中川繁夫写文集

2013年10月

まどろみの中/試論-1-

時間の流れの中で、私はたえず心的な状態として感性の流出の中にあった。ときにはこの状態にある私を内省し「空しい」とつぶやき、あるいは「うれしい」とつぶやくのだが、感性は決して、こうした形容のなかに収まるものではなかった。(中川繁夫「私風景論」より)

<感性の淵で>

創作意欲というかすかな予兆の足音は、ちょうど昨年の晩秋の頃から、私の感性の内ではじまり、日々とともに次第に大きなうねりとなって訪れてきていた。

最初、このうねりの波形についての「意味」そのもの、あるものごとが理解できる、あるいは解釈できるといったものは定かでなく、なにか疼いているなと感じる程度の得体の知れないものだった。

まだ態度として行動に結実していかない感性の淵で「何か」が始まって行こうとする、ほのかに、かすかな予兆を感じさせるものだった。

その気分は、夜明け前、不意に夢から醒めたときにのぞきこむ闇の深淵のような、こころを掻きむしられ宙ぶらりん感覚と同種のもののようだった。

「言葉」とはおおむね、形あるもの、あるいは自分が内在するこの文化総体が生成してきた形なきものの概念を指示するものだが、その気分といったものはまだ「言葉」として意味を生成しえないもの。

あえて言うなら感情の初源のものであり肉体が奮えるときに自然発生的に生じる叫びとしてあった。


私の感性は、つねに私の存在の外部からの衝撃により押し流されている。あるいは、流れる。この感性(感情)の流れのなかで、つねに生成されては風化していくものとしての行為があった。私はこうして感性の成りゆきのままに身を委ねている。

私にとっての表現行為の成立とは、おそらく感性(感情)を思想化するものであり、あるいは思想としてあるものを感性(感情)に還元するものの総体としてあるのだろう。

いま、私の感性は海あるいは生の表面をスイスイと滑っていく。それは根無し草のごとく、あるいは水草のごとく、あるいは雲の上のごとく、ふわふわっとした気分のなかにいるようにだ。

この気分のなかにあって、私はとても憂鬱だ。雑踏した世界のなかで流れのままに身をまかせている私の内面に立脚し、私の内に向かう思想の根拠地としての感触を持ちえないこと。

おそらく私を憂鬱にさせる原因は、この根拠地を喪失してしまった感覚のなかに含まれそうだ。しかしその憂鬱ゆえに、私は、私の感性にとって新しい領域が得られる予兆を感じているのだ。

<春>

初春の風の中で私の感性は憂鬱と孤独感に襲われる。これは突き詰めるところひらひらと、風に舞うように感性の自由を獲得しつつある証のように思われる。

自転車に乗ってふらっと外に出る。三月の風。私はゆっくりこぐ自転車のスピードが好きだ。新芽を吹きだした道端や川沿いの土手に群生する木立や草々を観察するともなく観ながら、私はひそかに決意する。

風化する感性をいま一度起立しなおすこと。
私は春の訪れとともに、弛緩する私の感性に竿を差そう。もう何をも畏れることはない。何にも拘束されなくてもよいのだ。私の内に向かって流れる感情の領域の限りにおいて、私は自由の翼を得ているのだ。

私は写真との新しい関係を求めている。自由!フリーダム!なんと快い響きをもって私に向かってくることだろう。歴史において常に詩人は自由を得ようとしてきた。しかしはたして自由とは、何からの自由だったのであろうか。

私の目の前に現れる社会・世間、つまり私には第二人称のあなた、との接点を求めて、なにからの自由になれるというのであろうか。写真を介在する私とあなたとの関係は、私の感性とあなたの感性の関係であらねばならない。

これまであった写真、つまり「写真は記録」からの自由を得ること。こうした断定のなかで一枚の写真が指し示す社会性とは、あなたとの関係の中に水平感覚として写真を見ること。あなたとの関係そのものなのであろう。感性の自由とは禁制・禁句(タブー)から脱却すること。あるいは自己を脱却させること。

<悲の時計>

記憶をたどってみれば1985年8月以降、私は写真制作を根底とする創造行為を休止している。カメラを持っての撮影は、盛夏の京都にあっては精霊を迎える盆の夜、六道の辻界隈での地獄絵複写が最後だった。
これも漸くカメラを持ちながら地獄絵複写をおこなったものだった。おそらく不特定多数の人たちを前にした形では永遠に公表しないであろうことを前提とした撮影だった。

それ以降、もうすっかりカメラを持って写真を撮るという方法を忘れてしまっていた。忘れてしまっていたことはそればかりではない。忘れてしまったなかには、次のようなこともあげられる。すなわち「もの」を作ること、ものを読む、ものを書く、ものを語る、そしてものを写す、といったような「知」を形成させるための行為の結果としてのことごとくだ。それから、かれこれ千日以上の日々が経った。

こうした日々、歳月が連続してきた結果としての今日(1988.3.21)、私は、私のとってきた態度と行動様式についてひとつの結論を下した。
「カメラとペンを持っていた一時期はすでに水平線の彼方に行ってしまった」
こう断定を下した今日、私は、私が書きとめ不特定多数の人々に充て、発信した最後の文章を読み返した。それには「釜ヶ崎物語」(季刊「釜ヶ崎」第9号及び第10号に掲載)と名付けられていた。

