ぼくの写真史-3-
<1970年代の写真をめぐる動きについて>
ボクが写真を撮り出したのが1976年頃からだ、と前に書いていますが、その当時のボクの写真への感触を書いておきたいと思います。ボクの意識のなかには、京都を中心として、その周辺に大阪がありました。それとは別に、東京という場所がありました。
ボクの東京住まいは1969年の2月ごろから10月末までに約9ヶ月ほどありました。それから6~7年ほどたっていましたが、なにかにつけて意識は東京にむいておりました。ワークショップ・写真学校というのがあることを知ったのはカメラ雑誌の記事でした。1975年に始まり1976年に終わる1年間の学校でした。
ボクの意識としては、そんなのがあるんやな~遠いな~・・・という感じでした。この東京での、ワークショップ・写真学校を通過した同年輩の人たちと知り合うようになるのが、1982年ごろなんですが、写真に興味を持ち始めたばかりのボクには、それは遠い存在だったんです。
そのころの近辺の話題といえば、写真の中味の話はさておいて、京都には、京都丹平という写真クラブが有名でしたし、大阪では、シュピーゲル写真家協会とか浪速写真クラブとか、そういった集団の関係図式ですね、力関係、そんなことばかりの話題だったように思い出しています。
京都では、関西二科展に始まる写真関係の展覧会が、4月から8月にかけて開催されていました。岡崎にある京都市美術館、広小路にある府立文化芸術会館。ぼくのグループ展発表の場は、そのふたつでした。会員だれでも出展できる京都写真サロン、それからちょっと選りすぐりメンバーの関西二科展、写連の選抜展、所属クラブの展覧会。この4つの写真展に名を連ねていました。
写真やりだして3年目ぐらい経ったころですね。先生と呼ばれている人たちと同じ壁面に写真が並びました。それから、当時は京都新聞社主催の月例がありました。ボクはこの京都新聞社へは、1回だけ例会にいきました。沢山の人が参加していました。そこでは、例会に提出された写真に順位が決められて、一席になると京都新聞におおきく紹介されるんですね。朝日新聞の方は、月例の一席だけが新聞紙上に載ったんですね。だから京都新聞社のは参加が多かったけれど朝日新聞社の方は参加者が少なかった。
ボクの写真は、朝日新聞に何回か載りました。コンテストにもけっこう応募して、そのたびに盾とか賞状とかもらいましたね。最初の頃の話ですが、推薦に選ばれました、っていう通知をもらって、推薦の位置がわからなかったんです。それで知り合ったばかりの達さんに、「推薦って何?」って聞いたら、一等賞やっていわれましたね。
こんな写真初心者のボクが、クラブに所属したということで交友が広がり、あれは二科会のパーティです、蹴上の都ホテルでのご宴会パーティー、こんなのにも出席できましたね。そうなんや~こうして先生って呼ばれる人になっていくんや~!えらい簡単やな~、京都写壇で名がとおり始めたボクは、そんなことに関心しておりました。で、冒頭に戻して、ワークショップ・写真学校。カメラ雑誌で見かける名前の先生、東松という人、荒木という人、森山という人、深瀬という人、そんな人が先生やってる学校なんですね、それに生徒さんの写真もカメラ雑誌に載っていましたね。ちがうんですね、写真が・・・、京都で、またコンテストで、上位に選ばれる写真とちがうんですね。
なんでやろ~っていう疑問がありました。でも、カメラ雑誌のほうの写真のなかに、何か魅入る写真がありました。
写真へ傾斜していく頃の記憶を辿っています。1976年から1978年までの3年間という期間は、写真制作技術を手に入れることに専念していた時期です。
ある種伝統のあるアマチュア写真、それも関西写壇とゆわれるところの入り口にいたんですね。3年間のそのころには、そこそこ有名になっていたようですが、それを越えていくパワーというのは、一体なんだったんでしょうかね。たぶんその頃を遡ること10年前の出来事が、多分にボクを追い詰めていたんだと思っています。
あれから10年、お前は何してるんだ!っていうような脅迫観念ですね。そんなのがあったようです。もらった賞状とか盾とかを目の前から消して、最初の一歩だ!って思って大阪は梅田駅に降り立ったことを思い出します。そして釜ヶ崎の三角公園に佇んだ1968年の11月、32歳になってしまった自分を確認し、えらい遠いとこまで来てしもたな~、そんな言葉が出てきていました、秋風吹く寒さが滲み始めた頃です。
<写真のテーマ>
日常生活のなかに写真を取り込むこと、なんて命題をだしていました。多分にカメラ雑誌から得る東京情報だったのかもしれませんね。日常・非日常なんていう区分のしかたじたい、時代的背景をもっていたんじゃないですかね。写真への傾斜は、遡ること10年前の遣り残し感が多分にありました。そして立った場所が釜ヶ崎という処だったんですね。
天王寺から飛田へ向いそこから堺町筋をこえて萩之茶屋3丁目に至ります。そこに三角公園があるのです。毎週土曜日の午後3時ごろ、その公園までたどり着いて、気持ちは空漠感に満ちておりました。なにか得体の知れない重石がからだの中にうずくまっておりました。たったひとりになった、という感覚ですね。赤電話がありました。この赤い電話はどこに繋がっているんやろな~、京都の自宅に繋がるなんて想像できなかったです。ああ~こうしてヒトは行方不明ってゆわれたりするのかもしれんな~なんてこと想像してました。
泊まり込まないこと、路上に座り込まないこと、酒を飲まないこと。この3点を守ろうとひそかに決意しました。何だったんでしょうね、その頃の自分って、何を思い、何を考え、何をしようとしていたんですか?いま思い起こそうとしても、朦朧ですね。脅迫観念に迫られていた気持ちは蘇えってくるんです。
写真を撮りだして、写真クラブから飛び出して、カメラを持ってひとり大阪の地にに立った頃、1978年ですね。その頃に考えていたことですが、モノを作る作家活動ですね、音楽家であれ小説家であれ、それなりのトレーニングが必要です。
10代の後半は、音楽家をめざしたこともありました。20代の前半は小説家をめざしたこともありました。ボク自身としては、音楽にも文学にも、それなりにトレーニングしたつもりでした。音楽は中学生時代のブラスバンド、それから十字屋楽器店の技術部に2年間勤めて、ピアノレッスンを受けました。文学に興味を持ち出して小説書こうと思ったのは、高校生の3年生、1964年、いまから40年も前です。
その頃から1975年ころまで、正味10年間、それなりのトレーニングをやったように思います。しかし、音楽も文学も、いずれもモノにならなかったです。ところが写真を撮り始めて5年で、それなりのことが出来るようになった。先生と呼ばれる人たちと一緒に展覧会に出品するようになりました。
コンテストに写真を出せば、何らかの賞が当るようになりました。この出来るようになった、と思うことへの疑問があったのです。表現というものがこんなに簡単に出来る筈がない。写真だから簡単にできるんかも知れないけれど、これはおかしい、絶対おかしいよ。そんな思いがわいてきていました。
後になって、実はそのとおりだったのですが、それが引き金だったように思います。カメラはニコンF2、引き伸ばし機はオメガ。一流品とゆわれる設備をそろえて、自分に言い訳できない仕組みをつくりました。写真作りの技術的なこと、技法は、おおむねマスターしたように思います。でもこれも、後になって出鱈目だと理解しましたけれど・・・。そうなんです、写真って簡単そうに見えてますが、実は奥深くて難解な代物だったんです。
中川繁夫<写真への手紙・覚書> 2006.4.28編集