中川繁夫写文集

2015年05月

フォトハウス写真評論-6-

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2004.07.19
写メの現在

写メってわかりますか?
携帯電話の写真機能を使って画像をメールで送ることです。
「写メする」っていうのが流通しはじめてるんですね~。

写真の現在的視点を確保していくのに、この現象をどのように取り込んでいくか。
これがけっこう重要な視点になるかな~って思っています。
コミュニケーション・ツールとしての携帯電話で「写メ」です。

写真制作者がより高い質感を求めてアート化していく道筋があります。
オリジナル・プリントへの方向ですね。

その流れからいえば、写メは写真制作の新しい方向をつくってきています。
個人の、自己と他者をつなぐ、あるいは分断する、インタフェース役割です。

遠方にいる個人へのメッセージは、
郵便での手紙に始まって、
文字によるメール(パソコン通信)になって、
いまは携帯電話で画像が添付できる写メールになっています。

この先には、画像の質が向上していくだろうし、
動画が主流になったりしていきますね。

こうした技術上の進展が新しい需要を生み出していって、
デジタル写真産業が拡大していきます。

でも、メディアとしての「写メ」の出現は写真のあり方を大きく変えていくと思います。
個人と個人のあいだのコミュニケーション・ツールとして、
言葉と画像が一体のものになります。
絵文字と画像の組み合わせで気持を伝える!!

他者へのメッセージとしての写メの使い方は
これから絵文字と組になって多様に拡大していくと思います。

そこに何を見いだすかですね。
写メは、失われてきた個人の存在感覚を、
あらためて得ていくツールとして機能していくでしょうね。

そのとき私という存在のありかを探ることができる、
コミュニケーション・ツールとなりますね。

写真という概念が大きく変化しています。

2004.07.20
写真は身近な表現手段

カメラで写真を撮って誰かに見せる。写真ってこのように使いますよね。
この「誰か」というのは不特定多数の人々のこともあるし、
好きな人へということもあるし、自分自身へというのも理屈上はなりたちます。

カメラの位置っていうのは、ふつうは自分の手の先までに置かれます。
そうして目で確認して自分の外に拡がる光景を撮るんですね。
自分という立場から捉えると、自分の身体があって、その先にカメラが在る。

自分とカメラの一体感と異物感ですね。
自分の身体の一部である「こころ」が異物として感じることがあります。
カメラは異物なんだけれど身体の一部であるように感じることがあります。

自己と他者という関係がさまざまな場面で論じられていますが、
たぶんにもれず写真もこの関係を有しているのです。
私とあなたとのインタフェースとしての役割を写真が持っている。

言葉と同じレベルで写真が自分の表現手段となる。
もう写真って決して特殊な装置でもなんでもありませんね。
言葉と同列にあります。

というのも写メールというコミュニケーション・ツールを引き合いにだしてのことです。
写メールでは、写真と絵文字と言葉の組み合わせです。
この三者の全体が私自身の表現手段として使われているのです。

デジタル化によって開発された携帯電話の「写メール」!
新しいコミュニケーション・ツールとして登場しているんだと思っています。
写真の新しい捉え方のなかに、このツールを付け加えたいですね。

写メール・・・これは写真の研究対象です。

2004.06.29
写真と文章

写真を語るのにわたしは言語、言葉、文章を使っています。
まさにいま、ここでやってることが、そのことなんです。

今日は「写真と文章」とタイトルしましたが、
「写真と言語」でもいいし「イメージと言説」でもいいんですよ。
「写真と文学」としてもいいわけなんですが、ここでは写真と文章です。
写真は「イメージ言語」なんていう言い方もされているんですけれどね。

ここでは写真の見方、捉え方という写真を語る語り口ではなくて、
写真というイメージと言語というものの関係を簡単に枠つけます。

写真に写った「愛犬」はそのものずばり「愛犬」なるものの姿が写真としてあります。
これを言葉で「愛犬」を伝えようとすると、なかなか大変ですね。
相手が私の愛犬を知っていてくれればイメージできますからことは簡単ですが、
そうでない場合っていうのは、いっぱい修飾語をつけて説明しなければいけないし、
そうしても実在の愛犬または写真に写った愛犬を語りつくすことって困難です。