この私の「釜ヶ崎物語」へ凝縮されてくる意識の流れは、非日常の行為としてあった写真制作の方法を、日常生活そのものとすること、という命題に始まる。私の日常における表現行為がそのまま現代史としての歴史となること。病んでしまった国の病んでしまった人々。一人ひとりを訪ねて歩き、その個人史を記録していくこと。一人ひとりの生活記録の集積がこの国の歴史そのものとなること。写真シリーズ「無名碑」の発想はここからはじまった。

病み傷ついた人と向き合うことは、自分の病み傷ついている感性を、その照り返しとして観ることに他ならない。自己崩壊していく目の前の人にカメラを向けシャッターを切ることは、直接に私自身の崩壊につながる。当時、私のまなざしは「記録」という作業を根底においた表現の試みとして、またこれまであった「論」あるいは「写真の方法論」から「作品」への昇華として、私の内面を記録しようとしたものだった、と記しておこう。

ベランダ越しにやわらかい光が差しこむ昼下がりの自室で、私がなしてきた一連の作業「釜ヶ崎の写真記録と文章」の群をパラパラとページをめくり読み進めていくなかで、私は不覚にも涙してしまった。
最後の一節。「あんたがたが手に入れたと思っている素敵な生活の、根底をゆるぶるようなイメージを投げつけてあげよう。それも写真をもってだ。」

いま、私はここから出発する。自立のとき。1988年3月。
私は、新たなる私の日々の感情の流れを残していこうと思う。
いま、私は表現者としての感性(感情)流出の定着を試みようとしている。
日々の生の在処を問う連続の場として。

しかし私の感性(感情)の流出を受けとめる側、つまり鑑賞者(読者)として想定するところに不特定多数の人々といった概念はない。かりに相手を想定しうるとすれば、それは日々の感情の流れそのものを共有できるひととの間でのみ可能となるものだ。

私はこのようにして個別に結ばれる愛。感性の欲望を「悲の時計」と呼ぶ。そして私はひとつの決定を下す。表現行為(感性の欲望)における暗黙裡の希求は、冷めたこころを暖めあい、私を解体し、あなたと私が相互に理解しあえるところの究極のものとしてあらねばならないものだ、と。

表現者と鑑賞者の関係、表現者と被写体との関係は本質的にコミュニケーションを結ぶことが不能な関係であるのだろうか。カメラを持つこと。言葉を持つこと。この持つことを放棄したときのみ、私とあなたは同化することが出来るのだろうか。表現行為の宿命としてそれはあるのだろうか。表現者は常に持つことと捨てることとの紙一重の限界で行為を選ばなければならないのだろうか。

文章を、書き連ねる。写真を撮り、呈示する。な何故この行為がありうるのかと問いかけたとき、その答えとして、私には、表現行為を通しての相互理解、イメージとイメージの交換から究極の愛の姿、へと突き進むのだ。ここで位置関係として一方がカメラを持ったなかでの相互理解、究極の愛、を持ち出したとき、この内には表現者、たとえ愛の告白者としても、は非ざる心をもってしか成しえない人と人との関係の連なりだという悲観的要素が目に浮かぶ、あるいは脳裏をよぎるのだ。

「知」の形成と「生活の根底をゆさぶる(ゆすぶられる)イメージ」の創出。私がいま表現行為、あなたへのメッセージあるいは愛のコールサインについて、明確に答えられる言葉は、これをおいてない。

<終焉から>

私の写真行為において、なぜ、最後の被写体が「地獄絵図」だったのか。また、なぜ、そこにまで漂流して行かなければならなかったのだろうか。
いま私は、「過ぎし日々」を水平線の彼方に葬ろうとしている<私>が辿ってきた総体としての「私」を、様々な角度から、着付けた衣裳をはぎとり、こころの襞をひらけ、「それは何だったのか」とあらためて問いなおさなければならないのだろう。

私が外に向けてきたカメラで、被写体となったひと。ひとは生まれながらに病み傷つくメンタルを内在させているのだろうか。生存していくための諸制度(国・会社・家庭・夫婦・親子・・・・)からはじき出されてしまったひと。あなたと私。なま身のからだとそのこころ。あなたの病んでしまった内面に遭遇したときから、私は私の内側を見つめはじめたのだった。
私は私の生活周辺が無性に気がかりになった。無名碑と名付けたあなたの碑は、つまり私の碑そのものとして照り返されてきた。私は私の存在理由を問いはじめた。

私は、私の根拠地、私を培ってきた風土そのものである生活周辺を撮りはじめた。そうしてカメラで、私自身が病んでしまった経過と、病みついていった記憶をたどっていった。肉体と精神の構図を見つめながら、病むことの意味を問いはじめた。つまり肉体の在処を・・・・。
その最後の行為、つまり地獄絵図の撮影は、それまであった私の行動(釜ヶ崎や映像情報との関わり)のリアクションの終焉としてあった。

すでにそのとき、1985年8月ごろにおいては、かってあった「写真の方法」でカメラを持って街角にたつこと自体が、生きることの本質、美を創造することとは相容れない要素であるようにも感じられていた。
そしてそれまで私が考え辿ってきた「写真」の方法が、つまり生き方そのもの、美を創造する方法論、が解体し終焉を迎えていることを実感していた。と同時に急速に弛緩していく私の感性を見てしまっていた。

