中川繁夫写文集

2014年03月

写真物語-1-

ぼくの写真史-3-

<1970年代の写真をめぐる動きについて>
ボクが写真を撮り出したのが1976年頃からだ、と前に書いていますが、その当時のボクの写真への感触を書いておきたいと思います。ボクの意識のなかには、京都を中心として、その周辺に大阪がありました。それとは別に、東京という場所がありました。
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ボクの東京住まいは1969年の2月ごろから10月末までに約9ヶ月ほどありました。それから6~7年ほどたっていましたが、なにかにつけて意識は東京にむいておりました。ワークショップ・写真学校というのがあることを知ったのはカメラ雑誌の記事でした。1975年に始まり1976年に終わる1年間の学校でした。

ボクの意識としては、そんなのがあるんやな~遠いな~・・・という感じでした。この東京での、ワークショップ・写真学校を通過した同年輩の人たちと知り合うようになるのが、1982年ごろなんですが、写真に興味を持ち始めたばかりのボクには、それは遠い存在だったんです。

そのころの近辺の話題といえば、写真の中味の話はさておいて、京都には、京都丹平という写真クラブが有名でしたし、大阪では、シュピーゲル写真家協会とか浪速写真クラブとか、そういった集団の関係図式ですね、力関係、そんなことばかりの話題だったように思い出しています。

京都では、関西二科展に始まる写真関係の展覧会が、4月から8月にかけて開催されていました。岡崎にある京都市美術館、広小路にある府立文化芸術会館。ぼくのグループ展発表の場は、そのふたつでした。会員だれでも出展できる京都写真サロン、それからちょっと選りすぐりメンバーの関西二科展、写連の選抜展、所属クラブの展覧会。この4つの写真展に名を連ねていました。

写真やりだして3年目ぐらい経ったころですね。先生と呼ばれている人たちと同じ壁面に写真が並びました。それから、当時は京都新聞社主催の月例がありました。ボクはこの京都新聞社へは、1回だけ例会にいきました。沢山の人が参加していました。そこでは、例会に提出された写真に順位が決められて、一席になると京都新聞におおきく紹介されるんですね。朝日新聞の方は、月例の一席だけが新聞紙上に載ったんですね。だから京都新聞社のは参加が多かったけれど朝日新聞社の方は参加者が少なかった。

ボクの写真は、朝日新聞に何回か載りました。コンテストにもけっこう応募して、そのたびに盾とか賞状とかもらいましたね。最初の頃の話ですが、推薦に選ばれました、っていう通知をもらって、推薦の位置がわからなかったんです。それで知り合ったばかりの達さんに、「推薦って何?」って聞いたら、一等賞やっていわれましたね。

こんな写真初心者のボクが、クラブに所属したということで交友が広がり、あれは二科会のパーティです、蹴上の都ホテルでのご宴会パーティー、こんなのにも出席できましたね。そうなんや~こうして先生って呼ばれる人になっていくんや~!えらい簡単やな~、京都写壇で名がとおり始めたボクは、そんなことに関心しておりました。で、冒頭に戻して、ワークショップ・写真学校。カメラ雑誌で見かける名前の先生、東松という人、荒木という人、森山という人、深瀬という人、そんな人が先生やってる学校なんですね、それに生徒さんの写真もカメラ雑誌に載っていましたね。ちがうんですね、写真が・・・、京都で、またコンテストで、上位に選ばれる写真とちがうんですね。

なんでやろ~っていう疑問がありました。でも、カメラ雑誌のほうの写真のなかに、何か魅入る写真がありました。
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写真へ傾斜していく頃の記憶を辿っています。1976年から1978年までの3年間という期間は、写真制作技術を手に入れることに専念していた時期です。
ある種伝統のあるアマチュア写真、それも関西写壇とゆわれるところの入り口にいたんですね。3年間のそのころには、そこそこ有名になっていたようですが、それを越えていくパワーというのは、一体なんだったんでしょうかね。たぶんその頃を遡ること10年前の出来事が、多分にボクを追い詰めていたんだと思っています。

あれから10年、お前は何してるんだ!っていうような脅迫観念ですね。そんなのがあったようです。もらった賞状とか盾とかを目の前から消して、最初の一歩だ!って思って大阪は梅田駅に降り立ったことを思い出します。そして釜ヶ崎の三角公園に佇んだ1968年の11月、32歳になってしまった自分を確認し、えらい遠いとこまで来てしもたな~、そんな言葉が出てきていました、秋風吹く寒さが滲み始めた頃です。

<写真のテーマ>

日常生活のなかに写真を取り込むこと、なんて命題をだしていました。多分にカメラ雑誌から得る東京情報だったのかもしれませんね。日常・非日常なんていう区分のしかたじたい、時代的背景をもっていたんじゃないですかね。写真への傾斜は、遡ること10年前の遣り残し感が多分にありました。そして立った場所が釜ヶ崎という処だったんですね。

