中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

2014年01月

2005.12.19
ヴァーチャルアートの試み

(1)

ヴァーチャルアートあるいはメディアアートの試みをはじめています。
インターネット環境で、ひとりの人格を作る、試みです。
たとえば、ハンス・ベルメールは人形を作った。この人形はヴァーチャルではなかったが、そこに人格を込めて、写真に撮った。
ヒントはここにある。いまやインターネット時代、ヴァーチャル時代です。ボクはここにひとつの人格を創ろうと思うのです。

主人公は若い女性です。この女性が、ホームページを持ち、ブログを持ち、写真や文章を載せていく、そこにひとつの虚構の女性を作り上げていく考えなのです。この考えは、いまこそ可能なアートのかたちだと認定しています。それは虚構の世界ですから、ボクが思うことを具体化する女性です。まあ、ちょっと変質気味ているかな~との思いもあります。

現代アート作品の、本質テーマのひとつに、セクシュアル領域の具体化があると感じています。それをヴァーチャル上で具体的な形にする、それが狙いです。或る女性を設定する。小説であれ絵画であれ彫塑であれ、作家が具体的な形に仕上げていく結果として、作品が生まれてきます。これをヴァーチャル上で創ろうという試みなのです。

まだ始まったばかりのヴァーチャルアートの試みです。どのような展開になっていくのかは未定形です。写真と文学をミックスしながら、ひとつの仮想人格が創りだせれば、いいな~と思う。

(2)

ヴァーチャルで人格を造っていくことは、小説の場合、登場人物として書籍のなかで生成される。物語とは、そこに登場する人格に息吹を与えられ、仮想の世界が創られていくプロセスだ。この手法を、インターネット上に置いてみたら、どういう展開になるのだろう、というのが発想の原点です。ちょっと危ういな、と思いながらの実験・・・。

ボクが想定する物語の主人公は「或る女」です。インターネットツールを使って、ヴァーチャルな環境のなかで「或る女」を演じさせようと思うのです。すでに実験を開始しているところですが、良い悪いは別にして、反応が出てきています。

このこととは別に、ヴァーチャル環境に行き交うヒトの心理ということに興味があるのです。自らのヴァーチャル環境から受ける心理を体験的に研究(といえば大袈裟、アカデミックな言い方になる)をしているところですが、作家が読者の反応を見て世間を知る。これと同じように、世間を知ることが出来る。と、まあ、このようにも考えている最近です。

作家という人格は、フェティッシュで変質者だ。ヒトならだれもが潜在的に持っている人格のその部分を、覚醒させ、同意させ、満足させる。まあ、こういった作業を行いながら、満足を得ていく性質のようだ。作家は、自分を開く必要がある。或る意味、見られる立場に立つ。見る側は、作家を見ることを期待し、代弁してもらうのを待っているのです。

そのテーマとなるのは、作家が生きる時代の中で、ヒトのいくつかの関心ごとの中で、その根底を創りなす領域を明るみにだしていくことだと思うのです。「或る女」はすでにインターネット上に人格を造りだしています。小説を書き、日記を書き、写真を発表しながら、仮想の人間として生成しつつあるのです。

(3)

デジタル領域は仮想空間において、人格を創っていく試みは、アートの一つの形式だと考えています。写真と文章、これがボクの表現手段だから、この二つの領域を使って、或る女を捏造する試みだ。写真も小説も、ある種の捏造された結果です。一冊の書籍として世に出される捏造の世界が、いまやデジタル領域にネットワークされる一つの作品として捏造されるのです。

或る女は小説家を目指しています。いくつかの小説をヴァーチャルネットワーク上に配信し、自らのホームページに告白をしていきます。そのテーマは、愛と美、エロスとカロスです。或る女が捏造される人格だとは、だれも気がつかない。気がついたとしてもその人格を認める。現代社会の表と裏に生息する或る女を捏造するのです。

或る女であることの試みは、男と女のあたかも本音であるかの情報を収集することにあります。表と裏を人格全体をなすものとして、その全体像をつかむためです。現実世界で、世にいう性的犯罪とされる領域の根源を断ち切りたい、そんな想いがあります。そういう犯罪行為がたち表れる個の内面を探りたいとも思うのです。

これは文化研究の一端として捉えています。ヴァーチャルネットワークが手元にやってきて、およそ10年の時間が経過しています。新しいメディアが成立しつつあります。ただしこれは器であって、内容ではありません。写真におけるカメラ、文学における書籍、それらと同じ器です。この器の中味を構成するものは、写真の中味であり小説の中味そのものです。その中味そのものの考察も含め、新しいメディアを研究する試みです。
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2005.10.19
地上と地下

地上には光があたり、草木が茂り、木の実ができる楽園がある。
動物や植物が繁殖するために、生を営むために食べ物をむさぼる。
これらは地上における光のあたる場所にて、おこなわれる。
地下には何があるか。
地上を支える土があり水があり栄養素がある。
こうして地上と地下が一体となって生命体を維持させてくれる。

さて、ヒトのいる場所において、ヒトには身体と情がある。
身体の地上は、日々生活のための活動である。
じゃ~身体の地下は何だろう。
生殖行為の場、それが地下の行為であろう。

情の地上は何だろう。
目の前の光景に感動することに違いない。
じゃ~情の地下は何だろう。
生殖行為の場における情の在処といえるかも知れない。

地下は見えない場所である。
ヒトは見えない場所を見たいと思う。
じゃ~見せてあげよう!といったとき、そこには蓋が施されてある。
もんだいは、その蓋をどこまで開くことができるのか?!

