自給自足ということ 2006.2.21~2006.5.20
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自給自足って、最近、よく言われています。経済システムのなかで、グローバル化する世界に対して、ローカル化を目指す、といったような感じだと思うんです。グローバル化の行き先は、生産力の集中だとも思います。生産力の集中は、権力の集中でもあるわけです。ここで語られる、もう一つのシステムが、自給自足。生産力の個人化、非権力の構造。自給自足の捉え方のベースには、そんなことがあるのではないかと思います。
食料生産の現場は、機械化が進み、ハイテク技術が導入され、大量生産がおこなわれています。地球規模でみれば、食料の自給自足を、最新技術を駆使してやっているわけです。じゃあ、ここでいう自給自足と、どう違うのでしょうか。資本の集中がいけないとか、大量生産がいけないとか、そういうことで反対してみても、時代の趨勢として、もう逆らうことが出来ない。無駄な抵抗はやめろ!なんていわれてしまいそうな感じです。
たしかに不合理なことは、多々あります。生産コストを下げるため、特定品種を大量に生産する。遺伝子組み換えや、家畜の改良、F1種の問題など、個人の感情レベルで納得のいかないことが多々あります。でも、もうあきらめの境地で、個人の力ではどうしようもない。だから集団で反対しようなんていっても、集団化できない環境でもあるんじゃないか。そんな感じがする世の中です。
ここでいう自給自足は、結局、自分を捉える手段として考えるしか、ないように思うのです。自給自足は、生産と消費を一体化するものです。地球規模で、自給自足をやってるとはいっても、生活者は消費者です。この消費者が生産者に転換する。この考え方が、自給自足のベースなんです。この視野を手に入れることで、何かが見えてくる・・・そんな感じがしているのです。
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消費者が生産者に転換する。そういうことではなくて、消費者であることと生産者であることが同一であること。消費者とか生産者という区分を無くした状態。自給自足とは、この区分を無くした状態だと考えます。
自給自足で、自然のままのものを採取する、漁獲する、これで賄えればいうことないんですが、これでは原始の時代というか、縄文時代の生活様式になってしまいます。たしかに話題として、原始や縄文時代を引き合いにだされますが、生活様式をそこから引用するということです。
自給自足を成熟させていく中心は、土地と食料の確保が、第一の条件になります。そのうえで食料確保のための道具類と住環境のこと。それと平行して理性と感情のことを、考えていく枠組みが必要なのだと思います。
この状態で、現状を思うと、食料自給の元になる<種>のことがあります。種をどのようにして確保するか、です。野菜の種の現状は、その生産の大元を、おおむね大手資本に握られています。自給自足のためには、大手資本によって作られた種を買うのではなくて、自主栽培種を使うことになります。
土地については所有権の問題があります。種の入手については、種の交換会とか、自主流通させるお店とかがありますが、もっと顕著化してこなければ、いけないと思います。一方で、自給自足の共同単位は、この土地の所有と、種の自給と循環システムをもつことが必要になります。
繰り返しになりますが、自給自足を成熟させるためには、土地の確保と種の確保。この二つが共有されるべく基本的条件になると考えています。
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わたし自身の、食料の自給自足レベルは、どの程度だろうと考えてみます。この自給自足の範囲は、基本的には貨幣にて交換する食料確保ではなくて、貨幣経済を通さないで得ることができる食料のことです。この限りでみると、わたし自身の自給率は、自分の所有地で採取できる山菜レベルにとどまります。季節の旬に採れる山菜、ふきのとうやのぶきなどですが、率的にいえば全体のほぼゼロパーセントです。
野菜の種を買ってきて、所有地に種を蒔き、収穫します。京都農塾というところで、共同でお金を出し合って、種を含む諸経費をまかない、収穫します。4人共同で一反の田んぼを借りてお米を作っています。もちろん諸経費を貨幣にて支払うわけです。このように原材料や設備確保などを貨幣にて支払うことを考えると、自給自足率はほぼゼロパーセントです。
