中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

2014年04月

紫式部
2007.1.8~1.15

紫式部供養塔
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紫式部といえば源氏物語の作者さんです。古典文学の高嶺に留まったまま延々千年、読み継がれてきて、現代語訳も与謝野、谷崎、瀬戸内、それぞれに書き改めていらっしゃる魅力ある古典です。ここ京都は千本鞍馬口にある千本閻魔堂(引接寺)の境内北西に置かれている紫式部の供養塔です。多層塔だけれど、写真は下部二層です。

男と女の物語は、古今東西、永遠のテーマであるようで、男と女の、恋と愛、哀れと悲しみ、えろすを基軸としています。京都の文化を見つめようとしているぼくにとって、いよいよそれが出番であるように思えてきているところです。神イメージから引き継がれてくる豊穣えろす世界の原形のように思うのです。

紫式部墓所
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堀川北大路下るといえばいいのか、堀川鞍馬口上るといえばいいのか、つまり紫式部の墓所がある場所のことです。京都の地名は、道の交点の南北を先に東西を後につけて「上る下る」というのですが、その言い方に従ってゆうと、前記の二つの呼び名が当てはまります。縁起をかついで「上る」とすると、紫式部の墓の在処は、堀川通り鞍馬口上る、とゆうことになります。

彼女の代表作、源氏物語は、寛弘六年頃(西暦1009年頃)完成を見たとありますから、およそ千年の昔に書かれた物語です。さて、墓地がここにありますが、この地が本当かどうかは疑わしいといいます。この墓石はそんなに昔ではなくて、近年のものです。でも、まあ、場所をつくり形に残すことで、視覚として認識できるいわけですから、それはそれでいいと思います。ぼくは今日(2007.1.11)あらためて訪れて、写真にしたわけで、京都巡りの一助となるものだと思っています。

墓ない人は儚い人生、なんてお墓やさんが書いてはったけど、そうやね、30数年前に写真を撮り出したころ、クラブに入ってて、月一回の例会が、お墓やさんの二階やったか三階やったか、それで、ぼくが入るお墓は、本法寺にあって、表千家と裏千家の玄関前にあるお寺、紫式部さんと近場といえば直線で300mほどやろか、よろしゅうにたのみます、とのお近づきのしるしも込めての表敬訪問だったのです(ウソ)。

紫式部通り
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古記録に紫式部の墓は、雲林院の南に存した、とあるといいます。現存する雲林院は、北大路通り大徳寺前の交差点東南の一角にありますが、その南というポイントでは、いま、日曜朝市が開かれています。源氏物語の成立が1009年前後だとあり、それから約千年の時空を経てきた今です。京都の町は雅。そこには生きられた人々の歴史があり、暮らしがあった。そのことに明確に気づいたのは、昨日(2007.1.14)のことです。「紫野ほのぼの日曜・朝市」なるイベントが開かれている場所。ぼくはその場所へ赴き、写真を撮っていたそのときです。

一、二の三、いっちにいのさ~ん!掛け声です(笑)、ぺったんぺったんお餅つき。タオの第一章に、無名、有名とゆう字句があり、無名は万物の始めなり、有名は万物の母なりといい、無から有へ、名がつけられて人間の世界が成立するといいます。そおゆうことでいえば「紫式部通りにておこなわれている朝市でのお餅つき」との名がつけられて、ぼくの前に成立している現(うつつ)なのです。この光景は因果関係の末にあり、森羅万象の原則に帰していくとき、光景の意味が生成してくる。

いやぁ、ね、ちょっと、人間なんてのは、無意味を好まなくて、有意味、つまり意味有ることを探ろうとするじゃありませんか。なんとかこじつけてでも、意味を作ろうとするじゃありませんか。つまり、ぼくは人間であって、この人間であることの法則に基づいて、日々生きていることに気づいているのです。だから、こうして、有意味らしくしようとしているわけで、神と紫式部と朝市餅つきを、系列化しようとして、無駄な抵抗となるやろなぁ、を試みているわけです。

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中川繁夫の寫眞帖
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天地
2006.12.4~2007.1.6

天地の天-1-
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歴史のはじめは、天と地が分かれたときから始まるとゆう認識で、よろしいのでしょうか。この国の創造物語、古事記の最初に天之御中主神-あめのみなかぬしのかみ-という名前の神が記述されています。これって天の中央にあって天地を主宰する神の意味なんだそうですね。つまり太陽のことなんでしょうね。そこでボクは、 天地の天シリーズの最初に、この光のある写真をもってきたわけです。

とある坂道をのぼりはじめたとき、目の正面に、光輝くところがありました。目を向けたところ眩くって見ることができません。カメラを持ち出してみたところ、形は捉えられず、ただただ眩く、真っ白になっているだけでした。

ボクの興味は天地、形あるものとしての天地、とはいえ天に形があるかのかといえば、形ではなく現象があります。地はどうかといえば土石の塊としての形があります。太陽は光を放つ星として形がありますけれど、通常状態では、カメラの能力を超えていて、形として収めることができないのです。

