中川繁夫写文集

2015年02月

自給自足ということ 2006.2.21~2006.5.20
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自給自足って、最近、よく言われています。経済システムのなかで、グローバル化する世界に対して、ローカル化を目指す、といったような感じだと思うんです。グローバル化の行き先は、生産力の集中だとも思います。生産力の集中は、権力の集中でもあるわけです。ここで語られる、もう一つのシステムが、自給自足。生産力の個人化、非権力の構造。自給自足の捉え方のベースには、そんなことがあるのではないかと思います。

食料生産の現場は、機械化が進み、ハイテク技術が導入され、大量生産がおこなわれています。地球規模でみれば、食料の自給自足を、最新技術を駆使してやっているわけです。じゃあ、ここでいう自給自足と、どう違うのでしょうか。資本の集中がいけないとか、大量生産がいけないとか、そういうことで反対してみても、時代の趨勢として、もう逆らうことが出来ない。無駄な抵抗はやめろ!なんていわれてしまいそうな感じです。

たしかに不合理なことは、多々あります。生産コストを下げるため、特定品種を大量に生産する。遺伝子組み換えや、家畜の改良、F1種の問題など、個人の感情レベルで納得のいかないことが多々あります。でも、もうあきらめの境地で、個人の力ではどうしようもない。だから集団で反対しようなんていっても、集団化できない環境でもあるんじゃないか。そんな感じがする世の中です。

ここでいう自給自足は、結局、自分を捉える手段として考えるしか、ないように思うのです。自給自足は、生産と消費を一体化するものです。地球規模で、自給自足をやってるとはいっても、生活者は消費者です。この消費者が生産者に転換する。この考え方が、自給自足のベースなんです。この視野を手に入れることで、何かが見えてくる・・・そんな感じがしているのです。
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消費者が生産者に転換する。そういうことではなくて、消費者であることと生産者であることが同一であること。消費者とか生産者という区分を無くした状態。自給自足とは、この区分を無くした状態だと考えます。
自給自足で、自然のままのものを採取する、漁獲する、これで賄えればいうことないんですが、これでは原始の時代というか、縄文時代の生活様式になってしまいます。たしかに話題として、原始や縄文時代を引き合いにだされますが、生活様式をそこから引用するということです。

自給自足を成熟させていく中心は、土地と食料の確保が、第一の条件になります。そのうえで食料確保のための道具類と住環境のこと。それと平行して理性と感情のことを、考えていく枠組みが必要なのだと思います。
この状態で、現状を思うと、食料自給の元になる<種>のことがあります。種をどのようにして確保するか、です。野菜の種の現状は、その生産の大元を、おおむね大手資本に握られています。自給自足のためには、大手資本によって作られた種を買うのではなくて、自主栽培種を使うことになります。

土地については所有権の問題があります。種の入手については、種の交換会とか、自主流通させるお店とかがありますが、もっと顕著化してこなければ、いけないと思います。一方で、自給自足の共同単位は、この土地の所有と、種の自給と循環システムをもつことが必要になります。
繰り返しになりますが、自給自足を成熟させるためには、土地の確保と種の確保。この二つが共有されるべく基本的条件になると考えています。
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わたし自身の、食料の自給自足レベルは、どの程度だろうと考えてみます。この自給自足の範囲は、基本的には貨幣にて交換する食料確保ではなくて、貨幣経済を通さないで得ることができる食料のことです。この限りでみると、わたし自身の自給率は、自分の所有地で採取できる山菜レベルにとどまります。季節の旬に採れる山菜、ふきのとうやのぶきなどですが、率的にいえば全体のほぼゼロパーセントです。

野菜の種を買ってきて、所有地に種を蒔き、収穫します。京都農塾というところで、共同でお金を出し合って、種を含む諸経費をまかない、収穫します。4人共同で一反の田んぼを借りてお米を作っています。もちろん諸経費を貨幣にて支払うわけです。このように原材料や設備確保などを貨幣にて支払うことを考えると、自給自足率はほぼゼロパーセントです。

