中川繁夫写文集

2015年10月

ぼくの写真史-11-
  2005.5.9~2005.10.21
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「写真の現在展’84」という合同写真展が、1984年3月26日から3月31日まで、大阪府立現代美術センターにて開催された。関西に在住の若手写真家49人の合同展でした。いまボクの手元に、その展覧会のカタログがあります。展覧会の連絡先は、スタジオ・シーン。スタジオ・シーンは、季刊写真誌「オンザシーン」を発行していた。当時の、関西におけるインディペンデント系写真家のグループでした。

この1984年3月というのが、ボクにとってのターニングポイントだったとの認識があります。映像情報誌の発展的廃刊と、フォトハウス京都の設立呼びかけを行う年でした。ボクは、この写真展「写真の現在展’84」に、釜ヶ崎の写真を出展しました。キャビネ版で270枚を割り付けられた壁面に張り巡らすという展示方法をとりました。この展示方法は、1979年8月に釜ヶ崎三角公園で、夏祭りの参加展示で、青空写真展を開催した形式を、そのまま美術館の壁面に再現しようとしたものでした。

ボクは、この写真展参加をもって、作家活動を休止しようと決意していました。そうしてこの展覧会の最終日、つまり1984年3月31日をもって、写真作家活動の一切を休止しました。 

今日、この写真展に展示した写真を、デジタルカメラにて複写しました。撮影現場は、1979年8月13日から15日だったかと思いますが、それから26年が過ぎ去った今日です。写真発表から21年余りが過ぎ去った今日です。

昨年、釜ヶ崎ドキュメントの一部を、HPに掲載しました。また今年になって、無名碑の一部を掲載しました。今日、複写した写真もHPに掲載しようと思っています。取材から25年前後の歳月が過ぎ去って、ボクのなかでは、ようやく過去の記録になりつつあります。

写真の現在を考えるなかで、経過する時間というもの、残された画像と自分を、再検証する材料として、あるように思います。というように、作家の態度のなかには、撮られた時間と、経過した時間、そうしてあらためて発表される。このようなサイクルのなかで、作家は存在する。写真を巡るドキュメントという問題の状況です。

 この6月から7月にかけて、写真史のレクチャーを2講担当しました。「ドキュメント写真」という切り口で、1回目は、アメリカを中心とした世界のドキュメント写真の概観。2回目は、日本の1950年代以降のドキュメント写真の概観。果たして「ドキュメントとは何か」ということをあらためて捉え直して見ようとの試みです。

表現の領域が極私的レベルにまで拡げられてきた現在の状況があります。オーソドックスなドキュメントの方法を云えば、社会との関係性を、場所と時間の枠で表出した写真をいう、とレクチャーでは仮説してみました。

そうするとドキュメントから外れる写真の群がでてきます。1968年当時、プロヴォーグの作家たちが試みた写真解体のムーブメントがあり、それ以降に垣間見える写真があります。主観的直感による作品提示。たとえば森山大道という作家が発表する写真群など、等々。

2005年の現在、あらためてドキュメント写真とは、どういうことなのかを問おうとしています。というところで、この問題の立て方自体が有効なのかどうなのか、との問いがボク自身のなかにあります。ひょっとしたら、もう問題の立て方自体が、無効なのではないか、このように思うわけです。

現代写真を巡る位相は、もう別の位相から論じないといけないのではないか。
それでは、論理化する方式を無効化したときには、何をもって論理化すればよいのか?ここから導かれる解は、直感によるインパクト、なのかも知れないと思ったりします。論理化すること自体に無理がある。もう論理で割り切り、構築できる写真は、「過去」なのかも知れない。

本音、立ち止まって思案してしまうのは、こういう局面に立っている自分の言葉への不信感なのです。

写真について語るということは、実は漠然としています。写真の何について語るのか、を決めなければいけませんね。写真の技術について、とか、写真の歴史について、とか、ですね。それから、写真の勉強について、なんかもテーマになりますね。

あい写真学校と写真ワークショップ京都の写真を勉強する枠組みを作っています。前者は通信制、後者は通学制。拠点は、京都です。最近は、写真史、写真技術、写真論、そうして作品作り、学校の枠を作って、その中を埋める作業をやっているんです。どこまでやってもきりがないな~って思っています。なにかうわべだけを滑っているようで、空しいような気持ちもでてきます。そんな日々を送っています。