<狂気へ>

1977年秋から冬にかけて、私は「街へ」をメインテーマに大阪に立った。梅田界隈で、その数か月を経た。そして翌年の春から夏には原稿用紙に向かって「私風景論」の定着を試みた。
再度、カメラを持って大阪に通いだしたのは1978年9月2日。と同時に「大阪日記」と題した取材メモをつけ始めていた。天王寺から飛田界隈を経て釜ヶ崎の地へと足を延ばしていくのにそう時間はかからなかった。

三角公園に佇み途方に暮れてしまったという記憶、そこからそこで写真を撮っていこうとする私自身がどうなっていくのか不安でしかたがなかったといった記憶。
当時の取材態度は、まだ明確にはなっていなかったけれども私自身の内面の問題だけが主体であった。またそのころはまだ、写真は既成の価値軸を明確にするための美の属性として捉えており、一方で社会性を追求(非条理を告発)するといった写真の方法、つまりそのころまで継承されてきた記録(ドキュメント)の実践として捉えていた。

翌年の冬には、世間では薄められているが釜ヶ崎の地に集約的に表出するカオスとしての側面、あるいは政治性、あるいは精神性、あるいは「生のありかた」そのもの、と正面から向き合う姿勢を意識しはじめていた。自分は本質として虚弱な精神しか持たないと考えていた私自身が、自分に対する挑戦として自己を起立させていくこと。自己の弱点を克服していくこと。

私が自ら課せた主題は、荒々しい風雨に自己の精神を晒すことであった。なぜこのような思考が自分自身の内面に生成されてきたのか定かではないが、かってむさぼり読んだ小説からの感化。また二十歳の頃に私をとりまいた外的状況の中での自分の挫折と、挫折と認定するがゆえに終わらなかった青春のよみがえりに心が疼いたのかも知れなかった。

カメラを持つ私の目の前に立ち現われた被写体となった人々。その一人ひとりのこころの優しさと、優しさゆえに病んでしまう精神。彼らの内面へ向けるまなざしは、私自身へ向けるまなざしとなった。肉体を超えて透過していく感性の、ともに滅びようとする肉体に向かう感性。私の手には、唯一カメラがあった。

私の前に現われた労働者のいまの姿と過去をたどる聞き語り。無名の人々との出会いは、私に、私自身の存在理由を突きつけた。私の前にある裸の現実への照射として私の内面への裸のまなざし。私は論理でもって、このまなざしを解明しようと試みた。理論書を読み文筆を重ねた。そして、写真を撮るという接点での双方向のまなざしから、この体制を突き崩すための理論を模索した。私の感性は現世がタブーとする悪への価値軸へ飛翔しはじめた。

私は写真家であろうとした。移り世のドキュメンタリストであろうとした。世俗の表層をかすめとってくる「ミイラ取り」になろうとした。
私は写真の現場としての「釜ヶ崎」で足を踏み外しつつ、唯一、ムーブメントの現場としての「写真界」との接点に身を置いていた。

それまであった白々しい写真の世界と縁を切ること。独自の外化方法を見いだし展開すること。私の自立。そこから見えてくる光景は全て虚ろな人々の流れ。人は何をめざして生きているのだろうか。私は何をめざしているのだろうか。ゴールのない疾走は結局、身体を屍と化すこと以外にないように思われた。

そうした思考の一方で、「ミイラ」にならなかった私は、私自身の感性の崩壊を見ていた。ずたずたに切られた回路は、もうそのままでは恢復の余地がなかった。私は必死の思いでこの恢復の回路を模索した。雑誌「映像情報」や「季刊釜ヶ崎」の創刊、巡回写真展企画。もうだめ。はりつめすぎた糸が切れそうだった。

写真の意味/試論-2-

<未生のとき>

いま、私のまえに数枚のオリジナルプリントがある。タイトルはまだ無い。被写体は数個の「桃」である。撮影者はまだ学生気質を残したような若い女性だ。
プリント上の白から黒への諧調のなかには、数個の桃が草むらに転がされていることが判読できる。あるいは籠にに盛られている。自然な形といえばこれほど自然な姿はない。また、作為的といえばこれほど作為的な姿はない。
そのうえ、モノクロームフィルムで撮られたモノクローム印画紙で焼かれたものなのだが、桃の部分だけに一見では見落とす程度に色鉛筆で桃いろが施されている。

撮影者はこれによりあきらかになにかを指し示すことを意図しているように読み取れる。
目の前に差し出された写真には撮影者があり、写されている被写体「桃」は<かって、そこに、あった>もの「物」である。撮影者がどういう意図によって、そこにあった、あるいは置いた「桃」を撮ったのかといったことは、写真をみる側の主体、つまり現在の私にとっては、ある意味では、もうどうでもよいことである。しかし、私のこだわりに固守すれば、興味深いことなのである。

プリントの上に存在するものは「桃」のコピーである。日常の生活のなかで食卓でその季節になるとよく見かけるくだものだ。私にとっても桃という果物のイメージは、古くから日常の生活に根ざした季節の果物としてあった。最近になって外国産の果物(フルーツと呼ぶにふさわしいイメージの果物たち)をよく見かけ、また口にすることも多いが、桃は遠くから私たちの生活に密着してきた果物としてあった。

