ぼくの写真史-2-

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<気儘な日々へ>
2004.9.29記
この日記帖は、おもにボクが写真を始めたころの記憶を辿りながら書き進めていこうと思っています。ボクが写真に興味を持ち出すようになってから30年近くの年月が過ぎてしまいました。ということで言うと今年、ボクは58歳になっています。自分でも信じられないくらいなんですが、30年の歳月をぐるりと回ってきて、いま、また写真を撮り出しました。ほんの興味本位で手にしたカメラでしたが、写真というものにのめり込んでしまった結果がいま、ここにあります。この痕跡を少しまとめておきたいな~というのが率直なところです。

現在、いくつものホームページとブログを手がけています。外向けのもの、自分の作品的なもの、自伝的なもの、それぞれ使い分けして、全体をひとつのものにしていく目論見でもあります。

ここでは、写真を始めた最初の頃の話から掘り起こしています。今は亡き達栄作さん、途中から智原栄作さんと名前を変えられたけれど、思い出多い先生です。当面は、この達さん率いる光影会に参加したころの思い出話をまとめてみたいと思っています。だいたい1976年から1980年ごろまでです。カメラを持ち出しての5年間です。一気に駆け抜けた5年間だったうように思います。

1978年の秋に取材地を大阪に求め、「都市へ」との命題をもって歩み出したころから、少しずつ達さんとは疎遠になっていきますが、写真の基本を教えていただいた恩師だと感謝します。毎日のように達さんの家へ行き、家族のような振舞をさせていただいた記憶です。その当時の関西写壇といわれていた状況、もちろんボクから見た状況ですが、その写壇に決別するようにして抜け出てしまいましたが、若さの至りとでもいいましょうか、達さんには、失礼なこと多々あったものと思っています。

その後の恩師としては、東松照明さんを挙げたいと思っています。彼が京都取材の3年間、1981年から1984年までの間、ご一緒させていただいたことで、今の写真、それに留まらずに社会の見方などもベーシックには学んだものと思っています。

その後、1985年ごろから1988年ごろまでは、フォトハウス写真ワークショップを主宰していた時代。平木さん、金子さん、飯沢さん、島尾さん・・・、東京在住の人たちとの交流がありました。

1991年頃から畑さんとの交流とご一緒した仕事、写真図書館の設立、専門学校副校長、インターメディウム研究所事務局長・・・。そうして由あって、2002年の夏に身を引き、現在に至ります。それぞれの場面で懇親を重ねた人たちへの感謝を込めて、自分史を少し手がけてみたいと思っています。

<同人雑誌・反鎮魂>

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写真のほうへの話で、文学から写真へ移行するあたりへもう一度もどします。写真のほうへとボクの気持ちが徐々に傾斜していくのは、1975年ごろでした。その頃って、ちょうどボクは7年かけて大学を卒業した年なんです。現代文学研究会っていうのを友達とやっていましたね。頻度は忘れていますが、日曜日の午後から開始でした。場所は、北白川に近い研究会メンバーのアパートの一室でした。

1972年ごろまで、ボクたちは同人雑誌を発行していたんです。雑誌の名前は「反鎮魂」といいました。同人は7~8人だったと思います。ボクはそこで小説を発表していました。そうですね、長編小説。その第一章を第3号、第4号とふたつに分けて連載しました。

そんな同人も大学を卒業することで、解散となりましたが留年組の3人、近藤君、落合君、ボク。ちまちまと研究会を続けていたんです。もう解散する直前の作家研究テーマは夏目漱石。やっぱり夏目漱石を研究しとかんとあかんやろ!っていう程度のノリであったかも知れません。1975年というと、もうボクたちのこころは伸びきっていたように思います。学生運動が退潮していき、セクト間の内ゲバの時代でしたね。

ボクたちはセクトには属さない、ノンセクトっていう部類でしたし、運よくパクられたこともありませんでしたから、終わってしまった感覚ってのは、空しさいっぱいだったように思います。

ボクは1970年4月に結婚して子供も上が4歳下が1歳になっていました。家庭作りに専念するのも気分悪いものではなかったですが、でも空虚感というのがありました。文学への未練というか、もうやってられないな~、という感じですね。子供を写す目的で、学費が要らなくなったそのお金でカメラを買ったんです。

その頃の年だったですね、10月21日に仕事の帰り道に京大の時計台まで赴きました記憶です。20人程度の集会が開かれていました。肌寒さが身にしみてきました。現状はこれなんやなあ~って思いながら、ボクも参加者の一人となりました。もう終わった、終わったんや~、って思うと、ちょっと涙ぐんでしまいましたね。一方で、ニコマートに標準レンズをつけて、子供たちを写しまておりました。ネガカラーでとった記念写真です。

ボクは郵便局勤務の公務員、彼女は内職を夜な夜なやっておりました。ニコマートに標準レンズをつけて、ボクは家族の写真を撮りだして、アルバムをつくりました。そのうちに職場の人たちから写真の技術を教えてもらうことになったんです。職場へ出入りの写真屋さんが、唯一、少しは高度な知識を伝授してくれました。フィルムメーカーが主催するヌード撮影会にも参加しました。冬時に大阪のデパートで開催されたカメラショーに行って、モデル撮影会に参加しましたね。ニコンのカメラを買ったんで、ニッコールクラブですね、入会しました。

伏見桃山城で行われたニッコールクラブのモデル撮影会にも参加しましたね、記憶にあります。・・・というように、ボクはアマチュアカメラマンとして出発船出をしたんです。その頃です、全日本写真連盟に参加して、宇治の撮影会にいっての帰りに、達栄作さん、後の智原栄作さんを知ったんです。

