中川シゲオ写文集

中川シゲオの写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

2013年11月

2005.8.16
たった一人の叛乱

かって釜ヶ崎で取材していた当時、1978年から1983年のことですが、季刊「釜ヶ崎」という雑誌の発行に携わっていた。
そこで考えていた言葉に「たった一人の叛乱」というのがあった。
一人だけでも叛乱していく、かなり過激な言葉の意味ですが、そのように考えて行動していきたいと考えていた。

イメージとして。
体制の外側に位置する場所・トポスであった釜ヶ崎。
世間の裏側から現実をみて、決起せよ!なんて思っていた。
その延長線上で、ボクの制作態度やアクティブがあると思っている。
社会の中心を成す軸に対して、ヘッジ、マージナリーとでもいえばいい。
社会が蓋をしてきた領域へのアプローチ。
または、社会が蓋をしてきた領域からのアプローチ。

最近は人体&エロスに興味を持ってきた。
植物から動物へ、そしてヒト。
ヒトから動物へ、そして植物。
この生命体の循環のなかにおけるエロス。
ヒトは文化をもった。
この文化という衣を着せたところに見えるヒトのエロス。

写真や小説や評論の執筆、発表では、インターネット環境を活用しているところだが、ここに叛乱を企てる。

2005.8.18
井上青龍のこと

井上青龍と一緒に、最後に飲んだ場所は、大阪駅のガード下にあった飲み屋だった。井上青龍は写真家、ボクより一回りも年上の写真家だった。井上青龍の代表作は「釜ヶ崎」である。1960年代に釜ヶ崎の写真を撮った人だ。
実は井上青龍と知り合ってから、暫くは、彼の代表作品が釜ヶ崎であるとは、知らなかった。ついぞ最後まで、写真の被写体、釜ヶ崎について議論したことは、なかった。

1981年だったかに、京都で、写真シンポジュームを数人のメンバーと一緒に開催した。そのシンポジュームに参加して、喋り捲っていたのが井上青龍だった。
それから「東松照明の世界・展-いま-」の実行委員会が作られて、その流れのなかでボクは長堀のマンションの一室で、「ザ・フォーラム」という写真と映像の自主ギャラリーを立ち上げた。井上青龍は、このギャラリーの常連となった。

苦悩を一身に背負ったような風貌の井上青龍だった。破れかぶれな男、酒を煽っては管巻いていたイメージの井上青龍である。ボクの釜ヶ崎の写真スタイルとは、いささか違うのだが、それは時代の流れのなかで、テーマの置き方が違ったのだと思う。

ボクは、日常へ&都市へ、というテーマで釜ヶ崎に遭遇した。井上青龍は、何をどのように組み立てて釜ヶ崎を取材したのだろう。
釜ヶ崎は様々な表情を見せるトポスである。
暴動が起こり、世を唖然とさせたトポス。井上青龍の釜ヶ崎は、1960年代、暴動が頻繁に起こったころである。世間で異端なトポスとして、怖れられていた時代の釜ヶ崎である。
それから十数年の後、1978年にボクは釜ヶ崎取材に入る。現場で、釜ヶ崎イメージが大きく変換していくのを、自分は確認した。怖れる釜ヶ崎から、親近感溢れる釜ヶ崎へ、だ。ボクに数多くのポートレートを撮らせてくれた労働者たち。おどけたり、笑ったり、しかめっ面した労働者たち。それに女子供も沢山いた。
その後に釜ヶ崎を取材した写真を見かけていないのだが、井上青龍が深く関わったように、ボクも関わった。たぶん位相がだいぶんずれた関わりだったと思いますけど、ね。

2005.8.29
釜ヶ崎夏祭り

1979年8月、釜ヶ崎の三角公園で青空写真展を開いた。
釜ヶ崎で写真を撮りだしたのが1978年の秋からだった。およそ一年間に撮りためた写真を、撮影した現地で展示する。ある意味では、無謀な企てだった。
釜ヶ崎は、恐ろしいところだから写真なんて撮れないんだよ。それも正面から撮るなんてできない。
そんな言い方が巷に流布されていた釜ヶ崎だった。
当時、釜日労という労働組合があった。稲垣浩さんが委員長をしていて、炊き出しをやっていた。1979年1月3日だったかの餅つき大会で、写真を撮った。それから春までに、炊き出し風景など、精力的に撮っていった。
そうして撮りためた写真を、夏祭りに展示したいと云うと、OKとの返事があったので、日替わり写真展、写真あげます展、青空写真展・・・呼び名は様々だたけれど、現地で写真展をおこなうことができた。
ボクの写真を見つめる視点が大きく変わっていくきっかけが、この1979年8月の釜ヶ崎現地での写真展だった。