撮られた「もの」つまり桃そのものは視る者それぞれに意味を与え探らせてくれる。見る者それぞれに視たものへの思い入れがある。それは不明確だけれども遠い記憶の像に結びついているようだ。この不明確な記憶の像を呼び起こすときに湧き起ってくるそれぞれの固有の叙情性(無意識下における感情の流れ)とでも言おうか、愉しくさせる、寂しくさせる、等々のその源泉とするものに、私は注目している。

このように、私が興味をいだくのは、この「桃」のプリントが私に与えるクオリティあるいはインパクトについてである。このクオリティあるいはインパクトとは、撮影者における静物「桃」をカメラによってスケッチしたという行為とか、撮影以前にあった表現意図といったような、撮られた現場周辺での撮影者の在りようへの興味というよりも、私自身の受けとめかた、受け入れかたといった私自身の「所有する構図」にかかる部分である。
自分のものとする、あるいは所有したいという欲求は社会的につくられたものであると考えられる。このつくられてきた「所有したい」欲求の在処を探すこと。そして所有できてしまう社会構造の在処を探すことであるように思われる。

私が最初にlこのプリントを見かけたのは、徹夜に近い状態で議論を交わしたあとの昼下がりのことだった。さだかでない意識のなかで同じ撮影者のプリントの束を見ていた中の一枚がそれだった。
そこには街角のスナップ、晩夏のひまわりを撮ったプリント、石ころばかりの山のプリント、といったように類型的でなんの変哲もない(私にとっては興味のない)ものばかりがあった。「桃」はそのなかの一枚、記録の範疇から飛翔したと認知されるたった一枚だったが、異様な迫力をもって私に語りかけていた。

コメントの付けようがようがなかった。それらの写真を前にして言葉でもって批評することが目的の一つだったが、私は執拗にもこの時代のステロタイプ的な批評を、あたかもお茶をにごすという比喩があるそのようなスタイルで、与えていた。私は、私を突き崩す「桃」にはいっさいの言葉もふれずにいた。語ることの畏れを直感的に感じ取っていたのかも知れなかった。

そう、第一の直感的な印象といえば、おおむね少女の戯れにすぎないような感じであり、あえて批評の場に登場させるに及ばないもの、とでもいった様子だった。私が感じる「少女の戯れ」という感じ方は、あまりにも巷にあふれる雑誌記事や広告のセンスそのもの。なんら毒気のないステロタイプな感じ方であっただろう。その場では言葉にならなかったし他愛ないものだったのだ。
しかし、それは私のまどろっこしい神経を針先で突ついた。

本来、表現者(写真家)の姿勢は、他者(おおむね享受者あるいは鑑賞者)の持っている世界を視る観察方法と内面世界(ほとんど感情そのものが湧き出る源泉)を、根底から揺るがしてくるものでなければならないものだ。
その一枚のプリントが、私の目の前から消えてしまったあと、私は、記憶のあるいはイメージのなかで、その「桃」と対面することとなる。

撮影者はそのとき多くは語らなかった。ひとは自ら表現者であろうとするとき、寡黙であるより、おおむね饒舌になるもののようだ。また、表現し呈示したものへの批評に対しては、自己の正当なる由縁を主張するかのように身構え攻撃的に、自己弁護をしようとするものだ。だが、その撮影者は多くを語らなかった。

ひとは、生まれたときからたったひとつだけ固有の環境を持っている。そして、それぞれに異なる関係をそれぞれの環境のなかで結んでいくものだ。こういった自己を形成し取り囲んできた環境の集積を、私は「風土」と呼んでいるが、おおむねこの風土のなかにあって、普通は既成の枠組みをみずからの枠組みとして築きあげていくものだ。

カメラを持っての表現といったときにおいても、表現することを意図することは、おおむね既成の枠組みのなかでの価値観の構築といったスタイルに落ちつくようだ。
この作業はおおむね移り世の表層をとらえることしかできないが、としても多くに見かける巷の類型あるいは類似形としての外界の認識作業(風俗の表層をなぞっていくことによる制作)は、自分を見つめることのない偽表現者にはまさしく安住の場所なのだろう。
それらは鑑賞者自身の価値観が既成概念によって固められていることによって、あたかもその時代の中では熱烈な支持を受けることもありうる。

「桃」の撮影者が当初、そういった関係においてカメラを持ち、表現されたものの価値を模索するスタイルが、巷の類型あるいは類似形としての外界認識であったことは想像にかたくない。無意識のうちにカメラが向けられた「桃」の撮影者における「桃」の写真は、そのような類型あるいは類似形の範疇からはみ出した行為としてあった。

かってあった「論」あるは「読む行為」としての写真は、つねに社会表層の現象をとらえてくることに向かってきた。そして写真自体の輪廻作用によってイメージを増幅させ、そこに写真が拠って起つ社会的基盤を築きあげようとしてきた。この方法論から派生する行為により写真を撮ることは、おおむね事故の内面を洞察しない、つまり表現者の不在と不毛のなかでの「記録」だ。この「記録」という幻影こそ、「写真」を写真から遠ざける何者でもなかった。

「記録」という概念を根底としたこれまでの写真。この在りようとしての写真が認めてきた写真の範疇で、いまや写真とその行為は循環する袋小路の迷路に入ってしまった。このような視点あるいは方法からの「写真」の不毛が現在の状況であると認知するなら、現在は沈滞の時であると同時に、まったく新しい範疇からその表現領域を確保していく未生の時でもある。

