中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

2014年02月

(6)
あなたが織り成されたお話はぼくたちふたりの物語でした。あなたがおっしゃるには人間のエロスを自然の営みとしてきたものが文化なんですよということでしたね。
そうなんですね。エロスをどのようにとらえ乗り越えるかなんですね。こころに豊饒をもたらす力の象徴としてこころの核心にあるのがあなたであるように思われます。

その反対の極みにぼくたちがいるのでしょうね。あえてぼくはエロスのはざまを行き来する自身を見つめています。きっとあれらは神秘的な力が宇宙や人間の運命を支配しているという信仰なのですね。だからあの神秘的で呪術的なあれの力というのをぼくたちは共有したいんです。

しかしぼくたちが不幸だったのはあなたを意識することもないままに神秘的で如術的な力の特異ななかに収斂されてきたことでした。ぼくたちが苦境におちいったあのときですね。あれに憑かれてしまったのは。花の精が持っていた霊力が苦闘するぼくたちの寂寥を癒しはじめていたのです。

ぼくたちのからだは表情豊かな花の精と同じでなければならないと思っています。ぼくたちのデリケートで微細なからだはすべての臓器と器官によって感知され知覚されています。それらは生き生きとして存在しています。そのうえ柔らかくてかすんでいるようですがその風景はぼくたちの豊かな意味を創生するように満ちています。

ぼくたちのゆたかな表情は詩であり音楽であるようなエロスの表現だと感じています。ぼくたちのエロスは感情や気分と深く結びついていてセクシュアルに美しいと思っています。あなたに見守られたぼくたちは感情や想像力を喚起してきます。これがぼくたちのからだの根本であるはずです。

ぼくたちの魂は時間と空間から自由になることを求めているのですよ。ほら深~く感じてごらん。魂は日常の生活から逸脱を必要としているのです。この逸脱は他の次元、永遠の次元、不滅の次元、神話的な次元、等々との結びつきを求めています。

ぼくたちは魂が神秘の愛を渇望していることをもう知ってしまったのです。花の精との交合を含む物質の世界が永遠なる精の風景への道となるのですよね。ぼくたちが愛し合うときにはきっとそれらが立ち現れてくるのですよね。

ぼくたちの魂は永遠なる領域に存在することを求めています。深~い感情や高~い願望という垂直的な次元のなかに魂とのつながりを求めています。ぼくたちの日々の行為はあれの儀式のように活動させようと思ってます。その儀式は魔術のようにそこに存在する精をたちあがらせようとする儀式でなければなりませんね。

ぼくたちが深~い直感と想像に導かれて愛し合うときってからだもこころもすべての営みによって快楽を得ることです。またそれだけではなくてぼくたち自身であることをも忘れて恍惚にあふれるのです。そしてあたたかい夢の雲の中へと運ばれていくのをも忘れて恍惚にあふれるのです。そしてあたたかい夢の雲の中へと運ばれていくのです。

ぼくたちのからだの中にあるエロスは全宇宙を結びつける磁力ではないでしょうか。愛することってその大いなるエロスへの入り口ですよね。からだとこころが誘惑や欲望と共振して生きること。その魂を捜し求めること。ぼくたちが深~い方法で知りあうこと。新しい仕方で生きることを知ること。特別なやり方であなたのいちばん深~い恍惚を感じること。

それはからだとこころと情動が結合されたもの。愛し合っているぼくたちによって感じられ理解される意味深~い結びつきであること。宇宙をひとつに結びつける偉大な磁力であり精であること。これはぼくたちとあなたがひとつになること。創造的で愛に動機つけられた生となること。

生にはいつも逸脱が含まれています。でも逸脱することがなければ決して行為の完全な達成という自由の感覚を得ることってないのかも知れないな。

ぼくって本質的に悪であり罪であるという「恐れ」にぴったりと寄り添う生き方をこれからも模索していきます。

逸脱とはぼくたちが生命体としてもっているエロスの欲望の深みで「美」や「純粋さ」というものを探し求めているくことなのかも知れないな。花の精はぼくを魂それ自体の美しさに導いてくれる。そこでは充足と空虚とを同時に感じることかもしれません。でもこれが自然にあることです。自然のリズムに身をゆだねて生きることですね。

花物語(終)2004.2.1

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(5)
ぼくは山のなかに棲んでいる精になってしまいました。ひそかに愛をよせるそれらは同じ山の中に棲んでいる「花」の精です。ぼくの深~くの情動は山に棲んでいる花や草木の無垢な生命力をつかさどる花の精を通していつもぼくのからだと情動を恍惚に導いてくれています。

ぼくと花の精との交感はいつも光に導かれて内なる自然の根元に結びつけてくれます。ぼくがこの光を大切にすることで激しく欲望し苦悩し絶望するこころを鎮めることができたのかも知れません。

ぼくたちが精として生きているところには花や草や木や昆虫や小鳥たちが物質として存在しています。この物質としての存在は眼や望遠鏡や顕微鏡で確かめることができる物質の集合体なのですね。でも物質ではないけれども存在しているものもあると思うんですけどぼくにはこれは確かでないんです。

物質っていうのは光の粒子、原子、遺伝子と名づけられたミクロなものから星・星雲といったマクロなものまで科学という領域において拡大させてきた結果としてぼくたちに知覚される存在なのだっていいますよね。