小説を書くという、密室作業ですね、夜な夜なホームコタツのなかに足を突っ込んで、原稿用紙に字を書いていたことが、遠くの記憶へといってしまいました。でも、光のもとで写真を撮ることって、健康的やな~って思いだしました。もちろん写真家になろうなんてことは、夢夢思わなかったですね、その頃・・・。カメラ雑誌、ニッコールクラブの会報、それがボクの先生でした。

<達さんのこと>

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達さんのことで思い出すのは、余呉湖への撮影随行です。伸子という当時高校生の子がよく被写体になりました。達さんが著した限定版「信仰のすすめ」は、その伸子さんにあてた手紙形式で書かれていました。撮影のときのボクの仕事は、レフ板もちでした。ベニヤ板に銀紙を貼った手作りのレフ版でしたが、このレフ版を使ってキャッチアイですね、目に光を当てたり、影を薄くする技術なんかを教えてもらった。先輩と撮影の現場に立つというのは、勉強になるのもです。

同じ被写体を写して、出来上がった写真をみると、ちょっと違うんですね。まあ、構図とか光の入れ方とか、微妙に違う・・・そういう勉強をさせていただいたですね。そのころはまだ余呉湖は北陸本線の駅でした。夕方にはジーゼルカーの列車が到着します。ボクは伸子さんを望遠でトンネルから出てくる列車をバックに、毎度の事ながら撮影しました。月例用の写真作りです。

達さんとは、ドキュメント写真についてよく話をしたと思います。達さんは土門拳さんの、リアリズム論をよく引き合いにだされていました。その後ボクは1977年の秋から都市へとのタイトルで、大阪シリーズをはじめたんですが、達さんは、宇多野にある病院で、筋ジストロフィーの子供の取材に入られました。「天使のほほえみ」という写真集にまとまりましたが、ボクとの話の筋道ででてきたテーマだったようです。

その後、ボクは釜ヶ崎取材にのめりこんでいき、少しづつ疎遠になっていきますが、達さんは、その頃に、「難民」フォトフォリオを限定版で制作されます。キリスト教者だった達さんが、教会を通じて、カンボジアの難民キャンプへ行き、写真を撮られたものです。達さんは、けっきょくそれまで名を連ねていた二科会会友や写連役員などを辞めます。

ボクは、大阪取材から1年を経て、1978年9月2日から本格的に大阪取材に入りました。そしてその年の11月には釜ヶ崎の三角公園にたっていました。大阪取材へのきっかけとなった出来事があります。

その頃は、全日本写真連盟に加盟していて、月例をもやっていました。カメラ雑誌では、アサヒカメラに、北井一夫氏が「村へ」という作品を発表していました。ボクは、この「村へ」の作品群を、解体していく農村の記録・ドキュメントとして捉えており、大変興味をもって見ていました。まあ、好きな作品群であったわけです。その頃の写連の写真の傾向っていうのは、今もあまり変わらないですね。綺麗な写真、モデル写真etcなんかですね。

関西写壇というのがある、その京都代表が丹平クラブ、ボクの所属クラブ光影会は2番手との評価でした。その丹平のセンセが、北井氏の「村へ」の作品群について「わからん写真や~、な~みんな!」っていう評価を下したんです。ボクは、アホか!!って思いましたね。空しい気持ちがこみ上げてきました。これが最後でした。

もうそれなら自分でやるしかない。光影会の例会には出席しておりましたが、気持ち的には少し遠のいてきていました。カメラを持って大阪へいきました。
「街へ」がテーマでした。1977年の秋ごろからだったと思います。京阪電車で京橋までいって下車、それから梅田界隈へいきました。毎週土曜日の午後を撮影日と決めて仕事場のあった丹波橋から大阪への撮影取材でした。

もうその頃は、自宅に暗室を作っておりましたし、カメラもニコンF2を使いだしましたし、引き伸ばし機もオメガに替わっておりました。オメガは達さんから買い取ったものです。このオメガの元の持ち主は、木村勝正氏が生前使っておられたものだったそうです。

こうしてカメラと現像機材を俗にゆう一流品にして、自分に言い訳できないようにして、大阪取材をしはじめたんです。でも、何をテーマとすればいいのかわからないなかで、梅田に残っていた「どぶ池」界隈を撮影したり、新しくできつつあった駅前ビルの建設現場などを撮影しておりました。1回の撮影に2~3本のフィルムを使う、という量でした。

ひとりで立った大阪は、中学生の頃に何度か一人で遊びに来た記憶がありました。大阪の南、新世界界隈です。ちらちらとその記憶を思い出しながら、でも足はまだ梅田界隈でした。そのうち春が過ぎ、夏前になってきて、もう撮影をどうすすめたらいいのかわからなくなっていました。その夏は、久しぶりに原稿用紙に向いました。もうかれこれ30歳を過ぎていましたしね。

で、文章は、-私写真論-写真以前の写真論と名づけて、記憶と感情とのことを書いてみました。こうして夏を過ぎて1978年9月2日。再び大阪へ取材にいきました。この日から、大阪日記と名づけた取材メモを書き始めました。
<1978年9月2日土曜日(晴れ、薄曇)京橋から片町線で放出駅前、天王寺、山王町、飛田へ、鶴橋駅前。フィルム、TriX6本、ASA400、ノーフィルター、ノーファインダー28ミリ・・・>このようなメモが手許に残されています。このようにして、ボクは大阪取材をはじめました。