中川繁夫写文集

2014年06月

小谷城址にて
2007.2.28
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奇妙に気になる場所に、お城の跡があります。歴史書を紐解いたというより、遠藤周作の小説をもう7、8年前に熱心に読んだことがあって、そのなかに浅井長政とお市の物語があって、その舞台が滋賀県は湖北の小谷城です。そのころには、戦国時代の武将たちに興味があって、織田信長が築城した安土城跡を訪ねていったこともありました。城跡というのは、ようするに跡であって、痕跡が残っているわけで、当時の天守閣とか、その他の建造物が残っているわけではないのです。

ぼくたちが訪れる季節がそうさせているのかも知れないのですが、人がいない、殺伐とした風景がそこにあるように感じてしまうのでした。小谷城にまつわる話は、信長の妹お市が浅井に嫁いで、信長の軍に攻められ、落城するなか、お市も城に残り共に死するという悲劇のような内容を持つ実話の物語なのです。長政とお市の三人娘の長女が淀君となる家系で、いまは福井の朝倉との恩義のなか信長と戦う。その末に起こる悲劇のような物語。

こうして書いていくと、戦国時代の一齣が、城跡を訪れるときに、それなりに支える背景となって、ただの石ころ、ただの樹木(これは当時のものではない)、そこから見える湖北の風景などなどが、見る人に深い感銘をあたえる、と、まあそんな気がしているわけです。ぼくはまったく茶化す気持ちはなくて、その城跡に感銘を受けるのです。ある人間達が生きた痕跡がそこにあり、遠く昔の、とはいえ500年にもならない昔を、血なまぐさい歴史を、感動という感銘ではなくて、悲しみの感銘を受けるのです。

この世は戦い、人間の歴史は古今東西戦いの歴史である。このように認定してしまうことに、空しさと絶望に似た感銘を受けているのです。なんというおろかな人間たちよ、と仙人ぶって言ってみても始まらない現実に生きる自分を、どうしても正当化できないのです。おろかな自分よ、そのように思いながら立ちすくんでしまった城跡でした。

日々過ぎる
2007.3.8
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なにかしら日が過ぎていくのが早い感じがしてしまう昨今です。この前、ここに記事を書いたのが二月末、そして今日は3月8日。時間に追われている環境でもないのに、時間に追われている感じが否めない。これも仕事を多く抱えてしまったからだろうと思っています。
仕事っていっても、ここではお金には繋がらない仕事です。老人のボランタリーとは全く解釈していないけれど、世間から見たら、そういうことかも知れない仕事。好きなことを好きなようにしている、とは自分では思えてなくて、でも、好きなことをやってるとの感触があるから、そんなに悩んでいるわけではありません。

一日24時間、一月30日、月が12回あって一年。一時間は60分、一分は60秒。この単位にこだわってしまう自分があって、時を刻む時計があって、いつもいっしょに走ってるって感じで、時に縛られている自分を発見して、そっから逃れようと思っても、やっぱり逃れられない自分がいて、結局、時間という概念を認めたくないと思いながら、認めざるをえないのです。

時間は、一つの大きな呪縛ですね。それとゆうのも、自分の生涯時間をおおよそ計算できる時代になって、ひところならもうあの世へ行っているかもしれない年頃なのに、いまや生涯80年なんて、勝手に思っていて、ああ、あと20年もある、ああ、あと20年しかない。どっちかゆうと後者の方で、このあと20年といっても、いつぷっちり切れてしまうかも知れないと思うと、急ぐ気持ちがありあり現れてきてしまうんです。

そうして、いまやってることの、自分への意味を問うてみても、意味があるようで無いようで、この身体が生きてるあいだにしか通用しないことで、何を焦っているんや。そんな日々なわけです。たわごとにすぎないとはおもうけれど、ついつい言ってしまう自分が、ここにある。意味を成さないたわごとが、ここにある。ただそれだけのことです。


越前今立にて
2007.3.15
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今立は和紙の里。いつのころからか一度は訪れてみたいと思うようになっていた町だったので、気象情報では海岸は時化との予報で、急遽国道8号線経由で金沢へ赴くことにして、武生から近い今立を訪問したのでした。和紙への魅力を感じているけれど、たいした知識も持ち合わせていなくて、訪問の目的は、むしろ越前という土地と、奉書の類を生産していたという知識においてです。

三月も半ば、暖冬で雪が少なくて、もう桜が咲くかと思いしや冬が舞い戻った日、晴れ間が出たかと思うと、吹雪いてくる日、観光客用に整備された「和紙の里めぐり」の一角を見学したのです。紙の文化博物館、卯立の工芸館、パピルス館、この三つの館が見学コースで、入館料200円、パピルス館は和紙のお土産品を販売されているので入館料不要でした。楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)の木の皮を一定の工程をもって紙に仕上げていくプロセスが、わかるように解説され、工程を見学できたり、体験できたり、とゆう工夫がされているのでした。ぼくは観光客だから、観光客の道筋をそのまま歩きます。きれいに整備された一角で、はるかいにしえの美しい国のイメージをくゆらせ、おいしい十割蕎麦を食べ、自分へのお土産に、A4サイズの楮の手漉き紙を買い、あれこれと使い道を想いうかべているのです。