これ、あたりまえのことなんですが、写真と文章の決定的な違いなんです。

言語や文の分析でメッセージとかコードという言葉を使いますが、
写真の場合「コードのないメッセージ」なんてバルトって言う人はいいました。
写真って直接性なんですね、
なによりも現物が本物ではないですが、その現物の形で確認できる。
そういう代物なんです、写真っていうのはね。

文章っていうのは、読んで(読ませて)イメージ化する代物ですね。
現物を目の前において会話するのなら、写真を前において会話する、と同じ構図ですが、
現物のないところで文章を読むときって、これはイメージをつくる空想領域でやりとりする。

写真に先行する言語、というのが現状の認識かな、と思っています。
コミュニケーションのなかに言語作用があって、
そのうえに写真でのコミュニケーションが成立する。

でもね、言語優先から、写真含む映像が言語と並列になるだけでなく、
映像だけでこころを繋ぐコミュニケーションが成立する・・・・

未来に向けてはその方向なんですね。
わたしはデジタル写真の将来的展開としてこの可能性を大きく開いたと、
このように仮説しているんです。
デジタル写真とデジタルネットワーク環境ですね、
これらハード環境が融合していくことで、中味(コンテンツ)が発信されていく、
そこにヴァーチャルではありますがコミュニケーションが成立する。

文学作品が読むことでイメージを醸成させて感動を起きさせるように、
写真がヴァーチャルネットワーク環境のなかで人のこころに感動を起こさせる。
そのような可能性を仮説しています。

わかったようなわからないようなお話ですがね(笑)

2004.07.23
写真と文章-2-

写真学校では写真表現を学ぶ、これ当然の話なんですが、
文章表現を学ぶ学校というのも同じレベルで考えています。

写真も文章も自己表現ということでいえば並列にあるツールです。
これに音楽表現をも加えたいところですが、いまこれは置いときます。

わたしたちは、学校教育で知識だけではなくて、
自分の気持をあらわす教育も受けてきています。
その教育の中心は言葉で表現することを基本トレーニングとしてきています。

ですから、写真表現が成立するというのは、言葉表現があって写真表現がある、
という図式が、社会の中での写真と文章の位置関係です。

でもそういう位置関係ではなくて、
写真と文章が、並列において一体のものとして表現ツールとしていく、
その方向がこれからの主流となるありかたではないかと思っています。

絵日記という自分を記録し表現する方法があります。
その方法のバリエーションとして、写真と文章を組み合わせることで、
自分を記録し表現していくという手法です。

現在の写真家としての写真、小説家としての文章、という枠組みではなくてです。
いま世の芸術概念のなかでの写真や文学という枠組みではなくてです。
また、写真や文章トレーニングを積むことでメジャー化、
つまり職業化するという方向ではなくてです。

日常生活のレベルで自己表現するためのツールとしての写真と文章です。
わたしの念頭には、写メールの使われ方があります。
この写メールでのコミュニケーションのしかたに興味があるのです。

写真学校をはじめますが、そこに集まってくる人たちを想定すると、
写真を撮ることでメジャーになりたい!という欲求を持つ人たちであろうと思います。
その欲求を持つ人たちが、その欲求にしたがってメジャーを目指すことを否定しません。

でも基本はメジャーをめざす以前の自己表現ツールとしての写真と文章です。
その表現技法をもって自分のこころのあり方を表にだしてあげる、というところですね。
このことが結果としてメジャーになっていくということは十分にありえることです。

大事なことは、写真や文章で自己表現していくことで、
自分の欲求が満たされていくことです。
得ていくものは自分のなかでの充実感と幸福感です。

フォトハウス京都HP

フォトハウス写真評論-5-
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2004.07.15
写真表現とは?その1

写真表現とはどのようなことを指して写真表現というのでしょうか?

