中川繁夫写文集

2014年08月

自分探し
  2007.9.19
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けっきょく、自分という存在を確認しようと思って、あれこれ詮索しているんじゃないか、と思っていて、その具体的な行動が、いまやっている写真を撮る、そのことなんだと、いちおう結論つけて、ここから再び、論が始まるわけです。人生60年なんて言っていた時代の感覚でいえば、僕なんぞはもう寿命が終わっているわけで、別に意識しているわけではないけれど、やたらとあの世のことなどに関心がでてきて、そこへの橋渡しをしたいような気持ちになってきて、きっとこれは永遠の時間確保のための詮索にちがいないと思ってしまいます。

人の成熟というか年月の重ね方で、区切りということであれば、20年単位というのが、大きな区切りで、20歳まで、40歳まで、60歳まで、それぞれの20年間に変化していく人生です。60を越えてしまうと、そこはもう未知の世界で、やっぱり自分探しをしているんですね。けっきょく一生かかって、自分って何、なんてこと考えながら、結論でないままに、あの世へともっていくのかなぁ、とも思ったり・・・。ここで、すでにぼくの思考は、終着点を出発点にするループに入っていて、うんうん、エンドレスなんやと思おうとしていますねぇ。

最近の写真は、今様来迎図をイメージしています。夏の最中にそのイメージがわいてきて、それまで、どっちかゆうと地獄の方に目が向いていて、そのイメージを模索したりしていたけれど、来迎図なんです。自分を探しているその先にあるのが、そのイメージであるようにも思えてきて、これが60歳を越えた直近の自分です。そうして見れば、来迎図なんて、若いぴちぴち女模倣のかたまり図であるわけで、あの世が桃色であると思うことで、安らぎ嘆き、それがこの世との橋渡しだ、なんて思ったのでしょうね、きっと・・・。


フォトする
  2007.9.28
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写真を撮るなんて言葉のニュアンスをイメージしているつもりが、いまどき<写真を撮る>なんて言葉、はやらないんじゃないかと、ふと思ってしまうのでした。そうしたら、いまどきなら、どうゆう言い方が妥当なんやろう、<フォトする>なんていい方が、コマーシャルであったような気がしていて、フォトする、そうですね、これがいいかも知れないですね。そこで、フォトする、って行為をひらべったくいえば、デジカメもってあちこちおもむくままにシャッターを切る。つまりフォトするわけです。

1976年ごろの話だから、すでに30年前のことですけど、ニコマートってカメラからニコンF2ってカメラに変えたころ、一眼レフ高級カメラを手に入れて、36枚撮りモノクロフィルムで撮りまくった。撮りまくったっていっても、普通は3本100カット強、10本撮って360カットですね。それだけ撮ると、あと処理が大変な労力、またはお金がいるんです。そんな時代の写真を撮った日々のことを思い出しながら、いま2007年。デジタルカメラの時代です。つい先日、2台目デジカメとしてキャノンのパワーショットA720って機種を買いました。1Gメモリーと充電式バッテリーをつけて¥39840でした。

なによりデジカメ、ランニングコストがいらないのは収入が極端に少ないぼくにとっては、すっごい救いで、毎日300~400カット、フィルムなら10本分前後を使うわけですから、処理お金に換算していったら、とてもやないけど、写真撮れへん、いいやフォトでけへん。それがデジカメで、あとの経費はほぼゼロです。そうゆう時代なんですね、いま・・・。あらためて、言い聞かせて、そうゆう時代だから、ね。だから、写真を撮るなんて表現は、もうやめてしまって、フォトする、なんてことがいいんだと思います。携帯電話カメラふくめ、だれもが日常的にカメラを持っている時代なわけですから、ね。


ふりだしに戻す
  2007.10.14
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こどものころ、すごろく遊びをしていて、ふりだしに戻る、なんて枠にはまってしまって、最初に戻ってしまう羽目になってしまうことがありました。すごろくは、すごろくをふって出た数をゴールに向けて進めていく競争で、早くゴールに達した人が勝ちというわけでした。いまさら、そんなこどものころの出来事を思い出してしまうのは、人生さまざま、すごろくみたいなもんやなぁ、そう思ってしまうんです。ゴールを目指しても、どこがゴールなのか、進めば進むほどゴールが遠い感じがして、けっきょくゴールなんてなくて、からだ消滅がまっているところが、つまりすごろく遊びのゴールかなぁ、と妙に納得してしまって、むなしくて、いてもたってもいられない、そんなとき、どうしたらいいのかしら。

これまでに何度もふりだしに戻ろうと思って、それなりにふりだしに戻って、再出発感覚で日々をすすめてきたことがあります。日々、時間なんて単調に流れているものですけど、そこに自分流気持ちが入り込んで、強弱、前へ進む、後ろへ後退する、なんてイメージで物事の流れをつかもうとしています。そうこうしているいま、なんかしら、ふりだしに戻る、なんて言葉がふつふつと沸いてくるんです。どこまで戻ろうかしら、なんて、戻りようもない時間を、戻ろうとしている。で、もし戻れるとしても、これが最後の戻りだろうなぁ、とふっと思ってしまいます。

そんなこと、こんなこと、いろいろ思い、言葉をつらね、そうして単調な時間の流れを、起伏ある時間にしようとしているんですね。むなしいったらありゃしないですね。もっと個別具体的に書かないと、ちっともすっきりしないですけど、こうしてぐだぐだ、いらだたしいけど、文字を連ねて、何かしら意味ありげに作っている、そうゆうことをふりだしに戻したい、人生もうこれまでだよ!

