2006.3.15


花はなんといってもやっぱり桜がいい。つくづくそう思うようになった。そういえば、桜の季節には、桜だよりが報じられます。桜前線北上中なんていって、南の地域から順次北上して北海道まで・・・。

けっこう素直な人になったみたいなボクなんだけど~なんていってあげたいお年頃になったってゆうわけでしょうね。桜とか牡丹とか、かってはこんなお花を愛でることを嫌がっていた自分があったけど、今はもう違うんですね。素直にこころの中を見つめてあげると、感じちゃってるんですね。

写真を撮ったり文章を書いたりしてますけれど、その根底のこころの表れ方とでもいうようなことに興味を持ち出して、花、それも和風な花に関心を寄せているんです。桜なんてその最たるもので、なんだかんだと云っても、見てると感じちゃう。そういう花です、桜とは、ね。


 800kyoto0904030013

2006.4.9
桜を撮る


桜の季節に桜の写真を撮る。なぜなら、写真はそのときの光景しか撮れないからです。これは写真の宿命といえるものです。それでボクは、この三年、桜の季節に桜の花の写真を撮っています。

撮影にあたって桜の撮り方、つまり桜のなにを撮るのか、桜を撮ることでなにを云いたいのか、なにを表現したいのか、ということを考えます。ボクは端的に、桜は情だ、と捉えています。人間の情、ヒトの情、ボクの情、つまり感情ということです。

写真表現とは、社会の関係図を表現する、つまり社会の構造とか社会における個人のあり方などを示唆し、解きほぐし、関係を明確にする行為です。でもそれだけではありません。そこに作家個人の考え方や感じ方というものが組み込まれるのです。この図式のなかで、写真はおおむね、社会の関係図を理知的に明確にしてきたと考えています。

そのような写真表現の現在地点は、社会構造を理性的に図式化することを超えており、個人の社会構造の解釈を提示することを超えており、あるいはこれを含みこんだうえで、個人の<情>の具現化なのだと思われます。桜取材におけるボクの写真の構図は、桜だけです。桜の群生、桜のクローズアップ。光と桜の花だけで構成する写真です。

ボクの情が、桜の花を見て揺れ動く。妖しく艶やかに色めかしく揺れ動きます。セクシュアルな情が揺り動かされているのに気がつきます。この心の揺れ動き、つまり情が動いている様を表現したいと思っているのです。


2006.4.20
再び桜について

ボクの桜の取材地は、京都と金沢です。いずれもボクの生活空間においての撮影です。京都は、平野神社、法華宗本法寺、今年は千本釈迦堂の桜も撮りました。金沢は、別荘の庭に植えられた桜です。

平野神社の桜は、子供の頃から見慣れたというかよく遊びに行った場所としてあった場所の桜です。法華宗本法寺の桜は、ボクのお墓があるお寺です。千本釈迦堂の桜は、子供の頃に遊んだ場所です。金沢は、いま別荘として使っている家の桜です。

三年前の秋にデジカメを手にして、再び写真撮影をしているわけだけれど、撮影場所は、自宅とその周辺、それに、かって思い出を作った場所。それに限定しているんです。だから、桜の取材地は、子供の頃から親しんだ場所である平野神社と千本釈迦堂となるのです。本法寺は、ボクの墓所だから、近場すぎる場所です。金沢の桜は、苗で植えた桜です。枝垂れ桜、ソメイヨシノ、山桜、ボタン桜などです。

生活周辺と記憶の光景。これがいまボクが撮影する場所です。桜を撮る意識のなかに、東松照明さんの桜作品を思い起こしています。かって取材に同行したとき、彼の作風は桜一輪ではなくて風景を含む全体を撮る手法だった。その背後に社会性、桜が置かれた社会性とでもいえばいいでしょうか、それが撮影の本質だったようです。ボクは、そっから派生してきて、桜に向き合うボクの情感に絞っているわけです。

老いぼれていくボクの身体と、桜の初々しい美しさへの憧憬の具現化、とでもいえばいいかと思っています。憧れとしての若さ、そこにエロティシズムを感じるわけだけれど、そろそろ老体の感じる嫉妬心なのかも知れない。


2006.5.8
ぼくは健康な人間だ・・・・


ぼくは病んだ人間だ・・・・、で始まる小説があるわけですが、ボクがいま思うのは、ぼくは健康な人間だ、と思おうとしていることなんです。
多少でも文学を齧ったヒトなら、そうですね、近代文学なんて、病気であるわたし、なんてのが底流にあって、やっぱり<病む>というのがコンセプトだったわけです。
地球が病んで、戦争があって人間が病んで、からだの病気があって、精神科の病気があって、こうしてみると、まわりは病みだらけ、っていうイメージです。

でもね、まあ、だから、発想の転換、ぼくは健康な人間だ、と宣言したくなる気分なんです。病み文学から健康文学へ・・・。エロスもカロスも、表現のテーブルに乗せることは、健康だ~!って宣言したいんです。
そのためには、ボクという人間の、闇、ブラックホール、だとイメージされるものを、明るい場所に解き放ってあげないといけないんですね。そこで、ぶつかっちやうのが、モラルってゆう代物だってことも、承知のうえで、開放できないんかな~なんて思考してるわけです。ボクの地下室は、健康な場所だと思いたい、ですね。