洞窟の奥は闇
2006.7.28~2006.8.18
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地球ってゆう物体の表面にぽっかりあいた穴があり、そこへ這入っていくとね、光が届かない、闇になっていくとゆうじゃありませんか。そんなのを洞窟って云ってるんですね。ものの本によると、そんな洞窟にね、手形(ネガティブ・ハンド)とか、動物の絵(馬とかビゾン)とかがあるといいます。それらが描かれたのが、いまから2万5千年ほど前のことだとゆじゃありませんか。南仏にあるアルタミラやラスコーなどの洞窟で、旧石器時代の出来事だとゆうじゃありませんか。

その洞窟の内部は、光が届かない闇です。当時のヒトが、火を持って這入って、描いたのだといいます。わたしが、興味をもって驚くのは、そうゆうことをしたということ、それ自体なんです。その行いは、ヒトの心が形成されてくる、最初のころの出来事だともいいます。わたしはいま、想像力をはたらかせて、そのころのヒトの心を知ってみたい気持ちにさせられています。いいえ、わたしは、そのころのヒトになってみたいと願望しているのかも知れないです。

混沌としたヒトの内部意識は、洞窟にたとえられると思っています。表面、光が届くところは見える、意識できる。でもね、だんだんと光の届く量が少なくなって、ぼんやり、うっすら、そうして闇になる。その闇を見てみたいな~っと思うわけです。見えないから闇であって、見えるところは闇ではない。意識できることは、闇ではない。心のなかにイメージをつくることは、闇ではない。それでは、闇というものは意識できないから、無いのだとは言い切れない。有るとも無いとも・・・。

有るけれど無いとしか思えない処は、闇、ヒトの中にある洞窟の奥です。わたしが存在する証である身体。有機体として生理活動をおこなっている身体。この身体細胞に依存する物質が、寄り集まって、心にイメージを立ち昇らせる。そんな作用を起こすのだともいいます。目の前にあるモノを見たとき、音を聞いたとき、匂いを感じたとき、触れて感じる感覚。そういうときに反応する物質が、闇のなかに漂っているのかな?

そうですね、いま現在だったら、デジタル電子信号がメモリーに蓄積されていて、ある操作によってモニターに現れる、そんなことと類似なんですね。いやはや、メモリーに蓄積されたデジタル信号は、わたしの身体、特に脳に集約されるグジュグジュ物質の、もうひとつの、別の塊だと思えばいいのかも知れないですね。で、其処は闇、有るけれど無い処だとはいえませんか。

闇からの声
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闇からの声が聴こえるということが、ホントにあるのかウソなのかはわかりません。でも、ヒトのこころに闇があり、その闇を鎮めるかのように、善行を尽くし、手を合わせて祈る、ってことをするじゃありませんか。とある場所に赴き、魔界に入り、そうしてインスピレーションってゆうか、闇の彼方からの声と交信する。このように感じられることがあります。

この世は色で埋め尽くされて、心はぐじゅぐじゅ、生きることじたいが苦るしみだ。なんて思うときがあります。闇というと地獄とか、地の底とか、洞窟の奥とかのイメージです。それじゃ~天上の彼方からは、光が降り注ぐイメージで、あこがれ、ひたすら祈り、恩恵を待つ・・・。ボクは、夏の日々になると、魔界といわれる世界に棲むようになります。いいえ、心が傾いていくとでもいえばいいのでしょうかね。この文化土壌から刷り込まれた宗教儀式を、よみがえらせていくのです。

お盆です。ボクには、闇からの声として、それらの日々に聴こえてくる感覚があるのです。決して天上からの光が見えるのではなくて、地下から、いいえ洞窟の奥から、悪夢のような声が聴こえてくるように思えるのです。生への渇望はえろすです。この色に満ちたえろす感覚を、消滅させていくその奥に、闇がお控えなすっているのですかね。きっと闇ってゆうのは、ヒトの気持ちを、恐怖と畏怖を混ぜ合わせたような、感覚にさせてしまう代物なんですね。

闇の声へ
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もうこの話は50年も前の出来事ですが、ボクは拝みやさんの護摩焚き神事の真っ只中で、奇妙な声を聴いたのです。<心配せんでもよい>という女の太い性質の声でした。当時、ボクは小学生低学年だったから、1950年代初めごろです。

