中川繁夫写文集

2013年10月

自写像の論/試論-2-

<ピエール・モリニエへ>

私がこの論を記述していくことに至った直接のインパクトは、自らの姿を恍惚感覚とともに写真に撮り、自らの存在感を残してピストル自殺した、ピエール・モリニエ(Pierre Molinier 1900-1976)の写真を観たことに拠っている。私設の簡易スタジオで、女装下着ストッキングを着けて撮ったカラー写真。コラージュ写真とそれに先立つ絵画の群。それらの作品の存在を知るにつれ、しだいに私の内部で、その作品が私に突きつけてくる狂気とも云うべき「意味」を問い始めなければならなかった。

最初、モリニエの写真の存在を知ったのは、もう7、8年前のこと、渋谷のギャラリーで開催された写真展を観る機会を得たことに始まる。そのときには特に強烈なインパクトを与えられたという訳ではなかった。それは流行写真の一種といったような軽い知覚であった。しかし、その後、次第にモリニエの自ら写した写真が、なぜか気になってきて、その「気になる」在処を探ってみたい衝動にかられ始めた。

それは私が単身生活を送っていた日々、自分が自分の内面とダイレクトに直面していたときであった。密室と化した家での寝つかれない夜中、イメージがイメージを呼ぶなかで気がつくと、見動かぬ私の身体があった。またそれらのイメージが拡大し、昇華していくとき、自分が自分の内面の欲求を見つめると、そこには私の身体があった。

あるいは身体の一部である精神が病み、石を抱いたような重さに身体がこのまま蝕まれ、消滅していくように想像したとき、私は身体があることを意識した。自分の精神と身体を弄ぶことは、そのままタブーの内側に這入ることを自覚した。興味のイメージが具象物として模造男根の制作に及んだときには、私の愛玩物に恍惚感を覚えた。この感覚は、遠い昔、少年時代の他愛もない工作物を作っていたときの感覚と、同質のもののように感じられた。しかし私は、その精神の飛翔していく恍惚感覚を、イメージの内に認めただけで、再び数年が経過した。


これら密室の体験を思い起こすとき、私は私自身の少年時代の出来事、一人で熱心不乱に工作していた光景とそのときの感情の流れを、連想させるのだ。小学生の上級だったか中学生の初めごろだったか、不用になった真空管ラジオやゼンマイ仕掛の置時計を、まるで八重の花びらのディテールを一枚一枚丹念に、観察しながら剥がしていくように、徹底的に分解し、それらを構成する物資、石に巻かれた抵抗器のエナメル線やコイル巻のトランス、噛み合わされた時計の歯車の、内部まで細分化して壊した記憶。

公園や道端から拾い集めた木片や小枝、石や砂、木の葉や枯れ草などを組み立てて、オブジェとして構築していた記憶。中学生になったころには身体に着付ける装飾品に興味を見いだしていたようで、布、細い飴ゴム、紐といったような材料で、そういった類を制作するようになった。それらは多分に性交の場におけるイメージを暗示するものであったと、最近思うようになった記憶。

身体そのものの成長に伴なっていつのころからか精液放出が認められるようになっていたが、装飾品の工作物が多分に性そのものと関連していたようにも思われるのだ。そしてこれらの時間は、常に熱中しており、唯一、目の前にある工作物と私の内部に醸造されるイメージだけに、熱いまなざしが向けられていた。

そうしておぼろげながら、性の目覚めと同時に愛の目覚めを知覚した。おそらくこの少年時代の行動とそこから生じてきた感覚は、自分意識の起立、自我と呼ばれる認知、その初原のものとしてあるのだろう。

<欲求>

作家が作品を制作するとは、どのような契機から始まるのだろうか。まず私はこのような疑問を、私に向けて発した。ここで「作家」という言葉を冒頭に記したが、これは個人が作品を制作する意思を持ってする状態を想定している。

勿論、それは人間が意識(すること)を持ち、イメージ喚起を連携させることで別個のイメージを生み出すことができる唯一の動物であるという前提から始まっている。

「作家」というからには私はすでに教養文化に立脚したインテリジェンスが備わったレベルを想定しているが、論の行方は動物から人間へという考察及び本能として内在するものを抜きにしては展開できないようである。

動物は種の保存と生存のために行動する。この生存のための行動には「行動する」という意思が伴っているが、動物一般にはその行動によりイメージ喚起の内に結果を想定するということはない。

動物の行動は、本能及び経験による反射反応であるとされている。人間はこの動物としての反射反応を基盤として意識することを持ち、イメージ喚起と喚起されたイメージを認識する意識を個体内部で生成することができる動物である。

本能の範疇に由来する行動は、おおむね種の保存と生存のための行動であり、それはいくつかの欲求の、(生理的なもので行動欲求が起こる)カテゴリーに分類されるが、基本的には性欲と食欲のふたつであるようだ。

私は写真に特化した表現の領域に、本能の範疇がどのように係わってくるか、ということについて興味を持っている。これは自分をみつめる私自身の考察過程で明らかになってきた意識である。

おそらく意識化するイメージの連携により、かって見たものの像が脳裏に現われることは、本能的欲求が未分化であった人間生成期の太古、非文明の世界から、本能的欲求が「芸術」表現にまで高めることができるようになった現在まで、人間の作品創出過程には常にその背景に、あるいは根底で本能として認めうるものが、作用しているのであろう。

その人間の置かれた体制、その時代の同軸上の文化の総体に制約されながら、作品の質が形成されてきたものではなかったか、と考えている。体制の制約とは、その時々の権力構造から発生するものであり、許容と禁句との紙一重の狭間で、芸術行為は成立してきた。

あるいは人間の欲求は、この枠を超えて逸脱してきた。そしてパブリックに発表され、芸術として認知されてきた作品は、この限定された許容の枠内で、作家自身の生の在り方が問われてきたのだった。そうして、許容枠は絶えざる変質と拡大・縮小を繰り返し、拡大を成してきた。

人間あるいは私が、一個の肉体と感性を持った対存在としてあるとき、本能の根底から教養文化をふまえた感性と行動することの高みまで、さまざまな感情の流れとともに「行動すること」をとるが、この行動の範囲は、常に教養文化に密着しているようだ。しかし私自身には、おおむね人間には共通のものと思われるが、この許容の枠を突き崩す衝動または逸脱していくイメージを認めざるを得ないのだ。

私は、常にこのモラルを突き崩しにやってくる衝動の根底は何か、と問わねばならない。ここに未定形の宇宙の広さのような、暗闇の中の精神の混沌を認めるならば、この感覚は無限の深淵からの生理の本質、性的なるものとともにやってきているのだと云うしかない。

