ぼくの写真史-9-

  120shryo1208200014

1980年の私的な出来事>

1980年という年は、ボクが精力的に仕事を拡大していく年でした。1979年12月にパブ・聖家族での個展をやり、季刊釜ヶ崎を創刊しましたが、80年には4月からフリースペース聖家族の運営を開始し、8月には写真雑誌(フリーペーパー)映像情報を創刊します。季刊釜ヶ崎は1980年中に第4号まで発行します。映像情報は第2号を1981年1月1日付けで発行します。

ボクの内部では、この二つの雑誌はボクのメディア戦略として位置づけていました。その発端は釜ヶ崎地域に対する世間が捉えるイメージの転換を図っていくことでした。ボクたちのイメージを定着させていくマスメディアに対して、ボクら自身のメディアを創っていくことを命題として掲げていきました。遡ること10年前の1970年にいたる2年間の一連の外化したムーブメントを経験したことが、再燃したとでもいえばいいのかも知れません。

1968年から1970年のムーブメントに対して主体的に関わったとは決して言い切れない自分への呵責、あるいは挫折からの立ち直りを意識していたと思います。その頃はまだ、権力に対抗できる権力の樹立なんていう夢想も残っていましたし、かっては文学の可能性なんて考えていたことが、写真の可能性について考えるようになっていました。写真は社会改良の手段となりうると確信して、これを公的には全面に押し出す格好で、自分を運動体に仕立て上げようと試みたのです。

一方で個人の内面の問題があり、日常生活と写真活動、常にアクティブな行動と共に、絆を求めていたように思います。個人が孤立する時代感覚です。メディアによって集約されていく個人の感覚や趣向に対して、そうではない自分の取り戻しとでもいえばいいかと思います。日常生活や社会制度のなかでのボク自身の立場に対して、内面のボク自身の居場所を求めていたのかも知れないです。

既成の組織やものの見方に対する内面の反発とでもいうのでしょうか、いつも既存の枠組みを突き崩したい衝動にさいなまれていたように思います。

季刊釜ヶ崎は、この公式な展開の場であろうとしました。ここでの写真の発表は、ルポルタージュ、あるいは社会的風景へのドキュメント的態度でした。一方で個人的な関係を結んで写真と文章を作品として定着させるべく無名碑シリーズを映像情報誌上にて展開していきます。ボク自身としてはこの無名碑シリーズが写真態度の本命でした。

その頃はまだ、写真は記録であるということに何の疑いもありませんでした。勿論、写真の多義にわたる系譜は理解していたつもりですが、ボクの写真テーマは、時代の記録としての写真、それもプライベートな立場での記録でした。カメラを持ったボクは、被写体になる人の記録の代弁者であることでした。

歴史の成立は権力者の歴史を意味するこの社会で、被権力者の歴史を書き撮り置いていくことでした。まあ、理屈としていえばそのようになるかと思います。そのことを実現するために、自分の内面の弱さを克服していかないとダメ!なんてことも思っていました。

このように捉えると、写真発表や雑誌発行は、自分自身との戦いであったのかも知れないです。文章を書くことを一時断念していたのですが、1978年9月から大阪日記をつけ始めたのがきっかけで、再び文章を書くようになります。写真と文章の並立です。

大阪日記は、大阪取材メモ1978年9月2日に書き起こされる取材日記です。その日は、京橋駅から環状線に乗って天王寺までいき、そこから歩いて飛田までいきます。そうして取材のたびにこの日記が記されていきます。後にこの日記は、映像情報の無名碑と同時に掲載していくことになります。翌年の8月の夏祭りに、釜ヶ崎三角公園で青空写真展を開催するまで、この日記が書かれて、夏祭りで終わる約1年間の取材メモです。

1979年の釜ヶ崎夏祭り以後は、季刊釜ヶ崎の編集と写真レポート執筆に専念する。1980年4月から、「フリースペース聖家族通信」発行しはじめ、8月から「映像情報」を発行することになります。1978年秋から1979年夏までの取材日記をつけるかたわら、少しまとまった評論文を書いておりました。1981年に「いま、写真行為とはなにか」という評論集にまとめることになる文章です。