天王寺から飛田へ向いそこから堺町筋をこえて萩之茶屋3丁目に至ります。そこに三角公園があるのです。毎週土曜日の午後3時ごろ、その公園までたどり着いて、気持ちは空漠感に満ちておりました。なにか得体の知れない重石がからだの中にうずくまっておりました。たったひとりになった、という感覚ですね。赤電話がありました。この赤い電話はどこに繋がっているんやろな~、京都の自宅に繋がるなんて想像できなかったです。ああ~こうしてヒトは行方不明ってゆわれたりするのかもしれんな~なんてこと想像してました。

泊まり込まないこと、路上に座り込まないこと、酒を飲まないこと。この3点を守ろうとひそかに決意しました。何だったんでしょうね、その頃の自分って、何を思い、何を考え、何をしようとしていたんですか?いま思い起こそうとしても、朦朧ですね。脅迫観念に迫られていた気持ちは蘇えってくるんです。

写真を撮りだして、写真クラブから飛び出して、カメラを持ってひとり大阪の地にに立った頃、1978年ですね。その頃に考えていたことですが、モノを作る作家活動ですね、音楽家であれ小説家であれ、それなりのトレーニングが必要です。

10代の後半は、音楽家をめざしたこともありました。20代の前半は小説家をめざしたこともありました。ボク自身としては、音楽にも文学にも、それなりにトレーニングしたつもりでした。音楽は中学生時代のブラスバンド、それから十字屋楽器店の技術部に2年間勤めて、ピアノレッスンを受けました。文学に興味を持ち出して小説書こうと思ったのは、高校生の3年生、1964年、いまから40年も前です。
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その頃から1975年ころまで、正味10年間、それなりのトレーニングをやったように思います。しかし、音楽も文学も、いずれもモノにならなかったです。ところが写真を撮り始めて5年で、それなりのことが出来るようになった。先生と呼ばれる人たちと一緒に展覧会に出品するようになりました。

コンテストに写真を出せば、何らかの賞が当るようになりました。この出来るようになった、と思うことへの疑問があったのです。表現というものがこんなに簡単に出来る筈がない。写真だから簡単にできるんかも知れないけれど、これはおかしい、絶対おかしいよ。そんな思いがわいてきていました。

後になって、実はそのとおりだったのですが、それが引き金だったように思います。カメラはニコンF2、引き伸ばし機はオメガ。一流品とゆわれる設備をそろえて、自分に言い訳できない仕組みをつくりました。写真作りの技術的なこと、技法は、おおむねマスターしたように思います。でもこれも、後になって出鱈目だと理解しましたけれど・・・。そうなんです、写真って簡単そうに見えてますが、実は奥深くて難解な代物だったんです。

 中川繁夫<写真への手紙・覚書> 2006.4.28編集



写真物語-1-

ぼくの写真史-2-

<気儘な日々へ>この日記帖は、おもにボクが写真を始めたころの記憶を辿りながら書き進めていこうと思っています。ボクが写真に興味を持ち出すようになってから30年近くの年月が過ぎてしまいました。ということで言うと今年、ボクは58歳になっています。自分でも信じられないくらいなんですが、30年の歳月をぐるりと回ってきて、いま、また写真を撮り出しました。ほんの興味本位で手にしたカメラでしたが、写真というものにのめり込んでしまった結果がいま、ここにあります。この痕跡を少しまとめておきたいな~というのが率直なところです。

現在、いくつものホームページとブログを手がけています。外向けのもの、自分の作品的なもの、自伝的なもの、それぞれ使い分けして、全体をひとつのものにしていく目論見でもあります。

ここでは、写真を始めた最初の頃の話から掘り起こしています。今は亡き達栄作さん、途中から智原栄作さんと名前を変えられたけれど、思い出多い先生です。当面は、この達さん率いる光影会に参加したころの思い出話をまとめてみたいと思っています。だいたい1976年から1980年ごろまでです。カメラを持ち出しての5年間です。一気に駆け抜けた5年間だったうように思います。

1978年の秋に取材地を大阪に求め、「都市へ」との命題をもって歩み出したころから、少しずつ達さんとは疎遠になっていきますが、写真の基本を教えていただいた恩師だと感謝します。毎日のように達さんの家へ行き、家族のような振舞をさせていただいた記憶です。その当時の関西写壇といわれていた状況、もちろんボクから見た状況ですが、その写壇に決別するようにして抜け出てしまいましたが、若さの至りとでもいいましょうか、達さんには、失礼なこと多々あったものと思っています。

その後の恩師としては、東松照明さんを挙げたいと思っています。彼が京都取材の3年間、1981年から1984年までの間、ご一緒させていただいたことで、今の写真、それに留まらずに社会の見方などもベーシックには学んだものと思っています。

その後、1985年ごろから1988年ごろまでは、フォトハウス写真ワークショップを主宰していた時代。平木さん、金子さん、飯沢さん、島尾さん・・・、東京在住の人たちとの交流がありました。

1991年頃から畑さんとの交流とご一緒した仕事、写真図書館の設立、専門学校副校長、インターメディウム研究所事務局長・・・。そうして由あって、2002年の夏に身を引き、現在に至ります。それぞれの場面で懇親を重ねた人たちへの感謝を込めて、自分史を少し手がけてみたいと思っています。

