フォトハウス写真評論-4-
  IMG_8543
2004.07.11

写真とこころ-心-

写真っていったい何なの?
という判ったようで判らない話をいろんな角度から話題としています。

写真について、いろいろとテーマを羅列していくことでおぼろげながらでも
「写真の現在」という立場を浮上させられたらいいな~と思っているんです。
そこで今日は、写真と人のこころとの関係の外形を少し探ってみたいと思います。

人の「こころ」の解明ということが現代的なテーマとなっています。
生命科学の領域で脳の構造解明や記憶生成のメカニズムなどがあります。
心理学の領域では無意識領域の深層の解明などがテーマですね。

これまで非科学的な領域とされていた宗教や芸術領域というのも、
科学的手法で論じられるようになってきているように思います。
科学の現代的なテーマのひとつが「こころ」の解明に向かってきていると思います。

人間とは何ぞや、という問いが永年の課題で、
これは哲学や文学の立場から思考されてきました。
現在では人間の二面、身体と心(精神)を統合していく方向で
「こころ」とは何ぞや?ですね。

写真という手法が現れてきたの19世紀半ば、写真もこの問題を孕んできたんですね。

写真を撮ることと見ることの間に、コミュニケーションが成立するという立場からは、
写真の介在は、こころとこころのコミュニケーションの形、として論じることができます。

では、こころとこころのコミュニケーションの形ってどういうことを指すのでしょうか?

これまで言語学・言語論の立場を援用しながらの写真論として語られてきたんですが、
いまこれからの論立てはこの拘束から解かれていくようにも感じています。

個の立場ということを基軸に置いた論から共同の立場への移行かとも思います。
個が個であって、自己と他者との明確な分離のなかでの言語・写真の立場が、
微妙にづれてきているのではないかと思うのです。

自己と他者という身体性を基本においた論から解き放たれて、
こころが交わる磁場のような場所でのコミュニケーションの成立ですね。
自然現象や生命現象の全体性のあらたな組みなおしにもつながるものです。

このことは感覚・感性のあり様の捉え方の移行のなかで、
個を超えるコミュニケーション、
境界のない意識感覚の発生としてとらえられないでしょうか。
写真がその先鋒に立っているのではないかとも感じています。

かってあったメッセージの他者への伝達という方式で捉えることが困難な写真群。
プリクラ、写メール、デジタル写真の時代の写真群。

写真においてコミュニケーションの形が変容してきていることは確かなようです。

2004.07.13

写真と宇宙(1)

なぜ写真学校のはなしに宇宙なのか、というとですね。

写真を勉強するというきっかけによって、
参加する一人ひとりの時間と空間が変化して
新たに一つの場所が出来るわけですね。

写真ワークショップ京都という学校は、狭い限定空間としての教室(対面講義)です。
通信制のあい写真学校は、ネットワーク空間としての教室(通信講義)になります。
そういうふたつの学校形態を想定するなかで出てきたのが<宇宙>です(笑)

写真という場が拡がって最大限拡げてみたらどのへんまで拡がるのかな~
そうしたら<宇宙>というイメージにまで拡がってしまった、というのです。

写真という装置をつくる基本はカメラという箱です。
このカメラという箱は物理科学の領域で組み立てられています。
ですから宇宙を物理の領域で捉えて、写真と宇宙をドッキングさせます。

岩波新書に「ハッブル望遠鏡が見た宇宙」という本があります。
そこに「ハッブルの最深宇宙像」という写真があります。

その写真の一点を矢しるして写真説明に
「宇宙誕生から6億年」のときの銀河ではないか、とあります。

つまり宇宙誕生から140億年」といいますから、
今から134億年前の光が捉えられた写真!!です。

たぶん人類が見た一番遠いところです。
それもコンピューターの合成写真とはいえ可視光線なんですよ。
コンピュータグラフィックではないんです。

この視点から写真を見ると、
写真は発明のときから、
遠くのものを近くへ引き寄せる道具として使われてきたんです。
そして現在といっても10年ほど前(1994年)に、
「最深宇宙像」にまで行き着いた遠さなんですね。

今日は写真の行き着いたマクロな世界を見てみました。
次回は人体の内部に入った写真、ミクロな世界をみようかな~です。

2004.07.14
写真と宇宙(2)人体

宇宙がマクロの世界だとすると、人体というのはミクロの世界です。

電子顕微鏡で遺伝子を撮影する、
電磁波で子宮内部の赤ちゃんの生成を撮影する。
そういう微粒の世界や透視で内部をみることの出来る装置と技術が確立されてきています。

人体内部の物質が写真に撮られている、ミクロな世界を拡大して写真にする。
そこから生み出される画像を「静止画」といっていますが、写真ですね?

写真の定義で、なにをもって写真とするのか、ということを話題にしましたけれど、
大宇宙も人体内部も、現実に物質として存在する「もの」を撮っています。

写真装置は、カメラ(暗箱)とフィルムのセットから、
今は、光のデジタル信号変換とコンピューターのセットになってきています。
写真の拡大の現在の状況ですね。

これらの写真は写真装置も含め、近代科学の進歩の成果です。

写真というものが、遠くのものを近くへ引き寄せる道具の役割を担ってきた、
という社会における写真の役割論があります。

写真発明以後の時代には、
探検写真家がカメラを携えて旅行に出かけて写真を撮りました。
写真家は旅先で見た光景を写真に収めてパリに持ち帰ってきて、
写真をみた市民たちが好奇心をかき立てられるということが起こりました。

一般には、現在においても、このような写真の使われ方が主流であるかのようです。
宇宙や人体内部にまで入り込んだ写真。
まだ見ぬ世界を見たいという好奇心を満たしてくれる写真の存在なんです。

写真は記録であると同時に学術的価値を提供するものでもあったわけです。
宇宙開発の現場で、医学の現場で、農業の現場で、社会の隅々で、
近代科学の枠組みで、研究開発の只中で写真が貢献することは多大です。

でも写真、写真表現っていうときには、ちょっと違った意味をもってきますね。

ここでは様々な切り口で試論の入り口をつくってきています。
写真というものが持っている用途があまりにも多様化しているから、
その多様性のそれぞれを分類していく作業でもあると思っています。