中川繁夫写文集

2015年07月

ぼくの写真史-5-

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2004.11.3~2004.12.6
  nakagawa shigeo

<R・バルトの「明るい部屋」>

写真についての覚書、っていうと思い出すのがロラン・バルトが著した「明るい部屋」という文章。1970年代の後半から1980年代に入って、ぼくが写真論に興味を持ってくるなかで、いちばんインプレッションを与えてくれた評論です。

そこには、針の挿し穴、とでもいえばいいのでしょうか、プンクトウムという言葉がありました。こころを刺してくるもの。一枚の写真の見方、読み方の方法を説いた論説です。写真を見て、こころに感じるもの、これが解析の糸口になる。

それからぼくは、写真への手紙・覚書という(未発表)文章を書きました。書き始めは1988年、書き終わりが1994年、あしかけ6年の時間をかけて、何度か書き直して、いま手元にあります。何人かにこの文章を読んでいただいて明確な返答はございませんでした。でも、一人だけ、感じてくれたヒトがありました。感じたショックで言葉が出なかったといいました。2001年のことです。ぼくの写真論の基本的発想は、この文章のなかにあります。いずれこの論、写真への手紙・覚書が成立してくるいきさつを書き記したいと思います。

新しい世界が目の前にきています。この新しい世界到来の予感を察知します。まだ言葉にならない感じ、感覚なんです。来るべき言葉のために!なんて中平卓馬氏がいったのは、1970年だったかしら?もう35年前ですね。そのころ彼が予感したもの、それがいま到来しているのかも知れません。

ぼくが1968年にこだわるのは、この新しい言葉が生み出せるかどうかを試し、知りたいからです。でも、1968年を捉える視点が定まらないまま、いまにいたっています。

写真を撮る、単純な作業といえば単純なんです。なのに写真をなぜ撮るのか?なんて考え出すとけっこう複雑になってきますね。こんな単純な写真を撮ることについて、ぼくって単純なことなのに、こだわってしまう癖があるようなんです。

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<出発は、写真は記録だ>

写真を撮りだした最初のころ、1975年ごろから1978年ごろまでの3年間ですね。このときっていうのは、写真を撮る技術処理に熱中していたようです。でも、何を撮るか、というのが伏せられたまま、写真雑誌に載ってる写真を真似してみたり、先輩たちの写真を真似してみたり、修練の場は撮影会であったり、月例に出して順位をつけてもらったり、そんなこんなの混沌としたなかで、写真というものと向き合っていたようです。ぼくの出発は、写真は記録だ!というところからです。

名取洋之助という人が書き表した「写真の読み方」だったですか、岩波新書の本。この新書を何回も読み直していたように思います。それから達栄作さんとの会話というか議論というか、この場でしたね。写真は記録である、と思っていました。この記録である、は今のぼくの基礎概念でもあると思っています。

でも現代の写真って、それだけでは理解できないということもあります。現代美術という範疇での写真の捉え方です。実際には、現代美術っていうのがよくわからないんです。よくわからないから、自分で理解していくために文章を書いています。でも、その世間の評論世界でいわれている現代美術についての理解ができないんです。現在の写真をどう理解したらいいのか、ということも正直、わかりません。わからないから、ああでもないこうでもない、こんなことやろか、なんて思いながら文章にしているんです。

ぼくの中にイメージがいっぱい沸いてきます。そのイメージの原形は、これまでに見た写真であったり映画であったりTVでみた映像であったり、です。現実に目でみた記憶もありますし、絵本や絵巻物、絵画というのもあります。文章を読んで、そこからイメージされるものも、原形はそれらのイメージの組み合わせです。文章または言葉とイメージが交錯してアニメーションのようにぼくの頭の中をめぐっています。そのイメージを言葉にまたは文章にしていこうとしています。イメージ全体の部分を言葉に置き換えていく作業とでもいえばいいでしょうか。

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写真イメージはそれらの一部です。過去に捉えられたイメージを紡ぎ合わせながら、現在の文章を書く原形イメージを作り出しています。そして枠組みをつくって、その枠組みに見合う写真を選び、文章を書いているのです。いつも何をしているのか不明です。明確なことは、今時点の時間は、この文章を書いています。それ以外に明確なことはありませんね。文章を書いていますが、その書いている自分の根拠がないんです。こういうなかで写真を撮ります、文章を書きます。

今日は、午後から田舎へいきます。明日の昼には近江町市場へ買出しにいきます、夜には義妹が訪ねてきます。明後日の夜にはこの場所に戻ってきます。この2泊3日の行程中にぼくは写真を撮ります。どんな現場があるかはいってみないとわかりません。でも、いく現場は確定しているんです、ぼくと彼女の田舎の住いです。そこにある木々や草のたたずまい、この季節だからだいたいの予測はイメージできます。その場所を記憶してますし、この季節を何遍も経験してるから。