先に、土地の確保と種の確保が自給自足を成熟させる条件だとしましたが、土地の借用と種の購買は置いておいて、生産と消費を直結させているということで云うと、お米は100%、野菜は70%程度を確保しています。土地の借地代金は支払っていません。これは土地所有者の善意により無償貸与です。所有者は田畑の管理ができなくなった高齢者です。所有権利を手放したくないけれど、田畑を休耕させて荒れさせるよりは、他人の力により実らせようという折衷です。微妙なバランスのうえに立った善意だと思います。

自給自足を貨幣経済構造のなかで、この構造から逸脱していくというのは、現状では不可能に近いと捉えています。そこで、次のステップでは、自給率をあげる方策を模索していきたいと思っています。貨幣経済に置き換える経済の仕組みは、贈与経済の仕組みです。
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「まるエコ」というのがあります。まるごとエコロジーの略で、まるエコです。そのまるエコを概念化して、具体的な現場に仕立て上げようという目論見が、まるエコ塾です。そこで、まるエコとはなにか、と議論するわけです。まるエコは、心の問題でもあり、経済の問題でもあると考えています。自給自足をめざす方向で、物事を捉えていくところに、まるエコという概念が描けるのではないか、と考えるわけです。

自給自足という考え方は、経済の問題であり、経済システムのなかで、そこから逸脱していく方向です。で、現在の経済システムはというと、生産と消費を分離したなかで、貨幣を介在として、商品を流通させることに要約できます。自給自足とは、生産と消費を一体化することです。そのことを具体的に考えていく道筋に、まるエコという概念がたちあがってくると考えています。

現実に、都会生活者が、農地や山林を手に入れ、自給自足を試みようとすると、必要な資金が要ります。ある種、膨大な金額です。この必要になる資金を持たない者は、どうすればよいのか。実は、まるエコとは、こお資金を持たない者が、自給自足を実現させていくための、ノウハウのことではないか、と思うのです。ここでは、まるエコの経済側面を捉えているわけだけれど、理念だけではなく、具体的な経済の現場で、どのように対処していくのか、が問われているのだと考えます。

つまり、まるエコ塾で捉える視点は、ムード的な心のあり方とか、食べるために給金をもらう労働の外に置く、というのではなくて、労働そのものを中心とした新たな経済システムを思考し、実践していく視点だと思うのです。自給自足は経済システムの変更であり、まるエコ塾は、その変更を具体化していくプロセスの場であると考えなければいけないと思うのです。
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自然の方へ 2006.5.20~2006.6.12
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<田んぼの風景>

自分が食べるお米を、自分で作る。自給自足と言うのだそうですが、農家でもない限り、そんなことは、できないこと。そう思っていたんですけど、オーナー制田んぼ。昨年から始めて2年目になります。

つまり、田んぼを貸してもらって、自分が食べるお米を、自分でつくることが出来るようになった。自分でつくることが出来る、とはいっても、田植えから稲刈りまでの全てを、自分でするというのではありません。

1反を四人で借りている。京都農塾のメンバーです。土地所有者の方から、無償貸与していただいて、お米を作っているのです。この田んぼの場合、減農薬栽培です。最初に除草剤をまいて、その後は農薬散布はしません。田植え、稲刈り、収穫後の保管などは、地元の専業の方のお世話になっています。

この一反の田んぼで、収穫するまでに諸経費が12万円ほどかかります。四人で割って一人3万円ほどです。収穫は480キロを目安にしていて、一人120キロです。いま米の消費量は、年間ひとり60キロといわれています。だから、二人分の収穫です。市場で買うより、かなり安いことになります。でも目的は、安く手に入れるということではなくて、自分の食べるお米の生産そのものに関わるということです。自給自足の始まりです。
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<自然農ということ>

自然農の特長は、ハタケや田んぼを耕さない、農薬や化学肥料はやらない、草(雑草)や虫を敵としない、ということです。別の観点からいうと、土を生かす農法、いのちを生かす農法だといえます。

このような定義をしたうえで、自然農による田植え、を体験しています。場所は滋賀県にある安土町。安土(あづち)といえば、ええ、安土桃山時代なんて時代区分されるときの、その安土です。つまり織田信長が、お城を築いた場所です。この安土には、ヨシ原がひろがる西の湖(琵琶湖の内湖のひとつ)があります。この西湖に面した場所に、自然農による田んぼ実験が始まったというわけです。

