中川繁夫写文集

2016年03月

<情動・フォト>3

写真に撮られるテーマと内容は、その時の社会がもつテーマを、具体的なイメージとして見せることだと思っています。そのことでいうと、現代社会の問題は、個人の内面の問題になってきていると思っています。もちろん、これまで表面的に現れていた問題が無効になるかといえば、まったくそうではなくて、新たな問題として現われてきている問題です。写真に撮られるときには、その問題は潜在的なものであって、写真が撮られてのち、数年またはそれ以上の後になって顕在化してくる問題です。現代社会の個人の内面の問題をとらえてみると、その中身は非常にセクシュアルなものであろうと推測できます。

最近では、痴漢行為や盗撮行為が、社会問題、犯罪として、ニュースで個別に取り上げられます。昨日、NHKでJKビジネスが売春にまで至っているというレポートをしています。JKとは女子高校生のこと。つまりNHKではJKというあやしげなる略語が、社会に認知されているという前提で、使っているものと思われますが、その実態は需給と供給の関係にまで至れると思います。社会の表面から隠された、しかし公然の秘密めいたことがら、セックスなことなのです。社会の爛熟といういい方はどうかと思うが、ある意味、世が乱れているわけで、人心が本能に基づいて行動してしまう、ということに外ならないのでしょう。

写真や映像は、疑似体験できる装置として存在するわけですから、時代の鏡としてあります。最近、あるブログが忠告を受け、あるいは閉鎖されてしまった理由のひとつに、無修正サイトへの誘導、という項目があったといいます。日本国内では、いけなくて、外国では、いける、というある特定のからだの部位が修正されていないところへの誘導のおそれがある、ということでしょうか。こういう事態が起こっているというのは、つまり、関心ごとの中身が、内面のセクシュアルをどう解消するか、という逆要請ととらえてみて、ネットの時代、個人が個人として自立し始めた時代、この時代の闇をあぶりだす装置としての写真・映像が、大きな需要として存在しているように思われます。

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<情動・フォト>2

写真制作の方法で、ドキュメンタリーという制作の方法をメインに据えて、その周辺に派生する写真群として<フィクション・フォト>やここでいう<情動・フォト>という内容の写真群があると思っています。ということで、時代の流れのなかで、写真の社会的役割が、すこしずつ変化してきたと思えます。かって、世の中の記録をする手段として、文字が使われ、絵画が使われていましたが、写真術が発明されることによって、記録の中心的存在になってきたのが写真イメージです。映写機を使って記録するフィルム、つまり映画が担うというより静止画の写真。これは紙媒体、新聞とか雑誌に掲載するのは静止画、写真でしたから。ところが、テレビの発展、ビデオの発展、いまやインターネット通信の時代になっていて、写真が持っていた記録性を使用する媒体、新聞や雑誌から、動画でもって記録するビデオが主流になってきたのです。

写真にとって、記録することが第一義だった役割から、写真で記録しなくても動画で記録されることのほうが、主流になってきました。動画では、現場が動くと同時に音声も記録されるから、記録性としては優れていると思います。またメディアとしても現在では、テレビが主体で情報が流されていくわけですから、写真より映像が重宝されることになります。こうして写真が記録の主体から遠ざかるということは、写真それ自体が、別の方法や目的で使・われだす、ということになります。ぼくが思うには、記録から離れた創作・フィクションすることが、必然的に写真の主たる目的となります。ここでいうフィクション・フォトです。このフィクション・フォトで、なにを導き出そうとするのか、これがこの節のテーマです。ぼくは時代の流れのなかで、今からのちには、個人、内面、情、これらがテーマとして注目されてくるのではないか、と感じています。

個人の人間としての存在。肉体を保持するためには食料が必要であり、情を持ち、情をふくらませる極みにセクシュアルなことがあり、この二大必要が、扱うべきテーマのベースになってくるように思われます。人間とはなにか、男と女、生殖とはなにか。本能としての食欲と性欲。この二つの欲を満たすための方向へ、制作の方法がフィクションされていくのではないかと思えるんです。食べることをテーマとすることは、全く自由で、いまや写真だけではなく、映像においてもテレビ番組として、食べることが表にあらわれてきています。それと同時に表われてくるのが、性欲、肉体、その場面、ということでしょう、けれども、これはまだ未開です。タブー領域でもあります。このタブー領域をどのように表へ現わしていくのか、ひとつのテーマの方向であると思われるのです。

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<情動・フォト>1

生命活動のうち、言語に対抗して提示できる領域といえば、情、情動。感情とか、欲情とか、そういうレベルの領域です。イメージによって感覚が刺激され感じるというもの。そういう写真があってもいいのではないか、と思うわけです。言葉を介さないで感情が動くといえば、それは本能が刺激されるということでしょうか。

男が感じる女への感情、その逆。恋愛とかいう感情そのもの、理屈ではない。このようなことが与えられる静止画としての写真。いま求められる一極は、こういった言語を介さなくても感動が得られる写真のことでしょう。

たとえば、ハンス・ベルメールの人形の写真、HIROMIXや長島有里枝といった女性たちが撮った写真をみて、これは理屈ではなくて、感情で見る写真だと思ったわけです。言語活動は、あとからつけられるとしても、写真と並列、もしくは写真の基底にあるものではないと認知するのです。このように考えると、ここにおおきな潮流としての二極が見えてきます。言語によって意味をもつ写真と、情動を動かされることによる写真、です。この時代、どちらが正しくてどちらが間違っているとは言えないところです。