ぼくの興味は、京都と越前の位置関係にあります。京都から鯖街道朽木を経て琵琶湖今津へ出、そこから山を越えて敦賀にいたり、つまり山を越えた処が越前です。つまり京都から超えた処の前。京都の文化をあれこれ想う、その先に今立という紙の産地があるのです。この地、紙梳きの歴史は1500年といいます。ぼくの滞在は二時間でした。まあ、観光地めぐりとはこんなもんよなぁ、と思いながら、あえて一文を記して記念にしておく。それと掲載写真は、紙梳きとは関係のない、玄武の彫刻です。記念館に展示されていたものです。


桜の季節
2007.3.24
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今年もまた、桜の季節がやってきています。もう四年目になる桜取材。今年はどんなスタンスで桜を撮ることになるのかなぁ。毎年、同じ被写体を求めて、写真に撮っているんですけど、撮り方が毎年変わってきていて、写真の作り方が変わってきて、その時々の自分のあり方によるんやろなぁ、と思うわけです。

一年目から三年目にかけては、接近、接近、レンズを最短距離にして撮るようになってきて、たぶん今年は、少し引いた位置で写真を撮るような気がしているんです。桜の写真を撮るときに意識するのは、東松さんの桜です。彼が撮らなかった桜は、桜のアップです。そういうこともあって、最短で桜のアップ写真を、と思ってきて、情に直接インパクトを与える写真を目指しているわけです。写真の社会性とかを、いったん御破算にして、情にのみ訴える写真。それが昨年の桜を撮るコンセプトでした。

さて、今年もすでに桜を撮りました。とはいえまだまだ前哨戦です。ホンバンはこれからです。カメラは四年目になるキャノンのパワーショットです。最近は、一眼レフデジカメが主流ですけど、ぼくはあえてこの機種にこだわっていて、これで十分だと思っていて、ストレートに撮る手法で、今年はどんな桜が撮れるのかなぁ、と思っています。

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
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海のむこうに
2006.12.3~
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海の写真を撮ろうと思って、この9月から定点観測的に海を撮りだしました。撮影場所は越前海岸です。京都からゆうと越前岬の手前10キロ前後のポイントです。カメラを向ける方角は、そこからおおむね北西です。海岸沿いに設えられた道路脇のちょっと高台になったポイントです。

地球は丸いから、そこから見える最遠は水平線です。現代史を少しは齧ったことがあるボクは、かって内灘の海岸に興味をもっていました。つまり目の前に広がる海は「日本海」と名称された海です。その海のむこうに陸があって、その陸は朝鮮半島です。きな臭い話だけれど、能登半島の根っ子の内灘から、ボクがいま選んだ越前岬までのラインは、軍事的要所として北西を見ることになります。

その海の向こうに向けて、ボクはカメラを向けています。ちょうど写真に撮られた海の真ん中あたりが北緯38度あたりではないかと認識しています。この目の前に広がる日本海の生成は、1700万年から2000万年前ごろだといいます。ボクは、この長大な時間への想いとともに、現代史のある側面を連想させるのです。

この写真が意味をもつのは、ボク自身においてです。1970年代の中頃にカメラを持って、家族以外に最初に撮った写真が、内灘砂丘の海岸へ、家族で海水浴に行ったときでした。当時にはまだ試射場当時の弾薬庫跡が残っていて、それを何コマか撮ったのです。やがて1980年に「映像情報」を発刊しますが、その表紙写真に、そのとき撮った写真を採用しています。

そんなこんなでこの40年間、ボクが何かしらこだわってしまい、事あるごとによみがえってくる場所なわけです。今年9月から撮りだした海の写真は、そのポイントに立つとき、ボク自身の記憶をよみがえらせるのです。いまさら現代史の問題にアタッチメントしようとは想わないんですが、ボクのこだわりのある部分として、海を撮るポイントを選定してしまったことだけは確かなことです。

<地>を撮る
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いま痕跡シリーズで、いくつかの被写体を選んでファイルにしている一つに<地>のシリーズがあります。昨日は自宅から紙屋川沿いに北上して、鏡石まで行ったんです。これまでにも薄々意識はしていたのですけど、あらためて明確に意識したのは、天皇陵が川の東、つまり洛外に散見されたことです。

地が露出した場所を求めて、それもボクの意識のなかで、意味ある場所を求めているわけですけど、昨日の場合だと、御土居ーおどいーがありました。御土居とは、秀吉によって築かれた京都を囲む土塁のことです。念のため、この御土居の内側が洛中、外側が洛外と区分されているのです。

鞍馬口通りの北にある児童公園で最初の撮影をし、それから金閣寺前の通りを山際に沿って北上していったのです。道路はアスファルト舗装で、山際はフェンスが張られ、宅地化して住宅が並び、立ち入れて土が露出している処というのは、ほとんど無いのでした。その道すがら、道路の右手、つまり山際の道路の右に天皇陵があり、垣根の下が、<地>が露出していたわけです。

撮影の主たる目的は、鏡石を撮ることだったので、数カットシャッターを切っただけでしたが、掲載の写真はその一枚です。いま、あらためて、土の露出したポイントで意味ある場所が、そういった類の処だと意識しているところです。写真のテーマについて、少し考えていく必要があるなぁ、と思うポイントだと思い出しています。