物資ではない存在っていうのは不在といえばいいのでしょうか。眼では確かめられないけれども存在するものだと思うんです。記憶としてぼくのどこか深~いところから起こってくる像ってのがあります。これって存在するものではないのですかね。

その不在といわれる存在をぼくが知覚するときいつも一緒に感情が湧き出してきます。それを突き動かしているからだの中の情動は形を確かめられないけれどもそこにあるものに出会うのです。この不在の存在は精と呼ばれるぼくそのものをさしているのかな。

ぼくはいま広い記憶の風景のなかに脈々と形成されてきたものが溶解し消滅していくのを見ています。これは概念といわれている枠組みですよね。ぼくにはこの溶解し消滅していく概念が衝動的に湧き起こしてくる情動が情動そのものとしてすがたを見せはじめるのです。

この情動のなかではぼくたちの磁力が発生しているようです。ぼくたちが不在という存在の磁場を生成する力はすでにそこは強弱が消滅していた風景でした。磁力は交じり合い磁場に融けあっていました。ぼくの触覚は花の精と同化してしまっていました。

この磁場のなかにいるぼくたちに問いかけてくる声がありました。カミサマハソンザイシテイマスカ・・・・・・。この声についてぼくは無神論者を名乗っていましたから否という答えであったと思うのです。

いつのころから生じはじめたのか確かなことはわからないのですがぼくの内面が淋しさに疼いているという感覚の発生を辿ってみると幼年あたりに行き着いてしまいました。おぼろげにその先をみると母の胎内のような気もします。その感じって奈落の底に転げ落ちるような崩壊感覚です。

そしていつのころか自覚されてきたのがあなたは不在であるということでした。ぼくは十六のときに断定をくだしました。

あなたは不在。でもいまぼくはあなたの化身を認めようとしています。磔刑の像とはいいませんが花や木の精といった化身です。

それらの化身への物語をどのように理解したらいいのかという思いが生じはじめたのです。現実の生活の日々。生の在処を探しに旅たちはじめて数年がたったころでした。日々が苦に感じられて日々に情欲が希薄になりつつあったころのことです。

ぼくはあなたの痕跡を探す旅にでかけました。あなたは存在するのかも知れない。存在するとしたらどのように存在しているのでしょうか。あなたが存在していることとはどのような状態をいうのでしょうか。ぼくのあなたへの像は太母なるものの像であるように思われます。

あなたに反抗してきたぼくの結末は虚しく出口の見いだせない状況をぼく自身のなかに創り出すことになってしまいました。そうした生活の日々のなかでのある日でした。

仰ぎみて救われる気持ちのすべてとしてあなたを受け入れるべきなのだとの想いが立ち現れてきたのです。ぼくをかたちつくっている全てのものを統括しているものそれ自体。ぼくを包み込む気分の全体。目をあげて全てを告白する存在。光そのもの。

ぼくは自然の現象といわれるものたちと共に生きようと思っていました。あれらの物語が余りにも悲惨だったように思われたからでした。信じることを喪失した関係のゆくえは自らのからだを滅ぼすことにつながるのではないかという恐怖が襲ってきたからです。

それらのことをいかにして無化していくのか。母がぼくを呼んでいる声が幻想のうちに聴こえてきたとき涙がぽろぽろ流れだしました。みえてきたのは母の最後の日のうしろ姿でした。そしてベッドに横たえられた母のからだは空をもがき苦しんでいました。

そんなに来たいんやったらもうこっち来てもいいよと手招きでわたしに微笑みかける母を想起しながらぼくは明確には返事をしませんでした。母の記憶のある風景はまだぼくの深くて遠いところにあるようにも思われたからでした。宇宙という存在と不在が統合する彼方に母のいる風景ががあるようにも思われたから。

ぼくの生への渇望は暗い欲望の河を渡っていくことでした。ぼくの気分はささやかな欲情に満たされてきました。生のなまなましさがそこにはありました。ぼくの生の根拠はねじれた欲情でした。

ぼくにはまだあなたへの共感と反抗が入り乱れていました。そういうなかで生きている実感を得ようとしていたのです。ぼくはもの言わぬあなたの化身を求めていたのだったと思います。
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(4)
秋風のなかに立っていると黄ばんだ木の葉が舞い落ちてきました。ぼくは風に吹かれて皮膚が快く共振しています。感じています。生きることってどういうことなんですか、というあなたがお出しになった問いを解こうとしています。

ぼくの魂は時計の振り子のように振れています。これまでぼくが経験して培われてきたこの世では価値とよばれているものが溶解しはじめているようなのです。あれらと共振するぼくの魂というのはからだと切り離すことができないものなんですよね。

自然のなかにぼくの感性や情動を委ねていくことはぼくの生の現象を確認していく手だてとなるものとの想いがあります。ぼくの関心の中身は自然とともにあるぼくが身に受けるさまざまな事柄への興味なのです。ず~っと向こうのほうまで傾斜していくんです。

ぼくが身に受けて立ち上がってくる想念を写真に撮り連ねていくことがぼくたちの織り成す物語への発端になるように感じます。ぼくたちがいまを生きていることの意味を問う物語としてそれらは撮り連らねられていくのでしょうね。きっと。

