写真物語-1-

ぼくの写真史-1-

ぼくが写真というメディアに興味を持ち出してかれこれ30年が経ちますね。
1975年頃でしたね、大学卒業した直後にニコマートを買ったんです。子供が4歳と1歳、わが子の写真を撮る、っていう目的だったですね。

1965年頃から文学に興味が出てきて、小説家とか評論家になりたいな~なんて、本気で考えていたこともあってね。大学入学した1968年には、大学のサークルに入って同人誌に文章を発表したりして、1974年頃まで文学研究会とか定例読書会とかに参加してましたね。で、そのころってけっこう行き詰まっていて(気分的にです)、もう文学できないな~、そんな心境でしたね。

そこでカメラを手にして、自分の子供を撮ったり、家族旅行の記念写真とか撮ったり。写真が文学に替わる興味になってきたんです。ここではボクの個人史を記しておこうとの目論見があるんですが、その最初を、このあたりから掘り起こしていきたいな~って思ってるわけです。

もうひとつ別に、「苔の私日記」と題したのもあるので、二本立てで、やっていこうかな~、というのも一本だと前後の文脈があるから、別角度へ飛べないですから、当面、ここでは写真の方へ30年の個人史をやろうかな~。

写真が文学に替わる興味になってきた頃の話から、掘り起こしていきたいですね。ということで、ほんのお遊びこころから、写真の魅力?とりつかれていくプロセスを記していきたい。それは、内面史というより外面史を中心に、と思っています。

-内灘砂丘の弾薬庫跡-

その当時の夏、8月の初め、金沢へ家族とともに帰省したんです。金沢は彼女の高校卒業まで生まれ育ったところです。その実家へ帰ったときに海水浴にいったんです。場所は内灘、金沢市内から北鉄の電車に乗って20分ぐらいですね。内灘の話は追って書きますが、まだ結婚する前に何度か行ったことがありました。

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その内灘の浜に、コンクリートの塊、弾薬庫の跡がいくつかあったんです。その弾薬庫の写真を撮った、数カットですね、子供たち以外に被写体を求めた最初の写真でした。その後、この写真は「映像情報」創刊号表紙に使いました。

小説を書いていた頃の最後の作品(未完)の冒頭がここ、内灘の光景から始まっていました。何かしら因縁というんでしょうか、金沢・内灘というのがボクにはあるんです。家族の海水浴のスナップと同じネガに収められた内灘の弾薬庫跡の写真。ボクの写真への記憶の最初は、ここなんです。

内灘の弾薬庫跡の写真を撮ったときには、まだフィルムや印画現像は全て写真屋さんに頼んでいました。そのころは伏見郵便局というところで働いていて、京阪丹波橋の改札を出て少し西に下ったところにキングカメラというお店があって、そこに頼んでいました。そうそう、カメラは上田カメラ店の出張販売の際に買い求めました。内蔵露出計つきのニコマートでした。

この郵便局の職場にカメラクラブがあって、誘われてクラブにはいりましたね。田原さん、長島さんという先輩がおられて、彼らはモノクロ現像の経験者でした。この場所がボクの最初のトレーニング場となりました。そのうちフィルムはネオパンsssというフィルムを使うようになりましたし、自宅に暗室機材も揃えました。引き伸ばし機はラッキーのものでした。

一番最初の印画紙、家族見ているところで、マニュアルどうり露光して現像液に漬けました。するとどうしたことでしょう!真っ黒。印画紙全面真っ黒。つまり露光量が多かった、レンズの絞り開放のまま、何秒間か露光していたのでした。失敗ですね、これが自分でやったプリント現像の最初の失敗談です。

そう、小説書いていたころがもう遠くにいってしまって、写真に夢中になり始めたんです。1976年の節分の日に千本釈迦堂の節分祭を撮影して、そのなかから一枚を、なんだったかのコンテストに応募したんです。「京の冬の旅」写真コンテストだったかも知れないですね、明確に覚えていません。そしたら、佳作というのに入ったとの通知がきたんです。それで表彰式が京都会館の会議室であるとのことでしたので、行きました。写真で最初の表彰、賞状をいただいたんです。そりゃうれしかったですね、思い出しますその気持ち、そっからですね。

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朝日新聞の社告に全日本写真連盟の写真サロン展ですね、その出品案内が載ってた。それで地場のやすらい祭りを撮った写真を個人会員ということで審査会場へもっていきました。蒲生さんでしたね、そのときの審査員のせんせ、ボクの写真を一目見て、まあいいか、これ、てな具合でOK。写真展は京都市美術館で行われるんです。美術館へ自分の写真を飾るんですよ~ヤホヤホ!ところが搬入当日、もう大ショック、落ち込みました。いわゆる作り写真ですね、もうボクには訳わからない落ち込みの気持ちでした。

やすらい祭りの鬼が素直に踊ってる写真、それでも手に入れたばっかりの24ミリレンズ使った写真だったんですが、そんなストレート写真なんて、なかったですね、みんなむちゃくちゃ上手いじゃないですか~ということしか言えなかったですね。


-達栄作さんのこと-

達さんとの出逢いは1976年夏の終わりだったと思います。全日本写真連盟京都支部(写連)が主催した宇治でのモデル撮影会の帰り道、京阪電車の中でした。先にボクは写連の個人会員となって京都写真サロンに出展しましたが、それが初めてのモデル撮影会の参加でした。

その撮影会の指導員してたのが達さん、まあ、先生ですね。電車の中で挨拶しました、たぶん、こんにちわ、程度のあいさつ。クラブ、クラブって言ってますけど、どうしたら入れるんですか?っていうような質問をしたと思うんです。達さん、クラブやってるから来るなら来たらいい、との返事だったですね。

