中川繁夫写文集

2015年09月

ぼくの写真史-8-

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<写真ワークショップ京都>

写真ワークショップ京都は写真学校です。昨年の10月、京都に新しく作った写真学校です。写真ワークショップ京都は、ギャラリー・DOTとフォトハウス京都の合同企画です。既存の写真学校では出来にくい個別対応型の写真学校です。2004.10から月1回のセミナーを主宰していますが、今年の4月から本開校です。本開校後の4月からは、ゼミ、綜合ゼミ、特別ゼミ、テクニカルレクチャー、セミナーと5つの枠の講座を主宰します。

フォトハウス京都の設立は1984年、それからもう20年が過ぎたところです。このブログの「写真へのはなし」連載は、フォトハウス京都設立以前のことを書いていますから、この話題はここでは初めてですね。

1989年まで断続的にワークショップを主宰していたんですが、ボクの本業で単身赴任があって休眠、1992年には大阪で写真図書館を作ります。それから十数年大阪を中心に,写真専門学校の先生やったり芸術系学校の事務局長をやったりしてきたんですが、故あって独立、フリーになって、再びフォトハウス京都の名称で、写真学校の企画をやっていこうと思っているんです。

ここにも断続的に写真学校/写真ワークショップ京都の話題を折り混ぜていきます。もうひとつ通信制あい写真学校の話題も取り上げていきます。よろしくご愛読ください。

1枚の写真へのこだわり>

1976年の夏だったと思います。彼女の実家金沢へ毎年夏には家族で帰省しておりました。その帰省中の一日は金沢市内から一番近い海浜へ海水浴に出かけていました。その場所は内灘、金沢駅から北鉄の電車で20分ほどのところにあります。その年の夏には、ニコマートをもってわが子のスナップ写真を撮っておりました。内灘へもニコマートをもっていきました。

内灘は、アメリカ中心の占領軍から独立した1952年に米軍試射場として軍事訓練が実施された場所です。その内灘には弾薬庫の痕跡が残されていました。学生のときから現代史に興味を持っていたボクは、家族の海に入っている光景とともにその弾薬庫の痕跡を数枚撮影しました。家族以外にカメラのレンズを向けた最初の1枚です。砂浜に朽ちたコンクリートの塊が数個ありました。それまでにもカメラを持たずに何度か訪れた場所だった内灘砂丘でした。

1980年に映像情報とゆう個人誌を編集発行しだしますが、この創刊号の表紙にこのとき撮った内灘の写真を使いました。1982年の正月3日、再度撮影に内灘を訪れましたが、そのときはもう弾薬庫の痕跡はありませんでした。いまボクの手許には、残された数カットの写真プリントで編集した映像情報だけがあります。ボクの記念碑としての写真だと思っています。

フリースペース聖家族・1980年>

ボクの初個展は1979年12月、河原町蛸薬師にあった「パブ・聖家族」で写真展タイトルは「ドキュメント釜ヶ崎」でした。小さなスペースのパブ・聖家族の壁面と天井に8×10のモノクロ印画紙で200枚ほどピン張りで展示しました。美術館やギャラリーでの合同展に多く出品していましたけれど、写真の見せ方、見せ場所とゆうことを考えていて、飲み屋の壁面を選んだのでした。写真が巷の中に飛び出していくことを狙ったんです。写真の被写体が釜ヶ崎の労働者だったこともあって、話題を呼びました。

当時、自主ギャラリーを持ちたいとゆう若い写真家たちがおりました。1976年ごろに、東京で「写真ワークショップ」とゆう写真学校が主宰され、そこに学んだ若い連中が自主ギャラリーを作って運営しておりました。

関西では、まだ自主運営のギャラリーはありませんでした。ボクの気持は、自主ギャラリーを創りだそうとの思いです。ボクの個展を1979年12月と1980年3月に開催して、その年4月から「フリースペース聖家族」との名称で、自主ギャラリーが運営されだしました。

若手の古手も含めて、写真愛好者の皆さんの運営参加はありませんでした。何人か知り合いのメンバーに声をかけましたけれど、まあ、ね、いろいろといちゃもんつけてましたね。「フリースペース聖家族通信」を月刊で発行しましたけれど、8月でパブ聖家族の閉鎖休業となって、このスペースも休業しました。

