2005.12.19
ヴァーチャルアートの試み
(1)
ヴァーチャルアートあるいはメディアアートの試みをはじめています。
インターネット環境で、ひとりの人格を作る、試みです。
たとえば、ハンス・ベルメールは人形を作った。この人形はヴァーチャルではなかったが、そこに人格を込めて、写真に撮った。
ヒントはここにある。いまやインターネット時代、ヴァーチャル時代です。ボクはここにひとつの人格を創ろうと思うのです。
主人公は若い女性です。この女性が、ホームページを持ち、ブログを持ち、写真や文章を載せていく、そこにひとつの虚構の女性を作り上げていく考えなのです。この考えは、いまこそ可能なアートのかたちだと認定しています。それは虚構の世界ですから、ボクが思うことを具体化する女性です。まあ、ちょっと変質気味ているかな~との思いもあります。
現代アート作品の、本質テーマのひとつに、セクシュアル領域の具体化があると感じています。それをヴァーチャル上で具体的な形にする、それが狙いです。或る女性を設定する。小説であれ絵画であれ彫塑であれ、作家が具体的な形に仕上げていく結果として、作品が生まれてきます。これをヴァーチャル上で創ろうという試みなのです。
まだ始まったばかりのヴァーチャルアートの試みです。どのような展開になっていくのかは未定形です。写真と文学をミックスしながら、ひとつの仮想人格が創りだせれば、いいな~と思う。
(2)
ヴァーチャルで人格を造っていくことは、小説の場合、登場人物として書籍のなかで生成される。物語とは、そこに登場する人格に息吹を与えられ、仮想の世界が創られていくプロセスだ。この手法を、インターネット上に置いてみたら、どういう展開になるのだろう、というのが発想の原点です。ちょっと危ういな、と思いながらの実験・・・。
ボクが想定する物語の主人公は「或る女」です。インターネットツールを使って、ヴァーチャルな環境のなかで「或る女」を演じさせようと思うのです。すでに実験を開始しているところですが、良い悪いは別にして、反応が出てきています。
このこととは別に、ヴァーチャル環境に行き交うヒトの心理ということに興味があるのです。自らのヴァーチャル環境から受ける心理を体験的に研究(といえば大袈裟、アカデミックな言い方になる)をしているところですが、作家が読者の反応を見て世間を知る。これと同じように、世間を知ることが出来る。と、まあ、このようにも考えている最近です。
作家という人格は、フェティッシュで変質者だ。ヒトならだれもが潜在的に持っている人格のその部分を、覚醒させ、同意させ、満足させる。まあ、こういった作業を行いながら、満足を得ていく性質のようだ。作家は、自分を開く必要がある。或る意味、見られる立場に立つ。見る側は、作家を見ることを期待し、代弁してもらうのを待っているのです。
そのテーマとなるのは、作家が生きる時代の中で、ヒトのいくつかの関心ごとの中で、その根底を創りなす領域を明るみにだしていくことだと思うのです。「或る女」はすでにインターネット上に人格を造りだしています。小説を書き、日記を書き、写真を発表しながら、仮想の人間として生成しつつあるのです。
(3)
デジタル領域は仮想空間において、人格を創っていく試みは、アートの一つの形式だと考えています。写真と文章、これがボクの表現手段だから、この二つの領域を使って、或る女を捏造する試みだ。写真も小説も、ある種の捏造された結果です。一冊の書籍として世に出される捏造の世界が、いまやデジタル領域にネットワークされる一つの作品として捏造されるのです。
或る女は小説家を目指しています。いくつかの小説をヴァーチャルネットワーク上に配信し、自らのホームページに告白をしていきます。そのテーマは、愛と美、エロスとカロスです。或る女が捏造される人格だとは、だれも気がつかない。気がついたとしてもその人格を認める。現代社会の表と裏に生息する或る女を捏造するのです。
或る女であることの試みは、男と女のあたかも本音であるかの情報を収集することにあります。表と裏を人格全体をなすものとして、その全体像をつかむためです。現実世界で、世にいう性的犯罪とされる領域の根源を断ち切りたい、そんな想いがあります。そういう犯罪行為がたち表れる個の内面を探りたいとも思うのです。
これは文化研究の一端として捉えています。ヴァーチャルネットワークが手元にやってきて、およそ10年の時間が経過しています。新しいメディアが成立しつつあります。ただしこれは器であって、内容ではありません。写真におけるカメラ、文学における書籍、それらと同じ器です。この器の中味を構成するものは、写真の中味であり小説の中味そのものです。その中味そのものの考察も含め、新しいメディアを研究する試みです。
