頭くらくら心臓どきどき-1-
2006.6.30~2006.7.19
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激しい頭痛のあと、くらくらする感覚が、わたしを包んでいます。ドッキンドッキン、どきどき心臓の鼓動が、内側から聞こえてきます。ああん、なんとゆう状態なんだろう。浮遊したこころとからだ感覚じゃないですか。ああん、もう、くらくら、どきどき、してる。疲れてんだよ、きっと・・・。そんな慰めのような声が、聴こえてくるような・・・。いよいよご臨終まえなんだよ・・・。そんな脅かしのような声が、聴こえてくるような・・・。

枠組みに沿った意味というものが、突然に消失してしまう。からだが昂奮しているんだ。ぐじゅぐじゅとした内分泌物が、汲みだされてくるような、そんな感じだ。極めてえろす的な感触だと思う。蠢くからだの細胞が、器官が、肉体がここにあります。境界は皮膚です。指があり目がある。いま、パソコンに向かって、指でキーボードを打ち、マウスでクリックする。目はTV画面をとらえて、言葉を読み取っている。

極私的くらくらどきどきを、メディアを通して発信していく。極めて政治的な闘争だ。既存の言葉が醸すイメージを発し、既存のイメージを定着させた画像を組み合わせて、発信していく闘争だ。ええっ?闘争って?ちょっと過激だよね。でもさ、ねえ、一方では戦争状態なんだ。ドンパチやってるんだ。アートが静観できるわけないじゃないですか。どうしてもそれを引き受けたうえで、アートを展開しなければ、いけないんだ。

あたまくらくら心臓どきどき-2-
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<男と女と・・・その境界線>

いやぁね、リアルな状態で、男と女の違いといったらさ、まづからだの構造が違うから、裸になってみりゃぁ判別できちゃう。でもからだは外面だから、こころの中、つまり感受性なんてレベルだと、どうなんでしょ?ややや、明確な境界線なんて、無いようなんですね。

バーチャルな状態で、ってゆうとネットワーク、インターネット、ホームページとかブログとかのなかで、男と女の違いといったら、そのなかで男か女かを名乗ることで、男か女に区分されちゃうような感じですね。男とも女とも名乗らないこともあるわけで、そういうときには、書かれた文体とか内容とかで推測していきますね。

男とおもえば女が群がるし、女とおもえば男が群がる。ちょっとゲスなはなしだけれど、男が女を求め、女が男を求める構図が、リアルでもバーチャルでも同じように起きる現象なんですね。そりゃぁ、そうですね。バーチャルな状態といえども、参加する主体は個体の男か女なんだから、客体に男女の別を求めるのもしやないなぁ~。

男のような文体をつくる女があり、女のような文体をつくる男があり、そいで男か女かの性別を表記してあれば、それはそれでそれなりに納得できて、男は女の表記に群がり、女は男の表記に群がる。そこで、現代ヴァーチャルアートの意匠を被せて、男が女を名乗り、女が男を名乗ると、どうなるか?

男が理想とする女を演じ、女が理想とする男を演じる。さて、 そこで標記の境界線の問題が提起されるのです。いいえもう、男も女も混合ミックスで、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、つまり、男と女を行ったり来たり、まあ、こんな現象が起こっているのではないのかなぁ~と推測するわけです。

あたまくらくら心臓どきどき-3-
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わけがわからないときってあるじゃないですか。記憶の糸がぷっつんと切れてしまったような、白日夢の感じで、目の前の光景がゆらめく。そいで、いったい私とはなんなのよ、って感じ出して、頭がくらくらしてくるわけです。心臓がどきどきと高鳴ってるのが、意識できて、ああ、倒れるぅううっ、って思っちゃう瞬間のことです。

体感したことがあるんですけど、貧血状態になって倒れていくときの数秒間ってのが、こんな感じでした。真っ白になるっていいますけれど、目の前が真っ白になって視覚がなくなってくるんですね。そうそう明るい霧の中を彷徨う感じで、目の前が真っ白になってきます。ひとつの比喩でいってますけど、そのような状態になったときに、こっちへ戻ってくるのか、あっちへ行こうとするのか。

