ぼくの写真史-7-

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釜ヶ崎青空写真展-1979夏-

2005年になりました。ここではボクの写真履歴について、記憶をたどりながら書き進めています。といいながら、昨年10月、写真へのはなしを12回連載して、写真への覚書を5回連載して、その後しばらく連載を中断していましたが、今回、改めて「写真へのはなし」の連載を再開します。

1979年の夏、ボクは釜ヶ崎の三角公園で写真展を開催しました。その写真展のことを、青空写真展とか写真あげます展、そのように呼んでおりました。釜ヶ崎夏祭りが毎年夏のお盆に開催されているんですが、その催しの一環として写真展を開催するという内容です。その写真展は4日間のイベントです。壁面はベニヤ板4枚です。

最初の1日は、それまでに撮り溜めた写真200枚ほどを展示、自分の写ってる写真があれば持ち帰ってもらう、というものです。2日目以降は、釜ヶ崎で前日に撮った写真を展示するというものでした。

個展といえばこれが最初の個展です。当時、写真の在り方について、被写体の中へ写真を返していく、という方法を考えていました。撮影者と被写体の関係の再考といえばいいんでしょうか、家族写真の形式ですね。釜ヶ崎という家族にカメラマンがいて、パネルは写真アルバムである、という感じです。写真の在り方論です。

それから、当時、釜ヶ崎を撮るということは、怖い場所を撮る。この怖さというのは、カメラマンが拒否される、ということでした。カメラが入れない怖いところ、写真を撮ってると乱暴される、とか、カメラを盗られる、とかの感覚です。でも、ボクの感触では、そんなことはない!という感じがあったんです。取材を始めて1年近くたっていました。

釜ヶ崎労組メンバーの近場で撮っていたという関係から、労働者とのコミュニケーションができ始めてきた、ということもあったと思います。警察とヤクザさんと労働者。ボクの写真についてこの3方面からの反応があります。

警察に守られ、ヤクザさんにつないでもらって取材する、というような方式が公然となされていたんですが、ボクはその方法をとらなかったわけです。その頃には、プレスが中立だというような考えはもうありませんでした。つまり報道の中立性という議論です。中立性という立場が無いとしたら、ボクはやられる側にたつことしかなかった。青空写真展を開いて妨害があるとしたら、労働者の側からではない、という確信がありました。

すでに、警察からの妨害らしきものは春先に炊き出しを取材し始めた頃から感じていましたから・・・。それから路上賭博の周辺へはカメラを持って近づいてはいなかったですから、ヤクザさんの妨害もないだろうと思っていました。でも気持ちとしては、何が起こるかわからない、やられるかも知れないな~、なんて思っていました。何人かの協力もあって、青空写真展の当日がやってきました。1979年8月12日だったと思います。

その釜ヶ崎という場所は大阪市西成区にあります。その場所にある光景とゆうのがボクの写真意識のなかで繋がらないんです。写真の被写体を求めて、大阪の街を歩いてミナミの方へ行って、天王寺界隈から新世界界隈へと入っていったんですが、釜ヶ崎の光景は異質なように思っていました。写真が撮られ発表される被写体のある場所として、そこは空白地帯であるという感覚です。

ええ、釜ヶ崎はヘッジです、社会の縁です、そのような見られ方がされています。でも、ヘッジ、縁と見られている場所が中心となるとき、その他の場所が異色に見えてくるんです。逆説とでもいえばいいでしょいか、ボクの視点はヘッジがセンターです、縁が中心。それまで何百本と撮って来たフィルムの全てが、気持のなかではもう無効になっていました。

当時の意識を思い出します、俗に場末といいますが、そのような場所を撮って写真賞を取ったヒトの話題を見ました。アパートとか旧赤線地帯とかゆう廓跡とかの写真でした。でも当時、もうボクにはそんな写真が有効だとは思えませんでした、白々しい。釜ヶ崎にいく前には、天王寺から飛田への道筋を写真に撮っていました。それらの街の光景と釜ヶ崎の光景とが異質だったんです。ボクの感覚では、それよりも奥へ入っていた、ということです。