私の内側でのこの衝動は、直接に文化内部での既成の価値体系の解体欲求と、新たなる価値への組み直しを希求する衝動そのものである。

人間が知の集積の結果として形成してきた文明と、そこに内在する文化諸相の縁をみてみると、集団規範(社会制度内の慣習)に対して個の内部における集団規範逸脱部分を認めることができるだろう。当然、個の意識構造からくるイメージ喚起力は、文化が持つ諸道具を介在して、無限に拡張していくものであり、規範はこの無限の拡張に対して規制し、範疇化し、整列化させる。

規範はいつも、正常と異常あるいは異端、通常にはノーマルとアブノーマル、モラールとアンモラール、といった区分けを行ってきた(モラールとは、風土と解釈してよい)。文化が在るところでは、異常あるいは異端は、常にそのモラールの容態変化に対して、カウンターメロディーとして存在する。

また、モラールとアンモラールの関係は、権力によってつくられ、基本的に権力に抗する反権力の構造関係である。アンモラールは時として反権力としての様相を露呈させるので、そのつど弾圧される。モラールに内在するアンモラールは抑圧される。

私自身を振り返ってみるなかで、生い立ちの詳細を丹念に内省してみると、巷でそう呼ばれる思春期のころ、14歳前後から、芽生えはもっと以前に、それは母親の類似物としての意識であるが、同年代の異性を意識しはじめた。おとこは男らしく、おんなは女らしく、育てられる文化風土の中にあって、なぜ男と女が一緒にいることが特殊なことなのか。ことの最初の巷の囁き言葉を意識しはじめたころには、理解できなかった。

このころ私自身の感覚には、大人性と幼児性、男感覚と女感覚が混在し、それが未分化のまま、私自身のなかに混在していたように思われる。しかしその数年後には、私という「個」に対して巷の言葉と私へのまなざしとして、私に突きつけてくるモラール、風土の慣習に従順し、大人性そして男性としての巷にある外容をそなえてくるのだった。モラールの仕組みそのものから、私自身の制度として、そのように振る舞う生活実績を集積させていくようになった。

一方、連続する内面の過程を振り返ってみると、それは必ずしも外容どうりに枠づけられるものではなかった。いつも精神の在り様、あるいは感情の起伏は性的なもの(大人性と幼児性、おとこ性とおんな性、と対比したときの幼児性とおんな性)が未分化のまま、今日に至っているように思える。確かに大人(他者との関係における場の占め方)としてある在り方や、男性(社会制度の気候における場の占め方)としてある在り方により、他者のまえに存在するとしても・・・・だ。私の注目は、この性的なものが未分化のままある、と認めるその内容である。

<自分の発見>

本能としての性欲が私の身体を支配していることは、おそらく動物的なものとして万人に備わった感性と肉体の在りようと同様のものであろう。また「自分の発見」は最初、鏡に反映する姿をみて自分であることを自覚する習慣により、自覚されるものである。ここでいう鏡とは、肉体そのものの実体を映し出すガラス面の「鏡」であり、内面的には言葉をもって自分を映し出す「日記」あるいは記憶に刻み込まれたイメージとしての「像」である。

自己保身を身上としている人間にとって、自分が自分に抱く興味は、日常会話のレベルで言葉を交わす時においても、自分自身を深く意識することがないように、日常的には無意識の領域に属している。自分自身を内省する態度をあらわにするのは、イメージ喚起力を主体とする知的生産そのものである。自らを分析しえる能力は、社会の諸相を分析しえるトレーニングされた能力よりもなお、上層能力であるのかも知れない。

自分を自ら分析することは、一個の人間がその生の長さのなかで経験(直接体験と疑似体験があり、ここから派生する類推体験)したことによる自己の内部への記録と、そこから生じる「記憶」の呼び覚ましにより、断定を下していく過程である。こうして自分を客体化させることによって、自分のイメージ像に自分を置くのである。

ここに立ち現われてくる自分の姿、自分の顔、自分の肉体、あのとき着ていた服装、等々を認めるのは、自分の姿を鏡のまえで見た記憶と、それが自分だという認識の結果に他ならない。自分はたった一人では生きられない。自分の生の長さよりも長い以前に、母があった。そして父がいた。これは私の宿命である。人間が動物である限り、この種としての起源を乗り越えることはできない。そして自分を保守するという本能を持つ。自殺は教養文化の成せる高度な技のひとつである。

教養文化は生まれて育った風土と対関係にあるが、人間はこの風土が培ってきた文化と呼ぶモードのなかで、その文化を纏いつかせる。また自分を傷つけ殺しにやってくるもの、物理的には凶器として、精神的には狂気として、立ち現われてくるものには、身構えてしまう。

たとえばピストルを突きつけられ、肉体を傷つけられる。死へ一直線に向かう不治の病を宣告される。そして不意打ちをくらったように起こる恋愛。人間がみずからの記憶をとどめておく為に持った手段として、芸術そして写真。

写真とは、自分にとって、何なのだろう。現代の写真を手段に選ぶ作家及び批評家は、常にこの命題を内含させている。写真を現実コピーの手段として、あるいは遠い景色を身近なところへの移送手段として、というように、かって捉えられた写真制作過程と批評の歴史的過程における捉え方から評論する限り、「写真とは。自分にとって、何なのだろう」という疑問符はつけようがないが、現代の作家構造の在り様を問う作家態度にしてみれば、これは基本的命題である。

写真を撮ることは、自分の存在理由を問うことであり、存在の在処を求める行為である。セルフポートレイトという自分にカメラを向ける行為は、自分自身を相対化させる行為である。近代における個の自立が捜し求めてきたのは、つまり自分とは何か、という問いかけそのものであったと云える。

「自分は社会的存在である」という認知は。「自分にとって社会とは何か」という分析に立ち入る。社会とは目の前にある現実。そこは権力そのものの構造であった。

<内世界>

自分の内部は、この権力関係のない世界。ここでは自分が自分を観る構造と自分が社会を観る構造とは、相反する関係にあることに気づくのだ。この地平から、自分を取り巻く社会構造を引き合いに出して検証を加える。そこには自分を抑圧する権力関係と、それに従属するイメージの認知。

また目の前に現われる写真、あるいは私が撮った写真が、マス・メディアの従属物として、つまり抑圧する権力関係の権力そのものとして認知されるとき、写真家は自分の内部で、この権力構造との葛藤あるいは戦いを意識せざるを得ないのだ。

この葛藤は個を抑圧するものを洗い出し、問い直し、関係そのものを解体し、そこから新たなる関係を模索しはじめるであろう。権力関係を持った視点を告発する視点。そして自分における自分像の検証。既成の価値観によって歪められてきた自分像の発見。このイメージを問い直す作業が、自分に課せられた命題として、自分の内部に立ち現われてくる。

