ぼくの写真史-10-
2005.5.9~2005.10.21

<東松照明さんとの出会い>
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写真家東松照明さんとの最初の出会いは、1982年1月6日の夜9時、京都・三条河原町の六曜社という喫茶店でした。東松照明さんの作品群として発表されている「京都シリーズ」取材のために京都へ来られた数日後のことでした。

当時、「東松照明の世界・展いま!」という全国巡回の企画展の話があり、1981年の夏ごろだったと思います、大阪実行委員会なるものが組織され、ボクもそのメンバーの一員になりました。そういう関係で、東松照明さんが京都在住のボクのことをお知りになったのかと思います。

最初にお会いした当日、ボクは金沢は内灘へ写真を写しに行っておりました。かってあった弾薬庫の跡を撮ろうと思っていた。ところが内灘には、もう弾薬庫の跡が撤去されていて、写真に撮ることが出来なかったのです。内灘取材を終えて、京都の自宅へ帰りついたのが午後8時ごろだった。その数分後だったと思います、東松照明さんから電話がありました。

そりゃもう、びっくりしました。で、京都に来ているが会えないか、というのです。そうしておよそ1時間後に、お会いしたわけです。約2時間、六曜社でお話をし、四条木屋町の宿まで歩き、そこで別れました。東松照明さんとお会いした記憶は、ここから始まります。その後、約3年間にわたって、京都で、東京で、お会いすることになりました。

写真というものに関わりだしておよそ30年の年月が経った。こう書き出すと、もうこの時間の長さというものが、自分の人生のなかの半分を占めてしまっている。けっきょくのところ、表現するツールとしての写真が、ボクの人生のメインたるものに当たることにきずく。

写真を撮る、写真学校をつくる、写真の評論をする。ボクのやってきたことが、単に写真を撮ってたしなむ、ということだっだったのなら、単なるアマチュアカメラマンとして、趣味の段階でとまっていただろう。しかし、そうはならなかったようなのです。写真ということにまつわって、様々なことがあった。

そうしていま59歳になって、あらためて写真っていったい何?と問うことでしか始まらないような気がしているのです。たしかに、写真を撮りだした30年ほど前、年齢的には20代後半だった。そうなんだ、人生の謎なんだ!

形象として写真というモノを選んでいるが、根本は、謎なんだと思う。生きてることの意味を掴むこと。様々なきり方があって、そのきり方に照らして自分の意味を見つけ出すという順当な方法が、出来かけては崩れ、出来かけては崩れてきたように思う。結局、経験というモノが豊富になった程度で、根本のことは判らないままなのです。

写真の撮影技術のことは判る。写真の歴史というのも概略わかる。じゃ~何がわからないのか?それは、日々生きるのに必要な技術は判る。大きな歴史の概略もわかる。でも、何のために生きてるのか?それが根底わからない。この判らないことと同義なんだろうと思う。

どうしようもない苦痛と苛立ちがあります。それは限られた生の時間。その時間の持分が大分少なくなってきていることだ。海の上をどんどんと先の方へいくときのイメージ、いつ絶壁のような滝に落ちるんだろうと思いながら、どこまでいっても水平線があって、その向こうに陸地がある。というように人生もそうであって欲しいが、それはもうありえなくて、いつか死滅するということが判っている。この判っていることへの苦痛と苛立ちなのであります。

この苦痛と苛立ちの限界に対して、写真がいかなる意味をもつのだろうか?単なる暇つぶしなのかもしれないんです。この単なる暇つぶしかも知れないと思う、この思い方には、やっぱり苦痛と苛立ちが伴う。表層、モラルに鑑みて生きていけばいいんだ~とも思えない。でも、表層をモラル的に生きていくことしかできないのだとしたら、ああ~もう!落ち込むしかないじゃ~ありませんか?!

写真という表現手段において、なにをどのように捉えるか、ということがあります。便宜的に分ければ、ドキュメント手法とアート手法があるかと思っていますが、いま気になるのは、その根底を支えているヒトそのものです。

ヒトには感情があり、情動と呼ぶものがあります。写真って、結局、理屈じゃわかりきれなくて、この感情や情動というレベルで、捉えることが必要なんじゃないか、このように思うわけです。

写真をつくる技法があり、写真を見つめる歴史的観点、現代社会的観点といろいろな角度からの分析、論理化が必要とされます。ところで、その論理化だけで、写真を見ることで十分なのだろうか?と考えるわけです。

写真を見て感動する、もちろんそこには記憶が呼び起こされ、そこに触れることで、感動になる。このようにも論理化できるのかも知れない。だからヒトの記憶のメカニズム、あるいは人体のメカニズムを解析すれば、写真を解明できる。このようにもいえるのかも知れないですね。

でも、どうもそれだけではないらしい。ヒトが感動、つまり心を揺り動かせられる、を体験することって、いったい何が作用しているんだろう?このことなんですね。

かなり最近まで、ものごとは全て論理により解明できる、ということを信じ疑わなかったんですが、最近は、ほんとうにそうだろうか?と思ってしまうんです。理屈では解明できないような心の動きがある。このことをも科学的手法によって解明しようとしているのかも知れないんですが、現在時点では、これは不可解な領域に属している。たとえば、男が女をみて反応する、女が男を見て反応する。こりゃ生命現象の本能なんだ、と言葉でいってみても、たぶんなんの解決にもならない。心が動いてしまう、という現象を肉体的に解明できるかも知れない、とは思います。で、そのことを理解したとしても、です。感動のレベル、質、傾斜していくことを、理解したことにはならない。

論理化できない心の衝動や情動のレベルを、ヒトは知覚として知ってしまった。さて、言葉では言い尽くせない、そのこころをどのように、外へ向かって伝えるのか。ここなんですね、問題なのは。写真と云う手段は、この心を伝えることが出来るんじゃないか?と思うわけです。論理的じゃないんですね。論理化できない領域と部分。これを伝えられる可能性としての写真。イメージの投影で、感情、情動を伝達する。

あえて論理化できないものを論理化しなくてもいいのではないか、このようにも思うのです。ただ、ヒトの進化の道筋で、いま論理化できなくても、将来論理化できるかも知れないとは思います。でも、いま論理化できないことを、無理に論理化して一定の枠に収めてしまうより、論理化という枠をとっぱらってしまう。そこで感じること。そう、感じること。この感じることを大切にしてもいいんじゃないのかな~って思うのです。