写真とは何か、という問いかけが、まだ有効な時代だったような気がします。1968年から10年も経った年だったけれど、ボクの中での問題はまだまだくすぶっていた。
たまたま「写真とは何か」という問いかけだったけれど、それは「文学とは何か」とか「哲学とは何か」とかと同義語だ。
よりラディカルに、より深く、より外部から、中心へ向かうための周辺を見つめていく考えが、まだ中心になっていた時代だった。

いま2005年、あらためて1968年の出来事や、1979年のボクの釜ヶ崎現地での写真展を思い起こしながら、現代の問題を整理しなければいけない、と思う日々なのだ。
その当時、釜ヶ崎の中で問題化されていた就労形態。手配師がおり日々雇い入れる労働の形態、日雇い労働者。それが現在では、表層イメージを変えながら、国土全体に拡げられた感がする。

グローバル化という名のもとに進む改革なるもの。もう歯止めが利かない世界潮流だけど、あえて抵抗する生き方もある。その視座を獲得せよ!なんて過激なことをいったってもう無駄なんかな~と思いながらも、だ。
ボクの思考の原点が、1989年夏の自分の転換にあるように考えるのだ。

2005.8.30
内灘のこと

内灘は金沢に隣接する砂丘海岸だ。
ボクがこの内灘に最初に触れるのは20歳のころだった。現代社会運動史の資料文献を漁っていた当時だ。
対日平和条約と日米安保条約が発効するのは1952年4月28日。政府は、翌年6月2日石川県内灘試射場を無期限使用することを閣議決定する。ところで地元や県議会は反対運動を展開します。戦後日本の社会運動の最初・原点がここにある。

1975年だったと思うが、ボクはニコマートというカメラを買った。モノクロフィルムで、最初に写した被写体、家族以外で最初に撮った写真。この被写体が内灘弾薬庫の痕跡だった。1975年の夏だったと思う(記憶が曖昧1976年かも知れない)

写真を撮りだす前は、文学、小説を書きたいと思っていた。高校2年の秋に何冊か詩集を作った。18の頃に小説を書きたいと思った。4~5人の友達で、専用原稿用紙も作った。何篇か、習作短編を書いた。発表は、ガリ刷りの同人誌まがいのものだったり、自作のペーパーだったりした。
事情で高校卒後、2年間働いたあと1年浪人し、21歳で大学へ入学した。1968年のことだ。
1968年は大学紛争の年だ。ボクはその冬を京都で過ごし、翌年東京の出版社へ勤務することになった。東京で仕事をしながら小説家になろう、と考えた。1970年京都に戻り、大学復学、そのころから再び、小説を書きだした。
その小説の舞台が内灘だった。
第一章、第二章を、同人誌「反鎮魂」に載せて、中断した。

カメラを持って家族と共に内灘海岸へ海水浴にいった。そのときに撮った写真が、いまここに転載した写真。
原版は見当たらない、映像情報の第一号の表紙に使った写真(1980年)が、これだった。この写真はコピーです。

1982年正月、内灘を撮ろうと思って取材に出かけたが、すでに弾薬庫跡は撤去され、何もなかった。東松照明氏と会うのは、その日の夜のことだった。

2005.9.11
自主ギャラリーの軸

1970年代半ば、写真展示の自主ギャラリーが開設されます。主に東京近郊にいた若い写真家たちが、運営母体となったギャラリーだ。「PUT」「CAMP」「プリズム」・・・。
この自主ギャラリーなるものを軸に少し考えてみたい。

1968年に創刊される写真同人誌「provoke」に始まる写真家と社会現象との関係を考えると、そこには、既存の制度「体制」を解体していくという幻想・妄想があった。と同時に、自己の内面をどのように処理していくのか、といった問題も浮上していた。

当時、一部の学識経験者、メディアの編集者、学生らの関心ごとが何かといえば、表層は、政治体制へのアンチ態度に収斂していくのだが、「個人」が様々な意味で、意識されていた。
たとえば、「provoke」同人で詩人の岡田隆彦は、<せつなさ>という感情を軸に論を立てます。解散時の1970年「まず、たしからしさの世界をすてろ」と題するエッセイ集を発刊する。
そのころ東大全共闘を中心とした「教育批判」の主張がある。これは「大学の帝国主義的再編」に対抗する「大学解体」をスローガンに掲げる。
作家高橋和巳は、ノンフィクション「わが解体」を著す。