一定のカテゴリーに収めて枠つけて、その範疇で行動しようとしています自分です。ぼくの意識と現実目に見える光景とのはざまで、ぼくは何をしようとしているのか?わからないですね~、ホント。

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ぼくの写真史-4-

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2004.11.3~2004.12.6
  nakagawa shigeo

<近況まで>

最初に写真に興味を持ち出して、実際に写真を撮り始めてから、すでに30年を経過しつつあります。1975年の春に大学を卒業して、学費が要らなくなったお金で、ニコマートを買ったんです。でもこの30年の間、ずっと写真を撮っていたかとゆうと、実際に撮ってたのは1984年までの10年間です。

1984年から2003年までの20年間というのは、写真を撮ってないです。1984年3月の最後の週に、大阪現代美術センターで「写真の現在展’84」というグループ展があって、この展覧会出展を最後に、写真を撮らない宣言(とういっても自分だけの宣言でしたが)をして、10年間休止を決めたんです。ええ、その間は旅行の記念写真も撮らなかったです。人にシャッター押すのを頼まれても断りましたね。

それから10年が経った1994年8月、いまボクの撮影現場になっている金沢の山手に家を建て、そこではもっぱらビデオ撮影をしました。2000年になって、ネガカラーでぼちぼち気の向いたときに花の写真を撮る、程度のことをしていました。再びの撮影開始は2003年10月です。キャノンのデジタルカメラを買ってからです。それから1年が過ぎました、今日は2004年11月3日です。

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ざくっと写真撮影の自分史を記しましたが、写真へのかかわりというか、写真への思いは、消えなかったですね。1984年11月に「フォトハウス」構想を打ち出しました。1985年の夏から約4年間、フォトハウス主宰のワークショップを開きました。1992年10月には、大阪・南森町に畑祥雄さんと共同で、写真図書館を創って、この図書館を運営する会社、写真文化研究所の設立にあたり株主となりました。1994年4月から1996年3月までの2年間、大阪ビジュアルコミュニケーション専門学校の副校長となりました。公的には写真教育の現場に出たわけです。つまり写真の業界に入ったことになります。

そうこうしている2年間でしたが、1995年の春に新しい学校、大学院レベルのアートスクールを創る話が持ち上がりました。そして1996年4月、インターメディウム研究所・IMI大学院講座が開講します。IMIの株主兼取締役の事務局長として2002年7月までの6年間を執務したんです。このIMIでは写真から一気に、現代アート領域にまで拡大しましたが、写真図書館が併設していたこともあってか、自分の足場は写真だ、という思いがいつもありました。

2002年の7月に、訳あってIMI辞職を決意してフリーになりました。そのときにはすでに、綜合文化研究所と、新しい写真学校を創りたい、との思いをもっておりました。新しい写真学校は、写真単独で存在するのではなく、また、アート領域だけに存在するのではなく、もっと広い視野から写真を捉える学校として構想しておりました。こうして2004年4月には通信制の「あい写真学校」を開校し、10月にはギャラリー・DOTの岡田さんと共同で「写真学校/写真ワークショップ京都」の開校にこぎつけました。これがボクの現在地点です。この30年間の詳細は、ぼちぼちまとめていきます。

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<釜ヶ崎のこと>

少し、釜ヶ崎のことについて記していきたいと思います。1978年の秋のことです。ボクは「都市へ」をテーマに、大阪の町を撮影にでかけました。郵便局に定職をもっておりましたから、撮影は土曜日の午後です。天王寺から飛田を経て釜ヶ崎に至る。取材時間は午後3時ごろから5時ごろまでの2時間程度でした。

もう何遍も釜ヶ崎の三角公園界隈でカメラを持ち出して写真にとった頃、11月だったと思います。若い人に声をかけられました。名前は岡さん、といいました。岡さんは、この地でケースワーカーをしているとのことでした。不就学児童のケースワーカーです。そうなんです、学校へ行けない児童の相談員です。彼はボクを近くのアパートへ連れていってくれました。3畳一間で日払い500円、月換算で15000円です。ホームコタツがあり、それだけでもう部屋は満杯状態です。その部屋は近くの子供たちのたまり場でもありました。

今池こどもの家、という児童館がありました。そこが閉館になった時間以後、O\岡さんのアパートへ押しかけてくる。小学校3年生から6年生までの女子が数人やってきました。そんな場所に居合わせたボクは、少し面食らった記憶があります。それまでは、浮浪しながらおそるおそるの気持ちで写真を撮っておりました。で、岡さんと知り合うようになって、再々そのアパートを訪問するようになりました。Oさんから、釜ヶ崎の中の出来事や問題点を聴くことができました。