評論というより状況論とでもいえばいいんでしょうか。写真の現状、社会の現状、釜ヶ崎の現状等に材をとって、文章化していきます。このように1980年は、再び意識して文章を書くことを始める年でした。1980年と今2005年です。

1980年のころを思い出しながら、私的な出来事を書いていますが、その頃のメディア環境と今2005年とを対比させながら、見てみたいと思います。1980年にいくつかの雑誌媒体を発出しましたが、その代表に、季刊釜ヶ崎と映像情報があります。

季刊釜ヶ崎は、印刷媒体です。まだワープロが出現していなかった頃です。文字はタイプライターか写植です。和文タイプライターで打ち込まれたゲラを校正して、版を作り、印刷機にかけるという方法です。

映像情報は、ボクの手元で極力つくる手作業でした。1号と2号は手書きでドラムで版下を作って輪転機にかけて帳合してホッチキスで止める。3号からはタイプ文字になります。簡易和文タイプライターです。事務機器として市販されていたタイプライターで17万円ほどした記憶があります。これで、コツコツと一字づつ打ち込んでいって、版下用紙に貼り付けていきました。写真を掲載するのに網をかけるんですが、これも引き伸ばし段階で、網目を入れていたように思います。コピー機がありますが、等倍コピーで1枚20円。拡大や縮小ができないコピーです。

このようにして、季刊釜ヶ崎も映像情報も、ほとんど手作業の結果生み出されてきた印刷媒体です。ワープロが出てくるのが1984年ごろだったと思います。それ以前は高価なシロモノです。1台数百万円で、一字づつ画面にだしていくワープロです。ボクが最初に買ったのは、キャノワードという機種です。60万円が半額で出ていたのを買い求めます。そのころからワープロを使い、パソコンに切り替えて使ってきました。パソコン通信が始まったのが1985年頃だったと思います。試しにニフティとPCの会員になって、BBSを少しやった記憶があります。

今から10年ほど前、1995年か1996年頃にインターネットというものがあることを知りました。デジタルカメラはリコーというメーカーのカメラだったと思います。1995年頃に4万円台で売り出された。このころからですね、デジタルで写真やビデオ映像が記録されるようになる。

インターネット環境が簡単に廉価で、ランニングコストも安くて運用できるようになりました。まだまだ技術的には改善がなされて、高速で大容量のデータがやり取りできるようになる。携帯電話で全てが出来るようになるでしょうね。で、ここで大事なことはなにかというと、メディアの形態が10年前から変わった。いや、新しいメディアが誕生してきたといえばいいのかもしれないです。つまりインターネット環境を私的にゲットして、個人情報が発信できる環境である、という点です。

1980年当時、ボクはたまたま同人誌やミニコミ誌の経験から、発信手段を模索してきましたけれど、大方の人は、発信ツールは持たなかったです。それが現在2005年、このブログもその一つですが、インターネットを通じて、情報が簡単に発信できるようになった。ただし、このインターネット環境は、完全管理下に置かれた環境であることです。

このようにメディア環境が変わった。インターネットを介在させるツールは、新しいメディアです。つまりマスメディアしかなかった環境に、パーソナルメディア環境が誕生したんです。つい最近まで、ホームページは雑誌媒体のネットワーク版の様相でした。商売の広告ツールとして、マスメディアのネット版としてありました。それが、個人の創意によって内容が創られる時代になってきたんです。確かにフォーマットやシステムはプロバイザーに規定されますが、コンテンツは個人のものです。新しいメディアの使い方は、これから作られていくのです。

<写真ワークショップ京都の開校>

  271_7126

2005年4月28日 記念日に。

今日4月28日は、いくつかの記念日が重なっているんです。ボクの誕生日。結婚記念日。綜合文化研究所設立記念日。写真ワークショップ京都とむくむく通信社の設立記念日。

昔といっても1952年だったか、日米講和条約が締結された日が4月28日。名目上、戦後日本が独立した日とゆうことです。通信制あい写真学校の開校は昨年の4月28日です。一年後の4月、つまり2005年4月、通学制の写真学校「写真ワークショップ京都」を開校させました。今年は、いろいろとチャレンジします。

米つくり、小説書き、写真学校ディレクション、そのほかにもいろいろありそうです。今日は、そんな、記念日の日だと明記しておきます。