読んで字のごとく、写真で表現することやないのですか?
そりゃそういうことなんですが、「何を」ということが必要でしょ?
じゃ~何を表現するんですか?
ムムッ、なんとなんと、何をって、そりゃ自分のこころじゃないですか?

じゃ~訊きますけど、こころってナンなんですか?
こころって人間の内側にある、ほれキミにもあるでしょ、そのこころだよ!
・・・・・・・・

そうですね、いま写真の表現の中味を問われたら「自分の心」
つまり自分の気持を相手に伝える手段として、写真というものを使うんですよ。
ひとまず、このように記しておこうと思います。

写真の公的な役割としては記録ですね。
文書と写真(映像)が記録として保存されていきます。
この用途は19世紀半ばのパリでのオスマン計画の記録や
20世紀前半の恐慌時の米国・農業安定局(FSA)の写真記録があります。

でもね、写真は個人の営みのなかから出てくるものです。
近代的個人というのは自分を社会的存在として自覚しますから、
写真は写真家と社会との接点なんです。

写真家と社会とのかかわりを写真家の側からとらえていくと、
そこには個人の考え方や捉え方が出てきます。
また、その時々の社会の中心的モラルに密接しているんです。

この中心的モラルに対して自分の位置を確認していく作業として
写真家は写真を使うことになります。
ここに表現という場所があるんです。
中心となるモラルに対してどういう位置を担保するのか、ですね。

写真家と社会の向き合い方が時代と共に変わってきます。
個人と社会との関係の形がそこには見て取れます。
そのような位置関係から言うと、現在は非常に個的(プライベート)になってきています。

カメラの普及だけでは捉えられない問題がここにあります。
ひとまず写真表現とは、自分の気持を表すことだ、といっておきます。

2004.07.16

写真表現とは?その2

写真表現とは自分の気持を表すことです、と規定しました。
そうするとこの「気持」ということが何を指すかですね。

わたしは情動、情を動かされるものに注目しています。
この情動のところが感情を形成し気持をつくりだすとしたら、
もう論理の世界では計り知れないです。
このようにして考えてくると、
写真表現とは、自分の情動をとらえることが必要だということになります。

むかし洞窟の壁面に絵を描いた痕跡を、見ることができます。
ここでの注目は、その絵を描いたヒトの衝動というか情動というか、
その行為をつき動かせていた心の営みそのものなんです。

例えば高松塚古墳やキトラ古墳には、
死者への守りという描く目的があったと考えますが、
その制作者の意識の奥の深いところにあった情動に注目するんです。

いま写真家はカメラをもって絵を描く人です。
写真は死者への贈り物ではなくて生者への贈り物です。
それは何よりも私の気持を贈りだすものです。

たしかに一枚の写真には論理世界の認識が込められています。
戦争はいけません、の立場から、その「いけません」の態度表明として、
写真をその文脈に整理して他者に贈りだすものです。
なおその背後には、被写体が置かれている歴史的意味をも贈りだします。

ロラン・バルトは、教養文化のなかでの理解のされ方に着目もしていますが、
<私を突き刺すもの>としてとらえる捉え方を提示しています。
バルトの、この立場は写真を見る側の立場として述べられていますが、
わたしは写真を撮るということのも被写体を選ぶ目安となるものだと思っています。

現代の写真が、教養文化のなかで理解されることを前提としたうえで、
そこに、私を突き刺してくるもの、をメッセージとして込めるものだとしたら、
はたして教養文化の文脈をどのように扱うのかが、
写真家に意識されなければならないと思います。

でも、未来を志向する写真の役割が、
必ずしもそういう完璧さに裏打ちされなければならない、
という前提にはならないような気もします。

インテリジェンスに裏打ちされない立場で、
カメラを情動発露の道具として使っていくというのもあるのかな?
そこから生み出される写真が未来志向の写真なのかも知れないな~
このように思うことにも、最近は強度が増してきています。