そのうち越冬闘争がはじまりました。越冬闘争というのは、労働組合やキリスト教関係者などが組んで、冬の期間中、夜回りをしたり行き倒れ一歩手前の人たちを救済していく組織というかグループが行う、やはり闘争ですかね。行政へのかけあいなどもやっていました。ボクとしては、この越冬闘争の取材をやりたいと思い出しました。

そうですね、気持ち的には、遠いところに来てしまったという感触をぬぐうことができないままでした。世間での釜ヶ崎イメージ、多分にボク自身が抱いていたイメージ、怖いところ、特別なところ、あいりん地区と行政が名づける町、かって暴動があった場所・・・。この場所、釜ヶ崎に関する書籍が何冊か書店に並んでいましたので、購入して読みました。こうしてボクの釜ヶ崎取材の第一歩が始まりだしました。  

写真を撮る被写体として、偶然というか必然というか、釜ヶ崎の人たちを撮ることになっていくんです。なにか魔物がボクのこころの糸を引っ張るように、感じていましたね。最初ってのは、怖いもの見たさ、みたいな心情もありましたけれど、岡さんと知り合うようになって、現場を見て、もう宿命のような感じだったですね。被写体との巡り会いっていうのは、何かの縁ですね。

そのときの気分と外風景とが絡み合うんですね、きっと・・・。ボクには、だんだんとのめりこんでいってしまう習性があるんですが、釜ヶ崎へののめりこみは尋常じゃなかった。なんなんでしょうね、釜ヶ崎の魅力あるいは魔力といってもいいんですが、メンタルの交差ですね。人にはだれにもあるメンタルだとは思えないんですが、釜ヶ崎はもうどろどろの魅力、魔力で、ボクを引き入れたようです。

ものの見方が一変したのも事実ですし、日々の生活空間が虚ろで陽炎のようにも見えていました。そこから見えてきた世界というのがあるとすれば、人の内面深くの世界だったのかもしれません。そこから見えてきた外の世界は、アラブとかアフガンとかの世界ですね、そこにリンクしたい!そんな感触と、現実の生活との微妙な駆け引きでした。

剣の刃先を渡って歩いているような、何度か、このままここに居ようか、なんて誘惑もありました.でも、生活現場の現実、妻があり子供があり失ってはダメっていう信念みたいなもんに、引きあげられたというのが実感です。

そんななかで写真を撮ることを選択してしまったボクは、もう何処へ行くのか判らなかったです。いまある生命観というか生活観の大半が、そのなかで紆余曲折しながら、造られたのかもしれないですね。都会のなかの田舎。人間の中の魔物が頭をもたげる。もうそれ以上、この世では行く場所がな場所。そんな感じがしていました。

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1979年正月、地区の労働組合委員長の稲垣さんと出会いました。釜ヶ崎の中にある、希望の家というキリスト教の施設においてでした。委員長逮捕される、なんて正月早々の新聞に載っていたヒトでした。初対面、温和な感じのやさしそうなヒト、という感じを受けました。

お会いしたのは偶然の出来事です。警察から解放されてそのまま来た、といってました。そこで、ボクは稲垣さんに自己紹介をしたと思います、そこからいろいろとお世話になることになります。翌日が、恒例餅つき大会だったと記憶しています、三角公園での餅つき大会を取材しました。なにか稲垣さんの取材OKの返事をもらって、こころ強くなったことを覚えています。

翌日は正月3日、朝からいい天気で三角公園には、労働者がいっぱい集まってきました。労働者のみなさん、みんな明るい顔していました。ボクは壇上から、つきあげられた餅が、集まって行列をして待つ労働者に配られる光景を写真に撮りました。

このようにして、ボクの釜ヶ崎取材が事実上始まりました。前年の秋から、カメラを携えて釜ヶ崎の地へ行きだしてから、ケースワーカーの岡さんと出逢い、稲垣さんと出逢い、そうして世間では思いもつかない釜ヶ崎の現場写真を撮ることになってきました。 しだいにのめりこんでいくことになるのでした。

1978年から1980年前後の、ボクの写真への考え方というもの。写真をどのように捉えるかということですね。その当時に日記(大阪日記・釜ヶ崎メモ)とか、文章をけっこう書いていました。それらの文章を、後1982年ごろに映像情報や冊子「いま、写真行為とはなにか」にまとめてあって、いま2004年ですね。それから20年以上が過ぎ去って、読み返してみると、けっこう気負っていたな~って思います。30代前半の年頃でした。

ドキュメントとはなに?っていう設問があったように思います。いまも有効なのかどうかは、あらためて検証しようと思っていますけれど、ドキュメント、あるいはドキュメンタリー、「記録」ということですね。社会のなかの諸問題を告発する、なんて視点を考えていたと思います。