<神域>を撮る
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もう一年以上も前から、京都地域文化研究なんて標題を掲げて、研究、つまり考えることの枠を作ってしまったわけですが、それ以後、やっぱり意識化してしまって、ことあるごとに思案していたんです。で、そもそも京都地域文化研究という枠がボクのなかで起こってきた背景は、グローバル化していく世界構造に対して、いかにローカル化軸を立てていくか、なんて考えがあったのです。

このグローバル化とは、ボクには、西欧化だとの基本認識があって、拠って立つボクのアイデンティティ、つまり自分とは何か、なんてことを考えてきた最中で出てきたテーマだったわけです。綜合文化研究所なんて標題で、やろうと思っていたことの対面に、綜合ではなくて個別、個別文化研究、つまり自分研究につながってくるテーマが浮上してきたわけです。

良い悪いはさておいて、ボクの思考と実践方法というのは、大きな枠組みを作って、部分の枠組みを作って、それらを図式化して、それらの部分部分を、写真に先立つ文章で埋めて、平行して写真作業に入っていこうとの考えが濃厚に支配していると思っています。それが、今年の初めごろから、それらのことを棚上げしていたのです。つまり、基本視点を<理>から<情>へ移そうと思ったわけです。

情において<美>の意識を、写真化できないか、との思いが起こってきて、春には桜を撮り、花を撮り、古着ではあるけれど着物を撮ってきたところです。情はエロスという側面でイメージ化を図ってきたつもりです。一方で京都に生まれて育ったボクの60年をもって、ボク自身の研究をする想定として、ボクの身のまわりの風土を探索してみようとの着想で、日常生活空間に限定して、記憶の場所を写真に撮ることをしはじめてきたところでした。

ボクの記憶の場所から、街角を外していくと、そこは寺社仏閣があり、寺社の領域のうち、寺(てら)ではなくて社(やしろ)に傾斜している自分を発見したように感じているのです。つまり<神域>です。具体的には、このひと月ほどのことですが、意識してそれらの<神域>を訪ねていこうと思っているのです。まだ始まったばかりの今ですので、あえて言葉にしておきたいと思って、ここに記したとゆうわけです。


<空>を撮る
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<空>と書いて<くう>と読み<そら>と読みます。

愛用の国語辞典で、<くう>を引くと、次のような注釈が記述されています。
1:そら。2:中身がないこと。から。うつろ。3:むだ。4:(仏)世の中の物事は、すべて仮の姿で、実体がないということ。

同じく<そら>を引くと、次のような注釈が記述されています。
1:天。2:天候。3:季節。時節。4:場所。方向。5:心持。6:中間。中途はんぱ。7:心の落ち着かないこと。うわのそら。8:根拠のないこと。9:うそ。いつわり。・・・。

ところでぼくが空にカメラをむけていく、直接の動機は、来迎図を見たことに拠っています。今年の8月9日だったかに、お迎え行事の珍皇寺へ行ったときに、寺宝だとして、天国と地獄の絵図が掛けられてあって、その絵図を見て、写真に撮って、ええ、二十数年まえにも撮った絵図です。実は地獄の部分を撮っていたのでしたが、ふと意識に昇ってきたのが、雲に乗るようにして降りてくる如来とその従者たちでした。

その曼荼羅を見て、そのイメージ世界を見て、空のイメージがふつふつと湧いてきたのです。かってこの曼荼羅を描いた絵描さんには、空に来迎の光景を想像しているのだと思ったのです。実作した絵描さんというより、その時代の文化環境がそうだったのだと思ったのです。ぼくには驚異でした。空を見て、来迎図を示す、そのことじたいへの驚きでした。

カメラという装置において、空を撮って、はたして空想、想像をしのぐイメージを作りたい。気分として、そのようなことが沸き起こってきたのです。これはぼくの想いであって、心の動きであって、仮想の空間です。カメラで作る写真は、現実に在るモノしか映らない装置が成した結果のモノです。かって空を見て、想像のイメージとして曼荼羅が、心に起こった結果として描かれた、このことに注目したわけです。さあ、そういうインパクトが、太陽だけが実在する空において、カメラで成しえられるかどうか、ああ、無駄な抵抗に終わらせたくないな~!


<洞>を撮る
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木の洞、樹木の割目、其処は黄泉の国への通り穴。この世で目に見えるものを、想像の世界と結びつける神話の成り立ちに興味をもちだして、その目に見える光景とか風景の前に立ってみて、こころがどのように揺れ動くのかを知りたいと思って、あえて記述されたような姿の前に立っているのです。

地の底は、夜見の国、黄泉の国、地獄、そこへの入り口&出口のひとつが樹木の割目だというイメージです。なるほど、不気味な心象に導かれます。苔むした老木の亀裂に、生の営みの果てる後のイメージを感じとります。写真にしてみると、谷底につながるイメージで、その光景がぼくに迫ってきます。

天には天を治める神があり、海には海を治める神あり、地には地を治める神あり、その神々たちのイメージに恐れおののき、崇めたこころを、ぼくは知りたいと思っているのです。逆行、退行、いろいろ言い方ありますが、方向感覚でゆうと、今様に生きる術は、このイメージから遠ざかることで、生活が成り立つ仕組みとなっているのです。

