中川繁夫写文集

2014年02月

(6)
あなたが織り成されたお話はぼくたちふたりの物語でした。あなたがおっしゃるには人間のエロスを自然の営みとしてきたものが文化なんですよということでしたね。
そうなんですね。エロスをどのようにとらえ乗り越えるかなんですね。こころに豊饒をもたらす力の象徴としてこころの核心にあるのがあなたであるように思われます。

その反対の極みにぼくたちがいるのでしょうね。あえてぼくはエロスのはざまを行き来する自身を見つめています。きっとあれらは神秘的な力が宇宙や人間の運命を支配しているという信仰なのですね。だからあの神秘的で呪術的なあれの力というのをぼくたちは共有したいんです。

しかしぼくたちが不幸だったのはあなたを意識することもないままに神秘的で如術的な力の特異ななかに収斂されてきたことでした。ぼくたちが苦境におちいったあのときですね。あれに憑かれてしまったのは。花の精が持っていた霊力が苦闘するぼくたちの寂寥を癒しはじめていたのです。

ぼくたちのからだは表情豊かな花の精と同じでなければならないと思っています。ぼくたちのデリケートで微細なからだはすべての臓器と器官によって感知され知覚されています。それらは生き生きとして存在しています。そのうえ柔らかくてかすんでいるようですがその風景はぼくたちの豊かな意味を創生するように満ちています。

ぼくたちのゆたかな表情は詩であり音楽であるようなエロスの表現だと感じています。ぼくたちのエロスは感情や気分と深く結びついていてセクシュアルに美しいと思っています。あなたに見守られたぼくたちは感情や想像力を喚起してきます。これがぼくたちのからだの根本であるはずです。

ぼくたちの魂は時間と空間から自由になることを求めているのですよ。ほら深~く感じてごらん。魂は日常の生活から逸脱を必要としているのです。この逸脱は他の次元、永遠の次元、不滅の次元、神話的な次元、等々との結びつきを求めています。

ぼくたちは魂が神秘の愛を渇望していることをもう知ってしまったのです。花の精との交合を含む物質の世界が永遠なる精の風景への道となるのですよね。ぼくたちが愛し合うときにはきっとそれらが立ち現れてくるのですよね。

ぼくたちの魂は永遠なる領域に存在することを求めています。深~い感情や高~い願望という垂直的な次元のなかに魂とのつながりを求めています。ぼくたちの日々の行為はあれの儀式のように活動させようと思ってます。その儀式は魔術のようにそこに存在する精をたちあがらせようとする儀式でなければなりませんね。

ぼくたちが深~い直感と想像に導かれて愛し合うときってからだもこころもすべての営みによって快楽を得ることです。またそれだけではなくてぼくたち自身であることをも忘れて恍惚にあふれるのです。そしてあたたかい夢の雲の中へと運ばれていくのをも忘れて恍惚にあふれるのです。そしてあたたかい夢の雲の中へと運ばれていくのです。

ぼくたちのからだの中にあるエロスは全宇宙を結びつける磁力ではないでしょうか。愛することってその大いなるエロスへの入り口ですよね。からだとこころが誘惑や欲望と共振して生きること。その魂を捜し求めること。ぼくたちが深~い方法で知りあうこと。新しい仕方で生きることを知ること。特別なやり方であなたのいちばん深~い恍惚を感じること。

それはからだとこころと情動が結合されたもの。愛し合っているぼくたちによって感じられ理解される意味深~い結びつきであること。宇宙をひとつに結びつける偉大な磁力であり精であること。これはぼくたちとあなたがひとつになること。創造的で愛に動機つけられた生となること。

生にはいつも逸脱が含まれています。でも逸脱することがなければ決して行為の完全な達成という自由の感覚を得ることってないのかも知れないな。

ぼくって本質的に悪であり罪であるという「恐れ」にぴったりと寄り添う生き方をこれからも模索していきます。

逸脱とはぼくたちが生命体としてもっているエロスの欲望の深みで「美」や「純粋さ」というものを探し求めているくことなのかも知れないな。花の精はぼくを魂それ自体の美しさに導いてくれる。そこでは充足と空虚とを同時に感じることかもしれません。でもこれが自然にあることです。自然のリズムに身をゆだねて生きることですね。

