ぼくの写真史-8-
<写真ワークショップ京都>
写真ワークショップ京都は写真学校です。昨年の10月、京都に新しく作った写真学校です。写真ワークショップ京都は、ギャラリー・DOTとフォトハウス京都の合同企画です。既存の写真学校では出来にくい個別対応型の写真学校です。2004.10から月1回のセミナーを主宰していますが、今年の4月から本開校です。本開校後の4月からは、ゼミ、綜合ゼミ、特別ゼミ、テクニカルレクチャー、セミナーと5つの枠の講座を主宰します。
フォトハウス京都の設立は1984年、それからもう20年が過ぎたところです。このブログの「写真へのはなし」連載は、フォトハウス京都設立以前のことを書いていますから、この話題はここでは初めてですね。
1989年まで断続的にワークショップを主宰していたんですが、ボクの本業で単身赴任があって休眠、1992年には大阪で写真図書館を作ります。それから十数年大阪を中心に,写真専門学校の先生やったり芸術系学校の事務局長をやったりしてきたんですが、故あって独立、フリーになって、再びフォトハウス京都の名称で、写真学校の企画をやっていこうと思っているんです。
ここにも断続的に写真学校/写真ワークショップ京都の話題を折り混ぜていきます。もうひとつ通信制あい写真学校の話題も取り上げていきます。よろしくご愛読ください。
<1枚の写真へのこだわり>
1976年の夏だったと思います。彼女の実家金沢へ毎年夏には家族で帰省しておりました。その帰省中の一日は金沢市内から一番近い海浜へ海水浴に出かけていました。その場所は内灘、金沢駅から北鉄の電車で20分ほどのところにあります。その年の夏には、ニコマートをもってわが子のスナップ写真を撮っておりました。内灘へもニコマートをもっていきました。
内灘は、アメリカ中心の占領軍から独立した1952年に米軍試射場として軍事訓練が実施された場所です。その内灘には弾薬庫の痕跡が残されていました。学生のときから現代史に興味を持っていたボクは、家族の海に入っている光景とともにその弾薬庫の痕跡を数枚撮影しました。家族以外にカメラのレンズを向けた最初の1枚です。砂浜に朽ちたコンクリートの塊が数個ありました。それまでにもカメラを持たずに何度か訪れた場所だった内灘砂丘でした。
1980年に映像情報とゆう個人誌を編集発行しだしますが、この創刊号の表紙にこのとき撮った内灘の写真を使いました。1982年の正月3日、再度撮影に内灘を訪れましたが、そのときはもう弾薬庫の痕跡はありませんでした。いまボクの手許には、残された数カットの写真プリントで編集した映像情報だけがあります。ボクの記念碑としての写真だと思っています。
<フリースペース聖家族・1980年>
ボクの初個展は1979年12月、河原町蛸薬師にあった「パブ・聖家族」で写真展タイトルは「ドキュメント釜ヶ崎」でした。小さなスペースのパブ・聖家族の壁面と天井に8×10のモノクロ印画紙で200枚ほどピン張りで展示しました。美術館やギャラリーでの合同展に多く出品していましたけれど、写真の見せ方、見せ場所とゆうことを考えていて、飲み屋の壁面を選んだのでした。写真が巷の中に飛び出していくことを狙ったんです。写真の被写体が釜ヶ崎の労働者だったこともあって、話題を呼びました。
当時、自主ギャラリーを持ちたいとゆう若い写真家たちがおりました。1976年ごろに、東京で「写真ワークショップ」とゆう写真学校が主宰され、そこに学んだ若い連中が自主ギャラリーを作って運営しておりました。
関西では、まだ自主運営のギャラリーはありませんでした。ボクの気持は、自主ギャラリーを創りだそうとの思いです。ボクの個展を1979年12月と1980年3月に開催して、その年4月から「フリースペース聖家族」との名称で、自主ギャラリーが運営されだしました。
