中川繁夫写文集

2015年12月

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クリスマスイヴ、とはいってもぼくにはあまり関係ない。
今夜は帰りが遅くて、家族と一緒に食事するなんてしません。
この12月は、パソコンを入れ替えたので、そのメンテに時間がかかっています。
ようやく一巡、ホームページやブログへのアクセスを終えたところです。
このブログでは、これまでに書いた文章を再録していましたが、今は違います。
現在点での文章をライブで書いて、載せていくということです。
ところが最近、論を構成する文章が書けなくなってしまったのです。
フィクションならイメージを文章化すればいいだけなのに、これもできない。
どうしたことか、わけわからん、あたまが老化してしもて、あかん。
まあ、そういうこといっていても仕方がないので、支離滅裂しようと思っています。
こうなってしまった原因は、それなりに自分ではわかっているけど、なんで?
なんで、こんなことになってしまうのか、心の中なんて、不思議なものですね。
まもなくお正月、2016年になるというのに、われ、70歳です。




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iPhoneを使い出して2ヶ月少し、これで写真を撮っています。
かなり小回りをきかして、その場でアップロードすることにしています。
GPSにより場所が記録される。
瞬時にネットワークにあげることができる。
リアルタイムで、いまのところ静止画を羅列している。
いまどきの作品作りの方法を、模索しているところです。
車窓からの写真が多いのは、瞬時の成り行きを、定着させる。
そんな発想もあって、粗悪品、作品つくりに励んでいます。
気持ちが、動転してしまって、どうしようかと思う。
自分の在処を探しているんです。



ぼくの写真史-16-
  2005.11.7~2006.3.16

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2006年です、早々に一言
あけましておめでとうございます。2006年ですね・・・ボクは1946年生まれだから、60歳になる。何かしら自分で信じられないな~という感じです。いつまでも若いままでいたいですが、身体のほうは老化しているのがわかります。でも、気持ちのほうは、ますます若くなっていくのかな、なんて思っています。

綜合文化研究所なるもの、構想からおよそ5年が経ちます。最近、その構想の細部をWEB上、そして現場を作りつつありますけれど、ちょっと自分でも混乱するくらい、多岐にわたってしまったようです。綜合文化研究の各パートを少し整理整頓しないといけないのかな~と思ったりもしています。それと個人的作品制作、今年は作家をやろう、と正月早々思った。

ボクが展開しているWEB戦略・・・多岐にわたって、迷路のごとくなってしまったHPやブログ。全体像を把握されないように迷路のようにしているところもあるんです。現代社会が迷路のようになっていて、全体像がつかめないようにです。ただ、いえることは、資本に対抗する、このことです。ひとりの人間が成し得ることなど、ちっぽけな、たかが知れたことです。WEB上で全方位から押し寄せてくる情報に対して、全方位に情報を対抗させていく。そんな無謀な試みを、けっこう面白がってやっている自分を発見します。

1月3日、綜合文化研究所を中心とした展開マトリクスを書面化してみた。学校、生産、発信、交流の四つの分野に分けてみて、それぞれが入り子状になっていて、相互関連を持っている。世の中の表と裏、ボクの表と裏、それらを全体として現代文化として捉える試みだ。グローバル化への対抗軸。心の抑圧からの開放軸。大きくはこの二つの対抗軸をもって、各パーツを動かしていく。このような基本設定が見えてきたといえる。

ここでは、この軸の具体的な展開を整理していきたいと思っている。けれども、浮気性なボクは、あっち行ったりこっち来たりで、まだまだ定まらないです。その時々の興味で、動いているんです。まあ、今年も何かとよろしくお願いします。
☆文学・小説を手がける
文学とえいば、ボクは高校2年のとき個人詩集を発行していました。「そなちね」という名前の詩集で、ガリ版刷りの詩集で、3号まで発行して終わった。俗にいう3号雑誌です。その後、1年間浪人生活をしていたころ、1967年前後には、小説家になりたいという意志をもちました。大学へ入り、文芸サークルに入部し、何点か短編を載せ、文学論を交わしていました。1970年を越えた頃、同人「反鎮魂」というグループをつくり、毎週日曜日の午後に読書会、そうして同人誌を発行していきました。ボクは、けっこう硬派な小説を書いて発表していました。

1975年か76年頃には、小説を書くということに閉塞感をいだいており、その頃から写真に熱中しだします。高校時代から大学を卒業する約10年間が、いわばボクの小説家をめざした年月でした。その後も、文章を書くということは、かなり断続的ではありましたが、写真評論を手がけたり、写真情報誌「映像情報」を発行したりしてきました。文学というには遠い感じがしていて、もう詩や小説を書くこともあるまい、と思っていました。

再び文章を書くことを手がけたのは、2001年の秋前後からです。その2年程前から、読書を始めた。手当たりしだいに興味分野の書籍を読み・・・とはいっても哲学系原書には及びませんですが・・・小説を読み直そうと思い出してきたのです。五木寛之のエッセイ、遠藤周作の小説をまあ、徹底的に読破しました。そのほかにも傾斜していった作家もありますが、現代の流行作家の小説もいくつか読みました。

2002年にそれまでの仕事をやめ、その前後に構想した綜合文化研究所の設立を着手しだしました。2004年4月にWEB上にホームページにて設立し、最初の現場は写真学校を作ることから始めて、文学校、農学校、自然学校なんてヴァーチャルですが枠組みをつくりました。評論を手がけて、猛烈な勢いで文章を書いた。難しい理論はさておいて、自分の思いを文章化していくというものです。そういうなかで、フィクションを書きたい、つまり小説形式の文章を書きたいと思うようになってきました。