<同人雑誌・反鎮魂>

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写真のほうへの話で、文学から写真へ移行するあたりへもう一度もどします。写真のほうへとボクの気持ちが徐々に傾斜していくのは、1975年ごろでした。その頃って、ちょうどボクは7年かけて大学を卒業した年なんです。現代文学研究会っていうのを友達とやっていましたね。頻度は忘れていますが、日曜日の午後から開始でした。場所は、北白川に近い研究会メンバーのアパートの一室でした。

1972年ごろまで、ボクたちは同人雑誌を発行していたんです。雑誌の名前は「反鎮魂」といいました。同人は7~8人だったと思います。ボクはそこで小説を発表していました。そうですね、長編小説。その第一章を第3号、第4号とふたつに分けて連載しました。

そんな同人も大学を卒業することで、解散となりましたが留年組の3人、近藤君、落合君、ボク。ちまちまと研究会を続けていたんです。もう解散する直前の作家研究テーマは夏目漱石。やっぱり夏目漱石を研究しとかんとあかんやろ!っていう程度のノリであったかも知れません。1975年というと、もうボクたちのこころは伸びきっていたように思います。学生運動が退潮していき、セクト間の内ゲバの時代でしたね。

ボクたちはセクトには属さない、ノンセクトっていう部類でしたし、運よくパクられたこともありませんでしたから、終わってしまった感覚ってのは、空しさいっぱいだったように思います。

ボクは1970年4月に結婚して子供も上が4歳下が1歳になっていました。家庭作りに専念するのも気分悪いものではなかったですが、でも空虚感というのがありました。文学への未練というか、もうやってられないな~、という感じですね。子供を写す目的で、学費が要らなくなったそのお金でカメラを買ったんです。

その頃の年だったですね、10月21日に仕事の帰り道に京大の時計台まで赴きました記憶です。20人程度の集会が開かれていました。肌寒さが身にしみてきました。現状はこれなんやなあ~って思いながら、ボクも参加者の一人となりました。もう終わった、終わったんや~、って思うと、ちょっと涙ぐんでしまいましたね。一方で、ニコマートに標準レンズをつけて、子供たちを写しまておりました。ネガカラーでとった記念写真です。

ボクは郵便局勤務の公務員、彼女は内職を夜な夜なやっておりました。ニコマートに標準レンズをつけて、ボクは家族の写真を撮りだして、アルバムをつくりました。そのうちに職場の人たちから写真の技術を教えてもらうことになったんです。職場へ出入りの写真屋さんが、唯一、少しは高度な知識を伝授してくれました。フィルムメーカーが主催するヌード撮影会にも参加しました。冬時に大阪のデパートで開催されたカメラショーに行って、モデル撮影会に参加しましたね。ニコンのカメラを買ったんで、ニッコールクラブですね、入会しました。

伏見桃山城で行われたニッコールクラブのモデル撮影会にも参加しましたね、記憶にあります。・・・というように、ボクはアマチュアカメラマンとして出発船出をしたんです。その頃です、全日本写真連盟に参加して、宇治の撮影会にいっての帰りに、達栄作さん、後の智原栄作さんを知ったんです。

小説を書くという、密室作業ですね、夜な夜なホームコタツのなかに足を突っ込んで、原稿用紙に字を書いていたことが、遠くの記憶へといってしまいました。でも、光のもとで写真を撮ることって、健康的やな~って思いだしました。もちろん写真家になろうなんてことは、夢夢思わなかったですね、その頃・・・。カメラ雑誌、ニッコールクラブの会報、それがボクの先生でした。


<達さんのこと>

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達さんのことで思い出すのは、余呉湖への撮影随行です。伸子という当時高校生の子がよく被写体になりました。達さんが著した限定版「信仰のすすめ」は、その伸子さんにあてた手紙形式で書かれていました。撮影のときのボクの仕事は、レフ板もちでした。ベニヤ板に銀紙を貼った手作りのレフ版でしたが、このレフ版を使ってキャッチアイですね、目に光を当てたり、影を薄くする技術なんかを教えてもらった。先輩と撮影の現場に立つというのは、勉強になるのもです。

同じ被写体を写して、出来上がった写真をみると、ちょっと違うんですね。まあ、構図とか光の入れ方とか、微妙に違う・・・そういう勉強をさせていただいたですね。そのころはまだ余呉湖は北陸本線の駅でした。夕方にはジーゼルカーの列車が到着します。ボクは伸子さんを望遠でトンネルから出てくる列車をバックに、毎度の事ながら撮影しました。月例用の写真作りです。

達さんとは、ドキュメント写真についてよく話をしたと思います。達さんは土門拳さんの、リアリズム論をよく引き合いにだされていました。その後ボクは1977年の秋から都市へとのタイトルで、大阪シリーズをはじめたんですが、達さんは、宇多野にある病院で、筋ジストロフィーの子供の取材に入られました。「天使のほほえみ」という写真集にまとまりましたが、ボクとの話の筋道ででてきたテーマだったようです。

