2006.1.28
芸術ということ-1-

芸術ということを考えてみます。考えるに当たって、単に芸術とは何か、という問いをしても漠然として、当を得ないように思われる。そこでいくつかのフレームにわけてみる。目的は、現代社会の枠組みのなかでの芸術作品、芸術行為の大勢現状を把握してみること。そうしてそこから導き出される将来的あり方を考えてみるのです。

全てが商品として価値化される大勢があります。だから当然、芸術作品と呼ばれるモノも商品価値のなかに置かれています。絵画も彫刻もしかり、現代美術の作品群においてもしかり。つまり商業資本の枠組みのなかで、商品取引の対象となるモノでなければならない、といいます。

でも、作家行為つまり芸術行為は、違うといいます。芸術行為は、商品経済の枠組みの外だ、という理屈です。たしかにそうでありたいという願望はありますが、実際の現場はどうなのでしょうか。自分の作品を世に出したい。作品を制作し、お金に替えることで実生活を支える。世に出すためには、なるべく高尚なるものの裏づけによって、商品価値を高めたい。

ここで云えることは、商品価値を生み出す仕組みに自分を置くことで、それを作家行為、芸術行為の目的としてしまう傾向があるということです。ここでは、この傾向を作り出す経済構造の話ではなくて、それ以前の位置において、芸術行為というものを捉えていきたいと思うのです。

つまり商品としての価値を高める戦略を抜いたところで、個の営みとしての創造行為を、捉えてみたいのです。作家と呼ばれたい願望を構成する、作家の社会的目的とは違う位相での、考察なのです。それは、大きな基準となる社会価値とは別の価値軸に、もう一つの価値軸に足を置いた立場での考察となりたいのです。

2006.2.16
芸術ということ-2-

近年、自給自足ということが話題になります。この自給自足の実現は、貨幣経済からの独立、あるいは商品ではない概念のなかで、食料とか什器類を生産し、自分のものとしていく構造です。
この発想と具体的な実践活動が、随所で取り組まれつつあります。その文脈において、芸術ということを考えてみるのが、目的でもあります。

商品価値から逸脱する芸術作品は、すでにその前提となる商品経済を持たないから、もはや芸術作品とは呼ばないほうが良いのかも知れません。
自給自足においては、生産と消費が統合されるものです。生産とは、モノを作り出す工程です。おおむね食料と生活道具を作り出すことを意味します。でもここで、ヒトのヒトたる由縁をいうならば、身体を養い安定させるために、食料をつくることと同時に、心を養い安定させることも必要になります。

衣食住足りて芸術がある。そのような捕え方ではなく、衣食住と芸術は同じレベルで、ヒトには必要だとの考えです。では、ここでいう芸術とは、いったい何なのか。
ここで芸術とは、ヒトが生きるエネルギーの中にある、あるいは生きるための、心のエネルギーの発露であると捉えます。このことを自給自足の枠で捉えると、自分の生存のための行為であると導かれます。

自給自足は、一人でできるものではなくて、一定の集団によってなしえるものだと認識しています。でも、今の世において自給自足を考える、このこと自体、すでに思考の産物であり、それに基づいて実行していくものです。ここには、個の自立が必要になります。ということを援用すれば、芸術ということは、かって洞窟で描かれた絵画とそれを成すヒトの心とは、違ったものとなる。この前提として、ヒトの心は進化する、という捉え方があります。

2006.4.28
芸術ということ-3-

ある物事を極めていく道筋の結果、出来上がってくるものがあります。経済効率を優先する道筋ではなくて、ある種、経済効率から遠ざかり、合理性から遠ざかり、好奇心とか情の動くままに、作って光っていくもの、まあ、いま思いつきで、言葉を連ねているんだけれど、そんなもんを<芸術>の範疇にいれようかと、思います。

そんな理屈とは関係なしに、やっぱりこころときめく気持ちを大事にしたいと思います。今年も、桜を写真に撮った。カメラっていう道具を使って、写真を撮った。デジカメです。そりゃ便利なものですね。取材して持ち帰って、パソコンに繋いで、すぐさま画像をみることが出来る。ここで、芸術の価値についていうと、手間をかけることで価値が決まるものではない、と思っているわけで、絵具を使った絵画の方が芸術性が高いなんぞは、毛頭、思ってないわけです。

芸術ということには、スキルが要求される、これは認めたいんです。ツールを巧妙に扱うということです。そうしてそのツールが最良の効果を発揮できるように使いこなしてあげること、これがスキルです。
でも、これは外枠であって、大事なのは、光る心、この<光る>ということです。情の発露として光っていることが必要だと思うのです。

光り方は様々にあると思います。花火のような光り方があれば、宝石のような光り方もあれば・・・、心がときめくこと、キラキラときめいてくること、これが条件だろうな、と思うのです。光輝く心、作者の心内とは、この感情に包まれることかな~と思うのです。

なんだろ、桜の花が満開になっていくとき、心ときめいて、うずうずだね。それで、このうずうず気分のままに、写真を撮ってあげた。その結果、満足いくように撮れたわけではないけれど、それなりにうっとりしてしまって、心、光っている感じ。これだね、と思ったわけです。これが芸術の心だな。

2006.6.6
芸術ということ-4-

芸術ということの中味は、いったい何なんやろ。あるいはどういう状態をゆうんやろう。ボクは、こんな疑問に苛まれているわけです。芸術作品ってのがあります。形になったもの、存在するもの、美術館であれ、路上であれ、目に見えて存在するもの、芸術作品とゆうときには、内容はともあれ、このように言えるんですけど、単に「芸術」ってゆうときの内容は、何を指していえばええのやろ?まあ、こんなたわけた疑問に苛まれているわけです。

そこで、芸術の中味を考えてみて、文章にしてみたいわけです。とゆうのも頭のなかでブツブツ言ってみても始まらんわけで、言葉で喋って伝達するって手もあるけれど、それでは形に残らないから、文章にして定着させるわけです。こんな形式を評論とか批評とか言うわけです。だから、ボクは、ここで評論をやろうと思っているんです。

ボクが思うに、芸術という枠は、心の動きだと解釈したい。心の動きには情が伴い、情動のなせる自意識。この自意識の伝達、つまりコミュニケーションのプロセスじゃなかろうかと思うのです。このプロセスを、見たり読んだりできる形に仕上げていくことで、芸術作品となって結実していくのではなかろうか。そのように考えるわけです。

芸術は、ひとり単独で成立するか、といえば成立しないと考えています。情動がなせる自意識が、他者に伝達される契機を含み、そのことを自覚的に捉えて、関係を紡ぎだす。つまり、コミュニケーションの手段だと考えているのです。芸術の基本概念には、このことがなければならない。そう考えています。

とゆうことは、他者に伝達を意識しない情の動きは、芸術以前のものであって、芸術か否かの境界線は、他者を意識するか否か、ということなんだろうと考えているのです。他者を意識して、何かを作りだそうとすれば、それが全て芸術かといえば、それはウソで、そこにはコミュニケーションの成立と、情動のパッションが伝わらなくてはダメだと思ってるのです。

他人がどのように思おうと、知ったことではない!なんてことを、作品提示の段階で言う人がありますけれど、これはボクは認めないんです。他者と共有し、情に感じ合う関係が成立することを、ボクは芸術の基底をなすものだと考える。ここですね、ボクが思う芸術の基本形。基本スタイル、基本プロセス・・・。

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