中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

2013年11月

京都で写真を学ぶなら  京都写真学校へ ただいま入学受付中です
 
2006.5.12
地下室&洞窟-1-

光と闇。健康と病気。そこで地下室&洞窟のイメージを捉えてみます。
地下も洞窟も、光が当たらない場所であるというイメージです。光が当たらないというのは、見えない場所です。光が、当たる、当たらないという捉え方は、もともと根本に光がある、ということを条件とした捉え方です。光という世界があることに対して、光がない世界ではなくて、光が届かない世界、ということになります。

もともと闇、光のない世界から、光がある世界が誕生する。老子のタオ(道)、聖書の闇と光、古事記もそうですね、ビッグバーンが起こった宇宙の科学的根拠も、無から有を生むわけですね。このように見ると、人間のイメージのなかに、闇、光の届かない場所が、かたちつくられてきた経緯を知りたくなります。

地下室&洞窟は、そういう意味で、光の当たらない場所です。暗闇です。これをヒトの意識のなかに置き換えると、覆い隠しておきたい秘密の世界、もしくは無意識の世界ということになるし、人間社会のなかに置き換えると、社会が見てはいけない世界、見せては都合悪い世界、ということになります。

そこでヒトの習癖として、見えないものを見てみたい、隠しておきたいものを見てみたい、覗き見根性があるんですね。この習癖というのが、実は、ボクの興味なのです。つまり、見えないものを見る、見てはいけないものを見る。その闇の世界と光の世界を、往復していきたいと思うのです。

おっとどっこい、これは危険極まりないことなのです。ヒトの本能にあるホメオスタシスを壊してしまう可能性がある。そうゆう代物です。だから、禁止命令が出されているのだけれど、ヒトはそれでもピーピングしたいとゆう願望を持っているのでしょうね。

地下室&洞窟を探検することは、往々、この危険と隣り合わせなのです。ある一線を越えて、行為すると犯罪とゆうことになるし、ある一線を越えて、心を通わすと、自己崩壊をを招くことになりそうですね。ああ怖い、だから行っちゃだめよ、立ち入り禁止!いつしかイメージ作られてしまった世界です。さあ、どうするかな~、ボクはそこで立ち尽くすのです。


2006.5.24
地下室&洞窟-2-


立ち入り禁止!だったらしゃがんで入ろう、ならいいんでしょ?!なんて冗談めかしていってあげるけど、人間って変な習性があって、入ってはいけないとゆわれると入りたくなるんですね。写真も文章も、そういうことでゆうと、かって立ち入り禁止区域だった場所が、いまはかなり立ち入りできるように、なっては来ています。

ワイセツの領域についてゆうと、たとえば写真、ヘアーヌードが騒がれたのが1990代、今から14~5年前、メープルソープの写真集を巡ってとか、マドンナの写真集を巡ってとか、それにアイドル写真集にヘアー解禁なんていってたのが、そのころです。地下室でもなければ洞窟でもない。ヒトの意識の中心だけど、良識のヘッジに置かれていた。つまり光が当たっていたわけです。

1980年代に「写真時代」を代表とする月刊雑誌が盛隆だったし、そのころビニ本、一冊千円、大流行だったし、でもビニ本無修正ってのは五千円ほどぼった食ってました。そうだね、女性器を分解してパズル・モザイク、のようにして印刷してあったり、でしたね。SM雑誌など際領域の雑誌や写真集が大量に出版されだすのもこのあたりです。

いま、ワイセツ領域を中心にメモってますけど、国際政治領域、つまりあっち側の情報も、我らにとっては地下室&洞窟です。最近ならテロ領域です。たまに、もどかしそうに、ニュースネタになる。ええ、事実が羅列されても、本音は語られないんだけれど、本屋さんへいけば、サイードの著作とか、けっこうあっち側の情報も手に入るようになってきています。

要は、光が当たる地表&洞窟の入り口、そのちょっと暗くなって識別不可寸前のところまでは、サーチライトに照らされだしたといえます。ボクは、なお、その奥へ探検隊として入り込みたいと思っているわけで、まあね、人生の終わりに向けて、そこへ行ってみたいと思うんだけど、躊躇しているのも事実です。


2006.7.27
地下室&洞窟-3-

地下室を身体、洞窟を頭脳と置き換えれば、地下室&洞窟という別名は、ボクの身体と頭脳のはたらきだといえます。つまりボクはここで、ボク自身の構造について、考えてみたいと思うわけです。ところが、自分のことを自分で分析するということが、可能なのかどうかという疑問と、自尊心とか羞恥心とか、心の内部の出来事を見つめるわけだから、ちょっと躊躇しているのも事実です。でも、なぜこの講を立てたかというと、直接には、自分と写真表現というテーマがあるからなのです。

つまり、カメラは外界を光によって画像としてくれる装置なわけで、そこに自分をどのように関わらせるのか、という問題に直面しているのです。そこで光がとらえる光景をカメラに収める技術のこと、その光景が社会との関係においてどうなのかということ、それにその行為を行う自分存在のこと。この技術のことと社会関係のことについては、反復学習により取得できると想定しているのですが、自分存在の意識化とその意識行為の根底にあると想定する、情、感情というレベルを、どのように表現し、他者と共有するのか。

その情、感情のレベルにおいて、クロスオーバーできないか、オーバーラップできないか、共有できないか、個を超えることができないか、このようなことを考えているのです。平たく言えば、性器を交わらせるときに発生する感情、感覚という体験のレベルを、カメラ行為のなかで体感することができないだろうか・・・。

写真画像を制作するにあたって、ヒトの意識の発生ということ、ヒトの記憶の生成と成立ということ、そういうことが発生してくるころをイメージ化できないか、との思いがあるのです。いってみればボクの写真のテーマということです。では、そこで、なにをしようとしているのかということです。よりプリミティブな、より源泉的な感情を見つけ出すことだ、といえるかも知れない。心を別の位相で奮わせたいと思っているわけです。このようなたわけたことをイメージしているわけです。心の発生、イメージの発生、記憶の生成、ヒト個体の肉体と共にあるそういう装置を、カメラでもって作り出せないかと思っているのです。


2006.3.15


花はなんといってもやっぱり桜がいい。つくづくそう思うようになった。そういえば、桜の季節には、桜だよりが報じられます。桜前線北上中なんていって、南の地域から順次北上して北海道まで・・・。

けっこう素直な人になったみたいなボクなんだけど~なんていってあげたいお年頃になったってゆうわけでしょうね。桜とか牡丹とか、かってはこんなお花を愛でることを嫌がっていた自分があったけど、今はもう違うんですね。素直にこころの中を見つめてあげると、感じちゃってるんですね。

写真を撮ったり文章を書いたりしてますけれど、その根底のこころの表れ方とでもいうようなことに興味を持ち出して、花、それも和風な花に関心を寄せているんです。桜なんてその最たるもので、なんだかんだと云っても、見てると感じちゃう。そういう花です、桜とは、ね。


 800kyoto0904030013

2006.4.9
桜を撮る


桜の季節に桜の写真を撮る。なぜなら、写真はそのときの光景しか撮れないからです。これは写真の宿命といえるものです。それでボクは、この三年、桜の季節に桜の花の写真を撮っています。

撮影にあたって桜の撮り方、つまり桜のなにを撮るのか、桜を撮ることでなにを云いたいのか、なにを表現したいのか、ということを考えます。ボクは端的に、桜は情だ、と捉えています。人間の情、ヒトの情、ボクの情、つまり感情ということです。

写真表現とは、社会の関係図を表現する、つまり社会の構造とか社会における個人のあり方などを示唆し、解きほぐし、関係を明確にする行為です。でもそれだけではありません。そこに作家個人の考え方や感じ方というものが組み込まれるのです。この図式のなかで、写真はおおむね、社会の関係図を理知的に明確にしてきたと考えています。

そのような写真表現の現在地点は、社会構造を理性的に図式化することを超えており、個人の社会構造の解釈を提示することを超えており、あるいはこれを含みこんだうえで、個人の<情>の具現化なのだと思われます。桜取材におけるボクの写真の構図は、桜だけです。桜の群生、桜のクローズアップ。光と桜の花だけで構成する写真です。

ボクの情が、桜の花を見て揺れ動く。妖しく艶やかに色めかしく揺れ動きます。セクシュアルな情が揺り動かされているのに気がつきます。この心の揺れ動き、つまり情が動いている様を表現したいと思っているのです。


2006.4.20
再び桜について

ボクの桜の取材地は、京都と金沢です。いずれもボクの生活空間においての撮影です。京都は、平野神社、法華宗本法寺、今年は千本釈迦堂の桜も撮りました。金沢は、別荘の庭に植えられた桜です。

平野神社の桜は、子供の頃から見慣れたというかよく遊びに行った場所としてあった場所の桜です。法華宗本法寺の桜は、ボクのお墓があるお寺です。千本釈迦堂の桜は、子供の頃に遊んだ場所です。金沢は、いま別荘として使っている家の桜です。

三年前の秋にデジカメを手にして、再び写真撮影をしているわけだけれど、撮影場所は、自宅とその周辺、それに、かって思い出を作った場所。それに限定しているんです。だから、桜の取材地は、子供の頃から親しんだ場所である平野神社と千本釈迦堂となるのです。本法寺は、ボクの墓所だから、近場すぎる場所です。金沢の桜は、苗で植えた桜です。枝垂れ桜、ソメイヨシノ、山桜、ボタン桜などです。

生活周辺と記憶の光景。これがいまボクが撮影する場所です。桜を撮る意識のなかに、東松照明さんの桜作品を思い起こしています。かって取材に同行したとき、彼の作風は桜一輪ではなくて風景を含む全体を撮る手法だった。その背後に社会性、桜が置かれた社会性とでもいえばいいでしょうか、それが撮影の本質だったようです。ボクは、そっから派生してきて、桜に向き合うボクの情感に絞っているわけです。