1968年前後へのボクの見解は、「個人」と「個人を取り巻く社会」の関係についての論であると同時に、個人のあり方の論であった、と受け留めている。
この表立った運動が造り成し顕在化させた個人の二重構造性が、沈静化されていった後に、若い世代の写真家たちの意識・無意識下に成り立たせる要因になった、と見る。
もちろん、複合要素の結果だが、その底流の感情・情動、外に向けるエネルギーとして、結果した。そのきっかけを作った媒体は、「自主ゼミ」であり「ワークショップ写真学校」であった。

非常に乱暴なまとめ方だけれど、ボクはそのように見る。
自主ギャラリーは、既存の写真メディアに対する心情的否定と理論的否定から具体的な形として創出された場だった、と考える。
それから30年という歳月が過ぎ去った今、2005年だ。当時の運動の本質が、構造化される権力に、いかにして制度を流動的状態にするのか。または、流動的にさせることが出来るのか。このことだったとすれば、この30年間、権力が成しえた結果を、再検討する必要に迫られている。

2005.9.14
写真作業の覚書

写真に撮ることができるものは、現実に物質としてあるモノしか撮れない。どれだけ思い込もうとも、想像をめぐらそうとも、写真として写るのは、現実のモノの外観でしかない。

モノを前にした作家が、写真に定着するためには、それ以前の思想、思いが必要である。また、それ以後の思想的展開、思いの展開を想定することも必要である。

としても現実に写せるものは、目の前にあるモノでしかない。現前するモノそのものを、どのように撮るか、技術的、存在論的、そのモノの的確な自己主張を、どのように定着させるのかである。

ここに葡萄を撮った写真がある。
撮られた葡萄が、葡萄であると認知できるのは、先に葡萄という果物を知っているからに他ならない。見る人の経験によって、葡萄であることを認知される。ここに載せた葡萄の写真は、背景を省略してある。色彩効果を出すために器に入れられた葡萄である。

背景説明によって、撮られたモノの置かれた状況を説明することが出来る。そこには主題となるものが置かれ、主題を説明&物語る要素を組み入れることがおこなわれる。
もちろん主題と説明&物語を排除し、フラットな写真構成とする場合もある。その場合は、画面全体が主題とする。

中平卓馬が「写真は植物図鑑だ」と云い、東松照明は「記憶の像は写らない」と云った背景には、現実のモノしか写らない写真の宿命を言い当てたものだ。

ボクの試みている写真は、生活図鑑であり、目の前にあるモノを撮る、作業である。そうしてそのモノじたいが見る人の記憶に接合させることで、意味を紡ぎださせてもらいたい、との希望をもっているのだ。

生活図鑑であることの、自分なりの見解を申し立てることは、文章の力を借りようと思う。写真の置かれた現在点で、写真が語りだすのは、言語の力であるからだ。ボクが様々な世界を見る視点を、一定の方向に導くための思想を語り、書きこんでいく。

写真は思想を限定し、文章は写真によってイメージを限定し、そうして両輪でもって、一つの現実と空想の世界を創りだしていく作業なのだと考える。

写真記録論/試論-2-

<記録を超えて>

その後「写真」イコール「記録」の定説を覆すべく推論した結果、新しい論が展開できそうな気配が見えてきた。ここで私は「イメージ発生論」という題目を設定し、この中味を積み重ねていくこととする。

その内容概略は、写真には写真による「記録」という範囲を限定したうえで、
(1)社会通念上「記録」の範疇に収まるもの、と
(2)範疇から外れるもの、とがある。
(3)パーソナルな見るひとの位置によって、記録の範疇に収まるものと外れるものとがある。

記録と記録でないものの分類からイメージ昇華の方法へ。これが現在云うところの「方法の問題」つまり「選択の問題」となるのではないか。そしてあくまで「自分を写す鏡」として捉えること。

「記録」という意味の限定。「記録」には日付が必要とされる。だから日付のある場面に、写真・映像・文章が向かったとき、記録となる。その向かい方には、背景やテーマに歴史的イメージを持つときや、その時代の社会性に接点を見出すとき「記録」となる。

自分自身の記録として自分の内部でのみ記録となり、他者との間には記録が成立しない場合がある。自分だけのもの、あるいはふたりだけの、家族だけのものは、メモリアルであって関係者以外は記録と認めない。写真はこのように個別に見ていくしか判断のしようがない。

こうして写真の分類には、プロセスとしては写真作業だが、これまであった写真とそうでない写真に区分する必要があるのではないかと思われる。この「そうではない写真」のコンセプトに、現代美術の方法等を持つものがある。これをこれまであった概念の中で「写真」と認識しようとすることが、困惑の原因だった。むしろいま、新しいそれらの写真は、これまであった「写真」ではないとういうべきであり、かっての写真論の範疇から解き放たれるものだと思われる。