花物語(終)2004.2.1

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(5)
ぼくは山のなかに棲んでいる精になってしまいました。ひそかに愛をよせるそれらは同じ山の中に棲んでいる「花」の精です。ぼくの深~くの情動は山に棲んでいる花や草木の無垢な生命力をつかさどる花の精を通していつもぼくのからだと情動を恍惚に導いてくれています。

ぼくと花の精との交感はいつも光に導かれて内なる自然の根元に結びつけてくれます。ぼくがこの光を大切にすることで激しく欲望し苦悩し絶望するこころを鎮めることができたのかも知れません。

ぼくたちが精として生きているところには花や草や木や昆虫や小鳥たちが物質として存在しています。この物質としての存在は眼や望遠鏡や顕微鏡で確かめることができる物質の集合体なのですね。でも物質ではないけれども存在しているものもあると思うんですけどぼくにはこれは確かでないんです。

物質っていうのは光の粒子、原子、遺伝子と名づけられたミクロなものから星・星雲といったマクロなものまで科学という領域において拡大させてきた結果としてぼくたちに知覚される存在なのだっていいますよね。

物資ではない存在っていうのは不在といえばいいのでしょうか。眼では確かめられないけれども存在するものだと思うんです。記憶としてぼくのどこか深~いところから起こってくる像ってのがあります。これって存在するものではないのですかね。

その不在といわれる存在をぼくが知覚するときいつも一緒に感情が湧き出してきます。それを突き動かしているからだの中の情動は形を確かめられないけれどもそこにあるものに出会うのです。この不在の存在は精と呼ばれるぼくそのものをさしているのかな。

ぼくはいま広い記憶の風景のなかに脈々と形成されてきたものが溶解し消滅していくのを見ています。これは概念といわれている枠組みですよね。ぼくにはこの溶解し消滅していく概念が衝動的に湧き起こしてくる情動が情動そのものとしてすがたを見せはじめるのです。

この情動のなかではぼくたちの磁力が発生しているようです。ぼくたちが不在という存在の磁場を生成する力はすでにそこは強弱が消滅していた風景でした。磁力は交じり合い磁場に融けあっていました。ぼくの触覚は花の精と同化してしまっていました。

この磁場のなかにいるぼくたちに問いかけてくる声がありました。カミサマハソンザイシテイマスカ・・・・・・。この声についてぼくは無神論者を名乗っていましたから否という答えであったと思うのです。

いつのころから生じはじめたのか確かなことはわからないのですがぼくの内面が淋しさに疼いているという感覚の発生を辿ってみると幼年あたりに行き着いてしまいました。おぼろげにその先をみると母の胎内のような気もします。その感じって奈落の底に転げ落ちるような崩壊感覚です。

そしていつのころか自覚されてきたのがあなたは不在であるということでした。ぼくは十六のときに断定をくだしました。

あなたは不在。でもいまぼくはあなたの化身を認めようとしています。磔刑の像とはいいませんが花や木の精といった化身です。

それらの化身への物語をどのように理解したらいいのかという思いが生じはじめたのです。現実の生活の日々。生の在処を探しに旅たちはじめて数年がたったころでした。日々が苦に感じられて日々に情欲が希薄になりつつあったころのことです。

ぼくはあなたの痕跡を探す旅にでかけました。あなたは存在するのかも知れない。存在するとしたらどのように存在しているのでしょうか。あなたが存在していることとはどのような状態をいうのでしょうか。ぼくのあなたへの像は太母なるものの像であるように思われます。

あなたに反抗してきたぼくの結末は虚しく出口の見いだせない状況をぼく自身のなかに創り出すことになってしまいました。そうした生活の日々のなかでのある日でした。

仰ぎみて救われる気持ちのすべてとしてあなたを受け入れるべきなのだとの想いが立ち現れてきたのです。ぼくをかたちつくっている全てのものを統括しているものそれ自体。ぼくを包み込む気分の全体。目をあげて全てを告白する存在。光そのもの。

