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フォトハウス写真評論-2-

2004.06.24
写真の歴史-01-通史

写真学校のカリキュラムを作っていてこのサイトに記事をアップしています。
毎日少しづつ書きためながらテキストにまとめていこうと思っています。
これらのシリーズはいずれも草稿段階です。

今日からは写真の歴史を登場させることになります。
いくつかの単位が出来てきています。
デジタル写真領域、フィルム写真領域、写真の現在的意味という枠が提示されています。
写真の歴史シリーズは、断続的に書き記していきます。

通史としての写真史。

写真の歴史をどのように捉えるかということですが、
いくつもの系の捉え方があります。

(1)には、道具としての発達史、
つまり発明当初のカメラオブスキュラから一眼レフカメラまで、
また手作りカメラから工業生産へというように、
時代の科学工業との並列でみる写真史。

(2)には、写真の捉え方として、アートとしての系とドキュメントとしての系として、
発明当初からの絵画的指向(ピクトリアリズム)から、
20世紀初頭のステーグリッツを起点として、ジャーナリズムとしての写真などを、
大きな流れを捉えていく写真史。
この系には、ポートレートやファッション等の商業系をも含め社会学的な写真史。

(3)には、写真と人間という視点の系から捉える写真史です。
この系は「私」という撮影者の私性の視点から生み出された写真を捉える捉え方。
それぞれの時代区分のなかでの社会的背景(思想)を軸に捉えます。
「私性」の問題は、この思想動向を抜きにして捉えられないように思いますが、
外に向かっていたカメラが次第に個の内へ向かってく系として捉えることができると思います。

このようないくつかの視点から写真の歴史を紐解いて新たな織物に仕上げていく作業が、
フィルム写真の時代160年余とデジタル写真の時代開始のいま、求められているんだと思います。

特に(2)(3)の視点に重点をおいて捉えることで、
現代の写真の位置とこれからの写真が向かう方向を探っていきたいと思っています。

2004.06.23

写真は芸術?

さあ、写真という言葉と芸術っていう言葉とが並んで?ですね。
それぞれに確定した定義ってものがあるのかな~と見渡したところ、ありませんね~
明確な「芸術」という定義もいまどうなんでしょか、やっぱり不明ですね、実感です。

ここで経済システムの中での「写真と芸術」のあり方から、
「写真は芸術?」っていうことを捉えていければな~と思います。
写真が消費対象になり、芸術が擬似貨幣対象になることで、
経済システムに組み込まれるとしたら、写真が売買されることで芸術作品になれる!?

写真が美術館にコレクションされ、オリジナルプリントという考えが出てくるのは、
けっこう新しいことです、わが国ではだいたい1980年前後だと認識してます。
四半世紀25年ほどですね、経済構造的には高度成長期です。

ここでは写真の本質?とか芸術の本質?とかの議論でなしに、
商品として捉えてみるなかでのあり方を想定しています、念のため。

平面作品の芸術作品化をみる(美術館がコレクションする)と絵画があって、
その次に複製可能な版画があって、その次に写真という流れになります。
わが国の美術館で写真のコレクションがはじまるのは1980年代後半です。
(米国での流れが遅れて定着するパターン)
写真専門美術館ができるのは1990年代です。

一方美術界でも変化がおこってきます。
美術家がカメラ装置を使って作品を作り始め1970年代に表面にでてきます。
美術の側からの写真へのアプローチ、写真の側からの美術へのアプローチ。
こういう流れが1980年代に顕著になってきたように解釈しています。

そして現在、写真は芸術かどうかなんて議論そっちのけで、写真が撮られていますね。
どんどん雑誌メディアやwebメディアのなかに浸透していますね。

さて、こういう観点にたってみて、タイトルにした「写真は芸術?」っていうこと自体、
まだ有効なことなのか、すでに無効な議論なのか、という議論からはじめないとね、
いけない時代にさしかかってきてるのかな~なんて思っています(笑)