それと写真の方法が、プライベートな日常を撮ること、なんて命題もあったと思います。つまり、ボクは釜ヶ崎を取材するようになるんですが、そこに日常生活を置くこと。そこから社会問題として写真を撮る、まあ、こんなことでしょうか。実際に、釜ヶ崎に住み込んだわけではありませんでした。でも、気持ちの中でボクの日々の大半を占めていたのは事実です。

後になって、釜ヶ崎での取材方法なんかを問い直していくことになるんですが、当時は、社会問題として捉える釜ヶ崎の写真と文章、という位置づけがありました。それから、そこに住まうひととの個別の関係、個人関係を結んでいくなかで、写真の被写体として登場してもらうポートレートですね。「無名碑」シリーズなんですが、この方法が当時の写真の最前線、なんて思っていました。この当時、ボクはまだ写真家としては単独行動でした。

当時の写真界の動向なんて知るところではなかったですね。「季刊釜ヶ崎」を創刊し、「映像情報」を創刊していくなかで、写真をやっている同世代のひととか、若い世代の人たちと知り合っていくようになります。

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当時の同世代の写真指向は、すでにボクのようなドキュメントをするひとは少なかったように思います。シリアスフォトという手法があって、そういう手法に対してボクは、あまり興味なかったです。1970年前後に学生運動に参入してから10年が経っていました。その当時は文学に傾斜していましたし、文学での政治参加なんてこともありましたから、そこからの延長上に写真を捉えていたと思うんです。自分なりの写真論(笑)ですかね。

そうこうしているうちに、プロヴォーグの作家たちの写真を見たりしていました。それらはアレブレの写真でしたが、ボクの写真作りは、リアルであることでした。シリアスフォトの写真は静的でしたが、ボクの写真作りは、動的であることでした。当時ボクの周辺にあったといっても、カメラ雑誌で見る写真の反対側を指向しました。反面教師って云うんでしょうかね。たった一人での叛乱!なんてことも思ったりしてましたね~。

ここでは、ぼくの写真の外見の履歴を、ノンフィクションとして書き出しています。だいたい1970年代の中頃、ぼくが30歳前後の頃からの体験を書き出してきて、1979年のお正月まで書き進んだように思っています。この年のお正月は、大阪市西成区にある釜ヶ崎、行政ではこの町のことを、あいりん地区なんて呼んでいる場所です。そこへカメラを持って写真を写していました。

それから四半世紀の時間が過ぎ去って、ぼくの中ではすでに過去になっているつもりで、記述しはじめたんですが、しかしですね、まだ、ぼくの中で過去になりきってないですね。つまりどおゆうことかとゆうとですね、思い出すんです、その頃の気持ち。

ぼくのいまある考え方というのは、それからも変化・変容を続けてきて、その当時の考え方よりもフラットになってきています。もっとおおらかになってきた、とでもいえばいいかも知れません。でも、気持ちっていうのは、感情のレベルですね、これってあまり変わらないのかな?って思っています。

その当時っていうのは、ぼくの家庭はぼくたち夫婦と女の子2人の4人家族です。彼女はぼくより2歳若い、子供は1971年生まれと1974年生まれですので、当時8歳と5歳。収入面も含め、標準家族構成の標準世帯でした。そとからぼくをみるかぎり、忠実な標準生活者だったと思っています。でもね、後悔しても始まらないんですが、家族に対してはすごく後悔の念を抱いています。というのも、ぼくの写真と釜ヶ崎へののめりこみ方というのが、相当なものだったからです。

ぼくが浮遊しているように思うのは、外の光景がいつも信じられなかった感じがしていたことです。お金をもらえる仕事場にいても、家族と一緒にいても、もちろん写真を写している自分の姿を想像しても、常に場違いな感覚をもっていたものです。最近、はたけ耕したりしはじめて、かなり密着感を得てきたように感じていますが、もう、いつもぼくを遠くから眺めてる自分があったんです。あるときなんかは、訳わからなくなります。手に持ってるもの、目の前に見えてるはずのもの、それが何なのかわからなくなってしまうような感覚だったんです。釜ヶ崎でのぼく自身、いつもそのような感覚に見舞われていた記憶があります。

目の前に赤電話がありました。この公衆電話器からダイヤルすれば職場や自宅につながる、このことが信じられなかったんです。電車にのれば梅田へ出て京都に帰れる、このことが半信半疑だったようなんです。いま、その頃の記憶をたどってみても釜ヶ崎でのいくつかの特徴的な光景の記憶以外は、ほとんどありませんね~。ただただ、写真に撮られた光景だけが、記憶に残ってる。写真をみれば、その撮影時の気持ちまでよみがえってきます。これが写真の魔力というものかも知れません。そういったことを思い出してしまったから、まだ過去ではないと思うんです。