ぼくは自然の現象といわれるものたちと共に生きようと思っていました。あれらの物語が余りにも悲惨だったように思われたからでした。信じることを喪失した関係のゆくえは自らのからだを滅ぼすことにつながるのではないかという恐怖が襲ってきたからです。

それらのことをいかにして無化していくのか。母がぼくを呼んでいる声が幻想のうちに聴こえてきたとき涙がぽろぽろ流れだしました。みえてきたのは母の最後の日のうしろ姿でした。そしてベッドに横たえられた母のからだは空をもがき苦しんでいました。

そんなに来たいんやったらもうこっち来てもいいよと手招きでわたしに微笑みかける母を想起しながらぼくは明確には返事をしませんでした。母の記憶のある風景はまだぼくの深くて遠いところにあるようにも思われたからでした。宇宙という存在と不在が統合する彼方に母のいる風景ががあるようにも思われたから。

ぼくの生への渇望は暗い欲望の河を渡っていくことでした。ぼくの気分はささやかな欲情に満たされてきました。生のなまなましさがそこにはありました。ぼくの生の根拠はねじれた欲情でした。

ぼくにはまだあなたへの共感と反抗が入り乱れていました。そういうなかで生きている実感を得ようとしていたのです。ぼくはもの言わぬあなたの化身を求めていたのだったと思います。
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(4)
秋風のなかに立っていると黄ばんだ木の葉が舞い落ちてきました。ぼくは風に吹かれて皮膚が快く共振しています。感じています。生きることってどういうことなんですか、というあなたがお出しになった問いを解こうとしています。

ぼくの魂は時計の振り子のように振れています。これまでぼくが経験して培われてきたこの世では価値とよばれているものが溶解しはじめているようなのです。あれらと共振するぼくの魂というのはからだと切り離すことができないものなんですよね。

自然のなかにぼくの感性や情動を委ねていくことはぼくの生の現象を確認していく手だてとなるものとの想いがあります。ぼくの関心の中身は自然とともにあるぼくが身に受けるさまざまな事柄への興味なのです。ず~っと向こうのほうまで傾斜していくんです。

ぼくが身に受けて立ち上がってくる想念を写真に撮り連ねていくことがぼくたちの織り成す物語への発端になるように感じます。ぼくたちがいまを生きていることの意味を問う物語としてそれらは撮り連らねられていくのでしょうね。きっと。

でもあれらの物語は多くの真であると同じだけ多くの虚をはらんでいるとおもっているんです。真と虚を前提としてのあれらの物語。あなたにもわかるでしょ?それがぼくのからだの奥深~くから発生してくるあれらの断片であるということがね。

かつてぼくはイメージ過程説という概念を想い描いたことがありました。ぼくたちが共有の磁場を発生させることができるとしたら、その磁場における磁力はふたりのあいだでどこまで交感し重なりあえるかということでした。

ぼくが描いていくイメージの断片である言葉をあなたにつなげること。あたかも一枚のマテリアルとしての写真のように目を閉じてまぶたに浮かぶイメージがまるで写真のように見えるその見えかたで重ねあえることができるかどうかの試みなんです。

かつてぼくたちの先祖が織り成してきた創成物語が生じる風景とはどのようなものだったんでしょうか。いま海に浮かぶくらげのようにぼくの内面にあるあれら恍惚とする風景はどこから導き出されてくるのでしょうか。

ぼくの風景の発見はぼくの魂の発見につながっています。魂を発見していくことが新しい物語を創生していく場の起源となるような質を孕むのだろうなと思っています。

ぼくたちの恍惚とする風景の発見は何を指し示しているのでしょうか。すでにこのぼくはぼくの外側にひろがっているものの総称を風景と名づけておりそのことを認知するものの総称をぼくの魂と呼ぼうと思ってます。

でもこの分けかたの認識がどこからやってきたのかということを問うてみます。そうするとことばのなかからやってきているのではないかなと思うんです。そんな状態でぼくがここですくい上げてあげることでぼくの全身を揺さぶってくる情が湧いてくるんです。

その根底の情動という得体のしれないものがぼくを突き動かしている感情なんです。その風景はからだの存在や魂の存在そのものを忘れさせてしまうなにかなのです。からだと魂が一体化すること。これって恍惚そのものですよね。