神の存在イメージをどう扱うか、現代文明の只今、経済構造の真っ只中で、たとえばここ近年、文明の対立ともいわれているアフガン、イラクの戦い現場のイメージが、宗教宗派の対立ではなくて、心の有り方の対立ではないのか、と思えてくるのです。そのような心境も含め、ぼくは写真を撮ろうとしている、と理屈つけようとおもうのです。

べべ>を撮る
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べべ、つまり着物のことを<べべ>というんです。京都弁なのかどうかしりませんけど、べべ、さあさあおべべ着て、ちっちゃな子供に言い聞かすと可愛げもあるけれど、なんとまぁ、ぼくはこの言葉に独特のイメージを彷彿させる。えろい感じとゆうより侘びし寂びしのニュアンスかなぁ。特に女性ものピンク系着物と着物下着には、開放的なえろす感覚よりもちょっと閉塞的なえろすを感じているようです。

神、神話のイメージを追って、昨年秋から神域へと足を運んで、写真を撮っているんだけれど、樹木、根、苔、地、石などなど神が宿っていそうな被写体を探しているところに、着物と桜の色がいっそう気になってきたのです。ぼくは文化のなかに二つの大きな流れがあって、一つは武士道にいたりて熾烈サラリーマン像に結実する流れ。そうしてもう一つの流れが、えろすのながれ美の世界だと考えていて、特にえろすの領域におけるヒトの心の危うさ、封印された向う側の開示のされかたしかたに興味をもっているのです。

風紀とか公序良俗とかの言葉に含まれるニュアンスは、暗にあちらを封印するためのバリアーだとして、神域における熨斗封印と同列に置いているのです。つまり人間の知恵が封印してきた領域を、その深みへと写真イメージを導いていこう、いやいや導くための手段だと思いをめぐらせているわけです。

今年にはいって、千年昔に書かれた源氏物語に興味をもった。かなり意識の表層に躍り出たというほうが適切かと思うけれど、昔も今も延々続く色恋物語のその中味に興味を持ったというわけです。神代の時代とゆわれるイメージ産物世界から、人間模様を導いたとき、大きな流れとしての武士道、儒教、禅、他力本願、その流れの一方にベベ文化を見てしまったのです。

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文化&芸術批評
2006.10.9~
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ここの枠組みの標題が文化&芸術批評となっているもんだから、書くことを躊躇してしまうんですね。ええ、外見のことを論じ語ることへの興醒めといった感じでしょうか。世の中の、世に中のあり方に対して、違和感を感じているんです。世の中のあり方に対して、なんてちっとも具体的でないのだけれど、この具体的でない事柄を具体化させていくことが、この枠組みの目的でもあるわけで、なんて思うと、もう絶句状態におちいってしまうのです。

こんなことを言ってることは、ちっとも生産的でない、と俗にゆわれているそのこと自体なんだと思うけれど、この思うことの根拠を明らかにしていきたいとの欲求が起こってきているわけです。まさに堂々巡り、下降のスパイラル状態だと、自分で言ってしまいたいほどです。

批評という行為が、ボクの外にあることを、外に向けて、クリアーな区分をしていくことだと考えているけれど、いまぼくが立っている処は、この外にあることを外に向けることへの懐疑だと思っているようなのです。外にあることを内に向けて、という方向が妥当なような気がしていて、この内に向けていくことが、批評ではなくて、文化&芸術の作り手、つまり批評家ではなくて作家の立場のようにも思えているのです。

ああ、なんてナンセンスなことを、いま書いてるんだろうという思いと、この混乱状態を整理しているんだ、という思いとが交錯して、いまぼくはここにいる。

空と海と地
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ここは文化と写真の批評空間として設定している枠ですけれど、ぼく自身の進んできている方向が、ちょっと混沌しだして、出口が見えてきて、入り口が見えてきたように思います。
テーマは「存在」、つまり「ある」ということ。そう思って初原の光景を想定したところ、どうも存在の原形は、空と海と地、その表面、皮膚、そこらへんにありそうだと思って、それで「空と海と地」の表面、皮膚を撮りだしました。
もうひとつは「痕跡」、つまり印です。足跡、過ぎ去るもの、これは時間の流れという概念に基づいているわけで、ここにはぼくの意識があります。

たしかに写真の被写体が多岐にわたり、姿あるものがそれなりに撮られてきたわけだけれど、ぼくの想いは原点回帰だと思っています。その背後にかいま見える光景は、生命ということです。生命体、有機体、命、生と死、たぶんこれが原点であって、この上に文化・文明といった枠組みが組成されてくる。一方で内面の感情についての興味もあり、二本立て二方向のテーマにそって、写真と文章を連ねていこうかしら、と思うところです。

生きているということ、意識をもっているということ、そのうえに組み立てられた様々な意匠がぼくのなかに広がっているようです。地面に立って、上を見上げれば空があり、真横を見れば海があり、下を向いたら地面があった。まあ、ぼくが二足で立ったその位置から、見えるもの、それをその時々に、記憶のための装置としてカメラを持とうと思うところです。


