中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

2015年11月

ぼくの写真史-15-
  2005.11.7~2006.3.16

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☆天神さんの縁日
毎月25日は、天神さんの縁日、北野天満宮です。ぶらりカメラを持って出かけました。目的は古い着物を撮ることです。着物シリーズを手がけているところです。和服の着物です。赤い色が多いです。古着屋さん、この和服の山を見ていると、何かしら情が湧いてきます。古い昔のイメージで、ボクの心を締めつけるなにか・・・。とおい記憶を呼び覚ますのです。

京都に生まれて京都に育った。そうして今も京都に住んでるんですが、北野天満宮は近場でもあり、子供のころからの遊び場、縁日のたびに胸をワクワクさせていたものでした。生まれて育っておよそ60年が過ぎていくわけだけれど、その心のふるさとに天神さんの縁日があるような気がします。

京都を分析しようなんて思っても、そりゃ~無理っていうもんだ!そんな概念じゃ~ないんです。感じていくなかに立ち現れてくるイメージなのだと思います。最近はちょっと落ち着いてきたから、出来事の一つ一つに感じていこうと思う。写真作業は、ぼちぼちと進めています。何のことは無い、今あるものしか写らないんだけど、それでもボクのなかで、昔の記憶と目の前の光景がダブってくるのさ、ね。天神さんの縁日なんてその最たる光景ですね。

☆写真にまつわる
まあ最近は写真を軸にボクの日々が組まれているといってもいいですね。今日は、写真ワークショップ京都の12月テクニカルレクチャーの開講日です。先日、12月1日に、まるエコ塾が開塾させたのですが、ボクの担当は写真塾です。

もともと写真を撮る、写真を考える、という枠組みは、写真の外側への体験を、写真画像にしていくわけです。ボクの場合、写真に撮られる被写体を求めること、そうしてその枠組みをつくる場をつくる、この二つが共存しています。

京都で始めた写真ワークショップ京都。この写真教育システムは、1984年に企画したフォトハウス京都(当時は、フォトハウス)の再開の中で、これまでの体験ノウハウを詰め込んだ講座です。

まるエコ塾は、講座が扱う領域自体を拡大しており、その中に写真表現の項がある。そんな企画で、中核は、写真ワークショップ京都です。この現場に先立ち、あい写真学校たる通信で学べる写真学校を立ち上げた(2004年4月)のですが、その半年後にギャラリー・DOTの岡田さんと共に、本拠地たる写真学校の設立を目論んだところです。

このようにみると最近のボクのなかは、写真というものにまつわる行為に終始しているといえます。今日掲載の写真は、12月1日開塾のまるエコ塾風景です。

☆早いな~12月
12月16日・・・もう今年もあと二週間少しで終わってしまう。暦という怪物があって、何時も手元に置かれていて、今日が何年何月何日・・・なんてこと確認しているんですが・・・今年は、山の生活、あわただしかったせいもあって、ゆっくりできなかった。

写真は行く度に撮っているんですが、丸二年が経って、3度目の冬を迎えることになります、山の生活物語です。「山の生活物語」とは、ボクの写真作業のタイトルとしてつけているものです。2年前にキャノンのデジタルカメラを買って、それから写真撮りが始まったんですが、ね。金沢の山手にいまはまだ別荘として使っている家をこしらえて、11年目になります。

最初はソニーのビデオ、ハンディカムで、移り行く季節の風物を撮っていたんです。数年前から写真をも撮るようになっていました。昔使っていたニコンの自動露出カメラに、55ミリマクロレンズをつけて、別荘の庭と、その周辺です。ネガカラーフィルムです。ボクの写真を撮るわだかまりが、解けてきたから・・・なんですが、1984年3月に写真を撮るのをやめようと決断したんです。そのとき、10年を封印しようと決断したんです。結局、それ以上の年月が過ぎ去って、ぼちぼちとカメラを持ち出した、というわけでした。

この2年間で、写真を沢山撮ったと思っています。もうなんのてらいもなく、どんどんホームページに掲載していってます。総数二千点を越えてると思います。ここにも最近撮った写真をアップしています。2005年12月12日朝の真弓の実です。

☆ドキュメントの手法
ボクのドキュメント、その方法論とでもいえばよろしいんでしょうか。自分が居る現場で写真を撮っていく・・・。ドキュメントの方法として、そういう手法をとっています。

12月17日、赤熊自然農園の一角で造られている、石窯つくりに参加しています。この日の作業を写真に撮った。これがボクの写真作品となる。もちろん沢山撮りますから、即作品採用ということではないとしても、そのつど、最新情報で発信していく。