<再生フォトハウス京都>

フォトハウス京都を再開させて1年が経ちました。昨年の4月から、通信制の写真学校「あい写真学校」を開校し、10月からはギャラリー・DOTと共催で、「写真ワークショップ京都」を主宰しています。

思えば1984年11月に、フォトハウス京都の設立準備に入り、1985年8月に「ゾーンシステム講座」を中心に開催しました。オリジナルプリント制作の基礎講座といった内容ですが、日本で初めての本格的な公開講座でした。

2004年4月に開校した「あい写真学校」は、デジタル写真時代の新しい写真学校として、通信で学ぶカリキュラムです。そして10月に開校の「写真ワークショップ京都」は通学制。通信と通学を組み合わせて学ぶ写真学校を誕生させたわけです。

新しい写真学校は、写真表現の方法を学ぶ学校として特化させています。ともすれば商業主義に取り込まれていくアートの世界ですが、そこを一旦解体してしまう。たしかに今の時代は、商業(経済)の枠組みを離れては、全ての価値が定着しない様相を示します。つまり、アートする心、写真を撮る心、そのものが商業ベースで成立するかのような現状です。

いま、必要なことは、一旦リセットすることなのだと考えています。現状を分析・理解するためにも、価値観をリセットすることから始めなければ、新しい写真を撮る・作る価値が見出せない。アート全体が商業化されたことで成立する時代。人の生活様式が見直され、新しい人間観をつ作りだそうとの機運を捉えて、写真を一旦商業枠から外してしまう。いま新たに起こる人のあり方を、写真という側面から捉えてみようと思うのです。

新しい写真学校、あい写真学校&写真ワークショップ京都です。フォトハウス京都は、様々な状況とリンクしながら、写真の領域で立ち上げるセクションだと思います。

ぼくの写真史-10-
2005.5.9~2005.10.21

<東松照明さんとの出会い>
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写真家東松照明さんとの最初の出会いは、1982年1月6日の夜9時、京都・三条河原町の六曜社という喫茶店でした。東松照明さんの作品群として発表されている「京都シリーズ」取材のために京都へ来られた数日後のことでした。

当時、「東松照明の世界・展いま!」という全国巡回の企画展の話があり、1981年の夏ごろだったと思います、大阪実行委員会なるものが組織され、ボクもそのメンバーの一員になりました。そういう関係で、東松照明さんが京都在住のボクのことをお知りになったのかと思います。

最初にお会いした当日、ボクは金沢は内灘へ写真を写しに行っておりました。かってあった弾薬庫の跡を撮ろうと思っていた。ところが内灘には、もう弾薬庫の跡が撤去されていて、写真に撮ることが出来なかったのです。内灘取材を終えて、京都の自宅へ帰りついたのが午後8時ごろだった。その数分後だったと思います、東松照明さんから電話がありました。

そりゃもう、びっくりしました。で、京都に来ているが会えないか、というのです。そうしておよそ1時間後に、お会いしたわけです。約2時間、六曜社でお話をし、四条木屋町の宿まで歩き、そこで別れました。東松照明さんとお会いした記憶は、ここから始まります。その後、約3年間にわたって、京都で、東京で、お会いすることになりました。

写真というものに関わりだしておよそ30年の年月が経った。こう書き出すと、もうこの時間の長さというものが、自分の人生のなかの半分を占めてしまっている。けっきょくのところ、表現するツールとしての写真が、ボクの人生のメインたるものに当たることにきずく。

写真を撮る、写真学校をつくる、写真の評論をする。ボクのやってきたことが、単に写真を撮ってたしなむ、ということだっだったのなら、単なるアマチュアカメラマンとして、趣味の段階でとまっていただろう。しかし、そうはならなかったようなのです。写真ということにまつわって、様々なことがあった。

そうしていま59歳になって、あらためて写真っていったい何?と問うことでしか始まらないような気がしているのです。たしかに、写真を撮りだした30年ほど前、年齢的には20代後半だった。そうなんだ、人生の謎なんだ!