私の感性をいちじるしい感動にまで高めてくれた「桃」の写真。私を突き刺すばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける。「桃」撮影者における気分のはみ出し行為(記録という概念から外れた制作方法)こそ、未生のときの固有の表現行為となるべき質そのものではないだろうか。

<まなざし>

私は生きている。その証として歓び、哀しみ、苦しみ、重くまた軽やかに時を過ごす。過ごしてきた時間が膨大になればなるほど、いくつもの場所でそのつど思い出をつくってきたようだ。ひとと私との関わりは、常に直接的なものだった。目のまえにひとがいて私がいた。いつも私が関わるひとへの興味の周辺から派生してくる事が、直接的に私に関心を抱かせてきた。事物に対する私のまなざしのとっかかりは、いつもそうだった。

およそ二十数年ぶりに訪れてみた大学近くの朝の珈琲店、私は記憶・思い出のまなざしてそれを見る。その後、幾たびかの改装をかさねて現在の店舗となっており、当時の面影は何もない。しかし、朝の珈琲をのむ私の目の前には、過ぎし日々に出会った人々の顔が、通り過ぎていくのだった。またそれらの人々を取り囲んでいたひとのいる光景として、その時代への感情がよみがえってくるのだった。

訪れた珈琲店は、私たちがまだ青春だったころ、毎週一回、日曜日の午後に集まっては何時間も一冊の本を手にして議論しあった場所だった。当時、よく夜行列車で金沢へ発った。凍てついた早朝の金沢駅から三十分ほどで内灘に着いた。内灘にはかって弾薬庫として使われていたコンクリートの塊がいくともあった。私の半生の生き方を決定づけた現代史についての興味は、そこから始まったのだったが、ここにもひとと私との直接的な関わりがあった。

それから十年が経って私は釜ヶ崎で写真を撮っていた。写真行為とは何かを考えていくなかでの結論は、写真行為を生活レベルで日常のものとすること。そうしてビデオカメラをもった若い感性のSとの出会い。

私のまなざしは、いつもプライベートな視点から始まっている。もし、私が今後も興味を示すものがあるとすれば、そのとっかかりはやはり非常にプライベートな興味からしか始まらないだろうと予測される。
かってわたしの興味は、このようにプライベートな源泉により生じていたが、それらの光景はいつも既成の枠組みによろ思想に収斂されていった。

価値の概容は、直感的に、既成の枠組みの中でしか生成されえないかのように、私は対応していたのだ。
類型あるいは類似形として外界を認識していくことが、価値を創造していくことの基本であるように感じていたのだ。

しかし、いま、このことは私によって否定される。私における視点(まなざし)の変遷をたどってきて、ここに大きな屈折点を見きわめる。
ステーグリッツがオキーフに向けたまなざし、若いひとが桃をとらえたまなざし。私はプンクトウムを得る。写真が私にとってかけがえのないものとなるとき、私のまなざしは木漏れ陽のように森の内部に這入り込む。

写真を覆い尽くしてきた一切の言葉を反故にしよう。私が語ってきたことばを反故にしよう。
私はいま、ここち良いまどろみのなかにいるようだ。この感覚は、私の、私だけが知る細部の感情が、私をこれまであった枠組みから引き離してくれる予感のようだ。

未生のとき、いま、私はこれから起こり来たる苦悩を引き受けよう。
ようやく春が訪れる解放感は、いまはない。しかし戸を開けよう。私のまなざし。私の解放。ほのかに、かすかな予兆を感じる。


写真の意味/試論-1-

写真が心に触れるのは、その常套的な美辞麗句、<技法>、<現実>、<ルポルタージュ>、<芸術>等々から引き離されたときである。何も言わず、目を閉じて、ただ細部だけが感情的意識のうちに浮かび上がってくるようにすること。
ロラン・バルト「明るい部屋」 <カメラ・ルシダ>

「写真はその技術的起源のゆえに、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)という考えと結びつけられるが、それは完全に誤りである。むしろカメラ・ルシダ(明るい部屋)を引き合いに出すべきであろう。」「明るい部屋(LA CHAMBRE CLAIRE)みすず書房版P131」

「写真」とは何か、といった、この二十数年来、ずっと私が私自身に向けて問いかけてきたものについて、それらをめくるめく考えの行方は、いつも私自身の内にある螺旋階段をぐるぐると上がったり降りたりしていたようだ。 かって私は、この教養文化の枠組みの中で撮られてきた「写真」への問いかけに対して、ささやかではあったが、さまざまな意匠をまといつかせた言葉を繰り返しながら、「写真」について、またそれら「写真」をとり巻くさまざまなシュチエーションについて考えていた。

 どうもこれまでの、「写真」をみてきた私自身のスタイルというのは、たとえばニエプスやダゲール、あるいはナダールといった写真草創期の写真家たちの業績やその時代の背景や動向、またアッジェやブラッサイといったパリの写真家たちの写真をとりまいた世界の意匠といったもの、また日本の現在にいたるさまざまな写真家たちが成してきた作業の累積を「いま」に引き寄せ、歴史的、技術的、芸術的価値からその意味を読みとろうとしてきたようだった。 私にとって、「写真」への興味の中味はいったい何だったのか。