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このまえに<海と空と地>なんて区分したところですけど、<葉>を追加して、いま四つの枠というか、四つの形に区分したところです。ぼくがいま、ここで形という概念にこだわるのは、そのなかに身体という形を垣間見てるからです。
海と空と地の延長線上に、苔がり、木々があり、木々に葉があるわけです。ここでは地表の現象を現しているものを形という括りで、記述していこうと思っているんです。

という思考でいくと、次には花という括りがでてくるのですけど、これはもうちょっと後にします。ええ、苔も葉も花も生命体ではあるけれど、植物という類です。そののちに動物という類を考えていて、ヒトという枠を考えていて、♂♀という分類を考えていて、というように、全体として、ボクという形にこだわろうとしているのです。
ボクは、いずれ消えゆく身体ということを知っていて、消えゆくということに対して、どう対処し準備していくのか、という思いがあり、まあ、それまでの日々をちょっと暇潰ししていこうと思っているわけです。

今の時代ってゆうのは、自分の思ったことを書いて、ええ、いまここに書いているシステムです。送信すれば、それで人目にふれてしまうのです。なんという時代なんだろう、って思います。そういう時代を批評するというより、自分の日記を、他人が見るという前提で、ここにこうして書いていく。時代環境が変わってしまいました。メディアの激変だと思っていて、これを活用して、ボク自身を公開して残していこうと思っているんです。

ボク自身の全てを公開していこうと思っているなかで、まだまだ触れられないことがあります。面識あるヒトにはリアルなボクを想い起こしていただけるけれど、面識のないヒトには、ここの枠自体は匿名と同質なものです。面識あるヒトに、どこまでを公開するのか、という問題ですね。ええ、人間としての木の、ボクは葉の一枚としてあるわけですけれど、自分を公開するということに、やっぱり面食らっているのかも知れません。

世界に構造を
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夏のころから、ぼくの頭のなかで、世界の構造の部分部分を写真に撮って、アルバムを作ろうとの思いが生じてきています。ぼくが生きてきた環境を想うなかで、環境を構成しているモノについての想いです。最初に天と地が分離したそのふたつに<空と海>があり、その後<海と陸地>が生じてきて、そういう環境に生命が生成されてくるというイメージです。いいえ、ぼくが描いたイメージというよりも、科学的根拠をもって解説された書を読み、ぼくのイメージが広がってきたにすぎないものです。

<空と海と地>この三つが、生命を育ませるための器です。そこで、ぼくの被写体が、決まってきたというわけです。空、海、地の三つです。それから、生命を持った被写体として、ぼくは植物を置いています。苔、葉、花、ぼくのアルバムがこうして出来上がってきたわけです。このようにして構造化すると、次の枠組みは<動物>ということになります。でも、これはまだ、未着手です。

写真に撮るということは、ぼくがその場にいることを前提とします。この根拠を崩さないで、写真を撮り、写真を作ろうと思っています。カメラは、キャノンのデジタルカメラ、パワーショット500です。3年前に購入したカメラだから、今ならもう少し精度が向上しているおかも知れない。でも、当分はこのカメラで撮って、パソコンのハードデスクに保存し、縮小はするけれど、その他の画像処理加工はしないでおきます。今のカメラで撮った写真として、それでいいと思っているのです。

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自分というかたち-1-
2006.8.5
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昨日から夏の取材に入っていて、今日は北野天満宮へデジカメを持って撮影に出かけました。北門から入り、大樹の梢を撮り、巫女文子(アヤコ)の祠を撮り、本殿まわりに設えられた神々の末社を撮り、本殿を撮り、そうして石畳の参拝道へと降りていきました。

天神さんと呼んでいる境内は、子供のころの思い出がいっぱい詰まった場所です。ボクは、記憶を甦らせ、記憶の像を描き、その場所を求めていきました。夏休みになると、この境内でサマースクールが開かれていました。管内の小学生が沢山あつまっておりました。ラヂオ体操から始まり、もう忘れてしまったけれど、なにやら催しがなされていました。

その頃から数年後になると思います。1950年代後半のことだから半世紀前の出来事です。石畳の参拝道の、そう、写真のこの場所に、縁日には母が店を出していたのです。そのとき、この場所で、何を並べていたのか覚えていないのだけれど、縁日のお客だったボクは、そこに母を見つけて、見ていたのです。

遠い記憶の残像が、木漏れ日にゆらめく地面に立ち昇ってきたとき、ボクは、そこに母がいて、円満な微笑をボクに投げ返してくれている母のイメージを描きながら、カメラを向け、シャッターを切ったわけです。半世紀前の記憶の場所に立ち、いま、その場所を写真に撮る。痕跡と名づけるシリーズの、これは一枚として収められる。自分という「かたち」を求めて、ぼくはしばらくのあいだ、この世をさまよおうと思うのです。


自分というかたち-2-
2006.8.8
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1983年だから、もう23年前のことですが、<夢幻舞台-あるいは、わが風土->という写真とエッセイをまとめた本をつくりました。この取材に入る日、思い出したかのように、その本を取り出してきて、目を通しました。ああ、これの続きだな、そう思う気持ちが、沸々と湧いてきました。お盆のこの時期、2年前の2004年に写真を撮り、「夢幻舞台」とタイトルしたアルバムをつくりました。ふたたびデジカメを持って写真を撮りだした初めての夏です。