ぼくの写真史-3-
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<1970年代の写真をめぐる動きについて>

ボクが写真を撮り出したのが1976年頃からだ、と前に書いていますが、その当時のボクの写真への感触を書いておきたいと思います。ボクの意識のなかには、京都を中心として、その周辺に大阪がありました。それとは別に、東京という場所がありました。

ボクの東京住まいは1969年の2月ごろから10月末までに約9ヶ月ほどありました。それから6~7年ほどたっていましたが、なにかにつけて意識は東京にむいておりました。ワークショップ・写真学校というのがあることを知ったのはカメラ雑誌の記事でした。1975年に始まり1976年に終わる1年間の学校でした。

ボクの意識としては、そんなのがあるんやな~遠いな~・・・という感じでした。この東京での、ワークショップ・写真学校を通過した同年輩の人たちと知り合うようになるのが、1982年ごろなんですが、写真に興味を持ち始めたばかりのボクには、それは遠い存在だったんです。

そのころの近辺の話題といえば、写真の中味の話はさておいて、京都には、京都丹平という写真クラブが有名でしたし、大阪では、シュピーゲル写真家協会とか浪速写真クラブとか、そういった集団の関係図式ですね、力関係、そんなことばかりの話題だったように思い出しています。

京都では、関西二科展に始まる写真関係の展覧会が、4月から8月にかけて開催されていました。岡崎にある京都市美術館、広小路にある府立文化芸術会館。ぼくのグループ展発表の場は、そのふたつでした。会員だれでも出展できる京都写真サロン、それからちょっと選りすぐりメンバーの関西二科展、写連の選抜展、所属クラブの展覧会。この4つの写真展に名を連ねていました。

写真やりだして3年目ぐらい経ったころですね。先生と呼ばれている人たちと同じ壁面に写真が並びました。それから、当時は京都新聞社主催の月例がありました。ボクはこの京都新聞社へは、1回だけ例会にいきました。沢山の人が参加していました。そこでは、例会に提出された写真に順位が決められて、一席になると京都新聞におおきく紹介されるんですね。朝日新聞の方は、月例の一席だけが新聞紙上に載ったんですね。だから京都新聞社のは参加が多かったけれど朝日新聞社の方は参加者が少なかった。

ボクの写真は、朝日新聞に何回か載りました。コンテストにもけっこう応募して、そのたびに盾とか賞状とかもらいましたね。最初の頃の話ですが、推薦に選ばれました、っていう通知をもらって、推薦の位置がわからなかったんです。それで知り合ったばかりの達さんに、「推薦って何?」って聞いたら、一等賞やっていわれましたね。

こんな写真初心者のボクが、クラブに所属したということで交友が広がり、あれは二科会のパーティです、蹴上の都ホテルでのご宴会パーティー、こんなのにも出席できましたね。そうなんや~こうして先生って呼ばれる人になっていくんや~!えらい簡単やな~、京都写壇で名がとおり始めたボクは、そんなことに関心しておりました。で、冒頭に戻して、ワークショップ・写真学校。カメラ雑誌で見かける名前の先生、東松という人、荒木という人、森山という人、深瀬という人、そんな人が先生やってる学校なんですね、それに生徒さんの写真もカメラ雑誌に載っていましたね。ちがうんですね、写真が・・・、京都で、またコンテストで、上位に選ばれる写真とちがうんですね。

なんでやろ~っていう疑問がありました。でも、カメラ雑誌のほうの写真のなかに、何か魅入る写真がありました。

写真へ傾斜していく頃の記憶を辿っています。1976年から1978年までの3年間という期間は、写真制作技術を手に入れることに専念していた時期です。
ある種伝統のあるアマチュア写真、それも関西写壇とゆわれるところの入り口にいたんですね。3年間のそのころには、そこそこ有名になっていたようですが、それを越えていくパワーというのは、一体なんだったんでしょうかね。たぶんその頃を遡ること10年前の出来事が、多分にボクを追い詰めていたんだと思っています。

あれから10年、お前は何してるんだ!っていうような脅迫観念ですね。そんなのがあったようです。もらった賞状とか盾とかを目の前から消して、最初の一歩だ!って思って大阪は梅田駅に降り立ったことを思い出します。そして釜ヶ崎の三角公園に佇んだ1968年の11月、32歳になってしまった自分を確認し、えらい遠いとこまで来てしもたな~、そんな言葉が出てきていました、秋風吹く寒さが滲み始めた頃です。

