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2004.06.11
写真学校のプログラム

新しい写真学校のプログラムをつくっています。
デジタル時代の学校というコンセプトからしてフィルムとデジタルの両面から
写真という表現手段をどのようにして使いこなしていくのかというのが主眼です

写真を自己表現の手段として捉えていくなかで考えると
技術習得プログラムと思想獲得プログラムのふたつの領域があります
技術習得を主体においた写真学校から脱却していくプログラム開発が必要なんですね

写真の背後にあるものを考え捉えて自分の生き方にまで遡上させること
パーソナルメディアとなった写真術が自分と対話する手段であること
こんな命題的なことを想定しながらプログラムをつくっています

学校の教科プログラムっていうのは実践が伴ってきて実態化します
写真っていうものが映像・イメージを作り出す装置の原点なのに
文学や音楽のようには正規の学校では教えていませんよね

デジカメブームで個人ユーザーが爆発的に増えていて
街角のプリクラボックスが大繁盛していて
これらはもう大きな文化の領域を形成しているのですよね

こんな時代に写真を学ぶ学校が模索しなければならないことは
時代の奥深くに潜在している欲望の中味を表に出してあげることができる
そのことが必要なんだということに気づくプログラムだと考えています

写真表現の現在っていう評論タイトルはもう定番になってしまいましたが
必要なことは社会の構造をどう分析して現在というものを捉えるのかという命題に
写真制作の技術と思想の両面からどうアプローチさせるかなんですね

2004.06.09
ピントあわせは写真の基礎

写真の勉強で基礎となるものは何かな~って思っています。
そんなとき、自己流で写真を撮ってた人が写真を見てほしいって来ました。
ピントが合ってないんです。

なんでもそうですが「ピントはずれ」ってこといいますよね。
カメラの技術でいうと「ピント」が合わないってことは基礎が出来てないってことですね。
でもね、最近のカメラって全自動でしょ、ピント合わせも自動なんですね。
とっても楽チン、誰でも写真が写せる(あたりまえ!)写ルンです。

ここにちょっとした落とし穴があるんかもな~って思いだしています。
写真に興味が出てきて、作画意識が出てきて、そこで使いこなそうとすると、
全自動ってのがちょっと邪魔になるんですね。
もちろんカメラには手動でできるようになってるんですが、
でお、ピント合わせに苦労するらしいですね。

わたしは完全手動の時代に写真撮り出したしもう昔のことだから忘れてますけど、
最近は、便利なんだけど不便もあるってことなんですね。
だったら昔は全て不便だったじゃないですか、進歩したんですよ!
っていう見方もうなずけるのですが、便利すぎて不便。

ピント合わせはハード面だけではないです。
何を撮るのか、っていうテーマ設定のところでもピント合わせが必要なんですね。
カメラってレンズを向けてシャッターきれば写っちゃうからね~
で、少し欲が出てきて写真でもって作品化しようと思うと、困ってしまうんですね。
テーマがあるようで見つからない。

何にピントを合わせるのかということが見いだせないうようなのですね。
困ったな~~って顔して、花でも写すか~子供でも写すか~・・・
写真の現在と未来を見ていくのに過去の歴史は必要か不要かということです。
そして歴史を見る視点ってのも求められますから、写真ってちょっと手ごわいですね。

そう考えていくとだんだん勉強する場所がないことに気づいてきませんか?
気づいてきた人は集まろう!!
学校をつくっていきましょ~~!
気づきの写真学校なんていうのもいいかもしれないな~って思っています。

2004.06.08
つまりお金ではない・・・

写真学校フォトハウス京都の考え方

なんでもそうなんですが、なにか全てお金しだいってことが今の世の中ありますよね。
金さえあればこの世では~~なんていうのは満更ウソではないですね、なんでも出来ちゃうですね。
お金をだせば写真の専門学校や芸術系大学で写真のお勉強ができます。
そりゃタダでは教えてくれません。