その本には、12葉の写真と4編のエッセイが載せられているのですが、ボクはこれを定本に、細部を埋めていこうと思っているわけです。京都シリーズの第一巻として1983年に夢幻舞台が発行されているのです。その延長線上にて、ボクのかたちを作っていく作業が始まるのだと思っています。その試みをあらためて認識したわけです。

自分というかたち、というテーマを設けています。履歴という年代記を軸にしながら、その時々の気持ち、考えていたこと、それらを今に引き寄せて、記憶を辿るという風に、作業してみたいと思っているのです。かなり強い衝動として、ボクの気持ちのなかにあります。

今日も朝から、千本えんま堂へ、取材にいきました。地域限定です。3回目のお盆行事だから、おおむねの細部はわかります。写真の撮り方も若干変わってきていると思っています。たぶん残された時間、生涯つきあうことになると思うボクのトポスです。


自分というかたち-3-
2006.8.11
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この夏の盆を取材中に、ボクはボクの墓所へいきました。ボクのお墓は日蓮宗本山本法寺の中にあります。昭和49年(1974年)に建立された墓で、墓石に刻まれた建立者の名前はボクです。平成元年(1989年)の春に亡くなった母(おふくろ)が、ボクたちの墓がなかったので、墓をつくってもらったということで、真っ先におふくろが入ってしまったのです。

本阿弥光悦の菩提寺という本法寺の正門は、上京区小川通り寺の内上がる。茶道の家元、表千家の狭い道を挟んだ前にあります。どうしてボクのお墓所が此処にあるのか、その経緯をボクは訊ねたことはありません。でも、おぼろげながら、積み重ねられた記憶を整理することで、その輪郭がわかるような気がします。ボクの素性、身柄というもの、血縁というもの、それを描いてみたいと思うのです。

ボクの父(おやぢ)の母、つまりボクの祖母のことから書いてみます。たぶん明治の後半生まれの祖母(おばあちゃん)は、ボクが高校一年(昭和37年、1962年)の秋に亡くなりました。おばあちゃんは西陣織の織子で、旦那の正妻ではない女性でした。大正九年に男を産んで、その後に女を産んだヒトです。旦那の家の名前は忘れましたけれど、この旦那の家の墓所が、本法寺なのです。

だからボクのおやぢ方の父にあたるヒトは、西陣の織物産業に関係していた家のヒトだと推測しています。戸籍上でおやぢは認知されているから、おばあちゃんは俗に言う二号さんだったのでしょう。ボクが今住んでいる場所に、おばあちゃんは戦争前から住んでいました。おばあちゃんは、手機を織りながら、三味線なんかを持っていました。けっこう風流ってゆうか、囲われ女だったのかと思います。

おばあちゃんが亡くなって、遺骨が旦那の家の墓に居候するかっこうで、納められていたようです。そこでおふくろが中川家の墓を持つために、旦那の家やお寺に掛け合って、建立者としてボクの名前が刻まれた墓があるのです。ボクが28歳のときに建立されたとき「繁夫の名前にしておいた」と云っていたおふくろの言葉を思い出します。


自分というかたち-4-
2006.8.12
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数年前の話しですが、ボクはボクの家系図というのを作りました。ボクを中心として、記憶を辿りながら、おふくろやおやぢの叔父さん叔母さん、それにボクのおじいちゃん、おばあちゃんの親戚とか、ボクの知る範囲での家系図でした。

ボクが生まれたのは1946年4月です。いま現在住んでいる場所で生まれたといいます。いまボクが住んでいる家屋は、おばあちゃんが住んでいた家屋の隣です。おやぢの母親の実家で、ボクは生まれたのです。おふくろの母は、末っ子を身ごもっており、おふくろの世話ができないので、おやぢの実家で生まれたのだろうと、推測しています。

ボクが幼少の頃、小学校へあがる直前まで住んでいた所は、中京区壬生馬場町。おふくろの父が烏丸六条で和漢薬店を営んでおり、今流にゆうなら、ボクの親は、そこで和漢薬壬生支店の店長だったわけです。おやぢの母、つまりボクのおばあちゃんが、その店を一度だけ訪ねてきた記憶が、おぼろげにあります。黒いマントを着た男のヒトが同伴していて、そのヒトのことを「おっさん」と呼んでいたんです。その「おっさん」と呼ばれたヒトが、おやぢの父親だったと、思うわけです。墓の持ち主だったヒトです。ボクからいえば、父方のおじいさんにあたるヒトです。

家系図のなかで、父方のおじいさん、それにボクのおばあちゃんの系図は、そこでぷっつり切れてしまいます。ボクを可愛がってくれることになるおばあちゃんの素性は、いまのところ全くわからない。何処で生まれたのか、何処でおっさんと知り合ったのか、名前はセイといい、カタカナとひらがなが読み書きできただけのおばあちゃん。いわば何処の骨とかわからない素性の孫が、ボクだったってゆうわけです。これが父方の家系なのです。