これから起こると想定されるぼくにとっての理解不能の現象は「おどろき」の感情を誘発することであると思います。あれらのこと自体を空想すること。幻覚を呼び込むこと。幻視すること。幻聴すること。恍惚を得ること。

深~い悲しみのあとの恍惚はあれら幻視・幻聴・幻覚をとつとつと語りはじめることでぼくたちの物語はきっとあたらしい創生の物語としての体系が培われていくのではないですか。ぼくたちの花物語はそうした磁場を形成していくことで磁力が働きはじめるのではないですか。

自然の現象とぼくたちが交感するあれら恍惚感覚のなかでそれぞれの感性を織り込んでいくイメージがおおきなうねりとなって記憶されていくときをあなたと共有したい。
いまぼくたちは自然の現象のなかのぼくたちとして生成されてきているようです。光と生の記憶に参入していくことで自然とぼくたちの交感がはじまってきているのではないでしょうか。あなたは感じますか。

ゆっくりと時が流れています。その時というものを遡行したり解体したりしていくことができるようになりたい。ぼくたちってその試みをおこなうことをもってあなたとともにあたらしい愛の関係へと紡いでいかなければならないのではないでしょうか。

ぼくはあれが起こってくるそのみちすじと情動がゆらめいてくる根元を見つめようと思っています。ぼくは想起する記憶の点検をおこなっているんです。ぼくの体験は生として発生して来てからいままでの時のすべてです。ぼくのすべては大地のなかに育まれてきました。

この世で文明とか文化とかいっているなかに延々と培われてきた記憶っていうのがありますよね。ぼくたちっていうのはその広い記憶の風景から作られてきているんですよね。で、ぼくたちはそこからの脱出ができるのかという問題を想起してみようとしているんですよね。

ぼくたちの日々の記憶は生まれたときからいままでの時を軸として共にあるのですよね。ぼくたちはからだに記憶の光景が想起されてその光景の意味を解釈しようとしているんですよね。このことってぼくたちの記憶に意味をもたせる基になっているんでしょうかね。
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(3)
その前後に構想されて撮られた映像群をぼくは「マイスイートルーム」と名づけていました。あれらの光景はぼくの空想的極私時間における恍惚に満たされた光景でした。


あれらの光景を映像に仕上げていくプロセスには永遠の未公開として封印することを前提とする撮影でした。非公開という発表のしかたがあってもよいと思っています。でも一方で、その経過した時間のなかで体験した宙吊りの感覚は去っていきませんでした。

愛していたものを喪失しいまや不在となってしまった時がもたらした結果はぼくの生を枯渇させつつありました。でもあれらが行き去りさった日々のあとのあの日の出来事はぼくに一条の希望の光が与えられたようでした。ことの成り行きは偶然のなかで起こりました。

初めて会ったものがともにする時間のなかでした。あれが仰ぐあなたからの啓示だったのかもしれません。あなたは風のごとく天女の羽衣をまとって降誕してきたのですね。幻覚はぼくの魂を揺り動かしました。あれはぼくたちの生の時のなかから偶発的に生じてきたように思います。

それからの時が経過していくなかでぼくの魂はあれに深く共振し反応していきました。深~い悲しみの物語ってありますよね。きっとあのときすでに始まっていたのだと思います。ぼくの時間はあのときからは全く別の時と交差しながら編みあげられてきたのです。

悲しみはあれらの日々に想起されてきた空間を花物語として認知しはじめていました。きっとぼくたちの花物語は時や空間や体や感覚といったすべての領域で創造されていくように感じます。

もうお別れ。ぼくはあらためて目覚めようとしているのかも知れません。あるいは夢見にはいろうとしているのかも知れません。その風景の感じはこれまで編みあげられてきた原理が超えられてゆく予感でした。その原理の外側のずっとむこうにおぼろげに見えてきているでしょ?