イメージ発生論の立場から云うと「写真」イコール「記録」ではないと判断した写真の群がある。この写真の群の理解の手がかりは、写真論ではなくて、イメージとしての発生論を展開、つまり意味論や主体論を根拠において、意味は何処にあるのかというイメージにおける意味論を生成し、イメージ過程説を導きだして心的状況を探っていく。

このような方法をとったとき、テーマをどのように捉えるかという問題につきあたる。ここでは、その文明文化、あるいは教養文化固有の「母または神なるもの=全体=愛」といったテーマの肯定または否定的展開こそ、写真がこの時代を超える可能性だとみえるようになった。母の渇望、母の獲得のために。そこには「美、世間で美しいといわれているもの、の解体」と「新たなる美、美しいものが本当に美しいと感じる感性、の創造」が必要とされるのではないか。

この発想からみてみると、写真的方法をもって写真でないテーマを持った写真や、写真的方法では創りえないテーマを持った写真というのがあって、見る人を困惑させる。背景のイメージを持たない写真や、背景のイメージを創出できていない写真というのは、写真家の単純な被写体への撮り誤り。現代写真の混乱は、このことが分からなかったからではないかと思われる。写真家は汝のイメージを凝視せよ、である。


<新たなる美>

ロラン・バルトが著した「恋愛のディスクール・断章」の一遍に「豊かさは美である」と云うのがある。「恋愛の「消費」が歯止めも繕いもなしに確認されつづけるとき、そこに生起する輝しくも稀有なるものが「豊かさ」である。それは美に等しい。」「豊かさとは美である。(中略)恋愛の豊かさとは、自由なナルチシズムの展開と無数の喜悦を(いまだ)抑え込まれていない子供の豊かさである。」

まるでバイブルのような言葉の数々、とでも表現できるだろうか。私は大きな感動とこころの揺らぎを覚える。この抄「豊かさとは美である」はまるで子供に帰ったような気分で、私の感性にしんしんと浸透してくるものだった。男女の恋愛が、その当事者同士を美しくさせるのは、あたかも子供のように、そこに無償の消費があるからなのであろう。

かって「聖母マリア」の像が、あの大聖堂にあって王の収奪に打ちひしがれた人々に感動を与えたのは、そこに搾取され抑圧された人々のこころの母が存在したからではないだろうか。私は、立ち現われては消えゆく感情に、私を委ねながら私のイメージは拡大していく。中世の絵画としていまの時代には何の価値も見いだせないようにも感じられ、現代では形式としての祈りの対象でしかないとしても、愛を欲する人々にとって聖母マリアはどれだけ偉大なこころの支えであったことだろう、と思われる。

愛がその偶像としてのマリアを求めているのだとしたら、私はきっとマリアの前にひざまづき祈るならば、涙があふれるだろう。中世の権力構造にあって、作為的に聖堂が構築せられた、と分析するのは簡単なことだが、そこにひざまづき祈り、涙をあふれさせた人の気持ちが私に理解できるかどうかである。

美の解体と新たなる美の創造というときの「新たなる美」とは、たとえばそのマリア像を見たときに自分のものとして、その気持ちが感性で理解できること、涙をあふれさせること、ではないかと私は思う。「美しいものが美しくみえる」とはこのこと。決して憐れみという感覚ではなく、また与えてもらう存在でもなく、自分自身の気持ちとして。これは私にとっての「恋愛」の裏返しとしての、そのことではないかと思えるのだ。

イメージ発生論あるいはイメージ過程説から云うと、この「マリア像」または「マリアの絵」に匹敵する「一枚の写真」が存在しうるかどうかであるだろう。死のうと思っていたひとが、その写真(マリア像)を見たことによって生きていく希望がわいてくる。そのような写真。こういう写真は永遠にイメージの中で輪郭のぼやけたタブローとしてしか、存在しないのであろうか。写真を一体どのように捉えていけばよいのだろうか。つまりは一枚一枚と個別に捉えていくしか論じようがないものなのであろうか。

一枚のかけがえのない写真に出遭うことは、かけがえのない人となるひとに出遭うことと同じインパクトである。あなたとはほんの些細なきっかけで偶然に出遭ってしまったが、宿命とでもいうのがあったのであろうか。何がこのような結びつきにしてしまったのだろう。