いきおい、この文章は、言葉に拠っている訳です。だからここで論じる写真というもの、言語によって拘束されるではないか、と考えてしまいます。でも、そうではなくて、写真に表されるイメージからのインパクトによって、感情が動かされるという意味では、その基底に言語を有しない、といえるのではないか。

このことは、現代美術の方法にも通じるように思えます。写真もそういうことでいえば現代美術の一角を占めているわけで、情的な、情動される、むしろそういう領域は、セクシュアルなイメージであるのが大半です。人間が言語を介さなくて感情が湧きあがるのは、本能として、子孫を残す行為に直結するイメージなのかも知れません。

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<フィクション・フォト>

ドキュメンタリー・フォトが、世の中の出来事を、嘘偽りのない事実としてとらえる写真だ、ということにすると、そうではない写真があることに気づきます。作り物、創作、つまりフィクション、虚構の領域の写真のことです。たとえば三島由紀夫を被写体とした細江英公の「薔薇刑」(1962年)は、虚構の世界のイメージ化、とでもいえばよいか、作り物です。そのイメージの原点は、被写体となった三島の文学センスであるように思います。

ドキュメンタリー・フォトと並走する言語。ドキュメンタリー・フォトは、言語によって支えられる写真イメージの特定、といったことがあって成立する写真です。その対極にあるのが、ここに提起するフィクション・フォト、だと言っておこうと思います。フィクション・フォトは、多々あると思います。物語を素材としてイメージ連鎖させていく写真群。たとえば高梨豊の「初國」(1993年)という写真集、なんとなく神話イメージをベースに、写真を撮り下ろしていくというイメージです。

言語とだけいえば文字列ですが、文学言語といえば俳句や短歌から物語や小説などを意味させたいと思っていますが、この文学言語を背景として写真を連ねて物語にする。フィクション・フォトとは、言語の領域と並列関係、もしくは底辺に言語領域が横たわる。このような関係。写真ではないけれど、絵物語。源氏物語絵巻は、最初に言葉があって、物語があって、それに絵が作られてきて、いまや源氏物語絵巻として存在します。

ここでは、写真と言語の関係を見ていて、写真イメージは、イメージ化される言語から、離れられないのではないかと思うのです。でも、言語とは関係しない写真、写真つまり静止画それ自体でインパクトを与えられ、それに終始し、インパクトに帰る。言葉は、感嘆詞でしか発せられなくて、こころ動かされる、情が動かされるイメージ。第三の写真、そのような領域が、あるような気がしてならないのです。

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<ドキュメンタリー・フォト>6

写真によるドキュメント、記録。呼び方として、ドキュメンタリーフォトと言ったり、フォトドキュメンタリーと言ったり、いずれにしても、写真による社会記録のことだと解釈すればいいかと思います。ここまでで、カメラの視点が、ソーシャルな立場から、パーソナルな立場をふまえて、プライベートな立場まで、時代とともに進化、あるいは深化してきたと捉えているわけですが、ここではその背後にある概念にまで踏み込んで、触れておかなければいけないように思います。

そのひとつは、政治や経済によって構成されている世界の枠組みのなかにおいて、その問題を正面から解釈し、写真作品に反映させていくということ。理論的な政治や経済の枠組みから離れてはならない、ということ。この条件を仮説としてここにあげておきます。東松照明氏の一連の写真作品の中に、日本国内にある米軍基地の問題を背景にして、写真イメージが構成されていきますが、ここには、明らかに言語による歴史認識があり、それをベースに被写体が選ばれ、撮られているということがいえます。

もうひとつは、言語との関係、論説や言い伝え、言葉の世界とイメージ(写真)の世界との相関関係です。記録という概念は、<何年何月何日に何処で>といった<日付と場所>が底辺にあります。具体的な日時のときもあれば、ある一定の時間枠がとらえられるときもあります。つまり、ドキュメンタリーフォトという概念は、言語と共にある写真、といえるかと思います。もちろん、だから、言語を切り離せば、どういうことになるか、というのは次の問題です。

前段で、ドキュメンタリーフォトを構成する、写真家と外界との距離関係に、三つのレベルを確認しましたが、それは時間経過による遠くから近くの時間へという流れの中で、現われてきた手法でありました。現在の位置は、この三つのレベルが、並列に、等しい価値に並んでいるときだと思っています。モダニズムが終わって、ポストモダンが終わって、いまやセカンドモダニズムの時代だと言われていますが、これは個人が手法として選ぶ写真の方法、あくまでドキュメンタリーという手法のなかでの、選ぶ価値軸が等しい、等価値で選ばれる位置だと思うのです。

ドキュメンタリーフォトの基本条件は、政治や経済の世界と向きあっていることと、言語との共存という、この二点だと思っています。ドキュメンタリーフォトであるか、そうではないのかという区分として、判断基準として、提起してるわけです。というところで、この基準にあてはまらない写真群が、たぶんに見受けられると思います。とすれば、それらの写真群は、ドキュメンタリーフォトではない、別の括りが必要であろうと思います。それは、たとえば。アートフォト、たとえばプライベートフォト。いまぼくたちの前に現れている様々な写真の群を、価値の優劣ではなくて、区分してみる必要があると思っています。

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