<フィクション・フォト>

ドキュメンタリー・フォトが、世の中の出来事を、嘘偽りのない事実としてとらえる写真だ、ということにすると、そうではない写真があることに気づきます。作り物、創作、つまりフィクション、虚構の領域の写真のことです。たとえば三島由紀夫を被写体とした細江英公の「薔薇刑」(1962年)は、虚構の世界のイメージ化、とでもいえばよいか、作り物です。そのイメージの原点は、被写体となった三島の文学センスであるように思います。

ドキュメンタリー・フォトと並走する言語。ドキュメンタリー・フォトは、言語によって支えられる写真イメージの特定、といったことがあって成立する写真です。その対極にあるのが、ここに提起するフィクション・フォト、だと言っておこうと思います。フィクション・フォトは、多々あると思います。物語を素材としてイメージ連鎖させていく写真群。たとえば高梨豊の「初國」(1993年)という写真集、なんとなく神話イメージをベースに、写真を撮り下ろしていくというイメージです。

言語とだけいえば文字列ですが、文学言語といえば俳句や短歌から物語や小説などを意味させたいと思っていますが、この文学言語を背景として写真を連ねて物語にする。フィクション・フォトとは、言語の領域と並列関係、もしくは底辺に言語領域が横たわる。このような関係。写真ではないけれど、絵物語。源氏物語絵巻は、最初に言葉があって、物語があって、それに絵が作られてきて、いまや源氏物語絵巻として存在します。

ここでは、写真と言語の関係を見ていて、写真イメージは、イメージ化される言語から、離れられないのではないかと思うのです。でも、言語とは関係しない写真、写真つまり静止画それ自体でインパクトを与えられ、それに終始し、インパクトに帰る。言葉は、感嘆詞でしか発せられなくて、こころ動かされる、情が動かされるイメージ。第三の写真、そのような領域が、あるような気がしてならないのです。

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