2004.07.17

写真表現とは?その3

写真を撮ることって非常に個人的な作業なんですね。
写真を撮っていくことで表現するというのは個人的なんです。

映画やTVで制作する集団作業とは少しちがいますね。
会社勤め(パートタイマー、フリーター含め)の集団作業でもないですね。
そういうことからいうと、写真を作る作業は、プライベート作業です。

いま個人が、自分の居場所がわからなくなる、という訴えを聞きます。
自己と他者との関係が掴めないという自覚です。
自己と他者との境界面をインタフェースという言い方しますが、
写真を撮り他者に見せることがこのインタフェースの役割をはたしている。

自分を見つめる、抽象的な言い方になりますが、自己を観察する行為。
この観察する手段としてカメラの目があるように思います。
自分という存在がいったい何者なのか?というような問いかけですね。

このような問いかけは、今はじまったわけではなくて、昔からありますよね。
西欧哲学の源流から近代哲学まで・・・
東洋思想の源流から近代思想まで・・・

写真表現もこの文脈上に置かれていると思っています。

これまで、この系のなかにおいて「写真表現」というのもカテゴリー化されてきました。
現在は、デジタル写真が隆盛をきわめてフィルム写真にとって換わる時代です。
としても、これは書式形式の変換の部分ですね。
人と社会構造の表層部分ですね。

写真表現は言語表現ではないからといって、
写真表現だけが固有に在るとはいえないです。
哲学や政治学の潮流と接触しながら、
まだ現在は、言語によって基本理解認識をする人間の時代です。

でも、内面と外面のインタフェースとして、
こころのなか、情動の源泉を表出していくことって、言葉では届かないですね。

この言葉ではできない感情レベルでのイメージ交換が写真です。
そこの場にこそ、プライベート・ツールである写真の現在的意味が垣間見えるように思います。

フォトハウス写真評論-4-
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2004.07.11

写真とこころ-心-

写真っていったい何なの?
という判ったようで判らない話をいろんな角度から話題としています。

写真について、いろいろとテーマを羅列していくことでおぼろげながらでも
「写真の現在」という立場を浮上させられたらいいな~と思っているんです。
そこで今日は、写真と人のこころとの関係の外形を少し探ってみたいと思います。

人の「こころ」の解明ということが現代的なテーマとなっています。
生命科学の領域で脳の構造解明や記憶生成のメカニズムなどがあります。
心理学の領域では無意識領域の深層の解明などがテーマですね。

これまで非科学的な領域とされていた宗教や芸術領域というのも、
科学的手法で論じられるようになってきているように思います。
科学の現代的なテーマのひとつが「こころ」の解明に向かってきていると思います。

人間とは何ぞや、という問いが永年の課題で、
これは哲学や文学の立場から思考されてきました。
現在では人間の二面、身体と心(精神)を統合していく方向で
「こころ」とは何ぞや?ですね。

写真という手法が現れてきたの19世紀半ば、写真もこの問題を孕んできたんですね。

写真を撮ることと見ることの間に、コミュニケーションが成立するという立場からは、
写真の介在は、こころとこころのコミュニケーションの形、として論じることができます。

では、こころとこころのコミュニケーションの形ってどういうことを指すのでしょうか?

これまで言語学・言語論の立場を援用しながらの写真論として語られてきたんですが、
いまこれからの論立てはこの拘束から解かれていくようにも感じています。

個の立場ということを基軸に置いた論から共同の立場への移行かとも思います。
個が個であって、自己と他者との明確な分離のなかでの言語・写真の立場が、
微妙にづれてきているのではないかと思うのです。

自己と他者という身体性を基本においた論から解き放たれて、
こころが交わる磁場のような場所でのコミュニケーションの成立ですね。
自然現象や生命現象の全体性のあらたな組みなおしにもつながるものです。

このことは感覚・感性のあり様の捉え方の移行のなかで、
個を超えるコミュニケーション、
境界のない意識感覚の発生としてとらえられないでしょうか。
写真がその先鋒に立っているのではないかとも感じています。