約一反(約300坪、約千㎡)を確保した田んぼの一角で育てた苗を、一本ずつ植え込んでいきます。一本植えです。もちろん手植えです。なにを言おうとしているかといえば、機械を使わない、ことを強調したいわけです。人力です、ヒトの労働力です。効率化、高収穫とかの尺度で測ったら、とんでもない低効率、低収穫だといえるので、一笑されてしまうことかも知れないですね。

ああ、もう発想と価値観の大変換をやらないと、理解するのが無理な世の中でしょうね。でも、自然農の取り組みは、飛躍しちゃいますが、ヒトが幸福になれる方法かも知れないです。いいえ、幸福(満たされた心)になるためのツールだと仮説しているのです。また、追ってここにお知らせしていきます。
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<石窯がほぼ完成 2006.4.24>
    
グループでパンを焼く石窯を作っておりますが、1年越し、ようやく、ほぼ完成にいたりました。火入れをおこない、もう窯自体は出来上がっているんですけど、外壁が赤土(粘土)で固めただけなので、どんな装飾がいいかなぁ、ってみんなで考え中というところです。

石窯をつくるプロジェクトだったのが、石窯を囲んでパンをつくるプロジェクトに変わります。月に一度程度集まって、ここでパンを焼くんです。ところで、最終、ここで小麦を栽培し、酵母を起こし、パンを焼くことを計画していて、全て自給自足で、やろうというのが目標です。

いまの時代に、食のことや環境のことなど、いろいろと見えてくるんですが、いい悪いは、言わないですが、手作りっていうのは、ボクは好きだし、推奨したいです。石窯を作った場所は、京都・亀岡にある赤熊自然農園の敷地です。
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<ふきのとう>
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豪雪だった冬のせいで、雪解けが遅れてしまいました。
ようやく雪が融けた地面から、ふきのとうが花芽をだしておりました。
春一番の山菜のかおりです。

ふきのとう-蕗の薹-は、野蕗の花芽です。
てんぷらにすると苦味が少なくなります。
でも、保存もきく「ふきのとう味噌」にして食べるのが美味しいです。

ふきのとうを水洗いして、ボイルして、水に晒して、味噌と炊きます。
味噌はしろ味噌でもいいし、田舎味噌でもいい、手前味噌でいいです。
お酒、味醂、お砂糖なんかを好みで加えて煮込んでもいいですね。
自然の恵み、ふきのとう。

<つくし>
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つくし-土筆-が地表からにょきにょきと萌え出てくる季節です。
つくしは<土筆>という漢字を当てます。
土の筆、土から突き出た筆、まさにそういう姿です。
つくしは、痩せた土地に群生しています。
つくしの親はすぎなです。
すぎなは野草茶として使えます。

つくしの料理法は、はかまを取ってあげて、湯がくだけです。
ポン酢、ゴマ醤油などをかけて食べます。
春の山菜、つくしです。

<のふきとみつば>
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今の時期、山に入ると山菜が採れます。ボクの家には、山菜が生えていて収穫できます。今の時期なら、野蕗とミツバが旬です。まあ、自宅の庭で採れるから、ラッキーといえばラッキーですね。
ところで、山菜採りが流行っています。都会に住む人たちが、自家用車で山へ行って、山菜を探して採ります。自然派生活を満喫するために、自ら採取しに出かける、というものです。

でもね、どうなんでしょ、いうなれば他人が所有する土地へ入って、山菜採り。それも片っ端から、根こそぎ採ってしまう。なんのことはない、盗人するわけで、根こそぎ採っていくから、だんだんと採取できなくなる。
あまりよろしくないことが、まま起こっているのです。

自然の方へ 2005.12.5~2007.2.8
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自然の方へ向かう生活を作り上げていく第一歩は、食べ物を自給する手立てを考えてみることから始まります。自然の方に向かう反対の位置に、工業的大量生産の方向があります。だから自然の方へ向かうための、農産物の自然化です。自然化とは、つまるところありのままに、自然のままに、という方向です。

<縄文>あるいはそれ以前の食料調達は、自然のままを拾い集める採取生活だったといいます。この調達方法は原始的だといわれます。つまり文明・文化とは、原始的な方法から、人間の手が介在し、機械が介在してくることで、進化とみなすわけです。で、ここで云う自然の方へ、というのはこの進化を逆行させる試みと云えます。