インターネット環境が大分整備され、いまやだれもが情報発信できる時代です。だからボクの発表媒体は、インターネット上です。自分が関わる現場で、写真を撮ります。興味ある現場で主体的に関わっていきます。写真を撮ることを平行させていきますが、写真を撮ることが第一目的ではありません。

かって1980年代に、ボクは映像情報を発行していましたが、その当時の考えかたと変わってないですね。写真が日常風景に向かうべきだ、という命題を掲げて、釜ヶ崎取材に入ったんです。けれども運動体に寄生するカメラマンという立場を脱却できなかった。
それからかれこれ20年が過ぎて、いまは主体的に関わる現場を記録している。写真と文章によるドキュメント!の手法です。

☆クリスマスイヴ
もう12月24日、世間並みに話題を取り上げれば、今日はクリスマスイヴ・・・普段と変わらない日々の一日なんだけど、気になることは気になります。

今日も朝から、パソコンの前に座って、ブログに記事を書いたり、HPのメンテやったりして、夜になりました。そんななかで、或るグループサイトをつくった。虚構の人物を、小説の主人公のようにして、ネット上を歩かせてみようとの試み(考え)です。

小説という物語を一冊の本の中に閉じ込めてきた文学という芸術分野です。これを今の時代に置き換えてみれば、仮想空間があるじゃないですか。インターネット環境という代物です。この仮想空間をリアルタイムに捉えていく。かってハイレッドセンターのハプニングってのがあった。なんか、それのサイバー上行為のような気がしてるんです。

それぞれの時代に、独特のメディアの形があり、価値創造の役割を担っているわけだけれど、全てを既存のツールを使って、いうなれば公共の路上に替わる、サイバー上のストリートで、ネットワークを創り出す。その登場人物は、あたかも小説の主人公を設定し、息吹をあたえていくプロセスと同じようなものだとおもうのです。

メディアアートとかヴァーチャルアートとか、メールアートとか、サイバーネットを使ったアートの一端を、試みている、と思っています。はたして、どうなのかは、これからの展開に、なる話だ。危ういアートの形ではあるけれど、新しいアートの形として、ボクは認定しているんです。


ぼくの写真史-14-
  2005.11.7~2006.3.16

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☆東松照明展
東松照明さんの写真展が今日から始まるというので、大阪まで見に行った。
淀屋橋にある「ギャラリー新居」。東松さんと会えるかも知れないと期待しながら行ったけれど、今回は来られないとのこと。図版を買い求め、芳名帖に名前を書いて、数枚、会場の写真を撮らせてもらった。

京都市バスで四条河原町まで行き、阪急に乗って梅田へ、地下鉄御堂筋線一駅、淀屋橋まで。ギャラリーの所在がわからず、2回、淀屋橋から新御堂まで行き来してしまった。三和銀行旧本店、瓦町という表示板。かって行き来した場所へ、久しぶりに赴いて、複雑な気持ちになった。会場には10分ほど滞在したと思う。コーヒーでも飲もうかと思いながら、やめて、そのまま京阪特急に乗り込んだ。京阪電車、これも思い出多き電車だ。淀屋橋の階段降り口で、もう30年も前だな、長女を連れて写真材料の買出しにいった。そのときの光景をふっとよみがえらせていた。

四条で降りてそのまま市バスを待ち、乗り込んだ。四条のバス停で、四方の風景を写真に撮った。家を出てから帰りつくまで、5時間の行程だった。 

☆エグザイルギャラリー
エグザイルギャラリーは、北白川にある。西澤豊さんが主宰しているギャラリーだ。今日、そこへ行ってきた。1999年オープンで、これまで5回写真展を開催したという。今日は、松井洋子さんという人の写真展。目的は、西澤豊氏に会うことだった。

もう10年以上も前のことになるという、表現大学へ西澤氏が受講しに来ていた、税理士さんだった。同じ京都に住んでいて、いわば様子伺いといった訪問だった。綺麗なギャラリー空間だった。顔を合わすなり、西澤氏も気づいてくれた。ボクが京都で、DOTと一緒に写真学校を始めたことなどを話した。共同作業ができないかなとも思ったのだったが・・・。

自転車で、出町柳から百万遍へ、そこから北白川のギャラリーを探しながら行った。そうして西澤氏と会話して、また自転車で・・・今出川通りへ出た。京大農学部前、そこでカメラを取り出して、シャッターを切った。路上を撮った。1969年春先の光景が、脳裏に甦ってきたのだった。