4月に始まると、当時の情報誌「プレイガイドジャーナル」俗に「プガジャ」っていってましたけど、何度か記事を書いてくれて、若い人たちが集まってきました。写真展だけではなくてビデオ上映、パフォーマンス、その空間を使ってできることをやろう!とゆう人たちが集まりました。詳細は別途書きたいと思っていますが、関西発の自主スペースでした。


聖家族のこと>

聖家族って、キリスト教の館じゃなくて、飲み屋です。集まってきた連中ってのが、当時の言葉で、ヒッピーですね。まあ、自由人の集まる場所とでもいえばいいのでしょうか。バラック小屋の3坪ぐらいのスペースだったような、とにかく狭かったです。石山昭さんとゆうのがマスターで、毎麻新聞なんて発行してたかな~。

お店開いてもお金がないから事前買出しが出来なくって、最初の客が500円出す。そのお金で、スーパーへ食料品を買出しに行く、新京極のサカエへよくいきました。酒のつまみになるようなものを買って帰って料理して、出すんです。そうすると100円で仕入れたものが300円になって帰ってくる、それをもってまた買出しに行く~~そうなんですね、毎日が自転車操業ってゆうんです、こういうの。でもおもしろいシステムでしょ、仲間同士助け合い、互助精神みたいな~。そこでフリースペースやったわけです。

もうわいわいがやがや、みんなよく飲んで喋って憂さ晴らししてたのかな~。ここでけっこう80年代初めの社会勉強をさせてもらったと思ってますね。勉強させてもらったのは、なにより人の生き方のスタイルです。釜ヶ崎のおっちゃんたちと聖家族に集まる姉ちゃん兄ちゃんたち、みんな真面目に生きてんのよね。真剣ですよ、世のサラリーマンごときじゃない真剣さです。真剣さのあまりはじき飛ばされたってこともあったのかもしれないですけど、ね。

白虎社の存在を知ったのは、この聖家族に写真が貼ってあったのを見たことからです。釜ヶ崎が写真撮影の現場だったとしたら、写真運動につながる現場が聖家族でした。1979年&1980年とゆう年は、ボクの思い出深い年です。ターニングポイントになった年です、そのように自覚しています。

無名碑のこと>

1980年は、フリースペース聖家族を作りいくつかのイベントや写真展をプログラム化しましたが、一方で、写真のテーマについて記していきたいと思います。当時、釜ヶ崎の労働者の取材をしていましたが、写真の流行にポートレート手法がありました。

もともとポートレートは肖像画から写真へと移ってきたものですが、撮られる被写体は有名人とか資産家とかです。また、花嫁のアメリカとか、蘭の舟でしたか、日本とアメリカとの関係の中で生じた人間模様を描き出す手法として、訪ねてポートレートを撮るとゆうポートレートもありました。このへんがヒントになっていたんだと思います、釜ヶ崎の労働者のポートレートを撮ろうと思いました。無名の人々です。イメージ的には底辺を生きてきた人たちの群れです。ボクもいってみれば、同じような人です。

前年の夏に、釜ヶ崎の三角公園で青空写真展をやりましたが、その延長でポートレートを撮り始めたんです。被写体にある人の過去を語ってもらって記録する。写真は現在を写します。過去は物語ってもらうしかなく、その組み合わせで作品として残していこうとの思いでした。無名の人々の歴史です。およそ100人ほどのポートレートが撮れました。その写真は順次「映像情報」に連載していきました。

季刊釜ヶ崎の発行>

1979年12月、季刊釜ヶ崎第1号が創刊されました。発刊の言いだしっぺはボクの発案です。夏祭りで青空写真展を開催して好評を得ましたが、写真家の仕事として、撮った写真の発表場所を考えていました。ギャラリーや美術館の展覧会に出品するということは考えられなかったし、雑誌に掲載といっても、巷にある釜ヶ崎のイメージをなぞっていくような目的の写真じゃなかったし、それなら自分でメディアを創りだすしか方法がありませんでした。

秋に稲垣浩さんに企画を話し、釜ヶ崎の内部から発信する雑誌として機能させようとの合意で、稲垣さんが発行人、季刊釜ヶ崎編集部が設営しました。創刊号から4号まで、編集コンセプトや内容の企画し、ボクは釜ヶ崎写真レポートを連載することにしました。

1979年12月第1号発行と同時にけっこう話題になりました。紀伊国屋や旭屋書店などの書棚に並び、自費出版物やフリーペーパーを扱う店へ置いてもらい、発行部数3000冊が売れていきました。創刊号はその後も増刷されて約1万部を発行したと思います。