秋の山に入れば木の実がある。胡桃や栗や銀杏がある。それで全てがまかなえるとは思わないが、食料の足しにはなる。この程度の気持ちの方が楽だから、そのように気持ちを切り替えて、胡桃や栗や銀杏を採取する。そうして思うのは、その方へ向かう気持ちを大切にしたい、ということです。

食することを放棄して生命を維持できないのだから、人間の知恵として、なるべく楽して、安定したなかで食料を調達したいと思う。そのためには、稲作や野菜栽培が主流になる理屈はわかります。でも、自然の方へと移行させる原点は、採取生活を経験していくところから、始めたいと思うのです。
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いま求められていることの一つに、身体感覚を取り戻すことがあります。身体感覚とは、聞いて、見て、触れて、匂いをかいで・・・という感覚のことです。この身体感覚をよみがえらせるらせることが、ヒトに求める課題だろうと考えています。
風や雨など自然の音を聞くこと、四季折々の野山の光景を見ること、ヒトの心が自然環境の中へ広げられていくとき、そこは驚きと発見の場所です。なによりも自分が自分であることの発見です。

心が自然の方へ向くとき、それは癒しの部類かも知れない。日常の生活は雑多でストレスが溜まります。特に現代社会構造のなかで、サラリーマンをしているヒト及び家族なんぞは、お金に縛られて身動きできない状態です。心は飛翔したいと求めます。束の間の現実逃避する処は多々ありますが、すべてそれらは一過性の逃避です。
自然の方へということは、一過性の現実逃避ではなくて、ヒトのあるべき姿に戻してあげる方へいくことだと考えています。

商品経済の枠組みから逸脱すること・・・。理想形でいえばそのように言えるかもしれません。自給自足のなかで物々交換しあう方へ、です。いま大きな世界が行こうとしているグローバリゼーションの流れから逸脱すること・・・。ヒトのヒトたる心を取り戻すために、です。
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月刊現代農業(発行:農文協)の2月増刊号タイトルは「脱・格差社会<私たちの農的生き方>」と銘打たれて、「格差社会」を問い直し、「自然な暮らし」を推奨するといった特集が組まれています。アーバンライフとルーラルライフ、つまり都市型生活様式と田舎型生活様式があって、どちらかといえば、田舎型生活様式の方へとの案内役を担っている参考書です。

世界の大きな流れとして、環境破壊問題がクローズアップされてきて、テレビニュースなどで環境に関する国際会議の模様なども報道される昨今です。地球環境が壊れてしまう、地球温暖化、北極の氷が解けて海面が上昇する。今年の暖冬なんて、この壊れかけた地球が警告を発しているのかも知れない。そんなふうにも思える日々です。人間の生存をかけた環境問題です。とはいえ、大きな世界のニュースを知っても、他人事ではなくて、それに対処する自分を発見していかないと、意味がないのです。

この論には、<自然の方へ>とタイトルをつけましたけど、これはぼく自身の問題として、ぼくの生き方の、多少はそれなりの実行をしだしている現場から、シュミレーションしてみようとの試みです。個人のレベルで、捉えていかないと話は始まらないわけです。そうですね、ひとり一人が、自然の方へと歩みだすことで、地球環境を悪化させないための、少なくとも最大の効果が発揮できると思うからです。人それぞれに生活場があり、それぞれの立場があるわけだから、それに無理のないなかで、いかにして自然の方へ向いていくかを、考えるための、そうして実践していくための参考となれば、うれしいことです。

<田んぼの風景>
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自分が食べるお米を、自分で作る。自給自足と言うのだそうですが、農家でもない限り、そんなことは、できないこと。そう思っていたんですけど、オーナー制田んぼ。昨年から始めて2年目になります。

つまり、田んぼを貸してもらって、自分が食べるお米を、自分でつくることが出来るようになった。自分でつくることが出来る、とはいっても、田植えから稲刈りまでの全てを、自分でするというのではありません。

1反を四人で借りている。京都農塾のメンバーです。土地所有者の方から、無償貸与していただいて、お米を作っているのです。この田んぼの場合、減農薬栽培です。最初に除草剤をまいて、その後は農薬散布はしません。田植え、稲刈り、収穫後の保管などは、地元の専業の方のお世話になっています。

