中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

2018年03月

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 嵯峨野慕情 photo 2018.3.15
フォトハウス表現研究所のHP
 いい天気で、暖かいのでコートを脱いで嵯峨野散策に出かけました。
今日は広沢の池を起点に山の縁をあるくコースです。
目的は、嵯峨野慕情のための写真を、スマホで撮ることです。
写真は、その日の気象条件によって、出来栄えが違うけれど、今日は今日。
天皇陵へ立ち寄り、大覚寺の裏から大沢の池へ出ました。
先日から何回目か、今日が三回目ですね、なんかしら中心は大覚寺か。

 音楽は、ベートーベンですが、弦楽四重奏からピアノソナタに替えました。
暖かくてストーブなしです。
昨日、コナミスポーツジムへ申込にいったけど、何を買うのか。
運動ができる服、ズボンとシャツ、靴、水泳のパンツと帽子、これが必要です。
どこに売ってるのか、ユニクロへ行ったらいいのか、スポーツ店へ行ったらいいのか。
週に二回、昼間に行くことにして、時間は午前中かな、それとも午後からかな。
昼の食事の前か後かということです。

 国会がもめてますね、文書が書き替えられた、ありえないことですが、起こった。
だれもふれてはいけないから、ことの本質にはフタがされたままです。
思想の問題でしょ、皇国思想にみちびく教育をする学校、それが頓挫した。
そのことが明るみになりかけて、消えてしまって、末梢のことをやっている。
まあ、いまの教育って、そういうことだと思うけど、表現塾はそうではない。
そのことに融合して、表面ばかりをなぞっていくことは、したくない、しない。
まあ、まあ、いい加減にやっておかないと、いけないのかも知れないのだけど。





フォトハウス表現研究所のHP
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 先日、平岡八幡宮なる処へ参りました。音楽家の文字さんと、太秦天神川駅にて待ち合わせ、昼食をとったあと、市バス8系統に乗って、平岡八幡駅まで行きました。天井画が公開されているというので、拝観料500円なら見させてもらおうかと言いながら、受付で訊くと800円と言われたので、拝観やめにしました。境内に椿があって、白い椿で一水と書いてあったが、これが有名らしい。掲載した写真は本殿横に置かれているさざれ石。さざれ石というのは、君が代の詩句にあるあのさざれ石のことで、あちこちの神社に注連縄されて置かれています。ぼくは、このさざれ石は男根シンボルのように思えて、ほんとうはそういうことなのだろうと思ったけれど、推測に過ぎません。

 気儘日記と表記して、日記だから日々記述していくべきはずなのに、日々かけなくて、週に一回という以上に日を空けて書いている。これは、読者が少ないから、書いてもしやないなぁ、と思うからです。しかし、日記というものは非公開であって、人に見せるモノではないとの発想が基本かも知れないが、ぼくは公開を原則としているから、とくにプロジェクトに呼び込めないかとの期待もあるから、読者が極度に少ないこのブログは、あまり更新していません。このライブドアブログは、この気儘日記をふくめ五つのブログがあります。写真と文章といいながら、写真を掲載していて、アルバムを作っています。

 読者が少ないブログですが、ところがアダルトブログは人気の的で、こことは比較にならないアクセス数があるのです。人の興味が、セックスにあることは間違いなくて、ネットの奥には氾濫しているところです。なんかしらネットの時代になって、世の中の構造が変わりました。仮想の世界が現実イメージを携えていて、人の脳と直結している感じです。ぼくもスマホを使いだして二年半になりますが、個人のツールとしては、ひと頃では信じられないようなことが実現しているんですね。



フォトハウス表現研究所のHP
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 2018年3月1日、これが本日の日付です。新たに気儘日記と名付けて写真と文章を書いていこうとするものです。ここでは執筆者、中川繁夫と名乗ります。実名、とうことは戸籍名です。男です。72才になります。けっこう、ありのままを書いていこうと思います。フィクションは、極力しないつもりで、ぼくの頭の中のイメージを言葉に置き換えていきます。写真は、スマートフォンで撮った直近のものを載せよと思っています。ここはライブドアのブログです。最初の頃はホリエモンさんが社長していたライブドアのブログです。いまはラインの傘下に入っているのかと思っています。実は、あまりアクセスがないブログです。ほぼ、ゼロアクセスです。だからブロガー、ぼく自身もあまり気乗りしないのですが、ブログ性能は抜群にいいと思っているから、これを含め五つのブログを作っています。

 掲載した写真の説明をしておかないといけないのかなと思っています。たぶん見た方、意味を紡ごうと思っても意味を紡ぐポイントが写し込まれていないから、説明のしようがない、解釈のしようがない。ちょっと写真のことを学ばれた方なら、こじつけで、ここに意味をつけていけるかも知れません。写っているモノは大きな木、黄色い自動車、左右に今どきのモルタル塗り外壁の家、垣根がある。そういった、この写真を構成している物体についてはわかると思います。こんなのをコンポラ写真ってんだよ、と、もの知ったお方はおっしゃるかも知れない、意味をはく奪したイメージだ、なんてね。実は、この奥に中学生の時に一緒した女子の家があった。ぼくのこだわりは、そのことです。この近辺へ来るたびに、その女子のことを思い出します。ぼくの写真へのこだわりは、こういうこと、ぼくの記憶にあって、忘れがたい記憶が詰まった場所、ということになります。プライベートな記憶ですが、社会化出来ていない、ぼくの内面にだけある、記憶です。写真を撮った目的は、ぼく自身の記憶をぼく自身のためにとどめておくノスタルジー。

 写っていない周辺の説明をしても、写真としての説明にはならないけれど、物語としては成立するかも知れないと思って書きますが、写真の左側は西側になるのですが、北野天満宮の東門があります。右側、東には五辻通り、右斜めには上七軒の通りです。住所でいえば、上京区御前通り今出川上ル、ということでしょうか。写真を撮って、地名をかぶせれば、写真としての意味は通じます。説明の言葉です。写真に「題」をつけることで、その写真が写真として成立する、というのが通例です。写真愛好者たちは、そういうことだと思っていて、「題」をつけ、その写真のことを、題で呼ぶ、という言葉優先のなかで、写真を見ることになっています。ぼくがこだわるのは、このこと、写真としてのイメージに、基本的に「題」は必要なのか、ということです。また、機会があれば、その話を交わしましょうか、写真ということの根本に触れる問題として捉えているからです。







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