このときまで各都市にある労働者の町、東京は山谷、大阪は釜ヶ崎、名古屋に笹島、横浜に寿町、その内部からの雑誌としてはありませんでした。当時、いくつかの印刷物が刷られて発行されています。釜ヶ崎では「労務者渡世」というミニコミ誌が発行されていました。全ての記事にひらがなルビを入れて発行するのが通例でした。季刊釜ヶ崎はひらがなルビなし、漢字はそのままで発行しました。

書店で売れる季刊釜ヶ崎、買うヒトはたぶん行政関係や警察関係者が多かったのではないかと思います。学者先生が論文として、内容は理論中心の差別論文しかなかったなかで、内部者の声が赤裸々に語られるている雑誌だっかからです。

ボクは写真の記録性、つまりドキュメントの方法を考えていましたし、それの定着方法をどうするかとの問題に直面していたんです。写真が時代の記録として残る残り方の問題だったんです。その後、記録とは何かという問題にぶつかりますし、写真の方法がアート領域に合流する時代を迎えて、ボクの写真作業も頓挫してしまうわけですが、1980年初めは、かなり核心をもって発行に携わったわけです。

季刊釜ヶ崎は全10巻、別冊「絆」を発行して1984年冬号(1985.1.19発行)で終えました。

2004.12..17~2005.4.28
  nakagawa shigeo



ぼくの写真史-7-

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釜ヶ崎青空写真展-1979夏-

2005年になりました。ここではボクの写真履歴について、記憶をたどりながら書き進めています。といいながら、昨年10月、写真へのはなしを12回連載して、写真への覚書を5回連載して、その後しばらく連載を中断していましたが、今回、改めて「写真へのはなし」の連載を再開します。

1979年の夏、ボクは釜ヶ崎の三角公園で写真展を開催しました。その写真展のことを、青空写真展とか写真あげます展、そのように呼んでおりました。釜ヶ崎夏祭りが毎年夏のお盆に開催されているんですが、その催しの一環として写真展を開催するという内容です。その写真展は4日間のイベントです。壁面はベニヤ板4枚です。

最初の1日は、それまでに撮り溜めた写真200枚ほどを展示、自分の写ってる写真があれば持ち帰ってもらう、というものです。2日目以降は、釜ヶ崎で前日に撮った写真を展示するというものでした。

個展といえばこれが最初の個展です。当時、写真の在り方について、被写体の中へ写真を返していく、という方法を考えていました。撮影者と被写体の関係の再考といえばいいんでしょうか、家族写真の形式ですね。釜ヶ崎という家族にカメラマンがいて、パネルは写真アルバムである、という感じです。写真の在り方論です。

それから、当時、釜ヶ崎を撮るということは、怖い場所を撮る。この怖さというのは、カメラマンが拒否される、ということでした。カメラが入れない怖いところ、写真を撮ってると乱暴される、とか、カメラを盗られる、とかの感覚です。でも、ボクの感触では、そんなことはない!という感じがあったんです。取材を始めて1年近くたっていました。

釜ヶ崎労組メンバーの近場で撮っていたという関係から、労働者とのコミュニケーションができ始めてきた、ということもあったと思います。警察とヤクザさんと労働者。ボクの写真についてこの3方面からの反応があります。

警察に守られ、ヤクザさんにつないでもらって取材する、というような方式が公然となされていたんですが、ボクはその方法をとらなかったわけです。その頃には、プレスが中立だというような考えはもうありませんでした。つまり報道の中立性という議論です。中立性という立場が無いとしたら、ボクはやられる側にたつことしかなかった。青空写真展を開いて妨害があるとしたら、労働者の側からではない、という確信がありました。

すでに、警察からの妨害らしきものは春先に炊き出しを取材し始めた頃から感じていましたから・・・。それから路上賭博の周辺へはカメラを持って近づいてはいなかったですから、ヤクザさんの妨害もないだろうと思っていました。でも気持ちとしては、何が起こるかわからない、やられるかも知れないな~、なんて思っていました。何人かの協力もあって、青空写真展の当日がやってきました。1979年8月12日だったと思います。

