記憶の痕跡 2006.7.21~

光の痕跡
2006.7.21

光ってのは生命の源泉だと思うんよね。
この世のしきたりってのも光が基準のように思うんよね。
まづ闇があって、そっから明暗に別れるわけでしょ。
その明をつくりだすのが光ってわけさ。
植物ってのは、光を摂取して光合成するわけだし、
動物ってのは、光で合成された酸素を吸って生きてくわけだし、
光ってのは、生命の源泉なんですね。
人間さまだって、光を求めてやまない動物でしょ。
光ある処を求めて、脚光を浴びたい、認められたい!
なんて、光あるところは、情のエクスタシー領域でもあるんやろねぇ。
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写メール文学
2006.7.7~7.14

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文学作品というのは、作家を自認する個人が、個人の内部でつくりあげるイメージを文章化したものだといいます。この限りにおいて、文学作品は、作家と読者という二項に分けられたあり方です。ところで最近は、ネットワークを通して個人と個人が写真と文章を交換しあうことがあります。写メール交換です。

アートの形を、個人間の関係性のなかに見出す論があります。これまであったアートの形、すなわち作家と鑑賞者という関係のなかで、出来あがった作品をその介在とするという、従前の形ではなくて、制作プロセスそのものをアートの行為とみなすのです。作家を自認する制作者のプロセスを、ライブで享受するというにとどまらず、行為者が複数登場するなかで、アートが行われる。関係性のアートです。

文学の試みを、この関係性のなかに置いてみようというのが、この項の目的です。文学作品が、制作のプロセスを複数で共有し、生成していく中味自体をもって作品となる。そうゆう形です。さて、そこには文章と写真が置かれる。文学と写真というジャンルを融合させ、なお、複数の個人により生成させられる形を、文学の新しい形として、提起したいと考えているのです。
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作り手がいて、読み手がいる。作者がいて、読者がいる。作者が中心にあって、読者はその周辺にいる。まあ、既存の文学形式は、このような構造を持っているわけです。この構造の中心となる作者を、個人の集合体とするというのが、写メール文学の発想です。自我なくして文章は書かれえない、という前提を否定することはできませんから、文章を書く基本体は、個人です。

この個人と個人の写真と文章の交換によって、ある場が作られ、その場が文学の場となる。この場というのは、仮想空間場であって、作者自身が読者であり、読者自身が作者である、という関係がその場に生じるわけです。この関係場にいる個人そのものの形が、文学の主体となるのです。

連歌、応答歌、そういえば、写メール文学として思考する、この関係は、かってあった形態に類似するものです。制作し呼応しあう当事者のなかに生じる心の動き、それ自体を重視する文学態といえばいいかも知れないですね。作者と享受者が一体となった関係の文学態です。

この写メール文学は、既存の文学形式を解体するものだと考えています。あるいは近代文学の形式が成立する以前の、まだ文学という概念が成立しなかった頃の、文章による情の交換場であったそのものを、新たな現代ツールによって再生させる試みでもあると考えます。ええ、これは、文学という概念からすれば、文学以前のたわごとにすぎない考え方だと一笑にされることです。でも、アートという概念を、関係性を中心に組みなおしていくと、文学というアートの形をも、このように組みなおしたい道筋なのです。
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<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の昭和寫眞帖