この一反の田んぼで、収穫するまでに諸経費が12万円ほどかかります。四人で割って一人3万円ほどです。収穫は480キロを目安にしていて、一人120キロです。いま米の消費量は、年間ひとり60キロといわれています。だから、二人分の収穫です。市場で買うより、かなり安いことになります。でも目的は、安く手に入れるということではなくて、自分の食べるお米の生産そのものに関わるということです。自給自足の始まりです。

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<京都農塾>

京都は園部に京都農塾という農の学び場があって、ぼくはこの3年間、京都農塾の塾生として、月に1回か2回、農作業の体験学習をしています。ぼくの生活根拠地は京都市内です。JR等での交通の便を考えると少し不便ですので、乗用車を使っています。国道では亀岡市街が混むので、京都縦貫道路を利用してしまいます。いまのところ帰農する、つまり農業者になるつもりはしていないのですが、京都農塾では、農業者になりたい希望者には、それなりの措置がとれるようになっています。アーバンライフを棄てて、専業農業者になるノウハウも備えた農塾です。

環境問題が話題になっていて、現在の都市部における一般的な生活態度を続けていく限り、環境に負荷をかける当事者となる。まあ、現状を環境破壊の悪とする立場ですが、この観点からいうと、環境にやさしい農作物をつくるノウハウで、塾生で共同作業をする。つまり善の実践をするという、まことに前途明るい、希望ある人生を送ることができる。ハッピーな方へ導いてくれる場、だといえると思います。化学肥料ではなく有機肥料を使い、農薬散布はおこなわず自然のままに露地栽培をする。そこで採れた野菜を、共同で料理して昼食にする。いくつかの生活態度の理想形を想定するなかにあって、まさにこの場は、理想形の入り口なのです。

ぼくは、アーバンライフからルーラルライフへ、都市型生活から田舎型生活へ、つまり<自然の方へ>ということは、このルーラルライフ・田舎型生活へと向かう道筋のことをいうのだと考えているのです。そのためには、環境問題知識に先立つ技術的ノウハウが必要であり、その実践場としてとらえています。でもしかし、それは表層の出来事であって、貨幣を使う消費者としての発想を、農産物つまり食べ物を生産する現場消費者であってはならないと考えているのです。生産と消費を一体のものとして得ていくとき、それは貨幣経済からの脱却を意味するととらえています。この脱却のプロセスこそが、ここでいう<自然の方へ>のテーマであるのです。
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自然の方へ 2005.9.13~2005.11.24
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人の住む環境が都市化し、自然環境が汚染され、身体だけでなく心まで蝕まれる現在です。そんな背景をもった私達の生活を、なにかと自然の方へ向けていこうとの流れがあります。
行政レベルで、グループレベルで、個人レベルで、自然の方へ向いていく取り組みがおこなわれています。ここでは、いくつかの事例をもあげながら、自然の方へ向かう現状を検証していきたいと考えています。

書店へ赴けば、自然の方へ向いた書籍や雑誌が数多くあります。
生活の根拠地を、直接、自然の中に求めていくノウハウを伝授してくれる書籍類があります。
山野を歩く楽しみや、山野草の採取と料理法。
野菜つくりの現場を紹介し、自家菜園つくりのノウハウを伝授してくれる。
自然食品のノウハウ、自然料理のレシピ、自然派生活の心得。

このように見ると、自然の方へ、というのがある種ブームになっている。
このブームに便乗し、あるいはブームを創りだすことで、経済活動を創りだす。
庶民は消費者、いつも消費を無意識に強いられる立場です。
ここでは、自然の方へというポイントを、生産者、生産の方へ、ということに置いていきます。

さて、そこから見えてくる現状と、あるべき未来を、考えていくのが、このシリーズの目的です。写真と文章を使って、自然の方へ向かうとは、どういうことかと問うていきたいと思います。
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都市と農村という、区分があります。生産者と消費者という、区分があります。この図式の中で、現代の私達の生活を、どのようにつくっていくのかと云うことを考えてきました。
私達の食料となる生産物を、また生活道具を、生産者と消費者をつなぐ流通のネットワークも沢山つくられてきました。俗に言う、生産者が良品を作り、消費者がその良品を手に入れるためのネットワークです。
その図式のなかで、生産と消費のネットワークが組まれてきて、かなりの成果をあげてきたと思っています。

