中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

2016年04月

写真集<花華>-2-
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写真集<花華>-1-
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<写真雑学講座> 2008.5

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<写真を作る現場>

ド素人だと自称される人、大歓迎なんですが、フイルムカメラ、デジタルカメラ、携帯電話カメラ、いろんなカメラで、写真を撮る。写真なんてことば使うと、複雑になるので、静止画像と言ってもいいんですが、まあ、写真としておきましょう<写真>です。

ここは写真学校の枠組みで、写真の基礎概念を培おうとして、テキストを作っていきます。今日はその第一回目、<写真を作る現場>です。ここは、書いていけば当たり前のことを、当たり前に知るための、雑学、基礎講座だと思ってください。写真研究の本論ではなくて、その周辺、雑学です。でも、本論とは、なにか、なんてことも雑学で論じる必要があるのかも知れません。

なになに、写真を作る現場、とは、カメラを携えて撮影する場所のことです。いくつもの区分ができると思いますが、ここでは、屋外、屋内、自分の部屋、など写真を撮る場所が、あるということです。

たとえば、旅行中に写真を撮ります。
たとえば、庭に咲いた花を撮ります。
たとえば、自分が食べるものを撮ります。

撮るモノの話は置いといて、写真を撮る場所は、光がある場所なら、どこでも撮れて、どこで撮っても写真になります。まあ、最初に、このように定義しておきましょう。どこでも撮れる、なんて原則そうですけど、撮れない場所もあります。その場所については、追々ですが、政治的な要素、自然的な要素、そんな条件があって撮れない場所もある。でも、まあ、写真を撮ることで、写真を作ることができます。

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<現代写真の表現について>

いつから現代と区切るかには、議論が必要だけど、ここでは1968年からの数年間を、現代写真の始まりとし、その後、いくつかの区切りがあって、携帯電話の普及してくる今が、これを最前線としたいと考えています。

1968年といえば、学生運動が盛んな時期で、自分表現という考えが表面に出てきた時期ではなかったかと考えています。
写真表現の視点についても<私>あるいは<私的>という視点が重要になってきた時期であったと思います。

写真において表現しようとされる内容は、撮影者自身と外部世界との関わりの接点です。その接点を、区分するとしたら、政治経済社会の動向が主体の世界があり、それを受け入れる個人としての自分があります。この社会と自分の関係を、社会の側に主軸を置くか、個人の側に主軸を置くか、それの強調図式だと思うのです。

写真制作作業が、個人の興味において、その興味のなかみが撮られ、作られていきます。、写真イメージを作っていく、写真行為とは、この興味そのものを、具体化していくことです。いっぱんに社会と呼んでいる世界の構図のなかで、個人の興味視点を、より社会に向けるか、より個人に向けるか、の視点と方向のちがいといえるかも知れません。

いつも個人と社会の距離感で、そのどちらに重きが置かれるか。この視点でいえば、現代写真の表現は、より個人的に、よりプライベートに、その撮影の現場を求めてきたといえます。次には、その流れを具体的に見たいと思います。

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<現代写真の表現について>-2-

1968年を起点として、現代写真のはじまりだとする説をとってみます。ここでは、年配になってしまわれたけど現役の、三人の作家を選び出すことができます。ぼくは、東松照明さん、荒木惟経さん、森山大道さん、この三人の作家をあげます。もちろん同時代の写真家さんは、たくさんいるし、なにもこの三人だけが重要なわけではありません。という言い訳をしておいて、この三人の作家さん、それぞれに特徴があります。その特徴を、社会の出来事を撮るという、写真の目的に対してどうなのか、という視点からあげてみます。

東松さん。
ストレートに社会の問題となる出来事にトライしています。当時でいえば、原爆投下された長崎、米軍基地のありようの問題など、社会の関心ごとをテーマにしていきます。

荒木さん。
個人的な新婚旅行の写真集からのスタートです。「センチメンタルな旅」、感情旅行といえばよろしいか。つまり、おおやけ問題より、個人の関心ごと、そのことです。

森山さん。
社会の問題をストレートというわけでもなく、個人のヒストリーというわけでもなく、自分の情念にまつわる出来事、とでもいえばいいかと思います。社会の問題に直接トライしてはいません。

まあ、三人の作家さんの初期のころの作風を、概観したわけですが、この三人の作家さんが、展開される道筋に、以後の作家の卵たちが追随していく、まあ、ぼくはこのようにみているわけで、この三人が並んで出発する1968年前後から1970年をこえる数年を、現代写真の始まりの年月だと考えているのです。1974年にワークショップ写真学校が開校するにいたるまで、です。

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