でもあれらの物語は多くの真であると同じだけ多くの虚をはらんでいるとおもっているんです。真と虚を前提としてのあれらの物語。あなたにもわかるでしょ?それがぼくのからだの奥深~くから発生してくるあれらの断片であるということがね。

かつてぼくはイメージ過程説という概念を想い描いたことがありました。ぼくたちが共有の磁場を発生させることができるとしたら、その磁場における磁力はふたりのあいだでどこまで交感し重なりあえるかということでした。

ぼくが描いていくイメージの断片である言葉をあなたにつなげること。あたかも一枚のマテリアルとしての写真のように目を閉じてまぶたに浮かぶイメージがまるで写真のように見えるその見えかたで重ねあえることができるかどうかの試みなんです。

かつてぼくたちの先祖が織り成してきた創成物語が生じる風景とはどのようなものだったんでしょうか。いま海に浮かぶくらげのようにぼくの内面にあるあれら恍惚とする風景はどこから導き出されてくるのでしょうか。

ぼくの風景の発見はぼくの魂の発見につながっています。魂を発見していくことが新しい物語を創生していく場の起源となるような質を孕むのだろうなと思っています。

ぼくたちの恍惚とする風景の発見は何を指し示しているのでしょうか。すでにこのぼくはぼくの外側にひろがっているものの総称を風景と名づけておりそのことを認知するものの総称をぼくの魂と呼ぼうと思ってます。

でもこの分けかたの認識がどこからやってきたのかということを問うてみます。そうするとことばのなかからやってきているのではないかなと思うんです。そんな状態でぼくがここですくい上げてあげることでぼくの全身を揺さぶってくる情が湧いてくるんです。

その根底の情動という得体のしれないものがぼくを突き動かしている感情なんです。その風景はからだの存在や魂の存在そのものを忘れさせてしまうなにかなのです。からだと魂が一体化すること。これって恍惚そのものですよね。

これから起こると想定されるぼくにとっての理解不能の現象は「おどろき」の感情を誘発することであると思います。あれらのこと自体を空想すること。幻覚を呼び込むこと。幻視すること。幻聴すること。恍惚を得ること。

深~い悲しみのあとの恍惚はあれら幻視・幻聴・幻覚をとつとつと語りはじめることでぼくたちの物語はきっとあたらしい創生の物語としての体系が培われていくのではないですか。ぼくたちの花物語はそうした磁場を形成していくことで磁力が働きはじめるのではないですか。

自然の現象とぼくたちが交感するあれら恍惚感覚のなかでそれぞれの感性を織り込んでいくイメージがおおきなうねりとなって記憶されていくときをあなたと共有したい。
いまぼくたちは自然の現象のなかのぼくたちとして生成されてきているようです。光と生の記憶に参入していくことで自然とぼくたちの交感がはじまってきているのではないでしょうか。あなたは感じますか。

ゆっくりと時が流れています。その時というものを遡行したり解体したりしていくことができるようになりたい。ぼくたちってその試みをおこなうことをもってあなたとともにあたらしい愛の関係へと紡いでいかなければならないのではないでしょうか。

ぼくはあれが起こってくるそのみちすじと情動がゆらめいてくる根元を見つめようと思っています。ぼくは想起する記憶の点検をおこなっているんです。ぼくの体験は生として発生して来てからいままでの時のすべてです。ぼくのすべては大地のなかに育まれてきました。

この世で文明とか文化とかいっているなかに延々と培われてきた記憶っていうのがありますよね。ぼくたちっていうのはその広い記憶の風景から作られてきているんですよね。で、ぼくたちはそこからの脱出ができるのかという問題を想起してみようとしているんですよね。

ぼくたちの日々の記憶は生まれたときからいままでの時を軸として共にあるのですよね。ぼくたちはからだに記憶の光景が想起されてその光景の意味を解釈しようとしているんですよね。このことってぼくたちの記憶に意味をもたせる基になっているんでしょうかね。
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(3)
その前後に構想されて撮られた映像群をぼくは「マイスイートルーム」と名づけていました。あれらの光景はぼくの空想的極私時間における恍惚に満たされた光景でした。


あれらの光景を映像に仕上げていくプロセスには永遠の未公開として封印することを前提とする撮影でした。非公開という発表のしかたがあってもよいと思っています。でも一方で、その経過した時間のなかで体験した宙吊りの感覚は去っていきませんでした。

愛していたものを喪失しいまや不在となってしまった時がもたらした結果はぼくの生を枯渇させつつありました。でもあれらが行き去りさった日々のあとのあの日の出来事はぼくに一条の希望の光が与えられたようでした。ことの成り行きは偶然のなかで起こりました。

初めて会ったものがともにする時間のなかでした。あれが仰ぐあなたからの啓示だったのかもしれません。あなたは風のごとく天女の羽衣をまとって降誕してきたのですね。幻覚はぼくの魂を揺り動かしました。あれはぼくたちの生の時のなかから偶発的に生じてきたように思います。

それからの時が経過していくなかでぼくの魂はあれに深く共振し反応していきました。深~い悲しみの物語ってありますよね。きっとあのときすでに始まっていたのだと思います。ぼくの時間はあのときからは全く別の時と交差しながら編みあげられてきたのです。

悲しみはあれらの日々に想起されてきた空間を花物語として認知しはじめていました。きっとぼくたちの花物語は時や空間や体や感覚といったすべての領域で創造されていくように感じます。

もうお別れ。ぼくはあらためて目覚めようとしているのかも知れません。あるいは夢見にはいろうとしているのかも知れません。その風景の感じはこれまで編みあげられてきた原理が超えられてゆく予感でした。その原理の外側のずっとむこうにおぼろげに見えてきているでしょ?