<写真のテーマ>

日常生活のなかに写真を取り込むこと、なんて命題をだしていました。多分にカメラ雑誌から得る東京情報だったのかもしれませんね。日常・非日常なんていう区分のしかたじたい、時代的背景をもっていたんじゃないですかね。写真への傾斜は、遡ること10年前の遣り残し感が多分にありました。そして立った場所が釜ヶ崎という処だったんですね。

天王寺から飛田へ向いそこから堺町筋をこえて萩之茶屋3丁目に至ります。そこに三角公園があるのです。毎週土曜日の午後3時ごろ、その公園までたどり着いて、気持ちは空漠感に満ちておりました。なにか得体の知れない重石がからだの中にうずくまっておりました。たったひとりになった、という感覚ですね。赤電話がありました。この赤い電話はどこに繋がっているんやろな~、京都の自宅に繋がるなんて想像できなかったです。ああ~こうしてヒトは行方不明ってゆわれたりするのかもしれんな~なんてこと想像してました。

泊まり込まないこと、路上に座り込まないこと、酒を飲まないこと。この3点を守ろうとひそかに決意しました。何だったんでしょうね、その頃の自分って、何を思い、何を考え、何をしようとしていたんですか?いま思い起こそうとしても、朦朧ですね。脅迫観念に迫られていた気持ちは蘇えってくるんです。

写真を撮りだして、写真クラブから飛び出して、カメラを持ってひとり大阪の地にに立った頃、1978年ですね。その頃に考えていたことですが、モノを作る作家活動ですね、音楽家であれ小説家であれ、それなりのトレーニングが必要です。

10代の後半は、音楽家をめざしたこともありました。20代の前半は小説家をめざしたこともありました。ボク自身としては、音楽にも文学にも、それなりにトレーニングしたつもりでした。音楽は中学生時代のブラスバンド、それから十字屋楽器店の技術部に2年間勤めて、ピアノレッスンを受けました。文学に興味を持ち出して小説書こうと思ったのは、高校生の3年生、1964年、いまから40年も前です。

その頃から1975年ころまで、正味10年間、それなりのトレーニングをやったように思います。しかし、音楽も文学も、いずれもモノにならなかったです。ところが写真を撮り始めて5年で、それなりのことが出来るようになった。先生と呼ばれる人たちと一緒に展覧会に出品するようになりました。

コンテストに写真を出せば、何らかの賞が当るようになりました。この出来るようになった、と思うことへの疑問があったのです。表現というものがこんなに簡単に出来る筈がない。写真だから簡単にできるんかも知れないけれど、これはおかしい、絶対おかしいよ。そんな思いがわいてきていました。

後になって、実はそのとおりだったのですが、それが引き金だったように思います。カメラはニコンF2、引き伸ばし機はオメガ。一流品とゆわれる設備をそろえて、自分に言い訳できない仕組みをつくりました。写真作りの技術的なこと、技法は、おおむねマスターしたように思います。でもこれも、後になって出鱈目だと理解しましたけれど・・・。そうなんです、写真って簡単そうに見えてますが、実は奥深くて難解な代物だったんです。


ぼくの写真史-2-

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<気儘な日々へ>
2004.9.29記
この日記帖は、おもにボクが写真を始めたころの記憶を辿りながら書き進めていこうと思っています。ボクが写真に興味を持ち出すようになってから30年近くの年月が過ぎてしまいました。ということで言うと今年、ボクは58歳になっています。自分でも信じられないくらいなんですが、30年の歳月をぐるりと回ってきて、いま、また写真を撮り出しました。ほんの興味本位で手にしたカメラでしたが、写真というものにのめり込んでしまった結果がいま、ここにあります。この痕跡を少しまとめておきたいな~というのが率直なところです。

現在、いくつものホームページとブログを手がけています。外向けのもの、自分の作品的なもの、自伝的なもの、それぞれ使い分けして、全体をひとつのものにしていく目論見でもあります。

ここでは、写真を始めた最初の頃の話から掘り起こしています。今は亡き達栄作さん、途中から智原栄作さんと名前を変えられたけれど、思い出多い先生です。当面は、この達さん率いる光影会に参加したころの思い出話をまとめてみたいと思っています。だいたい1976年から1980年ごろまでです。カメラを持ち出しての5年間です。一気に駆け抜けた5年間だったうように思います。

1978年の秋に取材地を大阪に求め、「都市へ」との命題をもって歩み出したころから、少しずつ達さんとは疎遠になっていきますが、写真の基本を教えていただいた恩師だと感謝します。毎日のように達さんの家へ行き、家族のような振舞をさせていただいた記憶です。その当時の関西写壇といわれていた状況、もちろんボクから見た状況ですが、その写壇に決別するようにして抜け出てしまいましたが、若さの至りとでもいいましょうか、達さんには、失礼なこと多々あったものと思っています。

