ぼくの写真史-5-
2004.11.3~2004.12.6
nakagawa shigeo
<R・バルトの「明るい部屋」>
写真についての覚書、っていうと思い出すのがロラン・バルトが著した「明るい部屋」という文章。1970年代の後半から1980年代に入って、ぼくが写真論に興味を持ってくるなかで、いちばんインプレッションを与えてくれた評論です。
そこには、針の挿し穴、とでもいえばいいのでしょうか、プンクトウムという言葉がありました。こころを刺してくるもの。一枚の写真の見方、読み方の方法を説いた論説です。写真を見て、こころに感じるもの、これが解析の糸口になる。
それからぼくは、写真への手紙・覚書という(未発表)文章を書きました。書き始めは1988年、書き終わりが1994年、あしかけ6年の時間をかけて、何度か書き直して、いま手元にあります。何人かにこの文章を読んでいただいて明確な返答はございませんでした。でも、一人だけ、感じてくれたヒトがありました。感じたショックで言葉が出なかったといいました。2001年のことです。ぼくの写真論の基本的発想は、この文章のなかにあります。いずれこの論、写真への手紙・覚書が成立してくるいきさつを書き記したいと思います。
新しい世界が目の前にきています。この新しい世界到来の予感を察知します。まだ言葉にならない感じ、感覚なんです。来るべき言葉のために!なんて中平卓馬氏がいったのは、1970年だったかしら?もう35年前ですね。そのころ彼が予感したもの、それがいま到来しているのかも知れません。
ぼくが1968年にこだわるのは、この新しい言葉が生み出せるかどうかを試し、知りたいからです。でも、1968年を捉える視点が定まらないまま、いまにいたっています。
写真を撮る、単純な作業といえば単純なんです。なのに写真をなぜ撮るのか?なんて考え出すとけっこう複雑になってきますね。こんな単純な写真を撮ることについて、ぼくって単純なことなのに、こだわってしまう癖があるようなんです。
<出発は、写真は記録だ>
写真を撮りだした最初のころ、1975年ごろから1978年ごろまでの3年間ですね。このときっていうのは、写真を撮る技術処理に熱中していたようです。でも、何を撮るか、というのが伏せられたまま、写真雑誌に載ってる写真を真似してみたり、先輩たちの写真を真似してみたり、修練の場は撮影会であったり、月例に出して順位をつけてもらったり、そんなこんなの混沌としたなかで、写真というものと向き合っていたようです。ぼくの出発は、写真は記録だ!というところからです。
名取洋之助という人が書き表した「写真の読み方」だったですか、岩波新書の本。この新書を何回も読み直していたように思います。それから達栄作さんとの会話というか議論というか、この場でしたね。写真は記録である、と思っていました。この記録である、は今のぼくの基礎概念でもあると思っています。
でも現代の写真って、それだけでは理解できないということもあります。現代美術という範疇での写真の捉え方です。実際には、現代美術っていうのがよくわからないんです。よくわからないから、自分で理解していくために文章を書いています。でも、その世間の評論世界でいわれている現代美術についての理解ができないんです。現在の写真をどう理解したらいいのか、ということも正直、わかりません。わからないから、ああでもないこうでもない、こんなことやろか、なんて思いながら文章にしているんです。
ぼくの中にイメージがいっぱい沸いてきます。そのイメージの原形は、これまでに見た写真であったり映画であったりTVでみた映像であったり、です。現実に目でみた記憶もありますし、絵本や絵巻物、絵画というのもあります。文章を読んで、そこからイメージされるものも、原形はそれらのイメージの組み合わせです。文章または言葉とイメージが交錯してアニメーションのようにぼくの頭の中をめぐっています。そのイメージを言葉にまたは文章にしていこうとしています。イメージ全体の部分を言葉に置き換えていく作業とでもいえばいいでしょうか。
写真イメージはそれらの一部です。過去に捉えられたイメージを紡ぎ合わせながら、現在の文章を書く原形イメージを作り出しています。そして枠組みをつくって、その枠組みに見合う写真を選び、文章を書いているのです。いつも何をしているのか不明です。明確なことは、今時点の時間は、この文章を書いています。それ以外に明確なことはありませんね。文章を書いていますが、その書いている自分の根拠がないんです。こういうなかで写真を撮ります、文章を書きます。
今日は、午後から田舎へいきます。明日の昼には近江町市場へ買出しにいきます、夜には義妹が訪ねてきます。明後日の夜にはこの場所に戻ってきます。この2泊3日の行程中にぼくは写真を撮ります。どんな現場があるかはいってみないとわかりません。でも、いく現場は確定しているんです、ぼくと彼女の田舎の住いです。そこにある木々や草のたたずまい、この季節だからだいたいの予測はイメージできます。その場所を記憶してますし、この季節を何遍も経験してるから。
一定のカテゴリーに収めて枠つけて、その範疇で行動しようとしています自分です。ぼくの意識と現実目に見える光景とのはざまで、ぼくは何をしようとしているのか?わからないですね~、ホント。