新たなる自分を、そこにイメージとして見いだすとき、被写体は自分自身となる。すでに「私」の価値基準は、これまであった価値基準とは相入れないものとなる。支配し支配される関係を断ち切り告発する手段として、それは存在する。


(shigeo nakagawa 1993.12.31)

自写像の論/試論-1-

彼の芸術の美徳は、いかに喚起力に富むものであろうと描かれたイメージのすべては意識の錯覚にとどまるべきであり、生活への積極的介入の水準まで達してはならないという法規を犯すことにある。(アンドレ・ブルトン「ピエール・モリニエ」)


<終わりのない旅>

自分を撮る。自分を記述する。自分を描く。人間は芸術の歴史において、その制作主体たる自分をテーマに、様々な意匠をまといつかせて自分自身を記述し、描き、そして写真に撮ってきた。私はこの人間だけに与えられた自己表現の一形態を「表現論」として、また作家の「作品生成過程」についての断片をこれから記述していきたいと思う。

ここに記述されていくメインテーマは「セルフポートレイト」の全体を把握していくための一考察である。作家あるいは写真家が自分自身に向ける「まなざし」に対して、いくつかの視点から論究していこうとする試みである。

この作業は、直接には私自身の経験としてある私の記憶のイメージと、その記憶のイメージから生じる現時点でに新たなるイメージを、言語に置き換えていく作業である。これまでにも写真を見つめる機会があった私にとって、現在、この作業を進めていくことがいかなる意味を持つのかは、終わりのない円環を言葉で埋めていくことで、徐々にだけれど明確になってくることと思われる。

私は、新たなる写真の視座を求めて、エンドレスゲームを演じ続けている。かって私は「写真への手紙」と題する覚書をディスクールし始めた。ここに現わされるこの「セルフポートレイト論」ノートは、その覚書のひとつとして存在していくものである。

永遠に未完の覚書。私は旅に出たのである。「知識の羅列は無意味である」という定理をみずからにかせて、言葉によって「深淵の感性を呼び起こすためのイメージ化」を目論んで、写真の定理に迫る。

最近、写真によるセルフポートレイト作品を目にする機会が増え、また写真家の作品制作および発表の傾向が、よりプライベートな、家庭内あるいは同居生活者といった、これまで写真「作品」として呈示されてこなかった範疇にある私生活な部分で、撮影された写真が公開されるという現状がある。

私自身としては、同種のテーマとメンタルを内在させている私自身の問題として、この傾向を整理しておかなければならない必然に迫られていると云える。

セルフポートレイトの在処は、作品制作態度として、非常に際立った私性の極み、アンモラールとして私はとらえている。特に最近には、自分を被写体とする作品が多く発表されており、これまでの写真の歴史上には無かった写真群として注目されつつある。

しかし批評としては、写真の社会的関係性やフェミニズムの立場からの評論に終始しており、まだまだ基本的でなお全体的な捉え方が定着するまでに至っていない。

またこの現在にあって、みずからが被写体になることで、自分の置かれた位置を確認する行為とか、写真作家にとってみずから演じることで、被写体とのコミュニケーションが不要など、表層の実利的理由だけで論じきる視点からは、批評の展開発展は生じ得ない。

またこの傾向を作家自身がファッションとしてとらえ、その方法と技法のみを展開し、流行の表層を描写していくことに至っては、そこからは何の価値も生み出さない。

こういった様相がセルフポートレイトをとりまく背景の現状であろうと思うが、私はもっとグローバルな視点から、人間の本能から派生する表現の作家態度としてとらえる必要があると考えており、そこには作家の「生」の在り様を看てとらなければならないと考えている。

何よりも「芸術」あるいは「写真」と「私自身」の本質を極める行為に、この作業は在る。私のイメージの連なりとしての思考の断片を、言語でもってディスクールしていく。また、この行為は、私に与えられた私のセルフポートレイト創出の試みである。

<磁場>

かって、絵画における風景画・肖像画の創出や、音楽における宮廷音楽の創造は、権力(者)の所有欲や支配欲を満たすための一手段であった。また制作者はおおむね、権力(者)に従属しており、権力(者)の欲求を満たすことが第一義としての意味をもった。

この構造は、人間社会の細部で、それぞれの階層や人間関係の内部にまで、権力による支配関係を成立させた。そして人間が国家の形成と、それに内在する文化の創出及び享受のための構造を創った必然的帰結として、権力関係を内在化した文化を形成し、身につけたものとしてある。

おそらく古代には、この原則的支配関係が成立し、現在においてもなおかつ人間社会の主流としてある。またおおむね近代以降に現われる、批評としての論は、権力関係を自明の理として組成されており、それぞれ固有の文化内部での価値体系を構成している。

唯一、権力関係を持たない関係とは、自己内部における自分のイメージと、自分をこのようにして在らねばならないものとして喚起させるイメージとの関係であろう。私は、私内部での、この関係に注目する。この関係は権力関係ではなく水平関係、磁場あるいは波紋の関係とでも云えるであろうか。人間の新しい関係を考察する基本的な位置関係として、私はとらえる。

表現(作品制作という限定ではなくて)の精神史を振り返ってみると、それは個における自己表出過程の歴史であった。特に近代以降の芸術は、権力構造の中にあって「個」がテーマとして浮上してくる過程として、とらえることが出来る。

「個」がテーマとは、所有関係が明確になることである。近代は肖像画が描かれ自画像が描かれる時代となった。これは「個」の自立、つまり自我の目覚めとともに発生してくる絵画表現の一形態である。自画像には画家自身が自分を描くことで自己の存在を知る、あるいは自己を所有する認識の手段として、つまり自分を見つめ自分を解読していく行為として、その技法が発生してきたと云えるだろうか。

レオナルド・ダビンチに代表される西欧ルネサンス運動は、この「個」つまり自我の問題をテーマとしているし、文学におけるロマン主義からフローベルの自然主義へ、絵画における印象派からゴッホらへ、それぞれに個の自立と自己意識への洞察を中心として他存在、あるいは社会的風景を考察していくこと、に比重が置かれてきた。肖像画と自画像の技法確立過程は、個における自我が社会全体のテーマとして浮上してくる過程であった。

自分を見ることは、自分の社会的存在を認知することである。画家においては拠って立つ画家自身のステータスシンボルとして自画像が描かれた。権力構造の中にあって、自画像の存在価値は、画家の個人的なメッセージとして、権力構造への批判を描くということにつながるのであろうか。たしかに外部に対して自画像は、権力醸造のなかに対置させる自分意識の発露として存在することになる。

ところで描く自分自身の内面としては、どのような構造を持ったのであろう。あるいは感性の在処は、どのような風景であったのだろうか。そこには権力関係の介在しない自己対自己。つまり自分が自分であることを見つめる認識作業として、その行為が成立するように考えられるのだ、が。