その後の恩師としては、東松照明さんを挙げたいと思っています。彼が京都取材の3年間、1981年から1984年までの間、ご一緒させていただいたことで、今の写真、それに留まらずに社会の見方などもベーシックには学んだものと思っています。

その後、1985年ごろから1988年ごろまでは、フォトハウス写真ワークショップを主宰していた時代。平木さん、金子さん、飯沢さん、島尾さん・・・、東京在住の人たちとの交流がありました。

1991年頃から畑さんとの交流とご一緒した仕事、写真図書館の設立、専門学校副校長、インターメディウム研究所事務局長・・・。そうして由あって、2002年の夏に身を引き、現在に至ります。それぞれの場面で懇親を重ねた人たちへの感謝を込めて、自分史を少し手がけてみたいと思っています。

<同人雑誌・反鎮魂>

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写真のほうへの話で、文学から写真へ移行するあたりへもう一度もどします。写真のほうへとボクの気持ちが徐々に傾斜していくのは、1975年ごろでした。その頃って、ちょうどボクは7年かけて大学を卒業した年なんです。現代文学研究会っていうのを友達とやっていましたね。頻度は忘れていますが、日曜日の午後から開始でした。場所は、北白川に近い研究会メンバーのアパートの一室でした。

1972年ごろまで、ボクたちは同人雑誌を発行していたんです。雑誌の名前は「反鎮魂」といいました。同人は7~8人だったと思います。ボクはそこで小説を発表していました。そうですね、長編小説。その第一章を第3号、第4号とふたつに分けて連載しました。

そんな同人も大学を卒業することで、解散となりましたが留年組の3人、近藤君、落合君、ボク。ちまちまと研究会を続けていたんです。もう解散する直前の作家研究テーマは夏目漱石。やっぱり夏目漱石を研究しとかんとあかんやろ!っていう程度のノリであったかも知れません。1975年というと、もうボクたちのこころは伸びきっていたように思います。学生運動が退潮していき、セクト間の内ゲバの時代でしたね。

ボクたちはセクトには属さない、ノンセクトっていう部類でしたし、運よくパクられたこともありませんでしたから、終わってしまった感覚ってのは、空しさいっぱいだったように思います。

ボクは1970年4月に結婚して子供も上が4歳下が1歳になっていました。家庭作りに専念するのも気分悪いものではなかったですが、でも空虚感というのがありました。文学への未練というか、もうやってられないな~、という感じですね。子供を写す目的で、学費が要らなくなったそのお金でカメラを買ったんです。

その頃の年だったですね、10月21日に仕事の帰り道に京大の時計台まで赴きました記憶です。20人程度の集会が開かれていました。肌寒さが身にしみてきました。現状はこれなんやなあ~って思いながら、ボクも参加者の一人となりました。もう終わった、終わったんや~、って思うと、ちょっと涙ぐんでしまいましたね。一方で、ニコマートに標準レンズをつけて、子供たちを写しまておりました。ネガカラーでとった記念写真です。

ボクは郵便局勤務の公務員、彼女は内職を夜な夜なやっておりました。ニコマートに標準レンズをつけて、ボクは家族の写真を撮りだして、アルバムをつくりました。そのうちに職場の人たちから写真の技術を教えてもらうことになったんです。職場へ出入りの写真屋さんが、唯一、少しは高度な知識を伝授してくれました。フィルムメーカーが主催するヌード撮影会にも参加しました。冬時に大阪のデパートで開催されたカメラショーに行って、モデル撮影会に参加しましたね。ニコンのカメラを買ったんで、ニッコールクラブですね、入会しました。

伏見桃山城で行われたニッコールクラブのモデル撮影会にも参加しましたね、記憶にあります。・・・というように、ボクはアマチュアカメラマンとして出発船出をしたんです。その頃です、全日本写真連盟に参加して、宇治の撮影会にいっての帰りに、達栄作さん、後の智原栄作さんを知ったんです。

小説を書くという、密室作業ですね、夜な夜なホームコタツのなかに足を突っ込んで、原稿用紙に字を書いていたことが、遠くの記憶へといってしまいました。でも、光のもとで写真を撮ることって、健康的やな~って思いだしました。もちろん写真家になろうなんてことは、夢夢思わなかったですね、その頃・・・。カメラ雑誌、ニッコールクラブの会報、それがボクの先生でした。

<達さんのこと>

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達さんのことで思い出すのは、余呉湖への撮影随行です。伸子という当時高校生の子がよく被写体になりました。達さんが著した限定版「信仰のすすめ」は、その伸子さんにあてた手紙形式で書かれていました。撮影のときのボクの仕事は、レフ板もちでした。ベニヤ板に銀紙を貼った手作りのレフ版でしたが、このレフ版を使ってキャッチアイですね、目に光を当てたり、影を薄くする技術なんかを教えてもらった。先輩と撮影の現場に立つというのは、勉強になるのもです。