私と写真が出遭う。私とあなたが出遭う。日常の光景のなかでの出遭いは掃いて捨てるほどあるが、特別の関係にまで昇華してしまうと云うのには、何が作用しているのであろうか。あなたが私の感性の淵に鋭い刃物で傷つける。何故。それらのときはいつも私の感性が全く無防備な状態だったからであろうか。それはいつも不意打ちをくらったと言うしかない方法で、私に?みつき、心を掻きむしる。

ベルメールの人形。モリニエの自写像。もう六、七年も前だったが、写真集を次から次へと買い込んでいた頃、書店で開けたとたんに、私の感性を深く咬んできた。私は、あの光景での、私が与えられたインパクトの質を思い出している。ベルメールの作品の魅力は何なのだろうか。モリニエの作品のインパクトは何なのだろうか。シュールリアリストである彼らに深く共鳴するというのは、私自身がシュールリアリスト的感性を持っているからだと思われるが、あなたの感性の中にも同種のものがあって、それで何か感じるものがあったのだろうかと考える。

私は少年のころから空想家だった。それにナルシストであった。自分にこだわる習性というのは誰にでもあることだと思われるが、私にはそれがかなり強いようだ。幼年の頃から家庭に馴染まず、街をひとり徘徊する癖があったという特異な経験がこのような人格を創ってきたのかも知れないと考える。

人間の精神構造とは無限の深淵だと感じている。私自身の構造を分析して、他人を類推するしかないのだが、おとことおんなという分類も、外形としてははっきりと識別できるようになっているが、メンタルというのは識別不能なのではないか、と思うことがある。自分の精神構造のなかに、世間的には男女の趣向分類されるものが混在しているからである。

この「写真への手紙・覚書」では、「新しい写真論」を生み出すためのトレーニングをやってきたつもりだし、引き続きやって行こうと考えている。そして記録でない写真の論を展開しようとしている。「写真への手紙・覚書」の試行が、これまであったドキュメントの終焉と「写真でない写真」論への移行過程を展開していこうと考え、現在の写真の在処を呈示したいと思っているのだが、一方で「記録」イコール「ドキュメント」の現在をも確認しておかなければならないのであろう。

「現代写真の視座1984」のなかで最後に示唆した「民族の精神あるいは文明の質に立ち入ることによって成立する」という、あの当時の直感で、現在の世界レベルで見つめてみたとき、サルガド、ルイス・ボルツ、アンセルム・キーファーといった作家たちの作業は、極めて現代的なドキュメントの質となって具体化されている。ドキュメントの現在は、テーマとして文明の質を批評し告発する、という図式になっている。見つける「方法の問題」はソーシャル・ランドスケープとして、つまり風景を文明の質として捉え、臨界点を明確にするもの、として当面は解決できそうである。

「写真への手紙・覚書」第一部のための付録として、ベートーベン作曲ピアノソナタ第29番変ロ長調ハンマークラヴィーア第三楽章譜面が付けられた。

写真への手紙・覚書」第一部<終>
Shigeo Nakagawa 1994.1.10


写真記録論/試論-1-

ここかしこに木の枝に色づいた葉が残っている。私は樹の前に足をとめてしばしば物思いにふけったものだ。私は私の希望をかけて一枚の木の葉を見守る。その葉に風がたわむれると私は身も世もなく身体をおののかせる。
(シューベルト「冬の旅」ミュラー詩「最後の希望」)


<さすらい>

さすらい放浪してきた写真の本質は、つまるところ生の本質である。私がつねに遭遇する私の外世界(目の前に実存するもの、あるいは情報として疑似体験させられるもの)との対話から、私の脈々と流れる内面の感情と交差する言葉との対話へ。私の視点、無垢から透過していく写真の本質、つまりの生の本質は、制度内部の視点からどれだけ裸眼でありえるか、ということが必要とされる。私の写真行為、撮る、観る、語る、書くといった行為の全ては、つねに神経をはりつめ尖らでてインテリジェンスへの昇華を目論まなければならないのであろう。

「写真とは何か」との設問の仕方は、永遠に解決の糸口が導きだせない問いかけの本質として認定していかなければならないのであろう。私は、私の感性を掻きむしってくる一つひとつの写真の選択と、その写真の連なりからくるイメージを大切にしようとしている。そして、来たりくる新しい感性のあなたと写真イメージの交換をしたいと願望している。私は物思いにふけるだろう。谷間の高台に広がる無垢な感性を持って「写真の意味」を問い続けるだろう。