自分というかたち-5-
2006.8.26
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母方の系図ってのはどうなんだろう。おふくろの旧姓は井上、ボクから見ておじいちゃんの姓名は井上安蔵。烏丸六条に井上和漢薬店を営んでいました。たしか丹波の出だと、おふくろから聞いたように思うが、丹波笹山近くに住んでいたおふくろの叔父さん叔母さん、苗字は岡沢と名乗っているから、ボクのおばあさんの出生地だったのかも知れない。おふくろの生年は大正12年(1923年)だから、おばあちゃんの生年は、1900年ごろと推定できます。

おふくろとおやぢの結婚は、ボクの生年月日から推定して、昭和20年(1945年)まだ戦争が終わっていない時だと思います。仲人を介しての結婚だったと聞いているから、何かの縁あって所帯をもったのだ。新居は、壬生馬場町、朱雀第一小学校と壬生車庫の真ん中あたりの向い側、市電の走っていた道路に面した花屋さんの後の家屋だった。おやぢもおふくろも、市井の生活者という無名の男女だった。おやぢは建具職人で、おふくろは理容免許を持っていた。戦後の1946年に生まれたボクは、小学校に入るまでの7年間を、壬生馬場町で過ごすことになります。

自分というかたちを、ボクが知っていくための家系を詮索しているのですが、こうしてみると、ボクっていう身体の存在の輪郭が、おぼろげながら形作ることができるように思います。父方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性、母方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性。ボクには父がいて母がいる。父と母にも、それぞれ父と母がいた。ボクの祖先の直系は、おぼろげだけれど、そこまでしかわからない。それも記憶を辿ってフィクションしているにすぎない。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖



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アートのかたち-1-
2006.6.6

アートまたは芸術と言われるものに、今様の形を当てはめるとしたら、どうゆう形がのぞましいのだろうと、考えてしまうわけです。というのも、かってあり、今もあり続けるアート作品または芸術作品と言われるものの、その制作プロセスを思うとき、世の中のツールが変化した現在、新しいツールをもってアートの形が生じると思うからです。

インターネットに代表されるコミュニケーションツールがあります。双方向のネットワーク、リアルタイムのネットワークです。これが最新のツールです。かってあったアートの形は、個人の営みが基軸にあり、個別性を持って作品世界を作り上げてきたものです。制作の現場は、個人の密室だったわけです。

たしかにコラボレーション、共同作業という場がありました。教会建築をはじめ、映画やTV番組や、その他、共同工房をもって作品群を生み出してきた場がありました。しかし、この工房の形は、トップがいて、末端がいるという構造であります。また、役割分担をして全体をまとめるという構造であります。

いま、ここで考察したいのは、インターネットに代表されるネットワーク時代に入り、新しいツールを手に入れてしまった個人の位置の確認作業から、その関係性を見てみたいと思うのです。個を越えるコミュニケーションの形、と表現すればいいかも知れません。

ヒトは個体です。人間関係は個体と個体の関係です。で、この関係を繋ぐものが何かとゆうと、コミュニケーションツールなのです。インターネットツールが、これまであった個人の関係から、関係の場の形が変化したと思うのです。この変化の中味が、何なのかということを、まづはテーマにしてみたいのです。

アートのかたち-2-
2006.6.8

インターネットがリアルタイムのネットワークだとしたら、そこに成立するコミュニケーションもリアルタイムに生成してきます。

かってアートは、成しえた成果物を介在させて、コミュニケーションを図ったものです。あらゆるアートの形が、作品というモノを介在させてきました。手に触ることが出来、見ることができるアート作品、それらは美術館に収められてきました。あるいは出版物として紙の上に書き置かれました。また、ある一定の時間と空間を共有することで、成立してきたアート作品。たとえば音楽、たとえば映画、演劇・・・。これらのアート作品が共有されるとゆうことは、そこに作り出したヒトと享受するヒトが、共感することを意味します。つまりヒトの心と心の共有・共感関係なのです。これはリアルです。

近年には、体感型アート作品というのがあります。ホロスコープとか立体映像とかミラールームといった装置を使った、身体で感じ、五感で刺激を受け入れるといった感じのアート作品です。また、参加者のボディから生じる電気信号を、数値に変えたり、音に変えたり、映像に変えたりするアートがあります。これは無限に、リアルタイムで生成・変化していくアート作品です。これはリアル体験です。

音・音楽・音声といった聴覚において感じるモノ。絵画類・写真・映像といった視覚において感じるモノ。文字という記号で記された文・文章を読むことでイメージ・像を生成させる詩や小説といった類のモノ。おおむねアート作品は、これらを単体または複合させた形で、成立するのです。

さて、この延長線上に、インターネットというツールが出現しているわけで、聴覚、視覚、読み取る、の三つの作業が実現することになります。でもこのツールは、先に見たリアルではありません。しかし、リアル体験は生成させることが出来ます。だとすれば、インターネットならではのリアル体験とは、どのようなモノをいうのだろか。

アートのかたち-3-
2006.6.30

ネットワーク・アートのかたちは、個人内部の営みが表出されて作品が作られるというこれまでの制作過程と作品の有り方とは違って、ネットワークという共同体のなかで形成されていくかたちです。究極には、個人の作品というより匿名性です。とはいえ作業(制作と操作)をする個人がいるわけで、この個人を、コンピュータ(ロボット)が代替していく未来があるかも知れないです。コンピューターがアートするということは、大いにありうることです。