 それはずいぶんと以前からその兆候があったと思われたが、ちなみに最近になって、この疑問が私のなかに生じていた。 昨年秋ごろ私自身のなかで、私自身の生の在処は、やはり「写真」といったもののなかに求めているんだなということが、わかり始めてきた。最初、針先でちょっと刺されたようなかろやかな痛みを、まどろみのなかの皮膚に感じた。おそらくこのときから、ほんの忍び足でそっと私に寄り添い、そうしてしだいに大きなうねりとなって押し寄せるようになっていった。 そのとき私は「アッ」と小さな声を漏らしたに違いなかった。それはほとんど意味不明の私の感情そのものの部類に属するものだった。

その日以降、私はいつになもなかったほどに精力的に、また自滅的ともいえる程に、私自身がかって撮り書きした私自身の記録をたんねんに読み返しはじめた。 そこには、自分の過去をふりかえったときに感じる、冷汗が出るような恥ずかしさと懐かしさの気分、つまり郷愁の感情が去来していった。と同時に私によって撮られ書かれた写真や文章の根底にあったものへの傾斜の仕方や思い方、また感情の生成といったものの回路を解きほぐし、いま一度、何も無かった地点から始めなければ何事も始まらないように感じた。

写真集を買い、評論集を買いあさった。そうして読むともなく見るともなくパラパラとページをめくっては書棚に放り込んだ。 一枚の写真が私にとって意味をもつとしたら、それはいったい何(どれ)だろう。私が撮った写真の群には、勿論、私にとってはそれぞれにかけがえのない思いが込められており、それなりの重量感をもって私に迫っていた。 「しかし」と私はそこに否定の疑問符をつけざるをえないのだった。「写真を見ることはもっと愉しいものではないか。」「写真を考えることはもっとリラックスしたものではないか。」 そう、記録性を拒もう。歴史的、社会的背景なんて拒もう。芸術の範疇が・・・・・・なんてどうでもいい。もっともっとプライベートな私に、感情がストレートに受けとめてくれる写真。写真は「明るい部屋」なのだ。

 カメラ・ルシダというのは、「写真」以前にあった写生器の名前で、これは一方の目をモデルに向け、他方を画用紙に向けたまま、プリズムを通して対象を描くことができる装置であった。 <写真の在処> 「写真」の成立についてロラン・バルト(Roland Barthes 1915-1980)は、ストウデイウム(Studium)とプンクトウム(punktum)といった概念を晩年の著作「明るい部屋(LA CHAMBRE CLAIRE)」のなかで提起している。

ストウデイウム、プンクトウムはラテン語であるが、バルトはこれに次のような意味づけをおこなっている。 まず、ストウデイウムについて。「あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受け止めたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしてストウディウム(一般的関心)による。というのも、私が人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである。」<明るい部屋、みすず書房版P38>

ここでバルトがいう、「ストウデイウム(Studium)」は、典型的な情報によって成り立ち、一般的関心をいだかせる写真ということで、写真の第一の要素としている。 また第二の要素として、このストウデイウム(Studium)の場をかき乱し破壊しにやって来るものを「プンクトウム(punktum)」と呼んでいる。バルトの意味づけによればプンクトウムとは、「刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目」であり「ある写真のプンクトウムとは、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。<明るい部屋P39>

 こうしてバルトは、写真の在処についての論拠を、私に与えてくれているようだ。 写真は、写真家の目の前にかって実在したものが、写真家の感性により多かれ少なかれデフォルメーションされ、印画紙等のうえに二次元的に定着された一般的には銀粒子によるコピーとして存在している。あるいは、印刷物としてインキの濃淡として定着している。 写真において、印画紙上や印刷物上に現わされる対象(私にとっての客体)は、直接的な事象の外皮である。

文字が、言葉が示すところの概念とはちがって、写真は直接的である。ここ、一枚の写真により表出された内容(その写真が持つ対象の外皮)が私の目にふれる。私は、とっさにそこに示された事物を認知し写真の外皮に現われたかたちが何であるかを理解する。 私が興味を引かれるのは、そこに現わされた事物の在りように対する「私の興味」であった。その事物が持つコードは、直接私のコードに殻りかけてくる。私はその語りかけに対し、その事物がそこに存在した意味、つまり背後にある概念の世界を嗅ぎとるのだ。

 それはときには、戦争の悲惨であり、身体の美であり、風景の異端であり、そこに写真家がかくして撮った、撮らねばならなかった意味を嗅ぎとるのだった。おおむね写真を理解することとは、このような方法によっていた。 写真を理解するとは、提示された写真の被写体(写真にとっての主体)が指向させる共通のコードが持つ背後の意味を嗅ぎとっていくことだと思っていた。写真の価値(在処)は、被写体(主体)が拘束されている制度的なるものを了解し、そこに意味を読み取り制約していくことだと思っていた。写真を「見る」ことによる喜び、悲しみ、寂しさ、といったものは受け取る側にそれを理解する回路を持たなければいけないように思っていた。

 確かに、そのように写真を理解しようと思えば、撮られた現場の状況と写真家の思い入れ(あるいは思想)が理解できなければ、意味をなさないものだと思われた。しかし、はたして思考回路として、それがそのように導かれることだけが、「良い写真」であることの条件なのだろうか。「人間」あるいは「ものたち」の糸が絡みつくような関係であって、こういった関係のなかで実際に影響をあたえ合うのは「あなたと私」「そのものと私」といった個別の関係をおいては、ありえない。 これらは、いずれも個別的であり、アノニマスなものではない。しいて言うなれば私と私の世界をとりまく他者との個別の愛憎関係(恋愛状態)とでもいったものに還元できるであろう。