形象として写真というモノを選んでいるが、根本は、謎なんだと思う。生きてることの意味を掴むこと。様々なきり方があって、そのきり方に照らして自分の意味を見つけ出すという順当な方法が、出来かけては崩れ、出来かけては崩れてきたように思う。結局、経験というモノが豊富になった程度で、根本のことは判らないままなのです。

写真の撮影技術のことは判る。写真の歴史というのも概略わかる。じゃ~何がわからないのか?それは、日々生きるのに必要な技術は判る。大きな歴史の概略もわかる。でも、何のために生きてるのか?それが根底わからない。この判らないことと同義なんだろうと思う。

どうしようもない苦痛と苛立ちがあります。それは限られた生の時間。その時間の持分が大分少なくなってきていることだ。海の上をどんどんと先の方へいくときのイメージ、いつ絶壁のような滝に落ちるんだろうと思いながら、どこまでいっても水平線があって、その向こうに陸地がある。というように人生もそうであって欲しいが、それはもうありえなくて、いつか死滅するということが判っている。この判っていることへの苦痛と苛立ちなのであります。

この苦痛と苛立ちの限界に対して、写真がいかなる意味をもつのだろうか?単なる暇つぶしなのかもしれないんです。この単なる暇つぶしかも知れないと思う、この思い方には、やっぱり苦痛と苛立ちが伴う。表層、モラルに鑑みて生きていけばいいんだ~とも思えない。でも、表層をモラル的に生きていくことしかできないのだとしたら、ああ~もう!落ち込むしかないじゃ~ありませんか?!

写真という表現手段において、なにをどのように捉えるか、ということがあります。便宜的に分ければ、ドキュメント手法とアート手法があるかと思っていますが、いま気になるのは、その根底を支えているヒトそのものです。

ヒトには感情があり、情動と呼ぶものがあります。写真って、結局、理屈じゃわかりきれなくて、この感情や情動というレベルで、捉えることが必要なんじゃないか、このように思うわけです。

写真をつくる技法があり、写真を見つめる歴史的観点、現代社会的観点といろいろな角度からの分析、論理化が必要とされます。ところで、その論理化だけで、写真を見ることで十分なのだろうか?と考えるわけです。

写真を見て感動する、もちろんそこには記憶が呼び起こされ、そこに触れることで、感動になる。このようにも論理化できるのかも知れない。だからヒトの記憶のメカニズム、あるいは人体のメカニズムを解析すれば、写真を解明できる。このようにもいえるのかも知れないですね。

でも、どうもそれだけではないらしい。ヒトが感動、つまり心を揺り動かせられる、を体験することって、いったい何が作用しているんだろう?このことなんですね。

かなり最近まで、ものごとは全て論理により解明できる、ということを信じ疑わなかったんですが、最近は、ほんとうにそうだろうか?と思ってしまうんです。理屈では解明できないような心の動きがある。このことをも科学的手法によって解明しようとしているのかも知れないんですが、現在時点では、これは不可解な領域に属している。たとえば、男が女をみて反応する、女が男を見て反応する。こりゃ生命現象の本能なんだ、と言葉でいってみても、たぶんなんの解決にもならない。心が動いてしまう、という現象を肉体的に解明できるかも知れない、とは思います。で、そのことを理解したとしても、です。感動のレベル、質、傾斜していくことを、理解したことにはならない。

論理化できない心の衝動や情動のレベルを、ヒトは知覚として知ってしまった。さて、言葉では言い尽くせない、そのこころをどのように、外へ向かって伝えるのか。ここなんですね、問題なのは。写真と云う手段は、この心を伝えることが出来るんじゃないか?と思うわけです。論理的じゃないんですね。論理化できない領域と部分。これを伝えられる可能性としての写真。イメージの投影で、感情、情動を伝達する。

あえて論理化できないものを論理化しなくてもいいのではないか、このようにも思うのです。ただ、ヒトの進化の道筋で、いま論理化できなくても、将来論理化できるかも知れないとは思います。でも、いま論理化できないことを、無理に論理化して一定の枠に収めてしまうより、論理化という枠をとっぱらってしまう。そこで感じること。そう、感じること。この感じることを大切にしてもいいんじゃないのかな~って思うのです。