信じて仰ぎみるといわれてきた領域をも超えていくなにか・・・・・をも超える感覚を得ていくことへと近づいているようなのです。ほのかなひかりが見えてきているでしょ。ほ~らね。よくみてごらん。そのひかりは何処からきているのですか。

「ほら、見てごらん、あれを・・・・あなたにも見えるでしょ」と啓示されたかなたに見えはじめているもの。ぼくはまばゆいなかに新たな物語が幻想深くに創生されはじめているように感じはじめました。

あれのイメージが生成されてくるためにも光とたわむれながら山の小鳥や花草木とともにあの日々のなかで失われた時の物語をえていこうと思います。
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(2)
雪の季節にはまだ日々がありました。小鳥や虫たちはまもなくやって来る幻のような冬にむけて準備をしています。かれらはいのちの凍える日々がやってくることをどのようにして感知しているのでしょうか。

いつの日か山で写真を撮りました。なだらかな起伏の斜面に土があらわになっているところがありました。その風景には苔と羊歯が生えていました。そこはぼくたちがこれまでに幾度も探索していた風景でした。

夏には木々の茂りと群生する草で覆い尽くされていました。冬には雪に埋もれてぼくたちの侵入を阻んでいました。その風景は雪がとける春と雪が積る冬が訪れる前だけぼくたちに開放してくれました。春には山のせせらぎでふきのとうやせりやわらびなどが採れます。


冬の前には、銀杏だの胡桃だの栗だのが採れます。ぼくたちは山の生きものたちと一緒になってそれらを収穫しました。ぼくたちはその風景に生の息吹を感じていました。その山の風景は生誕の起源から計り知れない時を経てきているのですよね。

ぼくたちがその風景のなかにいるときにはひとのたましいが生じてくるはるか以前のような気分になっていることです。

遡ること二十年も前にぼくは死の道行とそのあとの世界の写真を撮りました。地獄絵の複写でした。それらはぼくにとっての最後の撮影でした。それからとおい時がたってしまいましたがいまその光景が想い起こされてきます。

ぼくが最後の決意をしたころの感情を思い出しているのです。そうだったね。ぼくを封印すること。もうカメラなんて持たないで生きようと決意したあとの夏のお盆でしたね。


山での日々が始まったころぼくの霊気がよみがえりはじめました。それから数年が経ちました。すべてを記憶の海に埋没させてきた日々をこえて。あらたな日々の記念にひそかにその斜面の光景から撮りはじめようと思いだしました。

その光景は山の斜面に生える苔と羊歯でした。苔と羊歯は生命というものを死界からよみがえらせる境界としてあるようでした。ぼくは仰いで受け入れることの畏怖を感じます。生命の起源についてへの問いかけは、いまのぼくの関心の中心をなすもののようにふるまっています。

ぼくは情動のままに生きることにまかせてみようと思いました。いつから悪の感情が漂いはじめていたのでしょうか。日々、織り成されてきた生活の原理というもの。原理はこの世のこの仕組みを維持するものとしてありました。

この世という仕組みに生息するぼくたちは情動において全く交差しない悪の日々にあるのではないですか。ぼくたちは残された生の時間をもう一つの圏内に営む決定をしてもいいのではないですか。
ぼくはその日々たちを「写真への手紙・覚書」という表題にまとめながら手許に置いていこうと思っています。記録ということの解体と新たなイメージ過程の創生へと向けられた論はぼくの未来に向けた論そのものになるはずなんです。

写真の奥深くを探っていくことってそれらまでのぼく自身の未来における死を告げていたようでした。いつのころからか宙吊り感覚に遭遇していたぼくはその風景において喪失の気分を感じとっていました。
山のなかで生の在処としてのあらたな写真のありようを模索しだしたようでした。ぼくがあなたにむけるまなざしを根拠にして関係のありようの根拠を模索しはじめたのです。

写真とは愛が形となったものではないですか。
愛を形にしてあげること。これがぼくの求めていく写真の真顔だと思っているんです。


写真が愛の形というのならそうと認められるイメージが「いま・ここ」にあります。だってぼくは愛の形の細部を探求していく探検家になったような気分になっているんですもの。
ぼくが再生していく最初のテーマは「生命のよみがえり」でした。ぼくにおいて生命というものがおおむかし偶然に生成しはじめたイメージの最初は苔と羊歯だったのです。このときをしてぼくのなかにあなたがやどった創生記念日となったのですね。
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(1)
むかし山の中にいてふっと顔をあげると光が木の葉のさらさら揺れる間から漏れていました。木漏れ日がぼくの目の中にはいってきて透明で真っ白な光の糸の束が網膜に映りました。ぼくは一瞬あまりのまばゆさに目を閉じて光の侵入を避けようとしました。
光のまばゆさに皮膚が反応しました。ぼくは頭をぐらぐらと揺らしてしまいました。本当に光のやつめぼくに不意打ちを食らわしてしまったのです。