同じ被写体を写して、出来上がった写真をみると、ちょっと違うんですね。まあ、構図とか光の入れ方とか、微妙に違う・・・そういう勉強をさせていただいたですね。そのころはまだ余呉湖は北陸本線の駅でした。夕方にはジーゼルカーの列車が到着します。ボクは伸子さんを望遠でトンネルから出てくる列車をバックに、毎度の事ながら撮影しました。月例用の写真作りです。

達さんとは、ドキュメント写真についてよく話をしたと思います。達さんは土門拳さんの、リアリズム論をよく引き合いにだされていました。その後ボクは1977年の秋から都市へとのタイトルで、大阪シリーズをはじめたんですが、達さんは、宇多野にある病院で、筋ジストロフィーの子供の取材に入られました。「天使のほほえみ」という写真集にまとまりましたが、ボクとの話の筋道ででてきたテーマだったようです。

その後、ボクは釜ヶ崎取材にのめりこんでいき、少しづつ疎遠になっていきますが、達さんは、その頃に、「難民」フォトフォリオを限定版で制作されます。キリスト教者だった達さんが、教会を通じて、カンボジアの難民キャンプへ行き、写真を撮られたものです。達さんは、けっきょくそれまで名を連ねていた二科会会友や写連役員などを辞めます。

ボクは、大阪取材から1年を経て、1978年9月2日から本格的に大阪取材に入りました。そしてその年の11月には釜ヶ崎の三角公園にたっていました。大阪取材へのきっかけとなった出来事があります。

その頃は、全日本写真連盟に加盟していて、月例をもやっていました。カメラ雑誌では、アサヒカメラに、北井一夫氏が「村へ」という作品を発表していました。ボクは、この「村へ」の作品群を、解体していく農村の記録・ドキュメントとして捉えており、大変興味をもって見ていました。まあ、好きな作品群であったわけです。その頃の写連の写真の傾向っていうのは、今もあまり変わらないですね。綺麗な写真、モデル写真etcなんかですね。

関西写壇というのがある、その京都代表が丹平クラブ、ボクの所属クラブ光影会は2番手との評価でした。その丹平のセンセが、北井氏の「村へ」の作品群について「わからん写真や~、な~みんな!」っていう評価を下したんです。ボクは、アホか!!って思いましたね。空しい気持ちがこみ上げてきました。これが最後でした。

もうそれなら自分でやるしかない。光影会の例会には出席しておりましたが、気持ち的には少し遠のいてきていました。カメラを持って大阪へいきました。
「街へ」がテーマでした。1977年の秋ごろからだったと思います。京阪電車で京橋までいって下車、それから梅田界隈へいきました。毎週土曜日の午後を撮影日と決めて仕事場のあった丹波橋から大阪への撮影取材でした。

もうその頃は、自宅に暗室を作っておりましたし、カメラもニコンF2を使いだしましたし、引き伸ばし機もオメガに替わっておりました。オメガは達さんから買い取ったものです。このオメガの元の持ち主は、木村勝正氏が生前使っておられたものだったそうです。

こうしてカメラと現像機材を俗にゆう一流品にして、自分に言い訳できないようにして、大阪取材をしはじめたんです。でも、何をテーマとすればいいのかわからないなかで、梅田に残っていた「どぶ池」界隈を撮影したり、新しくできつつあった駅前ビルの建設現場などを撮影しておりました。1回の撮影に2~3本のフィルムを使う、という量でした。

ひとりで立った大阪は、中学生の頃に何度か一人で遊びに来た記憶がありました。大阪の南、新世界界隈です。ちらちらとその記憶を思い出しながら、でも足はまだ梅田界隈でした。そのうち春が過ぎ、夏前になってきて、もう撮影をどうすすめたらいいのかわからなくなっていました。その夏は、久しぶりに原稿用紙に向いました。もうかれこれ30歳を過ぎていましたしね。

で、文章は、-私写真論-写真以前の写真論と名づけて、記憶と感情とのことを書いてみました。こうして夏を過ぎて1978年9月2日。再び大阪へ取材にいきました。この日から、大阪日記と名づけた取材メモを書き始めました。
<1978年9月2日土曜日(晴れ、薄曇)京橋から片町線で放出駅前、天王寺、山王町、飛田へ、鶴橋駅前。フィルム、TriX6本、ASA400、ノーフィルター、ノーファインダー28ミリ・・・>このようなメモが手許に残されています。このようにして、ボクは大阪取材をはじめました。


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