その釜ヶ崎という場所は大阪市西成区にあります。その場所にある光景とゆうのがボクの写真意識のなかで繋がらないんです。写真の被写体を求めて、大阪の街を歩いてミナミの方へ行って、天王寺界隈から新世界界隈へと入っていったんですが、釜ヶ崎の光景は異質なように思っていました。写真が撮られ発表される被写体のある場所として、そこは空白地帯であるという感覚です。

ええ、釜ヶ崎はヘッジです、社会の縁です、そのような見られ方がされています。でも、ヘッジ、縁と見られている場所が中心となるとき、その他の場所が異色に見えてくるんです。逆説とでもいえばいいでしょいか、ボクの視点はヘッジがセンターです、縁が中心。それまで何百本と撮って来たフィルムの全てが、気持のなかではもう無効になっていました。

当時の意識を思い出します、俗に場末といいますが、そのような場所を撮って写真賞を取ったヒトの話題を見ました。アパートとか旧赤線地帯とかゆう廓跡とかの写真でした。でも当時、もうボクにはそんな写真が有効だとは思えませんでした、白々しい。釜ヶ崎にいく前には、天王寺から飛田への道筋を写真に撮っていました。それらの街の光景と釜ヶ崎の光景とが異質だったんです。ボクの感覚では、それよりも奥へ入っていた、ということです。

ボク自身を構成している価値観が崩壊していきました。崩壊したあとには夢のごとき意識だけがありました。もう全てが解体してしまったかのような感覚です。でも徐々にではあったけれど新たな価値軸が芽生えてきたのも事実だったと思います。

自分のいる場所がわからなくなる、まるで神隠しにあったような感覚とでもいえばいいのでしょうか、自分が何者で何をしていて、いま居る処がどこなのか、この場所感覚が欠落してしまった感覚です。目の前にある全てのものが遠い記憶のなかに収まりきらずに宙に浮いてる、異質な処にいる。

このような感覚が10代の終わりから20代の初めにかけてボクを苦しめたんですが、それから10年後の20代の終わりから30代の初めにかけて、再びやってきていたように思います。いわば価値の体系が壊れて、解体してしまった世界、これは死です。ヒトには死と再生の繰り返しがあるといいます。肉体の消滅は1回しか起こりませんが、心の消滅あるいは死は、人生において何度か起こるようです。この2回目の心の死が、釜ヶ崎取材のさなかで起こっていたんだと思います。

世の中への白々しさ気分、妻と子供を認知しているのに違和感を覚える。自分の暮らしている家へは身体は帰ってきていますが心は違和感を感じている。それ以外の他者へはもっと距離感を感じてしまう。もう正常とゆわれてる範疇を超えてしまった処に心が置かれていたかのようにも思います。うまく説明ができません、バスの中から街路の風景を見ていてちぐはぐ感を感じてる自分。そのような感情を疎外感と呼ぶんだとすれば、この疎外感が釜ヶ崎の光景の中に沈んでいったようです。

あるいは芸術や宗教が個人の内部に生まれてくる辺境の場所が、その感覚のあった場所だったのかもしれません。あるものへ傾斜していく自分の気持は、写真を撮る行為と文章を書く行為に集約されていきました。

自分の行動が過激になっていくことに気づいていました。もう怖いものが何もない気持ってわかりますか?怖いものがない気持とは死を恐れない気持です。死滅への恐怖感覚とゆうのがあります。これが平常時の普通感覚だと思います。そこには感情があってその恐怖を誘発する現象には嫌悪感をいだきます。ヒトの子の死をわが身にたって感じるとやるせない気持がでてきますでしょ、これは平常です。でも異常なときとゆうのは、そのような感情さえ感じない。感じないですがまるで人格が変わったように神懸り状態になっています。神隠しにあって神懸りになる。そうとしか表現できないような状態です。

非常に大きな異変に巻き込まれてしまったときとゆうのは、ヒトをそのような状態に置いてしまうのかもしれません。ヒトとゆう動物が基底にもっている神秘的現象との融合作用なのかもしれません。ボクの釜ヶ崎取材のころの気持を言い当てるとしたら、そのように書き表せるように思うのです。1979年8月12日から15日にかけての青空写真展へ結実していくボクの内面はそんな感覚でした。

1979年8月の釜ヶ崎は夏祭りが行われました。この夏祭りの会場、三角公園で写真展を開催します。釜ヶ崎の労働者は写真取材には拒否をする、とゆうことが公然と言い伝えられていました。だからボクはカメラを取り上げられて袋叩きにあってしまうかも知れない、とゆう不安がありました。ベニヤ板にそれまでに撮り溜めた写真を展示した初日の夕方あたりから、展示写真の前には沢山の労働者たちが集まってきました。