老いぼれていくボクの身体と、桜の初々しい美しさへの憧憬の具現化、とでもいえばいいかと思っています。憧れとしての若さ、そこにエロティシズムを感じるわけだけれど、そろそろ老体の感じる嫉妬心なのかも知れない。


2006.5.8
ぼくは健康な人間だ・・・・


ぼくは病んだ人間だ・・・・、で始まる小説があるわけですが、ボクがいま思うのは、ぼくは健康な人間だ、と思おうとしていることなんです。
多少でも文学を齧ったヒトなら、そうですね、近代文学なんて、病気であるわたし、なんてのが底流にあって、やっぱり<病む>というのがコンセプトだったわけです。
地球が病んで、戦争があって人間が病んで、からだの病気があって、精神科の病気があって、こうしてみると、まわりは病みだらけ、っていうイメージです。

でもね、まあ、だから、発想の転換、ぼくは健康な人間だ、と宣言したくなる気分なんです。病み文学から健康文学へ・・・。エロスもカロスも、表現のテーブルに乗せることは、健康だ~!って宣言したいんです。
そのためには、ボクという人間の、闇、ブラックホール、だとイメージされるものを、明るい場所に解き放ってあげないといけないんですね。そこで、ぶつかっちやうのが、モラルってゆう代物だってことも、承知のうえで、開放できないんかな~なんて思考してるわけです。ボクの地下室は、健康な場所だと思いたい、ですね。

2006.1.28
芸術ということ-1-

芸術ということを考えてみます。考えるに当たって、単に芸術とは何か、という問いをしても漠然として、当を得ないように思われる。そこでいくつかのフレームにわけてみる。目的は、現代社会の枠組みのなかでの芸術作品、芸術行為の大勢現状を把握してみること。そうしてそこから導き出される将来的あり方を考えてみるのです。

全てが商品として価値化される大勢があります。だから当然、芸術作品と呼ばれるモノも商品価値のなかに置かれています。絵画も彫刻もしかり、現代美術の作品群においてもしかり。つまり商業資本の枠組みのなかで、商品取引の対象となるモノでなければならない、といいます。

でも、作家行為つまり芸術行為は、違うといいます。芸術行為は、商品経済の枠組みの外だ、という理屈です。たしかにそうでありたいという願望はありますが、実際の現場はどうなのでしょうか。自分の作品を世に出したい。作品を制作し、お金に替えることで実生活を支える。世に出すためには、なるべく高尚なるものの裏づけによって、商品価値を高めたい。

ここで云えることは、商品価値を生み出す仕組みに自分を置くことで、それを作家行為、芸術行為の目的としてしまう傾向があるということです。ここでは、この傾向を作り出す経済構造の話ではなくて、それ以前の位置において、芸術行為というものを捉えていきたいと思うのです。

つまり商品としての価値を高める戦略を抜いたところで、個の営みとしての創造行為を、捉えてみたいのです。作家と呼ばれたい願望を構成する、作家の社会的目的とは違う位相での、考察なのです。それは、大きな基準となる社会価値とは別の価値軸に、もう一つの価値軸に足を置いた立場での考察となりたいのです。

2006.2.16
芸術ということ-2-

近年、自給自足ということが話題になります。この自給自足の実現は、貨幣経済からの独立、あるいは商品ではない概念のなかで、食料とか什器類を生産し、自分のものとしていく構造です。
この発想と具体的な実践活動が、随所で取り組まれつつあります。その文脈において、芸術ということを考えてみるのが、目的でもあります。

商品価値から逸脱する芸術作品は、すでにその前提となる商品経済を持たないから、もはや芸術作品とは呼ばないほうが良いのかも知れません。
自給自足においては、生産と消費が統合されるものです。生産とは、モノを作り出す工程です。おおむね食料と生活道具を作り出すことを意味します。でもここで、ヒトのヒトたる由縁をいうならば、身体を養い安定させるために、食料をつくることと同時に、心を養い安定させることも必要になります。

衣食住足りて芸術がある。そのような捕え方ではなく、衣食住と芸術は同じレベルで、ヒトには必要だとの考えです。では、ここでいう芸術とは、いったい何なのか。
ここで芸術とは、ヒトが生きるエネルギーの中にある、あるいは生きるための、心のエネルギーの発露であると捉えます。このことを自給自足の枠で捉えると、自分の生存のための行為であると導かれます。

自給自足は、一人でできるものではなくて、一定の集団によってなしえるものだと認識しています。でも、今の世において自給自足を考える、このこと自体、すでに思考の産物であり、それに基づいて実行していくものです。ここには、個の自立が必要になります。ということを援用すれば、芸術ということは、かって洞窟で描かれた絵画とそれを成すヒトの心とは、違ったものとなる。この前提として、ヒトの心は進化する、という捉え方があります。

2006.4.28
芸術ということ-3-

ある物事を極めていく道筋の結果、出来上がってくるものがあります。経済効率を優先する道筋ではなくて、ある種、経済効率から遠ざかり、合理性から遠ざかり、好奇心とか情の動くままに、作って光っていくもの、まあ、いま思いつきで、言葉を連ねているんだけれど、そんなもんを<芸術>の範疇にいれようかと、思います。

そんな理屈とは関係なしに、やっぱりこころときめく気持ちを大事にしたいと思います。今年も、桜を写真に撮った。カメラっていう道具を使って、写真を撮った。デジカメです。そりゃ便利なものですね。取材して持ち帰って、パソコンに繋いで、すぐさま画像をみることが出来る。ここで、芸術の価値についていうと、手間をかけることで価値が決まるものではない、と思っているわけで、絵具を使った絵画の方が芸術性が高いなんぞは、毛頭、思ってないわけです。

芸術ということには、スキルが要求される、これは認めたいんです。ツールを巧妙に扱うということです。そうしてそのツールが最良の効果を発揮できるように使いこなしてあげること、これがスキルです。
でも、これは外枠であって、大事なのは、光る心、この<光る>ということです。情の発露として光っていることが必要だと思うのです。

光り方は様々にあると思います。花火のような光り方があれば、宝石のような光り方もあれば・・・、心がときめくこと、キラキラときめいてくること、これが条件だろうな、と思うのです。光輝く心、作者の心内とは、この感情に包まれることかな~と思うのです。

なんだろ、桜の花が満開になっていくとき、心ときめいて、うずうずだね。それで、このうずうず気分のままに、写真を撮ってあげた。その結果、満足いくように撮れたわけではないけれど、それなりにうっとりしてしまって、心、光っている感じ。これだね、と思ったわけです。これが芸術の心だな。

2006.6.6
芸術ということ-4-

芸術ということの中味は、いったい何なんやろ。あるいはどういう状態をゆうんやろう。ボクは、こんな疑問に苛まれているわけです。芸術作品ってのがあります。形になったもの、存在するもの、美術館であれ、路上であれ、目に見えて存在するもの、芸術作品とゆうときには、内容はともあれ、このように言えるんですけど、単に「芸術」ってゆうときの内容は、何を指していえばええのやろ?まあ、こんなたわけた疑問に苛まれているわけです。

そこで、芸術の中味を考えてみて、文章にしてみたいわけです。とゆうのも頭のなかでブツブツ言ってみても始まらんわけで、言葉で喋って伝達するって手もあるけれど、それでは形に残らないから、文章にして定着させるわけです。こんな形式を評論とか批評とか言うわけです。だから、ボクは、ここで評論をやろうと思っているんです。

ボクが思うに、芸術という枠は、心の動きだと解釈したい。心の動きには情が伴い、情動のなせる自意識。この自意識の伝達、つまりコミュニケーションのプロセスじゃなかろうかと思うのです。このプロセスを、見たり読んだりできる形に仕上げていくことで、芸術作品となって結実していくのではなかろうか。そのように考えるわけです。

芸術は、ひとり単独で成立するか、といえば成立しないと考えています。情動がなせる自意識が、他者に伝達される契機を含み、そのことを自覚的に捉えて、関係を紡ぎだす。つまり、コミュニケーションの手段だと考えているのです。芸術の基本概念には、このことがなければならない。そう考えています。

とゆうことは、他者に伝達を意識しない情の動きは、芸術以前のものであって、芸術か否かの境界線は、他者を意識するか否か、ということなんだろうと考えているのです。他者を意識して、何かを作りだそうとすれば、それが全て芸術かといえば、それはウソで、そこにはコミュニケーションの成立と、情動のパッションが伝わらなくてはダメだと思ってるのです。

他人がどのように思おうと、知ったことではない!なんてことを、作品提示の段階で言う人がありますけれど、これはボクは認めないんです。他者と共有し、情に感じ合う関係が成立することを、ボクは芸術の基底をなすものだと考える。ここですね、ボクが思う芸術の基本形。基本スタイル、基本プロセス・・・。

京都で写真を学ぶなら
 京都写真学校へ
ただいま入学受付中です

2006.1.8
門を開ける-1-

教家を目指す者は、門を開けなければならぬ。ボクは、このことを命題として捉えてきたけれど、門の向うは異端とゆわれる領域だから、躊躇してきた。さて、その門を開ける当事者となるかどうかの選択を迫られているのが、現在のボクだ。

1978年から1984年にかかて、ボクは釜ヶ崎において写真を撮った。その場を軸に文章を書いた。いま思い起こすのは、このときのボクのあり方だ。ボクは、門を開けようとしたのだと思っている。既存秩序のなかで、政治的、経済的、社会的な世の枠組みのなかで、そこから逸脱することを試みた。

特殊な場所、そこは特殊な場所だ、という認識が世にはばかる。一定の線引きをしようとする秩序とゆわれる領域から、あたかも逸脱した場所であるかのように認知させる。いわばその特殊とゆわれる場所を、秩序の領域に組み入れること。このことが、芸術家や宗教家の仕事だ。