1839年に写真術が発明されて以降、肖像画は写真のテリトリーとなり、写真術によって有名無名の人々のポートレイトが撮られた。ダゲールやタルボットやバイヤールなどに代表される写真創世記の仕事。20世紀初葉のステーグリッツにおけるオキーフのポートレイト。自画像、セルフポートレイトとしては、カニンハムやマン・レイなどがその痕跡を残している。

写真が撮りうる被写体は、抽象化されたものではない生身の像である。現代社会における私自身のつくられ方というと、マス・メディアから流されてくる画一の情報による、ステロタイプ化された私自身となることに尽きるだろう。こういったなかで異端になることは狂気である。

写真の現代の状況について、私はかって次のように記したことがある。
「問題は、こうした現在の私たちをとりまくところの商品価値としてしか存在しえない諸々の「もの」たちの深部にある。不可視の状況を創りなしている現在とは、こういった商品群に幻惑され尽くしている私たち自身が、私たち自身の内部の構造を問いかけられないことによっているのだ。」(現代写真の視座1984)

ドキュメンタリー写真のゆくえとして、写真が問題にすべき質は、個人の内面の構造を明らかにしていくこととしてあった。マス・メディアから流されてくる商品価値としての「もの」に取り囲まれた現状は、ステロタイプ化された人間を作り出すこととなった。こういう環境であるがゆえ、写真家はまづ自己の内部葛藤を獲得しなければならなかった。

写真家の視点が内部葛藤の現場から外部世界へ向けられたとき、写真表現の質は全く新しい形で、意味を組み替え、イメージを変換して、新たなる問題提起がなされてくるのだと想定された。

<セルフポートレイト>

1980年代以降に現われるドキュメントの潮流のひとつとして、セルフポートレイトによって私と外世界との位置関係の組み直しを図る視点がある。セルフポートレイトとして、自分を撮り、発表する、という写真の在り方をつかむ方法としてである。この在り方は、これまであった写真の価値の在り方を尺度としての計測では、価値の与えようがないものとしてあるようだ。

たとえばシンディ・シャーマン(CINDY SHERMAN)が、彼女が育った風土としてのアメリカの記憶を、彼女自身のの記憶とダブらせて呼び起こしながら、中産階級のレトリックを暴いてみせるフィルムスチールからの引用で、みずからがいつか観た風景を演じてしまう演じ方は、おそらくシャーマン自身の、豊かさのイメージをふりまいたアメリカという存在の場の、確認作業に他ならないであろう。

あるいはナン・ゴールデン(NAN GOLDIN)がみずからの生活の場、彼氏との愛憎関係の場をも含めて、フィルムに収めていくとき(写真集 THE BALLAD OF SEXUAL DEPENDENCY 「性的依存のバラード」として出版された)、そこには明らかに生活の心理採集、つまり風俗記録の終局にまで至っているように見える。

それらの写真作業が引きだしたものは、現代アメリカ文明の心理(内在者として生活する生活者自身の精神の襞)そのものであると解釈できる。このようにして現代写真におけるセルフポートレイト及び生活空間のドキュメントは、比喩と隠喩をはらみながら、私にその在処を指し示してくれている。そしてそれらの作品群が、多分に「セックスあるいはセクシュアリティー」の問題を、根底から彷彿させるものであることを指摘しておこう。


写真への手紙 覚書

透明な写真/試論-2-

<無垢>

かって自死した若いビデオ作家Sの足跡をたどってみる。彼女は共に生きる時代の中にあって、人間の幸福とはどのようなものだろう。あるいは人間が幸福な状態とはどういう場面なのだろう、と必死になって考えていた(イメージを喚起し想像の中に生きていた)ように感じられる。

Sとの最初の出会いは、私の初個展を見に来てくれて、その頃はまだ二十歳前で、感性豊かな少女、といったように見えた。Sらはその頃、時代に先駆けビデオ制作グループを結成していた。数年後には会社組織にまで発展させていたけれども、おおむねSが夜に稼ぎ出す資金でグループを維持していた。

Sは釜ヶ崎に生活を営む人々に興味を示し、同化しようとするほどに深く傾斜していた。当時放送局取材で使う本格的なビデオカメラを回しはじめていた。Sの内面のなにが共鳴したのか、取材の現場では、理屈というよりその最初から感性のおもむくままに、明朗に立ち振る舞った。若い世代のSは、かってあった既成の枠組み、釜ヶ崎を政治問題としてとらえること、の外から記録を執拗に試みることによって、そこから排除されるのだった。

「わたしアホやからようわからへん」と私の前で幾度か洩らすことがあったが、執拗にビデオカメラを回し続けた。政治の理論武装でもって事に対処しようとする運動勢力から、その都度、肘鉄を食らわされながら、S自身が共鳴する場面と対決していた。

延々と続く組織の乱闘シーンが無秩序に記録され続ける。
公園に佇んだ初老の女性の独り物語る生活シーンが記録され続ける。
ゴミ箱の残飯を犬のように物色する労働者の光景が・・・・・・。
暮れる夕焼け空を見てなにを感じるか。
聡明なブルーの空を見てなにを感じるか。
たんたんと流れる雲をながめてなにを感じるか。
病み傷ついていく感性を、感性のままに受容し向き合う。

出会いから数年経っていた頃、何処かで、ほんのしばらく、ふたりだけになったときのこと、何とはなしに「最近、美しいものがようやく、本当に美しく見えるようになった、と言わはったね」とだけ、ぽつりとSが私に言った。共に釜ヶ崎取材を経験し、現場での苦悩したことに裏打ちされたなかで、Sも苦しんだのだなと私は思った。

その冬、私は東京へ研修で三カ月間不在。春に帰ってきてしばらくすると、Sがちょっと変だ、という噂を耳にしたが、冬以降再度会うことはなかった。私の個展開催中にひとり京都へきて、私は会場に不在で会えなかった。

その数日後自死した。直前にテープを回し、残されたホームビデオには、自宅でおばあさんと一緒に、風呂に入って会話する。おばあさんの背中を洗う・・・・・・。そして自分の姿の一部始終が記録されていた。

Sのシンガーソングライターとして歌う声がどのような音色をもっていたのかを聴く機会を逃してしまったが、私の手元にはレコードジャケット用にと撮ったポートレイトが唯一残された。

Sもまた、自死の直前に恍惚状態(自己陶酔)の自分を残した。ドキュメントが自分の内側を見つめることから始まり、みづからの視点を被写体と共有する。同じ地平に置く。みづからの内面に取り込んでいく。このことによって表現者となっていく。この時代の要請とスタイルを体得してしまったのだった。

時代は春へと飛翔していく。Sはみづからが育まされたこの世の美を解体しつつ、みづからの美をその精神の流れの中に育んでしまった。それはあたかもビルの屋上から可憐な花が咲き乱れる地へ舞い降りたかのようだった。