私にとってその出逢いは、突然ひとつの季節をひらかせるかのように、偶発的に起こった。季節は冬。永遠の旅に出はじめたあの時。行く先定まらずに朦朧としていた私の神経。そのとき目を閉じていたなら、その光景にはきっと出遭わなかっただろう。またあの場所を通過しなければ、やはりその光景には出遭わなかっただろう。その出遭いは旅する私にとってほんの些細なことからはじまった。

その光景、谷間の高台にまだ色づいた葉が何枚か残された樹の前に佇んでいるあなたの光景は、私のイメージのなかに「記憶の写真」として強烈に焼き付いてしまった。「あの時あの場所」のイメージとしての残影、時の経過とともにしだいに消え失せていくものが、永遠のイメージタブローとして私の記憶に定着されてしまう。この定着された記憶は、いつしか忘れ去ってしまうものであっても、何かのきっかけでふっと湧き起ってくる感情のなかに呼び戻されてくるだろう。

きっとこのようなあなたとの出遭いは、写真と記憶という私の内部での写真の在り方について解明していこうとする、私の、イメージ体系への針の刺し方、あるいは磁場・波紋の描き方、にも結びついていくように思われる。「写真と記憶」についての私の考察は、つまり写真における記録・ドキュメントと、私の精神構造における記憶の関係である。写真は記録・ドキュメントであるという説が崩壊すれば、その関係である。

ある一枚の写真を介在して、私とあなたが言葉を交わすこと。あるいはその一枚の写真を共有したなかで、私とあなたが向き合い、見つめ合うだけで、私とあなたの心に響く感情の高まり。この共有関係がどのような概容を持ち個別の内容を持つものなのかはわからない。この私とあなたの共有関係を解析していくことは、これまであった認識論とか記号論といった知の体系に照射しながら、考察していくことになるのだろうか。

それともそうした論の枠をつけ、共有関係の範囲を規定し限定していく方法から飛翔して、新しい独自のイメージ発生論を展開していくのか。私は私の希望をかけて一枚の写真を見守る。これから来たりくる私の写真の解析方法は、写真全体ではなくて個別に興味をひかれる写真についての論究であろう。この方法は「渇望する愛」をどのように成熟させていくか、あるいは私の恋愛をどのように客体化し、その状態にある私を解析するか、と云った私自身のみつめ方そのものに至るだろう。これが私の写真に対する興味を掻き立て考察する唯一の方法となるのだろう。

私はいま、これまであった幾多の写真論から自由の翼を得ようとしている。とはいえそこには、写真を論じる以前の基本認識としてのものの見方・捉え方の視点、教養文化に立脚した個の確立とその視点が、必要となるのであろう。で「論」は自らの罠にはまってしまうのだ。

一体、私は何処へ旅立とうとしているのだろうか。かって辿ってきた冬の旅。吹雪く海岸は横殴りの風。遠い記憶はさすらう。思い出という言葉で語られる記憶のイメージと甦る感情。万葉の時代から凍えているのに何かしら、ほのぼのとしたイメージを培ってきて、いま私と私を突き刺し胸をしめつける一枚の写真がシンクロする全体として、私のこころの解明として、新たなる写真の捉え方が出来ないのだろうか。

写真と私の関係は、愛の関係とでも想定しよう。この愛を成熟させる地点から、未知の領域に向かって言葉を重ねていくことは、つまり「永遠の愛」の模索である。この模索の方法は、まず私と私の目の前にある一枚の写真との、こころ(精神、意識、感情、それらの個別とすべて)の所有の構図(位相の移動関係または磁場・干渉しあう波関係)およびそこで描かれた白地図を塗りつぶしていくことから始まる。それはあなたとのこころの所有関係の構図そのものでもあるだろう。

いままでの私の生、生活とこころの構図の全ての経験は、本当に短いものだとしても人の知は、何千年と累積され「いま」に至っている。それらの累積を受けて、私は日常、複雑怪奇な生を営んでいる。そういった中でのあの日の記憶。私の前で立ち尽くした(ようにも見えた)あなたの姿と、前にも後ろにも行けないけれど、立ち止まってはいけないといったような、困惑したあなたの表情に、私はプンクトウムを得てしまった。

あなたが立ち尽くしていたその場所は、かって時代の挫折と抑圧に対して、どうしたらいいのかと私自身が立ち尽くした場所。毎日毎日むなしくてせつなくて仕方がなかった気持ちを綴りながら立ち尽くした場所。愛が不在だった場所。その位置から見たあなたとその場所の構図、かよわくて風に吹き飛ばされそうにも感じられたあなたが、どうしようもなく、私の心を掻きむしっていった。