あぁっ! という感じで目の皮膚を開きからだの内側を開く感覚が起こってきました。
ゆっくりと、あらためてぼくは顔をあげて木の葉の間から漏れてくる光に目をあてました。光の束はぼくの内臓の深くまで刺し込んでいるようでした。そのとき透明な糸の束のようなものがからだからぬけていくような感覚を味わいました。
真っ白なここちよい感情が涌いてきました。野の鳥が甲高くさえずりながらこずえを渡っていくのが聴こえてきました。
光の間で野の鳥二羽がたわむれているのでしょう。さえずりは山の風のなかに深~く吸い込まれていきました。

鳥の姿は見えませんでしたが緑の葉々はかすかな風にこきざみに揺れています。葉の一つひとつが揺れあい重なりあっています。光はその透き間を縫って入ってくるのでした。ぼくの身体は微妙に奮えておりました。
ぼくの皮膚は光と野の鳥がさえずる甲高い声に反応しています。からだのなかの器官が内側からひらかれて山の生気のなかにほどけていく感覚です。開放さされている感覚。からだがもうなくなった感じです。きっと山の生気と交感しているんです。

山の生気に揺らされていく様子は、ぼくが開放へ向かっていく感覚のようです。
からだはふるえてナイフでえぐられたように深淵を見ていました。
その深淵から立ちのぼってくる感じは快感につながっていました。ぼくはからだの中で微妙に揺れ動いている魂を感じていました。

山のなかの陽だまりに山茶花が淡いピンクの花を開いておりました。花芯は黄色いおしべに満たされています。

光を受けた花びらは帷子のようです。しっとり濡れた花芯は困惑しているように見えました。別の魂が花芯に入りこみからだを動かしはじめました。
情動がゆらゆらとした気分を充満しはじめました。花芯は生命の根元を光に向けます。からだの神秘を開示するように全てを開き受け入れています。ぼくには生命とはなにっていう懐疑のような気分がしてきています。
ぼくの懐疑は「なぜここにいるのですか」「どこからきたのですか」「どこへ行こうとしているのですか」……。「ぼくとはいったいなにものなのですか」という疑問を解き明かすこと。

ぼくにはあれら生命生成のときの存在と不在という謎について問い続けられる終わりのない旅のように感じているのです。

ぼくはみんなが生きた痕跡をあかしとして残していくために物語をつくろうと思っています。その物語は花たちのなりわいを明らかにしてあげること。そして光と共生する「存在」を記憶にとどめておいてあげること。
ぼくがいま想起している記憶の像はすでに目の前には喪失してしまったものたちです。もうはるか以前にいなくなった母の記憶が起こされるときすでに不在となったその風景はぼくに生きることの根拠を問うてきます。

母がいた風景が起こされてくるときぼくのからだには悔やみこむ気分がともなってきます。ぼくはからだから起こるその情動とその昇華の軌跡をみつめています。想い起されてくる像は宇宙のまんだら像のように感じています。
これはからだのなかにある無意識の深~い淵なのかもしれないな。この像は無限大の円環を超えていく環のなかにあるような感じです。ぼくが想いをめぐらしているときって……ぼくの想いを介してあらたな生の神話が産まれてきているようなのです。


ぼくのからだの根源は無限大の宇宙へ向かうまなざしと無限小の宇宙へ向かうまなざしとが交感しています。ぼくの根源の疼きは性と情動そのものへとまなざしを傾斜させています。
ぼくのこの感覚っていうのは愛に包みこまれる領域でしかとらえられないのではないでしょうか。ぼくはからだのなかから湧きでてくる境界のない深~い感覚をもって生存しています。この感覚はぼくが想起する不在の記憶像をあれに伝えていくもののようです。
もうこれまであった意味なんて解体しちゃった。その風景に創生。ぼくの物語の根源はぼくたちが出会ってしまったことから始まったんですよね。ぼくたちが宇宙感覚といったあのときっていうのは生命体が発生した瞬間の生命の外界と皮膚との境界面について語っていたようでした。
生命体の起源についての想いはあれが存在するという未知への旅たちとしてとらえればいいのでしょうか。明確に見えていた風景がとつぜん朦朧とした膜の内部の世界へかくれていくときってありますよね。

そのときぼくは大きな光の束を見るようにそうして深~い疼きのような闇の魔をみるように怖れる気分になっているんですよ。この気分って一体なんなのでしょうか。ぶるぶると寒気がするようで熱っぽい気分で全身の髄まで奮えちゃうんです。
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2006.5.25
えろすは癒し?

心と身体が一体となってあるんだけれど、現代人としてのわたしは、これが分離したかの感があるんです。心が浮遊しているとでも、心が沈殿しているとでも、言えるかと思うけれど、身体と心が分割されていると思っています。そこで、この心と身体が一体となる条件&状態を思うと、それを満たすのが「えろす」ではないかと思うわけです。えろすは性愛であり、男女の結合が根本です。

性的満足、性的充実、えろすが満ち足りるとき、ヒトは自我を忘れて心と身体が一体となる。このように思うのです。そうすると、えろすをベースにおいた出版とか映像とか、インターネットのなかの情報交換とか、それらの存在が擬似体験、代償行為であると思うのです。この領域が水面下で盛隆するのは、本能が求めるからです。