先に、土地の確保と種の確保が自給自足を成熟させる条件だとしましたが、土地の借用と種の購買は置いておいて、生産と消費を直結させているということで云うと、お米は100%、野菜は70%程度を確保しています。土地の借地代金は支払っていません。これは土地所有者の善意により無償貸与です。所有者は田畑の管理ができなくなった高齢者です。所有権利を手放したくないけれど、田畑を休耕させて荒れさせるよりは、他人の力により実らせようという折衷です。微妙なバランスのうえに立った善意だと思います。
自給自足を貨幣経済構造のなかで、この構造から逸脱していくというのは、現状では不可能に近いと捉えています。そこで、次のステップでは、自給率をあげる方策を模索していきたいと思っています。貨幣経済に置き換える経済の仕組みは、贈与経済の仕組みです。
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「まるエコ」というのがあります。まるごとエコロジーの略で、まるエコです。そのまるエコを概念化して、具体的な現場に仕立て上げようという目論見が、まるエコ塾です。そこで、まるエコとはなにか、と議論するわけです。まるエコは、心の問題でもあり、経済の問題でもあると考えています。自給自足をめざす方向で、物事を捉えていくところに、まるエコという概念が描けるのではないか、と考えるわけです。
自給自足という考え方は、経済の問題であり、経済システムのなかで、そこから逸脱していく方向です。で、現在の経済システムはというと、生産と消費を分離したなかで、貨幣を介在として、商品を流通させることに要約できます。自給自足とは、生産と消費を一体化することです。そのことを具体的に考えていく道筋に、まるエコという概念がたちあがってくると考えています。
現実に、都会生活者が、農地や山林を手に入れ、自給自足を試みようとすると、必要な資金が要ります。ある種、膨大な金額です。この必要になる資金を持たない者は、どうすればよいのか。実は、まるエコとは、こお資金を持たない者が、自給自足を実現させていくための、ノウハウのことではないか、と思うのです。ここでは、まるエコの経済側面を捉えているわけだけれど、理念だけではなく、具体的な経済の現場で、どのように対処していくのか、が問われているのだと考えます。
つまり、まるエコ塾で捉える視点は、ムード的な心のあり方とか、食べるために給金をもらう労働の外に置く、というのではなくて、労働そのものを中心とした新たな経済システムを思考し、実践していく視点だと思うのです。自給自足は経済システムの変更であり、まるエコ塾は、その変更を具体化していくプロセスの場であると考えなければいけないと思うのです。
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自給自足って、最近、よく言われています。経済システムのなかで、グローバル化する世界に対して、ローカル化を目指す、といったような感じだと思うんです。グローバル化の行き先は、生産力の集中だとも思います。生産力の集中は、権力の集中でもあるわけです。ここで語られる、もう一つのシステムが、自給自足。生産力の個人化、非権力の構造。自給自足の捉え方のベースには、そんなことがあるのではないかと思います。
食料生産の現場は、機械化が進み、ハイテク技術が導入され、大量生産がおこなわれています。地球規模でみれば、食料の自給自足を、最新技術を駆使してやっているわけです。じゃあ、ここでいう自給自足と、どう違うのでしょうか。資本の集中がいけないとか、大量生産がいけないとか、そういうことで反対してみても、時代の趨勢として、もう逆らうことが出来ない。無駄な抵抗はやめろ!なんていわれてしまいそうな感じです。
たしかに不合理なことは、多々あります。生産コストを下げるため、特定品種を大量に生産する。遺伝子組み換えや、家畜の改良、F1種の問題など、個人の感情レベルで納得のいかないことが多々あります。でも、もうあきらめの境地で、個人の力ではどうしようもない。だから集団で反対しようなんていっても、集団化できない環境でもあるんじゃないか。そんな感じがする世の中です。
ここでいう自給自足は、結局、自分を捉える手段として考えるしか、ないように思うのです。自給自足は、生産と消費を一体化するものです。地球規模で、自給自足をやってるとはいっても、生活者は消費者です。この消費者が生産者に転換する。この考え方が、自給自足のベースなんです。この視野を手に入れることで、何かが見えてくる・・・そんな感じがしているのです。
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消費者が生産者に転換する。そういうことではなくて、消費者であることと生産者であることが同一であること。消費者とか生産者という区分を無くした状態。自給自足とは、この区分を無くした状態だと考えます。
自給自足で、自然のままのものを採取する、漁獲する、これで賄えればいうことないんですが、これでは原始の時代というか、縄文時代の生活様式になってしまいます。たしかに話題として、原始や縄文時代を引き合いにだされますが、生活様式をそこから引用するということです。