その後、ボクは釜ヶ崎取材にのめりこんでいき、少しづつ疎遠になっていきますが、達さんは、その頃に、「難民」フォトフォリオを限定版で制作されます。キリスト教者だった達さんが、教会を通じて、カンボジアの難民キャンプへ行き、写真を撮られたものです。達さんは、けっきょくそれまで名を連ねていた二科会会友や写連役員などを辞めます。

ボクは、大阪取材から1年を経て、1978年9月2日から本格的に大阪取材に入りました。そしてその年の11月には釜ヶ崎の三角公園にたっていました。大阪取材へのきっかけとなった出来事があります。

その頃は、全日本写真連盟に加盟していて、月例をもやっていました。カメラ雑誌では、アサヒカメラに、北井一夫氏が「村へ」という作品を発表していました。ボクは、この「村へ」の作品群を、解体していく農村の記録・ドキュメントとして捉えており、大変興味をもって見ていました。まあ、好きな作品群であったわけです。その頃の写連の写真の傾向っていうのは、今もあまり変わらないですね。綺麗な写真、モデル写真etcなんかですね。

関西写壇というのがある、その京都代表が丹平クラブ、ボクの所属クラブ光影会は2番手との評価でした。その丹平のセンセが、北井氏の「村へ」の作品群について「わからん写真や~、な~みんな!」っていう評価を下したんです。ボクは、アホか!!って思いましたね。空しい気持ちがこみ上げてきました。これが最後でした。

もうそれなら自分でやるしかない。光影会の例会には出席しておりましたが、気持ち的には少し遠のいてきていました。カメラを持って大阪へいきました。
「街へ」がテーマでした。1977年の秋ごろからだったと思います。京阪電車で京橋までいって下車、それから梅田界隈へいきました。毎週土曜日の午後を撮影日と決めて仕事場のあった丹波橋から大阪への撮影取材でした。

もうその頃は、自宅に暗室を作っておりましたし、カメラもニコンF2を使いだしましたし、引き伸ばし機もオメガに替わっておりました。オメガは達さんから買い取ったものです。このオメガの元の持ち主は、木村勝正氏が生前使っておられたものだったそうです。

こうしてカメラと現像機材を俗にゆう一流品にして、自分に言い訳できないようにして、大阪取材をしはじめたんです。でも、何をテーマとすればいいのかわからないなかで、梅田に残っていた「どぶ池」界隈を撮影したり、新しくできつつあった駅前ビルの建設現場などを撮影しておりました。1回の撮影に2~3本のフィルムを使う、という量でした。

ひとりで立った大阪は、中学生の頃に何度か一人で遊びに来た記憶がありました。大阪の南、新世界界隈です。ちらちらとその記憶を思い出しながら、でも足はまだ梅田界隈でした。そのうち春が過ぎ、夏前になってきて、もう撮影をどうすすめたらいいのかわからなくなっていました。その夏は、久しぶりに原稿用紙に向いました。もうかれこれ30歳を過ぎていましたしね。

で、文章は、-私写真論-写真以前の写真論と名づけて、記憶と感情とのことを書いてみました。こうして夏を過ぎて1978年9月2日。再び大阪へ取材にいきました。この日から、大阪日記と名づけた取材メモを書き始めました。
<1978年9月2日土曜日(晴れ、薄曇)京橋から片町線で放出駅前、天王寺、山王町、飛田へ、鶴橋駅前。フィルム、TriX6本、ASA400、ノーフィルター、ノーファインダー28ミリ・・・>このようなメモが手許に残されています。このようにして、ボクは大阪取材をはじめました。

2004.9.29記



写真物語-1-

ぼくの写真史-1-

ぼくが写真というメディアに興味を持ち出してかれこれ30年が経ちますね。
1975年頃でしたね、大学卒業した直後にニコマートを買ったんです。子供が4歳と1歳、わが子の写真を撮る、っていう目的だったですね。

1965年頃から文学に興味が出てきて、小説家とか評論家になりたいな~なんて、本気で考えていたこともあってね。大学入学した1968年には、大学のサークルに入って同人誌に文章を発表したりして、1974年頃まで文学研究会とか定例読書会とかに参加してましたね。で、そのころってけっこう行き詰まっていて(気分的にです)、もう文学できないな~、そんな心境でしたね。

そこでカメラを手にして、自分の子供を撮ったり、家族旅行の記念写真とか撮ったり。写真が文学に替わる興味になってきたんです。ここではボクの個人史を記しておこうとの目論見があるんですが、その最初を、このあたりから掘り起こしていきたいな~って思ってるわけです。

もうひとつ別に、「苔の私日記」と題したのもあるので、二本立てで、やっていこうかな~、というのも一本だと前後の文脈があるから、別角度へ飛べないですから、当面、ここでは写真の方へ30年の個人史をやろうかな~。