ぼくの写真史-9-

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1980年の私的な出来事>

1980年という年は、ボクが精力的に仕事を拡大していく年でした。1979年12月にパブ・聖家族での個展をやり、季刊釜ヶ崎を創刊しましたが、80年には4月からフリースペース聖家族の運営を開始し、8月には写真雑誌(フリーペーパー)映像情報を創刊します。季刊釜ヶ崎は1980年中に第4号まで発行します。映像情報は第2号を1981年1月1日付けで発行します。

ボクの内部では、この二つの雑誌はボクのメディア戦略として位置づけていました。その発端は釜ヶ崎地域に対する世間が捉えるイメージの転換を図っていくことでした。ボクたちのイメージを定着させていくマスメディアに対して、ボクら自身のメディアを創っていくことを命題として掲げていきました。遡ること10年前の1970年にいたる2年間の一連の外化したムーブメントを経験したことが、再燃したとでもいえばいいのかも知れません。

1968年から1970年のムーブメントに対して主体的に関わったとは決して言い切れない自分への呵責、あるいは挫折からの立ち直りを意識していたと思います。その頃はまだ、権力に対抗できる権力の樹立なんていう夢想も残っていましたし、かっては文学の可能性なんて考えていたことが、写真の可能性について考えるようになっていました。写真は社会改良の手段となりうると確信して、これを公的には全面に押し出す格好で、自分を運動体に仕立て上げようと試みたのです。

一方で個人の内面の問題があり、日常生活と写真活動、常にアクティブな行動と共に、絆を求めていたように思います。個人が孤立する時代感覚です。メディアによって集約されていく個人の感覚や趣向に対して、そうではない自分の取り戻しとでもいえばいいかと思います。日常生活や社会制度のなかでのボク自身の立場に対して、内面のボク自身の居場所を求めていたのかも知れないです。

既成の組織やものの見方に対する内面の反発とでもいうのでしょうか、いつも既存の枠組みを突き崩したい衝動にさいなまれていたように思います。

季刊釜ヶ崎は、この公式な展開の場であろうとしました。ここでの写真の発表は、ルポルタージュ、あるいは社会的風景へのドキュメント的態度でした。一方で個人的な関係を結んで写真と文章を作品として定着させるべく無名碑シリーズを映像情報誌上にて展開していきます。ボク自身としてはこの無名碑シリーズが写真態度の本命でした。

その頃はまだ、写真は記録であるということに何の疑いもありませんでした。勿論、写真の多義にわたる系譜は理解していたつもりですが、ボクの写真テーマは、時代の記録としての写真、それもプライベートな立場での記録でした。カメラを持ったボクは、被写体になる人の記録の代弁者であることでした。

歴史の成立は権力者の歴史を意味するこの社会で、被権力者の歴史を書き撮り置いていくことでした。まあ、理屈としていえばそのようになるかと思います。そのことを実現するために、自分の内面の弱さを克服していかないとダメ!なんてことも思っていました。

このように捉えると、写真発表や雑誌発行は、自分自身との戦いであったのかも知れないです。文章を書くことを一時断念していたのですが、1978年9月から大阪日記をつけ始めたのがきっかけで、再び文章を書くようになります。写真と文章の並立です。

大阪日記は、大阪取材メモ1978年9月2日に書き起こされる取材日記です。その日は、京橋駅から環状線に乗って天王寺までいき、そこから歩いて飛田までいきます。そうして取材のたびにこの日記が記されていきます。後にこの日記は、映像情報の無名碑と同時に掲載していくことになります。翌年の8月の夏祭りに、釜ヶ崎三角公園で青空写真展を開催するまで、この日記が書かれて、夏祭りで終わる約1年間の取材メモです。

1979年の釜ヶ崎夏祭り以後は、季刊釜ヶ崎の編集と写真レポート執筆に専念する。1980年4月から、「フリースペース聖家族通信」発行しはじめ、8月から「映像情報」を発行することになります。1978年秋から1979年夏までの取材日記をつけるかたわら、少しまとまった評論文を書いておりました。1981年に「いま、写真行為とはなにか」という評論集にまとめることになる文章です。