自給自足を成熟させていく中心は、土地と食料の確保が、第一の条件になります。そのうえで食料確保のための道具類と住環境のこと。それと平行して理性と感情のことを、考えていく枠組みが必要なのだと思います。
この状態で、現状を思うと、食料自給の元になる<種>のことがあります。種をどのようにして確保するか、です。野菜の種の現状は、その生産の大元を、おおむね大手資本に握られています。自給自足のためには、大手資本によって作られた種を買うのではなくて、自主栽培種を使うことになります。
土地については所有権の問題があります。種の入手については、種の交換会とか、自主流通させるお店とかがありますが、もっと顕著化してこなければ、いけないと思います。一方で、自給自足の共同単位は、この土地の所有と、種の自給と循環システムをもつことが必要になります。
繰り返しになりますが、自給自足を成熟させるためには、土地の確保と種の確保。この二つが共有されるべく基本的条件になると考えています。
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わたし自身の、食料の自給自足レベルは、どの程度だろうと考えてみます。この自給自足の範囲は、基本的には貨幣にて交換する食料確保ではなくて、貨幣経済を通さないで得ることができる食料のことです。この限りでみると、わたし自身の自給率は、自分の所有地で採取できる山菜レベルにとどまります。季節の旬に採れる山菜、ふきのとうやのぶきなどですが、率的にいえば全体のほぼゼロパーセントです。
野菜の種を買ってきて、所有地に種を蒔き、収穫します。京都農塾というところで、共同でお金を出し合って、種を含む諸経費をまかない、収穫します。4人共同で一反の田んぼを借りてお米を作っています。もちろん諸経費を貨幣にて支払うわけです。このように原材料や設備確保などを貨幣にて支払うことを考えると、自給自足率はほぼゼロパーセントです。
先に、土地の確保と種の確保が自給自足を成熟させる条件だとしましたが、土地の借用と種の購買は置いておいて、生産と消費を直結させているということで云うと、お米は100%、野菜は70%程度を確保しています。土地の借地代金は支払っていません。これは土地所有者の善意により無償貸与です。所有者は田畑の管理ができなくなった高齢者です。所有権利を手放したくないけれど、田畑を休耕させて荒れさせるよりは、他人の力により実らせようという折衷です。微妙なバランスのうえに立った善意だと思います。
自給自足を貨幣経済構造のなかで、この構造から逸脱していくというのは、現状では不可能に近いと捉えています。そこで、次のステップでは、自給率をあげる方策を模索していきたいと思っています。貨幣経済に置き換える経済の仕組みは、贈与経済の仕組みです。
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「まるエコ」というのがあります。まるごとエコロジーの略で、まるエコです。そのまるエコを概念化して、具体的な現場に仕立て上げようという目論見が、まるエコ塾です。そこで、まるエコとはなにか、と議論するわけです。まるエコは、心の問題でもあり、経済の問題でもあると考えています。自給自足をめざす方向で、物事を捉えていくところに、まるエコという概念が描けるのではないか、と考えるわけです。
自給自足という考え方は、経済の問題であり、経済システムのなかで、そこから逸脱していく方向です。で、現在の経済システムはというと、生産と消費を分離したなかで、貨幣を介在として、商品を流通させることに要約できます。自給自足とは、生産と消費を一体化することです。そのことを具体的に考えていく道筋に、まるエコという概念がたちあがってくると考えています。
現実に、都会生活者が、農地や山林を手に入れ、自給自足を試みようとすると、必要な資金が要ります。ある種、膨大な金額です。この必要になる資金を持たない者は、どうすればよいのか。実は、まるエコとは、こお資金を持たない者が、自給自足を実現させていくための、ノウハウのことではないか、と思うのです。ここでは、まるエコの経済側面を捉えているわけだけれど、理念だけではなく、具体的な経済の現場で、どのように対処していくのか、が問われているのだと考えます。
つまり、まるエコ塾で捉える視点は、ムード的な心のあり方とか、食べるために給金をもらう労働の外に置く、というのではなくて、労働そのものを中心とした新たな経済システムを思考し、実践していく視点だと思うのです。自給自足は経済システムの変更であり、まるエコ塾は、その変更を具体化していくプロセスの場であると考えなければいけないと思うのです。