ところで、ここで「自然の方へ」というとき、上記の関係ネットワークを、もう一歩進めていくことを求めるべきだと考えます。その求めるものは、生産と消費が一体となった生活スタイルの創出・生成ということです。なによりそこに重視しなければならないのが、個人の気持ちのあり方ということだと考えています。
消費マーケットである都市に居住している、生産現場である農村に居住している、この区分の中で考えるのではなくて、別の視点から生活のあり方を捉えてみようということなのです。

都市に住んでるから都会人、田舎に住んでるから田舎人、なんて区分しても、いまや生活様式は、根本のところ均一化されてきています。生活空間の表面・外観は違っても、生活道具なんて、均一化してます。
テレビや冷蔵庫、洗濯機や掃除機、衣服など、都会人も田舎人も同じようになっているのが現状です。
ビルや家屋の密集地に居住するか、自然環境のなか野山が目の前にある土地に居住するか。この自然環境に近いところに住むことが、ここでいう自然の方へ、の話ではないのです。

関係図式を、都市か農村かといった二者択一ではなくて、基本には心・気持ちのあり方を重視して、そこからの発想を試みていきたいと思うのです。
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自然の方へ向かう定義のひとつに、貨幣経済からいかにして遠ざかるか、という道筋を考えています。

そういうことからゆうと、自給自足という究極に向かうことが、自然の方へ向いていくことだといえると思います。個人的に、自給自足を考えると、自家菜園が必要になります。この菜園で、自然のままに野菜をつくる。そうすることで、少しは貨幣経済から脱皮できますね。

物々交換をする。自分の菜園で採れた野菜を人にあげて、その人の菜園で採れた野菜をもらう。こんな関係図式です。でも、個人として菜園を持つことってなかなか大変なことです。なにより土地が必要になりますし、管理するのも労力がいります。今の時代、だれでも出来るわけではないですね。そこで、共同運営の菜園があれば良い、との発想になります。

自然の方へというとき、自分の立ち位置を、消費者から生産者のほうへ向けていく必要があります。ここでいう消費者は、貨幣でもって商品を買う立場の人です。野菜などの食料を商品として市中に出回ったのを、貨幣を使って買う人です。この関係を少なくしていく方向です。生産と消費の関係を、自らの環境に創りだす必要があるわけです。

野山や里山へ出かけていって、他人の所有地で山菜類や木の実を採取して、それで自然の空気を満喫できるから、自然の方へ向いてる!なんてことじゃ~ないんです。そこで、生産と消費を一体のものにするという考えが出てくるのです。自然の方へ向かう気持ちを掻き立てるメディアの現状があります。でも、そこに自らが生産に携わるということを始めないと、自然の方へ向いていくことにはならないのです。
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滋賀県に湖国まるごと・エコミュージアム構想があります。その具体化、先端プロジェクトに<マルエコ塾> 構想があり、その塾長を担うことになりました。
この12月1日に開塾する運びとなったのですが、このまるエコ塾のコンセプトに、ここで云う<自然の方へ>という考えを置きたいと考えています。

自然の方へ・・・との指向は、時代の流れに逆行する側面と順応する側面があります。地球温暖化防止に代表されるエコロジーの流れから云うと、おおむね順応します。一方で、経済の世界潮流であるグローバル化という流れから云うと、逆行します。とはいえ、時代は大きくうねりながら国家施策として、また地方行政の施策として浮上してきているから、かってのような反対運動ではありません。

国家施策、あるいは地方行政施策としてのエコロジー化に対して、あえて云うなら、経済構造から脱却させる方向での<自然の方へ>。ボクがここで思考する<自然の方へ>とは、そのことを念頭に置いた方向だと思うのです。

まるエコ塾の内容生成に当たって、大きな枠組みで、このことを明確にしておかなければならないと思うわけです。より原理的なものを求めて、まるエコ塾は開始される。まるエコ塾は、単なる技術修得場としての塾ではなく、新しい理想郷を求めるムーブメントとして、捉えなければならないのです。※まるエコ塾は、2005年12月1日に開塾します。

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