いまやテーマは、ヒトの内面のことだ。秩序に封じられてきた内面を、秩序の領域に組み入れること。それはセクシュアルな領域である。フロイトが云い、ユングが云い、ベルメールやモリニエが手がけた芸術表現があり、まだまだ特殊領域であるSMの世界であり、男と女のセックス現場であり・・・といったセクシュアルの領域へだ。門を開けた向うには、そういう領域があるのです。

2006.1.21
門を開ける-2-

門を開けた向うにみえだしてきたのは、こころの曼荼羅です。
おとことおんなが入り乱れ、静かな感情と乱れた感情があり、おとこがおんなになり、おんながおとこになる。そうして動物のうごめく内臓があり、叫びが聴こえる。
整理された世界が、ぐらつきはじめて、混沌の海に投げ出されていく。遠くで海鳴りが聴こえる。遠くで山彦が聴こえる。幻覚幻聴、全て夢幻だ。

夢を見る。理屈の通らないストーリーだ。渦巻く記憶が再編成されて、夢幻のなかに組み立てられる。これを無意識からの呼びかけだとすれば、その深淵はやはり混沌なのだ。色がある。赤い色に黒い色。それに白がある。色の無限ディテールのなかで、情欲を覚える。桃色遊戯、蒼ざめた馬、オレンジやピンクがあればブルーもある。グリーンもある。色のディテールで、感情が揺すられる、情が動く。理屈を抜いた内面の世界は、情と欲、感じることと前へ出るエネルギーしかない。

いま門を開けて、なすべく作業は、この混沌を整合化していく作業に他ならない。アートが、及びアーティストが、これから向かう道筋は、この混沌を具体的な形象やイメージに仕上げていく作業なのだ。肉体のシンボルを形象化しイメージ化するか、肉体そのものを形象化しイメージ化するか、それの組み合わせの問題だ。

アートが様々な意匠を着せて飾るのは仕方がない。しかし、その根源は<知>ではなくて<情>である。知は意匠でしかない。知のゲームが全てではない。いうなれば、アートは、徹底的に情のゲームに徹するべきなのだ。知の領域、世の意匠の領域をむしろ排除して、情の領域を前へ押し出していこう。デジタルネットワークの領域で露出している個人の情を、裏とか表とかの判断基準の線引きではなく、一体のものとして捉えるべきなのだ。表が裏に、裏が表になっていく、表裏一体のものとして捉えていく必要がある。デジタルネットワーク時代の、リアルとヴァーチャルという問題は、じつはパラダイム変換の途中でこそ解決の糸口がみえるように思われる。

2006.1.24
門を開ける-3-

情の世界を考える。この考えることじたい、すでに情ではないのだけれど、この世は、なにかとゆうと言葉に置き換えなければいけないし、言葉を紡いで、読み物にしなければならない。特にこの枠組み、ここ、は文化&芸術批評なんてことを標榜してるんだから・・・。

区分のひとつに「男と女」という分け方がある。じゃあ、情とゆう領域でみると、これは何処でどのように分けられるのだろうか。この問題に、もう何年も前から突き当たっている。で、いま思うことは、シームレスなんだ!という思いです。世の中を区分したがる習性のなかで、あえて区分するとすれば、これはシームレス、区切りが無い・・・。そのように思う。

ボクの意識のなかに、男性と女性がある・・・。で、身体は男だから、身体とともにある意識が向く興味は、女性の方へ、である。そう思って、幼年のころからのボクの興味のありかたは、世に区分される、女的なほうに向かっていたと思われる。子供の遊びは、ボクらの時代、明確に男女区分があったようだ。その女の遊びに興味が向いていた。めめしかったのだ。

いまもそうだけれど、たとえば被服の肌触り感がある。男物のごわごわ感より、女物のしっとり感が好きだ。木綿にしろ羊毛にしろ、柔らかい感触が好きだ。女家族だったから、洗顔クリームとか、シャンプとかリンスとか、その他諸々を女性ものを使っているけれど、違和感は全く無い。むしろ整髪料など男物を使ったことがあったけれど、全く違和感を覚えていた。

これっていったいナンなのだろう・・・。そうしていま、情のレベルはシームレスだと認定する。ヒトの情に、幅があって、世の中の区分の、より男よりとより女より区分がなされて、そのヒトが、どの位置にいるのかというのがあるだけのような気がする。曼荼羅には全ての情が含まれて、ヒトの曼荼羅にも全ての情が含まれているのではないか。その全ての無意識から、意識されるもの、これが、そのヒト性質・性格としてあるのではないかと思うのだ。

京都で写真を学ぶなら
 京都写真学校へ
ただいま入学受付中です

2005.11.4
過去・過去・過去

生きてきた過去を振り返る。十年単位で振り返る。
なんとなく10年という単位が、区切りよさそうに思うのだろう。
0才代の終わり、10代の終わり、20代の終わり、30代の終わり、40代の終わり、50代のおわり・・・
6つ目の終わりの<いま>だ。

生きること、生きてきたこと、これはいったい何だったんだろ~?!
肉体が生成し、衰退していく。この衰退期に入った<いま>自分の行為を振り返ってみたい欲望、欲求に苛まれている。
ヒトがそれぞれに、自分の痕跡を残すために金をつぎ込み労力を注ぐ、という実感がわかる。

この文を書いているときに郵便が来た。
ギャラリー新居にて、東松照明展、11/7~11/26の案内はがきだ。
見覚えのある執筆、彼の直筆である。

朝から、写真史のイメージをアルバムにアップしていたとき、彼のことを脳裏に描きながら、作業をしていた。
会える、と一瞬思った。
さてどうだろう、それは不明だけれど、見にいこうと思う。

写真は記録であり記憶を保持する。
82.6.26とサインされた東松照明さんとの写真。
ポラロイドで撮られた写真だから1枚オリジナルである。
奇遇といえば奇遇的に遭遇した東松照明さんだった。
過去の同伴写真をここに掲載することをお許し願います。

30代の後半の3年間。懇意にお付き合いいただき、それからボクの方から疎遠にしていました。
それから20数年という月日が過ぎ去り<いま>
いま出発しようとしているボクは、この頃に原点を置きつつあります。
作家しようと思う日々、残された時間のメインを、作家として生きたい。
どれほどの時間が残されているのか不明だけれども、だからこそ切羽詰るということも云える。
過去は循環し未来となる。

2005.11.7
東松照明展

そう、今日、大阪は淀屋橋にあるギャラリー新居まで行った。東松照明展のオープニング初日。東松さんは居なかった。

Camp カラフルな!あまりにもカラフルな!!
これが展覧会のタイトルです。撮影場所は沖縄。今回、基地の問題がクローズアップされている。
写真は1970年代の撮影から今年2005年撮影の写真まで。最近のは、デジタルカメラで撮られたと聞いた。
何十年と変わらない視線がある。東松照明という写真家のスタイルである。数十年前の写真と現在の写真と、撮影年が付記してなければ、判らない。

テーマがリアルな現実へ戻ってきた。太陽の鉛筆から京都を経てインターフェースへと辿ってきた写真の表面と、思想の在処が、一巡した感がある。
再びリアルな基地を、写真のテーマとして浮上させてきた。
展覧会から自宅へ帰ってきて、テレビをつけると、普天間基地の移転について、知事が反対声明とも取れる発言をしている。
世界軍事地図、そうしてグローバル化の中のアメリカ。生臭い現実が、ここに掉さされる。
風化する時。・・・かって長崎の写真群においてつけられた括りだ。取り扱う写真の問題は<いま>、生々しい世界、現実世界なのである。

2005.11.23
キリスト

イタリア旅行最初の訪問地はミラノでした。案内にはドゥオモと記してあります、聖堂です。そこで遭遇したのが、磔刑のキリスト像でした。
聖堂の中に入ると、なにかゾクゾクする感覚になる。高い天井、広い空間、入って右にはステンドグラス、左に磔刑のキリストの祭壇があった。照明が当てられ、蝋燭台があった。
仰ぎ見るようになる角度で、蝋燭台の前に立った。

ボクの知識は断片の繋ぎ合わせだ。むか~し聖書を少し読んだことがあった。はたちの頃だ。それからキリスト受難の物語は、遠藤周作氏の小説で読んだ。これはもう50になってからだ。マタイ受難曲がキリスト受難の音楽物語だというのもその頃だ。

ボクの記憶の断片を繋ぎ合わせても、まったく全体にはならない断片でしかない。書のなかで、写真で見たことがある。でも、ああ、そうか~って程度の認識でしかなかった。
ジッドの狭き門を数年前に読んだ。信仰に向かう気持ちを説いた小説だと思った。

目に見た磔刑のキリスト像。その飾り立ても影響しているのだろう、ボクは感動する。身体がゾクゾクと震える感覚だ。
ボクは、これまでイメージでキリストを描いていた。現実、現物を見たとき、立ち現れた感覚。これが信仰に向ける気持ちなのかも知れない、と思った。

最近、信仰ということに興味がある。芸術に向かう気持ちと信仰に向かう気持ち。この「気持ち」という感覚についての興味だ。理屈ではなく、感覚である。当然そこから写真のあり方につながる。

まったく未整理のまま、ボクの思いのなかに立ち現れた磔刑のキリスト像だった。いま、ここに、未整理のまま、言葉を羅列した。

2005.12.24
門が開くとき-1-

門は、向こう側とこっち側を区切る境界です。バリアーといえばいい。あらゆる物事に門がある、バリアーがあるといえば良い。
写真においても同じこと。発表できる、つまり人様に見せることができる写真と、見せることができない写真があるようだ。要するに話は、この境界を閉ざしている門のことだ。
この話じたい、危ういものだ。タブーといったり、禁句といったり、触りたいけれど触れない、そんな門の向こう側の話のことだ。