ボク自身を構成している価値観が崩壊していきました。崩壊したあとには夢のごとき意識だけがありました。もう全てが解体してしまったかのような感覚です。でも徐々にではあったけれど新たな価値軸が芽生えてきたのも事実だったと思います。

自分のいる場所がわからなくなる、まるで神隠しにあったような感覚とでもいえばいいのでしょうか、自分が何者で何をしていて、いま居る処がどこなのか、この場所感覚が欠落してしまった感覚です。目の前にある全てのものが遠い記憶のなかに収まりきらずに宙に浮いてる、異質な処にいる。

このような感覚が10代の終わりから20代の初めにかけてボクを苦しめたんですが、それから10年後の20代の終わりから30代の初めにかけて、再びやってきていたように思います。いわば価値の体系が壊れて、解体してしまった世界、これは死です。ヒトには死と再生の繰り返しがあるといいます。肉体の消滅は1回しか起こりませんが、心の消滅あるいは死は、人生において何度か起こるようです。この2回目の心の死が、釜ヶ崎取材のさなかで起こっていたんだと思います。

世の中への白々しさ気分、妻と子供を認知しているのに違和感を覚える。自分の暮らしている家へは身体は帰ってきていますが心は違和感を感じている。それ以外の他者へはもっと距離感を感じてしまう。もう正常とゆわれてる範疇を超えてしまった処に心が置かれていたかのようにも思います。うまく説明ができません、バスの中から街路の風景を見ていてちぐはぐ感を感じてる自分。そのような感情を疎外感と呼ぶんだとすれば、この疎外感が釜ヶ崎の光景の中に沈んでいったようです。

あるいは芸術や宗教が個人の内部に生まれてくる辺境の場所が、その感覚のあった場所だったのかもしれません。あるものへ傾斜していく自分の気持は、写真を撮る行為と文章を書く行為に集約されていきました。

自分の行動が過激になっていくことに気づいていました。もう怖いものが何もない気持ってわかりますか?怖いものがない気持とは死を恐れない気持です。死滅への恐怖感覚とゆうのがあります。これが平常時の普通感覚だと思います。そこには感情があってその恐怖を誘発する現象には嫌悪感をいだきます。ヒトの子の死をわが身にたって感じるとやるせない気持がでてきますでしょ、これは平常です。でも異常なときとゆうのは、そのような感情さえ感じない。感じないですがまるで人格が変わったように神懸り状態になっています。神隠しにあって神懸りになる。そうとしか表現できないような状態です。

非常に大きな異変に巻き込まれてしまったときとゆうのは、ヒトをそのような状態に置いてしまうのかもしれません。ヒトとゆう動物が基底にもっている神秘的現象との融合作用なのかもしれません。ボクの釜ヶ崎取材のころの気持を言い当てるとしたら、そのように書き表せるように思うのです。1979年8月12日から15日にかけての青空写真展へ結実していくボクの内面はそんな感覚でした。

1979年8月の釜ヶ崎は夏祭りが行われました。この夏祭りの会場、三角公園で写真展を開催します。釜ヶ崎の労働者は写真取材には拒否をする、とゆうことが公然と言い伝えられていました。だからボクはカメラを取り上げられて袋叩きにあってしまうかも知れない、とゆう不安がありました。ベニヤ板にそれまでに撮り溜めた写真を展示した初日の夕方あたりから、展示写真の前には沢山の労働者たちが集まってきました。

その場は、嫌悪な気配は毛頭なくて、ワイワイガヤガヤの和やかないい雰囲気でありました。釜ヶ崎で当地を撮った写真で写真展をやるなんて初めてのことだと思います。見物者たちは喜んでいるのです。この光景はボクはある意味でショックを受けました。釜ヶ崎の労働者に写真が受け入れられた、とゆう事実にショックを受けたのです。