2004.06.22

露出あわせも写真の基礎

写真撮影時の基礎になることがいくつかあります。
ピントを合わせる話はこの前したので今日は露出の話です。

露出って光の量をコントロールすることなんですけれど、
最近のカメラって全自動だから何も悩むことないんですね。
カメラのなかのコンピュータが全部計算してくれて適正値を出してくれる。

そのとおりなんですが、でも写真を撮ってそれなりに見ると
ちょっと思ったのと出来上がりが違うな~って思ったことありませんか?
人物の顔が暗くなってしまったり黒いはずが灰色になったり・・・・

露出の適正値というのは、
写したいと思った被写体に最適値を与えてあげること
フィルムとかCCDの能力を最高に発揮させてあげること

ここから導き出されることは、
写したい被写体(部分)に対して最高の能力を発揮させること、ということです。
そうするとカメラが判断する適正値が、撮影者が判断する適正値とは限らない。
こういう論法になりますね。

そこで露出の補正ということが必要になってくるんですね。
露出あわせ、ということはこの補正をおこなう要領を知るということですかね。
たしかに沢山写真を撮ることで実践的に感覚でわかってくることもあります。
この場合はちょっとプラスへあるいはマイナスへ、というふうにです。

大雑把な話ですが、ちょっとアドバイス的にいうと、
背景が明るいときはプラス補正、暗いときはマイナス補正。
案外このこと、わかってるようでわかってない人が多いように思うので
ここでさわりのとこだけ申し添えておきます。

2004.06.21
写真の定義

いまさらなにが写真なのっていう向きも多いなかで、写真って何?って問うこと。
写真の定義なんてあまり見かけないでしょ~
定義するまでもなく見たら写真だってわかる代物だもんね(笑)

でもあらためて写真の定義をするとなるとけっこうややこしいんです。
それではここで試しにやってみましょうか。

写真ってカメラという道具をつかって作る一枚の絵のようなもの。
絵のようなものだけど「光」が自動的に描き出すもの。

これって正解ですか?どうなんでしょうね。

とするとよく似たものにコンピュータグラフィックス、
俗に「CG」っていってるあの代物のことです。
そりゃCGにもいろいろありますけれど、
まった光学機器のカメラを使わなくてコンピュータの中で基絵からつくる。

こうして出来上がって紙にプリントアウトしてくると、
これはあたかも写真のような姿になっていますよ~

実写の写真を取り込んで加工しているCGもあれば
同様にして写真を加工して「写真」っていうときもありますよ~

こうなってくるとですね
写真とコンピュータグラフィックの境界線は何処なんでしょうかね。
かってあったと思われる写真の定義がぐらついていませんか?

そんなことどうでもいいんや~写真は写真なんやから~ね~
といって済ますこともありですが、そうとばかりもいってられない時代ですよね。
やっぱり理屈として定義しておかないといけませんよね~

結論はでません、ボクが定義したって学者先生ではないですから(笑)
広辞苑にはどのように表記していくんでしょうね??
だれか学識経験者って言われているヒトさんよろしくお願いしますね。

2004.06.20

写真の中味

写真を愛好する人たちが大勢います。
写真ってなによりもとっつき易いしバックアップ体制も完備されていますしね。
写真を撮るという目的をもつだけで旅行の中味も豊かになるようだし、
子供の成長記録だとかで家族が歩んできた足跡をアルバムに残しますから、
現代人にはなにかと重宝なツールだと思っています。

そういった愛好家たちの層に支えられて作家と名乗る人たちが存在します。
人間の欲求のなかの自己実現を果たしてくれるツールとしての写真。
そのような営みとしての写真制作作業の中味、
つまり写真に撮られる被写体の中味といえばいいでしょうか。

この中味をどうするのか?という問題に直面したとき、
カメラを持ったひとは、写真というものが社会的存在としてあることに気づくのです。
さて、何を撮ろうかな~~、って詮索して何かを撮り始めます。

大きな物語としての戦争の現場や小さな物語としての私とあなたがいる現場。
写真には160年余りの歴史がありますが、いつもその中味をどうするのかが、
その時代時代のテーマとなってきたように把握しています。