路上バリケードの前で、投げられた火炎瓶のガソリンが燃え盛っていた光景。機動隊が催涙ガス弾を打ち込んだ光景。昨夜のニュースで、フランスで暴動が起こっているという光景を見た。それが誘引となったのかも知れなかった。1969年春の光景が、目の前に妄想されたのだった。

平和だな、と思った。自動車が行き交い、自転車に跨った学生とすれ違った。光景は、ボクの妄想にしか過ぎないのだ、と思った。ちょっと憂鬱になった。理由はわからないが、メランコリー。晴れた日の午後の時間だった。
☆写真ワークショップ京都11/12
昨日、11月12日は、写真ワークショップ京都の11月セミナー&ゼミの日でした。4月に開校して8ヶ月、今回のWSには、新しい参加者が2名、見学されました。写真の勉強をしたいと、やる気満々の二人、男の人と女の人。毎回、参加者の顔ぶれが定まらないんですが、内容的には、まだまだ試行のところがあるので、欠席の人、なんで欠席なの、と心配になってるのも事実なんです。

技術を教え学ぶカリキュラムってのは、ある意味、楽なんです。というのも撮影や写真制作技術という、確実なものを伝えるんですから、楽なんです。
セミナー&ワークショップの枠組みは、不確定要素、つまり考え方や捉え方、そのこと自体をテーマにするわけだから、やってて不安になってくるんですね。これでいいんやろか~なんて思ってしまうわけ・・・。なるべく参加者が、自らの言葉で発言して欲しい、と思いながら、言葉が少ない・・・。

新しいお二人が、言葉を沢山紡ぎだしてくれたので、正直なところ楽でした・・・。でもしゃべれなかったメンバーの気持ちを、推測すると、これでいいのかな~?やっぱり思ってしまう・・・。

一日あけた今日です、そんなこと思ってしまって、ここに記述しておきます。
ホント、主宰者がこういうことを言ったらあかんのだけど、ね。

☆イタリア紀行
11月14日から21日まで、イタリア旅行に出かけた。JTBのパック旅行です。
ヘルシンキ経由でミラノへ到着。ベローナ、ベネチア、フィレンツェ、ナポリ、カプリ、ローマ・・・。あわただしい観光旅行だった。35年目の新婚旅行と云うのも恥ずかしい気がするけれど、同行16組中、14組が新婚旅行の若いペア、それに得体の知れない中年ペアとボクたちのペアだった。

イタリアというと、最近ではスローフードの発祥地とローマ法王庁、サン・ピエトロ寺院がある・・・程度の思いで出かけた。断片的に刷り込まれたボクの知識。旅の途中の観光ガイドで、ほんと、断片知識がそれなりのまとまりとなってきた。

ルネサンスの発祥地なのだ。レオナルド・ダビンチ、ミケランジェロ、その程度の名前なら知っている。フィレンツェ、ベネチア、ローマ、その程度の地名なら知っている。その程度なのだけど、訪れた先々で、刷り込まれた記憶が、断片として浮上してくる、経験だった。

キリスト受難のイメージが、ボクの記憶のなかにあり、それを絵画や寺院を目の前にして、ある種の感動が紡ぎだされてくるのだった。いくつかの見慣れた絵画や彫刻があった。遺跡があった。そして旅は、その記憶を甦らせてくるのだった。

写真を撮る。今回はデジカメ、バッテリー消耗の範囲で、撮る。出発前に、130~150カットが撮れる計算で、撮影旅行ではない。旅の記録程度の思いで、出かけた。訪問する各都市で、10~20コマ程度の枚数だ。寺院内部や暗い場所で、シャッターを切るとき、手振れする。まあいいや、と思いながら撮った。177コマ撮れた。整理して70コマをセレクトした。極端に手振れたコマは除いた。感動して撮影したコマがいくつかある。磔刑のキリスト、マリアに抱かれたキリスト、サンピエトロ寺院の内部・・・それらがアルバムに残る。

ぼくの写真史-13-
  2005.5.9~2005.11.12
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<デジタル写真で・・・>

デジタルカメラを手にして2年がたった。一昨年の9月にパソコンを買い、10月にキャノンのデジタルカメラを買ったんです。それからボクの写真撮りが、はじまったってわけです。9月に入って、この2年間の写真の整理に入っています。

http://www.geocities.jp/nakagawasense/info02.html
ここのページに集約して、アルバムが見れるようにしています。昨年の春から、写真評論をやりだして、HPに載せています。

あい写真学校のテキストを書くのが、目的だったわけですが、相当にスピードアップして、内容の精査なしで書き付けたって感じなので、再び、ゆっくりと精査しながら書いていこうと思っています。