インターネットに繋いで2年少しが経った。自分でホームページを立ち上げ、ブログを駆使している。メールアドレスを方々で公開している格好だ。そういう前提に立って、現在のメール環境を見ると、俗に迷惑メールとして処理されるメールが、一日にどれだけ到着するのだろうか。

迷惑メールとして処理されるメールが100通以上だ。迷惑メールとして処理されないメールも、それくらいある。つまり一日200通以上かも知れない。これが現在の実態件数だ。
これらのメール内容が、ほとんセックス関連である。

セックス関連のことは、ヒトの興味をそそることだ。興味があるからこそ、それが産業となるのだ。かってインターネットがまだなかったころ、出版物、ビデオという代物であった。これがインターネット時代になって、このツールが使われるようになった。あたかもセックス関連の門が開かれたかのような状況が到来しているのだと、認定しだしている。

だからこそ、いまこの現状を避けて通れない門なのだ、と思うのです。
門の向うから、猛烈な勢いでサイバー攻撃してきてる・・・。国際情勢でいえば、アメリカの攻撃をかわすためのテロみたいな構図だ。
ボクはこっち側にいて、向こう側を撃墜できないから、ひとまづ融合しちゃおうと思う。無視するのは、ダメです。嘆くだけもダメです。禁止しても無駄です。だから、受け入れてあげて、融合してあげる。

敵にも理あり・・・。求める心があるから、やってくるんです。無駄な抵抗しないで、門を開いてあげればいんです。反撃するもしないも、ここから始まるのではないか、と思うのです。


2005.12.26
門が開くとき-2-

<男-女の軸>
世の中が男と女の区分軸で成り立っているとすれば、この男と女を取り替えてみれば、どのようなことになるのだろうか。これが興味の発端だ。男のなかの女性、女の中の男性。ボクの捉え方の根底に、男と女の身体的違いを外してみると、男から女へ、女から男へ、変わり得るのではないか、というより男と女のあいだはシームレスではないか、という想いがある。

この風土が、男軸と女軸に分割されてきた風土だとしたら、ここで、いちど融合できないかと考えるわけだ。女装する男がいる。男装する女がいる。身体と心が一致しない男女の性ということもある。ずいぶんと長いことボクは、自分のなかの男と女に着目している。どっちかといえば男的、どっちかといえば女的、社会の掟にしたがって男として生きているのだけれど、かいま見える女性。

ヴァーチャルな環境が広がってくるなかで、男が女に変わることが可能だ、と考えるようになった。女になりきる。これは現在的なテーマではないだろうか、と思い出してきたのだ。多かれ少なかれ、男-女軸風土のなかでは異性願望があるのではないか。そこでこの願望を願望でなく、実践していく、とこのように考えた。

そこでわかってくるものがある。男が女を見る視点ということだ。「或る女」を想定して虚構として創りあげていくことが、ヴァーチャル環境ではできる。そのように考えたのです。この実験はさまざまな誤解を招くと思っているのだが、目的は、男-女軸の見直しなのだと認定している。二分法から融合へ、である。あるいは混沌・・・「とりかえばや、男と女」河合隼雄さんの著作を読んだ。ヒントはこの中にあった。

男の立場で見ていた男や女の習性を、女の立場でみると、その習性がどのように変わるのか。男女の群れのなかにいて、どのような変化が起こるのか。それは自分の中の問題意識だ。


2005.12.31
門が開くとき-3-

門を開いた向こう側は、混沌の世界だと思う。分割整理されたこちら側には、苦しいけれど安定した領域だ。ところが、たぶん、向こう側は、不安定、混沌の世界だ。

ヒトの心のなかに、この混沌の世界があると思う。未分化領域、無意識領域、混沌領域だ。情が動く、情動という場所は、この混沌領域をねぐらにしているようだ。

男であることと女であることを、分割されたこちら側の区分だとすれば、男であり女であることは、向こう側の混沌の世界だ。いや、ここで男、女という区分を持ち出すことじたい、こちら側の発想だ。

このテーマを持ち出すのは、現在の写真表現の領域で、また文学表現の領域で、極私的視野が必要になっているからだ。情動はエロスである。極私的視野はエロス視野である。開かなければならぬ門は、エロスの門である。

情動はエロスだとすれば、この情動は封印されてきた。公共園という概念がある。この公共園のなかで封印されてきたのだ。封印を解くことは、もうひとつの公共園を、あるいはオルタナティブヴィジョンを立ちあがらせることだ。

この領域は妄想である。妄想の具体化は、たぶん反社会的なのだ。芸術は妄想の具体化。芸術が既存の領域を打ち壊すものだとすると、妄想の具体化は秩序を壊して混沌へ導くものになる。

科学がヒトを分析し、その身体構成をミクロな領域で解明していく。芸術は科学を超えた妄想だから、ヒトを科学を超えた妄想によってイメージ提起をしなければならぬのだ。


2005.9.23
生命の記憶

今日は愛犬「ケン」の1年目の命日。
生まれて直ぐにやってきたんだけど、18年ほど生きたんです。犬の寿命としては長いようです、老衰です。

生命の記憶が、万物に備わっていると云います。
植物、動物、そしてヒトという動物。
遺伝子が記憶媒体なんだそうですが、今、科学は、この遺伝子を含む生命現象の解明に挑んでいるんですね。
生命を科学手法によって解明する。たいへん興味あります。
でも、一方で非科学って云って括られる領域にも、非常に興味がありますね。
そこで、科学と非科学の融合なんていう、科学手法が編み出されている現状です。

ボクは、この非科学領域を、感情の領域、記憶の領域、心の領域・・・つまり「感じる」ということにベースを置いた領域だと思っているんです。だから、科学的手法で解明できるのかどうか?未来のことは判らないですが、当面の問題は、この「感じる」ことをどう捉えるか、ですね。

愛犬「ケン」が死んだとき、そこには「哀しみ・悲しみ」と感じる心があった。密着していた生き物がいなくなる。ここに撮られた写真は、現物として存在した。その日、焼却されて消えていった。
たったそれだけの事実なのに、ボクの気持ちは「感じる」んです。1年前の記憶が、甦ってきて、感情が湧いてきて、哀しみ、悲しみ、の中にあります。

写真は記憶をとどめるためにある。撮られたときから時間が経って、写真はその時間を生き、未来によみがえる。
記録と記憶。写真は、表層の記録だけれど、本質は記憶に基づくのだと考える。生きた証、生命の記憶である。


2005.10.4
デジタル写真の未来

ボク自身が2年前から再びカメラマンをやりだしたんだけど、デジタルカメラです。つくづく楽やな~とおもっている。処理とかランニングコストという面で、です。
写真のテーマは、自分周辺のことに定めてるから、当分は金沢と京都周辺での撮影に徹します。

ところで、デジタル写真の可能性というのは、デジタルネットワークにおいて使いこなすことにある。インターネットで、写真を掲載して写真展を開く・・・。これが主たる使い方としてあるんだけど、これはボクの使い方です。

評論家として云うには、写真から映像に広がってメディアアートとかバーチャルアートの領域への展開でしょうね。
これまでフィルム時代に、写真が持っていた領域は、デジタルにおいてもそのままそっくり頂ける訳だしね。
だからデジタルカメラが基調になったとき、コンピューターと結びついて、様々な可能性へと拡がっていくのだ。

とはいえ写真という静止画にこだわるかぎり、写真は静止画として存在する。
そこで写真に撮られるテーマの中味に立入っていかなければならないのだ。
はたして、デジタルだからこそ、特有のテーマが導かれるのかどうか、という問いなのだ。

デジタル化による社会の情報環境が変わる。それに伴って、デジタル化特有の人格が形成される。デジタル世界の影響だ。
問題は、ここ、この社会環境の変化による人格の変化。それが作品としてどのように現れてくるのか、と云ったところだろう。

1、使われ方の変化
2、テーマの変化

欲望の処理装置としてのデジタル写真。欲望とは性欲を主体とした部分だ。
デジタルネットワークのなかで、情報が手に入る。具体的にいえば、アダルトサイトだ。アダルトサイトからの情報が、無差別に発信される。そうして無差別に受容する。
かって、インターネットのホームページが無かったころは、アダルト情報は、書店へ赴くかレンタルビデオ店へ赴くか、だった。自ら行動することで手に入れられた領域だった。いまや、インターネットで手に入れることができる。

かって大学生の頃にあったパートカラー映画。いまでゆうアダルト映像だ。映画館は文化会館というのがあった。チケットを買うときの気持ちは、ちょっと恥ずかしかった記憶だ。書店でアダルト書籍を買うといいうのも、かなり勇気がいった。

いま、インターネットが普及して、そんな状況が一変したようですね。だれでも手に入るのだ。これこそ革命に近い出来事ではないか。


2005.10.5
写真行為の原風景

ボクが写真を撮るとき、何を撮るのか、ということがあります。
そりゃ~好きなもの、興味あるもの、現実に存在するモノを撮ることになります。
興味の湧かないものを撮ろうとは思わない。

ところで、この好きなもの、興味あるもの、ってどうしてそうなるものがあるんだろう?
つまり、写真を撮る行為の原風景のことだ。
ボクの原風景は、どんなものなんだろう?これも知りたいところだ。心惹かれるモノのなかにあるもの。原風景とは、そういう代物なのかも知れない。

ヒトの生成過程の中で、生誕から死滅までの時間の中で、ヒトが固体としての知能の枠組み形成が、生誕後3年目あたりだといいます。つまり3歳です。そのころまでの体験の記憶が、原風景の基底にあるといえるのでしょうか。

ボクの生誕は1946年です。そうすると1946年から1949年までの3年間の、ボクの前に起こった現象に対して反応した記憶質、これが原風景を形成する要素かも知れない。
主には、母親との関係、それから社会風潮というか空気感というか、そういう感覚的なものです。