写真が文学に替わる興味になってきた頃の話から、掘り起こしていきたいですね。ということで、ほんのお遊びこころから、写真の魅力?とりつかれていくプロセスを記していきたい。それは、内面史というより外面史を中心に、と思っています。

-内灘砂丘の弾薬庫跡-

その当時の夏、8月の初め、金沢へ家族とともに帰省したんです。金沢は彼女の高校卒業まで生まれ育ったところです。その実家へ帰ったときに海水浴にいったんです。場所は内灘、金沢市内から北鉄の電車に乗って20分ぐらいですね。内灘の話は追って書きますが、まだ結婚する前に何度か行ったことがありました。

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その内灘の浜に、コンクリートの塊、弾薬庫の跡がいくつかあったんです。その弾薬庫の写真を撮った、数カットですね、子供たち以外に被写体を求めた最初の写真でした。その後、この写真は「映像情報」創刊号表紙に使いました。

小説を書いていた頃の最後の作品(未完)の冒頭がここ、内灘の光景から始まっていました。何かしら因縁というんでしょうか、金沢・内灘というのがボクにはあるんです。家族の海水浴のスナップと同じネガに収められた内灘の弾薬庫跡の写真。ボクの写真への記憶の最初は、ここなんです。

内灘の弾薬庫跡の写真を撮ったときには、まだフィルムや印画現像は全て写真屋さんに頼んでいました。そのころは伏見郵便局というところで働いていて、京阪丹波橋の改札を出て少し西に下ったところにキングカメラというお店があって、そこに頼んでいました。そうそう、カメラは上田カメラ店の出張販売の際に買い求めました。内蔵露出計つきのニコマートでした。

この郵便局の職場にカメラクラブがあって、誘われてクラブにはいりましたね。田原さん、長島さんという先輩がおられて、彼らはモノクロ現像の経験者でした。この場所がボクの最初のトレーニング場となりました。そのうちフィルムはネオパンsssというフィルムを使うようになりましたし、自宅に暗室機材も揃えました。引き伸ばし機はラッキーのものでした。

一番最初の印画紙、家族見ているところで、マニュアルどうり露光して現像液に漬けました。するとどうしたことでしょう!真っ黒。印画紙全面真っ黒。つまり露光量が多かった、レンズの絞り開放のまま、何秒間か露光していたのでした。失敗ですね、これが自分でやったプリント現像の最初の失敗談です。

そう、小説書いていたころがもう遠くにいってしまって、写真に夢中になり始めたんです。1976年の節分の日に千本釈迦堂の節分祭を撮影して、そのなかから一枚を、なんだったかのコンテストに応募したんです。「京の冬の旅」写真コンテストだったかも知れないですね、明確に覚えていません。そしたら、佳作というのに入ったとの通知がきたんです。それで表彰式が京都会館の会議室であるとのことでしたので、行きました。写真で最初の表彰、賞状をいただいたんです。そりゃうれしかったですね、思い出しますその気持ち、そっからですね。

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朝日新聞の社告に全日本写真連盟の写真サロン展ですね、その出品案内が載ってた。それで地場のやすらい祭りを撮った写真を個人会員ということで審査会場へもっていきました。蒲生さんでしたね、そのときの審査員のせんせ、ボクの写真を一目見て、まあいいか、これ、てな具合でOK。写真展は京都市美術館で行われるんです。美術館へ自分の写真を飾るんですよ~ヤホヤホ!ところが搬入当日、もう大ショック、落ち込みました。いわゆる作り写真ですね、もうボクには訳わからない落ち込みの気持ちでした。

やすらい祭りの鬼が素直に踊ってる写真、それでも手に入れたばっかりの24ミリレンズ使った写真だったんですが、そんなストレート写真なんて、なかったですね、みんなむちゃくちゃ上手いじゃないですか~ということしか言えなかったですね。


-達栄作さんのこと-

達さんとの出逢いは1976年夏の終わりだったと思います。全日本写真連盟京都支部(写連)が主催した宇治でのモデル撮影会の帰り道、京阪電車の中でした。先にボクは写連の個人会員となって京都写真サロンに出展しましたが、それが初めてのモデル撮影会の参加でした。

その撮影会の指導員してたのが達さん、まあ、先生ですね。電車の中で挨拶しました、たぶん、こんにちわ、程度のあいさつ。クラブ、クラブって言ってますけど、どうしたら入れるんですか?っていうような質問をしたと思うんです。達さん、クラブやってるから来るなら来たらいい、との返事だったですね。

それから、事務所兼自宅が藤森にあるから・・・ということでボクは達さんの自宅を聞き出して、後日訪問することを言いました。ボクのその頃って、職場で写真クラブに所属しており、カメラ雑誌が先生的存在でした。アサヒカメラ、カメラ毎日、日本カメラの三誌ですね、古本を1冊50円程度で買ったり、新刊本を買ったりして、むさぼり読んでいたと記憶しています。

カメラのレンズの記事とかボディの記事とか、まあ、ハード環境の話題ですね。それからコンテストの項ですね。いろんな写真が載っていましたね(今現在も同様ですね)。ストロボの使い方とか、広角レンズ、望遠レンズの違いとか、いってみれば作画のためのノウハウですね。そんな話題ばっかりでしたね。