私はいま、それらの日々の出来事を語っておかないと、このまま消えていってしまうという、そのような幻覚に襲われている。人が病み傷ついた人と向き合うことは、自分の病み傷ついている精神を、その照り返しとして視ることに他ならない。

崩壊していく目の前の人にカメラを向けシャッターを切ることは、直接に私自身の崩壊につながる。新しい感性の発見は、歓びとともに「生」の理由を根底から問わせるものだ。生の希望と同時に死の誘惑が、荒涼たる部屋に忍び寄ってくる。季節は再び冬へ、冬の旅。

カメラを持つ手の前に立ち現われた被写体となった人々。そのひとり一人のこころの優しさと、優しさゆえに病んでしまった精神。彼らの内面へのまなざしは、自分自身へ向けるまなざしであった。肉体を超えて透過していく精神の、ともに滅びようとする肉体に向かう精神。私の手には、唯一カメラがあった。

<透過する行為>

写真が向き合う現実は、いつも自分に向かう鏡としてある。パガニーニのバイオリンの音が私に迫ってくるのと同じように、ベートーベンのソナタが射る和音の一つひとつ、あるいは連なりが、私の胸に突き刺してくるのと同じように、一枚の写真が私の感情の深淵を掻きむしる。

そのような写真の在処を探してきて、私はとても遠いところまで来てしまった。青い鳥を探してきてこの夏。それにしても透明なブルー色に、私は出会ってしまった。夏になるといつも気になる光景がよみがえる今年の夏は、ようやく青い鳥を探しあてた感情にこころがふるえた。

小谷泰子が採った鮮やかなブルーの色調を満たした写真は、私の感性に、ようやく来たるべき処まで来させてしまったようだ。セルフポートレイトを撮る。カメラを扱う作家の誰もが一度や二度は、自分の身体に向けてレンズを向けるものであるようだとしても、これほどに透明なイメージを私に与えてくれた写真はなかった。

小谷泰子にとって、その撮り始めの最初から、被写体としての興味は自分であったという。彼女のこの写真行為の在り方を知ったとき、私は幻惑の目眩を覚えた。写真がこれまで持ち得たテーマは、常に時代に内在する権力の構図を背景に撮られてきた。

一枚の写真に表される被写体の構図は、こうした時代の文化が内在させる位置関係。この関係は写真家が立脚する被写体との位置関係とその視点が、存在した。しかし小谷泰子が示す<写真の構図>は、イメージそのものである。

作家と作品と鑑賞者の位置関係は、あたかも磁場のようでもあり、また水面に広がっていく波紋のような関係とでも名付けられるだろうか。私にはそのようなイメージが沸き起こってくるのだった。

私は、この小谷泰子の透明なブルーのイメージから受けたインパクトについて、振り返って見るとき、私はそこに私の遠い記憶のタブローを甦らせるのだった。屍朽ちて風化し土に還る。恐らく私の死者たちがそのタブローに甦っている。

私の解体された美は、ここに新たなる美となって、甦っているように感じられるのだ。透明な視線。透明な肉体。透過する光は、私に、写真の新しい関係を示唆する。

   (Shigeo Nakagawa 1993.11.29)


透明な写真/試論-1-

アーバスの作品でもっとも心を打つ面は、彼女が芸術写真の一番迫力のある計画のひとつ<犠牲者や不運なものに眼を向けること、しかしこういう計画につきものの同情を惹く目的ではなくて>に参入したらしいということである。(スーザン・ソンタグ「写真論」)

<谷間の風(シュールリアリストの死)>

漸く暑い日々が訪れた。それらの夏の日々、私は、世の中の全ては分類できる文脈あるいは文節によって成立する、と考えていた。歴史はそれ自体、絶対的な価値を有しており私が歴史を記述し創りうるその人であろうとした。しかし私のロマンが悲惨だったのは、私とあなたとの関係の在り方そのものに由来していた。

当時、私の思考の中心は、歴史への定着あるいは歴史の創造、つまりその時々に起きた事件の記録者であろうとすることにあった。事件を事件として認定すること。その認定するというそのことが、どこに由来しているのかを探ろうとしていた。

遠くて永い年月を経て培われてきた風土の感性をいまに受けた私。この感性に相克する知性。知の昇華によるロマン。この乖離からくる谷間の深淵を覗き込んだとき、ひとは一体どうするのだろうか。人間には感性があり、官能がある。いつも抑圧されたロマンの内部でしか生きられない文明人である私たち。私の精神は常に抑圧とタブーの狭間を逸脱する。

まだ青いススキの生い茂る草原に汗を流す。ときおり谷間をわたってくる風が頬を撫ぜていく。ちょっと高台になった山間のその土地は、私とあなたが手に入れた最初の楽園となるだろう。抑圧もタブーもない土そのものと、そこに根ざした植物群。雑草ひとつ一つの静かな生命は、ねじれた感性の私に、みずみずしくも迫ってくるのだった。

私は視る。この高台の土地に生成する全てのものと私の内部を・・・・・・。視ることの自由を得た私は、視るものひとつ一つが、かって現れたことのない新たな意味を持ち、私の知覚に迫ってくるのだった。私は私の内部の唯一点を覗き込む。私は体感熱くなってくるのを覚える。身体全体が溶けていくような感覚。まさに恍惚感覚。ひとはそれぞれにひとつの恍惚とする場面を持っているのだろう。

写真によって自分の恍惚を写したピエール・モリニエ(PIERR MOLINIER)は、自分に恋した典型だったのだろうか。閉ざされた部屋。愛の抱擁は恋愛を物語る。視ること(表現)の自由とは、体制内からの離脱を意味する。

<夏の夢>

私の恍惚感覚は夏の終わり、晩夏の物語。私の感覚は自死の直前に恍惚状態(自己陶酔)の自分を残した芸術家の感覚と同化するように向かっているようだ。みずからの肉体の衰えとともに、肉体と精神の極みに挑戦し、肉体のタブーに挑むこと。あるいはこのイメージは、あの厳しい冬の物語に連なっていくのだった。

釜ヶ崎で青カンする労働者の群れ。凍える肉体が朽ち果てていく地獄絵図を見る。肉体は蝕まれ土と化していくが精神の解放は春へと向かう。

これまであった膨大に撮られた「写真」の数々と、これからあるべく「写真」を、どのようにつなげて見ていけばよいのか、と想い巡らす。この思いは思想のレベルではなく、ほとんど幻。感情と同質のもの。感情:センチメンタルそのものだ。私にとっては「いま」を介して「写真」の在り方が歴然と異質なものになる筈だ。