うわ~ぎゃ~そんなのいやぁ~!なんて目を瞑ってしまうとき、それは自己保身本能が働いて、感受性をセーブしようとするんでしょうかね。で、その向うは破滅の世界だぞ!って文化の枠組みが刷り込んできた結果なんですね。咄嗟の私の判断ってのは、そういうことに基づいてると思う。

私の心のなかっていうのは、あっちへいったり、こっちへきたり、その全体なんだよね、そのように感じます。そうして見えないバリヤー、あるいは境界線を意識しちゃうんですね。

あたまくらくら心臓どきどき-4-
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とある状況に追い込まれてしまって、ああ~あっちへ行ってしまいたい、って思う瞬間を経験したことがあるヒトには、わかりやすいかも知れないですが、そんなときは異常心理状態です。時間とか場所とか、目の前のヒトとか、ふつうは自覚して確認できるようになっている心状態ですけれど、あるとき、それが判らなくなる。思いつめてるときとか、錯乱してるときとか、そうゆう言い方もあるかと思いますが、ボクはその状況を、頭くらくら心臓どきどき状態だと思っているのです。

ええ、みずからの体験を振り返っているんですけど、その別世界は、エロスに満ちており、タナトスを予感させる世界だったと思っています。生と死の境界線。生への渇望はエロスであり、死への恐怖はタナトスです。

日常的には、頭くらくら心臓どきどき状態にならないように、自己防衛をしているようだけど、とある状況におかれると、そのバランスが崩れてしまうのじゃないかと思うわけです。バリアーの外側なんていえばいいのかも知れないその世界です。いいえ、ね、何を云おうとしているかといえば、究極アートの世界を想定しているんです。

アートが、日常ではない、つまり非日常の心、心理状態を誘発する装置だとしたら、この頭くらくら心臓どきどきの状態を、いかに創り出すかという装置でもあるわけです。予定調和的美の極みを表出するのがアートだ、なんてことは云いません。心の基層をなすエロスとタナトスがあるとすれば、アートは。エロスの極みを表出させなければ、ならないのです。エロスの極みは、ヒトを救済すると思うからです。さて、でも、具体的な作品は、となると・・・。それは世の習いからはみ出してしまうかも知れないですね。

あたまくらくら心臓どきどき-5-
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かってのわたしなんぞは、もう自分のことが、いや~でいや~でしかたがなかったんですよ。足は短いし、胴はずんどうだし、背は低いし、見た目にカッコいいわけないじゃないですか。鏡を見るなんて、それこそ、もう許しがたいほど、屈辱な感じがして、いたたまれなかったんですよ。それにね、こころのなか、ふしだらなことばっかり妄想しちゃうじゃないですか。こころのなかを映しだすテレビなんて発明されたら、どうしょうなんて思うと、もう夜もゆっくり眠れないって感じでしたね。

まさにこれは自己嫌悪ってゆう習性だったと思うんですけど、その反面、自分が可愛くってしようがないって感じに見舞われることも、たびたびありましたよ。いいえ、自分を第一に、安全なところへ置いておきたいと思っていたんです。自己嫌悪、自己陶酔、サディストなわたしと、ナルシストなわたしが、同居しておったわけです。いいえ、こんなときは、頭くらくらなんてしませんし、心臓どきどきなんてこともありませんでした。

ところがね、ある時期、開き直ったかのように、もうええやん、どうにでもして、恥じも外聞もあるもんか、ってね、尻捲くる、なんて言い方あるとおもうんですけど、そんなふうな時が訪れたんです。そんなときだったんですね、頭くらくら心臓どきどき、なんにも怖いもんなんてない、そんな感じで、開きなおったってわけです。頭くらくら心臓どきどきってのは、あっけからんとして、なんでも受け入れちゃおうなんてバリアーを外していったときに、ね、起こってきたんです。

単純に、体が疲労してたってこともあったと思うんですよ。錯乱してたなんて思いませんでしたけど、目の前におこっていることの文脈がつかめない、狐に抓まれた、っていう状態ですね。地下鉄のホームでさあ、後ろから電車の音が、耳つんざくような轟音に、寸でのところで風圧によろめきそうになって、頭くらくら心臓どきどき、乗ってから、降りる駅を間違えて、いつもと違う駅の容姿が、狐に抓まれた感じで、わけわからなくなったり・・・。その後ですね、からだとこころのね、ぐじゅぐじゅな感じがね、まさに生きてるって感じで訪れてきたんですよ。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