イメージはバーチャル、擬似体験です。根本はリアルな身体の満足です。食欲を満たす満足、性欲を満たす満足。リアルな身体の二つの満足を得て、ヒトは心と身体が一体化するのだと思うのです。最近流行の癒しとかセラピーとか、その領域にえろす充足をおいてあげること。ヒトはえろすのバーチャル体験をすることで、癒されているのではないかと思うのです。いえいえ、バーチャルだけではダメで、それを介して実体験、リアル体験を導くのですよね。

2006.6.17
えろすとかろす

えろすは愛、かろすは美、そのように括ってあげて、愛と美は同類項だと思っています。ともに感情に由来する領域です。感情に由来するというのは、身体的な感じ方だと思っています。

じゃあ具体的に、愛とは、美とは、って問いただしていっても、論理的に組み立てていっても、結局は結論なんて出ない領域なんですね。だから感情、感覚、感じる感じ方なんだと思っているわけです。

こころが震えるって感じの、感動のしかたってあるじゃないですか。ゾクゾクって背筋が寒くなるような、感動のしかたとか、もう見た瞬間に、ぽ~っとなってしまって、前後見境つかなくなってしまうって感動のしかたとか、いってみれば、こころが浮き立って、別世界へ誘われる感じのもの。

愛も美も、情であり、情が動かされることであり、その動かされ方の質の問題だと思います。情は動物的な側面があります。動物本能のところに根っ子があるように思います。

そこで再び、えろす、かろす、の問題です。えろすもかろすも身体的に捕える視点だと考えています。情動的なものをより情動的に高揚させていくとき、かろすが立ち現れてくるのではないかと、まあ、このようなステップとして構造化してもよさそなことなのかも知れないです。

えろすとかろすの問題は、アートもしくは芸術といわれている、その中味、その心はなんだろうと、ふっと疑問に思って、解明してみたいなあと思うなかから出てきたテーマなんです。

2006.6.23
えろすの現状

ヒトのからだって、まったく動物なんですから、食欲と性欲があってあたりまえなんですね。生涯をその、食べることと生殖することに費やす動物と区別するために、ヒトは、とか人間は、とかの括りをつけて、区分しちゃうことに無理があると思うのです。

情にしても情動にしても、リアルにはセックスが根底に潜んでいると思うし、感情っていうのもそれに支えられているように思うのです。なのに人間社会は、支配、秩序維持という名目で、この本能を潜在化させてきたわけです。道徳とかモラルとか、ヒトが本質的に持っている感情とからだの関係を、切り離してしまって、社会をシステム化してきたと思うのです。

現代アートのテーマは、けっこうリアルにセックスを扱います。肉感的というか、体感的というか、疑似体験をさせて、神経回路を挑発してくる作品が多いように思います。それに、からだの科学的分析が行われてきて、人体の細部まで、解明できつつある現代です。そういった現状をふまえると、「えろす」のことは避けて通れない時代になったと思うのです。

特にインターネットに代表される情報交換時代になって、直接神経系統に情報が侵入するいま、現在です。古代彫刻の美意識、写真映像時代の近代美意識、そして現在です。あえて表と裏という区分の垣根が、次第になくなりつつある時代のように感じます。ヒトの身体的欲望を開放していく道筋に、いまがあるように思うのです。

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2006.5.8
えろすについて

<えろすについての雑感です>
     
ヒトが欲求する最初は、食べることと眠ること。それと同列で、えろすがある。

えろすは、必ずしも性欲・情欲だけをさすものではない、と考えているんだけれど、その中心は性欲です。ボクは、えろすとかろす、愛と美、とでもいえばいいのでしょうか、これをイメージするのです。えろす感覚は、ある意味で、封印されてきた歴史があります。

ボクは、現代的テーマとして、えろす感覚とえろすそのものを、捉えていきたいと思っているのです。ボクは、自称アーティスト、えろす表現を試みる自称アーティストです。まあ、そんな調子だから、封印されてきたえろすを、ちょっと開封してあげようか、と思っているわけです。

どんなふうに開封していくのかは、まだ未知です。世間でゆうと下劣とか下等とか、あまり良い評価ではない位置にあるようですけれど、情とか情動とか、アートの根源を成すエネルギーとして、情欲、性欲、性愛という内容のものを具体化していくのもいいかな~と考えているのです。こんなことで、このブログを立ち上げたわけです。。。


2006.5.9
性欲について

<性欲についての雑感です>

たとえば、フロイトさんは、性欲を行動原理の基底に置いているようですね。

食欲と性欲、ボクはこの二つの欲動が、身体を維持するために必要なんだと思っているわけです。つまり、食べることとセクスすることです。もう生命体の本能ですね。

文化の諸相を見てみると、食に関する話題は、大手を振ってまかり通っているわけで、グルメ情報、食文化情報、食べ物の話題は、公然としてあるわけですが、一方、性に関する話題は、どうなんでしょ?公然、とゆうわけにはなってないですね。どっちかゆうと、隠しごと、秘めごと、ある種タブーの蓋がしてあるんですね。

区分する、分断する。社会の枠組みは、この区分と分断によって整理された器です。この区分されたこちら側とあちら側。あるいは、区分された表と裏。ここでは、区分され、分断された「あちら側」、「裏」、という領域を考えてみたいと思うのです。ボクは、文化総体を考えるためには、どうしてもこちら側、表に参入させていかないと、文化の全体像が見えない気がするんです。