ずいぶん以前からの解放すべき課題を持ち越したまま再々度、私は盛夏を迎えた。最近のいくつもの夏はあまり活動的でなかったので、おそらく今年の夏も怠惰な日々を過ごしそうだが、微かに官能的な興奮を知覚しているので、私はシュールリアリストになったようだ。

写真固有の価値と写真表現の領域は、発明の頃から記録(ドキュメント)としてあった。撮影された一枚の写真は、被写体となった事物、人々や風景の前にカメラがあったことを証明していると捉えられてきた。写真のリアリティは常にこうした信憑性にもとづいて解釈されてきた。

写真はかって存在した「もの」のコピーであり、かってあった存在の疑似存在としてあるとされてきた。このようにして写真の第一義的な形式は、カメラの前にあった「もの」が印画紙に定着されたものである。写真が記録であるという認定は、このように存在した事物のコピーであると認定する知識のうえに立っているのだ。そして写真の価値は、その内容にあるのだと。

写真の記録性は、このように見る限り、あたかも永久不変の真理のようにもみえる。確かにそのとうり、写真は限定つきではあるが記録そのものである。しかし私はいま、写真は本当に記録だったのか、という写真の本質に迫る疑念をいだいてしまったのだ。形式としての写真の存在と、撮られた事物のなかの価値の間に、そのとき不意に、何処からともなく風が立った。

はるか昔のこととなったが私は大学生になった。十代には日記から詩へと移行した私の表現方法は、その頃からいっそう文学に魅せられて行動派文学青年となった。政治参加という言葉が流行していた。そういったなかでの私の青春。外化する自分と内なる自分の葛藤。肉体と精神の乖離を意識しはじめるのが、そういった時代だった。

週に一回の読書会で議論しあった記憶。内灘は基地闘争の最初であったし、赤軍は私の世代の突出部分であった。突出できなかった私たちは、仲間どうしで同人誌の編集に携わった記念碑である。その後いくつかの小説家の死を経過させるなかで、写真におけるダイアン・アーバス(DIANE ARBUS)の死は、次第に「死と生」の重さを私に教えてくれることになった。

<涙の谷>

肉体的には大きく病んだこともなく、ここまでやって来たが、起伏する精神の連なりとしては、そのつど病んでいたようにも思われる。文学、音楽、また視覚芸術で、読み聞き見るだけにとどまらず、みずから創作していこうとする気持ちが沸いてきたときから、私は病に犯されつつあった。私にとって芸術とは間の淵に立つことであった。

この春が訪れる少し前、私は私自身によって私の生のあり方を問い直しはじめたのだった。いつの場面も外世界と私の感情との相克として、一生懸命に生きた。生きるということが衣食するだけのことでなくなったその時から始まった私のエンドレスゲームが延々と続き今に至っている。

春の訪れとともに、密かに自由を手に入れたいと思った。そして、私の内面において手に入れた自由。そのときに見えた感情の深淵は、十分に生きること、身体を維持していくといった生活レベルでの生命、の意味を問わせるものであった。

1971年にみずから死してしまった写真家ダイアン・アーバス(DIANE ARBUS)。最近の私の生きざまの中で、ひとの死に対するいくつかのこだわりがあるが、これは、どうも私がこれまでに生きてきた中で育まれてきた社会性(風土に根ざした視覚)とは裏腹な、プリミティブな私の感性のよりプライベートな部分からくるこだわりのようなのだ。

自殺してしまったアーバスの写真は、以前から雑誌の特集などでよくみかけていた。しかしそれらは断片的で、特に深い興味があったわけでもなかったので、これまで深く私のこころを掻きむしることもなかった。

白い部屋にぽつねんと座した私の胸に夏の夕暮れが迫ってくる。遠くから日暮らしのミンミンと鳴くのが聴こえる。女生徒の喋り声が流れていく。まだ写真撮影に精出していたころの記憶が甦ってくる。場末の踏切で赤子を抱いた若い母親がいた。西日が母親を照らして何か物悲しくも見えた。写真に撮られた生活風景を思い起こしながら、こうして黄昏に近づく時刻を過ごすことは、私を不安の淵に追いやる。

なにが直接のきっかけでアーバスの写真行為に興味を持ち出したのか定かではない。しかしこの感覚は千日以上の日々をかけて私に浸透してきたものだ。そのころよく訪ねたギャラリーで、アーバスの写真集を手に入れて欲しい依頼をしてから数か月後に手元に届いた。眠られない真夜中に書架から取り出して数分間、印刷されたアーバスの写真を眺めたものだった。

写真家における写真行為が、意識の深層において「覗き見習癖」から解放されて被写体と共有(共犯)関係を結ぶとき、写真は迫力をもって飛翔していく。アーバスはソーシャルなランドスケープ(社会風景)として、彼女が生きた時代の外側を撮り続けた。次第に歴史とか文化であるとか写真が持った時代のテーマを超えた人々の存在と向き合っていった(向き合ってしまった)。

私の感性が捉えるところによると、これは来たり来る世界と、その時代の限界(タブーとされる世界)に挑んだ内面で、時代を生きたように感じられる。なぜ彼女がその地点に至ってしまったのか。私の興味と興奮は、そこへ至らなければならなかった必然性、つまり彼女のメンタルの構造解析に向かうのだ。

固有の文化内において思想化されえない部分、疎外され隔離されているがしかし、その固有の文化内に共存する部分。隔てた壁を通過してあらゆる理論の以前にあった空白の世界。白い閃光をプリントした写真のように、それはアーバスを襲った。そして彼女は自分を見た。

アーバスがアパートの風呂場で自殺したのは1971年、ベトナムとかかわったアメリカがいちばん不幸だった時代。翌年1972年にはニューヨーク近代美術館で112枚の展示による回顧展が催された。私が彼女に興味を示すのは、こうしたアメリカの時代状況を背景としたなかで、彼女とその作品をどのように捉えるかといったことではない。

もちろん人間が生きていく行為そのものが、その時代の産物であり、彼女の場合は写真行為そのものが、彼女の時代を構成していた。また作品を理解することは、より大なる光景や背景をぬきにしては語れないことも、私がこれまで学習してきた範疇から考えて、承知のことである。しかしいま、あえて私はそのような切り取り方で人間アーバス(その時代を生きたその人)を捉えたくはないのだ。

私が興味を抱くのは、彼女が共有した被写体との関係と、関係をもったときの彼女自身の精神のありようなのだ。写真家アーバスの内に社会から疎外された被写体を撮り込んだとき、彼女にとって時代のプンクトウムは、題名のつけようのない異端者としてあることだった。

それは非常にパーソナルな部分での彼女の内面の劇について、どのような軌跡を描きながら放心状態あるいは恍惚状態となっていったのか、ということである。異端者としての感性が自分の中に存在する自覚を、アーバス自身、まどろみのなかで気づいたのにちがいない。その気づき方に私は注目するのである。