ヴァーチャルアートの試み
(1)
ヴァーチャルアートあるいはメディアアートの試みをはじめています。
インターネット環境で、ひとりの人格を作る、試みです。
たとえば、ハンス・ベルメールは人形を作った。この人形はヴァーチャルではなかったが、そこに人格を込めて、写真に撮った。
ヒントはここにある。いまやインターネット時代、ヴァーチャル時代です。ボクはここにひとつの人格を創ろうと思うのです。
主人公は若い女性です。この女性が、ホームページを持ち、ブログを持ち、写真や文章を載せていく、そこにひとつの虚構の女性を作り上げていく考えなのです。この考えは、いまこそ可能なアートのかたちだと認定しています。それは虚構の世界ですから、ボクが思うことを具体化する女性です。まあ、ちょっと変質気味ているかな~との思いもあります。
現代アート作品の、本質テーマのひとつに、セクシュアル領域の具体化があると感じています。それをヴァーチャル上で具体的な形にする、それが狙いです。或る女性を設定する。小説であれ絵画であれ彫塑であれ、作家が具体的な形に仕上げていく結果として、作品が生まれてきます。これをヴァーチャル上で創ろうという試みなのです。
まだ始まったばかりのヴァーチャルアートの試みです。どのような展開になっていくのかは未定形です。写真と文学をミックスしながら、ひとつの仮想人格が創りだせれば、いいな~と思う。
(2)
ヴァーチャルで人格を造っていくことは、小説の場合、登場人物として書籍のなかで生成される。物語とは、そこに登場する人格に息吹を与えられ、仮想の世界が創られていくプロセスだ。この手法を、インターネット上に置いてみたら、どういう展開になるのだろう、というのが発想の原点です。ちょっと危ういな、と思いながらの実験・・・。
ボクが想定する物語の主人公は「或る女」です。インターネットツールを使って、ヴァーチャルな環境のなかで「或る女」を演じさせようと思うのです。すでに実験を開始しているところですが、良い悪いは別にして、反応が出てきています。
このこととは別に、ヴァーチャル環境に行き交うヒトの心理ということに興味があるのです。自らのヴァーチャル環境から受ける心理を体験的に研究(といえば大袈裟、アカデミックな言い方になる)をしているところですが、作家が読者の反応を見て世間を知る。これと同じように、世間を知ることが出来る。と、まあ、このようにも考えている最近です。
作家という人格は、フェティッシュで変質者だ。ヒトならだれもが潜在的に持っている人格のその部分を、覚醒させ、同意させ、満足させる。まあ、こういった作業を行いながら、満足を得ていく性質のようだ。作家は、自分を開く必要がある。或る意味、見られる立場に立つ。見る側は、作家を見ることを期待し、代弁してもらうのを待っているのです。
そのテーマとなるのは、作家が生きる時代の中で、ヒトのいくつかの関心ごとの中で、その根底を創りなす領域を明るみにだしていくことだと思うのです。「或る女」はすでにインターネット上に人格を造りだしています。小説を書き、日記を書き、写真を発表しながら、仮想の人間として生成しつつあるのです。
(3)
デジタル領域は仮想空間において、人格を創っていく試みは、アートの一つの形式だと考えています。写真と文章、これがボクの表現手段だから、この二つの領域を使って、或る女を捏造する試みだ。写真も小説も、ある種の捏造された結果です。一冊の書籍として世に出される捏造の世界が、いまやデジタル領域にネットワークされる一つの作品として捏造されるのです。
或る女は小説家を目指しています。いくつかの小説をヴァーチャルネットワーク上に配信し、自らのホームページに告白をしていきます。そのテーマは、愛と美、エロスとカロスです。或る女が捏造される人格だとは、だれも気がつかない。気がついたとしてもその人格を認める。現代社会の表と裏に生息する或る女を捏造するのです。
或る女であることの試みは、男と女のあたかも本音であるかの情報を収集することにあります。表と裏を人格全体をなすものとして、その全体像をつかむためです。現実世界で、世にいう性的犯罪とされる領域の根源を断ち切りたい、そんな想いがあります。そういう犯罪行為がたち表れる個の内面を探りたいとも思うのです。
これは文化研究の一端として捉えています。ヴァーチャルネットワークが手元にやってきて、およそ10年の時間が経過しています。新しいメディアが成立しつつあります。ただしこれは器であって、内容ではありません。写真におけるカメラ、文学における書籍、それらと同じ器です。この器の中味を構成するものは、写真の中味であり小説の中味そのものです。その中味そのものの考察も含め、新しいメディアを研究する試みです。