電車の中でお会いしてからしばらく後に、達さんの家を訪問したんです。京阪藤森駅から徒歩で、聞いていた方向に行き、目的地、京都国立病院のそばまで行って、達栄作さんの家を探しましたが見つかりませんでした。そして公衆電話からTELしましたら、もうお家のすぐそばからのTEL、教えてもらった場所に和風のお家がありました。

玄関は道路に面しており、格子戸を引くと三帖ほどの土間、左に応接間、前が台所につながる戸です。典型的和風庶民の民家作りです。応接三帖間に茶色のソファーセットが置かれ、壁際に書棚、窓辺にトロフィーと奥さんの入院ベッドのうえでの写真(その後奥さんが癌でお亡くなりになられていたことを知りました)、そんな部屋でした。達さんには、にこやかに迎えていただきました。緊張していたボクの気持ちをほぐすように話かけていただいたと記憶しています。

光影会という名称の写真クラブでした。それからボクは週に1回以上、達さんのお家を訪問することになります、ボクの最初の先生ですね。また、達さんのお家は、ボクの写真についてのお勉強の寺子屋でもありました。達さんは、当時、二科会会友の肩書きをお持ちでした。それから光影会の会長、シュピーゲル写真家協会の会員・・・その他あったんでしょうけどね。光影会は、以前、京都シュピーゲルとの名称だったそうです。

木村勝正という写真の先生がシュピーゲルの会員で、大阪が中心なので、京都で旗揚げしたんだそうです。大阪に岩宮武二、棚橋紫水、堀内初太郎さんとかがいて、浪速写真クラブとか丹平クラブとかがあって、そんなのの選りすぐりがシュピーゲル写真家協会ってのを立ち上げた、その中に木村勝正さんもいて、京都グループを形成した、その中に達栄作さんがいた。

木村勝正さんがお亡くなりになって、その後、光影会と名称を変更、達さんいわく、シュピーゲルって名前は木村勝正に貸した名前だから使ってはならぬ、と大阪グループから言われたんで、光影会に変更した、とのことでした。そうして達さんと知り合いになって、光影会の例会や撮影会に参加するようになり、写連の月例にも応募しはじめました。

1976年から1978年ころまで、集中的にここ達さんの家で写真を学びました。ボクは達さんから写真がどうあるべきか、といったような話については、土門拳さんの写真を引き合いにだしてよく語っていました。俗にゆうアマチュア写真の作画から作家の方への模索だったと思っています。つまり、達さん自身が写真とはなにか?という疑問に突き当たっていらしたんですね。

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ドキュメントという話をよくしました。達さんの書棚に写真集がありました。カメラ雑誌系のものが多かったですが、ウイリアム・クラインの写真集「ニューヨーク」と「東京」がありました。それから岩宮武二さんの「佐渡」なんかもありました。それから当時発売されたばかりの土門拳さんの全集ですね、そんな写真集を見ました。

ボクの方はカメラ雑誌では、カメラ毎日に載っていた東松照明さんの「太陽の鉛筆」、アサヒカメラに載っていた北井一夫さんの「村へ」ですね、その他大体の有名写真家の写真を、主にカメラ雑誌を中心に見ておりました。森山大道さんとか中平卓馬さんの写真には、あまり関心が向かなかったですね。

達さんは、奥さんを癌でなくされた後だったようでした。そのときに撮った写真が病院ベッドでの写真で窓辺に飾ってあったんですが、この写真を渡辺勉さんという写真評論家がほめてくれた、とのことで、その褒めの内容がプライベートドキュメントだというんですね。その当時は、ボクはそんな言葉は知りませんでした。達さんも何故褒められたのか、十分には理解されていませんでした。でも、記録の方法としての写真ですね。記録とは何か、です。

一緒に撮影にも出かけました。その当時、達さんは琵琶湖の北にある「余呉湖」を取材していました。日帰りでいったり、泊りがけでいったり、頻繁にいきましたね。教わったのは撮影現場での撮影の仕方ですね、ボクは見習いカメラマンでした。写連の例会とかコンテストで入賞したりしだして、盾やらトロフィーやら賞状の類が増えていきました。大体の合同写真展、関西二科、写真サロン、選抜展、光影会展・・・会場は京都市美術館とか府立文化会館でしたかで、諸先生方と同じ壁面に写真が並びました。

「こうして先生と呼ばれるようになるんやな~」って思い出したんです。文学でモノにならなかったボクは、写真の簡単さにうぬぼれていましたね、ホント。その後1978年秋頃から、少しづつ疎遠になっていきます。達さんはボクが舞鶴に単身赴任中にお亡くなりになりました。1990年の年末頃だったと思います。訃報の連絡をいただきましたが、参列できませんでした。

