2004.7.30
食べることの話ばっかりしてないで頭の勉強もしなさい、って言われそうですから、ちょっと方向転換して、今日から文学です。

わたしの前歴で文学に傾斜していた時期がありましたです。
いまから35年前、1968年、小説家になりたい!って思いがあったから、それなら東京の出版社に入って、小説書くぞ~~!って想いしや、当時は世の中騒然としておって、大学が封鎖されておったし、街中でも学生と機動隊が衝突しておったし、わたしも乗ってたから、密室に篭ってるより街へ出た。

1969.10.21は飯田橋におったです。
ターミナルで渦巻きデモをやっていて疲れて戦線から離脱して歩道橋へあがって見物客になったところで、機動隊が一斉逮捕に突入した。わたし難を免れてしまったんです。これはラッキーだとおもうでしょうが、実はそこからわたし始まるんです。人生の分かれ道、分岐点、ターニングポイント、いろいろ言い方ありますが、難を逃れた3回目だった。

それから京都へ戻って大学へ復学して数年間、暗~い印象ですね。文学!小説を書く!でも、なぜかわたしの文学への道は暗~いんです。
そう思えば、文学って作家の内面の病気的暗部を明るみに出す、というような役割を担っているんかな~って思うこと儘あります。

自分という存在を病気とみるか健康とみるか、という問いがあります。
文学者ってのは、この観点からいえば、病気だ!って思っていた人が多かったんじゃないかな~って思います。
ドフトエフスキーなんて、太宰なんて、そうなんよね。自分を見つめていくことって、結局は病んでる自分発見していく過程であったように感じますね。

宗教ってのがあって、ここに信仰っていう気持があって、人間病気を信仰で解決していこうというのがあったように感じます。
ヒエラルキーですね、階層構造です。
人間救済っていうのがテーマだとしたら、神の導きが一灯の希望!なんていう意識なんでしょうね。
文学は告白だ!!なんて思っちゃうですね。

世界で最初に撮られた写真は1826年といわれています。
ジョゼフ・ニセフォール・ニエプスがカメラ・オブスキュラにアスファルト版を挿入して数時間の露光を与えて、自分の家の窓から見える光景を撮りました。

このような最初に撮られた写真のことを思い描きながら、昨日、自分の管理するインターネットにライブカメラをセットアップして写真を撮りました。
台風通過中でしたが、自室のパソコンからライブカメラを窓の外に向けてセットし、マウスクリックで静止画を作成しました。
パソコン直結のライブカメラで撮った第一号写真です。

窓からの写真は、わたしにとっての記念写真です。
「サン・ルウ2004.7.31」と名づけました。
ここにその写真を掲載します。
   1

いまから20年も前ですが、1980年から1984年までの間に「映像情報」という情報誌を編集発行していました。全部で12号まで発行しました。

その当時というのは、まだワープロが一般的ではなかったころです。簡易和文タイプライターを手許において、コッツンコッツンと打って仕上げていました。版下作りも、まだ拡大縮小ができるコピー機が無かったので、文字を写真に撮って、引き伸ばしておりました。その原稿を台紙に貼って、版下をつくるのでした。
印刷は簡易印刷でいきつけのオフィスでおこない、製本は自分でやっていたんです。

いま、その頃を思い出すと、情報発信はパソコンを操作して、インターネットで、ホームページにアップすればいいんです。この日刊むくむく通信もインターネット経由で、読めますね。

ぼくは、情報発信ということにこだわってきたように思います。
自分の手許で、全てができること、ということへのこだわりです。既存メディアを通さず、独自のメディアをつくる必要を感じていました。これは、今も変わらずにあります。

そういうことからゆうと、現在はそのことが簡単に実現できるようになった、といえます。写真の発表も、文章の発表も、ツールが用意されていて、簡単に使いこなすことができるようになっています。小学生でも自分の発信サイトを作ることができるんですね。

ぼくも大いに利用しています。20年前の環境からみたら雲泥の差という感です。
ただし、いまこれらのツールは全て、或る管理下にあるということなんです。
このことを十分にわきまえて、ぼくはこの便利なツールを使っていこうと思っているんです。
現在は、その限りにおいて、その中での文化戦略を考えていかなければいけないな~と思うところです。