かってあったメッセージの他者への伝達という方式で捉えることが困難な写真群。
プリクラ、写メール、デジタル写真の時代の写真群。

写真においてコミュニケーションの形が変容してきていることは確かなようです。

2004.07.13

写真と宇宙(1)

なぜ写真学校のはなしに宇宙なのか、というとですね。

写真を勉強するというきっかけによって、
参加する一人ひとりの時間と空間が変化して
新たに一つの場所が出来るわけですね。

写真ワークショップ京都という学校は、狭い限定空間としての教室(対面講義)です。
通信制のあい写真学校は、ネットワーク空間としての教室(通信講義)になります。
そういうふたつの学校形態を想定するなかで出てきたのが<宇宙>です(笑)

写真という場が拡がって最大限拡げてみたらどのへんまで拡がるのかな~
そうしたら<宇宙>というイメージにまで拡がってしまった、というのです。

写真という装置をつくる基本はカメラという箱です。
このカメラという箱は物理科学の領域で組み立てられています。
ですから宇宙を物理の領域で捉えて、写真と宇宙をドッキングさせます。

岩波新書に「ハッブル望遠鏡が見た宇宙」という本があります。
そこに「ハッブルの最深宇宙像」という写真があります。

その写真の一点を矢しるして写真説明に
「宇宙誕生から6億年」のときの銀河ではないか、とあります。

つまり宇宙誕生から140億年」といいますから、
今から134億年前の光が捉えられた写真!!です。

たぶん人類が見た一番遠いところです。
それもコンピューターの合成写真とはいえ可視光線なんですよ。
コンピュータグラフィックではないんです。

この視点から写真を見ると、
写真は発明のときから、
遠くのものを近くへ引き寄せる道具として使われてきたんです。
そして現在といっても10年ほど前(1994年)に、
「最深宇宙像」にまで行き着いた遠さなんですね。

今日は写真の行き着いたマクロな世界を見てみました。
次回は人体の内部に入った写真、ミクロな世界をみようかな~です。

2004.07.14
写真と宇宙(2)人体

宇宙がマクロの世界だとすると、人体というのはミクロの世界です。

電子顕微鏡で遺伝子を撮影する、
電磁波で子宮内部の赤ちゃんの生成を撮影する。
そういう微粒の世界や透視で内部をみることの出来る装置と技術が確立されてきています。

人体内部の物質が写真に撮られている、ミクロな世界を拡大して写真にする。
そこから生み出される画像を「静止画」といっていますが、写真ですね?

写真の定義で、なにをもって写真とするのか、ということを話題にしましたけれど、
大宇宙も人体内部も、現実に物質として存在する「もの」を撮っています。

写真装置は、カメラ(暗箱)とフィルムのセットから、
今は、光のデジタル信号変換とコンピューターのセットになってきています。
写真の拡大の現在の状況ですね。

これらの写真は写真装置も含め、近代科学の進歩の成果です。

写真というものが、遠くのものを近くへ引き寄せる道具の役割を担ってきた、
という社会における写真の役割論があります。

写真発明以後の時代には、
探検写真家がカメラを携えて旅行に出かけて写真を撮りました。
写真家は旅先で見た光景を写真に収めてパリに持ち帰ってきて、
写真をみた市民たちが好奇心をかき立てられるということが起こりました。

一般には、現在においても、このような写真の使われ方が主流であるかのようです。
宇宙や人体内部にまで入り込んだ写真。
まだ見ぬ世界を見たいという好奇心を満たしてくれる写真の存在なんです。

写真は記録であると同時に学術的価値を提供するものでもあったわけです。
宇宙開発の現場で、医学の現場で、農業の現場で、社会の隅々で、
近代科学の枠組みで、研究開発の只中で写真が貢献することは多大です。

でも写真、写真表現っていうときには、ちょっと違った意味をもってきますね。

ここでは様々な切り口で試論の入り口をつくってきています。
写真というものが持っている用途があまりにも多様化しているから、
その多様性のそれぞれを分類していく作業でもあると思っています。



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