かけがえのない一枚の写真には、記憶がいっぱい詰まっている。それはパンドラの箱のように。一枚の写真は、マテリアルとしては、薄っぺらな紙にしかすぎないが、一枚一枚それぞれに記憶の詰まり方がある。私はその写真と巡り会って、きっとパンドラの箱のいちばん奥深い底からの記憶を呼び覚ましたようだった。

写真は私の想像力をかき立てる。その写真を見た私には、もう忘れられてしまった記憶がよみがえってきて、悲しくも楽しくもさせる。そして物思いにふけるのだった。なによりも希望を見つけ出すために。記憶は小憎らしいほどに美しいもの。どんなに悲しい記憶でも、記憶のかぎりにおいて私を美しく感動させる。私は好きな写真を目の前にして、また気に入った文章を読んで、慟哭とまではいかないけれど、美しい涙を流してしまう。

類型からいかにして裸眼でありえるか。これは制作者、つまり作家や批評家の立場として、まず何ごとにも感動することから始まる。そこでの問題はやはり「私」の問題となる。一枚の写真を見ることで感動し、刺激を受け、挑発され、こころを掻きむしられ、生きていることの不安定さを感覚で受けとめる。

それは狂気としての認知であるのだろう。しかし、この私はすでにインテリジェンス(永遠の苦悩)の入り口に立ってしまっているので、いつも宙ぶらりんの自分感覚と、より研ぎ澄まされ深化する感性、あるいは螺旋階段を上がったり降りたりする自分の感性をみつめていくしかないのだ。知識人の苦悩・メランコリーと自我の確立、つまり自分発見である。

<記憶>

私が遭遇する一枚の写真は、私の記憶に残る。また私が遭遇する一枚の写真によって、記憶を呼び起こす。また私が遭遇したかけがえのない一枚の写真が撮られた背景を知ることによって、より大きな感動を私の内部に生みだす。

写真は見せるひと(撮影者)の記憶と見るひと(鑑賞者)の、記憶の出逢いの関係そのものである。また「写真の本質」は、この出逢いの関係における感性の統合こそ本質となりえるのではないだろうか。一枚の写真が写真としてある在り方は、私とあなたが、この関係をどのように創っていくのか、ということが問題となる。

一枚の写真を見て感動するわたしの感動の仕方という感性の在り様の波形を、私自身のものとして解析分析していくこと。あるいは感情の流れるままに感動を、感動としてひとまずは、処理していくこと。この感動の仕方は私が世界を見つめることの基本条件でもある。創造者となることの条件は、つまりインテリジェンスへの条件としての見方の基本を、感性のなかに取り込むことにある。

かって私は、「記録とは方法の問題であり、見つけることに重点を置く」という記述を引用したことがある。当時には「見つけることのなかに難解な問題が横たわっている」としているが、最近ではこの難解な問題は、自分自身の問題として捉えていくことで解決していくのではないか、と考えている。

自分自身の「生」の生きざまを全的に捉えること、そのこと。「作る」ことに重点を置く(この人々を総称して私は偽表現者という)のではなしに、「見つける」ことに重点を置くことは、風俗表層の現象をすでに世俗の常識としてある価値観でなぞっていく(つまり作る)のではなしに、表現行為そのものが自分を見つめる鏡として、そして反復し表現行為を継続していくなかでの自分の発見と、すでにある価値観(世俗の常識は、いまのところイメージで捉えるしかない)に対する変革のまなざし(これもイメージで捉えるしかない)であろう。

表現行為(体制変革)をあくまで自分自身の問題として捉えること。このことの繰り返し行為そのものではないかと思われる。そこから「見つめる」ことは「見つける」ことにつながっていくのではないかと思われる。ここまできてもまだすっきりしない部分「見つめる」と「見つける」の間の乖離あるいは止揚をどのように実践で埋めていくかの問題として「方法の問題」が残されているのだが。

人間にはイメージと感情しかないのではないか。ここではイメージと言語(言葉、写真。絵画)の関係をどのように捉えていくかが必要となってくる。この「写真への手紙・覚書」は未知のこれからに向かっての、イメージ構築のためのものである。

<愛の形>

一枚の写真を見て、「理解」できるという状態を言い当てるならば、一般的には、その写真が指し示す「意味」が理解できることである、といえるだろう。また意味を理解することとは、人間が歴史的に培ってきた「写真」の見方・読み方であり、撮られたイメージを言語に置き換えていく作業を通じてであるだろう。

写真の捉え方というのは、写真という形式の中で形になったイメージ、おおむね撮影者の目の前に存在したもの、あるいは撮影者が創作したもの、およびその配置(視角)としての「もの」の有り様を知覚によって見る行為そのものであり、そこに私の認識、つまり「もの」が写っているという確認行為の連なりとして見る(読む)ことから、始まるのだ。

