<ドキュメンタリー・フォト>6

写真によるドキュメント、記録。呼び方として、ドキュメンタリーフォトと言ったり、フォトドキュメンタリーと言ったり、いずれにしても、写真による社会記録のことだと解釈すればいいかと思います。ここまでで、カメラの視点が、ソーシャルな立場から、パーソナルな立場をふまえて、プライベートな立場まで、時代とともに進化、あるいは深化してきたと捉えているわけですが、ここではその背後にある概念にまで踏み込んで、触れておかなければいけないように思います。

そのひとつは、政治や経済によって構成されている世界の枠組みのなかにおいて、その問題を正面から解釈し、写真作品に反映させていくということ。理論的な政治や経済の枠組みから離れてはならない、ということ。この条件を仮説としてここにあげておきます。東松照明氏の一連の写真作品の中に、日本国内にある米軍基地の問題を背景にして、写真イメージが構成されていきますが、ここには、明らかに言語による歴史認識があり、それをベースに被写体が選ばれ、撮られているということがいえます。

もうひとつは、言語との関係、論説や言い伝え、言葉の世界とイメージ(写真)の世界との相関関係です。記録という概念は、<何年何月何日に何処で>といった<日付と場所>が底辺にあります。具体的な日時のときもあれば、ある一定の時間枠がとらえられるときもあります。つまり、ドキュメンタリーフォトという概念は、言語と共にある写真、といえるかと思います。もちろん、だから、言語を切り離せば、どういうことになるか、というのは次の問題です。

前段で、ドキュメンタリーフォトを構成する、写真家と外界との距離関係に、三つのレベルを確認しましたが、それは時間経過による遠くから近くの時間へという流れの中で、現われてきた手法でありました。現在の位置は、この三つのレベルが、並列に、等しい価値に並んでいるときだと思っています。モダニズムが終わって、ポストモダンが終わって、いまやセカンドモダニズムの時代だと言われていますが、これは個人が手法として選ぶ写真の方法、あくまでドキュメンタリーという手法のなかでの、選ぶ価値軸が等しい、等価値で選ばれる位置だと思うのです。

ドキュメンタリーフォトの基本条件は、政治や経済の世界と向きあっていることと、言語との共存という、この二点だと思っています。ドキュメンタリーフォトであるか、そうではないのかという区分として、判断基準として、提起してるわけです。というところで、この基準にあてはまらない写真群が、たぶんに見受けられると思います。とすれば、それらの写真群は、ドキュメンタリーフォトではない、別の括りが必要であろうと思います。それは、たとえば。アートフォト、たとえばプライベートフォト。いまぼくたちの前に現れている様々な写真の群を、価値の優劣ではなくて、区分してみる必要があると思っています。

  PICT2782 (2)