠組み、ここ、は文化&芸術批評なんてことを標榜してるんだから・・・。

区分のひとつに「男と女」という分け方がある。じゃあ、情とゆう領域でみると、これは何処でどのように分けられるのだろうか。この問題に、もう何年も前から突き当たっている。で、いま思うことは、シームレスなんだ!という思いです。世の中を区分したがる習性のなかで、あえて区分するとすれば、これはシームレス、区切りが無い・・・。そのように思う。

ボクの意識のなかに、男性と女性がある・・・。で、身体は男だから、身体とともにある意識が向く興味は、女性の方へ、である。そう思って、幼年のころからのボクの興味のありかたは、世に区分される、女的なほうに向かっていたと思われる。子供の遊びは、ボクらの時代、明確に男女区分があったようだ。その女の遊びに興味が向いていた。めめしかったのだ。

いまもそうだけれど、たとえば被服の肌触り感がある。男物のごわごわ感より、女物のしっとり感が好きだ。木綿にしろ羊毛にしろ、柔らかい感触が好きだ。女家族だったから、洗顔クリームとか、シャンプとかリンスとか、その他諸々を女性ものを使っているけれど、違和感は全く無い。むしろ整髪料など男物を使ったことがあったけれど、全く違和感を覚えていた。

これっていったいナンなのだろう・・・。そうしていま、情のレベルはシームレスだと認定する。ヒトの情に、幅があって、世の中の区分の、より男よりとより女より区分がなされて、そのヒトが、どの位置にいるのかというのがあるだけのような気がする。曼荼羅には全ての情が含まれて、ヒトの曼荼羅にも全ての情が含まれているのではないか。その全ての無意識から、意識されるもの、これが、そのヒト性質・性格としてあるのではないかと思うのだ。

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