2004.9.16~10.27  nakagawa shigeo

記憶の痕跡
2006.2.12~2006.5.3

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記憶の痕跡を求めて、生まれて幼少を過ごした場所に立った。その場所に過ごしたのは、1946年から1953年だった。あれこれ半世紀以上が過ぎ去った。そこには道路があり、家屋があった。ボクの記憶の痕跡を求めて、デジタルカメラを持って自転車に乗り、幼児の記憶に残っている場所を確認してまわった。
     
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住まっていた場所の家屋は新しくなっており、焼け跡の広場だったところに、家屋が密集している。記憶の光景はどこにもないけれど、ボクの記憶は、その地点を確認する。

そこは洋風の二階建て家屋だった。表が本通りに面しており、和漢薬を商う店舗だった。台風が襲来し、ショウウインドウのガラスが割れて、ベニヤ板が張られていた。その前は花屋だった家屋には地下室があり、薄暗い地下室は恐怖をいだかせる空間だった。

ボクが生まれてから6歳まで住んだ家屋の記憶が、甦っては消えていった。写真は今の姿を撮ることしかできないけれど、写真を撮るボクの脳裏には、その場所を確認し、かってあった姿として記録されるのだ。

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親が昭和31年(1956年)に新調した写真アルバムが、手元にある。いま確認してみると、ボクの記憶の写真は、七頁目の右端に、糊付けされている。名刺半分の大きさだ。子供達が七人並んで写っている写真だ。夏のころである。ランニングシャツとパンツ、髪の毛は、男の子は丸刈り、女の子はおかっぱ姿である。七人の子供は電柱を背にして四人が座り、三人が立っている。ボクは立っている一人だ。

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撮影は昭和25年か26年の夏だろう。見知らぬ人に撮影されたのち、写った写真を持ってきて買わされたものだ。当時の記憶がよみがえる。その写真が、手元に届いたときの光景を覚えている。父親がブツブツ言いながら、お金を払っていた。

それから半世紀以上が経って、ボクはその電柱を目当てにシャッターを切った。電柱は当時より少し移動している感があるけれど、ほぼ同じ位置に、記憶の電柱があった。道沿いの家屋が建て替えられ、電柱が立て替えられてはいるとしても、その場所は、当時のボクをとどめる唯一の写真だ。

ボクが所有する幼少の写真は、二枚だ。一枚目は、一歳前後に写真館で撮られた写真。二枚目が、電柱の前で撮ってもらった写真だ。ボクの記憶に残る幼少のころの外風景をとどめる唯一の写真が、ここにある。

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ここに一枚の写真がある。撮影は1950年ごろ、ボクが所有するボクが写った写真だ。写真には、撮られた時、見られる時がある。撮られた時から、見られる時、この写真の場合、時間経過はおよそ55年の歳月だ。

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この写真は、ボク自身にまつわる写真だから、この写真を見ることによって、当時の記憶が、よみがえってくる。記憶が記憶を呼んで、その頃のこと、そこから派生する様々なことが思い起こされてくる。

日記がある。手紙の類がある。それらは文字で書かれた記憶である。それらの文字で書かれたものを読むと、書かれたその時の記憶がよみがえってくる。そうして当時の様々なことが思い起こされてくる。

写真と文章。形式は違うけれど、記憶装置のインターフェースだ。ヒトは、記憶を持つことでヒトでありうる。手元にある記憶のインタフェースは、作品ではない。しいて言うなれば、作品となる素材である。この素材が作品に組み込まれることによって、文学作品や写真作品が成立していく。写真や文章、記念写真や日記の類は、ボクにとっての作品素材なのです。

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50数年前、1953年(昭和28年)に、ボクが小学校に入学したときのクラス写真です。先日、そのクラスの同窓会なるものが開かれ、半数近くの同期の男女が集まりました。他聞にもれず、昔を懐かしむ声しきりで、あれから50年以上経ったとゆうのに、記憶のなかの面影を確認しながら、名前を確認し、時間が過ぎるにつれ、当時の記憶が糸をたぐるように、よみがえってくるのでした。

数枚の写真が、複写されて席に持ち込まれていて、ボクはその写真をデジカメで撮りました。服装とか履物とか、当時の痕跡をとどめたまま、封印されてきて、それらの子らが大人になって、老年期を迎えるころになって、封印が解かれた。記憶は、50数年の歳月を一気に飛び越して、子供のころのままの関係で、今、再会を迎えたのです。それぞれに人生の物語をつくってきて、いまに至っているのだけれど、記憶の痕跡は、時空を超えているようです。

旧友に会う、古い写真にめぐり合う。過去があり、現在があり、そうして未知の未来がある人生です。生きた証の記憶として、旧友があり、写真があり、そうして同窓会があった。まあ、ヒトそれぞれの記憶の痕跡を、自分の外に持つことで、確認できる人生でもあるのでしょう。

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50年後に再会したとき、探そうとしたものは、失われた記憶でした。だれかが50年前の写真を見せてくれ、確かに記憶の中にあった写真を目の前にして、ボクは、目の前にいる人の現在と、50年前のその人とをダブらせながら、面影をみとめ、50年前にタイムスリップしていくのでした。