現代はよりいっそう写真の大衆化時代です。
携帯電話の普及数以上にカメラ台数はあるわけです。
「写メール」時代なわけです。

プリクラ、写メールといった写真のある日常のなかにこそ、
写真の中味が生成しているように感じますね。
概念でいえば「小さな物語」なんですね。
写真の主たる中味はこの小さな物語のなかそのものなのかも知れませんね。

生活スタイルそのものが多様化しているとはいえ、平均フラット化してます。
そこでこの時代に有効な存在感っていうのが「私とあなた」のリアリティ関係。
そんな視点で写真テーマの動向をみていくことから何を見るか、が課題なのかも知れないですね。

その根底に「記憶」と「記録」ということの意味再構成があるように思っています。

2004.06.19

写真の理論

ある展覧会の会場でルーマニア育ちで留学中の人とこんな話を交わしました。

・写真の理論ってロラン・バルトがありますよね
・そうそうロラン・バルトの「明るい部屋」でしたね
・実際、理論を勉強しても役にたたないです
・そうですね~写真の理論って写真のことでしょ?
・だいたい写真の中味って写真以外のものだから写真のこと考えていても役にたちませんね
・そうかも知れませんね
・ロラン・バルトさんだって、たまたま写真というモノを出してるけど語る背景は別理論でしょ
・それにそれってもう20年以上まえの理論というか分析でしょ?時代かわってるよね
・そうだね、世界の構造が変わったですよね
・ルーマニアも変わったでしょ?体制の根底そのものが・・・
・だとしたら、いまの世界の構造にたった写真の理論ってのが必用なのかもね


なんか訳のわかったような判らないようなお話ですが
写真のことを考えるのにどうしたらいいんでしょうかね?ってよく訊かれます。
そんなとき、写真を見ていても技術のことしか出てこないです、
写真を捉えるのは、その時々の哲学的風潮とか、経済的風潮とか~
社会の風潮を分析する学問の援用をうけてしか成立しないのではないですか~
こんな答えを用意しています。

わかったような判らないようなお話なんですが
写真ってなんか学者先生から継子扱いされてるみたいなんですね
そんな感じをうけています。

社会の動向と風潮ですね、
現在だったらローカル化とかルーラル化の流れがありますから
この枠組みのなかで写真というものを捉えてみるのも方法かも知れないんです。
新しい写真学校では、こんなふうに提案しようと思っています。

2004.06.17

写真のテーマが向かうもの

写真のことについて考えていくとハードウエアとソフトウエアのことに二分されます。
ここではソフトウエア、写真のテーマについて少し考えたいんです。

写真のテーマが個人の内面を照射してそこから感情を交えたイメージをつくる。
こんな風な方向にきているような気がしています。

いまは、撮られた写真に大きな物語を感じさせるかどうかは置くとしてですね。
非常に個人的な体験を中心として写真が撮られてきているように見受けるんです。

個人の内面が置き去りにされている時代って言えばよいのでしょうか?
ふっと気がつけば私は孤独、なんてことありますよね。

特に最近の傾向として自分自身を考えるということがあるようです。
しかし自分自身を考えるなんていう枠組みが希薄な社会のようです。
そこで悩んでしまう人たちが多いと思うんです。

自分を告白したい衝動に駆られる!
ネット上の個人ホームページの匿名記事が告白に満ちていると思いませんか?
内なる衝動を匿名のままだったらさらけ出せる!

この自己表出の形式には次のようなものがあります。
日記体文学という形式をとったり写真・映像という形式をとったりです。

かってはノートに日記を書くという行為が詩作や小説につながっていったのですが、
いまの時代はパソコンツールで日記ホームページが簡単に作れてしまうので、
一定の形式を踏まないと出来なかった作品レベル以前の文章や写真が公表される。

こんな時代なんかな~って思っています。
そうだとしたら発表の場が一気に拡大しているわけですから、
ここでは写真。写真のテーマが個人のプライベートな露出に向かってきたことも理解できます。

こういうデジタルネットワークの時代の写真のテーマが「私」そのものであることは、
ハードウエア側面からの援護で一気に顕著になってきたようにも思います。

学校カリキュラムとして、この現象を精確にとらえていくことが必要だと考えています。