IMIをやめて丸3年です。次の展開をどうしょうと思う中で、新しい写真学校を創りだす、という手段を考えた。回りまわって、「あい写真学校&写真ワークショップ京都」のフレームになったわけですが、次は中味をどう詰めていくかというところです。

ライフワークとしての 総合文化研究所 の枠組みがあります。

自分の生き方の研究!これが大きなテーマです。そっから少しずつ細部を見つめて、実践していきたいと思っています。そして今、この2年間に撮った写真をまとめる作業をしています。

<デジタルカメラを使うようになって思うこと>

その処理スピードとか、コストパフォーマンスとか、撮影領域とか、フィルムでは考えられないような事態が起こってしまいましたね。具体的に書き連ねてみます。デジカメで撮った写真データをパソコンに取り込んで、すぐさまホームページ等へアップすることが出来る。このスピード感ですね。

フィルムを使っていた体験でいうと、撮影後、現像処理をして、紙に焼き付ける。釜ヶ崎取材をやっていた1970年代の終わりごろ、約30年前の話です。処理の第一日目は、フィルム現像です。第二日目はフィルムの密着焼きです。そうしてプリントする駒を選び出す作業が第三日目あたりです。第三日目には、キャビネの大きさでプリントします。そこから数枚を本焼きするんですが、この作業って、もう撮影から第五日目あたりです。

こうして写真を作っていた頃から見れば、デジタル処理ってのは、撮影後直ぐにパソコンに取り込んで、大きく見ることができるわけです。ボクの今のテンポでいえば、撮影後データを取り込んで、翌日には駒のセレクトをします。こうしてファイルにセレクトした写真を、そのつど使っていくわけです。

コストパフォーマンスで言うと、ランニングコストがほとんどゼロに近いです。ボクの場合だと、ホームページへのアップですから、カメラとパソコン一式の初期投資だけです。フィルム使用時代、毎月十万円程度を使っていたわけですから、もうメチャ安、ローコストです。

それからプライベートな写真が、自己処理できることがあげられます。第三者をとおして処理する必要が無いデジタルですから、プライベートな写真を作ることができる。
デジタル時代になって、写真をつくる道具が、飛躍的に使いやすくなった。デジタル信号だから、フィルムのように物質感はありません。フィルムに慣れてきた人には、この点が不安な要素だと聞きますが、それは割り切りようですね。

最近の動向>

ちょっと疲れ気味だといえば、そのようにも思える最近です。なんてことない、やりすぎなんよ、何でも飛びつくから・・・でもさ、何でもやりたい気持ちもあるんだから、その気持ちに任せていけばいいんじゃないですか、ね。

写真の仕事、これを最重視していかないといけません。これが中心となる感心事の系ですから、ここから逸脱してはいけません。とはいえ、作家しようと思って、取材に入っているんだから、ね。写真ってのは、被写体が必要なんだ。
その被写体との遭遇を求めているんです。

とはいえ、そればっかりjじゃ~ないんです。実のところはね。ブログをに書く何のために書くのか。生徒を呼ぶためだ。写真学校の生徒募集が最優先の気持ち!だから、この最優先から逸脱していくから、疲れるんかも知れないね。

小説も書いてる。これが中心になってるかな~!小説、書いても、金にならない、欲求満たすだけだから・・・そんなこんなで、過去とはおさらば、こんどこそ!

ぼくの写真史-12-
  2005.5.9~2005.10.21
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原点について-1->

原点についての考え。

いくつかの原点がある。自分が生まれたときを、一つの原点軸とする。自分があるきっかけで、興味を持ち、スパイラルを描きながら今もって興味がある、その原点。自分の思考の軸を構成する、原点。

ひとつ原点志向で、物事をとらえる試みをやっていこうと思う。

生まれは1946年4月、京都だ。京都のいま住んでいる場所。父の母の、つまりボクのおばあちゃんの家だ。そうして幼年、小学校へ入る直前まで、中京区壬生馬場町という大通りに面した家屋に住んでいた。

数週間前、三条商店街を、千本通りから御池までを自転車で通った。幼年期の記憶を辿りながら、現在のトポス確認、とでもいえばいいかも知れない。
1982年ごろに、カメラを持ってその界隈を取材したことがあった。原点回帰。確認を含めた写真作業だった。それから20数年を経て、今回はカメラを持たずに彼女と一緒に自転車で通過しただけだ。