アートのかたちが、出来上がったモノではなくて、制作のプロセスだ!という捉えかたがあります。これは個人の営みの過程そのものを重視する捉えかたです。出来上がってきたモノは結果であって、プロセスに立ち会う個人の心のありかたそのものに重点を置いた捉えかたです。ネットワーク・アートというかたちは、その生成過程に携わる個人の心のありかたを重視する、というヒントを提示していると思われます。

またパフォーミング、演劇舞台、音楽舞台など、上演されている時間をもって、かたちが存在するものもあります。しかし、ここには演じる側と鑑賞する側という区別がなされます。もちろんその場に居合わせる観客をも巻き込んで、かたちになるというのも成立します。かって東京ミキサー計画なんてパフォーマンスがありましたが、これなど典型だと思います。

プロデュースし演じる主体があって、これを個人またはユニットの作品として認めるかたちから、匿名の作品としていく方向が、ネットワーク・アートとしては、いま求められている考え方です。個人の著作権利主体の現行システムでは、これはアートの範疇からはみ出してしまう概念です。アートのかたちが、変容していくとすれば、この匿名性を容認できる心理変容が求められると思います。

このようなネットワーク環境の変化は、一方で、アートという概念を変えていかなければならない時代です。詠み人知らず、作者不詳・・・。かってある作品の制作者が、その後にいたって判らない作品があります。個人名と作品が直結し、ユニットと作品が直結する時代から、いまや匿名性の時代へ、アートのかたちは移行しはじめているのです。

アートのかたち-4-
2006.7.10

ここでの問題は、アートしている場で、個を超えることができるかどうかです。あるいは<個を超える>とはどういう状態をいうのかです。個を超えるとは、トランスパーソナルということです。

この前から、アートのかたちを、想い、考えてきても、基本的には個人が個としてあることが前提の、上位的組み合わせ、あるいは下部的組み合わせの論でしかないように思えています。個を超えるとは、自我を消去することにつながるのだとの想いですが、個という意識のバリアーを外していくことなんですね。もともとこの自我たるもの、これを自分の中に確立した後に、消去していくことになります。こういう論議は、個の内面問題だから、系列化し比較対照し、推し量ることができない領域だと思うんです。

でもヒントがあるんです。つまりトランス状態になった個というもの。この状態をもって、個を超えた状態だと想定することができる。儀礼における特異な心の状態。これなんかが、ヒントになるかも知れないです。それと儀礼行為といえるかどうかはわからないんですが、セクスの最中の心と身体のありかた。トランス状態に入ったような儀礼の場です。

心理的には、日常でない状態にある心の状態。いよいよややこしくなってきたけれど、バランスが崩れた心の状態。もちろん感じるものだから、言葉でいい表すことがちょっと無理目なんだけど、そうゆう状態にあるとき、個を超えている、といえるのかも知れない。

何が言いたいのかといえば、ネットワークアートの生成過程において、結果として個の営みが基底にあるにもかかわらず、この個を消去することができるのかどうか、という問題なんです。アートしている、あるいはアートの真っ只中にいるときの、個のありかたなんです。というのも、現在のアートには、享受者にトランスパーソナルな状態に至らしめることを目的とする形があると思っているんですが、この場合、作り手としてのアーティストは、あいかわらず個としての存在のように察するからです。

では、作り手自身もトランスパーソナル状態になり、享受者もトランスパーソナルな状態になるアートの形とか、どんなものか。とか、このトランスパーソナル状態を、ライブに交信できるアートの形とは、どんなものか、とかを考えているのです。なんやそれやったらセクスの最中が、個を超えたアートやないか、と短絡的にはいいませんけれど、です。

アートのかたち-5-
2006.7.19

<写メールアートの試み>

最新の身近なハード環境を使って、写メール交換をおこなって、そのなかにアート性を見い出そうとの試みを始めています。すでに日常的に、ごく普通になされている行為を、写メール交換者は、これはアートだと思うことで、フィクション化しようとの試みです。つまり、意識的に写メールを交換することになります。

個人が個人の想像により全体を創りだし、それを他者に公表する、発表するということで成立してきたアート作品に対して、写メールアートの形式は、相互交換日記です。作品を構成する作者は、複数です。現在は二つの主体が受発信しています。

この受発信された写メールが、セットになってブログにアップされます。二つの主体間にて交換された画像と文章が、公開されるのです。この受発信された写メールが日々増殖していくという作品です。

ボクは、この写メールアートに参加しながら、その周辺にて批評・評論を試みています。このコーナーもそのひとつです。アートの世界には、作家と批評家、作品と批評、という関係があります。作品に批評が与えられることによって、作品の価値を定着化させる関係です。作者自身が批評者になる。近代アートにおいて、これまであった形式を分解し、ミキシングし、新たに生成させることを目論んでいます。

近代的自我とゆわれる個。この個を超えることができるか、という思いがあります。さて、どうなんでしょうね。自我・個が解体されるとは思えない。むしろ自我・個という自覚をベースに、クロスオーバー、あるいはオーバーラップ現象が生じるかも知れない。そういう予感なわけです。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

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