思いつき程度の試みで、これから光あるところで写真を作り、文章を書いていくわけですが、<天地の天>と<天地の地>という二つの枠で、ボクは創作していきたいと思うのです。

天地の地-1-
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地は、鉱物であって、岩石であって、無機物であります。それは生命体ではありません。天の雨がしみわたり、年月を経て石になり、砂になっていくのだと、理科で習ったものです。地には四方があり、今の言葉でいえば、東・西・南・北、かっては方位を、白虎・青龍・朱雀・玄武と呼んでいたそうな。その頃にもこの地があったわけで、これ、方位でゆうと玄武の方位です。

とゆのもこの写真に撮った地は、京都の北に位置する船岡山だからです。船岡山の北側斜面に剥きでた石肌なのです。船岡山は、平安京造営のときに北の基点となった場所だといいます。そういえば、この船岡山の北に今宮神社があり、東に玄武神社があります。今宮神社は、元は疫神社といいましたとあり、玄武神社は京都の鬼門に置かれたと聞き覚えております。

天然自然現象を、そのすがたかたちを、ヒトは怖れおののき、自分を超えたなにものかを感じたのでしょうね。今、ボクは神というイメージに興味を示していて、神が出る場所を詮索しているわけで、つまり、ボクの心の或る処で、それを感じる感じ方というものを詮索したいと想っているのです。

天地の天-2-
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2006年12月19日の天。京都は北野白梅町。ぼくはカメラをもって散歩にでかけ、この交差点に立っておりました。午後二時過ぎの出来事です。冬至に近い日は、快晴の青天、とはいえ、かってあったような深い青天ではなく、少し白濁したかのような青天です。

このポイントの記憶のはじめは、小学生のころに遡ります。そうして高校に入学する日のことが甦り、時折々の記憶が甦ってくるのでした。高校に入学する日、いまは亡き母が一緒にいて、ここから嵐電に乗っていったことが甦り、母の追憶とでもいうように、かってあった母の面影を甦らせるのでした。

それらはすでに半世紀も以前のことであり、記憶をもったぼくは、ぼくの生きてきた時間を、反芻しながら、カメラのシャッターを切るのでした。街並みの光景が変わり、行き交う人の衣装が変わり、昔の面影が一変している光景を確認していくぼくが、そこポイントにいて、それにしても天からの光の姿は、それほど変わっていないんだろうなと思ったりしているのでした。

天地の地-2-
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聖地には石があると読み聞きた記憶があります。聖地とは聖なる地のことで、聖とは、国語辞典によると、1:知徳に非常にすぐれている人。ひじり。2:その道の達人。3:神聖。4:天皇に関する物事に添えることば。5:キリスト教などで聖者の名に冠することば。とあります。ぼくが使っている国語辞典は、昭和31年初版発行の角川国語辞典です。小学校の六年のときだったかに買ってもらった辞典です。

石は地の原形のひとつだと思っています。この石の在処は、京都は船岡山の建勲神社の境内です。この石の所在場所が、聖地なのかどうかを、ぼくは、いまのところ判断しませんけれど、俗にいう聖地の範疇にはいる処です。そのように想うと、なんだか霊験あらたかなるインスピレーションを、感じてしまうようにも思えてきて、水したたりおち、苔むしている地なのです。

石は鉱物、水は無機物、苔は有機物です。それを見て、感じて、認識するぼくは有機体の動物です。鬱蒼としたたたずまいのなかにある、この地を見て、鬱蒼を体感して、霊験あらたかなる気分になります。天地がわかれて、最初にあらわれた地だ、とはいいませんけれど、ぼくにとっての鬼門なのかも知れないなぁ、と想ったりしてしまう処のような気がしています。

天地の天-3-
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2006年12月22日の天。大阪府島本町桜井付近。この日付は冬至です。撮影日時は、つまり太陽がいちばん南になった日の午後4時前ごろだったと思います。ここは天王山に近く、水無瀬に近く、桜井の駅跡があるというトポスです。縁あってぼくの近場になっている場所です。天といい地といい、そこに歴史をみるという視点から、写真が撮られてタイトルつけられ、若干のコメント文をつけていく作業を試みているのです。この作業は、ぼくによるぼく自身のあとづけ作業なのだと思っていて、ぼくの内面系譜を正当化しようと思っていて、記憶の場所にて、天に向けて写真を撮っているのです。

ぼく自身を権威つけようとか、正当性を証明しようとかの意図があるわけではなくて、客観性を欠いた、主観に基づく、自分探しの試みなのだと思っているのです。たとえば素性というものが、ヒトが生きるうえで重要なファクターとなっているのであれば、ぼくの素性は祖父祖母の顔を思い出すレベルで、それ以前のことはわからない。わからないとゆうことは、素性が知れないということにつながり、俗に言うどこの馬の骨なのかわからないとゆうことだと自認しているわけです。