信じて仰ぎみるといわれてきた領域をも超えていくなにか・・・・・をも超える感覚を得ていくことへと近づいているようなのです。ほのかなひかりが見えてきているでしょ。ほ~らね。よくみてごらん。そのひかりは何処からきているのですか。

「ほら、見てごらん、あれを・・・・あなたにも見えるでしょ」と啓示されたかなたに見えはじめているもの。ぼくはまばゆいなかに新たな物語が幻想深くに創生されはじめているように感じはじめました。

あれのイメージが生成されてくるためにも光とたわむれながら山の小鳥や花草木とともにあの日々のなかで失われた時の物語をえていこうと思います。
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(2)
雪の季節にはまだ日々がありました。小鳥や虫たちはまもなくやって来る幻のような冬にむけて準備をしています。かれらはいのちの凍える日々がやってくることをどのようにして感知しているのでしょうか。

いつの日か山で写真を撮りました。なだらかな起伏の斜面に土があらわになっているところがありました。その風景には苔と羊歯が生えていました。そこはぼくたちがこれまでに幾度も探索していた風景でした。

夏には木々の茂りと群生する草で覆い尽くされていました。冬には雪に埋もれてぼくたちの侵入を阻んでいました。その風景は雪がとける春と雪が積る冬が訪れる前だけぼくたちに開放してくれました。春には山のせせらぎでふきのとうやせりやわらびなどが採れます。


冬の前には、銀杏だの胡桃だの栗だのが採れます。ぼくたちは山の生きものたちと一緒になってそれらを収穫しました。ぼくたちはその風景に生の息吹を感じていました。その山の風景は生誕の起源から計り知れない時を経てきているのですよね。

ぼくたちがその風景のなかにいるときにはひとのたましいが生じてくるはるか以前のような気分になっていることです。

遡ること二十年も前にぼくは死の道行とそのあとの世界の写真を撮りました。地獄絵の複写でした。それらはぼくにとっての最後の撮影でした。それからとおい時がたってしまいましたがいまその光景が想い起こされてきます。

ぼくが最後の決意をしたころの感情を思い出しているのです。そうだったね。ぼくを封印すること。もうカメラなんて持たないで生きようと決意したあとの夏のお盆でしたね。


山での日々が始まったころぼくの霊気がよみがえりはじめました。それから数年が経ちました。すべてを記憶の海に埋没させてきた日々をこえて。あらたな日々の記念にひそかにその斜面の光景から撮りはじめようと思いだしました。

その光景は山の斜面に生える苔と羊歯でした。苔と羊歯は生命というものを死界からよみがえらせる境界としてあるようでした。ぼくは仰いで受け入れることの畏怖を感じます。生命の起源についてへの問いかけは、いまのぼくの関心の中心をなすもののようにふるまっています。

ぼくは情動のままに生きることにまかせてみようと思いました。いつから悪の感情が漂いはじめていたのでしょうか。日々、織り成されてきた生活の原理というもの。原理はこの世のこの仕組みを維持するものとしてありました。

この世という仕組みに生息するぼくたちは情動において全く交差しない悪の日々にあるのではないですか。ぼくたちは残された生の時間をもう一つの圏内に営む決定をしてもいいのではないですか。
ぼくはその日々たちを「写真への手紙・覚書」という表題にまとめながら手許に置いていこうと思っています。記録ということの解体と新たなイメージ過程の創生へと向けられた論はぼくの未来に向けた論そのものになるはずなんです。

写真の奥深くを探っていくことってそれらまでのぼく自身の未来における死を告げていたようでした。いつのころからか宙吊り感覚に遭遇していたぼくはその風景において喪失の気分を感じとっていました。
山のなかで生の在処としてのあらたな写真のありようを模索しだしたようでした。ぼくがあなたにむけるまなざしを根拠にして関係のありようの根拠を模索しはじめたのです。

写真とは愛が形となったものではないですか。
愛を形にしてあげること。これがぼくの求めていく写真の真顔だと思っているんです。


写真が愛の形というのならそうと認められるイメージが「いま・ここ」にあります。だってぼくは愛の形の細部を探求していく探検家になったような気分になっているんですもの。
ぼくが再生していく最初のテーマは「生命のよみがえり」でした。ぼくにおいて生命というものがおおむかし偶然に生成しはじめたイメージの最初は苔と羊歯だったのです。このときをしてぼくのなかにあなたがやどった創生記念日となったのですね。
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