(2)
雪の季節にはまだ日々がありました。小鳥や虫たちはまもなくやって来る幻のような冬にむけて準備をしています。かれらはいのちの凍える日々がやってくることをどのようにして感知しているのでしょうか。

いつの日か山で写真を撮りました。なだらかな起伏の斜面に土があらわになっているところがありました。その風景には苔と羊歯が生えていました。そこはぼくたちがこれまでに幾度も探索していた風景でした。

夏には木々の茂りと群生する草で覆い尽くされていました。冬には雪に埋もれてぼくたちの侵入を阻んでいました。その風景は雪がとける春と雪が積る冬が訪れる前だけぼくたちに開放してくれました。春には山のせせらぎでふきのとうやせりやわらびなどが採れます。


冬の前には、銀杏だの胡桃だの栗だのが採れます。ぼくたちは山の生きものたちと一緒になってそれらを収穫しました。ぼくたちはその風景に生の息吹を感じていました。その山の風景は生誕の起源から計り知れない時を経てきているのですよね。

ぼくたちがその風景のなかにいるときにはひとのたましいが生じてくるはるか以前のような気分になっていることです。

遡ること二十年も前にぼくは死の道行とそのあとの世界の写真を撮りました。地獄絵の複写でした。それらはぼくにとっての最後の撮影でした。それからとおい時がたってしまいましたがいまその光景が想い起こされてきます。

ぼくが最後の決意をしたころの感情を思い出しているのです。そうだったね。ぼくを封印すること。もうカメラなんて持たないで生きようと決意したあとの夏のお盆でしたね。


山での日々が始まったころぼくの霊気がよみがえりはじめました。それから数年が経ちました。すべてを記憶の海に埋没させてきた日々をこえて。あらたな日々の記念にひそかにその斜面の光景から撮りはじめようと思いだしました。

その光景は山の斜面に生える苔と羊歯でした。苔と羊歯は生命というものを死界からよみがえらせる境界としてあるようでした。ぼくは仰いで受け入れることの畏怖を感じます。生命の起源についてへの問いかけは、いまのぼくの関心の中心をなすもののようにふるまっています。

ぼくは情動のままに生きることにまかせてみようと思いました。いつから悪の感情が漂いはじめていたのでしょうか。日々、織り成されてきた生活の原理というもの。原理はこの世のこの仕組みを維持するものとしてありました。

この世という仕組みに生息するぼくたちは情動において全く交差しない悪の日々にあるのではないですか。ぼくたちは残された生の時間をもう一つの圏内に営む決定をしてもいいのではないですか。
ぼくはその日々たちを「写真への手紙・覚書」という表題にまとめながら手許に置いていこうと思っています。記録ということの解体と新たなイメージ過程の創生へと向けられた論はぼくの未来に向けた論そのものになるはずなんです。

写真の奥深くを探っていくことってそれらまでのぼく自身の未来における死を告げていたようでした。いつのころからか宙吊り感覚に遭遇していたぼくはその風景において喪失の気分を感じとっていました。
山のなかで生の在処としてのあらたな写真のありようを模索しだしたようでした。ぼくがあなたにむけるまなざしを根拠にして関係のありようの根拠を模索しはじめたのです。

写真とは愛が形となったものではないですか。
愛を形にしてあげること。これがぼくの求めていく写真の真顔だと思っているんです。


写真が愛の形というのならそうと認められるイメージが「いま・ここ」にあります。だってぼくは愛の形の細部を探求していく探検家になったような気分になっているんですもの。
ぼくが再生していく最初のテーマは「生命のよみがえり」でした。ぼくにおいて生命というものがおおむかし偶然に生成しはじめたイメージの最初は苔と羊歯だったのです。このときをしてぼくのなかにあなたがやどった創生記念日となったのですね。
    800yama1105040001