地下を地上に引き上げる。
つまり蓋を開いて地上にしていく。
身体と情が共にある場所。
それは生殖の現場だ。
生殖は非生殖の場となり地下に封印されてきた。

さあ、この地下の封印を解いてあげよう。
地下を地下たらしめる蓋を開けて光を浴びさせてあげよう。
いいかね、これが大事なことなんですよ。
地下室の手記(ドストエフスキー、1864)の時代から一世紀半。
いまこそ、<地下室のエロス>の出番なのだ。
いいかね、これが大事なことなんですよ。

2005.11.11
恍惚と憂鬱

心の動きを見つめていくと、恍惚となる状態があるかと思えば、憂鬱になる状態があります。恍惚と憂鬱、エクスタシーとメランコリーです。
ヒトの気持ちって、この間を揺れ動く振り子のようだな~と思ってしまいます。そして、この領域は感情の領域です。

未来科学では、ヒトの感情がコントロールできるようになる。喜怒哀楽が作れるようになる。そんな時代に入っている現代だ。
エクスタシー状態とは、性欲が昂じていくさま、代表的にはそのように考えます。そうするとメランコリー状態とは、性欲が抑制されていくさま、このように考えることがあります。
ヒトの生存の最中には、食欲と共に生殖欲求が大きな比重を占めていると考えています。
恍惚と憂鬱が、この基本欲求を満たすか満たさないかにかかっているのです。

芸術が、写真や映像が、文学が、これから求めていくテーマとして、ボクは恍惚と憂鬱のレベルで、感情を喚起させる内容のものが、現れると推測しています。
感情のレベル。快・不快とともに、恍惚・憂鬱という感情のレベルです。
物語は、いまや浪漫自然主義とでも言えばようのでしょうか。
そういう時代に突入しているな~と思っています。

セックス産業が盛隆する。
何時の時代においても多かれ少なかれ、産業となるかならないかは別として、このことが大きな感心事でした。
いま、インターネットの環境を眺めると、迷惑メールという大半がセックス関連です。18禁アダルトサイトと呼ぶ、セックスサイトが膨大に拡大している。
この本質になにが隠されているのかを考察なしに、禁止だけ唱えても解決にはならない。
一方で自爆テロと呼ばれる戦争行為がある。これなど日本の60年前に、特攻隊だとか人間魚雷だとかと同じだ。ただ戦争が軍人対軍人に納まらなくなっただけのことなのだ。
きな臭い現場と、エロ臭い現場が、共に隠蔽されて世の外側に置かれていく状況に、これを注視しないわけにはいかない。

物語が浪漫自然主義の中にある、というのは、この両極を内に含みこむ物語であることだ。いま芸術が求めているのは、この領域を描き出すことなのだ、と考えるのです。

2005.11.22
磔刑のキリスト
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イタリア旅行中、深い印象に残り、また感動した光景を記すとすれば、磔刑のキリスト像であります。自分の気持ちに、背筋がゾクゾクするほどに、染み入ってきた光景でした。
ボクはキリスト教徒ではない。宗教心が無いとはいえない。でも無神論を貫いてきた何十年かがある。
文学では、太宰治、遠藤周作という作家の小説を読んできた。太宰は18歳から20歳前半だたし、遠藤は50歳半ばだった。
今回の旅行中、聖堂めぐりのなかで、愛読した小説と絡めて、ボクの気持ちを枠つければ、小説と現物のなかで、揺れ動いたと思っている。

写真は、ミラノのドームの中にあった磔刑のキリスト像。照明され、ローソクを捧げる台があった。

たとえばジッドの小説に「狭き門」という作品がある。信仰することの意味を書きあらわせた美しい小説だ。あるいは人間の理想を説く作品だと思われる。
あるいはドストエフスキーの「地下室の手記」という作品がある。人間の内面を書きあらわせた美しいとはいえない告白小説だ。
それに呼応するかのようにして、ボクは「愛物語」&「地下室のエロス」を書く作業中だ。

人の内面にある思いを、符合させるイメージとして、磔刑のキリストに救いを求める。あるいは人のこころの枠を作る作業としての磔刑のキリスト。

ボクの感動を、この磔刑のキリスト像に符合させたとき、信仰の意味が掴めたような気分になった。

2005.11.30
紅葉する京都

秋も終わりの今日は11月30日です。数日前に、紅葉を見に行くともなく行った先で、紅葉を見た。
春の桜、秋の紅葉!
あらためて京都を捉える視点のひとつとして、桜と紅葉を想い描いた。
春夏秋冬、ヒトの季節を感じる感じ方のなかに、自然の風物があるとすれば、この自然風物こそ、植物群と密接に関係していると思われるのだ。