生命活動の終盤にさしかかった現在のボクが、興味を示すのは、食することと生殖することだ。
大地を撮り、空を撮り、花を撮り、食べ物を撮る。
それらへの興味は、生殖ということに由来しているように思われる。命が育まれる原風景あるいは、前風景といえる。
花を見ることは、女のヒトを見ることにつながり、大地を見ることは、母親を見ることにつながっているように感じる。
それも欲求不満や劣等感といった要素が、逆推進力となっているようにも思われる。


2005.10.6
日常の光景へ

カメラと自分の関係をみると、カメラは自分の分身のようなものです。
朝起きて、ひと仕事して、顔洗って、朝食とって・・・・という一日が始まり、そうしてなにやらかんやら時間を過ごして、夜になり、寝て、起きたら朝になってる。
なんともまあ、変哲のない、日常だこと、取り立てて大騒ぎするようなもんじゃない。
でもさ、こうした時間の中に、ちょっと気になることが起こる。
庭に花が咲いた。パンを焼いた。天気が良かった青空だ~。
別に、取り立てていうほどのこともないか~!
でもね、キミに知ってほしいって思うことが、いっぱいあるんだ。
たとえば、ボクの庭に咲いた花をお知らせしたい!
山へいったら胡桃が落ちてた!
朝にこんなもん食べたんだよ!
心で思ってて、人に言えないことも沢山あります。
この思ってて言えないことを、秘密といいます。
でも、この秘密たるものも、いつか秘密でなくなるかも知れない。
ボクの見たものをカメラで撮って、キミに見せたい。
ちょっと恥ずかしいけど、見てほしい・・・

写真が、コミュニケーションの手段とすれば、そのようなことだ。


2005.10.19
認める、認めない

自分か生きた人生を認めてあげようと思ふ。
そうでないと自分が可哀相じゃありませんか。
自分の人生を認めてあげようと思うようになったのは、ここ数年のことだ。
認めてあげて全肯定ですね。
この地平から出発しないとだめですね。
とはいいながら、認められないことがまだあった。

物事は時間とともに過ぎていく。
過去となるわけですが、この過去になる時間が、事柄によって様々だ。
物事があったとき、そこに感情が同居するじゃないですか。
その感情の整理がついた時点で、過去・・・
そのように考えると、16日のIMIでは、まだ過去になりきっていない以前の時間を自覚した。

気持ちなんて危ういものだ。
いつも変化しながら心を締め付ける。
その究極が死に至らしめる気持ちだ。
その一歩手前で踏みとどまった、その現場。
その現場が甦ってきたとき、それは拒否するしかなかった。

2005.10.28
日々過ぎ去る

日々過ぎ去るを追いかけない。
前をむいて歩いていくことを考える。
とはいえ、大事なことは、<いま>をどう生きるのか!

写真に親しんで30年、いまのメインの仕事としてある。
でも考えてみると、いろいろあったな~とつくづく思う。
達さんとの出会い、東松さんとの出会い、そうして同年輩の人たちとの出会い。
ヒト的交流の中心は、やっぱり写真を通じての関係だった。

いま、新たな出会いは、食と農。
3年前の出来事から、出発してきて、<いま>だ。
総合文化研究所とか、むくむく通信社とか、それまでの蓄積の上に積み上げられる枠組みではあるけれど、人的ネットワークは、新たに出来てきたものである。

そういいながら、日々過ぎていく・・・。




2005.8.16
たった一人の叛乱

かって釜ヶ崎で取材していた当時、1978年から1983年のことですが、季刊「釜ヶ崎」という雑誌の発行に携わっていた。
そこで考えていた言葉に「たった一人の叛乱」というのがあった。
一人だけでも叛乱していく、かなり過激な言葉の意味ですが、そのように考えて行動していきたいと考えていた。

イメージとして。
体制の外側に位置する場所・トポスであった釜ヶ崎。
世間の裏側から現実をみて、決起せよ!なんて思っていた。
その延長線上で、ボクの制作態度やアクティブがあると思っている。
社会の中心を成す軸に対して、ヘッジ、マージナリーとでもいえばいい。
社会が蓋をしてきた領域へのアプローチ。
または、社会が蓋をしてきた領域からのアプローチ。

最近は人体&エロスに興味を持ってきた。
植物から動物へ、そしてヒト。
ヒトから動物へ、そして植物。
この生命体の循環のなかにおけるエロス。
ヒトは文化をもった。
この文化という衣を着せたところに見えるヒトのエロス。

写真や小説や評論の執筆、発表では、インターネット環境を活用しているところだが、ここに叛乱を企てる。

2005.8.18
井上青龍のこと

井上青龍と一緒に、最後に飲んだ場所は、大阪駅のガード下にあった飲み屋だった。井上青龍は写真家、ボクより一回りも年上の写真家だった。井上青龍の代表作は「釜ヶ崎」である。1960年代に釜ヶ崎の写真を撮った人だ。
実は井上青龍と知り合ってから、暫くは、彼の代表作品が釜ヶ崎であるとは、知らなかった。ついぞ最後まで、写真の被写体、釜ヶ崎について議論したことは、なかった。

1981年だったかに、京都で、写真シンポジュームを数人のメンバーと一緒に開催した。そのシンポジュームに参加して、喋り捲っていたのが井上青龍だった。
それから「東松照明の世界・展-いま-」の実行委員会が作られて、その流れのなかでボクは長堀のマンションの一室で、「ザ・フォーラム」という写真と映像の自主ギャラリーを立ち上げた。井上青龍は、このギャラリーの常連となった。

苦悩を一身に背負ったような風貌の井上青龍だった。破れかぶれな男、酒を煽っては管巻いていたイメージの井上青龍である。ボクの釜ヶ崎の写真スタイルとは、いささか違うのだが、それは時代の流れのなかで、テーマの置き方が違ったのだと思う。

ボクは、日常へ&都市へ、というテーマで釜ヶ崎に遭遇した。井上青龍は、何をどのように組み立てて釜ヶ崎を取材したのだろう。
釜ヶ崎は様々な表情を見せるトポスである。
暴動が起こり、世を唖然とさせたトポス。井上青龍の釜ヶ崎は、1960年代、暴動が頻繁に起こったころである。世間で異端なトポスとして、怖れられていた時代の釜ヶ崎である。
それから十数年の後、1978年にボクは釜ヶ崎取材に入る。現場で、釜ヶ崎イメージが大きく変換していくのを、自分は確認した。怖れる釜ヶ崎から、親近感溢れる釜ヶ崎へ、だ。ボクに数多くのポートレートを撮らせてくれた労働者たち。おどけたり、笑ったり、しかめっ面した労働者たち。それに女子供も沢山いた。
その後に釜ヶ崎を取材した写真を見かけていないのだが、井上青龍が深く関わったように、ボクも関わった。たぶん位相がだいぶんずれた関わりだったと思いますけど、ね。

2005.8.29
釜ヶ崎夏祭り

1979年8月、釜ヶ崎の三角公園で青空写真展を開いた。
釜ヶ崎で写真を撮りだしたのが1978年の秋からだった。およそ一年間に撮りためた写真を、撮影した現地で展示する。ある意味では、無謀な企てだった。
釜ヶ崎は、恐ろしいところだから写真なんて撮れないんだよ。それも正面から撮るなんてできない。
そんな言い方が巷に流布されていた釜ヶ崎だった。
当時、釜日労という労働組合があった。稲垣浩さんが委員長をしていて、炊き出しをやっていた。1979年1月3日だったかの餅つき大会で、写真を撮った。それから春までに、炊き出し風景など、精力的に撮っていった。
そうして撮りためた写真を、夏祭りに展示したいと云うと、OKとの返事があったので、日替わり写真展、写真あげます展、青空写真展・・・呼び名は様々だたけれど、現地で写真展をおこなうことができた。
ボクの写真を見つめる視点が大きく変わっていくきっかけが、この1979年8月の釜ヶ崎現地での写真展だった。

写真とは何か、という問いかけが、まだ有効な時代だったような気がします。1968年から10年も経った年だったけれど、ボクの中での問題はまだまだくすぶっていた。
たまたま「写真とは何か」という問いかけだったけれど、それは「文学とは何か」とか「哲学とは何か」とかと同義語だ。
よりラディカルに、より深く、より外部から、中心へ向かうための周辺を見つめていく考えが、まだ中心になっていた時代だった。

いま2005年、あらためて1968年の出来事や、1979年のボクの釜ヶ崎現地での写真展を思い起こしながら、現代の問題を整理しなければいけない、と思う日々なのだ。
その当時、釜ヶ崎の中で問題化されていた就労形態。手配師がおり日々雇い入れる労働の形態、日雇い労働者。それが現在では、表層イメージを変えながら、国土全体に拡げられた感がする。

グローバル化という名のもとに進む改革なるもの。もう歯止めが利かない世界潮流だけど、あえて抵抗する生き方もある。その視座を獲得せよ!なんて過激なことをいったってもう無駄なんかな~と思いながらも、だ。
ボクの思考の原点が、1989年夏の自分の転換にあるように考えるのだ。

2005.8.30
内灘のこと

内灘は金沢に隣接する砂丘海岸だ。
ボクがこの内灘に最初に触れるのは20歳のころだった。現代社会運動史の資料文献を漁っていた当時だ。
対日平和条約と日米安保条約が発効するのは1952年4月28日。政府は、翌年6月2日石川県内灘試射場を無期限使用することを閣議決定する。ところで地元や県議会は反対運動を展開します。戦後日本の社会運動の最初・原点がここにある。

1975年だったと思うが、ボクはニコマートというカメラを買った。モノクロフィルムで、最初に写した被写体、家族以外で最初に撮った写真。この被写体が内灘弾薬庫の痕跡だった。1975年の夏だったと思う(記憶が曖昧1976年かも知れない)