記憶のイメージと目の前の人、同窓生であるというだけで、水平感覚を得るものです。世の中に、人はみな同じだとはいえ、財を得てリッチな生活を得る人もいれば、そうでない人もいる。また、世間でいう有名、無名、所属などの比較で、優れた人もいれば、そうでない人もいる。大人になってからの人と人の関係なんぞ、この比較のうえに立った関係のような気がします。

小学校1年生という年代に知り合った関係というのは、男とか女とかを意識しなかった関係であり、貧富なんぞ意識しなかった関係だった。50年を過ぎ去らせた、そこにいた人との関係は、そういう意味で、水平感覚、水平位置としてありました。記憶の痕跡は、人と人との関係をつくりなす基本態なのかも知れないと思います。



<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の昭和寫眞帖


2004.8.4
アートとは何かというと

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アートとは何か、というタイトルをつけましたが、これを一言で論じることは難しいです。

でもね、ぼくは、この問題を自分ながらに解こうとしてきて、いま言えることは、自分の欲求の出し方ななんだと思っています。
自分の中にある何かを人に伝えようとすること。その伝えたいことを文字にしたり、写真にしたり、音にしたり、それらを組み合わせたりします。

それから身体表現ってのもあります。パフォーマンスなんていいますけれど、演技ですね。

アートが表現された形には、いろいろあります。

アートとは何かとゆうとき、ぼくは、そのことをやりたい!っていう感情が湧いてくること、このことが大事なんだと思います。
身体の欲望です。食いたいっていう欲求とかセクスしたいっていう欲求とか、身体にかかる欲求ですね。
この欲求があって、その欲求を満たすために出てくるのが欲望!
キミを手に入れたい!変装して踊ってみたい!小説書きたい!
その結果として、人に認めてもらいたい!・・・この欲求です。

この欲求に忠実になってあげることが、アートしていく条件かな。
アートとは、この欲求を形にしていくプロセスとでもいえばいいのかな~、って思いますね。
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写真は1983年白虎社合宿中の野外公演の光景。

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アートとは何か?っていうことの2回目ですね。
アートって身体を介在させることってありますね。

昨日、今日の写真は、かって1980年代の始めにぼくが取材していた白虎社っていう舞踏集団の写真なんですが、パフォーマンスですね。

写真を撮るってことも、けっこう身体的です。
出来事の現場で身体を使っていますから肉体的といったらいいのでしょうかね。

いま、はたけをやってるんですが、これはもう身体的です。
暑い日中に汗だくだく流しながらの作業です。
このときの気持なんですね。
気持いいっていったら気持いいんです。
アートすることのいちばん大事なことがここにあると思うんです。
なんかもうセクスの変形なんだと思うんです。
快感、エクスタシーを求めて、感じる!!
行っちゃう~~、って感じで汗だくだく流してる。

そういえば食欲、性欲。
これは身体が要求するんです。
セクシュアリティーなんですね。

アートの根底にはセクスがある!
こんなこと言い出すと写真はアラーキーさんになってしまう。
今日は、たまたま彼が写ってるんです、記念写真。

アートを捉えるいくつかの系がありますが、文化の軸でセクシュアリティから捉える方法もあります。
特に最近はプライベートな領域がテーマです。
こころの解明ということの科学からのアプローチとアートからのアプローチですね。

写真も文学も、見えないものの神秘のベールを剥がしていく作業として、あるように思いますね。

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アートとは身体を介在させることである、って言いましたが、今日は、パンを作る気持と労力について考えたいと思うんです。

アートは気持よい感じを感じること。恍惚の状態まで登りつめることができたら最高だと思いますが、何の不安も無く快楽の状態にあること。

食べるものを作るって場面では、けっこう熱中してるんです。
なんかもう変質者になった感じもしますね。アートってこの変質者になったときのプロセスなんです。

1個のパンを作るのに3日間かけてます。
出来上がりの予測はできますが、実際には作っていかないと、出来上がりの状態がわからない。

文章を書くときでも、写真を撮るときでも、パンを作るときでも、最初は何も無い状態から始まります。
出来上がるまでのプロセスと出来上がった形は違います。
詩や小説であったり、写真画像であったり、パンであったりするわけです。

でも、このプロセスって、似ていると思うんです。
このプロセスに関わる自分の気持っていうことから見ると、ほとんど同じなんです。

自分の中でイメージが膨らんできて、それをどのような出来上がりにするか、ってけっこうワクワク感ですね。
性感をくすぐられて、気持いい~、っていう身体の異変状態と同じような感覚がそのプロセスにあるんです。
これは体験しないとわからないことです。(笑)
セクスしてる最中がアートしてることだ、とは言い切りませんけれど、アートしてるプロセスの最中っていうのは、これに近いですね。

要は身体の満足度だと思うんですね。
エントロピーということで言えば、身体の中に溜まっていたエネルギーが、パンを作るプロセスにおいて、発散していく。
宇宙空間に放出されていく、その循環みたいなプロセスですね。

この状態を、アートしてる状態なんだとの思いがあるんです。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の昭和寫眞帖

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