評論というより状況論とでもいえばいいんでしょうか。写真の現状、社会の現状、釜ヶ崎の現状等に材をとって、文章化していきます。このように1980年は、再び意識して文章を書くことを始める年でした。1980年と今2005年です。

1980年のころを思い出しながら、私的な出来事を書いていますが、その頃のメディア環境と今2005年とを対比させながら、見てみたいと思います。1980年にいくつかの雑誌媒体を発出しましたが、その代表に、季刊釜ヶ崎と映像情報があります。

季刊釜ヶ崎は、印刷媒体です。まだワープロが出現していなかった頃です。文字はタイプライターか写植です。和文タイプライターで打ち込まれたゲラを校正して、版を作り、印刷機にかけるという方法です。

映像情報は、ボクの手元で極力つくる手作業でした。1号と2号は手書きでドラムで版下を作って輪転機にかけて帳合してホッチキスで止める。3号からはタイプ文字になります。簡易和文タイプライターです。事務機器として市販されていたタイプライターで17万円ほどした記憶があります。これで、コツコツと一字づつ打ち込んでいって、版下用紙に貼り付けていきました。写真を掲載するのに網をかけるんですが、これも引き伸ばし段階で、網目を入れていたように思います。コピー機がありますが、等倍コピーで1枚20円。拡大や縮小ができないコピーです。

このようにして、季刊釜ヶ崎も映像情報も、ほとんど手作業の結果生み出されてきた印刷媒体です。ワープロが出てくるのが1984年ごろだったと思います。それ以前は高価なシロモノです。1台数百万円で、一字づつ画面にだしていくワープロです。ボクが最初に買ったのは、キャノワードという機種です。60万円が半額で出ていたのを買い求めます。そのころからワープロを使い、パソコンに切り替えて使ってきました。パソコン通信が始まったのが1985年頃だったと思います。試しにニフティとPCの会員になって、BBSを少しやった記憶があります。

今から10年ほど前、1995年か1996年頃にインターネットというものがあることを知りました。デジタルカメラはリコーというメーカーのカメラだったと思います。1995年頃に4万円台で売り出された。このころからですね、デジタルで写真やビデオ映像が記録されるようになる。

インターネット環境が簡単に廉価で、ランニングコストも安くて運用できるようになりました。まだまだ技術的には改善がなされて、高速で大容量のデータがやり取りできるようになる。携帯電話で全てが出来るようになるでしょうね。で、ここで大事なことはなにかというと、メディアの形態が10年前から変わった。いや、新しいメディアが誕生してきたといえばいいのかもしれないです。つまりインターネット環境を私的にゲットして、個人情報が発信できる環境である、という点です。

1980年当時、ボクはたまたま同人誌やミニコミ誌の経験から、発信手段を模索してきましたけれど、大方の人は、発信ツールは持たなかったです。それが現在2005年、このブログもその一つですが、インターネットを通じて、情報が簡単に発信できるようになった。ただし、このインターネット環境は、完全管理下に置かれた環境であることです。

このようにメディア環境が変わった。インターネットを介在させるツールは、新しいメディアです。つまりマスメディアしかなかった環境に、パーソナルメディア環境が誕生したんです。つい最近まで、ホームページは雑誌媒体のネットワーク版の様相でした。商売の広告ツールとして、マスメディアのネット版としてありました。それが、個人の創意によって内容が創られる時代になってきたんです。確かにフォーマットやシステムはプロバイザーに規定されますが、コンテンツは個人のものです。新しいメディアの使い方は、これから作られていくのです。

<写真ワークショップ京都の開校>

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2005年4月28日 記念日に。

今日4月28日は、いくつかの記念日が重なっているんです。ボクの誕生日。結婚記念日。綜合文化研究所設立記念日。写真ワークショップ京都とむくむく通信社の設立記念日。

昔といっても1952年だったか、日米講和条約が締結された日が4月28日。名目上、戦後日本が独立した日とゆうことです。通信制あい写真学校の開校は昨年の4月28日です。一年後の4月、つまり2005年4月、通学制の写真学校「写真ワークショップ京都」を開校させました。今年は、いろいろとチャレンジします。

米つくり、小説書き、写真学校ディレクション、そのほかにもいろいろありそうです。今日は、そんな、記念日の日だと明記しておきます。


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