フォトハウス写真評論-5-
  PICT2091
2004.07.15
写真表現とは?その1

写真表現とはどのようなことを指して写真表現というのでしょうか?

読んで字のごとく、写真で表現することやないのですか?
そりゃそういうことなんですが、「何を」ということが必要でしょ?
じゃ~何を表現するんですか?
ムムッ、なんとなんと、何をって、そりゃ自分のこころじゃないですか?

じゃ~訊きますけど、こころってナンなんですか?
こころって人間の内側にある、ほれキミにもあるでしょ、そのこころだよ!
・・・・・・・・

そうですね、いま写真の表現の中味を問われたら「自分の心」
つまり自分の気持を相手に伝える手段として、写真というものを使うんですよ。
ひとまず、このように記しておこうと思います。

写真の公的な役割としては記録ですね。
文書と写真(映像)が記録として保存されていきます。
この用途は19世紀半ばのパリでのオスマン計画の記録や
20世紀前半の恐慌時の米国・農業安定局(FSA)の写真記録があります。

でもね、写真は個人の営みのなかから出てくるものです。
近代的個人というのは自分を社会的存在として自覚しますから、
写真は写真家と社会との接点なんです。

写真家と社会とのかかわりを写真家の側からとらえていくと、
そこには個人の考え方や捉え方が出てきます。
また、その時々の社会の中心的モラルに密接しているんです。

この中心的モラルに対して自分の位置を確認していく作業として
写真家は写真を使うことになります。
ここに表現という場所があるんです。
中心となるモラルに対してどういう位置を担保するのか、ですね。

写真家と社会の向き合い方が時代と共に変わってきます。
個人と社会との関係の形がそこには見て取れます。
そのような位置関係から言うと、現在は非常に個的(プライベート)になってきています。

カメラの普及だけでは捉えられない問題がここにあります。
ひとまず写真表現とは、自分の気持を表すことだ、といっておきます。

2004.07.16

写真表現とは?その2

写真表現とは自分の気持を表すことです、と規定しました。
そうするとこの「気持」ということが何を指すかですね。

わたしは情動、情を動かされるものに注目しています。
この情動のところが感情を形成し気持をつくりだすとしたら、
もう論理の世界では計り知れないです。
このようにして考えてくると、
写真表現とは、自分の情動をとらえることが必要だということになります。

むかし洞窟の壁面に絵を描いた痕跡を、見ることができます。
ここでの注目は、その絵を描いたヒトの衝動というか情動というか、
その行為をつき動かせていた心の営みそのものなんです。

例えば高松塚古墳やキトラ古墳には、
死者への守りという描く目的があったと考えますが、
その制作者の意識の奥の深いところにあった情動に注目するんです。

いま写真家はカメラをもって絵を描く人です。
写真は死者への贈り物ではなくて生者への贈り物です。
それは何よりも私の気持を贈りだすものです。

たしかに一枚の写真には論理世界の認識が込められています。
戦争はいけません、の立場から、その「いけません」の態度表明として、
写真をその文脈に整理して他者に贈りだすものです。
なおその背後には、被写体が置かれている歴史的意味をも贈りだします。

ロラン・バルトは、教養文化のなかでの理解のされ方に着目もしていますが、
<私を突き刺すもの>としてとらえる捉え方を提示しています。
バルトの、この立場は写真を見る側の立場として述べられていますが、
わたしは写真を撮るということのも被写体を選ぶ目安となるものだと思っています。

現代の写真が、教養文化のなかで理解されることを前提としたうえで、
そこに、私を突き刺してくるもの、をメッセージとして込めるものだとしたら、
はたして教養文化の文脈をどのように扱うのかが、
写真家に意識されなければならないと思います。

でも、未来を志向する写真の役割が、
必ずしもそういう完璧さに裏打ちされなければならない、
という前提にはならないような気もします。

インテリジェンスに裏打ちされない立場で、
カメラを情動発露の道具として使っていくというのもあるのかな?
そこから生み出される写真が未来志向の写真なのかも知れないな~
このように思うことにも、最近は強度が増してきています。

2004.07.17

写真表現とは?その3

写真を撮ることって非常に個人的な作業なんですね。
写真を撮っていくことで表現するというのは個人的なんです。

映画やTVで制作する集団作業とは少しちがいますね。
会社勤め(パートタイマー、フリーター含め)の集団作業でもないですね。
そういうことからいうと、写真を作る作業は、プライベート作業です。

いま個人が、自分の居場所がわからなくなる、という訴えを聞きます。
自己と他者との関係が掴めないという自覚です。
自己と他者との境界面をインタフェースという言い方しますが、
写真を撮り他者に見せることがこのインタフェースの役割をはたしている。

自分を見つめる、抽象的な言い方になりますが、自己を観察する行為。
この観察する手段としてカメラの目があるように思います。
自分という存在がいったい何者なのか?というような問いかけですね。

このような問いかけは、今はじまったわけではなくて、昔からありますよね。
西欧哲学の源流から近代哲学まで・・・
東洋思想の源流から近代思想まで・・・

写真表現もこの文脈上に置かれていると思っています。

これまで、この系のなかにおいて「写真表現」というのもカテゴリー化されてきました。
現在は、デジタル写真が隆盛をきわめてフィルム写真にとって換わる時代です。
としても、これは書式形式の変換の部分ですね。
人と社会構造の表層部分ですね。

写真表現は言語表現ではないからといって、
写真表現だけが固有に在るとはいえないです。
哲学や政治学の潮流と接触しながら、
まだ現在は、言語によって基本理解認識をする人間の時代です。

でも、内面と外面のインタフェースとして、
こころのなか、情動の源泉を表出していくことって、言葉では届かないですね。

この言葉ではできない感情レベルでのイメージ交換が写真です。
そこの場にこそ、プライベート・ツールである写真の現在的意味が垣間見えるように思います。