<情動・フォト>2

写真制作の方法で、ドキュメンタリーという制作の方法をメインに据えて、その周辺に派生する写真群として<フィクション・フォト>やここでいう<情動・フォト>という内容の写真群があると思っています。ということで、時代の流れのなかで、写真の社会的役割が、すこしずつ変化してきたと思えます。かって、世の中の記録をする手段として、文字が使われ、絵画が使われていましたが、写真術が発明されることによって、記録の中心的存在になってきたのが写真イメージです。映写機を使って記録するフィルム、つまり映画が担うというより静止画の写真。これは紙媒体、新聞とか雑誌に掲載するのは静止画、写真でしたから。ところが、テレビの発展、ビデオの発展、いまやインターネット通信の時代になっていて、写真が持っていた記録性を使用する媒体、新聞や雑誌から、動画でもって記録するビデオが主流になってきたのです。

写真にとって、記録することが第一義だった役割から、写真で記録しなくても動画で記録されることのほうが、主流になってきました。動画では、現場が動くと同時に音声も記録されるから、記録性としては優れていると思います。またメディアとしても現在では、テレビが主体で情報が流されていくわけですから、写真より映像が重宝されることになります。こうして写真が記録の主体から遠ざかるということは、写真それ自体が、別の方法や目的で使・われだす、ということになります。ぼくが思うには、記録から離れた創作・フィクションすることが、必然的に写真の主たる目的となります。ここでいうフィクション・フォトです。このフィクション・フォトで、なにを導き出そうとするのか、これがこの節のテーマです。ぼくは時代の流れのなかで、今からのちには、個人、内面、情、これらがテーマとして注目されてくるのではないか、と感じています。

個人の人間としての存在。肉体を保持するためには食料が必要であり、情を持ち、情をふくらませる極みにセクシュアルなことがあり、この二大必要が、扱うべきテーマのベースになってくるように思われます。人間とはなにか、男と女、生殖とはなにか。本能としての食欲と性欲。この二つの欲を満たすための方向へ、制作の方法がフィクションされていくのではないかと思えるんです。食べることをテーマとすることは、全く自由で、いまや写真だけではなく、映像においてもテレビ番組として、食べることが表にあらわれてきています。それと同時に表われてくるのが、性欲、肉体、その場面、ということでしょう、けれども、これはまだ未開です。タブー領域でもあります。このタブー領域をどのように表へ現わしていくのか、ひとつのテーマの方向であると思われるのです。

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