その場は、嫌悪な気配は毛頭なくて、ワイワイガヤガヤの和やかないい雰囲気でありました。釜ヶ崎で当地を撮った写真で写真展をやるなんて初めてのことだと思います。見物者たちは喜んでいるのです。この光景はボクはある意味でショックを受けました。釜ヶ崎の労働者に写真が受け入れられた、とゆう事実にショックを受けたのです。

西成署のおまわりさんが見に来ました。ヤクザさんが見に来ました。朝日新聞の記者さんが記事にするといいました。翌日の夕刊に12段ぶち抜きの記事になりました。「あ、わしが写ってる」とゆうようなタイトルだったと思います。そうなんですね、釜ヶ崎の労働者が自分たちの写真を受け入れたとゆう事実なんです。

ボクの釜ヶ崎への見方が一変したのです。あるいは写真とゆうモノについての新たな認識といえばいいかも知れません。釜ヶ崎は写真を拒否しなかった。そこからボクの写真への思考が始まりました。撮った現場へ写真を返す、とゆう言い方をしましたが、撮られた写真が何よりも被写体となった人が歓ぶ写真でないといけないとゆうことです。少なくともボクの写真の方法はプライベートな関係の中で生じてくるべきものでした。

ドキュメントを考えるときの要素として、撮影者と被写体の関係があります。当時においてボクはこの関係性を「家族写真」とゆう範疇でとらえていたと思うのです。写真のあり方が第三者関係ではなくて第二者の関係、もしくは一人称の関係で撮られるべきである、という立場です。

当時、場末とゆわれる場所を撮った写真家は沢山います。おおむね写真賞の対象になる写真のなかの関係は撮影者と第三者関係において撮られた写真群でした。あるいは自己と他者とゆう融合と断絶のハザマを彷彿とさせる写真群、あるいは白々しい風景群・・・

ボクの撮ろうと思う写真はいずれとも違うものでした。撮影者と被写体が同じところにいる位置関係です。まさに家族写真の枠組みだ!と思いました。釜ヶ崎夏祭り、1979年夏のことです。釜ヶ崎の現場で写真を撮って、現像してプリントして展示する。展示した現場で写真を撮って、現像してプリントして展示する。この繰り返しを3泊4日の行程でやりぬいた72時間のイベントです。体力の限界と同時に写真の成立する場の実験だったと思っています。

とゆうのもボクは作家であることを自認してました。発表の場とゆうのは美術館とかギャラリーです、それに写真集とゆう方法もあります。でもいずれも被写体とは関係の無い場所、第三の場所です。この写真家、被写体、発表の場、という三角関係の否定とゆうか懐疑だったんです。写真家と被写体と発表の場が直線関係、そおゆう場を想定したんです。これって家族アルバムの領域でしょ!この関係を持ちたかったんです。この関係をもってして、その写真が社会的意味を持つ関係、作家と写真の新たな関係です。それと写真家の新しいスタイルだとも思っていました。

このような思いをもっての釜ヶ崎夏祭り「青空写真展」の開催でした。写真界への反響ってのはまあ皆無に近かったとは思いますが、実感手ごたえはありました。ズシっとくるものがありました、感覚と感情的にです。そのころの問題意識ってのは、写真の成立する場、とゆうことでした。

その年の12月、季刊「釜ヶ崎」ってゆう冊子本の編集主幹をやります。写真を撮って発表媒体を創りだす必要があったわけです。カメラ雑誌がありまして、当時だったら「カメラ毎日」ってのが人気の雑誌でした。「アサヒカメラ」「日本カメラ」とゆう雑誌は今もあります。その当時、毎月三冊を定期購読してましたが、もうあまり見なかったですね。とゆうのも、内容が白々しく思えていましたし、むしろ中平卓馬氏の「なぜ植物図鑑か」とゆう評論集を読んだりしていました。青空写真展のインスピレーションもここから出てきたのかも知れません。

たった一人の叛乱なんていってまして、写真の可能性とはなに?って真剣に問い詰めていたように思います。もう反乱軍、とはいってもひとりぽっちでしたが、季刊釜ヶ崎編集部をつくって中心的に動きました。

中川繁夫<写真への手紙・覚書> 2006.4.28編集

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