農産物をわが手に 2006.1.11
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現代の消費生活を支える根本は貨幣、つまりお金です。価値の基準は、金額の多寡です。なかには名誉が基準だというのもありますが、基本は貨幣です。もちろん生産と消費が一体として構成される社会ですから、会社勤めして働くというのも、生産に関与していることには違いないのですが・・・。

あい農学校では、貨幣が根本の社会から、いかにして逸脱するかを考えていきます。その具体的な手段を手に入れることを提案しています。食べることは生存の基本です。だから食べ物を生産します。農生産です。これは発想の転換です。生産手段を手に入れることは、消費生活から生産生活への発想の転換です。

このブログは、そういった生産現場をつくりだそうとしている現場からの報告です。その目的は、乖離してしまった心と体を一体のものとして成熟させていく試みでもあると考えています。

食料の自給について 2005.12.5
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農作物について、ここまで大量生産化や合理化が進められてくると、その反対の方向へと動くことが一つのムーブメントになります。少量生産化と無駄化の方へです。ここで云う、無駄化とは、手作りに徹していく方向だと考えればいいですね。

生産者と消費者という二極化で、貨幣を介在する流通を前提に置くと、大量生産と合理化により、コストを下げるという発想が優先されます。だから、生産、流通、消費という分断化されたサイクルを一体のものとして捉えていくことで、発想の転換をおこなえないかと考えるわけです。

生産・流通・消費を一体化する方向は、自給自足を目指すことになります。じゃ~この自給自足を達成するのに、どれくらいの規模の人間集団が最小限必要なのだろうか。ひとりでは生きられないのだとしたら、どれほどの規模があれば、生きられるのだろうか。

京都農塾で共同作業をしながら、無駄を積み重ねて少量生産を行いつつあるのですが、ふっとそんなことを考えていました。

サツマイモの根っ子 2005.10.4

赤熊農園(京都・亀岡)で見せてもらった光景で、向こうの畝のサツマイモの根が、隣の畝にまで侵入していた、現象が起こっていた、というのです。
写真は、その光景を撮ったものです。
どういうことかと云うと、水も肥料もやらない自然農法で野菜栽培すると、自分で水や肥料分を探し出すらしいんです。
つまり、根っ子が非常に発達して成長するんだといいます。

普通だと、はたけを耕し、肥料を施し、水をやります。人間が、野菜の世話をするといって、水や肥料を施してあげるもんだから、自分の力を発揮しないで育つ、と云うのです。
云われてみれば、理屈どうりです。
野菜自身が自ら頑張るから、味が濃い、甘い、おいしい!野菜になる。

そういう話を聞いていると、人間社会にも当てはめられることやな~と思いますね。


共同運営のはたけ 2005.9.13
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野菜やお米をつくる!
それも有志が共同して、野菜やお米を生産し、分配する!

食べることは、人が生存していく基本です。ところでこの「食」について考えていくと、様々に不条理なことが見え隠れしてきます。食の問題は、生活者の大きな関心ごとですね。
消費者から生産者へ。目に見える現場で、野菜やお米をつくる。自分たちで栽培する野菜やお米には、有機肥料が使われて、農薬は使っていない。このことが確認できます。

野菜作りやお米作りの現場の自然環境が汚染されている。この汚染環境は、いますぐ個人で解決できることではないですが、個人がこれ以上汚染させない方法で食料を作る。

それにしても自分の目で確認しないと信頼できない。こんな気持ちを作り出してしまった食環境です。そんなことを思いながら、共同で運営するはたけです。
そこで採れるのは、有機肥料で無農薬の野菜です。そして生産の現場を共有することで信頼関係が生まれてくるように思っています。


赤熊自然農園 2005.8.29
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自然農法で野菜を栽培し、消費する人に野菜を直販する「赤熊自然農園」があります。
農園の所在地は、京都府亀岡市東本梅町赤熊西山口20
ボクは、すでに何度か訪問して、はたけを見せていただいて、ある種の感動を覚えます。というのも農園主宰者判野さんの考え方、自然と人間の関係、自然と植物の関係、もちろん、人と人の関係のあり方・・・等々のベースに自然農法を捉えて実践されていることに、感動するわけです。