見る側・写真の読み手の私は、その写真に表出された物のイメージから、私の体験とその追想、つまり記憶の呼び覚ましのなかで、私のイメージを喚起し、その写真を撮った撮影者が撮る必然を覚えたイメージと、そのイメージに私が指し示す意味(何故撮られたかという撮られた必然)を受け取るのだ。連想、比喩、隠喩、反対概念といった芸術表現にはつきものの表現方法を、パズルを解くように解読しながら、私は言葉以前のイメージとして捉え、理解しようと努めるのだ。

その写真に指し示された意味を真に「理解」することは、私がこれまでに培ってきたその物に対するイメージ全体を、引き裂き解体しなければならないのではないだろうか。その一枚の写真に表された全体は、私の外世界との対面における感情の振幅が、感情総体の深淵までの深くを覗き込む、とでも表現できるようなものであり、私における体験の度合いによって、イメージの喚起力が豊富になるのではないだろうか。

かけがえのない「一枚の写真」に出遭うことは、まるで私にとってのバイブルとなるもの。生きることの宝物。苦悩の泉。日々の生活空間からイメージを飛翔させ、生活の根底を揺すぶられるイメージで私を刺すものなのだ。それは、かってあり、今後もあり続ける私の「愛を注ぐまなざし」としての写真に写された被写体への感情を、思い起こさせるものであるだろう。

一枚の写真が、ともすれば怠惰な日常生活、感動する感性のない与えられる経験の中でのみ生活を営むことに埋没してしまう、感性の起立のためとして存在するのは、私には刺激的である。その一枚の写真からほとばしり出るインパクトは、非日常の出来事であっても、私の内面全ての価値を逆転転倒させるほどにわがままで始末におえないものとしてあることだった。その一枚の写真は、私の愛をもって受けとめ、愛を経て、愛のありうべく形を追想のうちに迫り、ふたたび愛を恋い焦がれさせるものであった。

たとえば私はあるひとから、ヘルムート・ニュートン(HELMUT NEWTON)が撮影した「リンチ(DAVID LYNCH)とイザベラ(ISABELLA ROSSELLINE)」の写真を見たとき、今は別れてしまった二人の関係を思い出し、二人の愛の破局について涙した、写真には記憶がいっぱい詰まっている、という話を聴いた。そこから私の、写真と記憶の関係についての考察が始まった。

私の目の前に提示された一枚の写真には、私の記憶、リンチとイザベラが恋人同士であったことがいっぱい詰まっているが、実は、写真それ自体はただの紙切れにすぎない。これはリンチとイザベラが写った紙切れの写真に対する鑑賞者としてある私が、その背景を「どのように見たか」というイメージであり、本質はこの「リンチとイザベラが写った写真」に対する鑑賞者である私の「リンチとイザベラがかって恋人同士であった」ことを知っていることで、涙したことなのだ。

それがあたかも写真に記憶が詰まっているように見えた。私自身に記憶がいっぱい詰まっていて、一枚の写真を見ることによって、その記憶の一断片が呼び出される。写真が媒体の役割を演じているのだと云える。このことは私自身のこだわりとして「自分」つまり私の問題となるのである。

鑑賞者である私の気持ちとしては、対象物の写真に記憶がいっぱい詰まっていると見るほうが、豊かな気分になってくるものだ。また写真は所有する客体としてあるほうが幸福を感じる。恋人の写真を目の前に置くという私たちの習性。ここには一杯メモリアルが刻まれている。ふたりが共有する思い出が宝物として、そこに凝縮している。写真や日記がなければ、きっと記憶は薄れ消えていくもの。むしろ写真や日記に写され記された光景が、記憶として残っていくのではないか。

もちろん、写真には写されていないが私のこころに強烈に、焼き付けられた光景がある。それと意識しているわけではないが毎日見る光景が、いつの間にか無意識のうちに、記憶に残されていて、ふとしたときに思い出されてくる、というのもある。夢のなかで、無意識のうちに記憶に残された幻影が甦ってくることがある。ひとそれぞれに違った形で。

写真は「愛の形」である。写真は、かって膨大に撮られ様々な意匠を着けて私のまえに存在している。これらの写真をどのように捉えていけばよいのだろうか、と私は途方にくれる。冬の旅にうたわれる詩人ミュラーの句を拝借して、私は愛するひとに、つぎのように語ろう。

私は私の希望をかけて、一枚の写真を見守る。その写真に愛がたわむれると、私は身も世もなく、身体をおののかせる。・・・・・・・・


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