写真は魔である。あるいはこの「写真」を「芸術」と置き換えてもよい。芸術は魔である。カメラを携えた芸術家アーバスの前に現われたのは、文明・文化を捉えるという写真の文脈を超えた被写体であった。目の前にあるものが、まさにそのものであるということ。それらが撮られて現わされたものは<かって、あった、もの>それ自体であったが、それ以外のなにものでもない。この「なにものでもない」ことが重要なのだと思われる。

アーバスの写真が、いかにして撮られてきたかを論じたとしても、ことの外容をなぞっていくだけである。もっと透過した、深い森に這入り込むかすかな木漏れ陽のように、ほとんど透明に輝く光である。

芸術が知性と本能との葛藤あるいは結合の中から生成されてくることは事実であろう。そして作家が示す興味の対象へ深く傾斜していくことによって制度の枠を踏み外すことにつながっていく。

アーバスによって撮られた被写体への同情の気落ちはない。たしかに人間社会の犠牲者や不運な人々には違いないのだが、撮られた人々は同情されることを拒否している。むしろそれらの人々がもつ魔力の金縛りに会う。それまで写真家が持ち得た思想や文化内においては理解不能、あるいは理解を拒むものとしてある。つまり内容の明白な意味を問うことは、ほとんど価値がなさそうなのである。

人間には尊厳として固有に与えられているものがある。私たちはこの固有に与えられたものを取り巻くさまざまな意匠を身に着けているが、この意匠のひとつ一つを剥ぎ取ってしまったとき、私たちには何が残るか、あるいは私たちは何を根拠に生を営むか。

私に突きつけられたアーバスの写真から受けるプンクトウムを理解する感覚とは<このこと>であり、この感覚を思想化しない<できない>ことのなかにあるようだ。

彼女は撮影するということが、理論の以前にあるもの、撮影そのものを正当化する必要を知らない透明な文脈を、外部世界との遭遇のなかに獲得した<参入していった>のだった。そして、被写体がそれ自体としてあったものが<そのもの>であるということへの直感的な経験が、アーバスを解放したのだと思われる。



まどろみの中/試論-2-

<記録の解体>

それらの日々から三年、もうカメラを持たない、何も撮らない、何も書かないでおこうと思った。こういう言い方は自分の意志による廃業宣言のように受け取られてしまう。もう何も撮れない、何も書けない、終わったのだ、と言い聞かせるしかなかったのだった。

その前の年の夏、私はあたかも旅行者の風を装って、私の風土、京都の夏の行事を撮って歩いた。その秋には、私によって撮られた何十本かのフィルムから、「ミイラ」になってしまったSへの鎮魂歌として「夢幻舞台」と題する写真とエッセイをまとめたささやかな本を出版した。この撮影のなかで、すでに地獄絵図が撮られていたのだったが、これが次第に私のこころを傾斜させていった。

その光景は、遠い記憶の像に結びついており、私を構成している原体験のルーツとしてあることを発見していた。死後、肉体は屍となり風化して土に帰る。あるいは地獄にて喘ぐ死者たちの群れ。私自身の風土を形成している原形が、ここ地獄絵図にあるようにも感じられたのだった。

カメラは自分をみつめる手段としてある。とするならば、カメラを持ち続けることを放棄しようとしていた私にとって「地獄絵図」はどうしても私自身の記録として残しておかなければならない最後の被写体だった。「地獄絵図」にまで行き着いてしまった「記録」の方法として、写真を撮る「行為」「姿勢」「言動」「思考」などの延長線上ではもう写真を撮り続けることなどできない、どうしようもないな、といった思いに至った。

「地獄絵図」を撮影していた夏の夜、<遠いところまで来てしまったな>とつぶやき、そのように感じていた感性(感情)は、すでに、人を失うに至った「記録」写真の在り方に対して、来たりくる新しい時代の潮流を予感していたのかも知れなかった。

それからかれこれ三年が経った。もう過去はすっかり私の内部で風化してしまった。この三年間、私の経過してきた過去の一切を反故にしてきた。その後の周辺で起こった新しい友たちのなかで、過去の話題には固く言葉を閉ざした。あたかも失語症の子供が口をつぐむように、小鳥がさえずりを失うように、もう語ることもなければ書き表すこともないだろうと思っていた。

それにしても、あのSが自死したという事実が私に突きつけてくるものは、何なのだろうか。来たりくる表現の方法、あるいはまなざしを、Sは時代をさきがけて得てしまったのだろうか。結局、時代の感性がおもむくままに行動してしまったSの「まなざし」が過去の累積から派生し、いまを組み立てる「方法」の論を超えてしまったのだろうか。

彼女が見てしまったものは、-夕焼けー沈みそうで沈まない真赤な太陽の贈り物。豊かな時代に生まれてきた飽食時代の「美しさ」感覚が崩壊し、新たなる感性、新たなる美、そこは花園、聖母マリアに目をあげ祈るーささくれたった地獄の美しさー(さみしささみしく支えるものは何もなく)裸の自分だけを見てしまったのではなかったか。

鎮魂。言葉は次第に私から遠のいていった。狂気の季節が去りていったのだな、とひそかに歓んだ。組織におけるアジテーターとして、あるいはオルガナイザーとして、自分の意志において選択した新しい道程を下部から支える統率者としてあろうとした。後退の瀬戸際に立った私にとって、どうしても護っていかなければならない私の構想。

全く新しい地平で事が始まらなければならなかった。私は一面、健康体となった。庭に植物を愛で、血縁家族に傾斜しようとつとめた。抱擁すべき制度の知恵は、人を軽やかな幸福で満たしてくれる。そう、自分の過去は年寄りじみて甘酸っぱく語ればよいのだ。いつもノスタルジーを大切に抱きしめていればよいのだ。

おおむね人の生とは、このようにして年月の起伏を経過させていくべきものなのであろう。
否、私はこの流れに逆らい、竿を差さねばならぬ。
風化する私の時計を逆転させていかねばならぬ。
この逆襲の手懸かりを、いまつかみ始めている。

この手懸かりは、私のプライベイトにおける対決であり、個の起立における挑発である。あるいは個と個の深い関わりからの相互挑発作用である。生活道具の豊かな所有は、すでに見てしまったがゆえに、私の内面を孤立化させ、飢えさせるもののようなのだ。

<創世へ>

こういった経過のさなかの最近、ちなみにひところの自分が書き記したとりとめのない評論形式の文章や、巷の光景を撮った写真を読み返していた。と同時に私の周辺を埋め尽くしていた知識の源泉とでもいうべき資料の整理を行っていた。

私が書き記した文章で、不特定多数の他者へのメッセージとしたものの多くは、当時個人誌として発行していた冊子「映像情報」、また実質的発起人として編集に携わった「季刊釜ヶ崎」に記載された内容そのものだったが、これをとりとめなく何回となく読み返していた。