若手の古手も含めて、写真愛好者の皆さんの運営参加はありませんでした。何人か知り合いのメンバーに声をかけましたけれど、まあ、ね、いろいろといちゃもんつけてましたね。「フリースペース聖家族通信」を月刊で発行しましたけれど、8月でパブ聖家族の閉鎖休業となって、このスペースも休業しました。
4月に始まると、当時の情報誌「プレイガイドジャーナル」俗に「プガジャ」っていってましたけど、何度か記事を書いてくれて、若い人たちが集まってきました。写真展だけではなくてビデオ上映、パフォーマンス、その空間を使ってできることをやろう!とゆう人たちが集まりました。詳細は別途書きたいと思っていますが、関西発の自主スペースでした。
<聖家族のこと>
聖家族って、キリスト教の館じゃなくて、飲み屋です。集まってきた連中ってのが、当時の言葉で、ヒッピーですね。まあ、自由人の集まる場所とでもいえばいいのでしょうか。バラック小屋の3坪ぐらいのスペースだったような、とにかく狭かったです。石山昭さんとゆうのがマスターで、毎麻新聞なんて発行してたかな~。
お店開いてもお金がないから事前買出しが出来なくって、最初の客が500円出す。そのお金で、スーパーへ食料品を買出しに行く、新京極のサカエへよくいきました。酒のつまみになるようなものを買って帰って料理して、出すんです。そうすると100円で仕入れたものが300円になって帰ってくる、それをもってまた買出しに行く~~そうなんですね、毎日が自転車操業ってゆうんです、こういうの。でもおもしろいシステムでしょ、仲間同士助け合い、互助精神みたいな~。そこでフリースペースやったわけです。
もうわいわいがやがや、みんなよく飲んで喋って憂さ晴らししてたのかな~。ここでけっこう80年代初めの社会勉強をさせてもらったと思ってますね。勉強させてもらったのは、なにより人の生き方のスタイルです。釜ヶ崎のおっちゃんたちと聖家族に集まる姉ちゃん兄ちゃんたち、みんな真面目に生きてんのよね。真剣ですよ、世のサラリーマンごときじゃない真剣さです。真剣さのあまりはじき飛ばされたってこともあったのかもしれないですけど、ね。
白虎社の存在を知ったのは、この聖家族に写真が貼ってあったのを見たことからです。釜ヶ崎が写真撮影の現場だったとしたら、写真運動につながる現場が聖家族でした。1979年&1980年とゆう年は、ボクの思い出深い年です。ターニングポイントになった年です、そのように自覚しています。
<無名碑のこと>
1980年は、フリースペース聖家族を作りいくつかのイベントや写真展をプログラム化しましたが、一方で、写真のテーマについて記していきたいと思います。当時、釜ヶ崎の労働者の取材をしていましたが、写真の流行にポートレート手法がありました。
もともとポートレートは肖像画から写真へと移ってきたものですが、撮られる被写体は有名人とか資産家とかです。また、花嫁のアメリカとか、蘭の舟でしたか、日本とアメリカとの関係の中で生じた人間模様を描き出す手法として、訪ねてポートレートを撮るとゆうポートレートもありました。このへんがヒントになっていたんだと思います、釜ヶ崎の労働者のポートレートを撮ろうと思いました。無名の人々です。イメージ的には底辺を生きてきた人たちの群れです。ボクもいってみれば、同じような人です。
前年の夏に、釜ヶ崎の三角公園で青空写真展をやりましたが、その延長でポートレートを撮り始めたんです。被写体にある人の過去を語ってもらって記録する。写真は現在を写します。過去は物語ってもらうしかなく、その組み合わせで作品として残していこうとの思いでした。無名の人々の歴史です。およそ100人ほどのポートレートが撮れました。その写真は順次「映像情報」に連載していきました。
<季刊釜ヶ崎の発行>
1979年12月、季刊釜ヶ崎第1号が創刊されました。発刊の言いだしっぺはボクの発案です。夏祭りで青空写真展を開催して好評を得ましたが、写真家の仕事として、撮った写真の発表場所を考えていました。ギャラリーや美術館の展覧会に出品するということは考えられなかったし、雑誌に掲載といっても、巷にある釜ヶ崎のイメージをなぞっていくような目的の写真じゃなかったし、それなら自分でメディアを創りだすしか方法がありませんでした。