私にとって、世にいう名作が名作として名を残さなければならないのは、私とのあいだでその写真がどういった位置にあるか、ということに他ならない。この位置関係は、感情の深淵(記憶との対話)であるように思われる。 私が「私の目でみた写真におけるプンクトウムは・・・・」というとき、それは、あたかも、不意打つように私の感情の淵深くをやわらかな刃物で傷つけてくるものだったといえる。私の感情を深く傷つけるものは、決してその写真が提示する教養文化の歴史的背景ではない。あるいは、この制度のなかでの制度が規定するところの「美しい」ものでもない。これは美の解体による新たな美の発生、つまり自己の内に既成の美意識を解体し再構築すること。そしてイメージと感情の深淵(慟哭・狂気)の交差をみつめることの繰り返し。

それは私にとって、最初は些細なことから始まった。 <ポートレイト> 私の手元に一冊の写真集がある。ステーグリッツ(ALFRED ATIEGITZ 1864-1946)が撮ったオキーフ(GEORGIA O・KEEFFE 1887-1986)の写真集である。冒頭一枚、まだ若いオキーフの微笑みをもった上半身のポートレイト(1917年)がある。もう百年近くも前に撮られたポートレイトだ。撮影者ステーグリッツは私が生まれた年にこの世を去っており、いまやオキーフもこの世にはいない。 こういった歳月の経過にもかかわらず、私はここに撮影者ステーグリッツのオキーフにむける熱いまなざし(共有・共苦・水平理解・愛)を感じずにはいられない。と同時に、それはあたかも私への写真の在りようにとって感じとる何とも言いきれないイメージ。ほとんど無意識の深淵からほとばしりでる感情に由来するところの感性を噛むものなのだ。

 黒い服に白い襟の上半身、オキーフの後ろには、オキーフがえがく絵があるのだろうか。アウトフォーカスになっている唯一の背景である。正面を向き、ごくありふれたこのポートレイト。オキーフの充実した微笑み。これは新しい世界を自由奔放に生みだしていく知的な微笑みなのであろう。私は、暗箱のガラスに写された逆さのオキーフ像を前にしたステーグリッツのまなざしとオキーフへの共生を感じ取らずにはいられない。

このポートレイト一枚に向かっていると、私は柔らかい刃物でこころの薄皮をはぎとられるような気持ちにさせられる。 まだ雪が舞っているのに陽光はすでに春のきざし。晩冬の気配が爪で引っ掻くような足音をともなって去っていくあの気分、あるいはこころの解放が近づいたことを感じとるあの気分、とでも表現すればよいか。オキーフの初々しさが、幸福いっぱいとでも言いたげに私にむかってきている。冬ざれた感性が透明な大気に解放される。私はこのオキーフの私への向かい方にあたらしい写真(愛の記述)の在処を感じる。 私のこの向かい方は、もう一世紀も前にステーグリッツがオキーフに向かったのと同じまなざしでありたいと思う。

ステーグリッツが暗箱のフレームにオキーフを独占したとき、それは時間としてはもうはるかかなたのむこうにあるのだが、私にはその一世紀前という時間差を少しも感じさせないのだ。 私は撮影者ステーグリッツが若いアメリカに青春から晩年を送ったひとであることを知っている。その時代と現代、私が生きる日本のいまとは、時代あるいは社会的背景が異質であり、ひとをみつめるカテゴリー(愛や憎しみといったものの感情)そのものが異質なものとなっているだろう。あるいは直感的には人間関係そのものが複雑化し硬質なものとなり、拠って起つところのひとをみつめるイメージが拡散してしまっているようにも感じられる。

ステーグリッツの時代から現在へ、かれこれ、それからすでに一世紀以上が経過しようとしているにもかかわらず、オキーフは新鮮だ。この写真集は、私がこの写真をみるまなざし、つまりこの写真の歴史的背景や二人の関係、またそれぞれの個人史を、説明する知識をふくめて、私の前に存在している。ステーグリッツの内面の世界に思いを巡らすとき、一方で時代を背負った社会的存在としての個人史があり、一方では感情の流れというか、あるいは言葉では表現しえない内面史があったことに気づく。

 たしかにステーグリッツは二十世紀初葉のアメリカで、写真というメディアを通じてアメリカを見てきたし「ギャラリー291」の成果や「カメラワークス」の成果を語ることができるだろう。あるいは近代写真の在処を示した、と。しかし、私がステーグリッツに対して持つこういった種の知識がどれだけこの写真、オキーフの私に向かうポートレイトを、私に価値あるものとさせるのだろうか。 いま、私がこの写真に向けるまなざしは、もっともっと私の個人的反応のなかで感動しているのだ。なおかつ、あえて私のステーグリッツへの興味をというならば、それは、彼の内面史あるいは肉声史と呼ぶもの、彼の内面の劇<オキーフとの位相・位置関係・干渉し合う関係>が体制からどれだけ自由でいられるか、を共有できるか否かだ。