そういうことでゆうと、性欲って、語ることを疎外されていませんか、ね。公然にしちゃうと、社会の秩序が乱れる?そうかも知れません。でもね、生命科学の領域がどんどん進んで研究されてきて、生命の根源を解明しようとしているわけだから、その表面に現れる芸術分野においても、それ相応の対応が必要だとも思っているんです。

ああ、なんだか、はがゆい気分で、この文章を書いている、戯言、言ってはいけない領域を言おうとして、もどかしい感じなんです。ボクの得てきた教養文化のなせるところの気分ですね、きっと、これは・・・。

2006.5.13
愛欲について

<愛欲についての雑感です>

愛欲とゆうのは、男と女が交わることをさしているのでしょうか。からだの一部を結合させて、快感をむさぼりたい欲望をいうのでしょうか。ヒトにはからだが根底にあって、男が女を、女が男を求めて結合するとき、その場で動く情のことを、愛欲といえばいいのでしょうか。

性欲といい、愛欲といい、個々のプライベートに属する情動の中味です。インターネットメディアを散策していると、この性欲、愛欲を刺激してくるホームページやブログが沢山ありますね。表と裏なんて区分けをしたら、裏に属する情報です。ヒトの興味が、この裏に向いて人気があるのは、そこには覆い隠された本能がおもむける場所だからだと思います。

この裏を隠しておく公然と、開放していく非公然が、いつの時代にも、せめぎあっていたように考えています。そして現在、もう全て解禁、公然化したかの感をいだいてしまいます。ヒトの本能に属することだから、タブーとすることは抑圧そのものだから、公然化するのは、よろこばしいことなのかも知れないですね。

ところで愛欲は、リアルな場で絡まなければ機能しないものです。えろす、性欲、愛欲。ヒトの本能に属する領域が、情報として開示されてきたとしても、それはリアルな現場を持たなければ、意味をなさないと思うのです。そのことを逆利用する商売が次々と現れてくるのだけれど、つまりセクス産業ですが、これには反対ですね。なぜならば、性欲も愛欲も、もっと崇高なものだと思うからです。金銭取引の対象、代償ではないと思うからです。

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2006.2.7
ヴァーチャル雑感

(1)

ヴァーチャルといえば、インターネット上のホームページやブログに現れる内容について、雑感を述べてみたい。
リアルな都会構造を、そのままヴァーチャル構造に置き換えるとわかりやすいのですが、都会に歓楽街があるように、ヴァーチャル領域にも歓楽街があります。その中心はセクシュアルな内容をベースにしています。文化の諸相を見ていくのに、セクシュアル文化を含めないと全体が見えないと考えています。

その領域は、リアル現場がそうであるように、ヴァーチャル領域においても一線が引かれています。この線引きされる一線というのは、かなり曖昧なものですが、映像では、女性の裸体がメインにあります。おおむね商売目的でサイトが立ち上げられ、男どもの欲望を刺激してきます。ここに掲載した写真は、あるブログから拝借させてもらったものですが、まだ温和な部類です。

リアルな都会においては、書店、レンタルビデオ・DVD店などで求められる内容が、ヴァーチャル領域でも求められるのです。通販が従前では、印刷物によるリアル注文でしたが、いまやネット通販の時代です。リアルな都会では特殊な領域にあるような物品が、ヴァーチャル領域では、決して特殊ではない。

いまやヴァーチャル領域で、性の解禁が行われた実感すら受けます。それに伴って、お誘いがくる。メールアドレスを公開しているから、一日に200通を下らない迷惑メールが入ってきます。これが現状です。

ヴァーチャル領域は対面ではない領域です。そこは人間の欲望が生に出てくる場所でもあると思います。ブログの保有者が、ここでは本音の自分をさらけだしたい・・・というようなメッセージを書き込んでいます。ヒトの内面に潜むセクシュアル領域が、そこには立ち現れています。そこから読み取れるヒトの内面・・・かってなかったレベルで、潜在していた欲望が投げ出されてきています。

文化研究の諸相で、このヴァーチャル領域を無視しては、文化の現状は見えてこないように思っています。

(2)

このまえに記事をかいてから、もう一週間が経ってしまったのか?!そんな感じがします。一日があっとゆう間に過ぎていくって感じです。この年齢になってくると、けっこう切羽詰まった日々です。いつ折れるかも知れない、なんてことが現実味をおびて、ボクに迫ってきている。先ほども別場所で、写真からメディアアートへの道筋を連想してみて、ここに来た。リアルとヴァーチャルという二項が、ここでは対立というよりもクロスしている。

先日、節分の日、ボクは近くのスポットへカメラを持って出かけた。千本閻魔堂、釘抜き地蔵。この二箇所です。ボクの生活空間の一部だと思っているんですが、ある意味、ここらあたりはリアルです。それから夕方になって、彼女と一緒に壬生寺へいきました。ある意味、そこはもうヴァーチャルな空間です。日常の光景というより、晴れの場といった感じです。

リアルといえば、食べて寝てセクスする空間、自宅があります。そこから生活圏というレベルで、ちょっと散歩する道筋・・・ってな感じで、子供の頃から知った場所。ここまでですね、リアル空間ってのは、ね。京都の全てが生活空間ではないんです。ボクの身体を中心として、ボクのプライベート空間としての自宅を中心として、円状に広がる距離空間。遠くへいくほどヴァーチャル空間の様相を帯びるようです。