秋に稲垣浩さんに企画を話し、釜ヶ崎の内部から発信する雑誌として機能させようとの合意で、稲垣さんが発行人、季刊釜ヶ崎編集部が設営しました。創刊号から4号まで、編集コンセプトや内容の企画し、ボクは釜ヶ崎写真レポートを連載することにしました。
1979年12月第1号発行と同時にけっこう話題になりました。紀伊国屋や旭屋書店などの書棚に並び、自費出版物やフリーペーパーを扱う店へ置いてもらい、発行部数3000冊が売れていきました。創刊号はその後も増刷されて約1万部を発行したと思います。
このときまで各都市にある労働者の町、東京は山谷、大阪は釜ヶ崎、名古屋に笹島、横浜に寿町、その内部からの雑誌としてはありませんでした。当時、いくつかの印刷物が刷られて発行されています。釜ヶ崎では「労務者渡世」というミニコミ誌が発行されていました。全ての記事にひらがなルビを入れて発行するのが通例でした。季刊釜ヶ崎はひらがなルビなし、漢字はそのままで発行しました。
書店で売れる季刊釜ヶ崎、買うヒトはたぶん行政関係や警察関係者が多かったのではないかと思います。学者先生が論文として、内容は理論中心の差別論文しかなかったなかで、内部者の声が赤裸々に語られるている雑誌だっかからです。
ボクは写真の記録性、つまりドキュメントの方法を考えていましたし、それの定着方法をどうするかとの問題に直面していたんです。写真が時代の記録として残る残り方の問題だったんです。その後、記録とは何かという問題にぶつかりますし、写真の方法がアート領域に合流する時代を迎えて、ボクの写真作業も頓挫してしまうわけですが、1980年初めは、かなり核心をもって発行に携わったわけです。
季刊釜ヶ崎は全10巻、別冊「絆」を発行して1984年冬号(1985.1.19発行)で終えました。
2004.12..17~2005.4.28
nakagawa shigeo
<写真ワークショップ京都>
写真ワークショップ京都は写真学校です。昨年の10月、京都に新しく作った写真学校です。写真ワークショップ京都は、ギャラリー・DOTとフォトハウス京都の合同企画です。既存の写真学校では出来にくい個別対応型の写真学校です。2004.10から月1回のセミナーを主宰していますが、今年の4月から本開校です。本開校後の4月からは、ゼミ、綜合ゼミ、特別ゼミ、テクニカルレクチャー、セミナーと5つの枠の講座を主宰します。
フォトハウス京都の設立は1984年、それからもう20年が過ぎたところです。このブログの「写真へのはなし」連載は、フォトハウス京都設立以前のことを書いていますから、この話題はここでは初めてですね。
1989年まで断続的にワークショップを主宰していたんですが、ボクの本業で単身赴任があって休眠、1992年には大阪で写真図書館を作ります。それから十数年大阪を中心に,写真専門学校の先生やったり芸術系学校の事務局長をやったりしてきたんですが、故あって独立、フリーになって、再びフォトハウス京都の名称で、写真学校の企画をやっていこうと思っているんです。
ここにも断続的に写真学校/写真ワークショップ京都の話題を折り混ぜていきます。もうひとつ通信制あい写真学校の話題も取り上げていきます。よろしくご愛読ください。
<1枚の写真へのこだわり>
1976年の夏だったと思います。彼女の実家金沢へ毎年夏には家族で帰省しておりました。その帰省中の一日は金沢市内から一番近い海浜へ海水浴に出かけていました。その場所は内灘、金沢駅から北鉄の電車で20分ほどのところにあります。その年の夏には、ニコマートをもってわが子のスナップ写真を撮っておりました。内灘へもニコマートをもっていきました。