昔、映画館だった角のビルが、スーパーに変わっていた。がらんとした商店街だった。土地勘はある。大宮通の角の公園お記憶。そういえば、1969年12月、東京から京都へ戻ってきた直後の数ヶ月?スーパーが開店するというので、テナントの家電量販店へアルバイトで雇われた。そんな諸々の記憶が甦ってか消えていった。

ボクの原点と思えるいくつかのポイントがあります。そのひとつに1968年というポイントがあります。

1968年は、ボクが大学へ入学した年です。結局、ボク自身は運動の中心にはならなかったのだけど、学生の手によって大学封鎖がおこなわれていた年です。3年遅れで大学生となったボクは、もう21歳だった。高校で同じ学年の友達が4回生、1年下の後輩が大学の先輩としていた。ボクが入学した学校は立命館大学二部文学部でした。自分の稼いだ金で学生生活をしなければいけないので、結果としては、学費も安く、昼間仕事をしていても通える条件です。

入学してまもなく、フランスはパリで大規模なデモがおこなわれているというニュースが、TVをにぎわしていました。フランスの革命、第五共和国になるんですね、そんなニュースでした。いや~遠い世界の出来事です。社会経験もそんなになかったし、全体状況がつかめるわけがないわけですが、雰囲気を受け留めていたと思います。日本の各地の大学が紛争状態になり、学生による封鎖が方々でおこなわれていた。

ボクはといえば、アルバイトをしていた。いまのようにフリーターなんて言葉と枠組みがない時代です。就職してるか学生か、この二者択一です。だからアルバイトというより正規社員で週48時間労働です。そうして夏休みが終わり秋になったころには、ボクはもう学校へはほとんど行かなくなっていた。ただ、文学がやりたかったから、小説を書くこと、これは意識していました。大学のサークルで機関誌を出してましたから、その編集をやったり、小説を書いたり、です。
そのうち大学が封鎖された?のだったか、全学集会なるものが開かれた。野次馬の一人として参加した、というのが本当のところです。この一連の学生ムーブメントの中で、その後に繋がるいろいろな議論に参加し、行動に併走した。

いま、1968年に創刊された「provoke」という写真同人誌をめぐって、写真領域で新たな議論が起こっています。ボクも、10月10日、これをテーマにレクチャーをします(写真表現大学の写真史講座)。ボクのなかにも、1968年問題として、今に繋げる取っ掛かりをつかみたいと思っているのです。

あの時代、なんて括る1968年からの数年間。ことが終わって静けさを取り戻したころから、ボクの中で問題意識化されてきた。その後において、自分の思想的背景を思うとき、1968年に立ち返る。そういう意味で、1968年というのは、ボクの原点のひとつだと認定するわけです。

ボクの写真現場について>

ボクが写真を撮る現場は、生活周辺、直接に生活をつくりだす現場です。ボクの行動範囲、活動範囲、生活範囲、空想・想像範囲において、カメラを向けて写真化しています。なおかつ撮った写真は、トリミングしない、加工しない、を原則としています。

居住空間は、京都と金沢です。だから、それぞれの自宅の中、つまりボクの所有する範囲で写真を撮る。だから写ってくるモノは、ボクの所有物であります。それは、生活のための道具であったり、花や草木といったものです。

外に向けた行動範囲は、ボクの生活空間の範囲に限定していく。ボクは京都の北西に居住しています。神社仏閣といえば、北野天満宮、平野神社、千本閻魔堂、釘抜き地蔵、といったところです。氏子となる祭りは<やすらい祭り>、これは玄武神社の祭事です。町並みは西陣界隈。ちょうどボクの居住地は、洛中と洛外の境界線の洛中側にあります。北に向いて右が洛中、左が洛外となります。

活動空間は、直近なら、京都農塾、写真ワークショップ京都、彩都メディア図書館&IMI、びわこほっと関連、こんなところでしょうか。それにパソコンがあります。パソコンでは、外部情報が手に入ります。様々なイメージが手に入ります。このイメージを写真化して使います。CTR画面に写しだされたイメージを撮っています。これがボクの写真撮影の現場です。

 じゃ~なぜ、この生活空間に限定しているのか、ということを述べなければいけませんね。写真が遠くのモノを近くへ移送する手段だったとしたら、ボクの写真は、近くのモノを遠くへ移送する手段ではないか。

日常の生活空間と離れた場所で写真が撮られてきたとするなら、生活空間その場で写真を撮ろうと思ってる。生活空間にあるモノをとることで、際限なき想像空間を表出できないか、との試みでもある。外在者によって記録行為がなされてきたとすれば、内在者が記録行為者であることを試みる。いま、即座に思いつく理由は、こんなところでしょうか。


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