このお金が動いてそこに教え教えられることが出来る関係っていうのを、教育産業っていうんだそうです。
確かに設備が必要だし、建物も必要だし、教えてくれるひとの生活費が必要だし、
って考えていくとお金の要ることばっかりです。
経済活動の一端を担っているんですからどうしようもないシステムなんですね。

でも、この経済活動を成立させないところで写真を教えたり写真をあげたり出来ないだろうか?
っていうのがそもそもの根底にあるんです。
教育がなんのために施されるのか、っていうと生産を上げるためなんですね。
社会に出て行くという言い方しますが、教育を受けて仕事に就くわけです。
そうしてこの世の中の仕組みに参入していくのですね。
ここで、いろいろと問題がでてくるんです。

まず世の中の流れの中でですが、容認できないことが沢山あります。
出世という考え方があります。何をもって出世したと認定するかといえば、
会社で仕事するときには社長以下部長だとか課長だとか・・・・
俗に上下の関係ってあるんです。その上の方に就いていくことが出世。
大きな会社、小さな会社あるけど、俗に大きな会社の方が上、人間の欲望って上昇志向ですね。
競争心ってのも必要ですね。

戦争があります。絶対嫌や~~っていっても無くなってないですね。
兵器作ってる会社って戦争が起こったら儲かる仕組みなんでしょ?
こんなんずる~い、っていってみても、そういう仕組みだからどうしようもないんですよね、個人的にはね。

そういう価値の軸の上ではない、そうではない価値の軸ってないんでしょうかね。
その価値軸にせめて反抗する程度のことしかできないのかも知れませんが、
もう一つ別の価値軸を作ろうと思っているんです。
この「あい写真学校」「写真ワークショップ京都」いずれも経費ゼロにはならないですが、低く抑えています。
自分が作ったもので学費の代わりにする物納でもよいことにしています。

地域通貨っていうシステムが試みられ始めていますね。
そのシステムに基本的に同感するんです。
その実践としての試みが「あい写真学校」の学費納入のシステムなんです。

教えてあげる労力っていうのを貨幣価値判断から除外する、
あるいは排除するってことの試みなんです。
だからお金が全てに優先する!なんて考えの人はなじまないですね。
そういう人は沢山お金を支払って卒業証書ってのをもらったらいいんです。

そ~ゆう価値観じゃないところで、ものを考えたり作ったりする仕組みを創りたいと思っているんです。

2004.06.07
写真の範囲

写真の範囲ってどういうこと?
そうなんですね、何をもって写真とするのか、っていう区分けの問題なんです。

かってカメラ装置とフィルムが創りなすものを写真っていってました。
でも現在はカメラ装置とフィルムが無いところで写真に似たものが創られる。
たとえばコンピューターグラフィックス、これって写真の仲間に入れてはいけませんか?

物理・化学処理によって作り出されたものが写真だとしたら、
デジタル写真ってのは化学処理しないですね。
現像のための薬品使わないではないですか。
暗い部屋(暗箱)から明るい部屋(コンピュータ)の方へ、
処理の方法が変わってきたじゃないですか。

カメラ、フィルム、薬品、コンピュータ、デジタルデータ・・・
いま朦朧としながらも写真って呼んでる範囲におけるハード装置です。

べつにどうでもいいことなんかも知れません。
明確にしないほうがいいんかもしれませんね。
いま、世の中って混沌だし混沌のままで表面すべっていったらいいんかもね(笑)

これまでの分類方法では現実に即さないようですから、
あえてこうして発言してるってわけです。
つまり写真学校っていってるんですけど、
なにを学んだり研究したりする学校なんですか?
っていう素朴な疑問があるんです。
これを解明していかないとやっぱりやっていけないでしょ~(笑)

