ぼくの写真史-4-

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2004.11.3~2004.12.6
  nakagawa shigeo

<近況まで>

最初に写真に興味を持ち出して、実際に写真を撮り始めてから、すでに30年を経過しつつあります。1975年の春に大学を卒業して、学費が要らなくなったお金で、ニコマートを買ったんです。でもこの30年の間、ずっと写真を撮っていたかとゆうと、実際に撮ってたのは1984年までの10年間です。

1984年から2003年までの20年間というのは、写真を撮ってないです。1984年3月の最後の週に、大阪現代美術センターで「写真の現在展’84」というグループ展があって、この展覧会出展を最後に、写真を撮らない宣言(とういっても自分だけの宣言でしたが)をして、10年間休止を決めたんです。ええ、その間は旅行の記念写真も撮らなかったです。人にシャッター押すのを頼まれても断りましたね。

それから10年が経った1994年8月、いまボクの撮影現場になっている金沢の山手に家を建て、そこではもっぱらビデオ撮影をしました。2000年になって、ネガカラーでぼちぼち気の向いたときに花の写真を撮る、程度のことをしていました。再びの撮影開始は2003年10月です。キャノンのデジタルカメラを買ってからです。それから1年が過ぎました、今日は2004年11月3日です。

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ざくっと写真撮影の自分史を記しましたが、写真へのかかわりというか、写真への思いは、消えなかったですね。1984年11月に「フォトハウス」構想を打ち出しました。1985年の夏から約4年間、フォトハウス主宰のワークショップを開きました。1992年10月には、大阪・南森町に畑祥雄さんと共同で、写真図書館を創って、この図書館を運営する会社、写真文化研究所の設立にあたり株主となりました。1994年4月から1996年3月までの2年間、大阪ビジュアルコミュニケーション専門学校の副校長となりました。公的には写真教育の現場に出たわけです。つまり写真の業界に入ったことになります。

そうこうしている2年間でしたが、1995年の春に新しい学校、大学院レベルのアートスクールを創る話が持ち上がりました。そして1996年4月、インターメディウム研究所・IMI大学院講座が開講します。IMIの株主兼取締役の事務局長として2002年7月までの6年間を執務したんです。このIMIでは写真から一気に、現代アート領域にまで拡大しましたが、写真図書館が併設していたこともあってか、自分の足場は写真だ、という思いがいつもありました。

2002年の7月に、訳あってIMI辞職を決意してフリーになりました。そのときにはすでに、綜合文化研究所と、新しい写真学校を創りたい、との思いをもっておりました。新しい写真学校は、写真単独で存在するのではなく、また、アート領域だけに存在するのではなく、もっと広い視野から写真を捉える学校として構想しておりました。こうして2004年4月には通信制の「あい写真学校」を開校し、10月にはギャラリー・DOTの岡田さんと共同で「写真学校/写真ワークショップ京都」の開校にこぎつけました。これがボクの現在地点です。この30年間の詳細は、ぼちぼちまとめていきます。

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<釜ヶ崎のこと>

少し、釜ヶ崎のことについて記していきたいと思います。1978年の秋のことです。ボクは「都市へ」をテーマに、大阪の町を撮影にでかけました。郵便局に定職をもっておりましたから、撮影は土曜日の午後です。天王寺から飛田を経て釜ヶ崎に至る。取材時間は午後3時ごろから5時ごろまでの2時間程度でした。

もう何遍も釜ヶ崎の三角公園界隈でカメラを持ち出して写真にとった頃、11月だったと思います。若い人に声をかけられました。名前は岡さん、といいました。岡さんは、この地でケースワーカーをしているとのことでした。不就学児童のケースワーカーです。そうなんです、学校へ行けない児童の相談員です。彼はボクを近くのアパートへ連れていってくれました。3畳一間で日払い500円、月換算で15000円です。ホームコタツがあり、それだけでもう部屋は満杯状態です。その部屋は近くの子供たちのたまり場でもありました。

今池こどもの家、という児童館がありました。そこが閉館になった時間以後、O\岡さんのアパートへ押しかけてくる。小学校3年生から6年生までの女子が数人やってきました。そんな場所に居合わせたボクは、少し面食らった記憶があります。それまでは、浮浪しながらおそるおそるの気持ちで写真を撮っておりました。で、岡さんと知り合うようになって、再々そのアパートを訪問するようになりました。Oさんから、釜ヶ崎の中の出来事や問題点を聴くことができました。

そのうち越冬闘争がはじまりました。越冬闘争というのは、労働組合やキリスト教関係者などが組んで、冬の期間中、夜回りをしたり行き倒れ一歩手前の人たちを救済していく組織というかグループが行う、やはり闘争ですかね。行政へのかけあいなどもやっていました。ボクとしては、この越冬闘争の取材をやりたいと思い出しました。