これはぼく存在以前を、時系列的に辿ってみて、ぼくの居る場所を定着させる試みとは無縁だと思っていて、ぼくの内面意識の深さレベルで、ぼくを捉えていこうとしている、これは芸術行為なのだと解釈しているわけです。というのも、ぼくの今様問題意識が、個の生成と記憶というテーマに根ざしていて、見えない個の記憶を、見えるように形つくろうと思っているのです。ぼくにとっては、ぼく誕生のときに天地が分かれたわけで、それから僅少60年とゆう歳月を経てきたいまの内面意識を、構造化したいと思う行為なのです。

天地の地-3-
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地の底にはなにがあるのかといえば、黄泉国(よみのくに)があるといいます。つまり暗黒で死者のいく処だとゆうのです。ぼくには、そうゆう処が実在としてあるとは考えないのですが、ふうっと、生まれる以前、生まれて今ある、死滅以後という想いが起こってきて、恐怖にいたる気持ちを抱くことがあります。個体の誕生と死滅という生命現象を、からだのことだけではなくて、こころをことを交えて考えると、以前、以後がじつは大きな関心事として立ち上がってくるのです。

ぼくらの世代は、唯物論とか実存主義という考え方をベースに、論を組み立てる時代に学んできたわけだし、教育の根幹に神代の話はいっさい無く、民主主義だとゆう概念で知識が育まれてきたわけです。今様の問題意識でいえば、ぼくのありかは何処にあるのか、つまりアイデンティティ問題なわけで、パンとミルクの給食と、欧米賛美意識で埋まれたぼく自身を、最近になって生活実感とそぐってないなぁ、と思うようになっているのです。

死して行く処がある、その場所は、黄泉国ではなくて天上の国でありたい。こころがそのように思うから、黄泉国への出入り口には封印をしてしまいたい。地表と地下は一体のものだから、なんにもしなければ地下に行ってしまう。だから、ここから、天に向ける想いがわいてくるのだと思ってしまうのです。ぼくはやっぱり天地の天を想い描きたい、そのように思う年齢に至りだしたんやなぁ、と思わざるをえないのです。

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記憶の痕跡 2006.7.21~

光の痕跡
2006.7.21

光ってのは生命の源泉だと思うんよね。
この世のしきたりってのも光が基準のように思うんよね。
まづ闇があって、そっから明暗に別れるわけでしょ。
その明をつくりだすのが光ってわけさ。
植物ってのは、光を摂取して光合成するわけだし、
動物ってのは、光で合成された酸素を吸って生きてくわけだし、
光ってのは、生命の源泉なんですね。
人間さまだって、光を求めてやまない動物でしょ。
光ある処を求めて、脚光を浴びたい、認められたい!
なんて、光あるところは、情のエクスタシー領域でもあるんやろねぇ。
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写メール文学
2006.7.7~7.14

-1-

文学作品というのは、作家を自認する個人が、個人の内部でつくりあげるイメージを文章化したものだといいます。この限りにおいて、文学作品は、作家と読者という二項に分けられたあり方です。ところで最近は、ネットワークを通して個人と個人が写真と文章を交換しあうことがあります。写メール交換です。

アートの形を、個人間の関係性のなかに見出す論があります。これまであったアートの形、すなわち作家と鑑賞者という関係のなかで、出来あがった作品をその介在とするという、従前の形ではなくて、制作プロセスそのものをアートの行為とみなすのです。作家を自認する制作者のプロセスを、ライブで享受するというにとどまらず、行為者が複数登場するなかで、アートが行われる。関係性のアートです。

文学の試みを、この関係性のなかに置いてみようというのが、この項の目的です。文学作品が、制作のプロセスを複数で共有し、生成していく中味自体をもって作品となる。そうゆう形です。さて、そこには文章と写真が置かれる。文学と写真というジャンルを融合させ、なお、複数の個人により生成させられる形を、文学の新しい形として、提起したいと考えているのです。
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作り手がいて、読み手がいる。作者がいて、読者がいる。作者が中心にあって、読者はその周辺にいる。まあ、既存の文学形式は、このような構造を持っているわけです。この構造の中心となる作者を、個人の集合体とするというのが、写メール文学の発想です。自我なくして文章は書かれえない、という前提を否定することはできませんから、文章を書く基本体は、個人です。

この個人と個人の写真と文章の交換によって、ある場が作られ、その場が文学の場となる。この場というのは、仮想空間場であって、作者自身が読者であり、読者自身が作者である、という関係がその場に生じるわけです。この関係場にいる個人そのものの形が、文学の主体となるのです。

連歌、応答歌、そういえば、写メール文学として思考する、この関係は、かってあった形態に類似するものです。制作し呼応しあう当事者のなかに生じる心の動き、それ自体を重視する文学態といえばいいかも知れないですね。作者と享受者が一体となった関係の文学態です。

この写メール文学は、既存の文学形式を解体するものだと考えています。あるいは近代文学の形式が成立する以前の、まだ文学という概念が成立しなかった頃の、文章による情の交換場であったそのものを、新たな現代ツールによって再生させる試みでもあると考えます。ええ、これは、文学という概念からすれば、文学以前のたわごとにすぎない考え方だと一笑にされることです。でも、アートという概念を、関係性を中心に組みなおしていくと、文学というアートの形をも、このように組みなおしたい道筋なのです。
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