ところで、桜といい、紅葉といい、これは人工的に作られた文化の一端である。もちろん山へ行けば、自生の桜や紅葉があるけれど、これを文化の中に持ち込んだ気持ちは、すでに文化のなせる技である。
京都をどのように捉えるか。このテーマがボクのなかにある。ボクの生まれ育った生活環境そのものが京都である。その生活者の視点で、自分自身を捉えていく枠として、京都という枠を考えているのだ。

紅葉を見る場所は、社寺の境内が多い。とはいえ行った先は、宝ヶ池の子供の楽園、南禅寺境内だった。具体的には、11月27日と28日であり、宝ヶ池は孫たちと妻と一緒に、南禅寺は妻と一緒だった。家族と一緒に行った先での、紅葉鑑賞、写真撮影ということだった。

白幻物語-冬へ- というタイトルで、昨年にアルバムをつくった。
田舎の自宅の庭の紅葉を起点に、冬風景をまとめる写真アルバムだ。そういえば紅葉は、冬への季節の始まりなのだ。

2005.12.18
雪が降る

冬になれば雪が降る。自然現象です。ぼくは京都生まれの京都育ちだから、雪が降る光景には、憧れに近いまなざしがあります。寒いところ・・・・、向かう方向を言い当てるなら、南方よりも北方へ、暖かいところより寒いところへ、という感じでしょうか。
学生のころ、もう遥か昔のことだけど、旅をするならシベリア経由で西欧へ入る。そんな夢想を抱いたものでした。

南方系、北方系、そんな分け方があるとしたら、ぼくは北方系ということになるのかも知れないですね。やっぱり、どうも南方には興味が湧かないんです。バリ島に行ってみたい、という気持ちも無くはないですが、むしろ東欧の国々へ行ってみたいという気持ちの方が強いですね。

ヨーロッパへはこれまでに二回旅行しました。最初は1998年、ドイツ、オーストリア、オランダの三国、そしてこの11月、イタリア。どちらかと云えば明るい雰囲気だったアムステルダム、ナポリ、というよりも、リンツ、ミラノ・・・ちょっと陰鬱な街の方が印象深いです。

ぼくの生活空間は、京都ですが、そのことを念頭において感じてみると、東京より京都を好みます。ということは、ウインよりもリンツ、ローマよりもミラノ、首都よりむしろこじんまりした歴史ある街ということになるのかも知れない。

やっぱり田舎より街だな~と、自分の好む風景を確認してしまう気持ちです。
雪が降る日の午前です、手持ち無沙汰な時間だ、何気なく、ふ~っと思うことを文章にしています・・・。

2005.12.30
年賀状

年末年始がやってきた。
今年の反省と来年への抱負。
毎年この時期になると決まって嗜まれるのが年賀状。

ボクはこの10年余り、年賀状を書かない、出さない。
年賀という風習は認める。
としてもこれを年賀状という郵便はがきにしたためることをしない。

昨年からWEB年賀状をやりだした。
経費がかからないからです。
ボクの思考のなかに、貨幣からどこまで遠のけるかというのがある。

だれにも強要はしない。
自分だけの実行です。
そういうことで郵便はがきの年賀状は出していません。

2006.3.4
私性のこと

東京都写真美術館から特別鑑賞会の招待状が届きました。「私のいる場所-ゼロ年代の写真論」とゆう展覧会が、この3月11日から開かれるといいます。ここでは「私性」プライベートが全体テーマだとゆうことです。

私にこだわるということは、全体が拡散してしまったと思われる時代の、私を確認する方向として意識されるテーマです。それを写真や映像で、表現物として作るわけだから、フィクションではあるけれど、ここ近年、クローズアップされてきています。

プライベートということ、写真でいえば、プライベートドキュメントです。少し前の状況でいえば、かなりセクシュアルな自分の生活現場を、開示する方法で写真が撮られた。あるいは私性の表現として、それらは有効だったと思う。

個人の内面というのは、感情に満ち溢れ、感情の源泉にはセクシュアルな要素が潜んでいます。この内面を見つめていくと、これまで特殊な領域に押し込まれていたセクシュアルが、特殊な領域ではなくて、社会認知されるための表現として意識される。

まあ、ドキュメント論でいえば、外に向かっていた作家の意識が、内側へ向かってきた結果として、いま、「私性」プライベートドキュメントなんです。全体が拡散してしまったように感じられる世界の、唯一の確証えられる場として、自分を見つめていくという作業が、浮上してくる。何も信じられなくったって、せめて自分だけでも信じてあげよう。そんな感じかな、と思います。

そういうわたしも、私性にはかなり強いこだわりがあるところです。

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