そうですね、気持ち的には、遠いところに来てしまったという感触をぬぐうことができないままでした。世間での釜ヶ崎イメージ、多分にボク自身が抱いていたイメージ、怖いところ、特別なところ、あいりん地区と行政が名づける町、かって暴動があった場所・・・。この場所、釜ヶ崎に関する書籍が何冊か書店に並んでいましたので、購入して読みました。こうしてボクの釜ヶ崎取材の第一歩が始まりだしました。  

写真を撮る被写体として、偶然というか必然というか、釜ヶ崎の人たちを撮ることになっていくんです。なにか魔物がボクのこころの糸を引っ張るように、感じていましたね。最初ってのは、怖いもの見たさ、みたいな心情もありましたけれど、岡さんと知り合うようになって、現場を見て、もう宿命のような感じだったですね。被写体との巡り会いっていうのは、何かの縁ですね。

そのときの気分と外風景とが絡み合うんですね、きっと・・・。ボクには、だんだんとのめりこんでいってしまう習性があるんですが、釜ヶ崎へののめりこみは尋常じゃなかった。なんなんでしょうね、釜ヶ崎の魅力あるいは魔力といってもいいんですが、メンタルの交差ですね。人にはだれにもあるメンタルだとは思えないんですが、釜ヶ崎はもうどろどろの魅力、魔力で、ボクを引き入れたようです。

ものの見方が一変したのも事実ですし、日々の生活空間が虚ろで陽炎のようにも見えていました。そこから見えてきた世界というのがあるとすれば、人の内面深くの世界だったのかもしれません。そこから見えてきた外の世界は、アラブとかアフガンとかの世界ですね、そこにリンクしたい!そんな感触と、現実の生活との微妙な駆け引きでした。

剣の刃先を渡って歩いているような、何度か、このままここに居ようか、なんて誘惑もありました.でも、生活現場の現実、妻があり子供があり失ってはダメっていう信念みたいなもんに、引きあげられたというのが実感です。

そんななかで写真を撮ることを選択してしまったボクは、もう何処へ行くのか判らなかったです。いまある生命観というか生活観の大半が、そのなかで紆余曲折しながら、造られたのかもしれないですね。都会のなかの田舎。人間の中の魔物が頭をもたげる。もうそれ以上、この世では行く場所がな場所。そんな感じがしていました。

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1979年正月、地区の労働組合委員長の稲垣さんと出会いました。釜ヶ崎の中にある、希望の家というキリスト教の施設においてでした。委員長逮捕される、なんて正月早々の新聞に載っていたヒトでした。初対面、温和な感じのやさしそうなヒト、という感じを受けました。

お会いしたのは偶然の出来事です。警察から解放されてそのまま来た、といってました。そこで、ボクは稲垣さんに自己紹介をしたと思います、そこからいろいろとお世話になることになります。翌日が、恒例餅つき大会だったと記憶しています、三角公園での餅つき大会を取材しました。なにか稲垣さんの取材OKの返事をもらって、こころ強くなったことを覚えています。

翌日は正月3日、朝からいい天気で三角公園には、労働者がいっぱい集まってきました。労働者のみなさん、みんな明るい顔していました。ボクは壇上から、つきあげられた餅が、集まって行列をして待つ労働者に配られる光景を写真に撮りました。

このようにして、ボクの釜ヶ崎取材が事実上始まりました。前年の秋から、カメラを携えて釜ヶ崎の地へ行きだしてから、ケースワーカーの岡さんと出逢い、稲垣さんと出逢い、そうして世間では思いもつかない釜ヶ崎の現場写真を撮ることになってきました。 しだいにのめりこんでいくことになるのでした。

1978年から1980年前後の、ボクの写真への考え方というもの。写真をどのように捉えるかということですね。その当時に日記(大阪日記・釜ヶ崎メモ)とか、文章をけっこう書いていました。それらの文章を、後1982年ごろに映像情報や冊子「いま、写真行為とはなにか」にまとめてあって、いま2004年ですね。それから20年以上が過ぎ去って、読み返してみると、けっこう気負っていたな~って思います。30代前半の年頃でした。

ドキュメントとはなに?っていう設問があったように思います。いまも有効なのかどうかは、あらためて検証しようと思っていますけれど、ドキュメント、あるいはドキュメンタリー、「記録」ということですね。社会のなかの諸問題を告発する、なんて視点を考えていたと思います。