現在、えろす領域をテーマにした小説を書くようになり、写真評論や社会評論とは別枠で、展開しだしているところです。本題はまた別途、書いていきます。

☆まるエコ塾
滋賀県のプロジェクトにこんなのがあって・・・と、昨年の春先に菱川さんから話を聞かせてもらって、興味をもったのが始まりで、当初10月開塾予定が12月になったものの、計画は着実に進められたと思います。菱川さんの<情報ボックス>プロジェクトのラフ案をみたとき、ボクなりに全体像が見えた感じがした。

ボクの企画プロジェクトは、綜合文化研究所を想定し、WEB上で設立させたのが2004年4月です。学校機能を軸において、生産、発信、交流の三つの領域をクロスさせていくマトリクスを描いたものです。あい写真学校と写真ワークショップ京都は、学校機能の柱です。むくむく通信社は発信機能の具体化です。

生産にこだわるボクは、京都農塾の塾生となった。そこで知り合ったのが菱川さん。ネットワークつくりに精力的にエネルギーを注いでらっしゃる人です。ボクのほうは、見る前に跳べ、だからミーティングに参加させてもらって、まあ、好きなことをぺらぺらと喋っていました。そうしてボクは、まるエコ塾長ということになり、まるエコ塾の基本ラフ設計をやりだした、というわけです。

まあ、ある種、戦略的アイデアをもって、イメージを作っていって、内容を固めていく・・・。ボク自身が批判する<ハリボテ構造>と同じような構造だと思いながら、反ハリボテ構造を作ろうとしている、と自負しておきます。

まるエコ塾は、写真塾と記者塾、つまりボクの領域と菱川さんの領域が、ひとまず開塾したというところです。ほんとうは生産する塾が優先的に立ち上がるべきだと思っています。でも、今年、プレ開塾にまで作れると思います。追ってまた企画を進めて、ここに書きつけていきたいと思います。

☆まるエコ塾 2005/2/9
まるエコ塾が始まって、6回目が昨日2/9開講しました。地域ジャーナリスト養成講座としているのですが、昨日の塾では、この地域ジャーナリストの枠つくり。一般にジャーナリストというと、事件やイベントがある地域へ赴いて、取材し、メディアを通じて公開するというプロセスです。歴代のジャーナリストから、キャパさん、サルガドさんの取材方法と作品を見ながら、では、地域ジャーナリストとは、どういうことをするの?という問いかけをしてみました。

歴代ジャーナリストは、おおむね自分の生活圏とは違った場所で、取材活動をします。通過形、滞在形と取材の形は違いますが、生活圏外で取材します。そうしてそれらの写真や記事は、メディアを通じて公開されます。ここに取材者と非取材者、撮る側と撮られる側があり、見る人は第三者という図式です。この形が一般的なジャーナリストのありかたです。

ボクの立場でいうと、1978年から取材に入った釜ヶ崎で、この形を変形させようと思った。撮る側と撮られる側、それに鑑賞する人の関係を、一体のものとする形です。でも、そのときのボクには限界がありました。そこに生活する人ではなかったわけです。

地域ジャーナリストへの試行がその当時に思考され、いま、あらためて枠組みをつくっていこうとしているわけです。被写体となってきた人が、みずから記録者になる。それも生活圏において・・・。地域ジャーナリストの枠組みは、このことを実践する人のことをさします。このように考えているところです。

☆春に想う
毎日の過ぎるのが早い。そのように思う日々です。この前、この日記をつけたのが2月10日とあります。今日は3月16日だから、一ヶ月以上も放置していたことになります。

春です、昨日、桜を撮りにいきました。平野神社です。一昨年、昨年と2年にわたって、平野神社の桜を撮りました。今年は3年目になるのだけれど、この2年は、桜花のピークを中心に撮ってきたんです。地域の文化をみつめる。地域文化研究という枠を課しているんですが、その実行ということも意識しているのです。桜にもいろいろな種がある。ソメイヨシノが意識の中心だった。桜といえば、それをさしているような感覚だったのが、最近は、そのほかの種、昨日は桃桜、-とうおう-っていうんでしょうか、春一番の桜花。

きらびやかな光景に気持ちが向いていくのは、身体が衰退していくことに原因があるのかな、と思う。昔読んだ、谷崎の細雪のなかに、広沢の池あたりで四姉妹だったかが花見をしている描写があったことを思い出す。和服と桜と京都の光景だ。ボクの最近の興味も、そこに至っているんです。

桜にまつわる記憶は、東松さんの桜取材だ。もう20年以上も前の話だけれど、東松さんの桜取材に同行して、一緒に桜を撮らせてもらった。そのとき、ボクは桜をアップで撮った。東松さんは、そんな写真は撮らない、ということを言った。その後、桜の写真集を出版されたけれど、桜花のアップ写真はない。

固守するわけではないけれど、ボクは桜花のアップ写真を撮る。キャノンのデジカメで、マクロではないレンズだから、おおむね最短で撮る。そのように最近は思っています。花そのもののディテールなのです。これはテーマ自体に由来する撮り方だと思います。東松さんは、たぶん、文化という枠組みで桜を捉えられたと思うのだけど、ボクは情の枠組みで捉えようと思っているのです。



 写真への手紙・覚書/写真物語-6- 2006.4.28 nakagawa shigeo

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