これもカリキュラムに入れないといかんのやな~って思ってます。

2004.06.06
デジタル写真

デジタルカメラ開発にかける日本企業の番組がTVで放映されていました。
たしかにカメラ生産の技術水準が世界をリードしていることは事実のようです。

ところでソフトウエア、コンテンツの生産はどのような現状なのでしょう。
共同体の文化度が高いと雑誌や出版物に多く利用されるし
カメラマンの写真展もあちこちで開催されています。
インターネットのページを覗いてみてもし主流は写真イメージです
そのうち動画が中心となると思いますが、
個人がたしなむには写真が簡便でなじみやすいです。

写真表現がヴィジュアルアートの一角にあると認定すると
上記の話ではちょっと対応できにくい代物となってきます。

そこでは写真の生産と消費の側面からの視点ではなくて
人間のこころの問題として写真を捉える視点が求められると思っています。
情報化の時代はこころとこころが直接に結びついてく時代だと思っています。
新しい社会制度としてのインターネット時代を迎えているデジタル環境のなかの写真!

そんな時代のなかでの写真の在処を探し出していくことが
新しい学校には求められているのだと考えています。
その磁場にはなにが起こってくるのでしょうね~

2004.06.05
いま写真がおもしろい!!

デジタルカメラで気の向くままに撮って見てまた撮って見て、
そこに友だちや大切な人がいればもっとおもしろい気持ちになるよね。
写真ってコミュニケーションのツールなんです。
でも、どうしたら上手になるのかわからないと悩み始めたひとへ贈ります。

写真はあなたの心です。心を表現するには表現する技術が必要です。

ところで「心」とはいったいなに?どんなものなのでしょうか。
いま、写真の心をめぐって、熱い議論が交わされつつあります。
あい写真学校では時代の本質を見つめ体感するためのカリキュラムを中心にした、
感じられる写真の創り方を勉強します。

写真がなぜ面白く感じられるのかというのは、直接人間の、
つまりあなたの心の奥深くに眠っている神秘さとか感動を起こす感覚とかが、
目覚めてくるからだといいます。
写真というのは撮影技術をマスターしたからってわかるものではないです。
ますますわからなくなってくるのが、誰もが体験することではないですか?
なぜ、そうなるのかといえば、写真を撮ることで何かを表現することなんですが、
それが自分の生きてるってことに直結していて、生きているっていう快感なんです。
でもその意味を見きわめることって、実はなかなか大変なことです。

これまで偉大な芸術家って呼ばれている人たちが創造力をかきたてられた源泉は、
苦悩の奥深くにある快感を求めてきたのです。それがひとを感動させるのです。

写真を始めたあなたはね。つまりすでにその入り口に立っているってことなんです。
祈るということではなくて、あなた自らがいのちの恵みを受けに前へ進み出る、
というのが写真の行為そのものなのです。
写真が面白いと感じられるのは、前へ進み出ることにつながっているからです。

でも、やればやるほど何を撮ったらいいのか、どうしたらいいのかわからなくなるのも事実なのです。
ですから、その解決の糸口をほかのところから導いてこなければいけない。
自分に対して他者の存在があって、そこに境界があって、
この境界を越えていくコミュニケーションの方向、自分の心を開いていくということなのですね。
そのための学習をすることが必要なのです。

写真を撮って人に見せたい、見てもらいたい、っていう欲求は、
このコミュニケーションを求めていることなのです。
ですから、あなたが撮った写真を支えているルールというか意味というか、
そういうものを自分で考えていかないと相手は感じてくれない。

写真を勉強するってことは、そういう感じをあふれさせるということなのですが
、どうもこれまでの写真学校では技術的なことは教えてもらえるけれども、
喜ぶ快感はあまり教えてくれなかった。
むしろ写真を創っていくことは苦しいことなんだ、と教えてきたのです。

時代環境が変わってきて、新しい生き方っていうのは、
この快感を快感として認めてあげることで、これを求めていくことです。
新しい写真の勉強というのは、そんな新しい時代の向こうにいくためのこころ、
気持ちをつむぎだしていくことです。
そういう新しいタイプの写真家を育てたいと思っているんです。

写真学校フォトハウス京都の考え方の一端でした。