 この写真集を最初に見たのは、もうはるかに以前のことだったろう(注:1980年頃)。写真ギャラリーのカウンターに置かれたシンプルでいて上品な装丁の写真集を・・・・・・。そのままついに最近まで私の記憶の奥深くにしまい込まれたまま、時折、記憶の像(イメージ)となって、ふっと立ち現われてはいたが、それはすぐに消えていた。 近ごろになって、その写真集をどうしてももう一度見てみたいという衝動にかられてしまった。なぜだったのだろう。この衝撃がどこから突き上げてきたのか私にはわからない。

私自身がかられてしまった欲望の変種としての衝動を彷彿させてきた未定形のパルスについて、それがどういった質のものであるかを。おそらく私の記憶深くの原形質、内面の根底をとりまき構成しているところの疼きなのだろう。 いま、ストーブを炊いた部屋の机にむかって、この写真集との出会いの記憶をたどりながら、カーテンを開けると、暖気でくもったガラスの外は雪。しんしんと雪が降っている。しかしもう春が窓辺ちかくまでやってきている。軽やかに。オキーフがはじめてステーグリッツに出会ったニューヨークにも、このように雪が舞っていたのだろうか。女学生だった彼女をとらえたステーグリッツのまなざし。そしてオキーフが私にむけるまなざしは、私を突き刺すばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつけるのである。


写真への手紙 覚書

第一部のためのノート

1988年2月14日付の書き出しで始まるこの「写真への手紙 覚書」はついに6年後の1994年の今まで引きずられて来て、第一部五編が上梓される。「写真とは何か」という命題は、遠くから問われてきて今もなお様々な切り口から論じられるところだが、核心に迫るところまでには至っていない。私にはこの問いかけ形式は永遠の課題であろうと思われる。これは、そもそもの問題の発し方あるいは設定の仕方自体が解決の糸口を掴まさないのであって、本来的には「写真はどう在るべきか」といったような、私が生きる人間社会での存在の仕方に言及肉薄していくような設問であれば、かなり自由に結論を導き出すことが出来るのであろう。

にもかかわらず私は、このエンドレスゲームを演じ続ける。あたかも永遠の青い鳥を探し求める様子で、また永遠の愛を求める時代の摘出子として。1994年1月17日、私はついに、写真とともに、これからの残された生を営む決定を下した。このフライトが明確な目的地を持たない離陸であることを百も承知した上でのことである。一過性の現象として私がカメラを持っていたのは、1975年から1984年にかけての、およそ10年間であった。処女詩集発行が1963年12月の日付だから、初期10年間は文筆を重ねていた。写真を撮っていた時期においても1978年から文筆を重ねているから、やはり私の基本体は文章を書き連ねてきたことになりそうだ。この最近の10年を経て、私は再びカメラを持ちたい欲求に見舞われている。

この写真論をディスクールし始めた1988年から私の履歴は大きく変遷してきた。しかし連続した内面の感情の流れは、やはり螺旋階段を昇り降りしているだけである。この感覚は少年の頃と対比してみても大きな変化は無いように感じられている。ただ年の功を経過しているだけ、俗に云う経験豊富になり、少年のころの初々しい恥ずかしさといったものが、厚かましさに変化しつつあると思われる。そして過ぎ去る時代とともに、過ぎ去る私の眼差しは、それぞれの時代と密着しながら変遷し続けている。

この「写真への手紙 覚書」と仮に題されたディスクールは、私の生の大河ドラマとなるべきものであると考えている。何時の頃からか私の内部には、全七部32編の覚書との構想があり、ここにひとまず第一部として五編からなる試論を展開した。しかしいずれの編も未成熟であり未完成である。私は言葉の連なりとはおおむね逐一、追記・訂正されていくものだと考えている。ただ第一部のテーマ設定としては、次のような枠を想定した。

それは写真の歴史150余年が培ってきた写真の存在について、新たなる写真の在り方を模索することであった。写真の在処を探すこと。この試論展開の直接の引導は、ロラン・バルトの「明るい部屋(LA CEAMBRE CLAIRE)」と題された写真論との出会いから始まっている。ディスクールの冒頭もそこに拠っている。しかし私の写真論の展開の過程においては、現代写真の質そのものが問題となった。これはそれまで私が体験してきた写真論(ドキュメントつまり記録)から写真を解き放つ試みとして、私にインパクトを与えた写真と私自身の体験の考証をシンクロさせながら、結果として「私」の問題として捉えようとしているようなのだ。

なるべく考証論と成らないように、私の内部に立ち現われてくるイメージを前面に据えようとの思いが、現状の評論方法としてかなり無謀な企て(策略)であることを百も承知でここに至ったと云える。今後、ここに著されたディスクールを見つめ、そこから派生する細部を解き明かしていく作業を想定しながら、私は私の生を連ねるだろう。

一方の私の思惑には、1980年代後半から1990年代は、写真の歴史にとって大きな過渡期あるいは転換期であったと、後の写真史家らがおそらく詳細に論じるであろうことを予測させるに十分な感触を、私は直感として持っている。その過渡期あるいは転換期にディスクールされたものとして、ひとまず私のこの「写真への手紙 覚書」五編の試論は上梓される。そしてこの五編の試論は、私の感性とシンクロさせてくださる、あなたに捧ぐ。

   Shigeo Nakagawa 1994.2.10


   写真への手紙 覚書
     第一部 目次

   第一部のためのノート

   写真の意味 試論

   まどろみの中 試論

   透明な写真 試論

   自写像の論 試論

   写真記録論 試論

   第一部のための付録(省略)

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