2004.11.3~2004.12.6
nakagawa shigeo
<R・バルトの「明るい部屋」>
写真についての覚書、っていうと思い出すのがロラン・バルトが著した「明るい部屋」という文章。1970年代の後半から1980年代に入って、ぼくが写真論に興味を持ってくるなかで、いちばんインプレッションを与えてくれた評論です。
そこには、針の挿し穴、とでもいえばいいのでしょうか、プンクトウムという言葉がありました。こころを刺してくるもの。一枚の写真の見方、読み方の方法を説いた論説です。写真を見て、こころに感じるもの、これが解析の糸口になる。
それからぼくは、写真への手紙・覚書という(未発表)文章を書きました。書き始めは1988年、書き終わりが1994年、あしかけ6年の時間をかけて、何度か書き直して、いま手元にあります。何人かにこの文章を読んでいただいて明確な返答はございませんでした。でも、一人だけ、感じてくれたヒトがありました。感じたショックで言葉が出なかったといいました。2001年のことです。ぼくの写真論の基本的発想は、この文章のなかにあります。いずれこの論、写真への手紙・覚書が成立してくるいきさつを書き記したいと思います。
新しい世界が目の前にきています。この新しい世界到来の予感を察知します。まだ言葉にならない感じ、感覚なんです。来るべき言葉のために!なんて中平卓馬氏がいったのは、1970年だったかしら?もう35年前ですね。そのころ彼が予感したもの、それがいま到来しているのかも知れません。
ぼくが1968年にこだわるのは、この新しい言葉が生み出せるかどうかを試し、知りたいからです。でも、1968年を捉える視点が定まらないまま、いまにいたっています。
写真を撮る、単純な作業といえば単純なんです。なのに写真をなぜ撮るのか?なんて考え出すとけっこう複雑になってきますね。こんな単純な写真を撮ることについて、ぼくって単純なことなのに、こだわってしまう癖があるようなんです。
<出発は、写真は記録だ>
写真を撮りだした最初のころ、1975年ごろから1978年ごろまでの3年間ですね。このときっていうのは、写真を撮る技術処理に熱中していたようです。でも、何を撮るか、というのが伏せられたまま、写真雑誌に載ってる写真を真似してみたり、先輩たちの写真を真似してみたり、修練の場は撮影会であったり、月例に出して順位をつけてもらったり、そんなこんなの混沌としたなかで、写真というものと向き合っていたようです。ぼくの出発は、写真は記録だ!というところからです。
名取洋之助という人が書き表した「写真の読み方」だったですか、岩波新書の本。この新書を何回も読み直していたように思います。それから達栄作さんとの会話というか議論というか、この場でしたね。写真は記録である、と思っていました。この記録である、は今のぼくの基礎概念でもあると思っています。
でも現代の写真って、それだけでは理解できないということもあります。現代美術という範疇での写真の捉え方です。実際には、現代美術っていうのがよくわからないんです。よくわからないから、自分で理解していくために文章を書いています。でも、その世間の評論世界でいわれている現代美術についての理解ができないんです。現在の写真をどう理解したらいいのか、ということも正直、わかりません。わからないから、ああでもないこうでもない、こんなことやろか、なんて思いながら文章にしているんです。
ぼくの中にイメージがいっぱい沸いてきます。そのイメージの原形は、これまでに見た写真であったり映画であったりTVでみた映像であったり、です。現実に目でみた記憶もありますし、絵本や絵巻物、絵画というのもあります。文章を読んで、そこからイメージされるものも、原形はそれらのイメージの組み合わせです。文章または言葉とイメージが交錯してアニメーションのようにぼくの頭の中をめぐっています。そのイメージを言葉にまたは文章にしていこうとしています。イメージ全体の部分を言葉に置き換えていく作業とでもいえばいいでしょうか。
写真イメージはそれらの一部です。過去に捉えられたイメージを紡ぎ合わせながら、現在の文章を書く原形イメージを作り出しています。そして枠組みをつくって、その枠組みに見合う写真を選び、文章を書いているのです。いつも何をしているのか不明です。明確なことは、今時点の時間は、この文章を書いています。それ以外に明確なことはありませんね。文章を書いていますが、その書いている自分の根拠がないんです。こういうなかで写真を撮ります、文章を書きます。
今日は、午後から田舎へいきます。明日の昼には近江町市場へ買出しにいきます、夜には義妹が訪ねてきます。明後日の夜にはこの場所に戻ってきます。この2泊3日の行程中にぼくは写真を撮ります。どんな現場があるかはいってみないとわかりません。でも、いく現場は確定しているんです、ぼくと彼女の田舎の住いです。そこにある木々や草のたたずまい、この季節だからだいたいの予測はイメージできます。その場所を記憶してますし、この季節を何遍も経験してるから。
一定のカテゴリーに収めて枠つけて、その範疇で行動しようとしています自分です。ぼくの意識と現実目に見える光景とのはざまで、ぼくは何をしようとしているのか?わからないですね~、ホント。