写真を撮りだす前は、文学、小説を書きたいと思っていた。高校2年の秋に何冊か詩集を作った。18の頃に小説を書きたいと思った。4~5人の友達で、専用原稿用紙も作った。何篇か、習作短編を書いた。発表は、ガリ刷りの同人誌まがいのものだったり、自作のペーパーだったりした。
事情で高校卒後、2年間働いたあと1年浪人し、21歳で大学へ入学した。1968年のことだ。
1968年は大学紛争の年だ。ボクはその冬を京都で過ごし、翌年東京の出版社へ勤務することになった。東京で仕事をしながら小説家になろう、と考えた。1970年京都に戻り、大学復学、そのころから再び、小説を書きだした。
その小説の舞台が内灘だった。
第一章、第二章を、同人誌「反鎮魂」に載せて、中断した。

カメラを持って家族と共に内灘海岸へ海水浴にいった。そのときに撮った写真が、いまここに転載した写真。
原版は見当たらない、映像情報の第一号の表紙に使った写真(1980年)が、これだった。この写真はコピーです。

1982年正月、内灘を撮ろうと思って取材に出かけたが、すでに弾薬庫跡は撤去され、何もなかった。東松照明氏と会うのは、その日の夜のことだった。

2005.9.11
自主ギャラリーの軸

1970年代半ば、写真展示の自主ギャラリーが開設されます。主に東京近郊にいた若い写真家たちが、運営母体となったギャラリーだ。「PUT」「CAMP」「プリズム」・・・。
この自主ギャラリーなるものを軸に少し考えてみたい。

1968年に創刊される写真同人誌「provoke」に始まる写真家と社会現象との関係を考えると、そこには、既存の制度「体制」を解体していくという幻想・妄想があった。と同時に、自己の内面をどのように処理していくのか、といった問題も浮上していた。

当時、一部の学識経験者、メディアの編集者、学生らの関心ごとが何かといえば、表層は、政治体制へのアンチ態度に収斂していくのだが、「個人」が様々な意味で、意識されていた。
たとえば、「provoke」同人で詩人の岡田隆彦は、<せつなさ>という感情を軸に論を立てます。解散時の1970年「まず、たしからしさの世界をすてろ」と題するエッセイ集を発刊する。
そのころ東大全共闘を中心とした「教育批判」の主張がある。これは「大学の帝国主義的再編」に対抗する「大学解体」をスローガンに掲げる。
作家高橋和巳は、ノンフィクション「わが解体」を著す。

1968年前後へのボクの見解は、「個人」と「個人を取り巻く社会」の関係についての論であると同時に、個人のあり方の論であった、と受け留めている。
この表立った運動が造り成し顕在化させた個人の二重構造性が、沈静化されていった後に、若い世代の写真家たちの意識・無意識下に成り立たせる要因になった、と見る。
もちろん、複合要素の結果だが、その底流の感情・情動、外に向けるエネルギーとして、結果した。そのきっかけを作った媒体は、「自主ゼミ」であり「ワークショップ写真学校」であった。

非常に乱暴なまとめ方だけれど、ボクはそのように見る。
自主ギャラリーは、既存の写真メディアに対する心情的否定と理論的否定から具体的な形として創出された場だった、と考える。
それから30年という歳月が過ぎ去った今、2005年だ。当時の運動の本質が、構造化される権力に、いかにして制度を流動的状態にするのか。または、流動的にさせることが出来るのか。このことだったとすれば、この30年間、権力が成しえた結果を、再検討する必要に迫られている。

2005.9.14
写真作業の覚書

写真に撮ることができるものは、現実に物質としてあるモノしか撮れない。どれだけ思い込もうとも、想像をめぐらそうとも、写真として写るのは、現実のモノの外観でしかない。

モノを前にした作家が、写真に定着するためには、それ以前の思想、思いが必要である。また、それ以後の思想的展開、思いの展開を想定することも必要である。

としても現実に写せるものは、目の前にあるモノでしかない。現前するモノそのものを、どのように撮るか、技術的、存在論的、そのモノの的確な自己主張を、どのように定着させるのかである。

ここに葡萄を撮った写真がある。
撮られた葡萄が、葡萄であると認知できるのは、先に葡萄という果物を知っているからに他ならない。見る人の経験によって、葡萄であることを認知される。ここに載せた葡萄の写真は、背景を省略してある。色彩効果を出すために器に入れられた葡萄である。

背景説明によって、撮られたモノの置かれた状況を説明することが出来る。そこには主題となるものが置かれ、主題を説明&物語る要素を組み入れることがおこなわれる。
もちろん主題と説明&物語を排除し、フラットな写真構成とする場合もある。その場合は、画面全体が主題とする。

中平卓馬が「写真は植物図鑑だ」と云い、東松照明は「記憶の像は写らない」と云った背景には、現実のモノしか写らない写真の宿命を言い当てたものだ。

ボクの試みている写真は、生活図鑑であり、目の前にあるモノを撮る、作業である。そうしてそのモノじたいが見る人の記憶に接合させることで、意味を紡ぎださせてもらいたい、との希望をもっているのだ。

生活図鑑であることの、自分なりの見解を申し立てることは、文章の力を借りようと思う。写真の置かれた現在点で、写真が語りだすのは、言語の力であるからだ。ボクが様々な世界を見る視点を、一定の方向に導くための思想を語り、書きこんでいく。

写真は思想を限定し、文章は写真によってイメージを限定し、そうして両輪でもって、一つの現実と空想の世界を創りだしていく作業なのだと考える。

写真記録論/試論-2-

<記録を超えて>

その後「写真」イコール「記録」の定説を覆すべく推論した結果、新しい論が展開できそうな気配が見えてきた。ここで私は「イメージ発生論」という題目を設定し、この中味を積み重ねていくこととする。

その内容概略は、写真には写真による「記録」という範囲を限定したうえで、
(1)社会通念上「記録」の範疇に収まるもの、と
(2)範疇から外れるもの、とがある。
(3)パーソナルな見るひとの位置によって、記録の範疇に収まるものと外れるものとがある。

記録と記録でないものの分類からイメージ昇華の方法へ。これが現在云うところの「方法の問題」つまり「選択の問題」となるのではないか。そしてあくまで「自分を写す鏡」として捉えること。

「記録」という意味の限定。「記録」には日付が必要とされる。だから日付のある場面に、写真・映像・文章が向かったとき、記録となる。その向かい方には、背景やテーマに歴史的イメージを持つときや、その時代の社会性に接点を見出すとき「記録」となる。

自分自身の記録として自分の内部でのみ記録となり、他者との間には記録が成立しない場合がある。自分だけのもの、あるいはふたりだけの、家族だけのものは、メモリアルであって関係者以外は記録と認めない。写真はこのように個別に見ていくしか判断のしようがない。

こうして写真の分類には、プロセスとしては写真作業だが、これまであった写真とそうでない写真に区分する必要があるのではないかと思われる。この「そうではない写真」のコンセプトに、現代美術の方法等を持つものがある。これをこれまであった概念の中で「写真」と認識しようとすることが、困惑の原因だった。むしろいま、新しいそれらの写真は、これまであった「写真」ではないとういうべきであり、かっての写真論の範疇から解き放たれるものだと思われる。

イメージ発生論の立場から云うと「写真」イコール「記録」ではないと判断した写真の群がある。この写真の群の理解の手がかりは、写真論ではなくて、イメージとしての発生論を展開、つまり意味論や主体論を根拠において、意味は何処にあるのかというイメージにおける意味論を生成し、イメージ過程説を導きだして心的状況を探っていく。

このような方法をとったとき、テーマをどのように捉えるかという問題につきあたる。ここでは、その文明文化、あるいは教養文化固有の「母または神なるもの=全体=愛」といったテーマの肯定または否定的展開こそ、写真がこの時代を超える可能性だとみえるようになった。母の渇望、母の獲得のために。そこには「美、世間で美しいといわれているもの、の解体」と「新たなる美、美しいものが本当に美しいと感じる感性、の創造」が必要とされるのではないか。

この発想からみてみると、写真的方法をもって写真でないテーマを持った写真や、写真的方法では創りえないテーマを持った写真というのがあって、見る人を困惑させる。背景のイメージを持たない写真や、背景のイメージを創出できていない写真というのは、写真家の単純な被写体への撮り誤り。現代写真の混乱は、このことが分からなかったからではないかと思われる。写真家は汝のイメージを凝視せよ、である。


<新たなる美>

ロラン・バルトが著した「恋愛のディスクール・断章」の一遍に「豊かさは美である」と云うのがある。「恋愛の「消費」が歯止めも繕いもなしに確認されつづけるとき、そこに生起する輝しくも稀有なるものが「豊かさ」である。それは美に等しい。」「豊かさとは美である。(中略)恋愛の豊かさとは、自由なナルチシズムの展開と無数の喜悦を(いまだ)抑え込まれていない子供の豊かさである。」

まるでバイブルのような言葉の数々、とでも表現できるだろうか。私は大きな感動とこころの揺らぎを覚える。この抄「豊かさとは美である」はまるで子供に帰ったような気分で、私の感性にしんしんと浸透してくるものだった。男女の恋愛が、その当事者同士を美しくさせるのは、あたかも子供のように、そこに無償の消費があるからなのであろう。

かって「聖母マリア」の像が、あの大聖堂にあって王の収奪に打ちひしがれた人々に感動を与えたのは、そこに搾取され抑圧された人々のこころの母が存在したからではないだろうか。私は、立ち現われては消えゆく感情に、私を委ねながら私のイメージは拡大していく。中世の絵画としていまの時代には何の価値も見いだせないようにも感じられ、現代では形式としての祈りの対象でしかないとしても、愛を欲する人々にとって聖母マリアはどれだけ偉大なこころの支えであったことだろう、と思われる。