※掲載の写真は2014.7.30撮影です。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

今年のお盆
  2007.8.7
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今日は8月7日です。最近は毎年、8月になるとお盆の写真撮影について考えます。今年は、7月の祇園祭巡行が終わった日以後、京都の夏の写真を撮ろうと思って、日々カメラを持って写しているところです。そうして、今日からお盆のお迎え行事が始まる京都です。午前中に、千本閻魔堂へ様子を見にいってみようと思っています。お盆の頃の京都を眺めるぼくは、それらの光景を夢幻舞台と呼んでいて、アルバムにしているとことです。1983年の夏に取材し、夢幻舞台というタイトルで、小冊子だけど自費出版したことがあります。3年前にその続編のようなかたちで、デジタルカメラを持って祭礼の現場へ行き、写真に撮ってアルバムにしています。

そんないきさつもあり、今年となっているわけです。六道の珍皇寺界隈へも行っておこうと思うのですが、そうやねぇ、今日の午後からでも行ってみようかなぁ、なんて思っています。で、こうして行事を追いかけて、写真にして、いったいそれがどうしたん??、なんて考えてしまうのもこの季節です。いつも考えてるといえば言えますけど、夏の今頃、つまりお盆の頃、あの世とこの世の交感時期のこととして、やっぱり年々、生と死について思ってしまう。つまり肉体の衰えを自覚してしまう、死に向かっている自分を思っているのです。

まあ、60歳を超えてしまって、世間では還暦、赤ちゃんに戻るなんてこともいうので、そこまでは戻れないけれど、若い自分に戻った感じで、若い頃には決してできなかったテーマで、写真撮影しています。女の子が主役になる写真群です。まあ、いまさら恥も外聞もないじゃないか、なんて思って死に際にいたって、えろじじいの様相を帯びてきたなぁ、なんて思うところです。とはいっても、撮って発表する写真には限界があるので、限界以下のところはどうするのか、という問題を抱えているところです。今現在の解決方法は、別人を作り上げているところで自分の中で整合性を保っているといえます。

夏のおわりに
  2007.8.30
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今日は8月30日、もう暦ではとうに夏が終わっているのに、気分がなかなか切り替えられなくて、それでも月が替わるとなると、ひとつのけじめな気がして、いくつかの作業も終え、そうして始める準備をしている今日です。今日は雨、朝からしびしびと雨が降り出してきて、夏の風情は消えうせて、秋雨みたいな気分です。最近は、毎日、写真撮り歩きです。あんまり文章が書けない。このブログへも、今月は一回きりです。律儀なぼくは、もう一回、文章を書いて夏の終わりにしようと思っているところです。

9月から気分入れ替えてスタートしたい、と思っているけれど、なになにそんなに簡単に気分が切り替わるわけではないので、当分は、もたもた、こんな調子で、でも日々写真は、ちょっとお休みしようかな、とも思っています。なにせ取材対象が町角で、神社仏閣で、なにせ人を中心に捉えたいと思っていて、それがちょっときつくなってきた感じなので、自然体に任せようとも思っているのです。釜ヶ崎も白虎社も被写体となったのが人そのもの、その流れでいうと、ぼくの写真の被写体は人という流れが出てきて、この春以降、その現場を生み出してきた気がしています。

町角スナップという手法で、それが写真現場で有効なのか、それとも無効なのか、そんなことも考えながらの作業であって、表写真を撮っているけれど、インパクトないなぁ、とそんな思いもしているところです。

何のために・・・
  2007.9.7
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写真を撮って、文章を書いて、そうしてこのうようなウエブサイトに発表しているわけですが、いったいこれは何のため、という疑問に当たっていて、明確な答えが見つからない。もちろんこのような問いかけが、明確な答えを見出せないということは、経験的に知っているわけで、ある種ナンセンスな問いかけなのですが、やっぱりこだわってしまうのです。

暇つぶし、なんて思いたくはないけれど、結局そんなものかも知れないな、と思うと感情的に迫ってくるのもがあります。金儲けのため、とか人を喜ばすため、とか理由があってこそ、その目的が、何のための<何>になるからいいけれど、そうではないとき、困ってしまうんです。

たとえば100年ほど前に、パリにおいて写真を撮っていたアッジェは、絵描きさんのための下絵つくりとして写真を撮っていたというし、アメリカのアンセル・アダムスは、ヨセミテ公園の自然を絵葉書のようにして売っていたというし、まあ、目的とすればそうゆうところかと思います。でも、そうではない立場にいるぼくとしては、何のために写真を撮ってるの、と質問したら明確な答えが返ってきないから、困ってしまうのです。

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