内灘は、アメリカ中心の占領軍から独立した1952年に米軍試射場として軍事訓練が実施された場所です。その内灘には弾薬庫の痕跡が残されていました。学生のときから現代史に興味を持っていたボクは、家族の海に入っている光景とともにその弾薬庫の痕跡を数枚撮影しました。家族以外にカメラのレンズを向けた最初の1枚です。砂浜に朽ちたコンクリートの塊が数個ありました。それまでにもカメラを持たずに何度か訪れた場所だった内灘砂丘でした。
1980年に映像情報とゆう個人誌を編集発行しだしますが、この創刊号の表紙にこのとき撮った内灘の写真を使いました。1982年の正月3日、再度撮影に内灘を訪れましたが、そのときはもう弾薬庫の痕跡はありませんでした。いまボクの手許には、残された数カットの写真プリントで編集した映像情報だけがあります。ボクの記念碑としての写真だと思っています。
<フリースペース聖家族・1980年>
ボクの初個展は1979年12月、河原町蛸薬師にあった「パブ・聖家族」で写真展タイトルは「ドキュメント釜ヶ崎」でした。小さなスペースのパブ・聖家族の壁面と天井に8×10のモノクロ印画紙で200枚ほどピン張りで展示しました。美術館やギャラリーでの合同展に多く出品していましたけれど、写真の見せ方、見せ場所とゆうことを考えていて、飲み屋の壁面を選んだのでした。写真が巷の中に飛び出していくことを狙ったんです。写真の被写体が釜ヶ崎の労働者だったこともあって、話題を呼びました。
当時、自主ギャラリーを持ちたいとゆう若い写真家たちがおりました。1976年ごろに、東京で「写真ワークショップ」とゆう写真学校が主宰され、そこに学んだ若い連中が自主ギャラリーを作って運営しておりました。
関西では、まだ自主運営のギャラリーはありませんでした。ボクの気持は、自主ギャラリーを創りだそうとの思いです。ボクの個展を1979年12月と1980年3月に開催して、その年4月から「フリースペース聖家族」との名称で、自主ギャラリーが運営されだしました。
若手の古手も含めて、写真愛好者の皆さんの運営参加はありませんでした。何人か知り合いのメンバーに声をかけましたけれど、まあ、ね、いろいろといちゃもんつけてましたね。「フリースペース聖家族通信」を月刊で発行しましたけれど、8月でパブ聖家族の閉鎖休業となって、このスペースも休業しました。
4月に始まると、当時の情報誌「プレイガイドジャーナル」俗に「プガジャ」っていってましたけど、何度か記事を書いてくれて、若い人たちが集まってきました。写真展だけではなくてビデオ上映、パフォーマンス、その空間を使ってできることをやろう!とゆう人たちが集まりました。詳細は別途書きたいと思っていますが、関西発の自主スペースでした。
<聖家族のこと>
聖家族って、キリスト教の館じゃなくて、飲み屋です。集まってきた連中ってのが、当時の言葉で、ヒッピーですね。まあ、自由人の集まる場所とでもいえばいいのでしょうか。バラック小屋の3坪ぐらいのスペースだったような、とにかく狭かったです。石山昭さんとゆうのがマスターで、毎麻新聞なんて発行してたかな~。
お店開いてもお金がないから事前買出しが出来なくって、最初の客が500円出す。そのお金で、スーパーへ食料品を買出しに行く、新京極のサカエへよくいきました。酒のつまみになるようなものを買って帰って料理して、出すんです。そうすると100円で仕入れたものが300円になって帰ってくる、それをもってまた買出しに行く~~そうなんですね、毎日が自転車操業ってゆうんです、こういうの。でもおもしろいシステムでしょ、仲間同士助け合い、互助精神みたいな~。そこでフリースペースやったわけです。
もうわいわいがやがや、みんなよく飲んで喋って憂さ晴らししてたのかな~。ここでけっこう80年代初めの社会勉強をさせてもらったと思ってますね。勉強させてもらったのは、なにより人の生き方のスタイルです。釜ヶ崎のおっちゃんたちと聖家族に集まる姉ちゃん兄ちゃんたち、みんな真面目に生きてんのよね。真剣ですよ、世のサラリーマンごときじゃない真剣さです。真剣さのあまりはじき飛ばされたってこともあったのかもしれないですけど、ね。