愛がその偶像としてのマリアを求めているのだとしたら、私はきっとマリアの前にひざまづき祈るならば、涙があふれるだろう。中世の権力構造にあって、作為的に聖堂が構築せられた、と分析するのは簡単なことだが、そこにひざまづき祈り、涙をあふれさせた人の気持ちが私に理解できるかどうかである。

美の解体と新たなる美の創造というときの「新たなる美」とは、たとえばそのマリア像を見たときに自分のものとして、その気持ちが感性で理解できること、涙をあふれさせること、ではないかと私は思う。「美しいものが美しくみえる」とはこのこと。決して憐れみという感覚ではなく、また与えてもらう存在でもなく、自分自身の気持ちとして。これは私にとっての「恋愛」の裏返しとしての、そのことではないかと思えるのだ。

イメージ発生論あるいはイメージ過程説から云うと、この「マリア像」または「マリアの絵」に匹敵する「一枚の写真」が存在しうるかどうかであるだろう。死のうと思っていたひとが、その写真(マリア像)を見たことによって生きていく希望がわいてくる。そのような写真。こういう写真は永遠にイメージの中で輪郭のぼやけたタブローとしてしか、存在しないのであろうか。写真を一体どのように捉えていけばよいのだろうか。つまりは一枚一枚と個別に捉えていくしか論じようがないものなのであろうか。

一枚のかけがえのない写真に出遭うことは、かけがえのない人となるひとに出遭うことと同じインパクトである。あなたとはほんの些細なきっかけで偶然に出遭ってしまったが、宿命とでもいうのがあったのであろうか。何がこのような結びつきにしてしまったのだろう。

私と写真が出遭う。私とあなたが出遭う。日常の光景のなかでの出遭いは掃いて捨てるほどあるが、特別の関係にまで昇華してしまうと云うのには、何が作用しているのであろうか。あなたが私の感性の淵に鋭い刃物で傷つける。何故。それらのときはいつも私の感性が全く無防備な状態だったからであろうか。それはいつも不意打ちをくらったと言うしかない方法で、私に?みつき、心を掻きむしる。

ベルメールの人形。モリニエの自写像。もう六、七年も前だったが、写真集を次から次へと買い込んでいた頃、書店で開けたとたんに、私の感性を深く咬んできた。私は、あの光景での、私が与えられたインパクトの質を思い出している。ベルメールの作品の魅力は何なのだろうか。モリニエの作品のインパクトは何なのだろうか。シュールリアリストである彼らに深く共鳴するというのは、私自身がシュールリアリスト的感性を持っているからだと思われるが、あなたの感性の中にも同種のものがあって、それで何か感じるものがあったのだろうかと考える。

私は少年のころから空想家だった。それにナルシストであった。自分にこだわる習性というのは誰にでもあることだと思われるが、私にはそれがかなり強いようだ。幼年の頃から家庭に馴染まず、街をひとり徘徊する癖があったという特異な経験がこのような人格を創ってきたのかも知れないと考える。

人間の精神構造とは無限の深淵だと感じている。私自身の構造を分析して、他人を類推するしかないのだが、おとことおんなという分類も、外形としてははっきりと識別できるようになっているが、メンタルというのは識別不能なのではないか、と思うことがある。自分の精神構造のなかに、世間的には男女の趣向分類されるものが混在しているからである。

この「写真への手紙・覚書」では、「新しい写真論」を生み出すためのトレーニングをやってきたつもりだし、引き続きやって行こうと考えている。そして記録でない写真の論を展開しようとしている。「写真への手紙・覚書」の試行が、これまであったドキュメントの終焉と「写真でない写真」論への移行過程を展開していこうと考え、現在の写真の在処を呈示したいと思っているのだが、一方で「記録」イコール「ドキュメント」の現在をも確認しておかなければならないのであろう。

「現代写真の視座1984」のなかで最後に示唆した「民族の精神あるいは文明の質に立ち入ることによって成立する」という、あの当時の直感で、現在の世界レベルで見つめてみたとき、サルガド、ルイス・ボルツ、アンセルム・キーファーといった作家たちの作業は、極めて現代的なドキュメントの質となって具体化されている。ドキュメントの現在は、テーマとして文明の質を批評し告発する、という図式になっている。見つける「方法の問題」はソーシャル・ランドスケープとして、つまり風景を文明の質として捉え、臨界点を明確にするもの、として当面は解決できそうである。

「写真への手紙・覚書」第一部のための付録として、ベートーベン作曲ピアノソナタ第29番変ロ長調ハンマークラヴィーア第三楽章譜面が付けられた。

写真への手紙・覚書」第一部<終>
Shigeo Nakagawa 1994.1.10


写真記録論/試論-1-

ここかしこに木の枝に色づいた葉が残っている。私は樹の前に足をとめてしばしば物思いにふけったものだ。私は私の希望をかけて一枚の木の葉を見守る。その葉に風がたわむれると私は身も世もなく身体をおののかせる。
(シューベルト「冬の旅」ミュラー詩「最後の希望」)


<さすらい>

さすらい放浪してきた写真の本質は、つまるところ生の本質である。私がつねに遭遇する私の外世界(目の前に実存するもの、あるいは情報として疑似体験させられるもの)との対話から、私の脈々と流れる内面の感情と交差する言葉との対話へ。私の視点、無垢から透過していく写真の本質、つまりの生の本質は、制度内部の視点からどれだけ裸眼でありえるか、ということが必要とされる。私の写真行為、撮る、観る、語る、書くといった行為の全ては、つねに神経をはりつめ尖らでてインテリジェンスへの昇華を目論まなければならないのであろう。

「写真とは何か」との設問の仕方は、永遠に解決の糸口が導きだせない問いかけの本質として認定していかなければならないのであろう。私は、私の感性を掻きむしってくる一つひとつの写真の選択と、その写真の連なりからくるイメージを大切にしようとしている。そして、来たりくる新しい感性のあなたと写真イメージの交換をしたいと願望している。私は物思いにふけるだろう。谷間の高台に広がる無垢な感性を持って「写真の意味」を問い続けるだろう。

私にとってその出逢いは、突然ひとつの季節をひらかせるかのように、偶発的に起こった。季節は冬。永遠の旅に出はじめたあの時。行く先定まらずに朦朧としていた私の神経。そのとき目を閉じていたなら、その光景にはきっと出遭わなかっただろう。またあの場所を通過しなければ、やはりその光景には出遭わなかっただろう。その出遭いは旅する私にとってほんの些細なことからはじまった。

その光景、谷間の高台にまだ色づいた葉が何枚か残された樹の前に佇んでいるあなたの光景は、私のイメージのなかに「記憶の写真」として強烈に焼き付いてしまった。「あの時あの場所」のイメージとしての残影、時の経過とともにしだいに消え失せていくものが、永遠のイメージタブローとして私の記憶に定着されてしまう。この定着された記憶は、いつしか忘れ去ってしまうものであっても、何かのきっかけでふっと湧き起ってくる感情のなかに呼び戻されてくるだろう。

きっとこのようなあなたとの出遭いは、写真と記憶という私の内部での写真の在り方について解明していこうとする、私の、イメージ体系への針の刺し方、あるいは磁場・波紋の描き方、にも結びついていくように思われる。「写真と記憶」についての私の考察は、つまり写真における記録・ドキュメントと、私の精神構造における記憶の関係である。写真は記録・ドキュメントであるという説が崩壊すれば、その関係である。

ある一枚の写真を介在して、私とあなたが言葉を交わすこと。あるいはその一枚の写真を共有したなかで、私とあなたが向き合い、見つめ合うだけで、私とあなたの心に響く感情の高まり。この共有関係がどのような概容を持ち個別の内容を持つものなのかはわからない。この私とあなたの共有関係を解析していくことは、これまであった認識論とか記号論といった知の体系に照射しながら、考察していくことになるのだろうか。

それともそうした論の枠をつけ、共有関係の範囲を規定し限定していく方法から飛翔して、新しい独自のイメージ発生論を展開していくのか。私は私の希望をかけて一枚の写真を見守る。これから来たりくる私の写真の解析方法は、写真全体ではなくて個別に興味をひかれる写真についての論究であろう。この方法は「渇望する愛」をどのように成熟させていくか、あるいは私の恋愛をどのように客体化し、その状態にある私を解析するか、と云った私自身のみつめ方そのものに至るだろう。これが私の写真に対する興味を掻き立て考察する唯一の方法となるのだろう。

私はいま、これまであった幾多の写真論から自由の翼を得ようとしている。とはいえそこには、写真を論じる以前の基本認識としてのものの見方・捉え方の視点、教養文化に立脚した個の確立とその視点が、必要となるのであろう。で「論」は自らの罠にはまってしまうのだ。

一体、私は何処へ旅立とうとしているのだろうか。かって辿ってきた冬の旅。吹雪く海岸は横殴りの風。遠い記憶はさすらう。思い出という言葉で語られる記憶のイメージと甦る感情。万葉の時代から凍えているのに何かしら、ほのぼのとしたイメージを培ってきて、いま私と私を突き刺し胸をしめつける一枚の写真がシンクロする全体として、私のこころの解明として、新たなる写真の捉え方が出来ないのだろうか。

写真と私の関係は、愛の関係とでも想定しよう。この愛を成熟させる地点から、未知の領域に向かって言葉を重ねていくことは、つまり「永遠の愛」の模索である。この模索の方法は、まず私と私の目の前にある一枚の写真との、こころ(精神、意識、感情、それらの個別とすべて)の所有の構図(位相の移動関係または磁場・干渉しあう波関係)およびそこで描かれた白地図を塗りつぶしていくことから始まる。それはあなたとのこころの所有関係の構図そのものでもあるだろう。

いままでの私の生、生活とこころの構図の全ての経験は、本当に短いものだとしても人の知は、何千年と累積され「いま」に至っている。それらの累積を受けて、私は日常、複雑怪奇な生を営んでいる。そういった中でのあの日の記憶。私の前で立ち尽くした(ようにも見えた)あなたの姿と、前にも後ろにも行けないけれど、立ち止まってはいけないといったような、困惑したあなたの表情に、私はプンクトウムを得てしまった。