それから、事務所兼自宅が藤森にあるから・・・ということでボクは達さんの自宅を聞き出して、後日訪問することを言いました。ボクのその頃って、職場で写真クラブに所属しており、カメラ雑誌が先生的存在でした。アサヒカメラ、カメラ毎日、日本カメラの三誌ですね、古本を1冊50円程度で買ったり、新刊本を買ったりして、むさぼり読んでいたと記憶しています。

カメラのレンズの記事とかボディの記事とか、まあ、ハード環境の話題ですね。それからコンテストの項ですね。いろんな写真が載っていましたね(今現在も同様ですね)。ストロボの使い方とか、広角レンズ、望遠レンズの違いとか、いってみれば作画のためのノウハウですね。そんな話題ばっかりでしたね。

電車の中でお会いしてからしばらく後に、達さんの家を訪問したんです。京阪藤森駅から徒歩で、聞いていた方向に行き、目的地、京都国立病院のそばまで行って、達栄作さんの家を探しましたが見つかりませんでした。そして公衆電話からTELしましたら、もうお家のすぐそばからのTEL、教えてもらった場所に和風のお家がありました。

玄関は道路に面しており、格子戸を引くと三帖ほどの土間、左に応接間、前が台所につながる戸です。典型的和風庶民の民家作りです。応接三帖間に茶色のソファーセットが置かれ、壁際に書棚、窓辺にトロフィーと奥さんの入院ベッドのうえでの写真(その後奥さんが癌でお亡くなりになられていたことを知りました)、そんな部屋でした。達さんには、にこやかに迎えていただきました。緊張していたボクの気持ちをほぐすように話かけていただいたと記憶しています。

光影会という名称の写真クラブでした。それからボクは週に1回以上、達さんのお家を訪問することになります、ボクの最初の先生ですね。また、達さんのお家は、ボクの写真についてのお勉強の寺子屋でもありました。達さんは、当時、二科会会友の肩書きをお持ちでした。それから光影会の会長、シュピーゲル写真家協会の会員・・・その他あったんでしょうけどね。光影会は、以前、京都シュピーゲルとの名称だったそうです。

木村勝正という写真の先生がシュピーゲルの会員で、大阪が中心なので、京都で旗揚げしたんだそうです。大阪に岩宮武二、棚橋紫水、堀内初太郎さんとかがいて、浪速写真クラブとか丹平クラブとかがあって、そんなのの選りすぐりがシュピーゲル写真家協会ってのを立ち上げた、その中に木村勝正さんもいて、京都グループを形成した、その中に達栄作さんがいた。

木村勝正さんがお亡くなりになって、その後、光影会と名称を変更、達さんいわく、シュピーゲルって名前は木村勝正に貸した名前だから使ってはならぬ、と大阪グループから言われたんで、光影会に変更した、とのことでした。そうして達さんと知り合いになって、光影会の例会や撮影会に参加するようになり、写連の月例にも応募しはじめました。

1976年から1978年ころまで、集中的にここ達さんの家で写真を学びました。ボクは達さんから写真がどうあるべきか、といったような話については、土門拳さんの写真を引き合いにだしてよく語っていました。俗にゆうアマチュア写真の作画から作家の方への模索だったと思っています。つまり、達さん自身が写真とはなにか?という疑問に突き当たっていらしたんですね。

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ドキュメントという話をよくしました。達さんの書棚に写真集がありました。カメラ雑誌系のものが多かったですが、ウイリアム・クラインの写真集「ニューヨーク」と「東京」がありました。それから岩宮武二さんの「佐渡」なんかもありました。それから当時発売されたばかりの土門拳さんの全集ですね、そんな写真集を見ました。

ボクの方はカメラ雑誌では、カメラ毎日に載っていた東松照明さんの「太陽の鉛筆」、アサヒカメラに載っていた北井一夫さんの「村へ」ですね、その他大体の有名写真家の写真を、主にカメラ雑誌を中心に見ておりました。森山大道さんとか中平卓馬さんの写真には、あまり関心が向かなかったですね。

達さんは、奥さんを癌でなくされた後だったようでした。そのときに撮った写真が病院ベッドでの写真で窓辺に飾ってあったんですが、この写真を渡辺勉さんという写真評論家がほめてくれた、とのことで、その褒めの内容がプライベートドキュメントだというんですね。その当時は、ボクはそんな言葉は知りませんでした。達さんも何故褒められたのか、十分には理解されていませんでした。でも、記録の方法としての写真ですね。記録とは何か、です。

一緒に撮影にも出かけました。その当時、達さんは琵琶湖の北にある「余呉湖」を取材していました。日帰りでいったり、泊りがけでいったり、頻繁にいきましたね。教わったのは撮影現場での撮影の仕方ですね、ボクは見習いカメラマンでした。写連の例会とかコンテストで入賞したりしだして、盾やらトロフィーやら賞状の類が増えていきました。大体の合同写真展、関西二科、写真サロン、選抜展、光影会展・・・会場は京都市美術館とか府立文化会館でしたかで、諸先生方と同じ壁面に写真が並びました。

「こうして先生と呼ばれるようになるんやな~」って思い出したんです。文学でモノにならなかったボクは、写真の簡単さにうぬぼれていましたね、ホント。その後1978年秋頃から、少しづつ疎遠になっていきます。達さんはボクが舞鶴に単身赴任中にお亡くなりになりました。1990年の年末頃だったと思います。訃報の連絡をいただきましたが、参列できませんでした。

2004.9.16~10.27  nakagawa shigeo