不耕起栽培。肥料や水をやらない。野菜の生長は、自然の成り行きにまかせる。野菜自身の力で成長を見守る。もちろん何もしないで野菜が成長するわけがないので、気配りや手入れは並以上だと思います。

様々な人の交流拠点としても機能しだしている「赤熊自然農園」です。
いま、ここに集うなかで、煉瓦パン釜を設計し制作途中の人もいます。はたけの一部を借り受けて野菜栽培をする人もいます。
食料を自給自足する。地域で生産と消費をする。あい農学校のコンセプトと交差する軸がいくつもあります。暫くは、取材をさせていただきながら、自然農法の勉強をさせていただきたいと思っています。

農の共同作業 2005.7.17
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食べ物を作ることをテーマに、あい農学校の記事を書いています。
それも主には、共同作業として農作物をつくる話です。
いまの社会状況にあって、共同農園のもつ意味というのは大きいと思っています。

ヒト個人が土に触れる身体体験で五感を引き出し見直す、ということがあります。
それに自分の食べるものを自分で作るという、自給自足的体験があります。
それらを超えて、共同作業の持つ意味は、ちょっと大袈裟にいえばです。
人類が農耕手段を手に入れて、集落をつくっていくプロセスの再現作業です。

どのくらいの歴史的時間があるのでしょう?
農耕を始めて1万年くらいの歴史があるのだと聞き(読み)ました。
もちろん人間の文化力が成してきた果実をかじる現代社会です。
でも、あらためて共同作業を捉えてみると、その原点への想いを掻きたてます。

ヒトの心の奥のほうに自然と交感する領域があるとか、ですね。
土に触れてヒトと交わる体験、共同作業っていうのは、この体験?
いまはただ、想像するだけしかできないんですが、
繋がってるって想うだけでも、ハッピーじゃないでしょうか、ね。

自家菜園の風景 2005.6.17
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自分の食べるものを自分でつくる。
自給自足の原点というか、この風潮が顕著になってきてますね。
いろんな側面から、自家菜園のムーブメントが起こっています。
元から兼業農家であるのではなくて、
都市消費生活家族の中で起こってきているんです。
わたしもその一員です、長年、都市消費生活をやってきています。

食料への不信感というがありますし、
都市で消費生活することへの行き詰まり感というのがありますし、
競争社会での将来への不安というのもありますね。

人間も動物、もともと自然と共生していたんです。
それが都市という生活場が成熟してくるなかで、失われてしまった。
この失われてしまった場所への回帰なのかも知れません。

いわば行政レベルで、推奨されていくような流れになってきています。
滋賀県の推進する「湖国まるごとエコ・ミュージアム」構想など、その先鞭じゃないかと思っています。
まだ、これから始まっていく、生活運動ではあるんですが、ね。

自家菜園-えんどう豆の収穫- 2005.6.12
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家庭菜園で春先に植えたえんどう豆が採れました。
野菜をつくり、収穫するってうれしいものです。
大事にしたいのは、この気持なんですね。

食べ物をつくる、これは生産することになります。
私たちの生活は、生産することから離れ、消費生活になっています。
あい農学校が提案している「生産」することは、新しい生き方につながります。

家庭菜園であれ、農塾であれ、野菜をつくることは、
「まるエコ」な生活を提案しているんですが、その第一歩だと考えています。
食べてみたら、柔らかくて、甘くて、美味しい、えんどう豆でした。

自家菜園-ニラをつくる- 2005.6.5
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ええ、あのニラです。
ニラの収穫って、種まいて3年目です。
この春から、ようやく収穫が出来るようになりました。

まあ、子育てもそうですが、
野菜を育てるって、けっこう手間がかかるんですね。
それだけに、収穫のときの喜びってゆうか、その気持って格別です。

専業ではなくて、はたけ仕事をするとゆうのは、
お金の問題じゃなくて、こころの問題だと思います。
育てるっていう気持、まさに愛情ですね、これが大事ですね。
写真は、ニラとネギとミニトマトです。