それにインターネットのなか、ここは全てが等距離にヴァーチャル空間です。ボクの目の前に、キーボードがありモニター画面がある。モニター画面に映し出される世界は、全てヴァーチャルで、等距離なんだ。そんな感じがします。

(3)

ヴァーチャル領域を代表するインターネットがある。ホームページがあり、ブログがあり、アルバムがある。通信回線を利用して、自分を発信するツールとして、この環境がある。この環境は、プロバイザーによって管理され、ことごとく痕跡を残す仕組みになっている。

これは管理された発信ツールである。管理者から借り受けるには、同意書を取られ、それにしたがって使うことになる。個人の発信は、個人の意思を表示する内容だ。コンテンツである。このコンテンツを公表するに当たって、制約がある。制約の枠組みは、モラルである。

表現者が、何らかの目的を持って発信するとき、発信内容は制約される。モラルに反しない限りという制約だ。では、いったい、モラルとは何か、ということだ。この世は、単純化して云えば、政治経済の枠組みと、芸術&宗教の枠組みが複合的に組み合わされたものだ。

この全体がつくりなす枠組みは、権力構造に従順であるように求められる。歴史的に見れば、ともすれば芸術行為や宗教行為は、そこから逸脱するものである。リアルが主体の世の中では、ありえた地下活動が、ヴァーチャルが主体の世の中では、もう全てが公然活動なのだ。管理され、同意書を交わしたなかで、個人の思想を表現していくしかないのだろうか。
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2006.1.17~2006.1.30
リアルとヴァーチャル

-1-

リアルとヴァーチャルを言い換えるなら、現実と仮想空間とでも言えばよい。人間の中味でいえば、目に見えて触れて感じるリアルというのは、実はすでにヴァーチャルなるものなのかも知れない。最近のネット環境なんて考えると、なにがリアルで、なにがヴァーチャルなのかと考えてしまう。
リアルとは、食べて寝てセクスして、身体そのものを養っていくことだ。そのことを理解する手立ては、すでにヴァーチャルなのかも知れない。
普通には、情報網を通して得る視覚や文章理解であることをヴァーチャルというのだけれど、この情報網は、電波や紙やネットだけをさすものではなくて、じかに触れることすら情報の入り方としては類似のものだ。

ヒトはヴァーチャルにおいて感じる。感じることはヴァーチャルである。いまの時代、そのようにも意味転換をしないと、現代社会がわからなくなるのでは、ないか。こういうと従前の区分で、直接体験と疑似体験に分けて、リアルとヴァーチャルを区分するんだとの答えが返ってきそうだ。

そうではなくて、ヒトの動物的側面に立脚してみると、感情や情動を含めて、ヴァーチャルなのだといわざるをえない。この問いは、これから詰めていくことなのだ。

-2-

リアルとは、五感、身体感覚を得ることだと規定しよう。そうするとかなり具体的な枠組みが設定できます。たとえばお百姓をすること。野菜を育てたり、お米を作ったり、土そのものの手触り感を、皮膚に感じていくこと。これなどが典型的リアルだと思っています。

お百姓することは、理屈以前に身体の作業です。とはいえ最近の大規模農法は、機械化が進んでいますから、リアル体験とはいえないのかも知れませんが、自給自足をめざしていく方でのお百姓は、リアル体験です。より具体的なリアルとは、自分が体を養う食物を作る現場で、自分の体を使って感じること。この現場感覚であると思います。

ヒトの感覚なんて、感覚じたい、ヴァーチャルなのだといえます。ヒトを支配するものはイメージだし、現代では、イメージを醸しだす要素が、メディアを通じて作られるわけだから、もうまったくヴァーチャル領域で生きている、といえます。

ヒトが、生まれてきて死んでいくということは、基本的には、体が生成し消滅するということだから、これに則した行為、つまり体の具体的体験がリアルなのです。

-3-

写真が発明され、映画が考案され、テレビ放送が始まり、情報コンテンツが世界を駆け巡る環境にりました。新聞や雑誌が大量に発行され、情報が満載されています。実体験以外の擬似体験が情報の大半となったとき、ヒトは心の置き場所を浮遊させてしまったのではないかと思います。リアルさを取り戻すことは、身体と心の再統合を果たしていくことになるのではないか。このことが重要なポイントなんです。

自分の身体というのは、自分にとってリアルなものです。その根本において食料を確保しなければ生存できない仕組みです。それに生殖能力も身体には備わっている。身体の生理機能レベルで、このことを実感します。だから、軸足をこのリアルな活動においてあげることから、物ごとを見て聞いていこうと思うのです。この実践行程は、時代に逆行するのか、時代を先行するのか、それはわからないです。

時代の進化とは、便利なツールが手元にきて享受することだとしたら、それは逆行することなのかも知れない。でも、進化の過程で、ヒトの心が不安を掻きたてられ、現実乖離する自分を自覚することなく、乖離している姿を確認するとき、この時代の進化というのは、必ずしも全てを受け入れることが出来ないのです。リアルな身体感覚を取り戻す試みは、不安を安定に変え、身体から乖離する心を身体と密着させることにつながる。このように考えているわけです。
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