それと写真の方法が、プライベートな日常を撮ること、なんて命題もあったと思います。つまり、ボクは釜ヶ崎を取材するようになるんですが、そこに日常生活を置くこと。そこから社会問題として写真を撮る、まあ、こんなことでしょうか。実際に、釜ヶ崎に住み込んだわけではありませんでした。でも、気持ちの中でボクの日々の大半を占めていたのは事実です。

後になって、釜ヶ崎での取材方法なんかを問い直していくことになるんですが、当時は、社会問題として捉える釜ヶ崎の写真と文章、という位置づけがありました。それから、そこに住まうひととの個別の関係、個人関係を結んでいくなかで、写真の被写体として登場してもらうポートレートですね。「無名碑」シリーズなんですが、この方法が当時の写真の最前線、なんて思っていました。この当時、ボクはまだ写真家としては単独行動でした。

当時の写真界の動向なんて知るところではなかったですね。「季刊釜ヶ崎」を創刊し、「映像情報」を創刊していくなかで、写真をやっている同世代のひととか、若い世代の人たちと知り合っていくようになります。

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当時の同世代の写真指向は、すでにボクのようなドキュメントをするひとは少なかったように思います。シリアスフォトという手法があって、そういう手法に対してボクは、あまり興味なかったです。1970年前後に学生運動に参入してから10年が経っていました。その当時は文学に傾斜していましたし、文学での政治参加なんてこともありましたから、そこからの延長上に写真を捉えていたと思うんです。自分なりの写真論(笑)ですかね。

そうこうしているうちに、プロヴォーグの作家たちの写真を見たりしていました。それらはアレブレの写真でしたが、ボクの写真作りは、リアルであることでした。シリアスフォトの写真は静的でしたが、ボクの写真作りは、動的であることでした。当時ボクの周辺にあったといっても、カメラ雑誌で見る写真の反対側を指向しました。反面教師って云うんでしょうかね。たった一人での叛乱!なんてことも思ったりしてましたね~。

ここでは、ぼくの写真の外見の履歴を、ノンフィクションとして書き出しています。だいたい1970年代の中頃、ぼくが30歳前後の頃からの体験を書き出してきて、1979年のお正月まで書き進んだように思っています。この年のお正月は、大阪市西成区にある釜ヶ崎、行政ではこの町のことを、あいりん地区なんて呼んでいる場所です。そこへカメラを持って写真を写していました。

それから四半世紀の時間が過ぎ去って、ぼくの中ではすでに過去になっているつもりで、記述しはじめたんですが、しかしですね、まだ、ぼくの中で過去になりきってないですね。つまりどおゆうことかとゆうとですね、思い出すんです、その頃の気持ち。

ぼくのいまある考え方というのは、それからも変化・変容を続けてきて、その当時の考え方よりもフラットになってきています。もっとおおらかになってきた、とでもいえばいいかも知れません。でも、気持ちっていうのは、感情のレベルですね、これってあまり変わらないのかな?って思っています。

その当時っていうのは、ぼくの家庭はぼくたち夫婦と女の子2人の4人家族です。彼女はぼくより2歳若い、子供は1971年生まれと1974年生まれですので、当時8歳と5歳。収入面も含め、標準家族構成の標準世帯でした。そとからぼくをみるかぎり、忠実な標準生活者だったと思っています。でもね、後悔しても始まらないんですが、家族に対してはすごく後悔の念を抱いています。というのも、ぼくの写真と釜ヶ崎へののめりこみ方というのが、相当なものだったからです。

ぼくが浮遊しているように思うのは、外の光景がいつも信じられなかった感じがしていたことです。お金をもらえる仕事場にいても、家族と一緒にいても、もちろん写真を写している自分の姿を想像しても、常に場違いな感覚をもっていたものです。最近、はたけ耕したりしはじめて、かなり密着感を得てきたように感じていますが、もう、いつもぼくを遠くから眺めてる自分があったんです。あるときなんかは、訳わからなくなります。手に持ってるもの、目の前に見えてるはずのもの、それが何なのかわからなくなってしまうような感覚だったんです。釜ヶ崎でのぼく自身、いつもそのような感覚に見舞われていた記憶があります。

目の前に赤電話がありました。この公衆電話器からダイヤルすれば職場や自宅につながる、このことが信じられなかったんです。電車にのれば梅田へ出て京都に帰れる、このことが半信半疑だったようなんです。いま、その頃の記憶をたどってみても釜ヶ崎でのいくつかの特徴的な光景の記憶以外は、ほとんどありませんね~。ただただ、写真に撮られた光景だけが、記憶に残ってる。写真をみれば、その撮影時の気持ちまでよみがえってきます。これが写真の魔力というものかも知れません。そういったことを思い出してしまったから、まだ過去ではないと思うんです。