拝みやさんというのは、金閣寺の裏、衣笠山の麓にある身代不動尊から、一年に一度、自宅神棚の下で、ホウラクに積み上げた護摩木を燃やして魔よけをするのです。白装束のおばさんが、呪文を唱え、ええい、やあぁ~!って大きな声を出すのです。組んだ手指を人差し指だけ合わせて突き出し、ええい、やあぁ~ってやるわけです。そのとき声が聴こえてきたのです。ボクは、狐に抓まれたという表現のとおりに、狐に抓まれたようなのです。

参考のために記しておきますと、この神事で燃え残った護摩木の炭を、大事に保存しておいて、熱が出たとか、腹痛とかが起こると、おばあちゃんは黒炭を砕いて、ボクに飲ますのでした。小学生だったボクには、そのありがたさが判らなかったけれど、薬として飲みました。ええ、もちろん熱が下がり、腹痛が治ったのだと思います。炭素を腹に入れて、自力で治っただけでしょうね、ホントはね。

その声(女のヒトの声でした)が、幻聴だったのかどうなのか、ボクにはわからない。しかし、たしかに聴こえたのです。このはなしを同席していた叔母に言うと、叔母は、笑ってこのはなしを真剣に聞いてくれなかったのですけれど・・・。ボクには確かに聴こえた、と今でも思い出したかのように思います。

今日、ぼくはその拝みやさんが住んでいた場所へ行ってみました。50年ぶりのことです。記憶の谷間から光景が滲みだし、そうしてボクは祠のある場所で写真に撮ったのです。そこは氷室と呼ばれる処です。かって池があったところは、小学校の運動場になっています。ボクは原谷へつながる道路から、小学校の縁を辿って、裏手へまわり、そうしてその場所へいきました。衣笠山身代不動尊です。うんうん、記憶のままに祠があって、ちょっと不気味な感じの、霊界です。かなり朽ちているから、今はもうだれもいないのかも知れない。信者さんが細々と管理していらっしゃるのかも知れないと思ったのです。

祠の周辺を写真に収め、自動車道路に出たころから雲行きが怪しくなり、それから金閣寺の前まで歩いて戻ってきたときに、雷がごろごろ鳴りだし、大粒の雨が降ってきました。ボクの記憶は、不動さんの小屋へ行ったとき、激しい雷と夕立に見舞われた記憶。少年だったボクの夏の日のことを思い出しているのでした。

心の感情帯へ
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<心>と書いて<こころ>と読む。この心の問題です。生体としての脳作用をもって、心を解析するなんてことではなくて、感情を含む総体としての心、とくにその感情というものを考えてみたいと思うのです。感情の種類として、喜怒哀楽とは、実にうまく表現したものだと感心します。 この世にヒトの感情として、大きくはこの四つの種類に分類されています。で、この喜怒哀楽という感情は、自分の外界に対して感じる感情だといえます。

ここではもっと身体的というか、内発的というか、外界からの刺激に対して起こる感情ではない、身体欲求において発生する感情について解き明かしたいと思うのです。食欲、性欲、それに伴う快感感情、充実感情、つまり満ち足りた感情といった類の感情を有する心のことです。

というのも小説を書く、写真を撮る。そうして出来上がった文章や画像を触媒として、身体欲求をどこまで喚起させることができるか。ボクは、この問題に立ち入ってしまったようにも感じているのです。食欲を喚起させても腹を満たす代替はできないことです。で、性欲においてはどうだろうと考えているのです。ひょっとすると、これの代替は可能かも知れない。小説を書き、写真を撮る。そうして自分を含む他者への提示は、この代替作用を代替でなく、ホンモノとさせることにある。これが究極の目的だと考えているのです。

主客転倒、小説も写真も、現実、現物ではない。いずれも疑似体験させることで、現実、現物以上の感情を喚起させることができるかも知れない。この<かも知れない>可能性に向けて、ボクは小説が書かれ、写真が撮られるのではないか、と思うわけです。読んで、見て、感情を疑似体験させるだけにとどまらず、まさにナマ体験そのもの。いいえ、バーチャルなナマ体験として、ホンモノ体験をさせることができるかどうかなのです。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