「季刊釜ヶ崎」について。

1979年12月に創刊されて通巻10号までと別冊「絆」が発行された。釜ヶ崎現地からの外部に向けた定期刊行物は初めてとも云われ、私は「写真レポート」の連載を載せた。
70年代の運動思想で色濃く染められたセクト運動家たちの間にあって、写真の自立と感性の起立からイメージの定着を目論んだ私は、ひとりよがりながらも写真論を展開しようと試みた。

私は当時、美術館における展覧会あるいは出版社から発行される写真集という、写真と文章の発表媒体としての既成メディアを拒否し、私独自のメディア創出へとの思想の展開過程の具体化として構想されたものであった。
つまり、既成の枠組みにより構築された釜ヶ崎のイメージの転換組み直しを目論み、私の「見た」釜ヶ崎イメージを「見せる」ためには独自のメディアを必要とした。

「映像情報」について。

1980年8月に創刊され、1984年1月まで通巻12号まで発行された冊子である。
当時、私は集中的に取材地「釜ヶ崎」に関わっていた。いま、読み返してみると、そこには私が背負っていた既成組織へのやるせない反発と、反発に対するリアクションによる行き場のない感性の閉塞状況を読み取ることができるだろう。

打ちのめされる私性を回復する手だてとして書き、撮り、発表する。たった一人で行う編集作業は苦渋にみちた肉体的な反復行為としてあった。表現者の手段として、それは個人誌とはいえ出版というパブリックな形式をとっていた。しかし制作過程の率直な感情といった観点からとりあげてみるならば、その方法は、非情にプライベートなものだった。

成熟しない愛の変形として「映像情報」はあった。乾いた感性、ささくれた人間関係、言葉という文化をもつがゆえに同一化しえない個別の人間関係へのいらだちから、それは発生していた。あえてストイックな方法で、硬質な論戦を張る。一方で破綻をかいま見せる。コミュニケーションの方法として、知を持つがゆえにとらざるを得なかった表現の方法としてあった。

また、それ以前から当時まで(1975年頃から1980年頃)毎月毎月購読していた「アサヒカメラ」や「カメラ毎日」「日本カメラ」といったカメラ雑誌に発表された写真の切り抜き(年に一度、雑誌から必要と思われるページを切り抜いていた)などが気になって整理しはじめていた。

積み上げられた印刷物の束をファイルに入れた。総計二千頁をこえる分量があった。それぞれの印刷物には、写真が印刷され、あるいは活字となった文章があった。そこには、それぞれ写真家の思いを込めた写真が発表されており、また熱っぽく語る評論家の肉声があった。

私の手元にあったそうした私へのメッセージの群れを視る限り、ひとつの時代が多分に熱っぽい雰囲気を持っていたと感じずにはいられない。しかし、自分が記した写真や文章については、千日以上の日々が経ったいまとなっては、その思い入れた気持ちも過去の産物となった。

私は久しく写真を撮っていないし、文章も書いていないのだったが、最近になってあらたな模索をはじめようと思いはじめた。新たなる試みがどのような形態によって成されるかはまだ未定としても、よりフランクに、よりナチュラルに、より自然体としてありたいと思うところだ。ひところのような、攻撃的な論調、語り口はもう持たないでおきたい。また、もっともっと平坦なことばを使って、なおかつ」最高の伝達を試みる。

いま再び私は、私にとって「写真とは何か」といった問いかけを考察のメインテーマとして価値の中軸としなければなるまい。未生の今後にとって写真というものの在処を、今一度問い直してみなければならないときだと思う。

<決別>

写真術が発明されたときから、写真はドキュメントつまり「記録」という幻影を持った。絵画が持ってした写実を写真術が奪ってしまった。カメラオブスキュラ「暗箱」は社会への窓であり、肖像は写真の専売特許となった。目の前に存在するものが即座に定着されるという驚異は、その時代:主に十九世紀ヨーロッパ:の文化形態に一大革命をもたらした。すでに絵画が確立してきた様々な技法、つまり遠近法を、肖像を。

たとえばボードレールの肖像写真は、絵画における肖像においては持ち得ないリアリティを私の前に呈示する。また坂本龍馬の肖像写真は現在においても色あせない。また幾多の戦において、従軍画家がなしえてきた作業は、従軍写真家において実現されてきた。

ジャーナリズム勃興から全盛への歴史は、世界のまだ見ぬ地域の風俗や世俗の深部へと探検していった。それが捉えた世界観は、写真の文化史的側面と質をもって成立してきた。そして、おおむね、その中心となるテーマは「人間」であり「外化した人間」を中心にすえた視野の獲得であった。

一方において写真は、絵画の内面史と平行して、その視野を共有してきた。「芸術」写真は、絵画術とはおのづと異質な手段によって構成されるが、手法と表現の方法は絵画と同様のスタイルを採った。写真の発達史を概観すると、このふたつの方向が相互に絡み合いながら、現代に至っていることに気づく。

このように写真が平面(二次元)での表現であり形態が絵画と酷似するゆえ、それまでもちえた絵画による記録性と芸術性を、写真の特質とするところから写真史は開始された。そしてその時代の風俗を印画紙のなかに定着させ、人々の欲望を充足させていった。

記録という概念を主体とする写真。行き着くところまで行ってしまった記録の方法。

次に続く言葉を模索しながら、私は絶句し立ち止まってしまった。空しさが胸につかえていた。私は「知識」をベースとした評論といったものを書こうとしていたが、すでに私にとって、こういった言葉を連ねていくことの空しさが明確になってしまったのだ。自己洞察のない写真との決別。私は決別する。

私が決別しようとするのは、記録の概念により生じる思考方法である「方法の問題」だ。言語に従属する記録写真の概念は、いま私によって否定される。そして写真は「方法の問題」から「まなざしの問題」へと移行する。

まなざしとは、感情の交換である。そこに存在するのは差異。新しい写真とは何かと問うとき、そこには感情の流れそのものの定着、カメラを持たないときに感じる「愛するひと」を前に置いた感情による撮影。

これまであった写真の累積は、被写体と鑑賞者との間に存在する自己(写真家)の位置関係であった。この位置関係を新たな関係として組み直すこと。新たなる美の創造と永遠の母の像を求めて・・・・・・。被写体と自己がダイレクトに結びつくとき、まなざしは自己の内側へと侵入する。私は何を見るか。

時間の流れの中で、私はたえず心的な状態として感性の流出の中にあった。ときにはこの状態にある私を内省し「空しい」とつぶやき、あるいは「切ない」とつぶやき、あるいは「うれしい」とつぶやくのだが、感性は決して、こうした形容のなかに収まるものではなかった。


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