愛と美について
2006.8.26~2006.11.2
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まあ、なんて滑稽なタイトルなんでしょうね、愛と美だなんて・・・自分でもそう思ってしまうほどに、古いフレーズですよね。なんか、ふっと記憶の底から湧き出てきた言葉、そういえば太宰治って作家のタイトルに「愛と美について」なんてのがありましたね。太宰治って本屋さんへ行けば、文庫本でお勧め小説として並んでいるから、いまもって古典的現役小説なんでしょうね。そういえばボクだって、ええっ、40年前になるんかいな、ファンといえばファンでありました。その当時、筑摩書房から太宰治全集が出るっていうので、発売を待ちうけながら、貪り読んだって記憶がよみがえってきますねぇ。

愛と美について、まあ、そんな記憶があって、そういえば自分流に、愛と美について・・・、なんて呟いているんですね。ううん、最近、この愛と美っていうイメージについて思うことが多くなってきているんです。あっちゃ流に言い換えれば、エロスとカロスについて・・・。このブログのタイトルを「徒然えろす日記」なんて付けてるから、そうゆうことで言い換えれば「徒然愛日記」ってことになるんですね。まあね、愛って概念も漠然としていて、愛とは何?ってことも考えたいな、って思っているところです。

かって転向なんてことが文学研究の対象になっていたことがありました。亀井勝一郎なんて文学者が、左から右へ転向してしまうってことがあったと思うんだけど、ボクも、いま、ひょっとしたら転向しだしてる。転向というより、基から資質としてあった日本的な美が、賛美とはいわないけれど、素直に気持ちに直結してきたな、って思うんです。谷崎とか川端とか、昔読んだままだけど、彼らの晩年期のエロっぽさに、なんとなく理解できるよなぁ、って感じで、愛と美について、ボクがこれから知りたいイメージの大きな枠が、これのようにも思っているのです。

えろすという愛
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「えろす」という言葉を、国語辞典で引いてみると<ギリシャ神話の恋愛の神>と書いてあり、<愛>とあります。ボクが愛用の国語辞典は、中学生になったときに買ってもらった辞書で、昭和31年に初版、角川国語辞典です。えろすの隣に「えろちっく」 という言葉があり<性的。扇情的。肉感的>とあります。また、「愛」という言葉を国語辞典で引いてみると<かわいがること。大切にすること。いつくしむ心。男女が思い合うこと。>とあります。

愛と美について、なんて言葉を思い出したかのように話題にしてから、ボクが最近頻繁に使う「えろす」という言葉のイメージを明確にしたいと思いだしているのです。自分自身に引き寄せて思うと、ボク自身の肉体的衰えを日々感じてしまうことの反動として、意識してしまうのだと感じています。

ボクとしては、おおきなテーマとして<愛>というイメージを、文章とか写真に置き換えていきたいという想いがあるんですね。だから、その外枠を自分ながらに作っておきたいと思うわけです。たぶん、愛という形のなかの部分として、「えろす」という愛の形があるようですね。愛イコールえろすではなくて、愛にはいくつかの形がある。このように、いま、思っているわけです。

にっき20060930
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ケン・ウイルバー著・万物の歴史の序論冒頭に、セックスとジェンダーの話が記されているんだけど、単の読者をひきつけるためのテクニックということじゃなくて、知的興味の先端がここに行き着いてきているんだ、と思っているわけです。単純ではないけれど、ぼくもそのように思っているところがあるから、ここに話題として書いているわけで、顕在化させていこうとしているのです。

ぼくはまったく専門家でも運動家でもないので、野次馬なんだけど、セックスという言葉、ジェンダーという言葉、を読んだり書いたりするときって、けっこう複雑な心境にいるんです。このブログタイトルも、徒然えろす日記なんてつけて、なんとなく人の興味をひきそうな感じがして、でもちょっと後ろめたい感じもあって、複雑な環境に置かれてしまうわけです。

つまりここでゆう「えろす」領域について、非常に現代的な未来志向のテーマだと思っているんですが、どのように地図を描けばいいのか、まだ未確定で、ゆらゆら揺れているところです。数日前から、美しい○○、なんて言い触らしだされたけれど、それをも包みこんでしまう「えろす」なんだといっておきます。

えろすは生きる力
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けっきょくえろすとは何かといえば、生きる力そのエネルギーの発露だと思えています。生命力そのもの、からだが生き生きと成熟しているさま、イメージとしてそのように思えてきます。いま、このようなことを、ここに書いてる自分という器は、そのエネルギー減退の危機にさらされているからに他ならないと思っています。からだに若さがあったころ、あえてこのようなことを書かなくても、十分にえろす、つまり生きる力に溢れていたように思います。ところが歳を経るにしたがって、昔ならこの世とおさらばする歳になって、えろす恋しや、の気分が起こってきているのだと思うのです。減退していく生きる力に掉さすために、まあ、こんなタイトルをつけているわけですね。

気分入れ替えて
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気分を新たにして、ちょっとぶつぶつ呟いていかんとあかんなぁ、って思い出して、久々、記事を書いてやろうと思った。字を並べて、意味不明にしてもいいかなぁ、なんて思ったりして、あんまり深刻にしてもおもしろうないし、ええかげんにえかげんなことを、ええかげんにしていこう。とゆうのも、しょせんええかげんなんだと思うから、論理詰めていこうとしても、しょせんええかげん、にやったら、ええかげんなこと書いて、まあ、お遊び気分がええのやろなぁ。

というのも、気分、気持ち、情、この揺れ動きに注視していて、それを言葉にしていくことが至難のワザだと思いだし、ちょっとこのかたご無沙汰していたところでした。どっちみち汚していくだけやから、ここは、あっけからん、いいたいこと言って、っていっても言いたいこと言えないんだけど、そこそこごまかして、乗り切っていくか~!これが気分の入れ替えってことだと思っています。

えろす気分
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熟した柿を二つに割って、中を覗き見る。
じゅるじゅるに熟した柿の味はえろす気分を味わっている感じです。
生きているという現象のなかに、気分としてこの柿の中味のような感覚があると思っていて、なんだか湿っぽい体内が疼いているような気になっていきます。
視覚と味覚はえろすの代理体験なんだと思います。

色写真
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写真機をもって30年を越えたんですけど、3年前にキャノンのデジカメを買って撮影再開、いっぱい撮りだしたんです。ええ、カラーフォト、色写真です。昔なら天然色写真といってた代物ですね。いろ、色、色彩、いいですねぇ。モノクロ、ゼラチンシルバー、白黒、経費的にそれしかできなかったころからみると、いいですねぇ。

色があるということは、この世の色を感じるということにつながって、この世の色が、色艶につながって、色艶の領域を<えろす>と規定して、色写真を撮ろうと思って、世間的にもボク的にも、色艶写真を集めだしたとゆうことです。歳とって色艶に魅了されだしてきたのは、そうやねぇ、からだが侘び寂びてきたからなんやろなぁ。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