白虎社の存在を知ったのは、この聖家族に写真が貼ってあったのを見たことからです。釜ヶ崎が写真撮影の現場だったとしたら、写真運動につながる現場が聖家族でした。1979年&1980年とゆう年は、ボクの思い出深い年です。ターニングポイントになった年です、そのように自覚しています。
<無名碑のこと>
1980年は、フリースペース聖家族を作りいくつかのイベントや写真展をプログラム化しましたが、一方で、写真のテーマについて記していきたいと思います。当時、釜ヶ崎の労働者の取材をしていましたが、写真の流行にポートレート手法がありました。
もともとポートレートは肖像画から写真へと移ってきたものですが、撮られる被写体は有名人とか資産家とかです。また、花嫁のアメリカとか、蘭の舟でしたか、日本とアメリカとの関係の中で生じた人間模様を描き出す手法として、訪ねてポートレートを撮るとゆうポートレートもありました。このへんがヒントになっていたんだと思います、釜ヶ崎の労働者のポートレートを撮ろうと思いました。無名の人々です。イメージ的には底辺を生きてきた人たちの群れです。ボクもいってみれば、同じような人です。
前年の夏に、釜ヶ崎の三角公園で青空写真展をやりましたが、その延長でポートレートを撮り始めたんです。被写体にある人の過去を語ってもらって記録する。写真は現在を写します。過去は物語ってもらうしかなく、その組み合わせで作品として残していこうとの思いでした。無名の人々の歴史です。およそ100人ほどのポートレートが撮れました。その写真は順次「映像情報」に連載していきました。
<季刊釜ヶ崎の発行>
1979年12月、季刊釜ヶ崎第1号が創刊されました。発刊の言いだしっぺはボクの発案です。夏祭りで青空写真展を開催して好評を得ましたが、写真家の仕事として、撮った写真の発表場所を考えていました。ギャラリーや美術館の展覧会に出品するということは考えられなかったし、雑誌に掲載といっても、巷にある釜ヶ崎のイメージをなぞっていくような目的の写真じゃなかったし、それなら自分でメディアを創りだすしか方法がありませんでした。
秋に稲垣浩さんに企画を話し、釜ヶ崎の内部から発信する雑誌として機能させようとの合意で、稲垣さんが発行人、季刊釜ヶ崎編集部が設営しました。創刊号から4号まで、編集コンセプトや内容の企画し、ボクは釜ヶ崎写真レポートを連載することにしました。
1979年12月第1号発行と同時にけっこう話題になりました。紀伊国屋や旭屋書店などの書棚に並び、自費出版物やフリーペーパーを扱う店へ置いてもらい、発行部数3000冊が売れていきました。創刊号はその後も増刷されて約1万部を発行したと思います。
このときまで各都市にある労働者の町、東京は山谷、大阪は釜ヶ崎、名古屋に笹島、横浜に寿町、その内部からの雑誌としてはありませんでした。当時、いくつかの印刷物が刷られて発行されています。釜ヶ崎では「労務者渡世」というミニコミ誌が発行されていました。全ての記事にひらがなルビを入れて発行するのが通例でした。季刊釜ヶ崎はひらがなルビなし、漢字はそのままで発行しました。
書店で売れる季刊釜ヶ崎、買うヒトはたぶん行政関係や警察関係者が多かったのではないかと思います。学者先生が論文として、内容は理論中心の差別論文しかなかったなかで、内部者の声が赤裸々に語られるている雑誌だっかからです。
ボクは写真の記録性、つまりドキュメントの方法を考えていましたし、それの定着方法をどうするかとの問題に直面していたんです。写真が時代の記録として残る残り方の問題だったんです。その後、記録とは何かという問題にぶつかりますし、写真の方法がアート領域に合流する時代を迎えて、ボクの写真作業も頓挫してしまうわけですが、1980年初めは、かなり核心をもって発行に携わったわけです。
季刊釜ヶ崎は全10巻、別冊「絆」を発行して1984年冬号(1985.1.19発行)で終えました。
2004.12..17~2005.4.28
nakagawa shigeo