あなたが立ち尽くしていたその場所は、かって時代の挫折と抑圧に対して、どうしたらいいのかと私自身が立ち尽くした場所。毎日毎日むなしくてせつなくて仕方がなかった気持ちを綴りながら立ち尽くした場所。愛が不在だった場所。その位置から見たあなたとその場所の構図、かよわくて風に吹き飛ばされそうにも感じられたあなたが、どうしようもなく、私の心を掻きむしっていった。


かけがえのない一枚の写真には、記憶がいっぱい詰まっている。それはパンドラの箱のように。一枚の写真は、マテリアルとしては、薄っぺらな紙にしかすぎないが、一枚一枚それぞれに記憶の詰まり方がある。私はその写真と巡り会って、きっとパンドラの箱のいちばん奥深い底からの記憶を呼び覚ましたようだった。

写真は私の想像力をかき立てる。その写真を見た私には、もう忘れられてしまった記憶がよみがえってきて、悲しくも楽しくもさせる。そして物思いにふけるのだった。なによりも希望を見つけ出すために。記憶は小憎らしいほどに美しいもの。どんなに悲しい記憶でも、記憶のかぎりにおいて私を美しく感動させる。私は好きな写真を目の前にして、また気に入った文章を読んで、慟哭とまではいかないけれど、美しい涙を流してしまう。

類型からいかにして裸眼でありえるか。これは制作者、つまり作家や批評家の立場として、まず何ごとにも感動することから始まる。そこでの問題はやはり「私」の問題となる。一枚の写真を見ることで感動し、刺激を受け、挑発され、こころを掻きむしられ、生きていることの不安定さを感覚で受けとめる。

それは狂気としての認知であるのだろう。しかし、この私はすでにインテリジェンス(永遠の苦悩)の入り口に立ってしまっているので、いつも宙ぶらりんの自分感覚と、より研ぎ澄まされ深化する感性、あるいは螺旋階段を上がったり降りたりする自分の感性をみつめていくしかないのだ。知識人の苦悩・メランコリーと自我の確立、つまり自分発見である。

<記憶>

私が遭遇する一枚の写真は、私の記憶に残る。また私が遭遇する一枚の写真によって、記憶を呼び起こす。また私が遭遇したかけがえのない一枚の写真が撮られた背景を知ることによって、より大きな感動を私の内部に生みだす。

写真は見せるひと(撮影者)の記憶と見るひと(鑑賞者)の、記憶の出逢いの関係そのものである。また「写真の本質」は、この出逢いの関係における感性の統合こそ本質となりえるのではないだろうか。一枚の写真が写真としてある在り方は、私とあなたが、この関係をどのように創っていくのか、ということが問題となる。

一枚の写真を見て感動するわたしの感動の仕方という感性の在り様の波形を、私自身のものとして解析分析していくこと。あるいは感情の流れるままに感動を、感動としてひとまずは、処理していくこと。この感動の仕方は私が世界を見つめることの基本条件でもある。創造者となることの条件は、つまりインテリジェンスへの条件としての見方の基本を、感性のなかに取り込むことにある。

かって私は、「記録とは方法の問題であり、見つけることに重点を置く」という記述を引用したことがある。当時には「見つけることのなかに難解な問題が横たわっている」としているが、最近ではこの難解な問題は、自分自身の問題として捉えていくことで解決していくのではないか、と考えている。

自分自身の「生」の生きざまを全的に捉えること、そのこと。「作る」ことに重点を置く(この人々を総称して私は偽表現者という)のではなしに、「見つける」ことに重点を置くことは、風俗表層の現象をすでに世俗の常識としてある価値観でなぞっていく(つまり作る)のではなしに、表現行為そのものが自分を見つめる鏡として、そして反復し表現行為を継続していくなかでの自分の発見と、すでにある価値観(世俗の常識は、いまのところイメージで捉えるしかない)に対する変革のまなざし(これもイメージで捉えるしかない)であろう。

表現行為(体制変革)をあくまで自分自身の問題として捉えること。このことの繰り返し行為そのものではないかと思われる。そこから「見つめる」ことは「見つける」ことにつながっていくのではないかと思われる。ここまできてもまだすっきりしない部分「見つめる」と「見つける」の間の乖離あるいは止揚をどのように実践で埋めていくかの問題として「方法の問題」が残されているのだが。

人間にはイメージと感情しかないのではないか。ここではイメージと言語(言葉、写真。絵画)の関係をどのように捉えていくかが必要となってくる。この「写真への手紙・覚書」は未知のこれからに向かっての、イメージ構築のためのものである。

<愛の形>

一枚の写真を見て、「理解」できるという状態を言い当てるならば、一般的には、その写真が指し示す「意味」が理解できることである、といえるだろう。また意味を理解することとは、人間が歴史的に培ってきた「写真」の見方・読み方であり、撮られたイメージを言語に置き換えていく作業を通じてであるだろう。

写真の捉え方というのは、写真という形式の中で形になったイメージ、おおむね撮影者の目の前に存在したもの、あるいは撮影者が創作したもの、およびその配置(視角)としての「もの」の有り様を知覚によって見る行為そのものであり、そこに私の認識、つまり「もの」が写っているという確認行為の連なりとして見る(読む)ことから、始まるのだ。

見る側・写真の読み手の私は、その写真に表出された物のイメージから、私の体験とその追想、つまり記憶の呼び覚ましのなかで、私のイメージを喚起し、その写真を撮った撮影者が撮る必然を覚えたイメージと、そのイメージに私が指し示す意味(何故撮られたかという撮られた必然)を受け取るのだ。連想、比喩、隠喩、反対概念といった芸術表現にはつきものの表現方法を、パズルを解くように解読しながら、私は言葉以前のイメージとして捉え、理解しようと努めるのだ。

その写真に指し示された意味を真に「理解」することは、私がこれまでに培ってきたその物に対するイメージ全体を、引き裂き解体しなければならないのではないだろうか。その一枚の写真に表された全体は、私の外世界との対面における感情の振幅が、感情総体の深淵までの深くを覗き込む、とでも表現できるようなものであり、私における体験の度合いによって、イメージの喚起力が豊富になるのではないだろうか。

かけがえのない「一枚の写真」に出遭うことは、まるで私にとってのバイブルとなるもの。生きることの宝物。苦悩の泉。日々の生活空間からイメージを飛翔させ、生活の根底を揺すぶられるイメージで私を刺すものなのだ。それは、かってあり、今後もあり続ける私の「愛を注ぐまなざし」としての写真に写された被写体への感情を、思い起こさせるものであるだろう。

一枚の写真が、ともすれば怠惰な日常生活、感動する感性のない与えられる経験の中でのみ生活を営むことに埋没してしまう、感性の起立のためとして存在するのは、私には刺激的である。その一枚の写真からほとばしり出るインパクトは、非日常の出来事であっても、私の内面全ての価値を逆転転倒させるほどにわがままで始末におえないものとしてあることだった。その一枚の写真は、私の愛をもって受けとめ、愛を経て、愛のありうべく形を追想のうちに迫り、ふたたび愛を恋い焦がれさせるものであった。

たとえば私はあるひとから、ヘルムート・ニュートン(HELMUT NEWTON)が撮影した「リンチ(DAVID LYNCH)とイザベラ(ISABELLA ROSSELLINE)」の写真を見たとき、今は別れてしまった二人の関係を思い出し、二人の愛の破局について涙した、写真には記憶がいっぱい詰まっている、という話を聴いた。そこから私の、写真と記憶の関係についての考察が始まった。

私の目の前に提示された一枚の写真には、私の記憶、リンチとイザベラが恋人同士であったことがいっぱい詰まっているが、実は、写真それ自体はただの紙切れにすぎない。これはリンチとイザベラが写った紙切れの写真に対する鑑賞者としてある私が、その背景を「どのように見たか」というイメージであり、本質はこの「リンチとイザベラが写った写真」に対する鑑賞者である私の「リンチとイザベラがかって恋人同士であった」ことを知っていることで、涙したことなのだ。

それがあたかも写真に記憶が詰まっているように見えた。私自身に記憶がいっぱい詰まっていて、一枚の写真を見ることによって、その記憶の一断片が呼び出される。写真が媒体の役割を演じているのだと云える。このことは私自身のこだわりとして「自分」つまり私の問題となるのである。

鑑賞者である私の気持ちとしては、対象物の写真に記憶がいっぱい詰まっていると見るほうが、豊かな気分になってくるものだ。また写真は所有する客体としてあるほうが幸福を感じる。恋人の写真を目の前に置くという私たちの習性。ここには一杯メモリアルが刻まれている。ふたりが共有する思い出が宝物として、そこに凝縮している。写真や日記がなければ、きっと記憶は薄れ消えていくもの。むしろ写真や日記に写され記された光景が、記憶として残っていくのではないか。

もちろん、写真には写されていないが私のこころに強烈に、焼き付けられた光景がある。それと意識しているわけではないが毎日見る光景が、いつの間にか無意識のうちに、記憶に残されていて、ふとしたときに思い出されてくる、というのもある。夢のなかで、無意識のうちに記憶に残された幻影が甦ってくることがある。ひとそれぞれに違った形で。

写真は「愛の形」である。写真は、かって膨大に撮られ様々な意匠を着けて私のまえに存在している。これらの写真をどのように捉えていけばよいのだろうか、と私は途方にくれる。冬の旅にうたわれる詩人ミュラーの句を拝借して、私は愛するひとに、つぎのように語ろう。

私は私の希望をかけて、一枚の写真を見守る。その写真に愛がたわむれると、私は身も世もなく、身体をおののかせる。・・・・・・・・


このページのトップヘ