西成署のおまわりさんが見に来ました。ヤクザさんが見に来ました。朝日新聞の記者さんが記事にするといいました。翌日の夕刊に12段ぶち抜きの記事になりました。「あ、わしが写ってる」とゆうようなタイトルだったと思います。そうなんですね、釜ヶ崎の労働者が自分たちの写真を受け入れたとゆう事実なんです。

ボクの釜ヶ崎への見方が一変したのです。あるいは写真とゆうモノについての新たな認識といえばいいかも知れません。釜ヶ崎は写真を拒否しなかった。そこからボクの写真への思考が始まりました。撮った現場へ写真を返す、とゆう言い方をしましたが、撮られた写真が何よりも被写体となった人が歓ぶ写真でないといけないとゆうことです。少なくともボクの写真の方法はプライベートな関係の中で生じてくるべきものでした。

ドキュメントを考えるときの要素として、撮影者と被写体の関係があります。当時においてボクはこの関係性を「家族写真」とゆう範疇でとらえていたと思うのです。写真のあり方が第三者関係ではなくて第二者の関係、もしくは一人称の関係で撮られるべきである、という立場です。

当時、場末とゆわれる場所を撮った写真家は沢山います。おおむね写真賞の対象になる写真のなかの関係は撮影者と第三者関係において撮られた写真群でした。あるいは自己と他者とゆう融合と断絶のハザマを彷彿とさせる写真群、あるいは白々しい風景群・・・

ボクの撮ろうと思う写真はいずれとも違うものでした。撮影者と被写体が同じところにいる位置関係です。まさに家族写真の枠組みだ!と思いました。釜ヶ崎夏祭り、1979年夏のことです。釜ヶ崎の現場で写真を撮って、現像してプリントして展示する。展示した現場で写真を撮って、現像してプリントして展示する。この繰り返しを3泊4日の行程でやりぬいた72時間のイベントです。体力の限界と同時に写真の成立する場の実験だったと思っています。

とゆうのもボクは作家であることを自認してました。発表の場とゆうのは美術館とかギャラリーです、それに写真集とゆう方法もあります。でもいずれも被写体とは関係の無い場所、第三の場所です。この写真家、被写体、発表の場、という三角関係の否定とゆうか懐疑だったんです。写真家と被写体と発表の場が直線関係、そおゆう場を想定したんです。これって家族アルバムの領域でしょ!この関係を持ちたかったんです。この関係をもってして、その写真が社会的意味を持つ関係、作家と写真の新たな関係です。それと写真家の新しいスタイルだとも思っていました。

このような思いをもっての釜ヶ崎夏祭り「青空写真展」の開催でした。写真界への反響ってのはまあ皆無に近かったとは思いますが、実感手ごたえはありました。ズシっとくるものがありました、感覚と感情的にです。そのころの問題意識ってのは、写真の成立する場、とゆうことでした。

その年の12月、季刊「釜ヶ崎」ってゆう冊子本の編集主幹をやります。写真を撮って発表媒体を創りだす必要があったわけです。カメラ雑誌がありまして、当時だったら「カメラ毎日」ってのが人気の雑誌でした。「アサヒカメラ」「日本カメラ」とゆう雑誌は今もあります。その当時、毎月三冊を定期購読してましたが、もうあまり見なかったですね。とゆうのも、内容が白々しく思えていましたし、むしろ中平卓馬氏の「なぜ植物図鑑か」とゆう評論集を読んだりしていました。青空写真展のインスピレーションもここから出てきたのかも知れません。

たった一人の叛乱なんていってまして、写真の可能性とはなに?って真剣に問い詰めていたように思います。もう反乱軍、とはいってもひとりぽっちでしたが、季刊釜ヶ崎編集部をつくって中心的に動きました。

中川繁夫<写真への手紙・覚書> 2006.4.28編集